リリーの顔に見覚えがあると言った農婦の話では、二十五年ほど前に猟師と思しき父親とその娘が一時期よく市に現れていたという。数年すると姿が見えなくなったらしい。父と娘も髪色や瞳が同じで、面立ちも一目で親子と分かるほど似ていたらしい。

 道に散らばった荷物を拾い集めその話を聞いた後に再び馬車に乗る時、バルドはリリーとではなくラルスと一緒に話すことになった。

「灰色の魔道士が目撃されたあたりと一致してますし、いくつかの市にアクス補佐官を連れて行けば見覚えがあるっていう人が他にも出てくるかもれませんねー」

 のんびりとそんなことを言うラルスにバルドは首を縦に振って応じる。

 リリーが孤児院に捨てられていた時に身につけていた産着から、猟師が身近にいたという予測がたっていた。灰色の魔道士との関わりといい、年齢からいっても猟師の娘がリリーの母親である可能性は高い。

(後でも問題なかった……)

 しかしこれぐらいの話をするなら、わざわざラルスと同じ馬車に乗る必要性もそうなかく思えた。

 リリーと一緒にいた方がよかった。

 話をじっと聞いていたリリーの不安と緊張を隠し切れない硬い表情を思い返して、バルドは眉を顰める。

「殿下、何かご不満が……」

 笑顔を保ったままラルスが首を傾げる。

「ない」

 バルドはさらに眉間の皺を深くして低く答える。あと二、三時間ほどの道程とはいえラルスと一緒は気が滅入る。

(……ベッカー補佐官はリーに余計なことを教える)

 リリーがカイと一緒だということも、あまりよくはない。自分が密やかに抱いていた衝動を知られてしまったのには困った。正直に答えるかどうか迷ったが、リリーが嫌だと言えば自制がきくかと思ったのに、いいとも嫌とも言わないのでやはりどうしていいか分からない。

(リーは俺が嫌なことをしない)

 リリーに嫌なことをしていないかと訊ねられて、焦りのような苛立ちと不快感を胸の中に抱えていることは隠した。

 ただそれはリリーのせいではないのだ。

 クラウスとの婚約話が出て、リリーにつけられた痕もあって、クラウスがリリーを抱いたのだと周囲が誤認してしまうのが嫌だった。ふたりが一緒にいる時と同じ、嫌な気分になった。

 互いが一番の理解者で、他人に触れるのも触れられるのも苦手な自分達が安心して身を寄せ合えるのもお互いだけ。

 触れ合うことに関しては少し変わっていまったが、それでもリリーは時々自分に身を寄せてくれる。彼女が不安な時や寂しい時は、昔と変わらず自分から寄り添ってくるのだ。逆の時もリリーは触れるのを許してくれる。

 今も昔と根本的には変わらない。

 リリーがクラウスに触れられたのは彼女が許したわけでもなく、ふたりの関係も周囲の勝手な勘違いだ。リリーがクラウスとふたりきりになるのも、職務のためや情報が必要な時だけなのだ。

(リーは俺のものではない、だがリーの特別は俺だけのもの)

 曖昧だった不快感を手繰ると『所有物』という言葉が引っかかってきた。人は自分のものを奪われると不快になるのだと、やっと自分の不快感の正体を知った。

 思い返してみれば以前から、自分のものという感覚はあったのだ。

 リリーの笑みを誰にも譲りたくないと、自分が感じていたのを思い出してまた少し分からなくなっていた。

 何かこれではまるでリリーの全部が自分のものだと、思っているかのようだと。

「バルド殿下、やっぱり何か不愉快なことでもー?」

 考え事をして一層凶悪になったバルドに、ラルスの笑顔もさすがに引きつっていた。

「……リーがひとり」

 とにかく今は一番リリーの近くにいたいのに、そうできないことへも不満も募ってきてバルドは前言撤回する。

「いやー、僕の補佐官が一緒ですよ……」

「不足」

「…………ベレント男爵のお屋敷まであと少しですから、ご心配なさらなくても」

 上手く話が通じない上に、このまま馬車を止めて到着が遅れても仕方ないとバルドは諦める。

「もういい」

 そうしてバルドは寝たふりをして、不満をこらえることにした。

 

