リリーが倒れたのは皇都へと帰り着いてすぐのことだった。

 帰りの道中に食欲が回復することもなく寝付きも悪かった。そんな中で暑さも厳しくすっかり疲れ果てて、自室にたどり着く前に廊下で意識を失ったのだ。

 そしてリリーが目を醒ましたのは、倒れてから半日後の朝だった。

「……大丈夫か?」

 起きて最初に声をかけてきたのは、クラウスだった。というより他に誰もいなかった。

「んー。何、あんたどうしてあたしの部屋にいるのよ……」

 自分が倒れたことを思い出せないリリーは眉根を寄せて刺々しく唸りながら、鋭い陽射しに目を細める。

「見舞いだよ、見舞い。リリーが倒れるなんて初めてだろ。何があったんだよ」

「倒れた……そうなの……?」

 クルトを伴って王宮へ行くバルド達と別れ、雷軍の兵舎に戻り自室へ向かう途中で気分が悪くなって座り込んでからの記憶がない。詳しく聞けば通りがかった部下の魔道士が気付いて、部屋まで運ばれたらしかった。ローブもは脱がされ双剣も外されたらしく傍らに置かれている。

 医者の見立てでは暑気当たりらしい。あれこれ心当たりがあるので、間違いないだろう。

「これ薬湯だってさ。匂いすごいし、不味そうだけど飲んだ方がいいいと思うぞ」

「飲む気なくすようなこと言いながら勧めるのやめて……」

 半身を起こしたリリーは、椀から立ちこめるつんとしたなんとも言えぬ匂いに苦い顔をする。

 しかし飲まねば体調は回復せず剣を抜くこともできなさそうで、鼻をつまんで一気に飲み干す。

「……不味い」

 後から鼻の奥にくるえぐみにリリーは思わず吐き出しそうになる。クラウスに渡された冷水を急いで飲み干す。

「リリーは風邪もひかないぐらい丈夫だし、真夏に戦闘しててもぴんぴんしてるぐらい体力あるのに珍しいよな」

「……珍しいもの観察にしにきただけならもう行って」

 再び寝台に横になったリリーは力なくクラウスを追い出しにかかる。弱っている所を他人に見られるのはあまり気分がよくない。

「後の世話は俺が診るってことになったからここにいる」

「別にいいわよ。子供じゃないんだからひとりで大丈夫よ。あたしを仕事しない口実にしないで」

「酷いなあ。心配はしたんだぞ。欲しいものがあったら持ってくるし、仕事するなら俺は隣でするからな」

 どうやらクラウスが案じてくれているのはまるきりの嘘ではないらしかった。

「……じゃあ、隣の部屋で仕事してて。必要だったら呼ぶから。ああ、悪いけど、窓、開けておいて。暑いの」

 リリーは譲歩しながら、普段と何も変わらないやりとりが出来ていることに安心感を覚えた。自分の出自が分かるまでの日常が側にあることで、多少なりとも気は安らいでいた。

 思っていたよりも、クラウスの存在は自分の日常に溶け込んでいたらしい。

「偵察の報告書は作らないのか?」

 窓を開けたクラウスの問いかけに、リリーはしばし考え込む。正式な報告書が作れる事態でないことは確かだ。

「……バルドは?」

 聞きながらもおそらく王宮だとリリーは結論づけていた。この先、自分のことをどうするかまだ話し合っているのだろう。

 皇都に戻るまでバルドとすらほとんど口を利いていない。唯一の身内であるクルトととでさえ、まったくと言っていいほど会話はしていなかった。

「昨日からずっと王宮。リリー、偵察で何があったんだ? 例の灰色の魔道士、みつかったのか」

 クラウスがさりげなく探りを入れてくるのに、リリーはため息をつく。

 そう、これも日常だ。自分を通じてクラウスは自分に有利になる情報を得ようとしているのだ。

「見つかってないわ」

「なら、両親に関して何か分かったのか」

「……あんた、どこまで知ってるの」

 リリーは眉根を寄せて訝しむ。あの偵察が自分の出自を探る目的もあったということは、当事者だった自分ですら知らされていなかったことだ。

「ということは、何か分かったのか。神聖文字を覚えてるってことは、神器に関わってる可能性が高いってことだろ。あげくにリリーの身内候補の皇都の貴族のどこの家にも、探りがまだ入ってないってなると、リリーの身内もついでに探してたんじゃないかと思ってな」

