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島の南東部に位置する『玉』の社はハイゼンベルク領内で、前回よりごく少数で向かうことになった。
二頭立ての箱馬車がふたつと、わずか十六騎の護衛と少ない。
(こっちの方が参拝って感じがするわ)
リリーは馬車の窓から、麦畑や放牧された羊の群れなど、のどかな光景が流れるのを眺めながら思う。前回は参拝とは名ばかりの遠征で兵の数も多く、神器を背負ったバルドのお披露目もあったので馬車は使わなかった。
今回は平穏な地域とはいえ、偵察という名目にそぐわないのんびりとしたものだ。
「……嬢ちゃん、外ばっか見てるけど楽しいか?」
一緒に乗っているカイがぼやいて、リリーは彼を横目で見る。
「他に見る物、ないですし」
「そりゃ、こんなおっさんの顔見てるよりかは楽しいよな……」
用意された馬車は二台。てっきり自分とバルド、ラルスとカイの二組に分けられるかと思ったら、将軍同士、補佐官同士で分けられた。なにやらバルドとラルスで大事な話があるらしかった。
そしてリリーは途中で宿泊予定の屋敷までほぼ丸一日、カイと狭い馬車の中でふたりきりなのだ。
(……あたし抜きってかなり重要なことよね)
バルドがひとりで長く誰かと会話する時には、大抵通訳となる自分かラインハルトと一緒の時だ。前者の時もそこそこ込み入った話はある。後者の時はよく知らないものの、自分を交えたくない政治の話だろう。
だが今日はどちらも違う。バルドが嫌そうな顔をしつつも話をするのを先回しにもせず、苦手な他人と長時間密室にいるなどこれまでなかったことだ。
妙な不安感に、リリーの胸はざわついていた。
「嬢ちゃん、クラウスとは仲、いいのか?」
「……付き合いだけは長いです」
「結構、怒鳴り飛ばしてるって話聞いたけどよ、それなりに仲はいいんだな」
「会話に不自由しない程度には」
カイの質問に坦々とリリーは返していく。
「嫌われちまってるな、俺」
大仰にため息をついてカイがぼやく。
「別に嫌ってる訳じゃないです。変に誤魔化していろいろ聞いてくるから気に食わないんです。尋問なら尋問って言って下さい」
「だったら素直におじさんと話してくれるか」
「……ある程度は」
リリーが警戒心を隠しもせずに答えると、カイが苦笑する。
「クラウスとの婚約を承諾したアクス補佐官の意図はなんだ?」
わざわざ役職名で問われて、リリーは重々しく口を開く。
「承諾していませんし、断ってもいません。噂を否定も肯定もしないということです。ベッカー補佐官も、その話は伝わってますよね」
「聞いてる。そうだな。アクス補佐官としてはどっちでも選べるわけだ。バルド殿下にこのまま仕えるか、クラウスと一緒になって離叛するか。どっち選ぶか決まってるか?」
「……決まってます。離叛はしません」
「理由は?」
訊ねられてリリーは返事をするのをやめてうつむく。私情でバルドの側にいるというのは、カイ達にとっては都合が悪い。かといって忠誠らしい忠誠は今までみせたこともないので、言っても嘘くさい。
「……生き残りたい理由がないから、じゃ駄目ですか? 戦場でしか生きられないから、どうせなら戦って終われるところがいいんです」
自分でもどこまで本音と呼べるのか曖昧な言葉を返すと、カイが腕を組んで眉を顰めた。
「生き残る理由か。嬢ちゃんがやたら捨て身になって突っ込んでいくのは、死ぬためじゃなくて生きるためか」
ぼやくカイの言葉にリリーは、どうだろうと思う。
ただ楽しいのだ、戦場で剣を振るうのが。勝利は心地よい。そこに理性もまっとうな思考はどこにもなくて、ただ本能が求めるままに動いている。
「まあ、嬢ちゃんが離叛する気がないのは分かった。俺も似たようなもんだな。今さらひとりで生き延びる気もねえからな……」
箱馬車の中に重たい沈黙が垂れ込めて、リリーは再び窓の外に目を向ける。ちょうど林道に入った所で、どこまでも続く薄暗い林の奥を眺めるしかない。
ハイゼンベルク側で闘う魔道士達は誰もが、死に向かって行っている。死にたいのではなく、ただいつか必ず訪れる人生の終焉を戦場に定めているだけだ。
(……明日と帰りは、バルドと一緒かな)
