フォーベック家嫡男の葬儀も終わって半月が経ち、本格的に夏はやってきていた。リリーは暑さにぐったりとする。

「暑い……」

 軍司令部にある演習場で行われた水軍との合同演習後、さっさと日陰に避難して冷たい水で汗を拭き取ってもそう簡単に熱は引かない。

「…………夏はいらない」

 同じく暑さにいつもより眉間を寄せているバルドも心なしか疲れ気味だ。お互い戦闘中は暑さも気にせず夢中になって剣を振るっているものの、終わると一気に陽射しの照りつけにやられる。

「バルド、水……あー、汲んでこないと」

 リリーはバルドが持っているコップの水をもらおうとしたものの、自分達を遠巻きにしている魔道士達を見て諦める。

「面倒」

「ちょっとぐらいいいと思うんだけどね……」

 あまり親密にしてはいけないと言われても、コップの水を分け合うぐらいはかまわないのではないだろうか。

「バルド殿下、休憩中失礼いたします」

 そこへ、二十代前半と思しきぼんやりとした雰囲気の金髪の青年が、バルドに挨拶する。水軍の将である、見た目は若いものの実際は三十一になるラルス・フォン・ブラントだ。

「…………んっと、あれ、カイ、なんでしたっけー?」

 しばし沈黙した後にラルスが振り返って、遅れてやってきた黒髪の四十前後とみられる粗野な風貌の男へ声をかける。

「てめえ、人の話聞いてなかったな。この鳥頭!」

 堂々と将軍を罵るのはラルスの補佐官のカイ・フォン・ベッカーである。

「うえー、だって暑いじゃないですか。その上カイの暑苦しい話なんてまとももに聞く気なんて無理ですよ、むーりー」

「てめえは年がら年中人の話はろくに聞いてねえじゃねえか! いい加減その頭の悪そうな小娘みたいな口の利き方もどうにかしやがれ、中年」

「いやだなあ。僕、まだ三十一ですよ」

「まだじゃねえよ、もう三十一だ馬鹿野郎!」

 いつもながら騒々しい主従に、賑やかなのが苦手なバルドとリリーはうんざりする。

「すいません、用件ってなんですか?」

 リリーが控えめに訪ねると、カイが姿勢を正してバルドに敬礼する。

「失礼しましました。本日の合同演習、お疲れ様でした。不備なくよい内容だったと思われます。殿下のお力に兵の士気もますます高まっているかと」

 ラルスに対する態度が嘘のように、カイが実に格式張った物言いをする。

「……本題」

 長くなりそうな口上に痺れを切らしたバルドが要点だけを求める。

「ほらー、怒られちゃったじゃないですか」

「うるせえよ。……申し訳ありません。緊急ですが『玉』の社へ我々水軍が視察に向かうことになりました。その際、アクス補佐官を同行させよとの命が下りました」

 急な上に意味不明な命令にリリーは目を瞬かせる。

「なんであたしだけなんですか?」

「不審な灰色の魔道士が接触を試みたのが嬢ちゃんだからと聞いた」

 そう言うカイ自身も今ひとつ納得がいかなさそうな様子だった。

「兄上の命?」

 バルドが訪ねるとカイが首を横に振った。

「宰相閣下の命です」

「……兄上に訊ねてから」

 宰相からの命を特に嫌うバルドはすっかり不機嫌になって、ただでさえ愛想のない表情が険悪になっている。水軍のふたりもその様子に困り顔になっていた。

「とりあえず、返事は皇太子殿下に聞いてからでいいですか? あたしも将軍命令がないと動けませんから」

 リリーがそう言うとふたりとも仕方ないとうなずく。そしてすでに王宮に向かうらしきバルドをリリーは追う。

「バルド、王宮に行くの? あたしは待ってればいい?」

「後の事、任せる」

 バルドを見送ってリリーは水軍のふたりを振り返る。任されてもバルドほどではないとはいえ、上官相手にひとりきりでやりとりするのは苦手だった。

(こういう時に、クラウスがいるのよ)

 まだ家がごたついているらしくクラウスは合同演習には参加していない。残る『杖』と『玉』の統率官も、合同演習に参加して言いない他の兵の、雷軍内での演習にあたっているので誰にも役割を押しつけられなかった。

「後のことって言っても、演習の総まとめを話し合いぐらいですよねー。だったら補佐官同士でも問題なしです」

「昼寝ぐらいしかやることねえんだから、きちんと参加しやがれ」

 そしてラルスが逃げ出しかけて、カイがローブのフードを掴んで抑える。敗戦間近のハイゼンベルクで将をやるなど、これぐらい適当でなければ務まらないのかもしれないのかもしれない。

「……ここで話し合うより屋内でやりませんか?」

 とにかく日陰とはいえ暑い。リリーが提案するとラルスが真っ先に同意し、司令部内の風通しの良い部屋ですることになった。

「で、嬢ちゃんはちっとばかし前に出すぎだ。あんまり捨て身になるのも、よくねえぞ」

 カイからの進言にその自覚はあるリリーは黙々とうなずく。どうしても率先して敵中に飛び込みがちだ。それが策であることもあれば、ただ周りが見えなくなるほど戦闘に熱中していることもあって半々、といったところだ。

 演習でよく指摘されるのだが、これだけはなかなか治らない。

「雷軍はおふたりとも前線で戦うのが好きですよねー。指揮に徹して飽きたぐらいに乱入するぐらいが気楽でいいですよ」

 巫山戯た物言いだが実際『剣』の魔道士であるラルスが、唐突に戦場に割り入ってくるだけ戦況は一変する。今日も最終的にバルドとラルスが一対一で戦うことになった。

 今日は合同演習と言うこともありバルドは神器を用いなかったので、見ていて楽しそうないい勝負をしていた。

「てめえは適当にやりすぎだ。……嬢ちゃんは、このままこっちで死ぬつもりか?」

 カイに唐突にそんなことを聞かれて、リリーは訝しげに眉根を寄せる。

「負けたら死ぬ。戦場に出ている以上、そのつもりです」

 だが言葉だけは濁さずにはっきりと告げる。

「まあ、そうだよねえ。どっちにいても負けたら死ぬよね。うん。でもできるだけ生きたかったらさ、負ける確率が低いディックハウト側がいいよねー」

 何を考えているかよく分からない笑顔でラルスが、リリーに同意を求めてくる。

「……ブラント将軍はは離叛の意志があるってことですか?」

「いやー、僕はそのつもりはないよ。嫌だったら面倒な将軍職なんて引き受けてないしねー。ただねえ、今、ハイゼンベルク内の情勢が微妙だからさ、君の忠義がどこにあるかぐらいははっきり知りたいなあと思ってね」