***


 偵察の拠点となるベレント男爵家に到着して、やっと外の空気を吸えたリリーはバルドの姿を真っ先に探し求める。

 バルドの方も出迎えには目もくれずに自分の側にきてくれた。

「リー……」

「変よね。自分の生まれが分かるだけだっていうのに、どうしてこんなに落ち着かないんだろう」

 開けてはいけない扉を開こうとしているような感覚がずっとしている。不安と怖れで平静さを保っていられない。

「他に覚えている。神聖文字以外にも嫌な事」

 バルドが見下ろして、神聖文字以外にも捨てられる前のあまりよくない記憶が残っているのではないかと案じる。

 確かにそのことを感情が思い出しているのかもしれないと、リリーは無意識のうちに自分のローブの胸のあたりに手を当てる。

「殿下ー」

 ラルスの呼ぶ声にリリーとバルドはひとまず屋敷へと入ることにした。

「皇太子殿下の侍女……エレンだっけ? の実家よね……」

 リリーはいつもラインハルトの側で静かに佇んでいるエレンのことを思い返しながら、想像していたよりもこぢんまりとした石造りの屋敷を見上げる。

 皇太子付きの侍女の生家というからには、ベレント男爵家はもっと仰々しいものだと思って身構えていたが見る限りでは質素だった。

「ようこそ、おいで下さりました」

 出迎えに来たベレント男爵はエレンとよく似た、落ち着いた風貌をしている。ローブを羽織り片手には杖を持っていた。

「えーと、さっそくあれこれお話したいことがありますのでー、カイとアクス補佐官は他の部下達と待機してもらえますかー?」

 当然バルドも一緒ということらしく、また話し合いから追い出されたリリーは眉を顰める。どうにもこの偵察に関して自分だけが閉め出されている気がする。

 だけれどバルドは自分に関することは、あとでちゃんと説明すると約束してくれた。今は信じて大人しくしているしかない。

「おう、嬢ちゃん、悪いがもう少し俺と一緒だ。……そう露骨に嫌そうな顔するなよ」

 カイがため息をついても、リリーはむくれた顔のままでいる。

「……ベッカー補佐官はあたしの監視役ですか?」

 なんとなくカイが自分の側近くにいるのは、そういう理由な気がして問う。

「やることないから、嬢ちゃんと一緒にいるってだけだよ。ひとりで休みたいっていうなら休んでいい」

「だったら演習、付き合ってくれますか? 疲れてなければですけど」

 自分の出自のことで気が塞いでくるばかりで、体を動かしたかった。的でもあればひとりでも訓練はできるが、相手がいるならいた方がいい。本当ならバルドに相手をしてもらいたかった。

「この暑い中、野菜拾いしてたのに元気だなあ。仕方ねえな、付き合ってやるよ」

 カイが背負っている棒状の樫の杖を握り、屋敷の使用人に演習場になる場所があるか問う。そして案内されたのは屋敷の裏庭だった。

 花壇や生け垣で飾られていた前庭と違って、裏庭は石畳が敷き詰められているだけの空間だった。屋敷を囲む高い塀や、外に続く裏門の重そうな鉄製の扉から見てここは緊急時の兵の詰め所にもなる場所らしい。

 まだ高い位置にある太陽が照りつけるその下で、リリーは双剣を抜く。

「よし、いつでもこい」

 カイが杖の先の鉄の部分を石畳に打ち付けて、リリーはならば遠慮なくと両の刃から雷撃を放った。


***


 どん、という衝撃音が響いて、屋敷の二階にあるベレント男爵の執務室にいたバルドを除くふたりがびくりと緊張を漲らせる。

「……補佐官達」

 ふたりの緊迫した表情を横目に、バルドは帳の降りた窓の向こうを顎で示す。

 魔術の気配はひとつは間違いなくリリーで、もうひとつはカイだろうとすぐに予測できた。演習ならば自分が付き合ったのにと、バルドは無表情のまま拗ねる。

「あー、本当だ。カイとアクス補佐官ですね―。殿下、よくお分かりになりましたね」

 ラルスが帳を開いて裏庭を見下ろす。

「襲撃かと思いました。なるほど、ただの孤児ではありませんね……」

 ベレント男爵も窓辺に寄って演習の様子に目を細める。

「彼女ほどの魔力を持っていて素性がまったく分からないなんて不自然なんですよねー。おまけに、神器の魔力に似たものがある」

 ラルスがバルドの背負う、グリザドの右腕と呼ばれる大剣を見やる。

「そうですか。しかし彼女の持つ剣が神器というわけではない。なんとも奇妙な話ですね。まずはうちの使用人達にもひととおり、アクス補佐官の姿を見せましょう。誰か知ってる者がでてくるかもしれません。私は残念ながら、見覚えがありません」