リリーはバルドと一緒にいられない今、この瞬間が無性に寂しく思えて瞳を伏せる。
(最近ちょっと変よね、バルド)
ラインハルトの体調が芳しくないせいもあるだろうが、ここ数日いつも以上に言葉が少ない。一緒にいてもどこか上の空で、そのくせ離れようとすると行き先を必ず聞いてくる。
(クラウスとの婚約の噂も、何か気に食わないことがあるんだろうけど……)
お互い面倒事を避けるための手段だとして納得していると思ったのだが、不都合が出てきたのかその話題が出ると少々不機嫌になるのだ。
しかし不服があるのかと問えば、ないとバルドは答えるのだ。
「訳わかんない」
「何がだ?」
「……なんでもないです」
つい思考を声に出してしまっていたリリーは、照れ隠しにむすっとした顔で返す。
やがて林道を抜けるとレンズ豆やトマトの畑が見える。この近辺の景色は畑ばかりだ。日が傾く頃になれば城壁もない小さな家々が密集する街にたどり着いて、その中で一番大きな屋敷に馬車が止まる。
「バルド、お疲れ」
馬車を降りてバルドの側にやっと行けたリリーは、彼のうんざりしている表情に苦笑する。
「……疲れた」
ぼそりと返すバルドは屋敷の主が出迎えに来るとて、また煩わしそうに眉根を寄せる。ひととおり挨拶がすむと部屋へと案内される。
リリーは与えられた部屋で一息ついてからバルドの部屋に向かう。
「……まだ話し中なんです?」
しかし部屋の前には杖を持ったカイがいて、どうやら中でバルドとラルスは引き続き密談中らしかった。
「おう。嬢ちゃんは殿下になんか用か?」
「……別に大した用じゃないです」
ただバルドと一緒の時間を過ごしたいだけで、これといった用などなかった。
「嬢ちゃん。こんな時間に大した用もないのに殿下と部屋でふたりきりになるのはやめとけ。せっかくの婚約の噂の信憑性が薄れる。あとあんまり親密そうに話すのもな」
「そこまで徹底する気はないですから」
バルドと一緒にいることを制限されては、状況は何も変わらないではないかとリリーはむくれる。
「基本的にな、年頃の娘が男の部屋に日が暮れてからひとりで行くもんじゃねえんだ。嬢ちゃんにそんな気はなくても、男の方はその気になるかもしれねえからな」
「その気?」
間接的な言い方にリリーが聞き返すと、カイが面倒くさそうに後ろ頭をかく。
「ほんっとうに嬢ちゃん、その手の話全然分かってないんだな。その気っていうのはあれだ……」
カイにまたぼそぼそと説明されて、リリーは不可解さに眉を寄せる。
「……唐突に子供が欲しくなるっていうことですか」
「いや、まあ、それは本能的にはそうかもしれねえけどな、うん。別に本心では欲しくなくても、そういうことをしたいって思うことがあるんだよ。男は。酷い奴は相手の気持ちなんて気にせず、自分がしたいからってだけで無理矢理やっちまう奴もいる。…………俺はなんでこんなことを教えなきゃならなくなってんだ」
カイが自分の杖を抱えて長いため息をついて、リリーも身の置き所がなくなって恥ずかしくなってくる。
「……こんなことも知らないですいません」
「いや、まあ。こういうの教えるのは普通、女親とか姉妹とか……嬢ちゃん、女友達いないのか」
「いません」
友人と呼べる関係になれそうだったカルラという同い年の少女は、ディックハウト信奉者で今は檻の中だ。
「ああ。でもクラウスの奴とはそこそこ親しいんだろ。……いや、その手の話に疎いの知っててから嬢ちゃんに簡単に痕つけやがったのか」
カイがリリーの首元に目を向ける。クラウスにつけられた痣は、ほとんど見えないぐらいに消えていてやっと今日から髪を上げられるようになっていた。
「……あたしも、油断してましたし」
簡単にという言葉にあの時の悔しさを思い出して、リリーはむっとする。
「クラウスの奴こそ、ふたりきりになるときは気をつけとけよ。女癖悪いことぐらいは知ってるだろ」
「知ってます」
その辺りは昔面倒事に巻き添えを食らったことがあるので、十分に分かっている。しかしクラウスが自分にそんなことをしたいと思なんて、まったく想像がつかなかった。
「よし。じゃあ、食事の用意ができるまで休んでろ」
