第9回「極楽の在処 その⑦」
久留米の道場の一室で、三十郎は千三郎を問い詰めた。千三郎は久々に見る気迫の兄に怯えきっていた。きっと自分が嘘をついたから、兄はこうまで怒っているのだと思った。
「俺に嘘をついてどこで何をした。正直に話せ」
「それは……」
「言わねばお前を、もう兄弟とは思わん」
千三郎は声も上げずに泣いてしまった。三十郎はそれを黙って見つめていた。千三郎はぽつりぽつりと、話し始めた。
物見として金平や真文とあばら屋へ行った三人は、そこで暮らす親子と出くわした。二人は流れ者で、父は名を仙蔵、娘は玉といった。三人は怪異の正体があまりの平凡だったことに落胆し、適当にそこで遊んで帰ることにした。
仙蔵も相手が子供なので気を許し、玉が三人と手毬で遊ぶのを微笑ましく見つめていた。玉の歌う手毬唄は不思議な音色で、この国の言葉では無いようだった。真文は好奇心から仙蔵に、どこから流れて来たのか、なぜ流れて来たのか、と聞いたが、彼らは話そうとはしなかった。
日が暮れた。「また来てもいい?」と、金平が言った。仙蔵は笑って答えた。玉は恥ずかしそうに父の背後からこちらを見ていた。
そして千三郎はまた二人の後を追って、彼らの言う「大先生」、すなわち真木和泉の下へ向かった。この一件を報告するためである。
彼らの話を、真木は逐一頷きながら聞いていた。しかしそこは子供であるから、思うような結果は得られなかったようだ。
「他に聞くことは無さそうですね」
と三人を帰そうとする真木に、千三郎が口を開いた。
「手毬唄がとてもきれいでした」
全員ズッコケた。そして真木は改めて、その子供を見た。
「君は?」
「谷三十郎の弟、千三郎」
千三郎はその場で手毬唄を口にした。よく覚えているな、と金平や真文が感心するのをよそに、真木の細い目がみるみる見開かれていった。
千三郎は初めて、自分に褒美を手渡すその男が何か恐ろしい怪物に見えた。
聞き終えた三十郎と万太郎は、間借りしている一室で小さく輪になった。
「久留米を出るぞ」
「だな。奴らの手助けなんてまっぴらだ」
珍しく意見の合った二人は、せっせと旅支度に取り掛かった。その時、障子戸ががらりと開けられた。月明かりを背に浴びて、刀を差した男が立っている。その顔は、真白い布で覆い隠されていた。
「聞いてしまいましたよ」
声に聞き覚えはない。若い男のようである。
三人はゴクリと唾をのんで、各々備えた。三十郎は刀、万太郎は槍、千三郎は火薬箱。謎の男は三人に歩み寄ると、その場に膝をついた。
「一緒に連れてってくれ! こねぇに怖ぇ所にゃ、もう居りとうねえ!」
三人はその男の訛りに聞き覚えがあった。
彼らと同じ備中国から来たこの男、和栗吉次郎。覆面と思っていたのは、渡邊昇にぶっ飛ばされた時の包帯であった。
「武田先生に刺客をやれと言われたんです、相手は刀すら持っていないから大丈夫だって。でも私は、私はどうやってもそんな度胸が……」
「あの、お名前は?」
「ああ、失礼しました、倉敷村の吉次郎です……」
「吉次郎さん、貴方の話は聞いてやりたいが、今我らは急いでいる」
「だから勇気を出して声をかけたんじゃないですか! 皆さん急いでるってことは、こっちも急がないと逃げちゃうんでしょ⁉」
「勝手な男だなあ……」
と、こうして三人と一人は支度を整え、その夜のうちに筑後川を上って城下を出ることにした。
しかし恐ろしい男だ、と三十郎は真木和泉を想起する。蟄居の身でありながら流れ者の素性を調べ上げ、そして手を下す。それにあの宴だ。ああして賑やかな席を設けても、一切奉行所が動く気配はなかった。それどころか見張りすらいるのか怪しい。まるで、この町そのものが真木の城であるような、そんな不気味さを覚えた。