「普段はまともの仕事しないくせに、本当に嫌なくらい頭が回るわね」

 ついつい忘れがちになるが、クラウス仕事が『できない』のではなく『やらない』だけなのだ。

「面倒事を避けるには、いろいろ考えないといけないからな。で、見つかったのか?」

 ここでだんまりを通した方がよいのかもしれないが、どうせクラウスはある程度は自分で得てしまうだろうとリリーは口を開く。

「……親はふたりともとっくに死んでた。爺様がいたわ。教えられるのはここまでよ。あたしだって、あんたにそう何度も上手く利用されるほど馬鹿じゃないんだから」

 詳細はラルスに口止めされているし、話す気もなかった。

「そうか。バルドが王宮にいるってことは、結構なご身分だったわけだな」

 クラウスが結論をつきつけるのに、リリーは押し黙る。

「あたしの身分が結構なものだったら、あんたどうするの?」

「どうするって、状況によるけどなあ。リリーがこっちにいられないってことになるなら、一緒に出ていってもいいかな。と言っても、リリーはバルドから意地でも離れないか」

 クラウスが苦笑して言うことが、たまらなく苦しい。

 あんなにも頑なにバルドの側にいると決めていたのに、今は自分が本当にそうしたいのかはっきりしなくなっている。

 バルドに一番側にいて欲しいはずなのに、口にすることができない。

「……バルドとなんかあったのか? また皇太子殿下になんか言われて、リリーが困らされてるのか?」

 何も答えずににいるとクラウスが首を傾げて、リリーは首を横に降る

「なんにもないわ。バルドが悪いわけじゃないもの」

 困らせているのは自分の方なのだ。兵舎にひとりで戻る時も、心許なさそうにバルドが自分を見ていたのを思い出してリリーは口の内側を噛む。

「……なあ、本当にここにいられないってなったら、一緒に出ないか? 俺はリリーの出自とかはさ、そこまで気にしないし最後まで責任持つし」

「あんたの言う責任ほどあてにならないものはないわね。……あたしは戦に出られなくなるのは嫌だし、出て行くこともないと思うわ」

 以前に背信行為を疑われた時もそうだった。どうせなら皇都中の魔道士と戦って死んでもいいと考えていた。

 どの道、戦場にいることに変わりはない。早く、回復して小競り合いでもいいから参戦したいが、次の大戦までの間はしばらく両陣営とも息を潜めていることだろう。

「責任持つなんて、後が面倒なこと本気でそう思ってない限り言わないけどな……。じゃあ、俺は隣で仕事してるからな」

 クラウスが扉を開けたまま隣の執務室に移ってから、リリーは彼に背を向ける格好で寝返りをうって寝たふりをする。

 クラウスは相変わらず掴所がない。体よく自分を利用しようとしているかと思えば、優しい時もある。

 そんな人間にいつの間にか馴染んでいる自分というのも不思議だった。警戒心は捨てていないものの、時々気が緩んでいることがある。

 だがやはりバルドとは違うのだ。一緒にいることが落ち着くというより、お互い側にいないことが不自然で不完全であるかに思える相手はバルドだけだ。

 そう感じるのは自分の血のせいなのか。それだけなのか。

(だったら、どうなの。あたしはどうするの)

 何度も繰り返した問いかけを自分の心臓に投げかけても、やはり答はかえってこない。

 その代わり自分の思考や行動が、他人の思うとおりになっているかもしれないと嫌悪感がぶり返してきて自分で心臓を抉り出したくなる。

 誰かの言いなりになるだなんて、耐えられない。

 自分というものを自分自身で作り上げなければならなかったからこそ、誰かに隷属するということはリリーにとって自分自身の一部を奪われるも同然だった。

 だが自力ではどうすることもできない他人が、自分の心臓である事実に為す術があるはずもなく、嫌悪と悔しさにリリーは歯噛みするしかなかった。


***


 久方ぶりに王宮の自室で一夜過ごすことになったバルドは、あまり眠れないまま朝を迎えていた。

 昨日皇都に帰りついて疲れ切っているリリーを兵舎に帰した後、ラインハルトにすぐに報告に行くつもりだった。だが兄は書簡である程度は事態を把握はしているものの、長時間話し合いをすることは難しい状態で、会談は今日に持ち越しになった。

