千年続く島国、グリザド皇国の皇都ベルシガはあいにくの雨だった。夏を迎え始めていた熱は一気に冷まされて肌寒いほどだ。

 雷軍の兵舎で、将軍補佐官リリー・アクスは小さな体を震わせ、執務室から隣の私室に移動して仕舞い込んであった毛糸の膝掛けを取り出す。

「寒い……」

 執務室に戻ったリリーは長椅子に座り込んで、湿気のせいでいつもより癖が強くなった金茶の三つ編みを心許なくいじる。

 社の参拝という名目でありながら、実際は神器を手にしたバルドの力をディックハウト方へ知らしめるための戦から帰還して一夜経った。

 曇り空の中での凱旋を終え、リリーの上官であり四つ年上の幼馴染みであるバルドはすぐに王宮に戻った。

 そして夕刻が近くなってもまだ兵舎に現れない。

 戦を終えた後、孤児である自分の身元に繋がるかもしれない記憶が蘇った。

 かつて神器の納められていた棺に、この小さな島にに魔術をもたらし皇国を築いた皇祖グリザドだけが扱っていた特殊な神聖文字と呼ばれるものが刻まれていた。

 皇族と一部の貴族しか見たことがないという、神聖文字に見覚えがあった。赤子の頃に捨てられたので、産まれてすぐの記憶ということになる。

 グリザド皇国において、魔力の高さと身分は比例する。そして魔道士の力量は血脈が重要視される。

 だからこそ魔力の高いリリーは孤児でありながら、ある程度上級の貴族の血統ではないかとは以前から言われていて、平民なけれればはっきりした貴族の身分もなく周囲から浮いていた。神聖文字を見たという記憶も、勘違いではなく本物の可能性が高いと思われる理由もそこにあった。

 バルドはそのことを、病がちで実際に玉座につく予定がない皇太子である兄のラインハルトへと報告に行っている。

「何か、分かるのかな」

 両親に会いたいという願望も、自分が何者であるか知りたいと思ったことも一切ない。まるで興味がなかったのに、いざ手がかりがみつかると不安を感じていた。

 何か、自分が変えられてしまう恐怖感。

 それでも逃げるのも性に合わないし、もうひとつラインハルトに報告せねばならないこともあって腹は括った。

「あの灰色の魔道士なんなのかしら……」

 戦闘前に剣の社の近くで灰色のローブを纏った魔道士が目撃されていた。ハイゼンベルクの魔道士は黒のローブ、ディックハウトの魔道士は白のローブを防具としている。

 灰色というのは中立を示しているのか、あるいは別の意味があるのか一切不明だ。

 そして灰色の魔道士はリリーの前に現れて、見たこともない魔術で姿を消した。その時、彼が杖を打ち付けた床に神聖文字に似たものが浮かび上がった。

 なぜ彼は自分の前に現れたのだろう。一体何の目的でそもそも何者なのか。

 分からないことだらけでせっかくの休暇なのに、気を揉んでばかりでちっとも休まらない。

「バルド、早く来ないかな……」

 そんな願望をつぶやくと、まるで自分の願いを聞き届けたかのごとく扉が叩かれた。もうその音だけで誰が来たのかすぐに分かった。

「バルド、おかえり。遅かったわね」

 リリーは雷の色をした紫の瞳以外は黒ずくめの大柄な青年、バルドを笑顔で迎える。

 本来の住処は王宮であるはずのバルドへ、自然とおかえりと口にしてしまったことにリリーは全く疑問を覚えていなかった。

 彼女にとって帰る場所はバルドのいる所で、彼にとってもリリーがいる所が帰る場所だと固く信じているからだった。

 バルドがそれを証明するかのように、ごく自然にリリーの隣に腰を下ろす。彼のいつもの無愛想で凶悪な顔つきはいつも以上に剣呑だった。

「何かあったの?」

 不機嫌ではなく不安の表情だと、バルドの表情を読み取れる唯一の他人であるリリーは小首を傾げる。

「……兄上の体調が芳しくない」

 声にしてバルドが一層表情を沈ませる。

 バルドは産まれてすぐに母をなくし父とも疎遠で、幼い頃は高い魔力を暴発させ周囲から敬遠されて育った。そんな中で唯一恐れず彼に教養を与え、話し相手になっていたラインハルトは唯一無二の存在だ。