「見かけた人がいるならいいですねー。ところで、灰色の魔道士の件は何か進展ありましたか?」

「あいにくそちらに関しては行き詰まっております。何者であるのかも、目的も一切不明なままです。申し訳ありません」

 ベレント男爵が律儀にバルドへ頭を下げる。

「情報収集困難は想定内。やむを得ず」

 いくら目立つとはいえ、たったひとりの人間を捜し当てるのは困難だ。あげくに目撃された日と場所を並べても、二日かかる移動を一日でしていることになっていたりと足取りを追うことすら困難な状況だ。

「……アクス補佐官の件から手がかりになるものが出てくればいいんですけど、まだ灰色の魔道士とどう繋がってるかも分かりませんしねえ」

「神器発見が第一」

 リリーの出自も、灰色の魔道士も全ては失われた神器を見つけるためだ。

 そうして神器はラインハルトの命を繋ぎ止めるための、たったひとつの希望なのだ。今、こうしている間にも刻々と兄は死に蝕まれている。

 バルドは喪失の恐怖を思い出しかけて、すぐに目を逸らす。

 大丈夫だ。神器を見つけて持ち帰れば兄は元気になって、子供の時のように自分で歩くこともできるはずだ。

「そうですな。どうやら、勝負がついたらしいですね。使用人達にアクス補佐官の顔を確認するように命じましょう」

 リリーの右の剣は切っ先はカイの脇腹にあり、左の剣は振り下ろされた彼の杖を押さえつけていた。

「おやー、カイは負けちゃいましたか。アクス補佐官はやっぱり強いですね……カイー、アクス補佐官、ふたりともちょっといいですかー!」

 ラルスが窓を開けてふたりに声をかけた。

 その後すぐに一階の広間の椅子にリリーが座らされて、手の空いた使用人達が順繰りに彼女の容貌を確認することになった。

 バルドはラルス達が同席するので、隣室で終わるまでくつろいでいてはと勧められたのを断ってリリーの側についていることにした。

「早く終わんないかしら。見られるだけでも疲れるわ」

 十五人を超えたところでリリーが愚痴を零して、隣にいるバルドは罪悪感めいたものを覚えてしまう。自分も人にじろじろ見られるのは好きではなく、リリーがどれほどこの状況に苦痛を感じているかはよく分かる。

 リリー自身が己の出自を知りたいわけでもないのだ。自分とてリリーの生まれなど知らなくてもいい。

(これは兄上のため)