 ラインハルトの体調は悪化の一途を辿っている。

 神器を見つけ出したが、もうそれで兄を救う手立ても潰えた。だがラルスはリリーを犠牲にしてどうにかならないかと画策している。

(兄上も、そうするのだろうか)

 考えたくはなかった。

 兄の死に際を見るのも恐ければ、リリーの心臓を差し出せと兄自身の口から命じられるのも嫌だ。

 しかし会談の場にリリーを置かないということは、ラルスは提案するだろう。ラインハルトもきっとその手段を考える。

 どうしたらいいか分からず、今すぐにでも逃げ出したい気持ちでいる内に朝は来てしまった。

 バルドは気を落ち着けるために入り込んでいた寝台と壁の隙間から出て、ひとりで身支度を始める。顔を洗って前髪の長さが気になった。

 リリーに切ってもらってふた月ぐらいだ。もうだいぶ伸びてしまった。

 人に触られるのが苦手な上に、鋏だろうと刃物を無抵抗で当てられるのが嫌いなのもあって前髪が少しぐらい伸びた程度では放っておくことが多い。自分でやるにも不器用で上手くできないのだ。

 そうして見かねたリリーが切ってくれる。自分から頼みに行くことも多くなった。

 またリリーに切ってもらえるだろうか。

 バルドは自分の前髪をひとつまみして、昨日の別れ際のリリーを思い起す。食欲がなく、うっすらと目の下に隈も出て疲れ切った姿。

 せめて自分の部屋でゆっくり体を休められていればいいのだが。

 支度を終えて使用人が呼びにくるまで、バルドはしばらく落ち着きなく過ごした。

 かといって、ラインハルトの元へ向かう時にはさらに感情は動揺するばかりになってしまっていた。

「バルド、よくやった」

 まだエレンしかいない部屋に入っると、ラインハルトが寝台の上で穏やかに微笑んだ。

 兄の言葉も、笑みも喜ばしくはなかった。

「神器が見つかったなら、試せるものは試してみるべきだと私は考えている。お前はどう思う?」

 何も言い出せない内に、笑みを絶やさない兄に問いかけられてバルドは無言で首を振る。

「なぜ。私が生きるためには、無駄かもしれないとしてもやってみる価値があるだろう」

 質問の形を取りながらも、兄の視線と声は肯定を強要していた。

「……リーが死んでしまいます」

 バルドは弱々しく答える。自分にとってはとても重大なことだった。だが、兄にとってはそうでないと知ってしまっている。

「彼女がお前の側にいるのは、純血の維持のためだけだろう。お前を選んだのではない。お前に流れる皇家の血を選んだんだ。きっと、私が健康体でお前より強い魔力を持っていれば、私を選んでいただろう。彼女がディックハウト側へ捨てられていたなら、彼らにはもはや皇主である資格はないとはいえ、そちらで血を繋ごうとしたかもしれない」

 真綿で首を絞めるように、ラインハルトがじわじわと優しい声音で追い詰めてくる。

「リリーにとって、お前自身が特別ではないんだ。必要なのはお前に流れる血脈だけだ。だが、私はお前をちゃんと必要としている。たったひとりの、私の弟だ。他に変わりなどいない大事な存在だ」

 語りかけられて、バルドはびくりとする。

 自分にとっても兄は特別だった。初めて兄に声をかけられた時のことはよく覚えている。

『バルド、私はラインハルト。お前の兄上だ。分かるかな』

 四つの時に気に入りの長椅子の下に潜り込んでいると、まだ自分で歩けていた十になるラインハルトがしゃがんで声をかけてきた。

 兄という言葉は知っているものの、具体的に姿を現わされ自分は戸惑い怯えて長椅子の下深くへ潜り込んでしまった。

『そう怖がらなくていい。私はお前に何もしない。ほら、出ておいで』

 苦笑してラインハルトは手を差し伸べてきた。そんな表情を向けられるのも、手を差し出されるのも初めてのことでどんな意味があるのか理解出来なかった。

 しかし害意がないのだけは分かったので、長椅子の下から出ると兄はほっとした笑みを浮かべた。

『言葉は、ちゃんと分かるようだね。お前の声を聞かせてくれないか。私を兄上と呼んで欲しい』

『……あに、うえ』

 この時まで人と喋ることは皆無に近かった。誰もが自分の高すぎる魔力とその暴走を怖れ、遠巻きにされていた。母はすでに亡く、父も姿を見せることもなった。使用人達も義務的に最低限の世話をする時以外は、近寄ってこなかった。

