第5回「死に損ねた男 その⑥」

 谷万太郎は一心不乱に槍を振るっていた。


 彼が槍を振るう度、素振りの音がビュン、と鳴って心地よかった。


「備中聖人でも悩むんですね」


「そりゃそうですよ。赤ん坊なんて、どうしたら良いか……」


 無論、その子が前藩主の子であることは伏せていた。方谷もご家老も、このことが藩士たちに漏れることを何より恐れていた。

 すでに次の藩主は養子となった板倉勝静に決まっている。改革を押し進めようと躍起になっているこの若殿を、口には出さぬが邪魔に思う者は多い。


「田舎っぺ方谷、斬るべし」という若武者たちの言葉は、藩政を是正せんとする方谷への言葉である。だがそこには、自身の教育係であった方谷を大抜擢し、藩政改革の中心に据えた勝静への反抗も含まれている。


 幸い、勝職は実子のことを知らない。そして養子として迎えた勝静のことも、殊の外喜んでいる。恐るべきは勝職の死後、このことが漏れて藩士たちがその子を担ぎあげること。勝静と血縁がないことは、板倉家そのものを危うくしかねない。


「その子の出自が出自なので、百姓に預けると言うのも……」


「なら、いい人がおりますよ」


「おや、誰でしょう」


 万太郎は仏頂面のままつづける。


「熊田恰殿」


 方谷の脳裏に、背後からこちらを隻眼で睨む恰の姿が浮かぶ。時には城内の廊下で。時には背後の物陰で。時には厠の格子窓の向こうで。


「あの人子ども好きなんです」


「子どもが?」


 方谷の脳裏に、髪を逆立ててこちらを威嚇する恰の姿が浮かぶ。時には方谷の弟子に。時には藩の上役に。時には猫に。


「知らなかった……」


「無理ないですよ。顔怖いですもんね」


 恰がいきり立って方谷襲撃を企てたのは、それから間もなくのことである。万太郎の言葉を信じ、対話をしてみた所、方谷はこの男の純朴さを知った。そして、藩主の実子であることを隠し、赤ん坊の事を打ち明けたのだ。


「備中聖人でも、わからんことがあるんですねえ!」


「ここの皆さんは私を持ち上げすぎなんですよ」


「うーん、赤ん坊一人をひょいっと預かってくれて、しかも身分の事も気にせず育ててくれそうな都合の良い場所」


 そんな場所、あるんですかねえ。と投げ捨てた恰は、考えることを止めて赤ん坊の餅のような頬をツンツンと突いた。小さな手が自分の指を払いのける姿を見て、恰は「わきゃ~」と床に転がった。しかしそれからすぐ、ガバっと起き上がって「いい場所がありました」と真面目な顔で言う。

 

 直感で生きる男のようである。


「おや、どこでしょう」


「谷家という、実に都合の良い家があるのです」


 方谷の脳裏に、槍を振るう万太郎の顔が浮かぶ。なんだ、結局あの若武者の所へ帰って来たのか。そう思いいたった時、ひょっとするとこの子は今、定められた奇妙な運命を辿っているのではないか、と飛躍したことを考えてしまった。


 赤ん坊は泣かない。預かってから、一度も泣いたことがない。


 ひょっとすると、自分が赤ん坊らしく泣ける場所が廻ってくるのを、じっと待っているのかもしれない。

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