カイがリリーの頭をぽんぽんと叩いて自室へ促す。子供扱いされるのは面白くないとはいえ、実際カイとは親子ほどの歳の差があるので文句は言わずに大人しくリリーは部屋に戻った。
「……体よくバルドから離された気もするわ」
小さいが設えのいい部屋の長椅子に腰を下ろしてぼやく。そうしてカイに教えられたことを思い出して、じわじわとこみ上げてくるものがあって頬を赤く染める。
「こんなこと、ろくに知らない人間から教わるなんて……」
男女のあれこれは本当によく分からない。自分の無知さも、教えられることも恥ずかしくてたまらなくなってくる。
「……だから、そういう『お世話』もいるのよね」
以前剣の社に行ったときに、バルドの床の世話をどうするか侍女に訊ねられたことを思い出す。何をするかは分かってもどうして必要かまでは考えなかった。
(バルドもそういうことしたいって思ったことあるのかな……)
ついそんなことを考えて、これまで何も知らない頃にバルドと過ごしていた頃のことを坦々と思い出す。
「………………」
そして真顔でしばらく沈黙したあと、体温が一気に上昇してきて鼓動が早まる。
「あたし、何てことしてたんだろ」
どうしたら子供が出来るかちゃんと知って、バルドと子供の頃からしていた遊びが駄目かなんとなく理解して羞恥心も覚えていた。
だがあくまで『なんとくなく』だったのだ。それが今、やっといろいろきちんと理解できた。
「……でも、バルドもたぶんこういうこと分かってないわよね。分かってない。……だって、あんな嫌な感じしなかったもの」
バルドに噛みつかれたり舐められたりした時と、クラウスに痕をつけられた時とは全然違ったのだ。
「でも、バルドだからかな……」
彼に触れられて嫌なことは今まで一度もなかった。恥ずかしいと思うことはあっても、嫌悪感など一切覚えがない。
「……もう、これ以上は考えるのやめとこう」
頭の中がいろいろなものでぐるぐるとこね回されて、リリーは思考を放棄する。だが夕食時になってバルドとまた顔を合わすと、思い出してしまい気まずくなってしまったのだった。
***
夕食後、カイはラルスと共にふたり分の寝台がある広い客間にいた。
「殿下との話はうまく行ったか? 明日も嬢ちゃんの相手は勘弁だぞ」
「うーん、会話らしい会話にはならなかったけど、たぶん意思疎通はできてたんじゃないかな……君は若い女の子相手で楽じゃないですか。アクス補佐官、見た目は可愛らしいし。あ、それともおじさんと一緒であからさまにつまんなそうにされちゃいましたー?」
ラルスがへらへらと言うのにカイは口をへの字に曲げて杖でつつく。まったくもって、上官として威厳の欠片もない男だ。
「そりゃ、不機嫌だろうよ。……なんで、俺が年頃の娘に男と女のこと教えなきゃなんねえだ」
「それ、普通顔見知り程度の男がやっちゃいけないとおもうんだけどねえ。今日はどんなこと教えてあげたんです?」
以前のクラウスにリリーが痕をつけられた件についても、カイは報告していたので今回も同じように説明した。
喋っている内になぜ自分があんなことを教えねばならないのかと、再び脱力感が襲ってくる。ラルスの方は呆れ笑いを浮かべながら聞いていた。
「これで、バルド殿下とアクス補佐官の関係はすぐに跡継ぎどうこうということにはならなそうでよかったです。クラウスとも何もないでしょうねー。そこまで知らないってなると」
「まあな。クラウスの奴ならとっくに手、つけてるだろうからな。ただ、殿下の方がどうかって話だ。まさか殿下も殿下でなんにも分かっちゃいねってことはねえよな」
きちんと教育を受けた皇族で男女のことに疎いとはさすがに考えたくない。そもそも結婚して子供がいてもおかしくない年齢のリリーが、あそこまで無知とは思いもしなかった。
「いやさすがにないと思うけどねー。あのふたりの関係はカイから見てどう思います?」
「仲がいいのは確かだろ。だから殿下の部屋に来たんだ。ただ殿下の方がまったく手出ししてないっていうのがなあ。女として興味がないか、大事に可愛がってるかのどっちかだろ」
「ですよねえ。僕も殿下にそれとなーく、アクス補佐官とクラウスをゆくゆく結婚させたいって打診したら、すっごく機嫌悪くなっちゃって」
ラルスが空笑いをするのに、カイはやはり後者かと顔をしかめる。