 そして誰かを呼ぶというのも初めての行為だった。兄を呼んだとき、とても特別なことをした気がした。

『ありがとう。私はもっとバルドと話したいな。時々、お前に会いにきてもいいかい』

 兄という不思議な存在に、自分は言われるままにうなずいた。そうしてラインハルトは時々自分の元を訪れては、たくさんのことを喋って言葉を教えてくれた。

 ろくにナイフやスプーンを使えず、手掴みで食事をしていた自分に食器の使い方も教えてくれた。兄に褒めてもらいたくて、時々一緒に食事をするクラウスを観察しながら、予習と復習をして作法も覚えた。

 自分がなんとか人間らしくなれて、そうして皇族としての礼節をかろうじて損なわずにいられるのは全部、兄のおかげだった。

「……俺も、兄上が大事です。だが、リーも大事です」

 どちらかを選べるはずがなかった。自分にとって、リリーも特別で大事なのだ。

「だがリリーはお前自身のことが特別ではないんだよ。もしかすると、彼女にとって本当に特別なのはクラウスかもしれない。あれだけ誰にも懐かないリリーは、クラウスには気を許しているのはなぜだろうね。婚約の話を否定しないのも、無意識に気付いているのかもしれない。彼女自身が血に拘ることなく、自分の意志で選ぶ相手だと」

 リリーがクラウスを選ぶなんて、そんなことはあり得ない。他の人間より気を許してはいるのは確かだが、自分がクラウスと一緒にいてそこまで苦痛でないのと同じ理由のはずだ。

 ただ互いに必要以上に深く入り込んでこない相手。

 それだけのことだ。

「少し考える時間をあげよう。私もそう、長くは生きられない。私の命が尽きる前に正しい答を出しなさい」

 ラインハルトがそう言って、退出を促される。

 追いやられたバルドは行く当てが思いつかずに立ち竦む。王宮は自分にとって居心地がいい場所ではけしてない。

 兵舎の執務室の寝床が一番の安眠できて、いつでもリリーに会える場所だった。

 バルドはひとまず兵舎の寝床で考えることを決めると、のろのろと歩き出した。


***


 兵舎に帰り着いてバルドはまた迷っていた。

 寝床に行くと決めておきながらもリリーがどうしているかが気になった。だが兄に選択を迫られている状態で、リリーと顔を合わすことも躊躇われた。

 どちらに対しても後ろめたいものがあった。

「……将軍、アクス補佐官が伏せっていますのでご指示をいただきたいのですが」

 そうしていると、『玉』の統率官である女性におずおずと声をかけられて、バルドは目を瞬かせる。

 状態を聞けば昨日帰ってすぐに倒れたとのことで、そんなにも悪かったのかと驚いた。

 せめて部屋まで送るべきだったと、後悔の念が湧いてくる。

「万事予定通りにこなすこと。補佐官の仕事は全て俺の執務室へ」

 そうしてバルドはひとまずの指示だけして、リリーの部屋に向かうことにした。

 リリーの執務室の扉を開いて、彼女が倒れたことまでしか知らないバルドはクラウスがいることに眉根を寄せる。

「ん、なんだ。やっと帰って来たか。リリーが倒れたこと聞いたか?」

 事務仕事をしていたクラウスが目線だけ上げてバルドを見る。

「……容態」

 バルドは半分開けられている私室への扉を見やってそわそわする。なんとなしに、半端に開かれた扉は、リリーがクラウスへ入り込む隙間を与えているかに思えた。

「医者が言うには暑気あたりだってさ。薬飲んで、滋養のあるもの食べて休んだらよくなるらしい。昼食食べて寝た所だから起こすなよ」

 小声で言うクラウスの忠告にリリーの私室へ入ろうとしたバルドは足を止める。

「……なぜクラウスがいる」

「そりゃ、世話するためだよ。ひとりにしておくわけにもいかないだろ……リリーの出自、分かったんだよな。両親はすでに死亡して、爺様が見つかったって所まで聞いた」

 誰にも出自の話はするなと、ラルスにリリーは言い含められていたのでさすがに全ては口にはしていないらしかった。どのみちクラウスなら王宮にクルトがいることも、彼がリリーの身内であることも突き止めてしまうだろうが。