「急ぐぞお前たち。誰にも顔を見られるな」
と、三十郎が言った頃には、既に道場を旅支度で抜け出した彼らの姿を物陰から多数の人影が見つめていた。
しかしそれは学連の者ではなく、久留米に暮らす民たちだった。渡邊と懇意にしている両替屋の人間や、料理屋の者もいる。谷三兄弟の夜逃げが真木の耳に入るのに、時はかからなかった。
「早かったな。やはり、彼らじゃ力不足だったか」
真木は視線を移す。渡邊昇と武田観柳斎は、すぐに山梔窩を発った。
「許せん。俺だけでなく先生まで裏切るとは!」
「左様ですね。僕も裏切られました」
「おお武田観柳斎、珍しく意見が合ったじゃないか」
と言っても武田の脳裏にあるのは「逃げるならこの僕にも声かけるのが筋だろ」というものだったが。それにしても不思議である。武田は近眼で、体力もさほどには無い。それが何故、猪のように突っ走っている渡邊と会話ができているのか。それは……
「渡邊先生、その先を右です。港から舟を出す気でしょう」
「おうよ! つか軽いな、ちゃんと食ってんのか?」
おんぶしてもらっていたのである。
〇
船着き場へ急ぐ一行。三十郎は歯を食いしばり、ただ足を動かしていた。背中で千三郎が遠慮がちに負ぶわれている。
志士とは何だ。今この国が必要としている「志士」とは、一体何だ。真木和泉や渡邊昇のように、大義の為なら平気で人を斬れる、そんな者たちを歴史が必要としているのだとしたら、自分は。
「兄上」
千三郎の言葉が思考を遮った。
「後にしろ。今は問答している暇はない」
「分からないんです、どうして真木先生から逃げるんですか?」
三十郎は、口を噤んだ。千三郎はまだ、自分の言葉が何を引き起こしたのか分かっていないのだ。幼い千三郎が、わけもわからず自分の背にしがみ付いている。
言えるわけがないではないか!
その時、人影が彼らの前に立ちはだかった。皆抜刀している。
「ここは通さんぞ、でんでん! 万ちゃん!」
渡邊昇と道場の門弟たちである。
万太郎はすう、と息を吸って、槍を抜身にして構えた。じゃり、じゃり、と渡邊昇に歩み寄り、両者は睨み合った。
「人が多いと邪魔だ。向こうでやろうや、ノボさん」
「万ちゃん、今からでも遅くはない。お前だけでも尊王攘夷の志士として、世直しに奔走しようじゃないか!」
「女を泣かす世直しは御免だ。ほら来いよ」
最早言葉は不要。渡邊も刀を構えると、大きく呼吸をして目を開いた。その目はおそらく、仙蔵を斬った後の目と同じだったのだろう。
三十郎は千三郎を吉次郎に預けた。手向かっているのは、自分や万太郎が道場で剣術を教えていた百姓たちだった。
「開国派の屋敷へ行くつもりだな」
「やめておけ。我らはここを出るだけだ」
「嘘だな。いや、そんなことはどうだっていい」
彼らは厭らしい笑みを浮かべて、三十郎にじわりじわりと歩み寄る。
「道場での雪辱を晴らす」「よそ者のくせに、身分を鼻にかけて威張りくさリやがって」「俺たちも武士になったんだ、無礼討ちだろ」「そうだ無礼討ちだ」「堕落した武士に天誅をくわえてやる」
三十郎の脳裏に、万太郎の顔が浮かんだ。真木の下へ向かう道中、稽古を終えた万太郎は汗を拭いながら「あいつら、素質あるよ」と珍しく笑っていた。
「貴様らが武士なものか」
悲鳴にも近い声で叫ぶと同時に、抜き打ちに一人を逆袈裟に斬った。返す刀で二人目の腕を落とし、そのまま斬る。逃げた三人目も、背中から斬り伏せた。
