第9回「極楽の在処 その⑥」
その夜、山梔窩で行われた月見の会には、幕末史には欠かせぬ名だたる志士たちが参加していた。武田観柳斎などは、皆にお酌をしながら慌ただしく動き回っている。
「ささ、平野先生、お飲みになって下さい。や! 宮部先生、盃が空いておりますよ、お注ぎいたしましょう!」
彼らこそ、勤皇家として名高い
とにかく、真木和泉の開いた会合には、それ相応の傑物たちが集っており、まさに幕末版アベンジャーズの様相であった。そこへ三十郎も万太郎を連れてやってきている。庭に踏み入ると、梔子の茜色の実、そして野菊が二人を出迎えている。
万太郎は道場での稽古を終えた後なので「風呂に入って寝たい」と渋っていた。いや、渋っている。意気揚々と小屋へ歩を進める三十郎を、ムスッとしたまま見つめていた。睨んでいた、と言っても良い。
「俺は別に、国の話になんて興味はねえよ」
「お前はそれでいい。いてくれるだけでいい」
「な、なんだよ急に……兄貴がそんなこと言うなんて、珍しいな」
「だからお前の分の酒ももらうけどいいよね」
三十郎をぼこぼこにした万太郎は一人でさっさと入って行った。後から来た旗本のように身なりの良い男が、三十郎のパンパンに膨れ上がった顔を見て「ほう、立派な梔子」と言った。
その男は、頬が剃刀で削がれたようにこけていた。そしてその眼光といったら、並の侍の目ではない。旗本らしい身なりをしているが、二百余年の泰平で腑抜けてしまった旗本たちとは、一閃を画していた。
「これはこれは清河先生! 清河先生じゃありませんか!」
武田は腰を屈め、旅籠屋の主人のようにして清河という男を出迎えた。この男のことは、新選組が好きな方なら知っている方も多いだろう。
後に、新選組の前身となる「浪士組」を献策してそれを組織する幕末の風雲児の一人、清河八郎。彼もまた名だたる勤皇家の一人として、真木に声を掛けられていた。
余談だが、谷三十郎たちが新選組に入隊するとき、清河八郎は既に京にはいなかった。江戸へとんぼ返りしてしまったのである。その為、この日が彼らの最初で最後の出会いとなるのだが……そのことは誰も知らない。
万太郎は清河に阿る武田を見て、誰にも聞かれぬよう舌打ちした。
へこへことしやがって。俺たちには出迎えも無しかよ。
腹が立ったので「武田さん、兄貴もさっきからお待ちですよ」と声をかけてやった。次の瞬間武田は「ふうん」と顔色を切り替えた。そして、一応の手順に沿って、と言った具合に宵闇の中に三十郎を探した。
「どこだ、暗いし近眼のせいで谷君の姿が見えない。これはでかすぎる梔子の実だし」
「それ兄貴です。顔面パンパンなだけです」
〇
兄が自分を皆に紹介している。それは構わないが、この胡散臭い「大先生方」にへこへこと頭を下げる兄の事が気に入らない。
万太郎の視線は、兄を避けるようにして周囲へ向けられる。気味の悪い奴らだ。宴の席を楽しんでいるよう振舞ってはいるが、こちらを値踏みする視線が時折カチリとぶつかる。
特にこの小屋の主・真木和泉。この男の値踏みする目は、他の志士たちとも明らかに違う。それは同志として信用するに足るかとか、駒として利用できるかとか、最早そうした次元ではない。まるで目の前に座る動物を、人間として見做してやるか否か。それを見定めようとしている目だ。
こいつは人を殺しているな。己の手でか人に命じてか、それは万太郎の知ったことでは無い。だがこの時点で、万太郎はこの禽獣のような者たちを「先生」と慕うことを、自分は生涯しないだろうと悟った。
一方で三十郎はそんなやつらを相手に畳を額にこすりつけ「お役に立って見せます」だの「何卒お引き立てのほど」だの言っている。情けないことこの上ない。
万太郎は注がれた酒には目もくれず、ただ皆の様子を窺っている。それをよそに三十郎は、自分の身の上話などを上機嫌に話している。