「……ただの孤児のあたしの忠義がどこにあったって、戦況には影響しないでしょう」

 何か面倒な話になっていると感じながら、リリーは素っ気なく答える。

「ただの孤児ならいいんだけどねえ。今さ、宰相家の跡取りがクラウスになったよね。彼はちょっと問題が多すぎる。ヘルムートの第一夫人との関係もあるし、宰相家自体がもう信用できない。君は部下である彼を信頼に足ると思ってる?」

 クラウスの忠義心のなさについてはよく知っているので、答えに迷ってしまう。

(これ、政治的ななんかよね)

 すでに沈黙してしまっている時点で不味い気がするのが、こういう駆け引きはまったくできないので何も言えなかった。

「ごめんね。まあ困る質問だよねえ。うーん、皇太子殿下もさ、この頃よくないらしいよね。そうなると今日みたいに、宰相主導でことが進むわけなんだ。僕はさ、皇太子殿下があのお体で皇家主導を貫こうとされているのを敬服してるし、皇家に忠を尽くす覚悟もしてる」

 ラインハルトの功労をこうして聞かされるのは不思議だった。自分にとっては好かない相手とはいえ有能であることは確かなのだろう。

「……そのことにあたしの出自が関わってくるんですか」

 クラウスやバルドが危惧していたことを、ラルスも考えているのか。

「僕や他の皇家に忠を誓ってる者としてはさ、皇太子殿下がなされている皇家主導っていうのを支持したいわけなんだよ。バルド殿下が神器を持たれて、宰相家への信頼が傾いた今がものすごく大事な時期なんだ。でも、バルド殿下はあまり他人にお心を許さない。だから君がものすごく重要になるわけなんだ。んー、回りくどい言い方は面倒だなあ」

 ラルスがけぶったような淡い青の瞳でリリーを見据える。

「君は、バルド殿下の恋人?」

 率直に聞かれてリリーは硬直する。

 こう面と向かって聞かれたのは初めてだったし、あまりお互いの関係について明確な言葉を当てはめたこともなかったので、思考が本当に止まってしまった。

「バルド殿下とは士官学校の時からの付き合いだっけ? 君が殿下の唯一の理解者っていうのは公然の事実なわけだよ。だから孤児でも補佐官やってる。年頃の男女だし、当然そういう関係でもあるって周りは見てるわけなんだ。うん、そこでだよ。君の出自がもし、どっかの名家ってはっきりしちゃったら、そこが第二のフォーベック家にもなっちゃう可能性が多分にあるんだ。そうなるのは困るんだよ。ただでさえ君を養女に迎えようって家も多い」

 ラルスは他の貴族達のように自分を養女にしてバルドに嫁がせると、考えているわけでもなさそうだった。

 どちらかというと面倒事は避けたい自分の感情に近いものがありそうだ。

「あたしにどうしろっていうんですか……?」

 どうにか思考が動き始めたリリーは、少しばかり緊張を緩めてラルスの本心を窺う。

「うん。まあ、バルド殿下との結婚は考えないでおいてもらいたいんだ」

「……元から、考えてません」

 リリーは不快な気分になって、ついきつい口調になってしまう。バルドと最後まで一緒にいることを決めた自分の気持ちを、軽んじられた気がした。

 向こうはそんな決意を知らないのは分かっているが、それでも不愉快なものは不愉快だった。

「じゃあそこは安心だけど。結婚しなくても子供ができるとまずいんだよねえ。あ、もうできてるとかないよね?」

「ないです! だいたいあたしとバルド、殿下はそういう関係でもないですから!!」

 真っ赤になってリリーが否定すると、ラルスが眉を上げてカイと顔を見合わせる。

「そうなんだ。うん、なら君がハイゼンベルクにいる理由は何かな?」

 ラルスに問いかけられてリリーは言葉に詰まる。

 バルドがいるから。それだけであるがバルドとの関係を完全否定した手前、言えなかった。

「……もし、君がバルド殿下に忠を尽くすって言うのなら、ひとつ頼みたいことがあるんだけどなー」

 言うべきか否か迷う素振りを見せつつ、ラルスはリリーの様子をじっとみていた。

 これはおそらく聞き返さない方がいいことだ。

 そう確信してもこっちが聞きかえすまで部屋から出してくれそうもなかった。

「本当にバルド殿下のためになることですか?」

 観念して問い返すとにこりとラルスが微笑む。

「クラウスと結婚して欲しい」

「はい?」

 いくらなんでも突飛すぎることにリリーは瞬間的に問い返して、ぽかんとする。

「うん、まあ。こっちも結構な賭けになるけど、皇家への忠誠心が厚い人間に宰相家に入り込んでいて欲しいんだよね。クラウスの監視とフォーベック家の行動の制御を、君に任せたいんだ。宰相としても悪い話じゃない。ただ、バルド殿下が君を他の相手と結婚するのを認めるかなーっていうのがさ、問題なんだけど」

 困った風に言いながらもリリーからも説得できないかと、ラルスの目は期待を寄せている。

「……そんなややこしいこと、あたしには無理です。すいません、これ以上用がないなら戻ってもいいですか?」

 付き合ってもいられないし、理解する気もなくなってリリーは立ち上がる。

「いいよー。急といえば急だしねえ。うん、ゆっくり考えてよ」

 リリーはそのまま一礼だけして立ち去る。しかし後ろからカイがついてきた。

「……なんですか」

 不機嫌さを隠しもせず毛を逆立てた猫のような態度でリリーは彼を見る。

「そう睨むなよ。悪かったな。いきなりあんな話しても、嬢ちゃんにはめんどくせえだけだろ。俺も、腹違いの兄貴が死んでいきなり伯爵家に迎えられた口だ。いきなり貴族同士の付き合いだの、しがらみだの言われても知らねえって言いたくなる気持ちは分かる」

 伯爵家の愛妾の子であったカイは家には迎え入れられず市井で育ち、父親のことも貴族だとは知っていっても、どこの誰かは知らなかったとは聞いたことがある。伯爵家の跡継ぎだった正妻の子である兄が戦死して、二十にの時にやっと実父がはっきりしたらしい。

「……分かるんだったら、放って置いてもらえませんか」

 リリーは足を止めることも、カイを見ることもなくすげなくする。

「だがな、どうにもなんねえこともある。ただでさえ嬢ちゃんはバルド殿下の近くにいる。嫌でも面倒なことはついてくるんだ。関係ねえって知らんぷりしたまんまじゃいられねえ。今すぐどうするか決めろとは言わねえけどな、将軍の言ったことを覚えとくぐらいはしといてくれ。……あとな、本当に捨て身になりすぎんのは気をつけとけ。引きずられる奴も出てくる。長いこと引き止めて悪かった。じゃあな」