 ラインハルトの余命はそう長くないとされている。バルドがここまで落ち込んでいるということは、よっぽど悪いのかあるいは何かふたりの間にあったのか。

 幼い頃から側についていたクラウスがラインハルトに命じられ、敵に内偵として潜り込んでいたことをバルドは知らされていなかった。そうして、リリーを救うという嘘で丸め込まれ実際は彼女の抹殺のための策に荷担させられていたことも。

 しかしバルドは全てを知ってしまった。ラインハルトとの関係も、これまで通りとはいかないかもしれない。

「ずっと付き添ってたの。それなら、まだ王宮にいてもよかったのに」

 リリーはあえてラインハルトと何があったか聞かなかった。バルドが自分から話さない限りは、兄弟の間のことに口を挟む気はない。

 バルドがどれだけ兄を大切にしているかよく知っている。気持ちの整理もまだつかないだろう。

 ラインハルトがバルドのことをただ利用しているだけだと知っていても、自分は兄弟の間には簡単には踏み込めない。

「今日、兄上にリーのことと灰色の魔道士のことを話した。後にクラウスの兄の葬儀に出席命令」

 バルドは首を横に振ってラインハルトに直に報告した後、葬儀に出席することになった旨を告げる。

「葬儀? その割には兵舎は静かよね。フォーベック家ならもっと大々的に葬式するんじゃないの?」

 宰相家の嫡男急死は先に帰ったクラウスから聞いているものの、兵舎ではあまり浮き足だった様子はない。

「宰相家の急な葬儀は不吉。戦況を憂慮し静かに」

 バルドが神器を持ち勝利を収めることでハイゼンベルクは今、にわかに勝利への期待が持たれていた。

 しょせんは気休めとはいえ、幼い皇主を祀り上げて神格化して次々とハイゼンベルクの魔道士を寝返らせているディックハウトへ、これ以上兵を取られないための歯止めにはなる。

 ハイゼンベルクの実権を握る宰相家の跡継ぎの急逝は、不必要に動揺を与えるものとして派手にやることはせずに静かにすませるつもりらしい。

「……クラウスはどうだった?」

 リリーはもうひとりの昔馴染みのことも気がかりで問う。

 クラウスが兄のヘルムートの指示で謀殺されかけていたのをリリーが救った。

 正確に言えば助ける気はなく、昔なじみのよしみで彼の行く末を見届けるつもりだった。クラウスが勝負を捨て半ば自死を選んだので腹が立って邪魔に入り、結果的に彼の命を救うことになったのだ。

「クラウスとあまり話せていない。クラウスの兄は病死として公表。事実は第一夫人が晩餐中に首を斬り落とし殺害」

「第一夫人……? ってあのすごく綺麗なひと?」

 リリーはすぐにヘルムートの第一夫人の顔が浮かんだはいいが、あまりにも印象とかけ離れていて自信がなかった。

 夜会や式典で何度か見かけた第一夫人は、同じ人間とは思えないほど美しく可憐な女性だった。たおやかで脆そうな彼女と凶行が結びつかない。

「うん、まあ、貴族なんだから魔道士だろうけど、『剣』だったの……」

 魔道士の魔力は術者との繋がりを持たせた媒体に一時的に溜め込まれてから、様々な力に代わりとして放出される。

 本人の資質によって攻撃を主とする『つるぎ』、防衛を主とする『杖』、そうして治癒を行う『ぎょく』のいずれかを選ぶことになる。

 次期宰相の第一夫人となれるほど高位の貴族の令嬢で『剣』となると、その攻撃力は高いはずだ。相手がローブもなく丸腰で隙だらけだったらならば、風の魔術でも使えば簡単に大の男の首もはねられる。

「アンネリーゼはベーケ伯爵家令嬢。南の要。殺害動機はクラウスを救うため」

「……まさか、クラウス、兄嫁にまで手、だしてたの?」

 昔から女癖の悪い男だったがさすがに兄の妻までとはどうしようもない。

「アンネリーゼはクラウスに好意あり。クラウスは手は出していないとの弁」

「そういうこと隠す質でもないし違うって言うなら本当かもそれないわね……ちょっと待って、ということはこれどうなるの? クラウスは次の宰相よね。で、その兄嫁は下手に責めると、ベーケ伯爵と戦?」

