第7回「胡乱な軍配 その①」
故郷を飛び出した三十郎は、
今も高瀬舟に揺られている。
果たして、彼の行先は?
旅は始まったばかりである。
〇
江戸である。
天然理心流、と古ぼけた看板が掲げてある、看板以上に古ぼけた屋敷。後の新選組局長近藤勇の営む剣術道場である。
「若先生~! 新入りのナントカさん、中々の遣い手ですよ!」
防具をつけたままの沖田総司が障子をがらりと開けると、道場主の近藤勇とその朋友土方歳三、そしてもう一人。
近頃よく話をしに来る、細い枠の眼鏡をかけた青年がいた。
「総司、若先生は御客人と大事な話をしておられんだ」
凄む土方を、その客人は宥める。
「沖田君、良かったら君も聞いていきませんか」
彼は名を、
「今、薩摩の姫君が将軍家へ輿入れする話をしていたところです」
「へー、とってもおめでたいですね」
土方が沖田の脇を肘で突いた。
「適当な返事をするな」
「しょうがないじゃないですか。さっきまでナントカさんとバチバチやってたんだから、そんなとこまで頭回りませんよ」
「名前憶えろよ、
「あーそうそう! そういう感じの名前!」
近藤はというと、神妙な顔で学者肌の山南にあれこれと聞いている。これまでこうした人物が道場に居なかったこともあって、この機を逃すまいと意気込んでいる。こういう勉強熱心な可愛らしさというか、愛嬌がこの男にはある。
ただ如何せん顔が怖いので、鼻息を荒くして顔を近づけられた山南は困っているようだが。
「で、山南さん。どうして薩摩は姫君を上様に?」
「上様が一橋慶喜公を次期将軍に据えられるよう、姫君に仲介させる心づもりでしょう」
異国からの圧にてんてこ舞いの徳川幕府だが、重ねて将軍の徳川家定が病弱であることに悩まされていた。
その為、次期将軍を誰にするかが早々に話し合われた結果、大きな派閥が二つ出来上がっていた。
改革派が推す一橋慶喜。
薩摩藩主島津斉彬もこちら側である。
保守派が推す徳川慶福。
大奥や譜代大名は、血筋の点でこちらを推している。
「つまり薩摩は手前らのために姫様を工作の道具にしたってことか。幕府もいい迷惑だな」
土方の言葉に山南は苦笑した。
この男にはこういうところがあるな、と思っているのだ。
「土方君は本質を捉えるのがお上手ですね。しかし、大事なことを一つ見落としてしまっていますよ」
山南の言葉に土方は眉をひそめた。
この野郎にゃあ、こういうところがありやがる、と思っているのだ。
「斉彬公は聡明と噂の御方。そして島津家と徳川家が縁組をするのは、過去にも例があります。英名な君主を持つ外様と縁戚になることで得をするのは、ほかならぬ幕府です」
沖田総司は何にも興味が無さそうである。気まずい空気が嫌いなので、ちょんちょんと近藤のわき腹を指で突いた。
「若先生はどっち側なんですか。賢い殿様といいとこの殿様」
「ううん、俺はどっちでもないな」
「流石若先生だなあ、他の人を担ぎ上げて旗揚げするんですね」
「違―う! ごほん。俺は、今の上様……つまり家定公がおられるうちは、全身全霊をもって家定公にお仕えしたい。跡継ぎの事は、家定公ご自身がお決めになることだ。家臣とか、大名とか、大奥とか……周りが色々と決めてしまうのは、上様を蔑ろにするようで……」
「若先生……」
「ふっ……少し、かっこいいことを言い過ぎたかもな」
「幕府の侍でもないのに、無駄なこと考えてるんですねえ」
沖田を除く皆がズッコケた。彼はそれを見てカラカラと笑った。
空は暗雲に覆われて薄暗かった。それはこの先にある動乱を、神仏が見越しているようでもあった。
「雨になりそうだなあ」
近藤勇が呟いた。土方も山南も沖田も、揃って空を見上げた。
四人で同じ空を見上げていた。
〇
鼻先にポツリと水滴が落ちる。
波の飛沫かと思ったら、どうやら雨らしかった。
後の新選組幹部・谷三十郎。二十四歳。
色々あって国元を追われた彼は、あてのない放浪の旅に繰り出した最中であった。
「雨か……」
旅立ちの日にこの天気というのは、いささか幸先が悪いような気がする。
いや、あの夜から自分の心は常に小雨が降っている。天が寄り添ってくれているような、そんな気もする。そしてなんだかこの先、更なる苦労が待っているような気がしてくる。
隣では、弟の万太郎が笠を顔にかぶせて寝息を立てていた。
「こいつは、相変わらず物怖じしないなあ……」
船頭から、もう四半時も揺られれば玉島の船着き場へ着くと知らされた三十郎。四半時、というのは何かをするには短いが、ただ茫とするにはあまりに長い。まあ、焦ることはない。長い旅路だ。
「そういえばお侍様。薩摩の姫様が将軍家に輿入れした話、ご存知ですか」
「ああ。確か藩主斉彬公の養女だったか」
「その姫様ね、まずは薩摩から京へ上ったそうなんですが、そん時船で瀬戸内も通ったんですよ。玉島であっしも目にしましてね。江戸に来た黒船か! ってぐらい大層立派な千石船でしたよ」
「え、黒船を見たことがあるのか!」
「いや、ありませんがね」
「なんだ……」
島津の姫か、と三十郎は舟の縁に凭れて船尾の方へ眼をやった。河の上流の方は、紅葉に彩られた山々が折り重なっている。故郷の臥牛山はすっかり見えなくなってしまっていた。
「島津の姫様は、嫁がれるとどうなるんだ」
「あっしに聞かれても……でもまあ、やっぱし、大奥に入られて、そこで暮らすんじゃありませんかねえ」
舟は虚ろな速度で進んでいた。
ちなみに、この時彼らが口々に話していた「島津の姫」というのが、後に将軍徳川家定の正室として大奥をまとめ上げる
「……その姫も、もう故郷には帰れないんだろうな」
三十郎たちは、取り急ぎ玉島へと発着した。
さて、ここからどうする。
進路は未だ定まらぬままだ。
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