 カイが立ち止まって、リリーは彼に無言で頭を下げて兵舎へ戻る足を速める。

 しかし帰ったところでバルドはまだ戻って来てないだろうと考えると、歩く速度は緩やかになる。

「……あたしはバルドと一緒にいたいだけ」

 誰にもいない場所でつぶやいて、リリーは唇を尖らせる。

 ふたりの約束に他人に入り込まれてごちゃごちゃとかき回されるのは、たまらなく煩わしい。

 バルドの立場上、仕方ないのは分かってはいるけれども。

 リリーは抱えた苛立ちをぶつける先がどこにもなく、爪が食い込むほど硬く拳を握った。


***


 バルドがラインハルトの居室を訪ねると、幸い兄は起きていて公務をしている所だった。執務机ではなく、寝台の上で上半身を起こしてだった。

 兄の体調はこの半月悪化こそはしていないが、よくなる兆しもまるでなくずっと寝台の上にいる。

「なるほど、さすがに宰相も嗅ぎつけてきたか」

 水将のラルスから聞かされた命を告げると、ラインハルトが眉根を寄せて考え込む。

「兄上のご裁量は」

 『玉』の社の視察の必要性と、リリーをひとりだけ同行させるか否かバルドは問う。

「……バルド、お前にひとつまだ教えていないことがある。エレン」

 ラインハルトが側についているエレンに声をかけると、彼女はすぐに小ぶりな銀の杖を取り出して部屋の音を漏らさないための結界を張る。

「神器の『玉』、グリザドの心臓は五十年前から所在が分からない。このことを知っているのは父上と私、宰相、五十年前にグリザドの心臓の移送を命じられたベレント男爵家の現当主とその娘であるエレン、後は典儀長官のブラント伯爵と嫡男……宰相の命が伯爵の次子の水将に下されたということは彼もすでに知っているかもしれないな」

 バルドは驚きに目を瞬かせ、次に静かに影のようにひっそり佇むエレンに目を向ける。兄がなぜ彼女をこれほどまでに重用している理由はよく分かった。

 そうしてまた自分が教えてもらっていなかったことがあったと、密やかにバルドは落ち込む。

 そんなにも兄にとって自分は信用がないのだろうか。

 そうは思ってもバルドは結局、何も聞き返せなかった。

「灰色の魔道士が関与しているのですか」

 仕方なしに神器の件についてだけ問う。

 神器の祀られていた社周辺で相次いで目撃された不審な魔道士。あれを追う理由が神器だというのか。

「まだ分からない。その魔道士より、リリーの方が関与している可能性の方が高い」

 とつとつとリリーと神器の関わりの可能性を説明されてバルドは考え込む。

 確かに本物の神器を見たことがあるというなら、以前に作戦で用意した紛い物の神器を贋物だと判別できたことに納得がいくものの不可解な点もある。

 神聖文字を見たことがある者は少ない。その中のいずれかがが神器を隠し持っているとは思えなかった。神聖文字を知っている者がリリーの出自に繋がるという仮定と、矛盾が生じている。

 疑問を告げると、ラインハルトはこくりとうなずく。

「すなわち、リリーの出自はそのいずれでもないことになる。グリザドの心臓がいつ持ち出されたかも分からない。ただ、始めに神器を社に運んだのは、グリザドの直系となる皇子、皇女らだ。彼らに子孫はいないと記録として残っているが千年も前だ。確かなことは言えない」

「リーは皇家の血筋……?」

 思っていたよりもことは複雑そうだった。

「まだはっきりとは分からない。神器が元々、社に安置されていなかったのかもしれないと、可能性のひとつとして考えている。なんらかの理由で別の場所に安置されていたなら、ないのも同然だ。皇家でなくともその側近の末裔という可能性もある。いずれにせよ、私がリリーのことを調べている件で、宰相も勘づいたらしいな。クラウスが神聖文字の件を漏らしたののかもしれないが……」

 喋り疲れたのかラインハルトそこどしばらく言葉を止め、エレンに水を求める。寝衣に隠れていた手首やその下の腕が見えて、バルドは口を引き結ぶ。

 寝衣にだぶつきがあって痩せているのは分かっていたが、骨と皮ばかりの腕を実際見るとは辛かった。もうこれ以上の回復は見込めないのだと、まざまざと実感させられてしまう。

「……社の視察は必要ですか?」

 バルドは兄が一呼吸つくのを待って問う。

「宰相がどういう気でいるかはしらないが、グリザドの心臓を早急に手に入れなければならないのは確かだ。お前も同行してくれ」

「承知しました」

 兄の命を受け取ってバルドは頭を垂れる。

「……しかし、クラウスが問題だな。宰相もさすがにグリザドの心臓が行方知れずだとは教えていないだろうがな。そういえば、クラウスとリリーを結婚させてどうかと、典儀長官に提案された。下手に宰相家の後釜狙いが増えるよりはいいが、お前はどう思う?」

 思ってもみなかったことを問われてバルドはうつむく。

「……クラウスはリーがいるから戻って来たのです。クラウスとの結婚はよくないことです」

 何をどうしようとクラウスは出て行く時には、勝手に出て行くだろう。その時リリーがクラウスの妻という立場にいるなら、連れ出しやすくなる。

 何よりもリリーが誰かと結婚するなど、認めたくはなくなかった。

「クラウスがお前の気に入りのものばかり欲しがるのは知っていたが……」

 煩わしげにラインハルトが思案する。

「兄上」

 クラウスとの結婚はやめた方がいいというラインハルトの結論をバルドは求める。

「今は保留だ。もし、皇家の血統ならば親王宣下を宰相が考え出しても面倒だからな」

 明確な答を出さないラインハルトにバルドは落胆しながらも、ふとした思いつきを口にすべきか迷う。

「兄上……リーと俺が結婚するのはなりませんか?」

 バルドは考えた末に恐る恐るそう口にする。兄にリリーと一緒にいることを認めてもらえるかもしれないと、淡い期待を持って。

「……皇家の血をひとところに纏めおくのは悪くない考えだ」

 ひとまず兄が駄目だと言わなかったことに安堵する。ラインハルトはそんな弟を見ながら、静かに口を開く。

「グリザドの心臓が見つかれば私はもっと長く生きられるかもしれない」

「兄上の病が癒える……?」

 どれだけ望んでも叶わないと思っていたことに光明が差したこと信じられず、バルドは呆然と問い返す。

 ラインハルトがグリザドの心臓には、強い治癒の力が秘められているかもしれないといことを語る。そして灰色の魔道士の足跡を追えば、神器にたどり着けるかも知れないということを聞かされ、僅かながらでも希望があるのだと理解する。