 いろいろと状況が急変しすぎて頭が追いつかない。

「今、南と戦をする余力なし。北との戦も目前。事実は隠匿すべきものと、兄上と宰相が決めた」

「じゃあ、クラウスの兄さんは病死で、殺されたことは秘密になるのね……」

 よくよく状況を考えてみれば、そうなるのは当然といえば当然だ。これ以上戦況を傾けさせるわけにはいかない。

「……南の要が寝返るか否かはクラウスによる」

 バルドが固い表情のまま重苦しく言う。

「そっか。クラウスは忠誠心なんてないものね。そもそも裏切る気だったし、向こうが喜んで受け入れてくれるならいつでも寝返りそうよね。ディックハウトに居場所がなさそうだから、こっちに戻って来たんだっけ。あれ? あたしクラウスからそう聞いた訳じゃなかったわ」

 リリーはふっとクラウスから彼がこちらに残る理由を聞いていなかったことに、今さらながらに気付く。

 クラウスはディックハウト側に内偵であることを疑われ、捨て駒にされかけていた。だからこちらへ戻って来たのだと思いこんでいただけで、当人の口からは何も聞いていない。

「…………クラウスは出て行きたいときに出て行く」

 どことなく不満そうなバルドの様子にリリーは小首を傾げつつ、それもそうかと思う。

 ハイゼンベルクがこの先逆転できる見込みはないに等しい。自分は出ていく者を止める気はない。

 忠誠心がないのは自分もそうだった。双剣を振るい敵と斬り結ぶ楽しさと勝利の快楽が戦う理由だ。そうしてハイゼンベルクにいる理由は、バルドがここにいるからだ。

 皇子としての彼への忠誠などでは全くない。互いにわかり合える唯一の同胞で、安らげる居場所がお互いの側。だから自分はバルドの側で終わりまで戦い続ける。

「バルドはこれからまた王宮に行く?」

「いかない。いても兄上は眠っているだけ。俺は何もできない」

「なら今日の夕食は一緒ね」

 リリーは沈みきったバルドの横顔から自分の爪先へと視線を移す。本当は兄の近くにいたいという気持ちは、手に取るように分かった。

 だがどうしてそうできないかまでは、読み切れない。

「……灰色の魔道士は剣の社より以前に玉の社周辺でも目撃されている。近いうちに参拝名目で行かねばならないかもしれない。リーが囮」

 バルドが淡々と言うことにリリーは顔を上げる。

「玉の社でもってことは、あの灰色の魔道士が神器についてかぎ回ってるってこと? ディックハウト側にしては目立ちすぎよね」

 ハイゼンベルクとディックハウトは、元々は交互に当主が即位する取り決めだった。それを反故にして戦を始めたのがハイゼンベルクだ。

 ハイゼンベルクは皇都を占拠し、皇祖の亡骸が変質したという三種神器の内、グリザドの右腕といわれる『剣』と、グリザドの心臓と言われる『玉』を社から皇都へと運び出した。そしてディックハウトは『杖』の社のある地を新皇都としている。

 戦を仕掛けた側であるハイゼンベルクが大きな顔をして正統性を主張していたのも、神器の内ふたつを手にしているからだ。

「不明。同一人物かもまだ不確定。玉の社付近で目撃された灰色の魔道士は戦のことを知らなかった模様」

「知らない? そんなことあり得ないでしょ」

 内乱は五十年近く小さな島全土で続いているのだ。人里離れた場所で過ごしてきたとしても、まったく戦のことを知らずにいるというのは想像できない。

「現状で判明していることはなし。リーの出自に関しては神聖文字を手がかりに調査するとのこと」

「調査するんだ。その神聖文字とか知ってるってやっぱり大事なのね。あたしを囮にするって変な魔道士とあたしがどこの誰だかって関係あるの?」

「リーに接触は何らかの目的がある可能性」

「道端で声かけてきたんじゃなくて、寝てるところにわざわざやってきてなんかしてたんだものね」

 リリーは灰色の魔道士に寝ている間に触られた額に触れる。なんの感触も記憶もないことがかえって薄気味悪い。

 またこの先厄介そうだとリリーは、無意識のうちにため息をつく。

「何があろうと、リーはリー」

 バルドが不安を気づかってくれるのが嬉しくてリリーは微笑する。

「うん。あたしはあたし」

 そうしてふたりは沈黙して部屋には雨音だけが響く。気まずい雰囲気はなくお互い相手のいる空間の居心地良さに浸って、波立っていた感情を沈め一時の安息を得るのだった。

 

