第10回「ある商人の立志 その①」

 安政五年。十三代将軍家定、歿。


 彼の将軍としての最初で最後の大仕事は、


 外様大名らが推す一橋派の処分であった。


 そして幕府の行く末は、「あの大老」に委ねられる。


 〇


 その男は、旅装束をしていた。竹の皮で編まれた三度笠に群青の合羽。背に風呂敷を括りつけ、播磨国明石郡の街道をひたすら東へ歩んでいる。

 供はいない。たった一人の旅路である。

 男は商家の長男で、大志を抱いて故郷を発つ決心をした。世情が不安な中で、自分と年の変わらない若者たちが奔走している。その中には武士でない者も大勢いた。

 私も、この国の為に何かを成したい。

 彼も紛れもなく、草莽の志士の一人であった。

 家族は皆、反対した。それを振り切っての旅路である。目をつぶれば、故郷に残した家族の声が聞こえてくる。やれお前には無理だの、向いてないだの、似合わないだの、ひょろすぎるだの、威厳がそもそもないだの、どうせ物にならないだの、姉妹の方がまだ男らしいだの、そもそも一人で暮らしていけるわけないだの、


「うるさーい! 私は決めたの、行くったら行くの!」


 いやでもねえ、私たちだって心配で言ってるんだよ? と母。


「地の文を介して話しかけてこないでください!」


 するとどこからとなく「若旦那」と声がする。思わず振り向いてしまった自分が厭になる。商船でにぎわうこの近辺は、自然と商人で溢れている。自分を呼ぶ者がいるはずない、と足を進めた。もう自分は米問屋の若旦那じゃない。一人の志士として、傾いている幕府を助けるんだ。


「河合さんとこの若旦那~!」


 自分の事である。河合さんとこの若旦那こと、大志に燃える河合耆三郎はズッコケた。

 振り向けばこちら目掛けて飛脚がえっほえっほとやって来る。


「国元のご両親から、手紙でござんす」


「父と母から?」


 折りたたまれた手紙を開くと、そこには確かに母の字で、こう認められていた。


『 ちゃんと手拭いは持った? 』


「過保護なんだよなあ……。持ったよ、姉さんのおさがりのやつ!」


 手紙はもう一通あった。


『 よかった 』


 耆三郎はズッコケた。飛脚もズッコケていた。

 

 海沿いの街道を歩んでいると、黒い岩場があった。深緑に澱んだの波がそこへ寄せては砕け、飛沫を散らしている。そこに一人の男が立ち尽くしていた。男は気力も何も失ったような様子で、波の奥から視線を放さない。

 身投げだ、と思うや耆三郎は着物の乱れるのも気にせず駆けだして、産れたての小鹿のような足取りで岩場を飛び越え、男の背に向って懸命に呼びかけながら……そのまま海に落ちた。

 河合耆三郎、享年二十……。


「ぷは! 死んでませんよお!」


「おいおい、大丈夫か!」


 冬先の海である。耆三郎は真っ青になってバチャバチャ藻掻いていたが、そのうち痙攣する手を突きあげたままゆっくり沈んで行った。

 河合耆三郎、享年二十……。


「だから死んでませんてば!」


 耆三郎は男に岩場へ引き揚げられると、「べしゃ」と横たわった。


「いくら景気が悪いからって身投げはよしな。うちでその着物、乾かしなよ。飯ぐらいは出すぜ」


「これはどうも優しくしていただいて、ただ私はあなたを……」


「まあ、飯といっても魚ばっかりだけどな。しかも今日は波の具合も悪くて、全く嫌にならぁな」


「あ、漁師さんだったんですね、恥ずかしい……死にたい……」


 浜を少し歩いた、松の木陰にある漁師の小屋で、耆三郎は囲炉裏にあたった。ほのぐらく、陰気な小屋だった。ぱちぱちと火がはじけて、熱で真っ赤になった炭がわずかに崩れた。

 漁師はひび割れた木椀に湯を注いでくれた。そして、おずおずとした様子でもう一つの椀を差し出した。小さな魚や刻んだ蛸の脚を塩で煮ただけの汁だった。

「お客人にもこんなもんしか出せねえで、俺はろくに料理も……」

 ふと、部屋の隅に簪が落ちているのを見た。朱色の明石玉がつやつやと光っている。


「娘のだよ」


「あ、娘さんが。戻って来る前には私、出て行きますから」


「心配すんな、当分帰って来ねえ。黒船がどうのこうのと騒いでいるうちに、なんでもべらぼうに高くなってよ。それで、二人じゃ生きていけねえから……な」


 耆三郎の表情が変わった。

 彼は、米問屋の長男。家を飛び出したのは、武士に唯々諾々と従い蔵の米を次々と運び出す父を見たからだった。この頃、外国との戦争に備えた全国の大名家は米の買い占めを行い、物価が高騰していた。

 耆三郎は汁をすすった。磯の味がした。

冷えた体にじんわりと暖かさが染み渡っていく。頬を涙が伝った。

 翌朝、漁師が目覚めると、耆三郎はいなかった。衣服も無くなっていた。そして謝礼を認めた一通の手紙が遠慮がちに置かれてあって、宿代にしては似合わない額の金が包まれていた。


「変わった若旦那だった。まるで今の景気が全部自分のせいみたく泣いてくれて」


 漁師の眼前には浜に寄せ来る波が一面に広がっていた。朝日を受けた海原は、翡翠色に光り輝いていた。


「……うし、やっぱしもうちっと生きるか」


 耆三郎は歩いていた。潮でべたべたになった着物で。あの時、荷物のほとんどが濡れてしまった。母からの手紙も。


「母上……ご心配をおかけしていることは承知してます。父上のことも、あれが商人としての生き方であることは承知してます。ですが、せめて私ぐらいはこういうことをしなければならない、そんな気がするんです。世情が落ち着けば、耆三郎はきっと帰ります。ですから待っていてください母上……ん?」


 みれば空白だった手紙の箇所に、何やら文字が浮かんでいる。水に濡らせば浮かび上がる細工がしてあったようである。


「こ、これは……」


 そこには、紛れもない母の字でこうあった。


『 そういうことなら、頑張れ耆三郎! 』


 耆三郎はズッコケた。

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