「グリザドの心臓が行方知れずになっていたことを隠していたのは、なにもお前のことを信用していなかったわけではないんだ」

 ふと自分の不服を見破られてバルドは兄から足下へ視線を逸らした。

「余計な期待をさせてしまいたくなかった。クラウスのことを話さなかったのは、彼の方を信頼していなかったからだ」

 兄の優しい言葉にバルドはそろりと目線を上げる。

「……リリーのことも、この先の戦況を考えて皇太子としての決断だった。全てはお前のためなんだ」

 ラインハルトの立場は十分に理解しているつもりだ。皇家の人間としての最低限の教育を、病弱な体で辛抱強くしてくれたことも知っている。

 だけれどなぜか兄の言葉は靄がかかった、曖昧なものにしか聞こえない。

「バルド、私が持ち直したなら父上に譲位していただくつもりだ。その時の情勢によってリリーもことの対処も考える。お前の提案も選択肢のひとつとして含めて、な」

 バルドの心は都合のよすぎる甘言に揺らぐ。ラインハルトが生きながらえて、リリーと一緒にいることも兄に受け入れられるかもしれない。

 そうして皇主になることもなく、ひたすらに戦場で生きていける。

「……必ず、グリザドの心臓を見つけてみます」

 ぼやけたラインハルトの本心を考えるのをやめて、バルドは従順にうなずいた。


***


 リリーが雷軍の兵舎に戻るとバルドはまだ帰って来ておらず、その代わりクラウスと廊下でかちあった。

「ねえ、もしかして演習が嫌で顔出さなかったわけじゃないわよね」

 少し眠たげな様子のクラウスに疑惑の目を向ける。

「いやー、たまたま演習と家の用件が被っただけだって。どうした、機嫌悪いな」

 クラウスがしれっと話題を変えて、追求は不毛だと諦めたリリーはむくれた顔のまま彼に水将に言われたことを話してしまうか考える。

「……バルドが王宮に行くことになって、あたしひとりで水将とやりとりしなきゃなんなくなったのよ。あんたと結婚しろって言われたわ。あの人なんなの?」

 しかし隠すことでもなく、また他の人間から似たことを言われるかもしれないと水将ラルスの意図を問う。

「そうきたか。うん、廊下で話すことでもないからこっちな」

 思ったより重要な話だったらしくクラウスが近くの部屋へと手招いてくるのに、リリーは素直についていく。窓が閉め切られていている応接室に入るなり、むわっとした熱気に包まれる。

「窓、開けてもいい? ローブも脱がないと暑いわ」

「これは開けないときついな……。俺もローブ脱いどく」

 リリーは先にローブを脱いで窓を開ける。風が流れ込んできて部屋の熱気は和らぐ。

「面倒くさい話?」

 先に長椅子に座ったリリーの隣にクラウスもうなずきながら腰を下ろす。

「うーんとな、ハイゼンベルクの貴族は大体みっつに別れてる。宰相派と、その宰相の位置につきたい奴らは知ってるよな」

「その宰相の位置につきたい奴っていうのが、あたしを養子にしてバルドと結婚させようってする奴ら。炎将の父親のジルベール侯爵もそうでしょ」

「そう。そう。で、あともう一個は皇家を本当の意味でハイゼンベルクの中心にしたい奴ら。残念ながら少数派だけどな。水将はここ。分かるか?」

「……なんとなくだけど。でも、そうするのにあんたと結婚させられる理由がよく分かんないわ。別に監視なら誰でもいいでしょ」

 クラウスが言いたいことはどうにか理解しつつ、リリーは首を傾げる。

「まずは宰相の位置につきたい奴らの狙いを潰すことだな。リリーを餌にしてバルドを釣れなくなる。宰相っていうより、俺の監視もついでにできていい。で、一番重要なのは、リリーとバルドの距離をちょっとだけ空けさせて、バルドを自立させることだな」

「バルドの自立……?」

 よく分からなかった所をリリーは聞きかえす。

「とにかく皇家を中心に立てるならバルドを、指導者に仕立て上げないといけない。いつまでたってもリリーが通訳してたんじゃ、格好がつかないだろ。まずは補佐官っていう職務上の繋がりは保ったままで、個人的な関係を切るのが第一目標だ。リリーも結婚したら、俺の監視も含めて今みたいに四六時中一緒っていかなくなる」