***


 何か雑音が煩わしく夢うつつでいたラインハルトは目を開いた。

「……雨か」

 雑音の正体に気付いてつぶやく。道理で夏になるというのに寒いわけだと、ラインハルトは唇を震わせた。

「皇太子殿下…、お目覚めですか」

 側に控えていた侍女のエレンに声をかけられ時刻を訪ねると、もう夜だった。

「フォーベック家の葬儀は無事すんだか?」

「はい。滞りなくすみました。今の所、大きな混乱はありません。クラウス様暗殺をヘルムート様ご自身から聞かされたアンネリーゼ様が衝動的になさったこととのことです」

 クラウスと話し合うのに葬儀に参列したエレンが報告したことは、おおむね予想通りだった。

「クラウスはこちらに残るつもりがありそうか?」

 最大の問題はそこだった。ハイゼンベルクの敗戦を決定づけるだけの立ち位置を、クラウスは手に入れてしまっている。

「……曖昧にされたままです。元よりこちらに留まる気がない方ですので」

 エレンが半ば諦め気味に言う。その忠誠心のなさを利用して、ディックハウト側へ潜り込ませていたのだ。立場が変わったのだから忠を尽くせという都合のいいことを言えるはずもなければ、素直に聞く相手でもない。

「皇太子殿下、バルド殿下がクラウス様が内偵だったことも、リリー・アクス謀殺の計画も全て知ったそうです」

 エレンの報告にラインハルトは戦勝報告をしにきたバルドのことを思い出す。

 はっきり表情を見て取れたわけでもないが、あまり積極的に視線を合わそうとしなかったのはそういうことだったらしい。

「だからといって、今さらバルドが私なしでできることなどないだろう」

 直接事実を確認しなかったのが何よりの証拠だ。まともに外に出られない自分の手足とするために、幼い頃からバルドを手懐けてきた。

 皆がバルドの凶暴性を恐れるが、実際は聞き分けが良く頭の回転も悪くない子だった。きちんと教えれば十分に言葉を理解し、純粋すぎるほどに信頼を寄せてくる。

 ゆっくりと時間をかけてバルドに思考の元となる知識を与え、信じられるのはこの兄だけだとすり込んで行動を制御してきたのだ。たったこれだけのことで、バルドが自分から離れるなどあり得ない。

 自分の命令がなければ弟はまともに決断もできはしない。正しい答を持つのは兄だけ。そうやって全ての価値観の基準は自分が与えたのだ。

「ええ。ですが、やはりリリー・アクスの出自の件はできるだけ早急にはっきりさせねばなりませんね」

 ラインハルトは最も厄介で邪魔な少女のことに自然と、嫌悪を顔に出してしまう。

 弟が唯一自分に反抗する時の要因となる存在。たったひとつ計算外だった。

 誰とも馴染まないバルドを士官学校に入れる時には、思う通りに弟を動かし若い貴族を皇家に従わせることをするつもりだった。確実にバルドを操れる自信がその時はあった。

 だが、予期せぬ存在にバルドは初めて他人へ心を動かした。四つも年下の貴族ですらない少女に。

 リリーのことは士官学校に上位貴族の血統と思われる孤児がいるとして、知ってはいたがまさかよりによってバルドが関心を持つとは思わなかった。あの弟と本質的に理解しあえる人間が存在するなど予想できるはずもない。