「引き離すのに苦労するぞ。ちっとばかし可哀相な気もするしなあ」
外から見ていてもあのふたりが仲がいいのはよく分かる。男女の仲というよりは、野良の獣が寄り添っているのに近い雰囲気だが。とにかくどちらかが主や従でなく、ひっそりとふたりだけの縄張りを築き上げているのを壊すのは不憫にもなる。
「かといって、バルド殿下がいつまでもアクス補佐官を通してじゃないと、会話もままならないじゃ困るんですよねえ。ただの孤児ならまだしも、皇家の血を引いてる可能性を考えるとなおさらねえ」
「……実際嬢ちゃんが皇家の血統っていうなら、バルド殿下とくっつけちまった方が俺はいいと思うんだけどよ」
リリーの出自は皇家の血脈の可能性があり今回の偵察はそれを探るためでもあると、カイはラルスから聞いていた。彼女の魔力の高さを考えれば、十分にあり得る話だ。
そうならば皇家の血をより濃くするためにも、バルドとリリーの婚姻が妥当に思えた。
「アクス補佐官が皇家の血統と仮定しても、ハイゼンベルクに近いか、ディックハウトに近いかでも違いますしね……」
ラルスが頬杖をついてカイを見る。
「どちらも遠い第三の皇家の血統となるのが一番厄介かなー。皇太子殿下もアクス補佐官の取り扱いには困っていらっしゃる。今はね、ハイゼンベルク家とディックハウト家、どっちが正統な皇家の血統か争ってるわけなんだ。そこで新しい皇家の血統を迎えるってなるとね、不純物が混ざった違和感がでるんだよね」
「違和感、なあ。あっちもこっちもで皇家の血筋ですつって出たら確かに訳わかんなくはなるな」
「表に出てこられない何かがあるから隠れてきたっていうなら、その血を受け入れるのはやっぱりよくないですよねえ……」
いろいろややこしい事情が裏にあるのは違いない。
「お前はハイゼンベルク家以外の皇家の血統は正統とは認めたくないんだろ」
「認めたくない、じゃなくて認めないんですよ。ブラント家は皇家がふたつに別れたときからずっと、ハイゼンベルク家を支持してきたんですから。僕個人としても皇家復権をなそうとしている、皇太子殿下につきたい」
この内乱以降でもっとも君主たらんとしているラインハルトを、カイも支持はしているし敬服もしている。しかしその体はもう限界に近いという話だ。
だが、たったひとつだけ回復の手立てがあることも、カイはほんの数日前にラルスから聞かされていた。
「本当に、神器にそこまでの力があるのか?」
神器が不明なことも宿るとされる力も、いまだに信じ切れずにいる。五十年も隠し通して皇都を占拠し、正統性を主張し続けたというハイゼンベルクのどこに正義があるのかすら見えなくなってくる。
(……そんなもん、はじめっからねえか)
真実を聞かされたからといって、カイは寝返るつもりにもならなかった。自分の死に場所はもうこちら側だと決めている。
だからラルスも重要機密を自分に打ち明けたのだ。ラルス自身も神器のことを含めて教えられたのは最近のことらしいが。
「……皇太子殿下も大きな望みをかけているわけではないと仰っていましたからね―。でも、僕は命をかけるなら皇太子殿下がいいなー」
ラルスの口調はいつもながら軽薄であるが表情は切実そうだった。
「だが、叶わなかったら、バルド殿下だろ。それでもついていくのか。お前は?」
後を担うバルドは魔道士としての力は頂点に立つに相応しい。だがそれ以外となると問題が多すぎる。
「ついていきますよー。演習や実戦においてもバルド殿下は戦闘能力が突出していることばかり目立ちますが、状況の判断、立てる策も優れている。皇太子殿下のご教育の賜でしょうね。ただ問題はやはり他者を必要以上に拒絶して、アクス補佐官にしかお心を開かない。兵達はあの戦闘能力だけでもまだ従えられるでしょうけど、文官はそうはいかないですよねー」
「で、結局嬢ちゃんは血統がどうだろうと邪魔ってことだよな。だけどよ、無理に引き離すと余計に俺ら嫌われるぞ」
「そこですよねえ。だから皇太子殿下も苦労されている」
ラルスがやれやれとため息をつく。
「この先ハイゼンベルク家が永らえるためにも、皇家を中心にまとまっていかないといけませんから、そこはなんとかしないといけませんね」