「ねえ、つまりそれって皇太子殿下と同じ考えってっこと?」

 バルドにとって自分が邪魔であると、思われている気がするのだが。

「端的に言えばそうだな。バルドが自立し始めたら、俺の裏切りを促すなり暗殺するなりして宰相家ごとリリーも切り捨てられる」

 クラウスが掌で首を切る動作をして、リリーはラルスのとぼけた顔と態度の裏側にあったものを知って顔を顰める。

 それと同時に彼とその補佐官しかいない部屋へ、なんの警戒心もなくのこのことついていった自分の間抜けさにも嫌気がした。

「……水将の補佐官もそう、なのよね」

 自分を追いかけてきたカイも水将と同じのだろう。

「ああ見えてもベッカー補佐官の将軍への忠誠度は高いぞ」

「もう放っておいてほしいわ」

 誰も彼もが腹の内に何か抱えて、バルドと一緒にいさせまいとしたり自分達の関係を利用しようとするのにはうんざりする。

「そうはいかないだろ。……なあ。リリー、いっそ本当に俺と結婚しないか?」

「なんで?」

 いつもの冗談と巫山戯た態度ではなく、本気で打診してくるクラウスをリリーは訝しむ。

「まず、リリーを養子にしたいって奴らはいなくなるだろ。形だけでも結婚してたら、俺と一緒にのらりくらりしてたら面倒事はだいたい片付く」

 クラウスの言うことにリリーはどうなのだろうと唸る。確かに現状よりは煩わしさはなくなるかもしれないが。

「うう。でもそれはそれ別に面倒そうじゃない……? あんたもなんか企んでそうだし」

 少々心を揺り動かされながらも、クラウスがこんなことをなんの打算もなく言うはずがないとリリーは彼を見返す。

「なにかって、俺がリリーと結婚して得することってないだろ」

「そう言われると余計、怪しいわ」

 クラウスは無気力でも無欲とはまた違う気がするのだ。たぶん自分にはよく分からない政治的な企みがあるのはずだ。

「疑り深いな。まあ、バルドが嫌がるのは間違いないけどな。もういっそさっさとバルドと結婚したら、一番面倒じゃないだろうなあ。でも、する気ないんだろ」

「必要ないし、皇太子殿下と揉めるだけでしょ。いいじゃない。あたしはバルドとずっといるの。……どうせ負けるのに身内同士で喧嘩してるなんて馬鹿みたい」

 八つ当たり気味にリリーは悪態をつく。敗戦を目前にしながらも尚のこと、内部で闘争を繰り広げるなど無意味だとしか思えない。

「だからこの現状ってやつだろ。皇太子殿下がバルドと結婚しろって言ったら、リリーはそうするつもりか? 場合によったらその可能性もあるぞ」

 クラウスに問われて、リリーは考え込む。

「命令されたらバルドは結婚するって言うわよね」

 ラインハルトの命令をバルドが拒否することはない。自分と一緒にいるのを兄に認められるなら、きっと喜んでそうする。

「不満そうだな」

「……あのひとに振り回されるのは嫌よ。でも、バルドが安心するならいいわ」

 皇太子の命で結婚するということは、バルドが兄に自分の思いを肯定してもらうためのものでしかない。自分にはどうでもいいことだけれど、バルドにとっては大事なことだ。

「そんなんでするんなら、俺と結婚した方がましじゃないか?」

「……あんたとするよりましってことはないと思うわ」

「今の面倒事の大半が片付いて楽だと思うぞ。なあ、派手な式もやらないし、家のことには関わってくれなくてもいいし周りに結婚したって言うだけ。ほら、悪くない条件だろ」

 クラウスが妙にしつこく勧めてくるのはどうにもおかしい。

「絶対、裏があるでしょ」

 確信を持ってねめつけると、クラウスは大仰に肩をすくめて見せた。

「リリーは疑り深い割にこういう人気のないところで平気でふたりきりになるよな。もし裏があって何かされるとかまでは考えてないだろ」

 言われてみれば水将についていったように、やはりクラウスに呼ばれるままに部屋でふたりきりになってしまっていた。

「……でも、あんた今、帯剣してないじゃない」

 クラウスは腰に何もつけていない。一方自分の双剣は腰にぶら下がっている。丸腰の相手が自分に喧嘩を売ってくるなど、まずないことだ。

「ちょっ……!?」

 まるきり無警戒でクラウスを見ていると、いきなり長椅子に組み伏せられてリリーは目を見開く。

 反射的に剣の柄に手を伸ばそうとするが、クラウスに腕の自由を奪われてままらない。「悪巫山戯もいい加減にしなさい、よ……!」

 渾身の力で体を捩っても男の腕力には敵わずびくともしない。

 がしゃんと床に双剣が落ちる音が響く。

「これで、リリーも丸腰だろ」

 リリーを押さえつけたまま、器用に剣帯を外したクラウスが笑う。

「……油断しすぎてるのは分かったからどいて」

 あまりにもあっさりと身動きを封じられたあげく武器まで奪われた悔しさに、リリーは歯噛みしながら言う。

 しかしクラウスは一向に力を緩めてくれない。表情もいつもと違うひどく冷めた顔つきだった。

「ねえ、離してよ。ちょっと、何、やだ」

 首元にクラウスが顔を埋めてきて総毛立つ。

 元から人に触られるのは苦手だがこれは耐えがたいほど嫌悪を感じた。首筋に唇で触れられて、手足をばたつかせたくても抗えない。

 子供の頃からバルドと噛みつき合って遊んでいたのとは、全く違うものだ。

「痛い、何してんのよ」

 鎖骨の上あたりに鈍い痛みを感じてリリーはもがく。噛まれているのではないし命の危険は感じないものの、不快であることに違いない。

「……ん、まあこんなとこでいいか」

 クラウスが顔を上げて押さえつける力を緩め、やっと体が自由になったリリーは体を起こすついでにクラウスの鳩尾に膝を入れようとする。

 しかしなんなく躱されてしまった。

「この駄眼鏡!」

 涼しげな顔でいるクラウスと、汗だくになって悪態をついている自分との余裕の差は歴然としていて負けを認めるしかない。

「前にも言っただろ。剣がないリリーはただの可愛い女の子だって。帯剣してても、抜けなきゃ意味がない。気をつけとかないとな」

 いくら腹立たしく思っても、クラウスの言う通りだった。リリーは床に落ちた双剣を拾い上げて胸に抱く。

「言われなくても、今度からあんたの前でも柄から手は離さないわよ」

「次からはこんな真似しないって。……で、どうする? 俺と結婚したらそこまでしょっちゅう警戒してなきゃならないことはなくなるぞ」

「しない。自分のことは自分で護るわよ」

 リリーは長椅子にかけていた自分のローブをひっつかんで、部屋から出ていく。クラウスが追い駆けてくる気配もなく、そのまま自分の私室へと早足で進む。

 腕力で男に敵わないのは、自分で分かっているつもりだった。だから力よりも技術を要する双剣を使うことを選んだのだ。

 なのにあんなにも容易く、剣を奪われた。油断していたとはいえ、丸腰の自分の非力さを思い知らされてしまった。

 リリーはクラウスに組み伏せられ、肌に触れられた瞬間の嫌悪が蘇ってきてぶるりと身を震わせた。

「……だからってあんな風にしなくてもいいじゃない」

 戻って一回蹴飛ばしてこようかと考えていたリリーは、廊下の曲がり角からやってきたバルドの姿に足を止める。

「リー、探した。……怪我?」

「何、怪我? してないわよ。どこ?」

「首の付け根。鎖骨の上。痣。打撲痕?」

 リリーはうつむいたが鏡でないと見えない位置だ。だが心当たりはあった。

「ん、あ、あれで痣になったの。痛くないからたいしたことないと思うけど……。あの駄眼鏡……」

「クラウス?」

「うん。さっきちょっと油断してたら、噛まれたんじゃないけど吸われた」

 通りがかった幾人かの魔道士が、ローブを纏わず髪が乱れて剣も腰に下げずにいるリリーの姿と発言にぎょっとする。

「リー、クラウスと遊んでいた。俺とは遊ばないのに……」

「遊んでた訳じゃないわよ。話してたら、いかにあたしが隙だらけか体で教えられただけよ。次はないんだから」

 しかしリリーは周囲の視線など気にせずに、不機嫌なバルドへ敗北の悔しさをぶつける。ますます近くを通りがかる部下達の注目を浴びてしまい、視線に気づいたふたりは一旦会話をやめて周りを見る。

