第6回「晦の行く先 その④」

 山田方谷の私塾は、臥牛山の南山麓にあった。


 一介の百姓から藩校の学頭となった男の私塾とあって、入門者はすこぶる多く、その多くが明治維新後にも備中松山内外で英名を響かせた。

 その根幹たる大学者が、私塾の一室を全て閉め切り、孤独に悩んでいる。脳裏にあるのは無論、御落胤の騒動のことである。

 元は板倉家の勝手な騒動であったのに、家中の谷家を巻き込み、あろうことかお家断絶にまで追いやってしまった。


「横暴だッ」


 今や徳川幕府の奏者番への推薦も見えている板倉勝静。

 徳川への深い忠義が根幹にある彼にとって、今が最も揉め事を起したくない時なのである。だが、こんなことが許されるのだろうか。

 ある一族のすべてを奪い、咎めも無く生きている己。百姓だった時には、こんな気持ちになったことはなかった。心臓が、ねばねばとした泥の風呂につかっているようだ。


 その時、襖の向こうで弟子が自分を呼んだ。客人があったらしい。

 行ってみるとそこには、脚絆を巻いて菅笠を首から下げた万太郎が居た。眠たげな目の奥で、無限の炎が渦巻いていた。


「今日は御挨拶に参りました」


 万太郎は既に、大海へと漕ぎ出す決意を固めていた。兄と共に国を出るつもりなのである。


「事情はあらかた聞きました。最初は兄をぶん殴ってやりたくなりました、というか殴りました」


「殴っちゃったんですねえ……」


 しかし、それにしても急な話ではないか。短い付き合いではあるが、この谷万太郎という男はこの山国の外に焦がれるような、冒険心の溢れる男ではなかった。

 それをつい口にした直後、方谷は「しまった」と思った。

 万太郎の表情が途端に険しくなったのである。


「あんたのせいじゃろおがッ」


 万太郎の怒声が、屋根瓦から天へ貫かれた。

 というのは、そりゃそうである。千三郎を谷家に押し付けたのは、自分。それを状況が変わったからと、一家もろとも放逐したのも、自分。

 方谷は百姓が侍にするように、目の前の若武者に手をついて謝った。


「申し訳ない……何が備中聖人だ、何が小蕃山だ。私は結局、我を通してあなた方を振り回してしまった。許してください、いいや、謝っても許されるようなことではないが……」


「方谷先生……」


「君の兄上にも、御母上にも、亡き御父上にも謝る、この通りだ……」





「さっきから何の話をしよーるんですか」






 ずっこけた方谷が褌を露にして天井に突き刺さった。着物からバヒューンと飛び出した方谷のつるりとした頭が、瓦を内側から突き破っていた。秋ののどかな日差しが、その月代を照らしていた。足元では方谷が謝った体勢のままの着物がセミの抜け殻みたくそのままになっていた。


「おお、先生がそねーにズッコケよーるんは初めて見ました」


 方谷は瓦をよじ登り、玄関口へ回って、部屋に戻り、着物に袖を通して、袴を穿いて、紐を括り、言った。


「まあ、冗談はさておき」


 万太郎がズッコケた。その様はまず手を広げた姿勢でぐるりと回転し「止しましょう先生。終わる気配がありません」「ですねえ」。


「ええ、ゴホン。どういうことです、てっきり私もといこの国に愛想を尽かせたのかと……」


「そりゃあ、無茶苦茶な話だと思いました。ですが、俺にぶん殴られた兄の顔を見たら、思い出したんです」


「どこで思い出してんです……」


「俺が唯一負けた侍のことです。あの時もはじまりは、兄がズタボロにされたことからでした。その侍は、諸国を旅していました。そこには枠にはまった形だけの武術でない、本物の武がありました」


 万太郎は胸のあたりを摩った。あの時喰らった一振りの衝撃は、まだ胸の奥で疼いている。


「こう言っちゃ兄貴も親父も怒りそうですが、好都合なんです。俺は自分の武がどこまで通用するのか、確かめてみようと思います」


「それに」と万太郎は続けた。


「今じゃどこでも尊攘尊攘と言っております。一介の浪人が各地で国事に奔走してます。武を磨き、それをもって尊王攘夷の志士となれば、むしろ錦を飾って国へ帰れるというものです」


 万太郎は笑った。

 方谷はそれを静かに飲み込んで、いつもの調子でほほ笑むと、戸棚から扇子を取り出して、そこに小筆で字を認めた。至誠惻怛。波立つ扇の上で、細く優しい筆のその字が黒く浮んでいる。

 万太郎はそれを受け取ると、弟子がそうするように方谷へ頭を下げた。

 帰路につく折、彼は振り向いて行った。


「先生。槍しか取り柄の無い次男坊を塾へ置いてくれたこと、感謝しています。おかげで俺は、あの山々の向こうにも世界が広がっていると気づきました」


「それじゃあ、私のせいで国を出ると言うのは……」


「はい、先生のせいで槍の腕を試さずにはいられなくなりました」


 万太郎は歩き出した。

 方谷は小さくなる弟子の背中をいつまでも見つめていた。

 それから屋敷へ戻った万太郎は、満を持して自分も兄と共に故郷を出るのだと語った。

 裃を脱ぎ、背を向ける兄。振り向いたその顔は、夕焼けで赤く染まっていた。まるで先ほどまでいい年こいて泣きじゃくっていたかのようだ。


「どうだい、当ての無い旅だ。話し相手が欲しいだろ」


「……万太郎」


「おう」







「ダメ。母上と千の面倒を誰が見るんだ」


 万太郎は天井に突き刺さった。その姿勢はまるで先ほどの方谷と同じであった。

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