「……ラルス、お前、まだ勝てると思ってるか?」
敗戦が予期される状況だというのに、ラルスの言葉はハイゼンベルクの繁栄をまだ諦めていないかに聞こえる。
「……寡兵しか残されていなくても、皇主様の血脈さえ繋げられれば再興はかないます。ほんの小さな子供を玉座に座らせて、一臣下でしかない宰相が実権を握るなど皇祖へ侮辱であり、背徳行為です。いずれ本物の皇主を望む声が大きくなるはずでしょう」
ラルスの声には侮蔑と憎悪、そうして皇家への忠心が言葉のひとつひとつに滲んでいる。
へらへらとだらしない態度でいながらも、彼の忠誠心は盲信に近いほど強い。
「そうか。そうなるといいな」
カイは静かに返答する。貴族達の中でもラルスのように、魔力を皇祖の恩恵として神聖視する者は多い。
「……カイは、そこまでする気はないですか。君が裏切らないのはもちろん分かってますよ」
「俺は皇主様よりお前についていくっていう方が近いからな。俺が死んでもバルド殿下とお前だけは生き抜いてくれ」
「カイは時々死にたがってるように見えるから恐いですねー。いっそ再婚でもしたらいいのに」
ラルスが苦笑して、カイは口を引き結ぶ。
「しねえよ。今さら。てめえこそいい加減身を固めて、ちったあ落ち着け」
「いやあ、僕はまだ先でいいですよ。もう寝るよー。あ、明日は君は僕と一緒ですよ。しつこいのは嫌われるからねえ」
ラルスがあくびをひとつしてローブを脱いでさっさと寝台に潜り込んだ。
カイは寝台に腰掛けたまましばらくじっとしていたが、諦めたため息をついて蝋燭の火を消した。
***
翌日、リリーはバルドと同じ馬車に乗ることになってほっとした。しかしいざ狭い箱馬車の中でふたりきりになると、緊張してしまっていた。
あまりバルドを目立たせてはいけないらしく、窓は開けられていても紗がかけられていてただでさえ車内は暑い。
そんな中で向かいに座るバルドは目を伏せて寝始めていた。膝がぶつかりそうなほど距離は近く、彼の顔もよく見えて体温はさらに上昇する。
(気にしない。こんなこと気にしたってしょうがないじゃない。だいたいバルド、普通に寝てるし)
目の前にいるのはいつも通り、自分の前でだけ気を緩めているバルドだ。自分もこのまま寝たり、外の風景をぼうっと眺めていればいいのだ。
なのにバルドの端正な顔ばかり見てしまう。普段は表情で怖がられることが多いが、寝顔は整った目鼻立ちや、睫の長さがはっきりと分かる。
薄く開いた口元に、初めて口づけを交わした日を思い起させられる。
最初に甘い匂いがするとバルドが言って、自分の首や顎に唇で触れられた。いつもの遊びと同じようで、ほんの少し違った結末。
「リー、暑い?」
急にバルドが紫の瞳を向けてきて、いろいろ思い出して赤面していたリリーは動揺する。
「う、うん。ちょっと暑い。寝てたんじゃないの?」
「少しだけ寝た。リーの視線、気になって起きた」
元から視線や人の気配に敏感なバルドなので、すぐに起きてしまうのは仕方ないことだ。とはいえそんなにも自分は彼をじっとみていただろうかと、そわそわしてしまう。
「……ねえ、バルド、あたしが日が暮れてからバルドの部屋にいっちゃいけないって言われたけど、なんで駄目かバルドは知ってた?」
そしてリリーは思い切って、しかしながら遠回しにバルドに訊ねてみる。
「…………不明。言ったのはクラウス?」
バルドが考え込んだ後にそっと目をそらす。何か隠してることがある時の仕草である。
「ベッカー補佐官。知ってるなら知ってるで隠さないでよ。その、そういうこと考えたことある」
さすがに面と向かって話すことはできずに、リリーは座席に目線を落としてぼそぼそと問う。
バルドからの返事はなかなかこなかった。
「……ある」
伏し目がちにバルドが答える。聞いたはいいものの、だからといってその後のことを全く考えていなかったリリーはただ狼狽えるばかりだった。
「リーは触られるのは嫌がる。俺はリーが嫌なことはしない。したくない」
静かにバルドが言って、リリーは顔を上げる。彼は不安げで何かを堪えるような面持ちでいた。
いつもそうだ。バルドは自分が本気で嫌がることはしない。裏を返せば自分が言うことを全部受け入れてくれている。