 さっと部下達は視線を逸らしてふたりから距離を空け、逃げるように足を速めていく。

「何だろ」

「不明」

 リリーとバルドは揃って訳が分からず首を傾げるものの、大して気に止めずにリリーの執務室へと入る。

「ああ、そうだ。皇太子殿下、結局なんだって?」

 ローブを壁に掛けて双剣も所定の位置に置きながら問う。

「社の偵察、俺も同行。クラウスとの話」

「水将にクラウスと結婚してくれないかって、言われたのよ。裏があるって思って、どういうことかクラウスに訊いたの。邪魔なものはひとつに纏めとこうってことみたい」

 バルドに隠すことでもないのでリリーはざっくりと説明する。バルドもラインハルトから、そういう話もあると聞いたらしかった。

「……リー、クラウスと結婚する?」

「しないわよ。面倒なこと減るからしないかってクラウスにも言われたけど、それはそれで面倒だし。何、怒ってるの?」

 気の弱い女性なら失神しそうなほど目付きが悪くなっているバルドを、リリーは不思議に思いながら隣に座る。

「……結婚してはいけない」

 ぼそりと拗ねて分かりきったことを言うバルドに、リリーは苦笑した。

「誰ともしないわよ」

「俺とも、しないか?」

 バルドが聞き返してくる。

 その瞬間、胸の奥が痛んで哀しみに似た感情が湧いてきて、リリーはバルドの顔をまともに見られなくなった。

「……バルドがしたいっていうなら、するわ」

 そうは言ったものの、嫌だなと思う自分がいた。

 ふたりの間に重たい沈黙が降りる。

「急にどうしたの? 皇太子殿下からそういう話があったの」

「……リーが嫌なことはしない。明日、水将が来る。俺は寝る」

 バルドがそっと立ち上がって出て行くのを無言で見送る。

 そうしてひとりになったリリーは膝を抱えて、膝に顔を埋める。

「……ねえ、そんなに不安」

 そうして問えなかったことをぽつりと漏らす。

 しないと決めていた結婚の意志を今さら言うのは、ラインハルトが絡んでいるのに違いなさそうだった。同時にクラウスとの縁談話だ。

 バルドは兄に認めてもらわねば、自分達は一緒にいられないと心のどこかで不安に思っているのは感じ取っている。あげくに縁談話で、引き離されるかもしれないと危機感を覚えているのかもしれない。

「あたしの居場所はバルドの側しかないのに……」

 不安を埋めるためだけの求婚は、自分の決意をバルド自身に否定されるような気さえしてしまうのだ。

 哀しみと同時に腹立たしさもわいてきて、リリーは目元に涙を滲ませる。

(あの時もこんな感じだったな……)

 内通者の冤罪をかけられて軍法会議にかけられ、バルドに一言も疑っていないと言ってもらえなかった時と、今の気持ちはどことなく似ている。

 だけれど、同じではない。今度は彼は自分と一緒にいるためにそう言うのだ。同じ気持ちなのに、変に噛合わなくて自分自身にも苛立ちを覚えてしまう。

「……湯浴みしよう」

 リリーは涙をぬぐいむしゃくしゃした感情をどうにかするために、浴室へと向かったのだった。


***


 夏の暑さともやもやした感情でうだるいまま、リリーは翌日を迎えた。いつも通りバルドを起こしに行くと、先に彼は起きていた。

「……悪い」

 バルドは後ろめたそうに視線をそらして、小さな声で言った。

「うん。あたしもごめん」

 リリーもこくりと首を縦に振って応じる。昨日のはバルドが一方的に悪いわけでもなく、自分も後ろめたい気持ちがあった。

 そうして一緒に朝食を取って今日の予定を話す内に、ぎこちないふたりの空気はゆるやかにいつもとかわないものになっていった。

「……濃くなっている」

 バルドがリリーの首元に目を向けて、クラウスにつけられた痕に眉をひそめる。

「ん、ああ。思ったより痣になったわね」

 昨日鏡で痣を確認したところ打ち身したようになっていて、今朝になると青あざになってしまい幾分目立つ。かといって痛みもないので、リリーは気にせず放っておくことにした。

「早く消えるといい。不愉快」

「なんでよ」

「不明」

 バルドも意味が分からないらしく首を傾げる。

「大した痣でもないしそのうち消えるでしょ。それより水将が来るまでに、仕事すませるわよ」

 ふたりは雑務をこなして『玉』と『杖』の統率官との合議の後、応接室で水将を待つことにした。クラウスは今日も昼過ぎに兵舎に来るらしく不在だった。

 クラウスは本当に忙しいのか、仕事をする気がないのかどうにも微妙な所である。

「痣、そんなに目立つ?」

 リリーは統率官ふたりが気まずそうに首元に視線を向けていたのを思い出し、バルドに訊ねる。彼も気にはなるらしいが、理由はやはり分からないようだ。

「すみませーん、ちょっと寝坊してしまいました……」

「殿下、自分がついていながら申し訳ありません……」

 そうして少し時間に遅れてやってきた水将のラルスと、その補佐官であるカイが謝罪と挨拶をバルドにしながら、通訳であるリリーに目を向けてしばし沈黙する。

 やはり痣が気になるのかふたりとも視線がリリーの首元にあったが、両者それについては何も言及しなかった。

「じゃあ、雷軍から社の偵察に行くのはあたしと殿下だけで、他の護衛は水軍から用意するんですね。出立は五日後でこちらとしても問題ないです」

「うん。そういうことでよろしくお願いします。悪いけど、殿下とふたりきりで話したいことがあるんだけどいいかなー?」

 大まかな日程や編成の話の後にラルスがそう言って、リリーはバルドを見やる。

 はたしてこの将軍ふたりでまともに会話が成り立つかどうかは微妙なところだ。それに昨日の今日でラルスが自分をバルドから遠ざけるように思えて、少々不愉快だった。

「あたし、いなくても大丈夫ですか?」

「んー、自信ないけど、まあ内緒のお話をしたいからね。カイ、音、遮断して外で待機お願いするよー」

 どうやら追い出されるのは自分だけでないらしいものの、そこまで慎重になる話題というのは気に掛った。

「……リー、外で待機」

 バルドの方は何の話なのか分かったらしく、リリーは彼の命に素直に従うことにした。部屋の外に出ると、『杖』の魔道士であるカイが背に装備してある杖を手に取る。

 カイの持つ魔術媒体となる杖は、樫で出来た長い棒状のもので両端は鉄で覆われている。棒術の使い手でもある彼は、近接戦もこなせる前衛型の『杖』の魔道士だ。実際は指揮官という立場でもあるので、後衛でいることがほとんどだが。