 神器を見つけてラインハルトを救うために、リリーに苦痛を強いている。この先に素性が分かっても、やはり彼女は知らなければよかった思うかもしれない。

 かといって神器のことはまだ口外できず、リリーを抹殺せんとした兄のためとも言えなかった。

 バルドはリリーの隣に佇んでただ成り行きを見守ることしかできない中、二十一人目となる厩の老人が部屋へと入ってきてリリーの顔に目を瞬かせる。

「見たこと、あります。もう四十年ぐらい前でしょうか。ベスギーの市でお嬢様に似た女を時々見かけました、幼い男の子を連れていて、まだ若い母親だったと……」

 時期と場所、親子関係が農婦とまったく違う話に、同席しているラルスが質問をする。

「彼女が市に何をしに来ていたか覚えてます? えーと、それと息子さんと彼女は似てました? 父親の姿を見たことはありませんか?」

「薬草や山菜を、売りに来ていたようです。ええ。ひとめで親子と分かるぐらいには似ていました。父親は見ませんでした」

 農婦の話と全く違うようでよく似た話だ。

 どちらも山で暮らしている風に見え、農婦も片親しか見たことがないという。親子なので似ているのは当然だが、どちらも似ているのだ。

「その息子っていうのが農婦が見た父親の方でしょうかね―」

 ラルスの言うことにバルドも同意見だった。老人が見た母親がリリーの曾祖母にあたるのなら話が繋がる。

 それからまた十人ほどがリリーの顔を確認したが、後は誰も見覚えがないということだった。

「あたしの素性って、結構大事なこと?」

 全てが終わった後にリリーが訝しげに訊ねてくる。さすがに彼女もラルスやベレント男爵の真摯さに疑問を覚えているらしかった。

「……重要」

 はっきりとした答を得られずにリリーが不服そうな顔をしていても、バルドはさらに細かなことは教えられなかった。

 全てが終わるとリリーとカイも交えてそのまま広間で明日の予定を話し合い、灰色の魔道士が目撃された場所へ赴き、リリーの容貌も一緒に確認するということになった。

「あの変な魔道士見つけるより、あたしの出自の方が優先されてない? だいたい、最初に聞いてた話と違うし……皇都の貴族が候補って言ってたのに、何代か前からこの辺りに住んでるみたいよね」

 晩餐を待つ間にバルドを呼び止めたリリーは状況に不安がる一方だった。

 彼女がこんなにも動揺するのは珍しいことだ。やはり神聖文字以外にも思い出したくない何かが心に刻み込まれているのかもしれない。

(リーが嫌なことはしたくない。だが、兄上を救わねばならない)

 相反する望みにバルドもどうしていいか分からなかった。深緑の瞳が縋るように自分を見ている。

「リー、知りたくないか?」

「……もう、決めたことだもの。今さら嫌だなんて言うわけじゃないけど。ごめん。そうよね。あたし、自分で決めたんだし、バルドも後でちゃんと教えてくれるって言ったんだから。ちょっと自分の部屋、見てくるわ」

 リリーが自嘲して侍女に客室の案内を頼みに行って、バルドはどうすればよかったのかひとりで立ち尽くして考える。

(一緒にいたら分かるかも知れない)

 そしてそう結論づけてリリーを追い駆けようとするのだが、ラルスに呼び止められて結局その日はこの後ふたりきりになれる時間は持てなかった。

 だがここまでくればリリーに神器のことまで話してよいのではないかと、ラインハルトへの報告に付け足すことだけはしたのだった。


***


 エレンは父からの手紙を眠るクラウスの傍らで読んでいた。

 無事バルド達は到着、リリーの出自も手がかりも見つかって順調にことは進んでいるとあって安心する。クラウスの動向が気がかりだが、父親である宰相も神器やリリーの出自については悟られぬように動いている。唯一の跡取りとはいえ、息子のことは信用しきってはいないらしい。

 エレンは側のサイドテーブルの氷水に手巾を浸して絞り、ラインハルトの汗が滲む額や首元をそっと拭く。窓を開けていても、夏の真昼なので暑いものは暑い。眠っている時ぐらいは苦痛が少ない方がいいと、氷を『剣』の魔道士に作ってもらっていた。

 ラインハルトは起きているよりも眠っている時間が長くなってきた。このまま目を醒まさないのではないかという怖れは、日々はっきりした形を持ち始めている。

「皇太子殿下、時間です」

 時計を見やって、エレンはラインハルトを起こす。彼自身もやはり目覚められないかもしれないと思っているのか、必ず起きている時間を決めていた。

 耳元で声をかけ、厚みのない肩を揺するとラインハルトがゆっくりと目を開く。

「……喉が渇いたな」

 掠れた声にエレンはすぐに応じながら、父からの手紙の内容を告げる。

「人手と時間を割くより、リリー本人を連れていくだけでことが進むとはな」

 ラインハルトが苦笑するのに、数年の苦労が一瞬で解決してしまったことにエレンも確かに脱力するもがあった。

「ですが、リリー・アクスと神器が繋がると予測できたのは最近のことです。そうでなければ、彼女をあちらまで連れて行くことなどなかったでしょう。彼女には目的を告げてもよろしいでしょうか」

 リリーの産着から身内に猟師がいただろうことは分かっていても、それ以外に手がかりは何もなかったのだ。『玉』の社近くと場所を絞りこめたのは、神器との関わりの可能性でてきたからにすぎない。

「ここまでくれば、下手に隠し通すより協力してもらった方がいい。バルドの頼みなら彼女も大人しく聞いてくれる。しかし、彼女の身内を見た者が見つかったのは偶然か、必然かどちらかな。必然なら私はまだ生きられるということになるだろうか」

「生きるのでしょう、あなたは」

 もはや全てを運に任せるとはいえ、ラインハルト自身に生きる気力がなければいけない。

(あなたはもっと強い方だった)