「知ってる。……あたしはバルドが嫌なことしてない?」
ただそのことに甘えすぎて気付かないうちに、バルドに嫌な思いをさせていたのではないかと不安になった。
「していない。リーは悪くない」
バルドの態度に嘘は見られなかった。しかし何か引っかかりがあるのか、瞳には影があった。
「言いたいことあるなら言ってよ」
「リーは、するのは嫌か」
ぼそりと目線を合わせずにバルドが言う。
「し、したいとかしたくないとか、考えたことない。最近、知ったばっかりだからまだあんまりよく分かんないし……」
背中にぐっしょり汗をかきつつリリーはしどろもどろになる。
本当に、バルドがしたいと思っていたら、どうするつもりなのかまで考えが至っていなかった。
「バルドは、できないと嫌?」
だけれど、彼がどうしてもと望むなら受け入れられる気はするのだ。嫌ではなくて、知識に気持ちに上手くついていかないだけなのだと思う。
「リーが嫌ならいい。……子ができることもある」
バルドが悩ましげに言う。
「そうよね。こんな状況だし」
敗北したらハイゼンベルクの血筋が根絶やしにされるのは確実だ。自分達の間に子供ができたなら、ただ殺されるためだけに産まれてくることになる。
「リーは、子供は欲しいか?」
「それも、考えたことないわ。親を知らないあたしが親になるって、できそうもないし。バルドは?」
自分はずっと自分ひとりだけで、血縁というものにあまり関心もない。自分が子供を産むことなんて考えてみたこともなかったから、今までどうしたら子ができるか知らずにいたのだ。
「跡継ぎは必要なもの。だが、現状必要なし。俺も親はよく知らない」
バルドも母を産まれて間もなく亡くし、父親ともまともに会話らしい会話もしたことがない。ふたり揃って親というのが実際どんなものなのかは知り得なかった。
「……リーの血縁、偵察中に判明する可能性あり」
間を幾分か置いてバルドがそう言って、リリーは眉を顰めてどういうことか訊ねる。しかし、まだあまり詳しいことは話せないものの今回の偵察の目的のひとつらしかった。
「なんで隠すのよ。あたしのことなのに」
「状況は曖昧かつ複雑。……兄上の許可なく仔細は説明できない」
「結局、あたしの血縁はなんかややこしくて、政治的にも面倒ってことなのね」
ラインハルトが口止めしているならそういうことだ。そしてバルドの態度からすると、本当は血縁が分かりそうとも言ってはいけなかったことだろう。
「全部分かったら、あたしに隠さないで全部説明してくれる?」
追求したところでバルドを困らせるだけだと諦めて、釘だけ刺しておくことにする。
「リーが全て知りたいなら説明すべきと、兄上にお願いする」
駄目だと言われても交渉はしてくれるらしいと、リリーは少し安心する。だが真実に近づいていることに対する不安は深まるばかりだった。
「あたし、自分が誰でもバルドの側にずっといるから」
自分が何者であってもこの気持ちだけは、誰にも干渉されない自分自身のもので揺らぐことはない。
「……俺も、リーとずっと一緒にいる」
バルドが片手でリリーの頬にそろりと触れる。リリーはそっと彼の手に、自分の掌を重ねて安心した心地になる。
互いに静かに視線を合わせて、そろりと顔を近づける。
この瞬間、リリーは恥じらいを感じなかった。これがごく当然に今、すべきことだと思った。
しかし唇が重なり合う寸前、馬車が急に止まってふたりの間にあった陶酔に似た空気はかき消えた。
「……何かしら」
リリーはすぐさま剣の柄を握って臨戦態勢になる。バルドも同じだった。
「殿下、申し訳ありません。荷馬車が横転して道を塞いでおりますのでしばしお待ち下さい」
そして護衛からすぐさま声がかかってふたりは緊張を解き、顔を見合わせる。
「敵襲ってわけじゃないみたいね。……暑いし、様子見に行ってみる?」
まだしばらくはこの狭く暑苦しい馬車にいなければならないのに、待ち惚けはくたびれるとリリーは外に出ることにする。
「あ、バルド、あんまり目立っちゃいけないんだっけ」
「……俺も外に出たい」
「まあ、ちょっとぐらいはいいわよね」
外は涼しい風が吹いていて、ふたりは心地よさに強張った体を解して一息つく。前にはラルスとカイの乗る馬車も止まっていて、彼らも外に出ていたらしかった。