全て終わった時、三十郎は顔に返り血を受け真っ赤に染まっていた。
俺は、決断したぞ。俺は。
その様を、吉次郎は家屋の隅にへたれこんで、がちがちと歯を鳴らして凝視していた。この男が恐怖心からか、それとも慈悲の心からか、千三郎の目を塞ぐ姿勢をとっていたことが、三十郎にとって唯一の救いであったのかもしれない。
谷万太郎と渡邊昇が風を浴びながら向き合っている。葦が生い茂る河原での決闘は、備中松山でのそれと似ていた。
二人は互いに間合いを詰める。その足さばきを見た渡邊は、遠い記憶が蘇った。以前松山で試合をした時、谷三十郎と名乗る男と戦った。その時は易々と勝ち、更には三十郎が替え玉を使っていたと、後になって判ったのだ。だがその替え玉が誰なのかは、渡邊は知らなかった。
「松山の城で会った時の、型に押し込まれた動きではない」
「あの時は兄貴の真似をしなきゃいけなかったんでな」
二人は互いに飛び込んだ。自分に向って突き出される槍を、渡邊は天狗のような身のこなしで躱した。ギョッとした万太郎の胴めがけて、自慢の剛力での一閃が繰り出された。刃が万太郎の腹にめり込んでいる。
おかしい。この手ごたえは……。
思考がそちらに向いたその刹那、万太郎の槍の柄が脳天に振り下ろされた。脳震盪を起した渡邊は、その巨躯を大地に横たえた。
万太郎は胴を摩りながら、渡邊を見下ろした。
「ありがとな、ノボさん。峰打ちしてくれて」
万太郎は懐をガサゴソとまさぐり、渡邊の剛力でひしゃげた金属片を取り出した。一体何なんだこれは?
「にしてもこれ、重いと思ったら鉄製の模型だったのね……」
笠岡名物・カブトガニの甲羅である。つくづく女には優しくするもんだ、と万太郎は感心した。
〇
朝日が昇る方へ向かって、一艘の小舟が上っている。やつれた様子で波に身を任せる兄。その兄の顔を、万太郎は見ることができない。歯を食いしばって、いつもの快活さがすっかり失われた背を見つめるだけだ。舟に乗る前、斬り捨てられた遺体が三体あった。皆、自分の教え子だった。胸の奥に粘っこい炎が揺らいでいる。
俺は渡邊を斬らなかった。アンタなら、そうしただろうから。
アンタの腕なら斬らずに済んだはずだろ、兄貴。
一方で千三郎もまた、兄たちから逃げるようにして、遠ざかる久留米の山々を見つめていた。昨日から兄は変わってしまった。吉次郎の手でその瞬間は見れなかったが、兄は人を斬った。ひょっとして、これまでの兄とはすっかり変わってしまうんじゃないか。
それに、友だちも失ってしまった。
その時、一筋の黒煙が久留米の空に向かって伸びているのを、千は見た。千にはそれが、金平と真文からの別れの烽火のように見えた。その下には、炎のように染まった山々が雄大にそこにある。
黒煙の正体は、天保学連によって燃やされた仙蔵とお玉のあばら屋だった。その様子を、真っ青になって金平と真文は見つめていた。脣を震わせる真文の肩を、金平が抱いた。
「お国の為だ、そうだろ」
金平こと
真文こと
キリスト教は、開国してもなお禁教だった。
河岸に少女が独りふらふらと歩み出て、座り込んだ。ぼろ切れのような着物姿で、指を組み、燃える山々の奥へ昇る日に祈った。あいにく空は黒煙のような雲に覆われていた。それでもその向こうに、日は昇っている。見えないけれど、確かにそこにある。
少女は祈った。そして唄った。
お玉という少女のその後は、誰も知らない。
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