「まったく、本当にいつもいつも予測外のことばかりだな。神聖文字を見た記憶が本当ならばやはり神器と関わりがある可能性も高いということか……」

 現在、グリザドの残した三種の神器の内、『剣』と『玉』はハイゼンベルクが所有していることになっている。しかし現状は『剣』しか所持していない。

 ハイゼンベルクが五十年前に、社からグリザドの心臓と呼ばれる神器の『玉』を運びだそうとした時、廟はすでにもぬけの殻だった。

 ディックハウト側の出方を待ったが、あちらはハイゼンベルクに『剣』と同じく『玉』をも奪われたと主張していた。

 すなわちグリザドの心臓の行方を誰も知らないのだ。

 そして神器の在処が分からないことを知るのは、ハイゼンベルク方でも片手で足るほどの者しか分からない。

 それから今に至るまで見つかっていない。手がかりすら皆無だった。

 だがふた月近く前のディックハウト信奉者掃討策の中で、贋のグリザドの心臓を用意した際に誰ひとりとして真贋を疑わなかったのに、リリーだけが贋物だと見破っていた。

 明らかに高位貴族と思われる血統もあって、ラインハルトは彼女が本物のグリザドの心臓を見たことがあるのではと疑った。

 そして神器を持ったバルドの演習をした将軍達から、リリーと剣を合わせた時も神器と剣を交えたのと同質のものを感じたとの報告があった。

 さらに、皇族と一部の貴族しか見たことがない神聖文字に覚えがあるという新たな情報。疑惑は確信へ近づいている。

「例の灰色の魔道士が神器を調べているのなら、彼女に接触した理由も神器となるでしょうか」

「その魔道士が本当に神器を探っているというなら、『玉』が行方知れずということを知っていることになる。そもそも、戦を知らずに神器を知っているなど噛合わないな。灰色の魔道士が妙な魔術をつかったことも気がかりだ」

「……まるで、グリザドの再来のようですね」

 エレンがラインハルトが口にするより早く、そうつぶやく。

 千年前、皇祖グリザドが一体どこからやってきたのか誰も知らない。彼が現れるまでこの島に魔術は存在しなかった。人々に魔術を与えた最初の魔道士である彼を天の国からきた神の化身だの、神が人の腹に宿っただのと諸説は様々ある。

 しかしはっきりした記録はどこにもない。彼が最初の魔道士であり、人々に魔術をあたえ島をグリザド皇国というひとつの国としたことが確かな事実だ。

「島の外か……。だが大陸に魔道士がいるという記録もない」

 建国から二百余りは大陸から船が来ていて交易が多少あったものの、ここ八百年近く交渉が途絶えている。島から大陸に向かった船も帰ることがないので、この国は完全に孤立していた。