 彼が杖を振り下ろして床を打ち付け、音を遮断する壁を作るの動作を眺めてリリーは灰色の魔道士を思い出す。

 またあの魔道士が出てくるのだろうか。

「……嬢ちゃん、昨日の今日で俺らへの当てつけかもしれねえけどな、そういうのは出来るだけ隠しとけ」

 一応双剣の柄に手をかけているリリーは、カイの指摘に訝しげな顔をする。

「当てつけってなんですか? 大した怪我じゃないのに、なんでみんなこれ気にするんです?」

「……いや、悪い。てっきりあれかと思ってな。そんなとこに怪我なんて何やってたんだ」

 カイが口元に手を当てて勘違いを恥じらいつつ、リリーの痣をちらりと見る。

「昨日、クラウスに組み伏せられて吸われただけです。……あ、口止めされてないから縁談の話、クラウスにしましたから」

 素っ気なく返すとカイが困惑したようにしばし考え込む。

「ちょっと待て。嬢ちゃんとクラウスの奴は元からそういう仲だってことか?」

「そういう仲ってなんですか?」

 訳が分からないとリリーは噛合わない会話に眉を顰める。

「…………嬢ちゃん、男にそういう痕をつけられる意味知ってるか?」

「意味? 知りません」

 カイはまた沈黙してひそひそと教えてくれる。

「なんでこれであたしがクラウスの所有物になるんですか」

 さっぱり理解出来ないと聞き返すと、さすがにカイも困った顔で言葉を濁しながらも、具体的に教えてくれた。

 教えられたリリーは首元から耳まで赤くなって固まる。

「嬢ちゃん、殿下にも何も言われなかったのかそれ」

「……ば、バルドも意味、知らないと思います」

 リリーは頭の高いところで結い上げていた髪を一度下ろして、痣が隠れるように首の横あたりで一つ結びにして胸の前に流す。

「これで見えませんか」

 さすがに羞恥でカイと顔をあわせられずにリリーはうつむいて訊ねる。

「おう。見えねえ。ああ、あれだな。嬢ちゃんと殿下が清い仲だっていうのはよく分かった。嬢ちゃん、以外と危なっかしいな……」

 カイの呆れた声にリリーは双剣の柄をきつく握る。

「……そうですね。あたしが邪魔なら邪魔ってはっきり言ってくれたら良かったんですけどね」

 半眼で睨むとカイがため息を零す。

「邪魔、なあ。誰にとっても嬢ちゃんはそういう立ち位置だと思うぞ。どっかのお偉いさんの落とし胤の可能性が高くて、あの殿下を手懐けてるんだ」

 カイの言い方が面白くなくてリリーは黙り込む。

 そうやって誰もがバルドのことを何も知らないで、扱いづらい猛獣だという言い方をするのは嫌いだ。かといってラインハルトのように、全部理解して利用する輩はもっと大嫌いだが。

 補佐官ふたりの会話が途絶えた頃、背後の扉が開かれてカイが張っていた結界を解く。

「お待たせしましたー。さあ、あとは帰ってのんびりですね。では、殿下、失礼いたします」

「いっとくが、のんびりできねえからな。では」

 先にラルスが軽く頭を下げて身を翻し、カイがきっちりと腰を折って上官の後を追う。

「バルド、何の話だったの?」

「……神器について少し。リー、髪型が違う」

 バルドがラルスとの話の内容はさして喋らず、リリーの髪型が違うのを不思議そうに見る。

「う……こうしておいたら痣が見えないでしょ」

「見えない。なぜ」

 急に隠すことを疑問に思うバルドの袖を引いて少し屈んでもらって、リリーは顔を真っ赤にしながらカイから教えてもらったことをごにょごにょと伝える。

「と、いうことらしいのよ。後であの駄眼鏡に文句つけてやらないと」

 リリーはバルドから顔を離して怒りと羞恥で赤面したまま憤る。朝からとんだ恥をかいてしまった。

「…………すぐ消した方がいい」

 一方バルドも不機嫌さで凶悪さが増した顔で言う。

「でも、痣って、魔術で消せたっけ? 仕方ないわね。統率官に聞いて見るわ」

 『玉』の魔術は治癒ができるとはいえ、そこまで万能でもない。折れた骨は治せないし、多量の出血をしてしまうと手遅れになることが多い。せいぜい痛みを和らげ。傷の治癒を早めるぐらいである。

 そうしてリリーは『玉』の統率官への元へ赴き恥を忍んで問うたが、痛みもなく数日で消える程度の痣は魔術を使っても効果がないとの返答だった。

「最悪だわ……」

 そうしてクラウスもその日は兵舎に顔を見せず、リリーはやり場のない羞恥心と怒りを抱えた一日を過ごすことになるのだった。


***


 そして三日後。思わぬ事態になっていた。

「ちょっと、この駄眼鏡! どうしてあたしとあんたが結婚することになってるのよ!」

 リリーはバルドの執務室にやってきたクラウスに、開口一番怒鳴りつけていた。

 バルドがラインハルトから、クラウスとリリーが婚約したという噂が出ていると聞いたのだ。ラルスが何かしたのかと思えば、当のクラウス本人が噂の発端であるというのだ。

「そう怒るなよ。付き合いも長いことだし、リリーに求婚したって知り合いの何人かに話しただけだぞ。嘘は言ってない」

 しれっと答えて長椅子の向かいの席にクラウスが座る。

「じゃあ、なんであたしが求婚受けたってことになってるのよ」

「噂ってそういうもんだぞ。尾ひれも背びれもあれこれついてくる。まあ、ちょっとそういう風に仕向けたことは否定しない。痣、まだ残ってよな」

 だいぶ薄くなったとはいえ、まだクラウスにつけられた痣を髪で隠しているリリーはこういうことか歯噛みする。

 昨日やっと顔を見せたクラウスに文句をつけたときは、ほんの出来心の冗談と返されたので鳩尾に遠慮なく拳を叩き込ませてもらったが足りなかったらしい。

「すぐに、否定」

 リリーの隣で遅い昼食を取っていたバルドが低く唸る。

「別に困ることないだろ。これでリリーを養子にしようって奴らは減る。……俺も兄上の件があるしな。義姉上誑かしてフォーベック家の跡取りになった、なんて言われてるから、その辺りをどうにかしときたくてな」

「あんたの日頃の行いのせいでしょうが。なんであたしが協力しなきゃいけないのよ」

「その分、見返りがある。状況を見て近いうちに結婚するってことにしとけば、困ることはないだろ?」

 クラウスがバルドを見やって首を傾げる。

「…………ない」

 そして思い切り不服そうに言う。

「ああ、もう。ならこんなまどろっこしいことしないで、最初からそういう風に言いなさいよ」

 確かに婚約止まりならそう大きな問題は感じないのだが、やり方が気に食わなかった。

「いや、そっちの方が信憑性も増すし、面白いかと思ってな」

 クラウスが意地悪く笑む。

「あんた、性格前より捻れてきてない?」

「元からこうだけど思うけどな。じゃあ、婚約ってことでいいか?」

 確認されてリリーは悩む。本当に自分に不利益が被らないと言い切れない以上、話に乗るのは躊躇われる。

「困ることはない。だが、よくない」

 迷っている間にバルドが不機嫌そうにつぶやく。

「……問題があるの、ないの、どっち?」

「リーは婚約してもいい?」

「問題なくて、面倒事避けられるならいいわよ」

 とにかく誰かに自分とバルドの関係に、ごちゃごちゃと口出しされるのはごめんだった。

「ほら、リリーはいいってさ。お前に許可もらう必要は特にないよな」

 クラウスがそう言ってバルドと目を見合わせる。

 バルドがますます機嫌を損ねるのを見ながら、リリーはどうするべきか考える。

「じゃあ噂はそのまま放って置いて、あたしは聞かれたらそういう話もあるって適当に答えるっていうのは?」

「それでも十分だな。俺もいつ頃かは決めてないけど、そのうちするつもりってことで」

 婚約を明言することなく曖昧にぼかしていれば、実際に結婚しなくてもクラウスのこの性格と戦況でうやむやになっても大丈夫な気はするのだが。

「バルド、これなら問題なさそう?」

「…………妥協」

 納得しきってはいないが、かといって反対するほどのこともないらしい。

「じゃあ、そういうことにしといて。偵察嫌になってきたわ。『玉』の社の辺りはハイゼンベルク側だからそう戦闘ないだろうし、ろくに戦えもしない遠征って嫌ね」

 リリーは二日後に迫る出立を目前にして、すでに気力は萎えていた。バルドが一緒にいられるのはいいのだけれど、やラルスとカイのふたりと一緒に数日行動を共にするのは億劫だ。