 初めて出会った四年前の春。この部屋で彼は車椅子の上で悠然と微笑んで自分を迎えて、田舎娘の自分に生きたいのだと告げた。

 奇蹟に縋っても生き抜きたいのだと言ったラインハルトは、誰よりも強く見えた。

 だが今は気力までやせ衰えて見える。ふとした瞬間に、しがみついていた生から手を離してしまいそうな危うさがあった。

「そうだな……。バルドも私の望みを叶えてくれるだろう」

 ラインハルトが言うのに、エレンは静かにうなずく。

「弟君には皇太子殿下が必要です」

 誰よりもラインハルトを必要としているのはバルドのはずだ。今までも、これから先も兄が彼にとっての全ての指針なのだから。

 自分もラインハルトを必要としている。

(……私は、なぜこんなにもこの人を必要としているのだろう)

 自分は、自分で成すべきことは決められる。なのに、ラインハルトの死が恐ろしかった。まるで自分の一部がもぎ取られてしまう気さえするのだ。

「ああ。バルドは私がいないとなにも出来ない子だから、な……」

 ラインハルトの体が不意に硬直して、彼は胸を押さえてもがき始める。

 エレンは常備することになった発作を鎮めるための丸薬を、ラインハルトの口に手早く入れる。そうして水を飲ませようとするが嚥下できずに、丸薬と水が敷布にこぼれ落ちる。

「なりません……皇太子殿下……」

 エレンは新たな丸薬をラインハルトの口に入れさせ、口移しで水を含ませる。

 薬が溶けてなんともいえぬ苦みが口の中に広がるのを堪えて、ラインハルトが全て飲み込めるまで口を塞いでおく。

 やっとのこと全て飲み込み終えても、ラインハルトは苦しそうだった。

「侍医をお呼びします……」

 エレンは声を震わせながら、急いでその場を離れんとするがすぐに動けなかった。この隙に、ラインハルトに何かあるかもしれない。

 しかし、動かなければ。

 そう思い移動しようとすると弱い力ながらもラインハルトに腕を掴まれた。

「……酷い、味だろう」

 弱々しく苦笑してみせるラインハルトは、幾分か楽になったかに見えた。

「ええ。もう少し飲みやすくしていただきます。すぐに侍医を連れてまいりますので」

 エレンは少し緊張を緩めながらも、足早に部屋の外に控えていた侍医を迎える。ラインハルトを診察する侍医がひとまずは、薬が効いていると判断してエレンは安堵のため息をついて、敷布の水気を取る。

「……手間を、かけさせてしまったな」

「これが、私のお役目ですから。どうか気になさらずお休み下さい」

 エレンは作業を無心にしながら、ラインハルトに休息を促す。

「ああ。また時間が来たら起こしてくれ」

「必ず起こします」

 いつものやりとりをして、ラインハルトが眠る。本当にいつ、これが最後のやりとりになるかも分からない。

 か細い呼吸は今にもぷつりと切れそうな細い命の糸のように思える。

 それにしても苦い薬だった。

 エレンは目尻に浮かぶ涙の理由を、口の中に残る薬の後味に押しつけてこぼれ落ちる前に乱暴に滴をぬぐった。


***


 リリー達がベレント男爵家について二日。ぽつり、ぽつりとながらリリーの顔に見覚えがあるという情報が上がってきていた。

「戦闘がしたい……」

 リリーはベレント男爵家の広間でぐったりとつぶやく。

 暑い中一日中いくつかの村や市を回って多くの人間にじろじろと顔を見られて、疲れ切っていた。だだでさえ偵察は暇なのに、鞘から剣を抜くことすらできない。

「バルド、どうしたの?」

 隣で皇都から早馬で届いた書簡に目を通していたバルドの表情が切迫していた。

「兄上の容態、思わしくない」

「バルド、皇都に戻るの?」

 今すぐにでもそうしたそうなバルドに問いかけると彼は首を横に振った。

「役目を果たす。リー、休息するか」

「あたしは大丈夫……これ、もう一杯もらっていいですか」

 冷えた水に杏のシロップを混ぜた飲み物のおかわりを、近く控える侍女にもらってリリーは長卓に置かれている地図に目を向ける。

 すでにラルスとカイと、ベレント男爵らが集めた情報を元に印となる色のついた石を置いている。

「あー、やっぱりベリード山脈の麓ですよねー。東側に集中してるなあ」

 島の南東部にある『玉』の社から東へと連なるベリード山脈東部に、リリーの顔に見覚えがあるという者がいたと示す赤い石は置かれていた。ちなみにベレント男爵家がちょうど山脈中央付近南側に位置する。