 だが交渉が合った時期の記録にも、大陸に魔術があるという話はなかったはずだ。

「神器の在処を知っている何者かに接触し、リリー・アクスにたどり着いたのでしょうか」

「それが、一番納得のいく理由だがまだ違和感があるな。その灰色の魔道士の痕跡を徹底的に探るのが『玉』を探し当てる手がかりにはなりそうか」

 とにかくリリー・アクスが何者であるかは、失われた神器への手がかりにもなる。できるなら灰色の魔道士も捕らえておきたい。

 ラインハルトが『玉』を求めるのは、単に正統性を主張するためだけではない。

 皇祖グリザドの使っていた神聖文字に、大いなる力の秘密があるのでは多くの者が読み解こうとしたがラインハルトもまたそのひとりだった。

 蓄積されたこれまで解読を試みた形跡をかき集め、ほんの少しだけ文字を拾うことができた。

 そして神器の『玉』に関するだろう記述の中に、延命、魔術の言葉を見つけた。心臓や血と思しき言葉も。

 『玉』は治癒を司る。グリザドの心臓が変質したものならば、生きながらえることができるかもしれないと微かな希望に縋っていた。

 ラインハルトは上半身を自力で起こすことさえままならないほど、急速に衰えがきている自分の体に焦りばかりが募っていた。

 目の前に可能性がぶら下がっているのに手が届かない。

 実際は遙か彼方にある星を掴もうと、無為に手を伸ばしているだけにすぎないかもしれないが。

 それでも生きることにしがみついていたかった。

「……エレン、私はまた少し眠る。夕餉の準備が整ったら起こしてくれ」

 しかしすでにどれほど眠っていても瞼はすぐに重くなってくる。病は自分を死へゆっくりと引きずり込んでいっている。

「はい。起こします」

 エレンがほんの少し声を固くして返事をする。不思議と彼女の言葉には説得力があって、どれだけ深く眠り込んでも必ず目覚めさせてくれる気がする。

 ラインハルトは死への恐怖を振り払い再び目を閉じた。


***


 翌日になるとまた朝からバルドは王宮へと向かうことにした。ラインハルトの容態がやはり気になってしかたなかった。

 昨夜遅くまで激しく降っていた雨はすっかり止み、空は雨雲の切れ端が浮かんでいるもののおおむね晴れて陽射しも強かった。王宮にたどり着く頃には汗ばむほどに暑い。

 バルドはまだ木々や花々に残る雨粒が眩しいほど光る中庭に面する回廊を通り、ラインハルトの部屋へ向かう。その途中でエレンに会った。

「おはようございます、バルド殿下。皇太子殿下はまだおやすみになられております」

「兄上の容態」

「昨日とお変わりありません。何かありましたら兵舎の方へご連絡いたします」

 慇懃に礼をするエレンにバルドは兄の顔を見るのを諦めた。いつもそうだ。眠っている兄の姿を見ているのは子供の頃から苦手だった。

 どんなに強い魔力を持っていても自分には何もできない無力さと、兄がいなくなってしまうのではないかという恐怖感に苛まれるのだ。

「……バルド殿下は皇太子殿下にこれからも忠実であらせられますか?」

 兵舎へ戻るために踵を返そうとした時にいつもは兄の命を伝えるか、形式的なことしか言わないエレンが珍しく問いかけてきた。

「兄上のなさることは正しい」

 そう。いつだって兄のすることは正しいことなのだ。自分に隠し事をしていたのも、兄なりの考えがあったから。

 では、リリーのことは。

 そこで躓く。ラインハルトはいつも正しいけれどリリーを密やかに謀殺しかけたことだけは、どんなに言い聞かせられても何ひとつ理解出来そうになかった。

(違う。聞きたくなかった)