「……早急に任務遂行」

 いつもなら同意しそうなバルドは今回に限ってそうでないらしく、やる気が見えた。

「さっさと帰って来てくれよ。俺だってお前らが留守の間だからって、軍の方にかかりっきりってわけにもいかないんだからな」

「あんたあたしらいてもいなくても仕事しないでしょ。帰って来たらあたしが『玉』と『杖』の統率官にどやされないようにしてよね」

 リリーはクラウスに文句をつけながらも、バルドの様子が気にかかった。

 何かを考えこんでいてほんの少し不安げでいる。こういう時は大抵ラインハルトが関わっている時だ。

 相変わらずラインハルトの容態は芳しくないらしいが、いつもの苛々として心細げな様子とは少し違う。

(なにかしら……)

 普段とは少し様子が違うバルドに、リリーは何か不穏なものを覚えるのだった。


***


 『玉』の社への偵察を翌日に控え、バルドは王宮に赴いていた。ラインハルトの私室にはラルスが先にいた。

「では、僕はこれで失礼いたします」

 ラルスはすでに用が済んだらしくのんびりとした足取りで出て行く。バルドは彼の気配が完全に遠ざかってから、寝台の上の兄の側に寄る。

「彼は例のクラウスとリリーの婚約に関しての話をしにきたんだ……すまないが、横にならせてもらうよ」

 長時間半身を起こしているのも辛いらしい兄が体を倒すのを、バルドは手伝う。ほとんど骨を触っているような感触だった。もうなんの重さも感じない。

 バルドは焦る気持ちを宥めて、ラインハルトの言葉を待つ。

「ひとまずはあのふたりは一緒にしておいた方が、余計な面倒が少なくてすむと彼と私の見解は一致した。具体的な予定が何ひとつないならいいだろう」

 ラインハルトもクラウスとリリーの婚約の噂は放っておくと決めて、バルドは落胆する。

 リリーにはクラウスとの婚約の噂が流れるのは、問題ないと言ったものにもやもやとしたものが残っていた。

 そう、リリーの首元にクラウスがつけた痕を見た時と同じだ。自分以外がリリーに触れた痕跡が残っているのは不愉快だった。

(所有物……)

 リリーは何にも縛られないし、誰かに隷属することなんてない。彼女が従うのは己の意志だけだ。

 リリーは誰のものでもない。もちろん、自分のものでもない。

「バルド、不服か?」

 ラインハルトに問われてバルドは首を横に振る。

 不服に思うところはあっても、理由は曖昧として上手く説明できる気がしなかった。

「ならばいい。ブラント将軍の皇家への忠は信頼していい。彼とは良い関係を築けるように努力しなさい」

 神器の捜索にラルスは協力することに決まっていた。あののろのろとした性格は苦手だが、兄の命ならば仕方ない。

「灰色の魔道士が発見された場所付近でのリリーの出自に関する調査も、多少の進展はあった。数カ所の村での目撃情報があり、どれもベリード山脈の麓に集中している」

「……その山脈に住む猟師が、リリーを皇都まで捨てに来た?」

 リリーの出自に関しては産着から猟師が身内にいるのではと思われていた。ラインハルトが言う山脈は『玉』の社に近いがあまりにも広大だ。

「可能性としてはそこが最有力だ……」

 ラインハルトが顔をしかめてうめき、胸の辺りを押さえる。

「兄上……侍医を」

 バルドは狼狽えながら近くに控えているエレンに声をかける。彼女はすでに動き始めていて、すぐに隣室から侍医がやってきてラインハルトを診る。

 ラインハルトの内臓はもう弱っていて、かろうじて心臓が動いている状態だ。

 じっとりと脂汗を浮かべて浅い呼吸をする兄の姿に、バルドは恐怖する。

 戦場でいくつもの命が凄惨に失われるのを見てきて、自分も多くの命を屠った。他人の死も、自分の死さえも敗者の当然の末路でしかないものでしかない。

 しかし、今、目の前で兄が死んでしまうなど到底受けいれられない。

 侍医がラインハルトに薬を飲ませるのを、バルドは強張った顔で眺めていた。

 ラインハルトが薬を弱々しく嚥下するのを侍医も固い表情で見守る。

 苦悶を浮かべていたラインハルトの顔が穏やかなものになって、呼吸も落ち着く。

「兄上……」

 バルドは心細さに瞳を震わせながら兄を呼ぶ。

「…………大丈夫だ。まだ、生きている」

 ラインハルトが掠れた声で返して、バルドは兄の脈を取っている侍医を見やる。

「ひとまずは、これで大丈夫でしょう。無理はなさらずにご静養下さい」

 侍医が告げる言葉にラインハルトがうなずく。

「エレン、後のことは任せた……」

「承知いたしました。バルド殿下、皇太子殿下のことは侍医に任せてこちらへ」

 エレンがラインハルトの私室から隣室へとバルドを案内する。

「殿下」

 そして新たに防音の結界を張ったエレンがバルドに向き直る。

「あの薬が効かなければ、皇太子殿下の心臓は止まってしまいます。次に発作を起こして、薬の効果を得られる保証もありません。一刻も早く、神器を見つけ出して下さい」

 普段からほとんど表情のないエレンの声は、坦々としているようで焦燥が隠しきれていない。

「必ず持ち帰る」

 病で苦しむ兄のために自分が出来るたったひとつのことだ。だがもし間に合わなければという怖れが胸を苛む。

 恐い。

 リリーを失うかもしれないと考えた時も、そうだった。目の前で失うのが恐くてラインハルトに言われるままに、彼女を離叛させることを選んだ。

 リリーはもうずっと自分の側にいるとは分かっているけれど、クラウスのことがやはり気がかりだった。

 ラインハルトに残された時間の猶予も少ない。

 バルドの心は不安の中でひどく揺れ動く。

 己の臆病さへの嫌悪は深まるばかりだった。



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