第3回「黒船と恋、ときどき父上 その②」
備中松山藩は、新しい藩主を迎えて改革の真っ最中である。
藩主の名は、板倉勝静。
勝静は先代藩主の実子ではなく、婿養子である。しかしその血筋は、かつて幕府を主導し改革を行った老中・松平定信へとつながっている。加えて先の黒船来航とあっては、一刻も早く改革を遂行する必要があった。おかげで方谷の仕事が増えた。
藩の首脳部でさえこうして意識せざるを得ない黒船来航を、若い藩士たちが気にかけないはずがない。刀や槍の鍛練をさて置いて、熱心に黒船のことや、それに乗って来た『ぺるり』なる異人のことを語り合っている。
「浦賀の方に黒船が来たと」「嫌な奴らだなあ、長崎へ行くのが道理だろうに」「だが幕府は言いなりだ」「阿部様は何をやってんだ」「異人とはどんな奴らだろう」「ぺるりと言って、赤鬼のようらしい」「汚らわしい。我国を好き勝手にされるなど」「本当にそうだ、汚らわしい」「汚らわしい、汚らわしい」
松山のような閉鎖的な国であっても、否が応でも、異国、を意識してしまう。そんな時勢にあって、谷三十郎はどうであったか。木刀を肩に担いで、大股で床板を踏みながらやってくると、道場の隅で固まる彼らに、一喝。
「くおりゃ! サボっとらんで修練をせんか! そんなことだから他藩の者相手に、みっともない恥をさらすのだ!」
渡邊に勝って以来、この調子である。誰かが「なんだい、でんでんが」と言った。この仇名もすっかり有名になってしまった。
しかし、これがここまで広まったのも。
「しかし谷殿、異国が攻めて来るとなりゃ、こりゃ大ごとだ。俺たちも、俺たちなりに国の事を思ってだな」
「はあ~あ、馬鹿。お主らは本当に馬鹿だ」
「何い!」
「孫子曰く! 敵を知り己を知れば、百戦危うからず! 即ち、敵は黒船であり、海を走る。一方で松山は、四方を山に囲まれ、川が流れ、美味しい鮎が食べられる国である。即ち……」
「即ち……?」
「海が無いのだから、黒船など来れるわけがないではないか!」
この並々ならぬ引きこもりっぷりが原因であろう。
誰かが攘夷、という聞きなれぬ言葉を口にした。それは波紋のように広がって、皆が口々に攘夷、攘夷と叫んでいる。この若者たちの赤い血潮のうねりが、後に「幕末」と呼ばれる一時代を創り上げることになる。今はその胎動期といえる。
しかし、谷三十郎にはどこ吹く風。皆の輪から外れた場所で、つまらなさそうに木刀を振っている。千三郎がはじめて谷家に来たときもそうだったが、自分の周囲がどんどん変わっていくのはどうも居心地が悪い。
ふと、思うことがある。千三郎を預かってもう五年になるが、結局あの子は誰の子なのだろう。別の家で育てられ、松山の中流士族の谷家の末っ子として生きていくことは、あの子の幸せなのだろうか。
風鈴が山間の風にひらひらと揺られ、音を奏でている。その音は、若者たちの激論にかき消されていた。谷三十郎は孤独だった。
「くおりゃ! サボっとらんで修練をせい」
熊田恰がやってきた。先ほどの三十郎と全く同じ言い方である。いや、真似をしたのは三十郎の方だ。
「三十郎、この後少し供をしろ」
「承知! 熊田殿の行かれるところ、どこでも行きますぞ!」
こんな調子だから、嫌われるのである。そんな皆の視線にも気づいていないようだ。この日の熊田は、主君に軍制改革の提案をすることになっていた。勿論、その草案は大坂に出張している方谷が起草したものである。隣におって欲しいのだ、と熊田はあっさり言い切る。そう言われて、思わず顔がほころぶ。だがそれ以上に気になることが、この男にはあるのである。
「ところで熊田殿、その、城へ参るということは、賀陽姫様も……?」
「うん? そりゃあ、殿の義理の妹様なのだから、当然城に行けば姫様もおられるであろう」
「行きましょう、すぐ参りましょう!」
三十郎は跳び出した。木刀も放り投げて。「まだ早いぞ」という熊田の声でも、三十郎は止まらない。彼は一体、どこへ向かうのか。
西瓜を買いに行ったのである。
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