「山の向こうも行ってみるべきでしょうか」

 ベレント男爵が、灰色の魔道士が目撃された青い石がふたつ置かれた山の反対側を指で示す。

「遠い」

 バルドが渋面で返す通り、ぐるりと迂回するか山を越えねばならないので数日はかかりそうだった。

「そうですねー、灰色の魔道士も目撃されたのはこちら側がほとんどですしまずは西部の山中を重点的に調べましょうか。まだ存命だといいんですけどねー」

 リリーの祖父と母と予想される親子は、十五年前以降の目撃情報がなかった。最後は山中で父親の方だけ地元の猟師が見かけたとのことだ。ひとりきりで、娘は元気かと問うたが返事はせずに山奥へと消えたらしかった。

 それが最後で、後の消息は途絶えてしまっている。

「娘の方はどこか行ったのかしら……」

 自分の母親かもしれない少女。リリーは最後に目撃された場所に置かれた石をじっと見つめる。

「だが、誰もどこに住んでるかなんて知らねえんだよな。猟師が時々見かけてもどこに住んでるのかどころか、名前も知らねえとなるとな……」

 カイが唸って、一同はため息をつく。

(やっぱり、あたしの出自を突き止める方が優先されてるわよね)

 明らかに灰色の魔道士の動向を追う方がついでになり始めてきている。ラインハルトが主導していることもあって、どんどん自分の出自は重みを持ってきていた。

 地図を真摯に見つめるながら焦燥を隠し切れずにいるバルドを見ても、大事であるのはよく分かる。

(あたしの、ことなのに……)

 ここまできて半端に隠されるというのは、やはりもやもやしてすっきりしない。自分が知らない自分自身のことを、あまり好意を抱いていない相手が知っているというのも据わりが悪い。

(だいたい、見つけてどうする気かしら)

 将軍ふたりも動かして、ラインハルトが何をしようとしているのかさっぱり見当がつかない。

「山狩」

 バルドが地図のいくつかの石を目で追いつつ、東側の一帯を指で示す。

「山狩って、あたしの身内何かやらかしたの?」

 言葉の不穏さにリリーは顔を顰めてバルドを見上げる。

「……言葉の綾。周囲捜索」

 バルドが少し考えて言い直すのだが、どうにも引っかかる。ラルスやカイ、ベレント男爵の表情もどこか深刻そうだった。

「……じゃー、殿下のご命令通りこの辺りの捜索から始めましょうか。人手はどうします? 山に詳しい猟師をひとりずつつけるとして……僕と、殿下と、カイと、ベレント男爵、アクス補佐官の五手に別れます?」

 ラルスが困った顔でバルドを見る。

「やむを得ず」

「護衛、全員待機なの? もっと大勢でやった方が効率がいいでしょ」

 あまりの少なさにリリーは困惑して訳知り顔の他の面々を見やる。

「神器を探している」

 そうしてぽつりとバルドが小さな声で告げてラルスに皇都からの書簡を渡す。どうやらラインハルトから隠し事を明らかにしていいとの許可らしかった。

「神器って、『剣』はバルドが今、持ってて『玉』は皇都で、『杖』はディックハウトでしょ」

 リリーはバルドが背負う大剣を見やりつつ、目を丸くする。

「それが、『玉』がないんだよねー。内乱が始まった時にすでに社の中は空っぽだったんだ」

 ラルスがカイに音を遮断する結界を張らせてから続ける。

「あたしの、身内が持ち逃げしたってことですか……?」

 突然告げられた事実にリリーは驚きながらも、どうにか話の先を見つける。そうするとバルドがとつとつと神器の在処と自分の出自が繋がっている可能性を説明する。

 ゆっくり頭の中で整理していき、そう考えられるだけの理由があるのは理解出来たがわざわざ皇都に捨てたことが分からなかった。

(グリザドの、心臓)

