第3回「黒船と恋、ときどき父上 その①」

 

 時代はいよいよ嘉永六年。

 

 ペリー率いる米国艦隊が、


 この日本へやってくる。


 その時、谷三十郎たちは?


 〇 


 ここに、日本列島がある。


 それを震わせる音。

 天を裂き地を揺らす轟音。


 それは、落雷であろうか。

 

 否、大海を渡る龍の嘶きであろうか。


 否、遥か彼方の異国より、この国を泰平の眠りから醒ます、強大な文明の足音であろうか————。


 否、単に落雷である。

 となると、表現として日本列島を持ち出すのは不適当であろう。もっとカメラを寄せる。ずっと寄って、ずっと寄って、おなじみ備中松山である。


 夏の落雷があると、谷家では皆で餅を食べる。春雷を合図に小正月の時の餅を食べるという風習は松山でしばしば見られるが、この家では梅雨を過ぎるまで、ちょっとやそっとの落雷では見向きもしない。

 三十郎は一度、自分の家にしかないこの習慣が不思議でならなかった。餅を焼く母に尋ねると、母は灰が舞うのを気にしながら、これを食べると夏負けしないのだ、と言った。誰がそんなことを、と尋ねると、優しかった祖母の名が出た。何故そんなことを言ったのか、と尋ねると、顔も知らない祖母の祖母の名が出た。


 日本の歴史が大きく軋み、動き出すこの日。

 谷家にとっては、一家で餅を食べる日であった。五歳になった千三郎は、小さくちぎった餅を苦戦しながら食べている。

 千三郎は、あまり喋らない子である。常に何かを無心で見つめていて、一度それが目につくとそこから離れようとしない。それは蟻の行列であったり、鉢のメダカであったり、臥牛山の向こうに昇る入道雲であったりした。

 この日、餅を食べていた千三郎が「ちちさま」と言ったのは、谷家にとって夏の雷より、黒船より、よっぽど大事件だった。三治郎と亀は抱き合って喜び、三十郎と万太郎も手を止めて目を丸くした。


「なんじゃ千、ちちさまの餅と、取っ換えっこしたいか?」


「ちちさまと、ははさまは、なぜ一緒なのですか」


 千三郎の鏡のように大きな瞳は、まっすぐ三治郎を捉えている。その、目に見えてしどろもどろする父に、何故だか三十郎も注目している。しまいには「父上、教えて差し上げたらよいじゃありませんか」などと言いながら餅を噛みちぎっている。

 三治郎は亀と目くばせした。亀は上目がちにもそもそ餅を食べながら三治郎を見つめると、つつ、と視線をそらして曖昧にうなずいた。


「……今でこそこうだが、これは昔、たいそうワガママな娘でなあ。季節外れの西瓜が食べたいとせがんだことがあった。それを見つけてやってから、まあ、こういうことになりました」


 沈黙。何とも言えない空気である。その中で万太郎が一人、腹の底から湧き上がる笑いを必死に堪えていた。厳格な父と従順な母のなれそめにしては、なんとも愛らしいではないか。三十郎は孫子の兵法を聴くかのごとく、眉を吊り上げて深く、深くうなずいている。

 今更ながらこの谷三十郎、友と呼べるような存在がいない。とくに女の扱いに慣れた者など皆無である。彼が子供の戯言をここまで広げたのも、全てはそれゆえの、ある悩みからなのである。

 さて、藩で誰も倒せなかった渡邊昇を倒してから、絶好調の青年・谷三十郎。彼の抱く淡い悩みとは、なんぞや。


「なるほど、西瓜を渡せば姫様も……えへへ」


 失敬。本人がほとんど喋ってしまったようだが、一応の体裁上、次回まで持ち越しをさせていただきたいのである。

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