第3回「黒船と恋、ときどき父上 その⑤」

 方谷から聞いたことを、この律儀者は生涯誰にも洩らさなかった。


 というのは、ほどなくして病で臥せってしまい、誰かと喋ることすらままならなくなっていたのである。


 三治郎は何より、日課が満足に熟せないことを残念がった。日課、といっても早朝に中庭を掃除するだとか、井戸水で寝汗を拭うだとか、ささいなことだった。


 そんな不調にあっても三治郎が以前に増して熱心になったのが、末弟千三郎への教育であった。床に臥せる三治郎は目を瞑り、隣で千三郎の素読を聞く。読み違えや読み飛ばしがあると目をギョロっと開いて「こりゃ」としわがれた声を絞り出す。読ませるのは専ら四書五経。快調な時は千三郎を膝に座らせて、愛読書の頼山陽「日本外史」を読み聞かせるなどした。


 そうした木漏れ日のような日々は繰り返され、三治郎は益々頬がこけ、腕などは骨が皮衣を纏っただけのようになっていた。


 ある日、いよいよと思った三治郎は、三十郎を呼びつけた。この時の三十郎は、父の隠居に伴って谷家の当主になっている。まだ右も左も分からない、稚児同然である。


「三十郎、お前に遺訓を伝えておく」


 縁起でもない、やめてくださいよ、と三十郎はお道化るが、どうも今朝の父の様子は尋常ではない。流石の三十郎も背筋を正して、老病の父と向き合った。


「我が谷家は、板倉家旗奉行を務める誇り高き家柄」


 このことは理解っとるな、と圧するような声が続き、思わず三十郎はビクりとした。そうか、これからはこの圧と、常に在らねばならんのか。一呼吸おいて「承知しております」と応えた。


「旗奉行とは、戦の折に大将の傍を片時も離れてはいかん。儂らが狼狽えると、旗はさらに大きく乱れる。兵卒はそれを、大将の乱心と思いこみ、離散する」


「……心得ております」


「すなわち」


「すなわち?」


「我が家は」


「我が家は……?」


「戦が無い以上、暇で暇でしゃーない家なのだ」


 トビウオのような姿勢でズッコケた三十郎。

 

 戦争の可否に関わらず軍隊を持つように、幕府や諸国も軍事職は番方として残っている。その多くは行政や司法、警察といった政務へと形を変えたが、中にはこの旗奉行のように殆ど名誉職として残ったものもある。無論、貰える石高も決して高くはなく、平時は剣術指南役として働いている。

 谷家が旗奉行でありながら剣術指南役をやるのには、こういう事情があったのだ。  

 三治郎はそれを誇りとして勤めきった。


「だが、その戦は案外すぐやも知れん」


「敵は、黒船ですか」


「とは限らん。黒船によって世が乱された。世が乱れれば、阿呆なことを考える者が必ず出る。板倉家中でも、方谷殿を斬ろうとする輩がまた、現れるかもしれん」


「……」


「身内が相手と手を引く優しい刺客ばかりではない。下手をすれば板倉家そのものが二つに割れる。その時お前は旗奉行として、殿のお傍を離れるな。何があっても谷家と板倉家に恥じるようなことを、してはならん。これだけは守れ、良いな」


「……心配ご無用」


 その日から、ますます三治郎は魂が抜けたようになり、ほとんど寝たきりになっていた。ただ千三郎は、最早叱責すらできぬ父の傍にやってきて、素読をした。ある時など、いつものように部屋から千三郎の声がするので亀が覗き込むと、千三郎が書も無く四書五経を諳んじていた。

 三治郎はそれを、満足そうに眠りながら聞いていた。亀がその時の話をすると、益々嬉しそうであった。しかしすぐに表情を直して「甘やかすようなことはするなよ」と釘を刺した。

 亀が手拭いを変えようとしていると、不意に三治郎が喋り出した。この日は調子がいいようだ。


「黙っていたことがある」


 と夫が言う。彼がこうした打ち明け方をするのは、初めてである。


「なんです、改まって」


「儂は遠出が嫌えじゃ。国の外など行きとうねえ」


「今更じゃございませんか」


「しかし、お前を一度どこかへ連れて行ってやりたかった」


 まあ、と亀は一笑した。無理を言って、どうせ遠出したところで旦那様が真っ先に帰りたがるじゃありませんか。とは、言わなかった。


「私も黙っていたことがありますよ」


「なんなら」


「少し前、千に尋ねられて、私たちの馴れ初めのことを話したでしょう」


「ふ、そういえば今年はまだ西瓜を食べとらんな」


「あの話、あの場では申しませんでしたが、間違っております」


「何、間違えとらんだろ。儂がまだ早い時期の西瓜を見つけて来たんじゃろが」


「違います。病で臥せっていた私に、遥々西瓜を持って来てくださったんじゃありませんか。時期じゃないから、あんまり味はしませんでしたけど」


「忘れた」


「でもあの西瓜、生涯で一番美味しかったのですよ」


 三治郎は寝返りを打って、それから喋らなかった。照れている様である。谷三治郎供行は、それから間もなく死去した。

 結局、この男は広い世界を見ることはなかった。反対に黒船によって嫌でも視野を広げざるを得なくなった者たちは、この年、日本中で言葉を発していた。


 例えば、幕府から「諸藩からの意見を募る」という異例中の異例の書を受け取り、目を丸くする板倉勝静。


「方谷、大変なことになった」


 例えば、ごった返す人混みの中、他の若者たちと共に黒船を見る、武者修行中の渡邊昇。


「大変なことになった……」


 そして例えば、その人混みの中でどうにか黒船を見ようと苦戦しているこの男たち。


「大変なことだ! せっかく浦賀まで来たのに、全く黒船が見えん」


「若先生、あそこの木に登ったら見えますよ」


「やめろ総司。みっともねえ」


「こうなりゃ、しゃーねえべ。歳、総司! …………蕎麦食って帰ろ」


 そしてそして、例えば松山の城下町。


 藩主板倉家の位牌が置かれる安生寺の墓地に、ひっそりとその墓はある。


 一族累代の墓に参り、静かに手を合わせるこの男。


 父の葬儀も終わり、今日から晴れてこの家の当主として近習役を務めることになる、谷三十郎。


 山上の天守、山々、そして木々。麓を流れる川、そして魚たち。父が幼い頃から変わらなかったであろうこの光景の中で、この若者も何かつぶやいた。


 蝉声がそれをかき消してしまった。

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