第6回「晦の行く先 その⑤」
備中松山を流れる大河は、正しく国が栄えるための動脈と言ってよい。
そこを往来する高瀬舟で材木が運ばれ、また瀬戸内の港から他国の品々が運び込まれるのだ。
三十郎はその高瀬舟に乗り込んでいた。積まれた俵や木箱の隙間へ身を縮め、川浪に揺られていた。この日は新月で、暗闇のうねりの中を舟は進んでいた。
「目を瞑っているのと変わらんな」
と、思い出したのは母のことであった。
母の顔をろくに見れぬまま、舟に乗ってしまった。というか、見れるはずが無い。父が、先祖が、懸命に紡いだ糸を、己の手で途切れさせてしまった。自分が熊田恰からの申し渡しを受けている時、背後の母はどんな顔をしていたのだろう。
腹を切ろう。
これは、国を出ることが決まってから常に三十郎の脳裏にあったことだ。全てをしくじり、それを背負いながら生き続けるのは余りに辛い。
「しかしなあ……」
ここで腹を切れば、板倉家の裁定に抗議しての切腹と思われかねない。そうすると、じゃあ何があったんだ、という話になって、千三郎のことが明るみに出るやもしれない。
いや、腹を切ってしまえば、死ぬのだ。
死んでしまえば、その後の事などどうでも良いではないか。
やっぱり辛いし、死んじゃおう。でもなあ……。
懐に手をやると、そこに確かな感触がある。千三郎が家に来たあの日。未だ松山で邪見にされていた方谷の用心棒を、先の事も考えず万太郎が引き受けて来たあの日。熊田恰が徒党を組んで屋敷を襲いでもした時に、潔く腹を切ってやろうと不寝番をしていたあの日。
あの日から常に、この男は短刀を偲ばせて生きていた。
言葉を変えれば、常に死を懐にしまい込んで生きていたのである。
「
その時、暗がりの中に「そこ行く舟」と鶴のように甲高い声が響いた。
船頭と共に振り返ると、遠くからこちらへ向かって来るもう一隻の舟があった。月の無い夜である。板倉家の紋が入った行灯をいくつも灯したその舟は、宝船のように映った。
舟に乗っていたのは、板倉家のご家老その人であった。三十郎は慌てて短刀を懐にしまい込むと、襟元を正して船上で平伏した。
「申し訳ないが、これらの荷物も共に積んでゆけ」
船頭は「今からでございますか?」と狼狽したが、小柄なご家老の剣幕に圧し負けて、すごすごと舟を川岸へ寄せて行った。
「藩主勝静様の妹君、
下人たちが、舟へ次々と箱を積んでゆく。これ、自分の座る場所がすっかりなくなってしまうんじゃないか、と三十郎は訝しんだ。
そんな彼に、ご家老は声をかけた。
「三十郎。このまま送り出しては、先祖代々板倉家に仕えたそなたの家にあまりに無礼だ。姫様からのご餞別、ありがたく受け取れ」
「そ、それでわざわざ追ってきたのですか……。じゃあ、この荷物は全部、姫様が私に……?」
「いや、ほとんど京の御親族への季節の贈り物だ。お前へはこれ」
ご家老は小さな桐の文箱を手渡した。小さすぎてズッコケた三十郎だが、よく見るとそこに黄色い花があしらわれていた。大名の姫君が用いるには、どうにも花弁がへにゃへにゃとした、野草のような花だ。
「ご家老、この花は何の花です?」
「え、わし? 知らんよ……妻ならこういうの詳しいんだが……へちま、かな?」
「へちま……何の意味があるのでしょう。私、歌や花には疎くて……」
「あッ わかったぞ! 姫様は、何かにつけては外の国へ出たいと申されていた! 特に人形浄瑠璃をどうしても一目見てみたいのだと!」
「それがなんです」
「大坂の人気な演目に、『
「なんと! そ、それは何という意味なのです! も、も、もも、もしや、恋する男女の……?」
「干したへちまは、庶民の垢すりにもなる。すなわち……」
「すなわち……?」
「つまらない物の意」
三十郎はズッコケた。
「なんとも思わないことの意」
ますます三十郎はズッコケた。
「全く意に返さない、眼中にない事の意」
もうやめてあげて。三十郎は律儀にズッコケた。
「以上、ご家老の慣用句講座おわり」
「何しに来たんですか!」
「そしてわしと方谷からもお主に餞別がある」
「お二人から?」
うなずいたご家老が合図すると、一人の若者が歩み出て来た。それは旅支度を整えた万太郎であった。
「万太郎ではないか!」
「この者も連れて行ってやれ」
「それだけはご勘弁を。我が家をまとめる者が居なくなります……」
「それが兄上、大丈夫なんだよ」
「え」
なんでもご家老と方谷は、谷家にある男を養子として迎えさせる手筈を整えたらしい。それによって谷家は存続し、家の者たちは変わらず日々を過ごせるのだ。
三十郎は思わず大粒の涙を流して、何度も礼を言った。
ちなみに、その谷家に養子として迎えられた男というのが……。
「お義母上様、あの、私の馬は持ってきちゃいけませんかね? 黒王といって殿から頂いた名馬なんですけれども……」
「
「は、はい…………鬼婆白饅頭」
「おい」
「はい」
原田左之助をけしかけたイヤな男・柘之進であることは、三十郎は知る由もない。
さて、再び高瀬舟は進みだした。数多の積み荷の隙間に、みっちりと三十郎と万太郎が詰め込まれている。
「俺、良かったよ」
万太郎が突然、そんなことを言いだした。
「生真面目でなよっちい兄貴のことだから、俺たちが追い付く頃には腹でも切ってるんじゃないかと思ってさ」
「……馬鹿言え」
「そうだ」と万太郎は先ほどから大事そうに手にしていた細長い包を兄に手渡した。感触から察するに、刀だろうか。包を解いた三十郎は、舟の行灯に照らされたそれを見て驚嘆した。
谷家に代々伝わる家宝の刀だ。
「母上が。どこに行っても恥ずかしくない振る舞いをするようにって」
母からの餞別。
母は、谷家の証をくれたのだ。やることなすこと全てをしくじった駄目な息子を、それでも一家の当主だと言ってくれたのだ。
三十郎はそれをしっかりと握りしめ、初めて船上で身を起こした。船が少し揺れた。
暗闇の中で、行灯がゆらりゆらりと揺れている。
己はこれから、どうなるのか。
どこへ向かい、どこへたどり着くのか。
「万太郎。俺、思うんだ」
三十郎の髪が、夜の帳の中で秋風に靡いていた。
「人間生きてりゃ死ぬ。俺はどうして死ぬんだろうって。父上を継いで、この国でそこそこ偉くなって、年取って死ぬもんだと思ってた。
だがどうやら、そうはいかなくなっちゃったらしい。
先の事はさっぱりわからんが、いつか死ぬ時、そん時俺は……
どうにも俺は、お前や千の為に腹切って死んでやるような、そんな気がするんだよ」
谷三十郎は、こうして幕末の荒波にようやっと、第一歩を踏み出した。その一歩とは、
彼が幼い頃から父の背中を追って、なんとなく思い描いていた将来像は、全く崩れ去ってしまった。ここから先のことは、誰も知る由も無い物語なのである。
そして、高瀬舟の乗せた積み荷の一つ「火薬」と書かれた大きな木箱が音を立てて揺れたのも、誰も知る由も無いのである。
新選組・谷三兄弟異聞
第一部「臥牛山麓編」
完
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