 リリーは自分の心臓あたりのローブを握って、ふっと以前『剣』の社での戦闘後に見た夢を思い出す。

「……一回だけ、変な夢、見たわ。神聖文字っていうのを『剣』の社で見た後に、夢の中に神聖文字が出てきて誰かに心臓を掴まれる嫌な夢」

 バルドに訴えながら、ぞわぞわと肌が粟立ってくる。

 神聖文字と、心臓。作戦で用意された神器の『玉』が本物でないと直感したこと。

 自分は本当に本物のグリザドの心臓を見たことがあるのかもしれない。

「暗示めいてますね―。これでますますアクス補佐官の身内が神器を隠し持っている可能性は高くなったわけですね、殿下」

 バルドが同意の代わりにうなずくのを見ながら、リリーは表情を強張らせて黙する。

(神器を取り戻せたら、あたしどうなるのかしら……)

 ラインハルトが目的を果たしたなら、自分はもう不要だろう。皇家の血統としてもややこしくなるだけだから、そのまま不明で放っておかれるのか。

(クラウスとの婚約が保留されてるのが恐いわね)

 いつでも邪魔になったら消そうという意志は、まだ残っているかに思える。なんにしても一悶着はありそうだと、憂鬱になってくる。

「補佐官と話したい」

 そうして淡々と明日以降の予定を淡々と話し合った後、バルドがリリーに目を向けて残る三人に退出を求める。

「でしたら、ここより別室がよろしいでしょう。神器に関してのお話をされるなら我々が再び結界を張ります。信頼の置ける者しかこの屋敷には置いてはおりませんが、念には念を入れておきますので」

 リリーとバルドはベレント男爵の勧めに異論はなく、そのまま近くの小部屋に移ることにした。ラルス達は隣室で待機しているそうだ。

「神器がないなんて、そうそう言えないわよね」

 元から密談用のものなのか、長椅子ひとつしかないこぢんまりとした部屋の中でリリーは魔術が発動されたのを感じ取ってそう口にする。

「……悪い」

「いいわよ。教えてもらったって、あたしにはどうにもなんないことだもの。……神器が見つかった後のことの方が気になるわ」

 自分がどこの誰か覚えているわけもなく、神器を見つけるに何ができるわけでもない。

 正直、神器の有り難みというのも分からない。バルドが持つグリザドの右腕と呼ばれる神器が、普通の剣と違う強大で異質な魔力を抱えているのは感じられる。

 だが五十年も隠し通してきたのなら、あってもなくても同じではないかと思ってしまう。

「見つかった後……」

「そう。あたしの素性はどうせ分からずじまいですませるんでしょ。だったら、もう誰もあたしがバルドと一緒にいても、あれこれ言わないかしら」

 自分の出自が明らかになっても、面倒だからなかったことにされてただの孤児になる。ただそれはそれで孤児ごときが皇子の側近くにいるのは、よくないと思われるのだ。

 貴族であれば誰かが利用し、身分がなければまた口うるさく言われる。

「……身分って本当に大嫌い」

 拗ねて言うとバルドがこくりとうなずいた。

「同意。……兄上が即位されれば、俺は臣籍降下乞う。リーと、ずっと一緒に戦場でいられる」

「でも、皇太子殿下、即位なんて」

 そうなれば一番よいのだろうけれど、ラインハルトはもう先がない。

「…………神器に可能性」

 バルドがしばし考えてから言って、リリーは目を瞬かせる。

「『玉』は治癒だけど、神器ってそんなにすごい力があるの?」

 確かに『剣』自体に宿る魔力は凄まじかったが、元々の普通の『玉』の治癒力はそこまで万能ではない。

「あくまで、可能性」

 バルドが切実に答えて、ラインハルトの余命が幾ばくもないのだとリリーは悟る。

「じゃあ、見つけないとね。見つけたら早く帰って、皇太子殿下がよくなったら最後まで戦場で一緒に戦ってられるわね」

 言葉にするほど現実味のないただの願望になっていく気がした。

 そんなにも何もかもが都合よくいくはずがない。バルドも分かっているのか、表情は明るくなかった。


***

 