「なんか車輪が石に引っかかったらしいですよー。怪我人はないそうです」
ラルスが報告する先では道を三分の二ほど塞ぐ形で幌付きの馬車が横倒しになっていて、地面には積み荷らしき豆類やトマトといった数種類の野菜が散乱していた。すでに護衛の魔道士数人ととカイが馬車を起こす手伝いをしている。
「すぐには通れそうにないわね。あたしも荷物を拾う手伝いしてくるわ」
リリーがそう言って行こうとすると、待機している別の魔道士に止められる。
「アクス補佐官、馬車を動かしたらすぐに出発しますので……」
「野菜、踏んづけていくの?」
いくらなんでももったいないのではと、リリーはバルドを見上げる。
「……野菜、高騰中。無駄にするべからず」
定期的に皇都の市を見回っているバルドが言うのに、護衛が戸惑った表情をする。
「じゃあ、拾うってことね。ブラント将軍、殿下がそう言ってるんで拾いに行きます」
「そうだねー。後でお金で彼らの損益は補償できても、食料は減るからね。みんなでやるよー」
そうしてバルド含めて全員で道に転がった野菜拾いをすることになった。すでに回収をしていた近所の農婦達が強面のバルドに怯えつつも、手伝いに来てもらったことが分かると幾分緊張をやわらげた。
誰もまだバルドが第二皇子であることは知らず、周りも教える気はなさそうだった。
「あの、あたしに何か……?」
リリーに籠を渡す三十半ば頃とおぼしき農婦が、何かにきづいたようにリリーの顔をまじまじと見ていた。
「あ、いえ申し訳ありません。昔、あなたそっくりな子を見たことがあったもので……」
「そう、なんですか」
さっきの自分の出自の話をされた手前、ただの他人のそら似とは思えずリリーは引っかかりを覚える。
「あの。いつ頃見たことがあるんですか? 本当にあたしにそっくりなんですか?」
「ええ。もう私が子供の時ですから二十年ぐらい前のことですかねえ。ねえ、母さん、母さん、ちょっとこっちきてよ」
農婦が腰の曲がった自分の母を呼びつけて、他の者達もなんだろうかとリリーの方に注目する。
「何か、お困りですかー?」
ラルスが愛想のいい顔で側に来て、バルドも一歩遅れてリリーの隣に立つ。バルドの姿に少々怯みながらも農婦の母娘はまたリリーの顔をじっくりと見る。
「ほら、あのどこから来たか分からない猟師の娘だよ、母さん。髪の色も目の色もこのお嬢様にそっくりだろう」
指揮する側にいるリリーを、貴族と勘違いしているらしい娘の方が母に問いかける。
「そっくりというより、同じだねえ。顔も本当に、よく似ている」
母の方もこくこくとうなずきながらリリーの顔を目を丸くして見る。
「うーん、そのお話しじっくり聞かせてもらえますかー。あとででもいいんで」
ラルスがにっこりと頼むのに、親子はかまわないとうなずく。リリーは無意識のうちにぎゅっと籠の端を握って顔を強張らせる。
おそらく自分の出自に結びつくものがあるのだ。
リリーはじわりと近づいて来る真実に、ただただ不安になるばかりだった。
***
その頃、皇都に残されたクラウスは王宮を訪ねていた。案の条ラインハルトと会うことはできなかったが、エレンと話をすることだけはできた。
書庫の中庭へ続く硝子張りの大扉は帳で覆われて、薄暗く蒸し暑い書庫の片隅でクラウスは書架にもたれてエレンと向き合う。
「皇太子殿下は今度は何を企んでるんだ?」
自分が留守番となったのは、知られたくないことがあるはずだ。宰相である父にリリーが神聖文字に見覚えがあるということは教えた。その後からどうにも動向が怪しい。
ラルスの父である典儀長官とも秘密裏に会談して、その後ラインハルトから横やりが入ったらしく不機嫌そうに今回の偵察の段取りを進めていた。
宰相家の跡取りとなったとはいえ、父には信頼されていないので仔細は教えてもらえなかった。
「灰色の魔道士の補足です」
「……リリーが餌、なんだよな。まあ、灰色の魔道士が重要っていうのはわかるけど、将軍ふたりも出してまで急がないといけないことか」
「あなたはご自分が機密情報を知ることのできる立場にいとお思いですか?」
エレンに冷ややかな視線を向けられて、クラウスは肩をすくめる。
