第3回「黒船と恋、ときどき父上 その④」
谷三治郎は夏の外出が大嫌いである。
だがこの日は陽炎がゆらめく一本道を、息を切らしながら早足になっている。行先は、今日帰って来たばかりの多忙な男の屋敷。
号泣しながら屋敷へ戻った三十郎。言語もままならなくなっていたが、どうやら国境へのお引越しを命じられてしまったという。一番嫌がったのは勿論、父三治郎である。どうしても嫌でたまらない彼は、こうして炎天下の中大嫌いな外出をやっている。
方谷の屋敷の門が小さく見えた。ふと、そこへ次男の幻影を見る。あそこを守っておったか。ということは、賊が歩いてきたのが自分の歩いた一本道か。さらに屋敷へ近づく。道中、梢の木が夏の風に揺られている。ここから隠れて様子を伺ったとして、ここでは月明かりならば万太郎だとすぐ気づくような近さではないか。万太郎の姿を見るなり、戦うのを避けるような者といえば……。妙な悪寒がしたので、それ以上考えるのはやめた。
大坂から戻ったばかりの方谷は、なんだか雰囲気が違っていた。大きな仕事を終えて来たようで、心地よく疲れ果てている。脇息にもたれる姿などは、初めて見る。
この時の方谷は、藩の財政を司る元締役に就任している。それは藩が行う財政政策の全権を、この男が委任されたことを意味していた。
「この時勢にあって、文武の奨励と軍制改革は急務です。国境の守りを固めるのも、その一環です」
「いやしかし、突然そう言われても、引っ越しは……」
「銭のことなら、心配いりませんよ。向こうで新たに田畑を開墾するのです。その土地に関しては、税をほとんど免除してしまって良いと考えております」
「これは、我が家も侮られたものですな、は、は……」
方谷の目つきが変わった。鋭く、心の中まで見通されているような、矢のような視線。方谷は、この侍の姿を知っていた。松山の侍は、上から下まで、見栄を張る。藩の財政にしても、実際には一万九千石ほどの石高を、表向きは五万石として公表し、借金を重ねていた。
「谷殿、元締役の私に恰好をつけることはありませんよ」
「……お恥ずかしい。武家というのは、非常に、世間の声を気にしてしまうのです」
「財布を苦しめてまで、見栄を張っては痩せ細るばかりです」
三治郎はあの夜のように、亀のように平伏して動かない。大きな前歯を脣に隠して、額からは脂汗が滲んでいる。ついに発された言葉は「方谷殿は、何か思い違いをされております」だった。
奇妙なことを言う、と目を丸くする方谷。三治郎は続ける。
「某は、引っ越しが嫌だと言っておるのではありませぬ。引っ越しは出来ぬ、と申しておるのです」
「な、何が違うのでしょう」
「実は某、谷三治郎。老体ゆえ、ここいらでお役御免と隠居することに決めました。つきましては、嫡男の三十郎を当主に据えることにいたします。そして我が谷家は、旗奉行であり剣術指南役を歴任する家柄。当主となった者はまず、殿の近習役として存分に腕を振るうというのが、家訓でございます。それゆえ、殿の御側に控えられぬ此度の引っ越し、誠にありがたき話ではあれど、承服するわけには参りませぬ」
息も忘れて言い切った三治郎の顔は真っ赤になり、額には血管が浮いている。こうされては、方谷も閉口する他にない。少し頬を緩めて、かつてのように三治郎へ深く頭を下げ、方谷は平伏した。
「長きに渡る御勤め、ご苦労様でございます」
「おやめください、士分のあなたがそんなこと……」
途端、三治郎の視界が不意に暗くなった。力が抜けてしまい、その場に倒れこんだ。どうやら、この暑さので無理が祟ったようだった。もしくは勢いではあるものの、当主を嫡男に譲って隠居したことによる気の緩みかもしれない。
目が覚めると、見知らぬ天井があった。方谷が自分の顔をのぞきこみ、安堵の表情を浮かべている。三治郎は無性に情けなく、恥ずかしかった。起き上がると、額から絞られた手拭いがはらりと落ちた。
「何から何までかたじけない。奥方にも礼を言わせてください」
「妻はおりません。七年ほど前に離縁いたしました。留守中のことは弟子たちが何かと世話を焼いてくれているので、助かってますが」
三治郎の中で、ふと合点がいった。あの夜から、どうしても不思議だったのだ。何故方谷が自分自身で千三郎を育てようとしないのか。ひょっとすると、自分は師にはなれても、親にはなれない、といった卑下する気持が方谷の中にもあったのかもしれない。それに気づいた時、どうしてか三治郎は、ひどく慕わしかった。
方谷はなんとなく、三治郎の考えをくみ取ったようだった。
「うちであの子を育てられないというのはもちろんですが、実は子供を見ると少し、辛くなるのです。昔色々ありましたから」
方谷は目を瞑った。障子の向こうで、蝉たちが賑やかに騒いでいる。
「谷殿、せめて谷殿には、本当のことをお伝えしようと思います」
「はて、なんでしょう」
「千三郎君の親が、誰なのか」
三治郎はごくりとつばを飲んだ。良い武家が事情によって子を手放すことは、この時代に珍しい事ではない。さりとて、気にならないわけではなかった。
「あの子の親は……」
三治郎は抜け殻のようになって、ふらふらと帰路についていた。
亀が声をかけても、ぼんやりとした返事しか返ってこない。この日、父の帰りを誰より待っていたのは、三十郎である。
「父上! それで、引っ越しは……」
「ああ、無くなった。変わらずここに住んで良いそうだ」
三十郎は舞い上がって、流石父上、と大喜びだった。しかし三治郎の顔は、抜け殻のままである。ふと中庭へ行くと、万太郎と千三郎が何やら話していた。その様子は、まさに本当の兄弟のようだった。
万太郎が熱心に話す姿を、千三郎がこくこくと素直に聞いている。千は、儂の子だ。それでいいじゃないか。
三治郎は微笑ましく、二人の会話に耳を傾けてみた。
「と、こうすれば女子は大体顔を赤くするから、そこでさらに……」
入道雲めがけて、三治郎の怒号が響き渡った。
瓦が二枚ずり落ちて、ガシャンと割れた。
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