第4回「独りぼっち その②」
三治郎亡き後、千三郎に読み書きを教えているのは三十郎である。
三十郎は実に厳しく、八歳の弟を教育した。障子や襖を閉め切って、兄と弟一対一で向かい合う。少しでも視線が泳いだり、言葉が詰まったりすると三治郎さながらの剣幕で「こりゃ」と怒鳴るのだ。
ある日、亀は三十郎にそれとなく、もっと優しくできないかと尋ねた。登城のために下駄を履いていた三十郎は、振り返りもせず「父上から、甘やかすなと言われております」と出て行ってしまった。
そんな千三郎には、師が二人いた。兄ともう一人は、稀に屋敷へ顔を出す熊田恰である。三十郎が千三郎の教育に苦戦していると愚痴をこぼしたのを聞いて、ならば俺が、とやって来たのだ。
「こうしてこの子のお師匠役ができるなら、谷家が引っ越しなんぞしなくて本当に良かった」
と勝手に喜んでいるのには、流石の三十郎も閉口した。
恰の講義は専ら歴史を扱ったが、持ち前の歴史好きが転じて、千三郎も興味津々に聞いているようだった。
ある日、赤穂浪士についての講義の折。太宰春台の浪士評に触れた時の事である。自著で彼らを散々に批判した太宰春台を、恰は親の仇のような剣幕で語った。その時、千三郎が珍しく質問をしたのである。
「太宰というお人は、吉良の屋敷では何をしていたのですか」
「はっはっは! 太宰というお人は、学者様じゃ。討ち入った四十七士には入っとらん」
そう聞いて、しばらく千三郎は視線を泳がせて思案しているようだった。三十郎なら叱責するところだが、恰はそれを暖かく見守っている。しかしその結果、千三郎が口を開いて、
「熊田様」
「おう、どうした。答えが出たなら聞かせてみろ。どうせ歴史に真の答えというもんは無い」
「歴史というのは……」
「歴史というのは?」
「関係のない人がごちゃごちゃ言うのですね」
と言ったことには、恰も閉口してしまった。
千三郎は恰によく懐いていた。
恰も千三郎を「千」と呼んで可愛がり、酒屋の娘などはある日、恰が千三郎を肩車して歩くのを見たという。しかし所詮は他人であるという事実は、千三郎の胸をちくちくと痛めつけた。
熊田様が兄上だったら良かったのに。恰が千三郎の淋しさに気づいたのは「驚かせてやろう」と不意に谷家を訪ねた際のことである。千三郎が一人、縁側で膝を抱え、中庭の鉢を見つめて泣いていた。
こりゃいかん!
ばたばた飛び出して、おもむろに千三郎を肩車して、屋敷を飛び出した。
「千、男というのは淋しくても泣いてはいかんぞ! これから兄たちに会わせてやるから、もう泣くのは止せ!」
「しかし兄上たちは、大事なお役目の途中ですから、叱られます」
「叱られた時は、この俺が叱りつけてやるわ。でんでんの三十郎なんか、片目でぐっと睨めば退散するわ!」
「でんでん……?」
一方、そんな二人組がこちらへ向かっているとは知らずに、三十郎は大きなクシャミをした。他の近習や、板倉勝静までもが振り向くものであった。
「失礼いたしました……」
「良い。この頃冷えてきたゆえ、風邪には気をつけよ」
「痛み入ります……」
近習たちが、くすくすと嘲笑し、なにやらこちらを伺いながらひそひそと話している。未だ近習たちと馴染めず苦労している谷三十郎。
不幸なことに次回、もっと苦労するのである。
「どうだ千、バレないもんだろ」
「狭いです」
「多少は我慢せい」
恰は「火薬」と書かれた大きな木箱を背負い、城内の蔵へと歩いている。勿論、木箱の中にいるのは身を縮めている千三郎である。
果たして、谷三十郎はなぜ苦労することになるのか。
誰が原因なのか。
どの熊田恰が発端なのか。
乞うご期待、なのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます