5
翌日、リリーは山の麓で眠い目をこすっていた。結局夕べは寝付けないままだった。主に山仕事をする者達が住まう小さな集落から少し離れた、山道の入り口までは馬車はバルドと一緒で、少しだけ眠ることはできた。
(眠いけど、変に頭は冴えてるのよね……)
ここで何かが見つかると思うと眠気に反して、頭だけははっきりしてくる奇妙な状態だった。
今日も陽射しは燦々と降り注いでいて暑かったが、山道に入ると木々に光を奪われて刺さるような暑さは和らいだ。リリーは無意識の内にバルドの側にくっついて進行していた。
バルドの方もリリーのそんな様子に気付いて、普段より歩調を緩める。
「途中にある休息用の小屋で、昼過ぎにはには一旦そこに集まりましょう」
分かれ道にさしかかった所で、ベレント侯爵に頼まれ集まった猟師らと、リリー達に予定を再確認する。
(この山のどこかにいるんだ……)
猟師について山道から外れた場所に入り込みながら、リリーは剣の柄を強く握る。
この中で最年少となるリリーにつくことになった年嵩の猟師は、不安と奇異の眼差しを彼女に向けていた。
「お嬢ちゃん、本当に似てるなあ。あの猟師の身内なのかい」
「よく知りません。この辺りで見かけたんですか?」
「もっと奥の方だったよ。曲がり杉の近くだったはずだ。もうずいぶん前のことだからなあ……他の猟師が入りこまない奥にいるとなると見つけるのは難しいだろう。お嬢ちゃん、足下をよく見て進むんだよ」
急な斜面や窪み、木の根や岩がところどころにある、道なき道を猟師はすいすいと進んでいく。何か目印になるものでもあるのだろうかと、リリーは言われた通り足下にその後ろを追い駆けていく。バルド達も猟師が見かけられた村や市のに近い所を捜索している頃合だろう。
しばらく行くと確かに奇妙に曲がった大きな杉の木があった。もうだいぶ深くまで入ってきているのか、高い木々に囲まれた周囲は時々鳥の鳴き声や、何かが木を揺らす音がする程度で静かだ。生きているものの気配が極端に薄く、あたりも影に覆われて仄暗い。
「こっから先はあんまり入りたくないんだ。慣れてる猟師でも時々迷う。沢のあたりまでしか案内出来ないがいいかい?」
「はい。出られなくなっても困りますから……」
迷子になっては元も子もないと、リリーは素直に従う。
「何かかが通った後は草が潰れたり、枝がちょっと折れたりしてるものだから気をつけて見ておくといいよ」
「ああ。戦場でもそうですね……」
山林で敵の動きを把握する時もそうするものだと、リリーは辺りに目を懲らす。
(そうよね。人捜ししてるのよ、あたしは)
自分の出自のことにばかり気を取られているせいか、初歩的なことが抜けていた。
リリーは自嘲しつつ先ほどより注意深く進んでいく。しかしさらさらとした水の流れる音が聞こえる頃になっても、小動物達の足跡ぐらいしか見当たらない。
「お嬢ちゃん、水を飲もうか。その格好も暑いだろう」
沢の側に行くと、いくらか気分が解れてきたのか猟師が透明な水を指差す。言われて喉の渇きに気付いたリリーは、沢の清水を両手で救って喉を潤す。
深い所には魚の群れがゆらゆら揺れながら滞留していて、ちらちらと銀色の光が閃く。
影に澱んだ雰囲気はなく、光が射す場所に賑やかさもない。ただひたすらに静謐な山だ。
リリーは沢の上流に目を向ける、岩場の合間を縫って蛇行する流れの源は木々の隙間に隠れ見えない。
しかしうっすらと何か光っている。螢よりももっと淡い、染みのような灯。
「あれ、なんですか? 光ってるの」
「どれだい? ……なんにも見えやしないよ」
リリーが指し示す方向を猟師が見るが何も分からないらしい。
「暑くて疲れたのかもしれないね。集合場所の小屋は近いからそこで休むかい?」
「いえ……気になるのであっちに行ってもいいですか?」
心配げな猟師の言葉を断って、リリーは未だに見える光に向かって沢を登っていく。少しずつ、少しずつ光は鮮明になってくる。
もっと奥に光源があるはずだ。
リリーの視線はすでに光に囚われていた。周りの景色はもう見えていなかった。
「お嬢ちゃん……、お……、……ゃ……」
一心不乱に光を追い求めていく内に、自分を呼ぶ猟師の声が遠ざかっていることも気づかなかった。
木々の合間を抜け進む度に光は強くなる。
ついには目の前が赤い光に満たされて、リリーは反射的に目を瞑る。
「……何、これ。」
そして目を開けると、忽然と屋敷が目の前に現れていた。小規模な貴族のものらしき石造りの屋敷。灰色がかった石組みの壁は苔生して蔦が這っていて、ずいぶん古びていた。窓も硝子ではなく鎧戸だけで、開け放たれている。
「誰か住んでるのかしら」
リリーは屋敷を見上げながらしっかりと双剣の柄を握りしめて警戒しつつ、バルド達と合流するために振り返って息を呑む。
「嘘……」
道がなかった。来たはずの方向は断崖絶壁になっていて、辺りを見回しても屋敷の側まで道は見当たらなかった。足下を覗き込むと真っ暗で何も見えず、ここだけまるで宙に浮いているかのようだった。一緒にいた猟師の姿も見えないが、いつからはぐれてしまったのか分からない。
リリーは愕然としながらも、下草に隠れた地面に石があることに気付く。真四角で杭になっているのか、地面に深く突き刺さる石には神聖文字らしきものが刻まれていた。
「……ここが、何か皇祖様に関係してるっていうのは間違いなさそうね」
リリーは肌が粟立つのを感じながら、再び屋敷を見上げる。
引き返すのは諦めて、見えない屋敷の裏手側がどうなっているか確かめに行くことにした。ちょうど屋敷の両端は崖すれすれにあって、中に入るしかなさそうだった。
リリーは息を詰めて屋敷の扉を押し開ける。軋んだ音をさせて開いた入り口の先は、ごく普通の屋敷だった。手入れはされているらしく、埃っぽさや黴臭さはなかった。
入ってすぐが吹き抜けの大広間で二階に上がる階段もある。造りは偽の神器を持ってディックハウト信奉者が拠点とした、離宮や貴族の屋敷と大して変わりなさそうだった。
階下を見下ろるせ二階の回廊に大きな窓があって、リリーはそこから城の裏手側が見えそうだと上に行く。
どんなに慎重に歩いても、石の床ではこつこつと長靴の音がしてしまう。だが今の所は人の気配は感じなかった。
「向こうも駄目、か。でも、人が住んでるのは確実ね」
反対側も同じく橋らしきものはなかった。窓から覗き込んだ裏手には井戸や畑に炭焼き小屋があった。畑に幾種類かの野菜が実り、炭焼き小屋の側には薪が置かれている。
どうやら大抵のものはここで自給自足しているらしかった。
「出かけてるのかしら……だったらどっかに出口があるはずよね」
外の村などで見かけられているのだ。ここから出られないはずがない。
リリーは一呼吸ついて屋敷の中を見回ることにした。それとなく開けた部屋には、寝台と机だけの装飾のない部屋だった。どの部屋も同じだ。
(ここを知ってる?)
自分自身に問いかけてみても、これまで見たことのある貴族の屋敷とほとんど同じで判別はつかなかった。
屋敷の右翼側の扉を開くと、そこは書庫だった。ここも吹き抜けになっていて、螺旋階段の下も書棚が見えた。
リリーは側の本を手に取る。羊皮紙を束ねただけの書物は古びていて文法も古く、単語は拾えるものの判読は無理だった。階下には革の装丁が施されているらしい本が並んでいる。
「こんなの読んでるのかしら」
一階へ下りたリリーは書棚からまた本を引き抜く。薬草の絵図が入ったもので、煎じ方や効能まで事細かに記してあった。隣の本は食用に出来る山菜に調理法。ここで生活していくために必要なものが記してあるらしかった。
「こんなものまであるの…………」
何気に取った本はお産に関するものだった。赤子の取り上げ方について図説まであった。
自分はこの屋敷で産まれたのだろうか。
だが記憶にあるはずもなく、リリーは書庫から屋敷の左翼へと向かう。途中にある部屋も装飾が極端になく、長椅子や机などしかない。客人が来ることもなさそうなこの屋敷には、それすら特に必要なものには思えなかったが。
「こっちは厨房、ね」
左翼は手前が食堂で奥まった所が厨房だった。覗き込んだ竈の中の炭も古くはなさそうで、鍋や包丁も使いこまれたこの部屋は生活臭で満ちていた。
「ひとりで住んでるのかしら」
食器もいくつか棚に収まっているが、調理台の上に無造作に積まれているのはひとりぶんに思えた。
厨房の最奥は裏庭への入り口らしかった。裏庭に出るためにそちらへ足を向けたとき扉の奥から足音が聞こえた。
リリーは咄嗟に側の調理台の影に隠れて抜刀できる体勢を取る。
裏口の扉が開かれると、すぐさま剣を抜いて物陰から出る。
「動かないで。ここは何、あなたは誰?」
リリーは入ってきた初老の男に剣を突きつける。
屋敷の主人というより庭師といった風情のくたびれた格好の男は、片手に獲物らしき兎を持って彼女を唖然と見ていた。
彼の瞳はリリーとまったく同じ深緑色をしていた。
***
緊急事態を知らせる笛が響いて、バルド達は集合場所としていた休息小屋に集合していた。
「……消えた」
リリーに同行していた猟師の報告に、バルドは低く唸る。張り詰めて殺気に似たただならぬ雰囲気を纏う彼に周囲は身を竦めた。
「殿下、どうか落ち着かれて下さい。誰が悪いという話ではないですからねー」」
「……是。責任、誰にもなし」
ラルスに窘められたバルドは顔を顰める。
そんなことは分かっている。だがリリーがどこにいるのか行方知れずになって、落ち着いてなどいられなかった。
「案内」
バルドはリリーに同行していた猟師に一言告げて、ひとり先に小屋を出る。小屋でどうするか議論など無駄だ。消えた場所の周囲を捜索する以外の方法などありはしない。
バルドは先導する猟師の歩みの遅さに苛々とする。自分が人より歩くのが早いからそう思えるのだと理解はしていても、焦る気持ちに苛立ちは募る。
「殿下!」
バルドは沢の流れる音が聞こえると、猟師を追い越す。沢の上流ということは分かっているので、もう案内は無用だった。
他の者達が慌てるのも我関せずにに音だけを頼りに沢へ出ると、そのまま上流に向かう。何か、リリーは光を追っていたという。だがそんなものはどこにも見えない。
「リー……」
薄暗い木々の中で流れる沢の水音が、いつかの雨音にすり替わる。
兄に言われるままにリリーを追い詰め、泣かせてしまった日のことを思い出す。今回のこともリリーが納得してのことはといえ、結局ここまでくることになったのは元から彼女の意志があったわけでもない。
バルドは頭を振って雨音を振り払う。
余計なことを考えて立ち竦むよりも、探さなければ。慎重に地面に目を凝らしてリリーの通った後を探す。
下草が踏まれている場所、木の根にわずかに付着した靴痕。
丹念に追っていけばリリーがどこへ向かったか分かるはずだ。そうやって道なき道を辿って行くものの、ついには何も見つけられなくなった。
「殿下ー、何かありましたかー?」
やっと追いついてきたラルスの呼び声にも応えず、バルドは痕跡が消えた辺りをうろうろする。
そして一点でぴたりと止まる。
違和感があった。背負っているグリザドの右腕とされる神器が震える感覚に、バルドは剣を抜く。
ぬらりとした銀とも黒ともつかない刀身に何かが映り込んでいる。
バルドはそのまま神器を地に突きさす。
「殿下、どうされたのですか?」
一番最初に追いついたカイはバルドの様子を窺ってくる。
「屋敷」
刀身には水鏡にたゆたう景色のように、一件の屋敷の姿が映っていた。何かしらの魔術がこの辺りにかけられているのかもしれない。
「退避」
バルドは剣を抜いてカイを下がらせて、周囲に雷の雨を降らした。
雷鳴が一気に静寂を打ち壊す。木々から枝が落ち、地面が穿たれて下草が焼かれる中、一本の杉の木が奇妙に歪む。
焼けるでもなく、折れるでもなくゆらりと揺れるのだ。
バルドはその木に刃を突き立てる。手応えはあったが木を切り倒す感触ではなかった。
「殿下……あれは」
カイが示す先には一本の小道がちらちらと覗いていて、奥には一件の屋敷が見えた。
「こんな山の中に立派なお屋敷ですね……」
後に続いてきたラルスもさすがにこれには唖然とした様子だった。とにかくこの先にリリーはいそうだと、バルドは無言で先に進む。
「カイ、僕等も追いますよ。ベレント男爵はここで待機お願いしますねー。殿下、危険ですから僕等が先に行きますよ―…………」
急ぎ足でラルスとカイがついてきて呼び止められるのに、足を止めるバルドではなかった。
(リーがここにいる)
とにかくリリーの無事を確認することしか、考えていなかった。
***
リリーは切っ先を男に突きつけていたが、彼に敵意もなければ武器もないのを見定めてゆっくりと双剣を鞘に戻す。
「……どうしたんだ、そんな恐い顔をして。戻って来たのだろう」
無精髭を生やした壮年の男も、安心したらしくやっと口を開く。髪色も白髪が交じっているものの金茶で、瞳の色も深い緑。
不気味なほど自分と色彩が似ていた。
「あたしが誰だか、分かるんですか?」
リリーは息を呑んで男の返答を待つ。
「ああ。ヘルゲとヘラの娘だ。なぜひとりなんだ。伴侶は連れていないのか?」
鷹揚に男はうなずいてとても不思議そうに首を傾げる。
彼が告げた名が両親のことなのだと、リリーは落ち着いた気持ちで聞いていた。顔も知らない父と母。名前を聞いても感動だとか郷愁というものは湧いてこなかった。
ただ自分という人間がどこからともなく現れたわけではないと、ごく当然のことに実感を覚えたぐらいだ。
「じゃあ、あなたは、あたしの祖父、ってことになるの? 名前は?」
「クルト。そうだ。私は…………」
男がそう名乗った時、屋敷が微かに振動する。大きな揺れではなく屋敷が崩れそうにもないぐらいの揺れだ。
「また入ってきた。……彼だろうか」
クルトがそう言って、屋敷の入り口へと歩き始める。
「彼って誰? あたしの父親」
以前にもここにたどり着いた者があるのかと、リリーは祖父に訊ねる。
母が彼の娘なら、父はどこか別の所からやってきたのかもしれない。
「ヘルゲは死んだ。お前が生きているのだから当然だろう。名前は知らないが、灰色のローブを着た男だ」
父親の死と、灰色の魔道士らしき男のことを同時に聞かされてリリーの思考は止まる。
「あたしが生きてるから父親が死んだって、どういうことなの? 灰色の魔道士と知り合いなの? ああ、もう。訳わかんないわよ」
リリーは双剣の柄に手を当てたまま思いの外、足の早いクルトを必死に追う。屋敷の正面の入り口にたどり着いたのと、扉が開いたのは同時だった。
リリーはすぐさま剣を抜いてクルトより前へ飛び出るが、侵入者の姿に脱力する。
「バルド……。びっくりした。よくここが分かったわね」
大剣を抜いたまま中へ入ってきたバルドは、しごく不機嫌そうだった。
「探した。単独行動、よくない」
「ごめん。はぐれてるのに気付かなくて……ブラント将軍とベッカー補佐官もいるのね」
バルドの後ろにラルスとカイの姿を見つけて、リリーはクルトに敵意はなさそうだと告げる。
「嬢ちゃん、無事だな」
「いやー、本当に探しましたよー。後ろにいる方、お身内でしたかー?」
ラルスがリリーの背後にいるクルトに目を向けた。祖父はバルドと持たれている神器に興味を示しているらしかった。
「はい。バルド、あのクルトっていう人、あたしの爺様らしいわ。それと灰色の魔道士とも会ったことがあるって」
リリーは眉間に皺を寄せつつ言う。何もかもがこの場に繋がっているらしかったが、集まりすぎて不気味だった。
「これで神器の在処とその灰色の魔道士の正体が分かれば万々歳ですね―」
ラルスがゆったりした言葉とは裏腹に、鋭い目でクルトを捉える。
「お前の伴侶はこの者だろう。同じ物を持っている。だがそのふたりは誰だ? ここは我々のためだけの場所だ。彼らを連れてきても、ここには置いておけない」
クルトが首を捻って、ラルスとカイを不安そうに見やる。どうやらバルドは認められても、水軍のふたりはいけなかったらしかった。
「……嬢ちゃんの爺様は妙にずれてんな。言ってる意味が分からねえ」
「うーん、殿下をアクス補佐官の夫とみなしていて、神器のことも知っていそうですね……クルトさん、同じ物というのはグリザドの心臓ですね。それはどこにあるのですか?」
ラルスが問いかけると、クルトはあからさまに警戒心を強めた。
「……我々の血族以外には教えてはならない。……ヘルゲとヘラの娘、お前の名は?」
クルトに訊ねられてリリーは名乗る。
「リリー。花の名か。ではリリー、なぜ無関係の者まで連れてきた。私達の大切な物を彼らは奪いに来たのか」
「奪いに来たってういうか……そもそもいつからグリザドの心臓を持ってるの?」
上手い説明が思いつかずに、リリーは祖父が神器を盗み出したのか確かめる。
「いつから……千年前から、我らの始まりからずっと」
「皇祖グリザドから預かったの?」
「グリザドが我々の始まり。我らはグリザドの子。お前もそう。そうしてお前の伴侶もそう」
クルトが告げて、リリーは紐解かれた自分の血脈に口を引き結ぶ。
この屋敷の異様さと、庭にあった神聖文字の杭を見ればここがグリザドど関わりがある場所であることに違いなく、クルトの言葉には信憑性があった。
(あたしは、皇家の血を引いてる……)
おかしな話だ。誰よりも皇家に忠誠心を持ち合わせない自分が、グリザドの末裔だなんて。
だが自分の血脈云々よりも、このことがバルドとの関係に何を及ぼすかの方が気になった。バルドも複雑そうな表情で自分を見ていた。
「どうやら、もうひとつの皇家の血統ということですね。僕等は奪いに来たわけじゃないんですよー。グリザドの心臓を所有したいと思っているのはそこにおられるバルド殿下です。ここで保管する以上に、きちんと護りますよ。あなたも皇都まで一緒に来てもかまいません。僕等はバルド殿下とお孫さん、それからグリザドの心臓を護るために来たんですよ」
ラルスが胡散臭い笑顔で言葉を並べ立てて、クルトがリリーを見やる。
「その人達はバルドが住んでる所へグリザドの心臓を移したいだけよ」
自分のことなどどうでもいいだろうが、と思いつつリリーは確実に真実であることだけを祖父に告げる。
「そうか。お前が帰り着いた後を祖先は先は示していない……」
クルトが思案するのをリリー達は固唾を飲んで待つ。
「分かった。リリーの意志は祖先の意志の一部。リリー、容れ物となる子はまだできていないのか?」
どうやら同意してもらえたと胸を撫で下ろしたのも束の間、意味不明な問いかけに一同は怪訝な顔をする。
「なんか特殊な容れ物が必要ってことか?」
カイが訊ねるのに、クルトはうなずく。
「心臓は心臓でないとならないだろう。今の容れ物はリリーだ」
その場にいる誰もがリリーに視線を向けながらも、しばしの間理解を拒んだ。
「…………まさか、あたしの心臓が神器そのものだなんて、馬鹿なこと言わないわよね」
恐る恐る口にしながらもリリーは、確信していた。
バルドの持つグリザドの右腕が魔力を発したときに、呼ばれた気がしたのは気のせいではないのだ。かつてのひとつだったものが、呼び合っていただけのこと。
おそらく、自分の魔力が神器に似たものを発しているのも体の中に神器そのものがあるからだろう。
悪夢も暗示でも何でもなく、本当に自分の胸に神器があったのだ。
まったくもって信じられない話だが、否定できないだけの心当たりがありすぎた。
どくどくと脈打つ自分の心臓がまるで得体のしれないものになって、なんとも言えない気色悪さにリリーは顔を歪める。できるなら今すぐでも取り去りたいぐらいだ。
「そうだ。私達は容れ物だよ」
クルトがまるで常識を説くように肯定して、周囲はしんと静まりかえる。
「とにかく話が長くなりそうですから、どこか別の場所でゆっくり話せる所ってありますかー」
ラルスが頭をかきながら煩わしそうに言う。
「客人を迎える部屋はあちらに」
クルトがまるで使われた形跡のない広間へとリリー達を案内する。
「……リー」
リリーが青ざめた顔でいるとバルドが側に寄ってくる。
「わざわざ探さなくても、こんなとこにあったなんてね……取り出せるのかしら」
乾いた笑みを浮かべて小声で訊ねたリリーは、バルドの指を握った。少しは落ち着くかと思ったのに、不安はおさまってくれなかった。
***
一体どれほどぶりに客人を迎えたのかも想像がつかない広間に、リリー達は腰を落ち着けることになった。手入れはされているものの、見るからに年代物といった風情のみっつの長椅子にバルドとリリー、ラルスとカイ、そしてクルトとそれぞれが腰掛ける。
「んー、殿下、僕がクルトさんに質問するでよろしいですか? アクス補佐官も」
ラルスが許可を求めてきて、リリーはバルドを見やりふたり同時にうなずく。
面白くはないがこの場で冷静に質疑ができそうなのは彼しかいなかった。
「そうですね、まず、あなたには娘さんがいましたね。その方はアクス補佐官の母親でいいですね」
「ヘラだ。ヘラはその子を産んで死んだ。役目を果たしきれなかった」
父に続き母親の死を告げられても、リリーはやはりあまり感情的なものは湧かずに淡々と聞いていた。
「お産が死因でということですね、役目とはなんですか?」
「神器の守護者となることと、リリーの伴侶を産むことだ。次の世代を作るために男児と女児を産まねばならない」
クルトが黙々と答えるのに、その場が凍り付く。
意味を理解するよりも先に本能的な嫌悪に吐き気がこみ上げてきて、リリーは口元を抑える。
一体自分の体は何でできているというのか。
リリーは一言も発せずに自分の体を抱く。自分の血肉がおぞましいものに変わってしまいそうだった。
「……じゃあ、嬢ちゃんの父親もあんたの息子ってことか」
カイが直接的に問うと、クルトは当然だとうなずいた。
「ヘルゲとヘラは双子だった。私達の始まりと同じだ」
「つまり、皇祖様が双子の皇子と皇女を婚姻させ、この千年ここであなた達はそうやって血を繋いできたわけですか……。アクス補佐官は皇家の純血というわけですね」
苦々しく言うラルスの視線が向けられるが、リリーには彼が何を思案しているかは分からなかった。
「……もういいわ。あたしの出自も神器の在処も分かったんだから、神器をどうにか取り出せるかどうかだけでいいわよね」
父がどうして死んだかも、どうしてわざわざ皇都に捨てたかも知りたいとは思えなかった。何かとても大事なものまで失ってしまいそうで、これ以上は何も聞かずにいたかった。
必要な情報は手に入ったのだ。十分だろうと、リリーはバルドを見上げる。
「もうひとつ。灰色の魔道士」
バルドがうなずいて、ここに以前やってきたという灰色の魔道士のことを訊ねる。
「……えーと、その灰色のローブを着た魔道士がこちらにきたんですよね、名前と目的は知ってますか?」
まだ他にいろいろ聞きたそうだったラルスが、バルドに譲歩して灰色の魔道士について問う。
「知らない。ただ彼はいつのまにかやってきて、書庫で本を読んでいた。すぐに出て行った。彼は私達の大事なものを奪うつもりもなければ、ここのことを誰かにつげることもない、ただの興味本位だと言ってすぐに出て行った」
「まずいな。神器のことを知ってる奴がそこらうろついてるってことになるぞ。そもそも、ここの存在をどうやって知ったんだよ」
「私にも分からない。彼は我々の祖先についてはこの島の誰よりも詳しいと言っていた」
カイの問いかけに答えたクルトの言葉で、灰色の魔道士については謎が深まるばかりだった。
「……その灰色の魔道士は知らないんだったら、もうこれ以上爺様に聞いても無駄よね。ねえ、あたしの中にあるっていう神器は今すぐ取り出せるの?」
今すぐにでも切り離したいと、リリーは祖父に問う。
「新しい容れ物がない。まずはふたり子を産んでから、後に産まれた子に移すのだ」
「そんな悠長なこと言ってられないわ! 今すぐ取ってよ、あたしの心臓を普通の心臓にして!!」
思わず立ち上がって声を荒げてしまっていた。自分自身の体の中に得体がしれないものが埋まっていることが、耐えがたかった。
ただそれ以上に真実に対する恐怖心を、リリーは自分でも気付かない内に怒りで振り払おうとしていた。
「できない。お前の心臓はひとつきり。取り出せばそのまま死んでしまう。産まれた時、心臓のない子供が器となるのだ。ヘルゲもお前に心臓を移して死んだはずだ」
「そんな……」
突きつけられた事実に膝から力が抜けて、リリーはそのまま長椅子に座りこむ。
「リー……」
バルドが体を抱き寄せてきて、人目も気にせずに彼に縋り付く。
頭の中は不安と嫌悪でいっぱいでぐちゃぐちゃだった。自分の存在が本当にただの容れ物だという現実が、じわりと全身を苛んできて訳がわからなくなってくる。
「その伴侶との間に早く次の器を作りなさい。そのために私はお前とヘルゲを、もうひとつの祖先の血の元に送ったのだ」
クルトの言葉にリリーは目を見開いて、バルドの紫の瞳を見上げて言葉を失う。
「ちょっと待てよ、あんた、今、自分の孫に今すぐ子供を産んで死ねって言ってるんだぞ。分かってるのか!!」
リリーが自失している間にカイがクルトを怒鳴りつける。
「私達はずっとそうしてきた。そのために存在する」
「カイ、君の気持ちも分かりますけれどねー、千年という途方もない時間をそのためだけに費やしてきたんですよ―。えっと、クルトさん、つまりバルド殿下を引き合わせるためにお孫さんを息子さんと共に皇都へ送ったんですよね。どうしてその判断をなさったのですか」
「もし、子がひとりしか産まれない時が来たなら、祖を同じとする者の元を訪ねよと言い伝えられていた」
ラルスが黙々と質問を続ける。
「なるほど。産まれてきたとき、お孫さんには心臓がなかった。すぐに心臓を父親から移さなくてもよかったのですか?」
「心臓のない子の胸には七つの文字が浮かび上がる。一日にひとつずつ消えていき、全てが消えるまでに移さねばならない。器も心臓を取り出すと同じ文字がみっつ浮かんで、それが消えたら死ぬ。残った伴侶が子らを育てて新しい器を作らせるのだ。だが、リリーには四つしか浮かばなかった」
ラルスとクルトの会話は、リリーの頭にはいってこずにただ流れていく。
無意識のうちに真実を拒んでいた。
「うーん、そこまでは分かったんですけれどねー、どうして息子さんは王宮じゃなくて、孤児院に置いていったんでしょうか。お孫さんは、伴侶となるバルド殿下の住む王宮ではなく、身寄りのない子供を預かる施設の前に置かれていたんですよ。しかも何の事情も伝えずにです。だから今日まであなたがついて行った方がよかったのでは?」
「迷っている内に刻限が迫ったのかもしれない。私はここで待たねばならなかった。祖は言い残した。ひとりしか残らぬ時は、祖を同じくする者の元へ子を届けよ。その時神器について一切、口にしてはならぬ。もし、終わりでなければその子は血の定めに従い相応しき伴侶と共にここへ帰るだろう。……確かにそうなった。リリーは祖先の言い伝えるとおり、自ずと同じ血を見つけ出して共に帰って来た」
ふっとクルトの言葉が、意味をなして耳に入ってくる。
出会った瞬間、バルドに強く惹かれた。誰よりも強そうな彼に。
剣を合わせてさらに彼への興味は深まった。そうして今までどこにも見つけられなかった、安息の場所を見つけたと思った。
「違う……。そんなんじゃない。あたしが、あたしがバルドと一緒にいるのは先祖だの血だの関係ないっ!!」
リリーは頭を振って悲鳴に近い否定の声を上げる。
バルドの側にいたいという気持ちは、自分だけのものだ。自分の居場所を自分で選んだのだ。
誰かの意図が介入しているなど、認めない。
認められるはずがなかった。
「リー」
バルドに抱きすくめられ、背を撫でられて一層混乱してくる。
このぬくもりが心地いいのは、血が近いからか。あらかじめ定められていたことだったのか。
これまで築いてきたものが、酷く不安定であやふやなものへと変わっていく。
リリーは自分の足下を支えるものが消えていく感覚に、震えるばかりだった。
***
結局その後、バルドはあの場でクルトから話を聞き出すことはやめさせた。そしてどうにかラルスに言いくるめてもらいクルトを皇都まで連れていくこととなった。
屋敷の前庭の、バルドが侵入した場所の石の杭が欠けているのをクルトが見つけて修復するのをしばし待った。これがないと誰かが侵入してくる可能性があるというので、仕方ない。
そして修繕が終わると、クルトが道を先導し全員が山の中へ出ると、待っていたベレント男爵と合流して下山した。
その頃にはずいぶん日が傾いていた。男爵が猟師達に口止めをして帰す。後にベレント男爵が言うには、クルトの屋敷に関しては彼らは見えずに山の奥へバルド達が入って行った風にしか見えなかったらしい。
魔道士にしか見えないものだったのかもしれない。
その辺りについてもベレント男爵邸に戻ってからにすることにして、バルド達も馬車へ乗る。ベレント男爵に説明するために、ラルスとカイ、クルトは四人で馬車に乗り、バルドはリリーとふたりだけになる。
それまでの間、リリーは一言も喋らず黙り込んでいた。
「リー」
やっとふたりきりになれて、バルドは表情を沈ませるリリーを気づかう。
「……なんだろう、ごめん。まだ、頭の中がぐちゃぐちゃで本当に、何がなんだか分かんないの」
リリーが泣き出しそうな顔で弱々しく、剣の柄を撫でる。
無理もない。当事者でない自分でさえ理解するのがやっとの事態なのだ。彼女は嵐のただ中へひとりきりで放り込まれたのも同然だろう。
「……先にひとりで休むといい」
リリーの側にずっと付き添っていたいが、今は余計に混乱させるだけになりそうだった。バルド自身もまだきちんとは理解しきれておらず、彼女のためにできることがひとりにしておく以外に思いつかなかった。
「そうする……」
力なくリリーがうなずいて、バルドは彼女の手を握る。
「リーは、リー。変わらない。変わっていない」
皇家の純血で神器で心臓が動いていようと、今、目の前にいるリリーは今までと何も違わない。
例え、彼女が自分の側にいる理由が同じ血に惹かれたからでもいい。
自分の一緒にいたいという気持ちは、何ひとつ変わりはしない。
「うん……」
躊躇いがちにリリーが手を握り返そうとするものの、彼女の指先はバルドの手に触れる前に止まる。
バルドはそのまま仕方なくリリーの手を離す。
「……ごめん」
謝罪の言葉に胸が軋む。急にリリーが自分の目の前から消えてしまうのではないかという恐怖心さえ覚えた。
胸に彼女の体をかき抱きたくても、今はそうすることができない。
「いい」
バルドは一言返して、ふたりで静かにベレント男爵邸に帰り着くのを待った。屋敷につくと、バルドは侍女にリリーの世話を任せてラルスらと共に食堂に移動する。
「リリーは一緒ではないのか?」
クルトはひとりだけ別室に向かう孫娘の姿に、不安げな顔をする。
「お孫さんは疲れているみたいですから、先に休ませてあげるだけですよー」
ラルスがにこにこと言うのに、クルトは今度は心配そうにリリーが向かった廊下の先を見た。
そうして、防音の結界が張られた食堂で質疑の続きがなされることになった。
「まだいくつか気になることがあるので伺いますけど、よろしいですね。……クルトさん自身は魔道士でしょうけれど、『剣』、『杖』、『玉』のどれですか?」
クルトが同意するのを見て、ラルスがまずそう問うた。
「知らない。魔術は使ったことがない」
「まあ、戦に出ないと大して必要ないですけどねー。その件は皇都で確認しましょうか。そうですね、神器は本当にアクス補佐官の子供、つまりあなたのひ孫に移さなければならないんですか? 仮にそこにいらっしゃるバルド殿下の心臓を神器に変えるということは出来ないんでしょうか」
ラルスの仮には、つまりラインハルトにということだ。ただ彼はリリーを死なせずにという前提は、持ち出さなかった。
ラルスは神器を取り出しさえできれば、リリーがどうなろうとかまわないのだとバルドは眉を顰める。
「……無事に取り出す方法の有無、重要」
ラルスをねめつけてバルドは唸る。
「殿下、それは大事ですけれど-。えーと、別の皇家の人間にできるかできないかを聞くだけ聞いて見ましょー」
笑顔を引きつらせつつラルスが言うのに、バルドは不機嫌な顔のまま口を噤む。
「取り出したら、あの子が死んでしまう定めは変えられない。次の容れ物はあの子の産む子でないといけない」
「クルト様、ひとつよろしいですか」
ベレント男爵が片手を上げる。
「あなたがたはずっと、近親間で血を繋いでこられたのでしょう。それは神器の器となるには他の血が混ざってはならないからですか」
「血は純血ではなくてはならいと定められている。純血を保つのが我らの役目」
「ならば、バルド殿下は伴侶として適合するのでしょうか。確かに皇祖様のお血筋であられ魔力も比類なきものをお持ちであることは違いありませんが、他の血を受け入れてきました。次の代は血が薄まるのでは」
ベレント男爵が言うとおり、バルドもそこが気になっていた。
兄弟間で子を成し続けるという常軌を逸した行為を続けたのは、血の純度を維持することに重大な意味があったのではないのか。
「分からない。ただ祖先はもし子がひとりとなった時は、もうひとつの血脈と交わるべきと」
肝心なことは何ひとつ、皇祖は伝えていなかったらしい。
だがこの老人を含めた皇家のの純血達は千年もあの隠された屋敷で、かたくなに言いつけを護って神器の容れ物とその守護者として生き続けてきた。もはや彼らにとってこの行為がどういった意味を持つなど、重要なことではないのかもしれない。
血を繋ぐということだけが絶対なのだ。
「神器、容れ物は必要不可欠?」
おそらく何も知らないだろうと、バルドは期待せずに訊ねる。
「容れ物に入れておかねば、皇祖の心臓が心臓でなくなってしまう」
クルトが言うことはやはり要領を得なかった。
「よくわかんねえな。そもそも『玉』は俺らが伝え聞いてるのと別物なのか? 本当に皇祖の心臓ままとかじゃないですよね」
カイがクルトを怪訝そうに見る。
自分達が知っているのはグリザドの心臓が宝玉に変わったという話だ。偽の神器もこの話を元に、硝子に赤黒く色をつけて心臓を象ったものを用意した。おおよそこの国の人間が『グリザドの心臓』と言われて想像するのはそんなものだろう。
「心臓は心臓。血肉を持って脈打つものだ」
クルトの返答にその場の者が全員、渋い顔をする。
彼の言うことは比喩でもなんでもなさそうで、グリザドが千年も心臓だけで生き存えている不気味さがあった。
「まさしく、神のようなものですねえ……。分かりました。クルトさんご協力ありがとうございます。今日はもう食事をすませて明日の出立に向けてお休み下さい」