「思ってない。エレンがその立場にいるっていうのも実はあんまり納得がいってない。ベレント男爵家はそうたいした家柄じゃない。なのに、なんでひとり娘の君を皇太子殿下は側近に取り立ててるのかって、前から不思議なんだよな」
片田舎の小領主の娘が皇太子の側近となっていることこそ不可解だ。
「皇都の他の貴族の方々とのしがらみもありませんから」
「一番妥当な答だな」
利害関係で貴族の思惑が複雑に縺れあう皇都で、まったく新しい主従関係を築くための理由としては分かりやすい。しかし、ならば他の誰でもよかったはずだ。
「じゃあ、リリーの出自の件で過去に候補の家に探りを入れてる様子がないのはどうしてだ」
クラウスは深く追求せずにエレンに新たな質問を投げる。
「……その件は慎重に進めてますので。私の独断でお教えするわけにはいきません。あなたは、リリー・アクスをどうなさるおつもりですか?」
「聞いてどうするんだ? いいだろ、婚約の噂だってそっちにも都合がいい」
「どちらにしろ、排除すべきものが一箇所にあるのは楽ですが」
エレンの歯に衣を着せない物言いにクラウスは苦笑する。
「俺もリリーも相変わらず邪魔者扱いか。だけど、皇太子殿下もそろそろまずいだろ。そうなったらあとは父上が好き放題するぞ」
「その時はその時です。あなたとお話しするっことはこれ以上ありません」
エレンが一方的に話をうちきってひとりだけで出て行く。クラウスは引き止めもせずにひとり思案する。
「……リリーの出自は機密扱い」
情報が得られると思ってはいなかった。知りたかったのはいったいどの程度までリリーの件が重要事項となっているかだ。
ハイゼンベルクからリリーを連れ出すにしても、やはりそこは把握しておかねばならない。
「……神器、か」
灰色の魔道士は神器の祀られた社の周辺をうろつき、神聖文字も神器が納められた社や関わるものに記されているのがほとんどで、ベレント男爵家は五十年前に神器の移送に携わった。そして父が皇家派である典儀長官とわざわざ連携して、次男のラルスを偵察に行かせている。
神器絡みで何か動いているには違いないだろうが。
「帰って来たリリー辺りに探りを入れればいいよな」
駆け引きというものがまったくもって苦手なリリーからは、明確な答でなくともなにかしらは得られるだろう。
「リリーをどうするか、か」
バルドと一緒に死なせるつもりはないし、今は欲しいと思っているが手に入れた後はあまり考えていない。結婚話が出てそれもいいかもしれないと、漠然と思っているぐらいだ。
「これといって特別ってこともなかったのにな……」
押し倒したときに掴んだ腕も、押さえつけた体もよく知っている少女達と変わらなかった。
華奢で折れそうな見た目なのに、触れればふんわりと柔らかいことも、顔を寄せた首元の汗の匂いに混じる、甘ったるい女臭さもこれといって特別なものではない。
ただ白い肌に吸い付いたときに、やけに気分が高揚した。
リリーに、あんなにも容易く痕をつけられた。それだけ自分に対しての警戒心は緩んでいるのか、あるいは侮っているのか。
どちらにせよ彼女の頑なな何かを崩せている気がした。
あのまま剣帯だけでなく、全てをはぎとってしまおうかと一瞬考えてしまうほどに気持ちは昂ぶった。
組み伏せた時はそんなつもりはなく、ただの悪戯心と結婚話を上手く利用するためだったのに。
(抱きたいとか思ったことなかったんだけどなあ)
リリーに欲望を覚えたのはあれが初めてだ。
誰でもいいから抱きたいという今までの生理的な欲求とも、まったく違うものだった。リリーに他の女の子と違う特別なものなどなかったのに、何が違うのだろう。
(リリーが好き、だからかな)
まっとうに恋などしたことがないから、相変わらず自分の気持ちがなんであるかはっきりしないままだ。
だが今まで知らなかった感情を呼び起こされて、リリーの存在が自分の中で膨らんでいっていることだけは感じている。
そう考えていると、無性にリリーに会いたくなって、クラウスはまるで夢見がちの少女のような自分に苦笑するのだった。
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