「かつては私もお国の為にと、故郷の悪友と共に山田方谷先生の暗殺など企てたことがあり申した。当時は先生を田舎っぺと揶揄する者も多く、そういう者たちの悪い噂につい乗せられて……」
武田観柳斎はパッと三十郎を指差して厭らしく笑った。
「田舎っぺだって? 君も似たようなもんじゃないか!」
「何、そういうお主はどこの出でござるか」
「出雲国母里だが」
「似たようなもんじゃないか!」
二人のやり取りに口を挟んだのは、意外なことに清河八郎であった。
清河は「つまらぬ喧嘩は止したまえ」と酒を口にした。
「大義を掲げる我らにとって、出身などは些末なこと。私に言わせれば、田舎だ田舎だと騒いでおる者が一番田舎者臭い」
そういう清河八郎は出羽国清川村の出身で、郷士の家に生まれた。
「え、それ本当でござるか?」
なんです? 本当ですけど。ちゃんと本に書いてますよ。
「本当に本当?」
あの、あんましこっちに話しかけないで欲しいんですけど。
本当ですけどそれがどうしたんですか。
「じゃあこの先生が一番田舎っぺじゃござらんか!」
その場の全員がぶっ飛んだ。
その時、渡邊昇がやってきた。道場で剣を振るう時の朗らかな様子はなく、大きな口をギュっと結び、襷掛けの様相だった。頬の返り血が無ければ、ここへ斬り込みに来たのかと漏らしてしまうに違いない。
勿論、三十郎と万太郎は開いた口が塞がらない。そんな二人には目もくれず、渡邊は真木和泉に臣下のように跪き、つらつらと報告を述べた。
曰く、久留米城下のはずれにあるあばら屋、詳しく調べたところ、やはり異宗の輩であった為、成敗したとのことである。
真木は顔を綻ばせて渡邊に酒を汲んでやった。
「やはり浦上の者が流れてきてましたか」
「ええ。隠れるのが上手い男で苦労しました。偵察に子供を使ったのがよかったですね、流石は真木先生」
谷兄弟は勿論、何の話か分からない。そこへすかさず教えたがりの観柳斎がしゃしゃり出て、事の顛末をとうとうと語った。酒で少々呂律が回らなくなっていた。
この頃最も異国の文化が入り込んできていた長崎。そこからほど近い浦上村では、禁教令を破ってキリスト教を信仰するキリシタンの摘発が相次いで起こっていた。
寛政二年、天保十三年に続き、この安政三年には「浦上三番崩れ」と呼ばれた。特に今回はこれまでとは違い大規模な弾圧が行われ、浦上のキリシタンたちは獄死と拷問死によって壊滅的な被害を受けていた。
そしてそれを逃れたキリシタンの親子が、城下のはずれのあばら家で暮らしていたらしい。攘夷派の真木はそれを察知するや否や、渡邊を遣わせて斬ったのだ。
三十郎と万太郎は今更になって、自分たちが追い求め易々と口にして来た「尊皇攘夷」の側面を知った。聞くところによれば斬られた者は武士ではない。ということは襲ってきた渡邊を前に為すすべなく斬られたのだろう。
むせ返るほどの血の匂い。その場の皆は、血にすら酔っているようだった。渡邊を褒めそやし「誠の侍」などと言っている。
三十郎の心に、突風で煽られたように怒りが燃え上がった。父や自分が必死に背負ってきた「侍」が。家を失ってもなお、愛する者の為に生きようと誓った「誠」が。それが眼前の人斬り自慢と同じであるはずが無かった。
もっと酒が回っていれば、この場で全員を斬り伏せようとすらしたかもしれない。いや、三十郎の手は既に腰へと伸ばされていたし、万太郎も兄を止めようとはしなかった。彼の手を止めたのは、真木の言葉である。
「これも全て、千三郎君の手柄です」
突然出て来たその名前に、硬直する二人に。真木は続けた。やはり笑った顔のままだった。
「彼のおかげで穢らわしい禽獣が一匹減りましたよ」
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