ラルスが言って、食堂に張られた結界が解かれるとベレント男爵が食事を運ばせる。静かな晩餐がすむと、クルトだけ客室へと侍女に付き添われて退出した後に再び結界が張られた。
「さーて、どうしましょうか。とんでもない所にあったものですよねー。信じたくはないんですけど、辻褄はあっちゃってるし、アクス補佐官のあの魔力の高さも血の濃さ故でしょうしね。カイ、お茶下さいー」
ラルスがカイに茶を注いでもらいながらため息をつく。
「……私はすぐにすぐにこのことを皇太子殿下にお伝えするよう、娘に手紙を送ります」
ベレント男爵がひとり席を立って、バルドはうつむく。
神器が、唯一のラインハルトを救う望みだった。希望は断たれたも同然だ。
(兄上が死んでしまう……)
認めたくない現実は眼前に迫っていた。もう目を逸らすことはできないところまできているのに、見たくない。
そんな現実があっていいはずがないと、未だに受け入れられずにいた。
「殿下、試すだけ、試してみませんか? グリザドの心臓を皇太子殿下に移すんです。もし、皇祖様の血が少し薄くなった殿下とアクス補佐官の子供に移せるなら、できるかもしれませんよー」
ラルスが人を食った笑みを浮かべる。
「……却下」
バルドはラルスを睨みつけて、そのまま退席する。
兄を救うためにリリーを犠牲になど絶対にできない。ふたりとも失いたくないのだ。
だがこのままでは兄は助からない。
(俺には何もできない)
結局物事が過ぎていくのを指を咥えて見ていることしかできない。兄のことだけでなく、リリーのこともそうだ。
バルドはリリーの部屋に向かいかけた足を止める。
ひとりにしておくのが最善で、今一緒にいたいのはリリーのためでなく自分のためだからだ。
そうしてバルドはひとり、とぼとぼと自室に戻って行ったのだった。
***
客室に戻ったリリーはすぐさまにローブを脱いで湯浴みをさせてもらっていた。
あまり日に焼けていない白い手足は長く引き締まっていて、乳房は腰の細さも相まって服を着ているときよりも一回りほど大きく見える。
少女というよりすでに女の域に入った肢体を、リリーは大きめの陶器の湯船につける。
(容れ物……)
リリーは湯船の中で自分の手足が揺れるのをぼうっと見つめる。
どう見てもただの人間のものだ。自分の胸元に手を当ててみても、心臓はなんの違和感もなく鼓動している。
他人の心臓が動いているなど信じられない。その他人に産まれた時から操られていたのだろうか。
(あたしが決めたことじゃなかった……?)
馬車の中でバルドに手を握り返そうとしたのは、本当に習慣からの反射的なものだった。だからこそ混乱する。
あれは自分の意志なのか、それともこの心臓の意志なのか。
「変わってない、か」
バルドはそうは言っていたけれど、もう自分自身がなんなのか本当に分からなくなっていた。
血に寄る繋がりがどこにもなく両親がどこの誰とも知らず、己が己であるという確固としたものは自分自身で零から築いてきたのだ。
そこへ両親の存在や、血筋のことなど一度に与えられた真実は今まで築いたものを土台からひっくり返すものだった。
この先どうやって生きていくかと、最も安らげる居場所。
このふたつが自分というものを形作る全てだった。
膨大な魔力が血によってもたらされたものだとしても、この力を戦うことに使い戦場で生き抜いて果てるのを決めたのは自分。
そうして、居場所はバルドの側と決めたはずだった。なのに始めから彼の側に辿り着くことをこの心臓の持ち主が決めていた。
自分というものが半分も損なわれた気がするのだ。
いや、気のせいではない。自分は自分というものを半分なくしてしまった。だからこんなにも空虚で、不安定な気持ちになっているのだ。
(バルドが特別なのは血のせい? バルドに触れられるのが嫌じゃないのはただ次の容れ物を作るため?)
この心臓が望むように、いつか彼の子が欲しくなるのか。
リリーは湯中りし初めて重くなった体を湯船から出して客室へと戻る。狭くはなく、広すぎない部屋へと侍女が食事を運んでくる。
冷製スープと見るからに柔らかそうな白いパンに、猪の肉を焼いたもの、それと蜜付けの李も添えてあった。
本来なら匂いも見た目も食欲をそそるはずのものなのに、あまり口をつけたいと思わなかった。
リリーはスープを啜って、次にパンを小さくちぎって口に運ぶ。猪肉は目に入れるだけで胃の腑から酸っぱいものが込み上げてきて、口に入れられそうになかった。
もうこれ以上食事をする気にもなれない。
「もったいない……」
多量に余る食事に罪悪感を覚えるものの、リリーは諦めて侍女に全部下げてもらった。
そうしてそのまま髪も乾かしきらず寝台に横になる。静かな中でひとりでそうしていると、また様々なことを考えてしまって自分の肉体に嫌悪まで感じてしまう。
何も考えずにいられる戦場に出たい。
それ以外に自分が自分でいられる場所は思い当たらなかった。
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