「もうこんなとこでいいんじゃねえか?」

 カイはベレント男爵が張った防音の結界の外へ出る。

 バルド達がいる隣の部屋にカイ達はいた。防音の結界は隣の部屋と、この部屋の小さな壁際あたりの範囲を囲っていた。

 壁際に耳を当てていたラルスとベレント男爵も立ち上がって、長椅子に腰を下ろす。

「うーん、実に趣味のいいお部屋ですね」

 ラルスが伸びをしながらベレント男爵に笑いかける。

「ええ。城にはこのような部屋がひとつはあってしかるべきかと」

 にこりともせずに真顔で男爵がうなずくこの部屋は盗聴用のものだった。隣の部屋の長椅子の裏にある石組みの壁には、音が抜け安くするための小さな隙間が空いている。そこから漏れ出る音をここでじっと耳をそばだてて聞くのだ。

 端から見ればなんとも悪趣味で間抜けな格好である。

「うーん、バルド殿下は臣籍降下をご希望というわけですねー」

「まあ、いいんじゃねえか? 皇太子殿下が即位されたらそうした方が都合がいいだろ。……嬢ちゃんもあの分じゃ、まず裏切りはしねえだろ」

 私情だろうがここにいる理由も、戦場で終わる覚悟もあるのだ。これ以上外からあれこれ言う必要もなさそうだった。

「私としても、あまり若いお嬢さんに犠牲を強いることはしたくはありません。自分にも年頃の娘がいますからね。うちの娘にもそろそろ嫁ぎ先を見つけるか婿をとるかを選んでもらわなければなりません。あれさえ見つかれば、私どもの家の役目も終えるので、相手を選ぶのにそう慎重にならずともよくなりますが」

 祖父の代から秘密を護り続けたベレント男爵がひとり娘のことを思い、ため息をつく。

「なかなか綺麗なお嬢さんですからね、いいご縁談はすぐにみつかりますよー」

「いえいえ、不器量とまではいかずともそう特別美しいこともない娘です。まだ愛想というものがあればよかったのですが。ベッカー補佐官はお子様は?」

 ベレント男爵が年の近いカイへ目を向ける。

「妻は結婚してすぐに戦死したので……」

「ああ、それは。失礼しました」

「いえ、もう十七年も前のことですから」

 本当に昔のことだ。もうずいぶん記憶は色褪せていて、時々とても他人事のようにも思える。

 魔力は血に宿ると言われている通り、魔力を維持せんと魔道士同士の結婚は多い。貴族は必ず魔力を持っているので、貴族同士は当然だ。市井の魔道士もやはり魔道士同士で一緒になる者が多い。先祖の誰かがグリザドのより力を与えられた高貴な血を持っていたという、選民意識もあるせいだ。

 だがこの内乱で市井の魔道士の数も減った。夫婦のどちらかが子を持つ前に戦死することはよくあることで、この頃は日常茶飯事になっているからだろう。

(子供、か)

 そろそろ子供が欲しいと言っていた矢先にふたつ年下の妻は戦死した。顔がきちんと分かる骸が帰ってきただけまだましな方だった。

「でーすけれど、バルド殿下が即位された時にやはり彼女の存在はやはり問題かも知れませんね。ああ、もうやだな-」

「まずはなくしものを探すのが先決ですね。私はしばしこの部屋に留まりますので、お二方はお休み下さい」

「あー、助かります。カイ、休憩ですよ-」

 にこにこと実に嬉しそうにラルスが退出するのを、カイはベレント男爵に頼みますと頭を下げて追う。

「てめえは、本当に必要最低限しか働かねえな」

「いいじゃないですかー。その最小限に僕は全力かけるんですよ。使える物は使っていざという時のために力は温存しておかないとー」

 怠惰で堕落した風貌と態度で何事にも手抜きしているかに見えるラルスだが、要領がいいのをカイはよく知っている。

 この十近く年下の上官は昔からこうだ。出会った頃はまだ彼は十一で、本当に小憎たらしい子供だった。

 だが人には死ぬべき時があるのだと、妙に達観した子供でもあった。

 その時がくるまではのらりくらりと生きていくらしい。

「まあ、明日は山探しだ、ばてねえようにしっかり休んどけ」

「カイの方がいい歳なんだから、僕よりもしっかり休んで下さいね」

「うるせえ、普段怠けてるてめえよりよっぽど元気だよ、俺は」

 カイはいつものようにラルスを杖で小突きながら、ふっと妻の記憶を辿る。

 彼女は死ぬべき時に死んだのか。自分のその時はいつなのか。

 考えても答は出そうになかった。


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