 兄から自分のとても大事にしているものを正しくないものだと、否定されるのが恐かったのだ。

 都合の悪いことからは目を逸らしていると、クラウスに言われた通りだった。自分は力で破壊できないものから逃げているばかりだ。

「……皇太子殿下のなさることは全て正しいのです。けして迷うことなきよう」

 エレンが深々と礼をしてバルドとは正反対の廊下を進んでいく。彼女の後ろ姿を一瞥してバルドも兵舎へとぼとぼと戻ることになった。

 自分の執務室ではなく真っ直ぐにリリーの執務室に行った。しかし部屋には誰もいなかった。

「……補佐官」

 バルドはリリーの姿を求めて、近くを通りがかった部下を呼び止める。どうやらクラウスの所にいるらしかった。バルドは『剣』の統率官の執務室へ早足で行く。

 リリーがクラウスとふたりきりになるというのは、気が落ち着かなくてそわそわするのだ。

 無言でバルドはクラウスの部屋へと入る。

「バルド、早かったわね」

 長椅子にクラウスと並んで座って何か書類を眺めていたリリーが顔を上げる。

「皇太子殿下の容態どうだ?」

 クラウスの問いかけにバルドは昨日と変わらないと返答する。

「そう。悪くなってないだけよかったわね」

「リーはここで何を?」

 バルドはリリーの隣に腰を下ろして書類を覗き込む。

「ん、『剣』の社での交戦の報告書よ。クラウスに逃げられる前に手伝わせてるの」

「家の面倒事から逃げてこっち来たのに、仕事させられるとはな」

「あたしもバルドもこういうの嫌いなのに、あんただけ逃がすわけないでしょ」

「はい。はい。終わったら俺は昼寝するからな」

 ぼやきながらもクラウスはどことなく楽しげだった。彼がハイゼンベルクに帰って来た理由を、バルドは本人から直接聞いている。

 リリーがいるからだ。彼女と一緒にいたいからクラウスはこちらに戻って来た。

 いつかリリーを連れてここを出て行くために。

「そうだ、あいつら結局放っておくでいいの? クラウスを殺そうとした奴ら」

 書類から顔を上げたリリーがバルドを見やる。

「兄上は宰相に判断を任すとのこと」

「で、父上は俺に判断を任すってことだったから放っておくんだよ。あいつら兄上が死んだら、次は俺の顔色伺わなけりゃならないんだ。そうしとくのが一番面白いだろ」

 にやにやとそんなことを言うクラウスに、リリーが呆れたため息をつく。

「本当、どうしようもない駄眼鏡ね。あんた、本気で家を継ぐ気なんてないでしょ」

「今の俺の立場としては下手なことは言えないな。そうだな。十分、この立場は利用させてもらうけどな」

 クラウスが一瞬バルドを見て、リリーから書類を受け取る。

 現状、ハイゼンベルクの敗戦を加速させるだけのものをクラウスは握っている。上手くすればディックハウト勝利の功労者ともなれる。

 ラインハルトもクラウスの動向には、気をつけておけと言われている。

 クラウスが裏切るのは仕方ない。だがその時、無理にでもリリーを連れて行くことができるかもしれない。

 リリーはハイゼンベルクのために戦っているのではない。自分自身の本能と快楽ためだけだ。なんのしがらみもないからこそ、ディックハウトに寝返ることもたやすい。

 リリーをこの場に繋いでいるのは、最後まで一緒にいるという約束だけなのだ。

 何よりも強固な約束であると信じている。だけれどお互いの意志だけではどうにもならなくなるのではと、ふっと不安になる。

「あ、バルド、ちょっと。何、駄目だってば」

 感情のままにリリーをつい抱き寄せかけて、顔を赤くした彼女に止められる。

 バルドもあまりにも衝動的すぎる自分の行動に、渋面を作ってリリーから少し体を離す。

 つい最近までお互い密着することに、なんの躊躇いも抵抗もなかったのにリリーが不意に触れられるのを恥ずかしがった。

「適切な距離」

 そして自分も勝手な欲求を満たしてと不安を癒すためだけに、リリーに触れようとしていることに気付いてからは戸惑ってしまう。

「……急に、触らなかったらいいのよ。もう」

 リリーが開けた距離を詰めて頬を染めたままむくれる。

「とりあえず、お前ら俺の前でも自重しとけよ。……リリーの出自が分かったら、厄介かもな」

 クラウスの言うことも原因だった。

 多くの貴族がリリーを養子にして自分と結婚させ、皇主の外戚の地位を得ることを画策しているからだ。あまりこれまでのように親密にしていては、余計にそんな輩を増やすことになるとクラウスに教えられ困っていた。

「……でも、そんなすぐに分かる訳でもないでしょ。捨てて今まで放って置いたんだから、もし身内が見つかっても関わってはこないんじゃない?」

 リリーの言葉は予測というより願望に近いものに聞こえた。

「状況による。可能性は侯爵家みっつと伯爵家ふたつ」

 十七年前に神聖文字を目にする機会があって、確実に違うとは言えないのはそれだけだった。今、ラインハルトが密やかに調べを入れさせている所だ。

「案外少ないわよね。でも、ディックハウト側ってことはないんでしょ?」

「最悪の可能性だけどなあ。まあリリーが捨てられてた孤児院は、ハイゼンベルクの貴族で親を亡くした子供を、身内が引き取りに来るまで一時的に預かる場所だからな。その時期の上位貴族で離叛者もいないし、ディックハウトの人間がここで子供捨てるってこと自体、不自然だよな」

 クラウスの言う通り、神聖文字を見られる貴族で時期を絞ればディックハウト側との関わりはないと思っていいだろう。

「そこまで絞れてるんならさっさとはっきりさせて、また改めて縁を切ってもらったほうがいいわ。分かっても皇太子殿下、表沙汰にはしないんでしょ」

「内々にすませる」

 昨日もリリーに伝えたことを確認されてバルドはうなずく。今は貴族同士の勢力争いを無駄にあおりたてることはしたくないらしい。

「そう言っても、使えそうだと思ったら利用するだろうな……」

 面白くなさげにクラウスが眉根を寄せる。出て行く時にリリーを連れて行くつもりなら、彼女のハイゼンベルクとの関わりはできるだけない方がいいのだろう。

(……リーと結婚)

 政治的に利用できると考えれば、ラインハルトからそんな命が下るかもしれない。

 リリーはそんなこと嫌がるだろうが。自分にとっても結婚は煩わしい政治でしかなく、リリーと一緒にいるのに必要ないことだ。

「ああ、なんかややこしいわねえ。もうそれ後にして仕事片付けない?」

 書類とまだ何も書かれていない紙を交互に見つめてリリーが提案する。バルドとクラウスは異存なく、さっさと仕事を終わらせることにする。

 バルドは簡易にまとめられた戦況や死傷者の名前を見る頭の片隅で考える。

 政治でも何でも、兄にリリーと一緒にいることを認められるなら結婚も悪くはないかもしれない。だけれど彼女が望まないなら意味がないことだ。

 ハイゼンベルクに繋ぎ止めておくためだけにそうするなら、やはり何か間違っている気もする。

 すでに仕事に飽き始めているクラウスに、リリーが文句をつけるのを見ながらバルドは眉間の皺を深くする。

(リーは俺とずっと一緒にいる)

 それは確かなことで、この約束以上に必要なものなどないと思っている。

 なのに避けようとしていたリリーとの結婚も兄に許されるならしたいと、心変わりし始めている自分にバルドはうつむく。

 結局、兄に全て肯定して貰わねば何ひとつ自信が持てない自分が、とても嫌だった。


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