「重要機密」

 自分の立場としても、クラウスには教えられなかった。

「思った以上に重大そうだな。お前、これからリリーのことどうするんだ?」

 これからどうするかなど、そう簡単に決められない。

 ラインハルトの命を救えるかどうかは、賭けに近い。失敗した時、自分は兄もリリーもふたりとも失うのだ。

 しかしやらなければラインハルトは確実に死を迎える。

 どちらにしろリリーか、兄かを選ばなければいけない。

 答えられずに沈黙していると、クラウスがため息をつく。

「なんだ、前みたいに一緒に生きて一緒に死ぬって答えられないぐらいには、厄介な事態か。どうせ、皇太子殿下から何か言われたんだろ。お前がリリーのことではっきりした態度取れないときはいつもそうだよな」

 責めるような言葉に、バルドはクラウスから目を逸らす。

「そうやって、お前はまた逃げるんだな。少なくとも、俺はいつまでもぐずぐずしてなんにも自分で決められないお前よりは、リリーを幸せにできると思ってる。リリーだって、俺に少しずつでも気を許してきてるし、その内、俺の方がまだましだって思うかもな」

 冷ややかな視線を向けてくるクラウスの言葉を肯定することは、したくなかった。

 リリーの特別は自分だけのもののはずだ。戦闘の快楽を分かち合うのも、一番近くに居るのも、触れていいのも、全部自分だけが許されているものだ。

 だけれど、それでリリーが本当に幸せかどうかは知らない。

 そうして彼女自身が純血を繋ぐという血に課せられた定めを厭うなら、自分の側に居ることはむしろ苦痛になるかもしれない。

「……リーが望むなら仕方なし」

 諦めを口にしながらも、バルドは両の拳を強く握り込んでいた。

「結局、人任せで自分で決めないんだな。お前さ、そんな簡単に諦められるのか。俺がリリーを抱いたって仕方ないとか思ってるわけじゃないだろ」

 リリーに自分以外の誰かが触れるなど、考えたくもない。

(俺の、もの)

 苛々するのは結局はそういうことなのだ。今、手に入れられないものもいつか自分のものになると思っていた。

 誰にもリリーを渡したくない。

 クラウスに、髪の一筋でさえ触れさせたくない。

 ラインハルトを救うためだとしても、リリーの命を捧げるなどできるはずがないのだ。

(兄上を、俺は見捨ててしまう)

 バルドが揺れ動く自分の気持ちに戸惑っていると、私室の方から音がした。どうやらリリーが起きたらしかった。

「……クラウス、悪いけど……バルド、来てたの」

 私室から出てきたリリーがバルドを見て、目を丸くする。

「リー、具合」

「うん。だいぶよくなったわ。あたし、王宮まで行かないといけないの?」

「……休んでていていい。俺は様子を見に来た」

「そこまで悪いわけじゃないから大丈夫。これからまた王宮に戻るの?」

「兵舎にいる……。ここにいる」

 側にいていいだろうかと視線で問うと、リリーが困った顔をする。

「リリー、俺に用があるんじゃないのか?」

「あ、うん。ちょっとだけおなかが空いてきたから、果物が欲しいなって思って」

「ああ、昼はちょっとしか食べてなかったからな。食欲が戻ってきたんならすぐよくなりそうだな。じゃあ、食堂行ってくる」

 クラウスがバルドを一瞥してから、執務室から出て行ってからバルドはリリーを寝室に戻す。

 寝台に腰掛けたリリーは、相変わらず困り顔だった。

「……リーの面倒、俺がみる」

「別にいいわよ、だいぶよくなったし、皇太子殿下の方があたしよりずっと悪いでしょ。……せっかく神器見つけたのに、使いものにならなそうよね」

 リリーが自分の胸元を押さえて言う。

「いい。仕方ないこと」

 まだ、リリーはラインハルトやラルスが何をなそうとしているか気付いていないらしかった。

 勘のいい彼女ならばその内危機感を抱くかもしれないが、まだ自身のことでいっぱいいっぱいなのだろう。

「本当に王宮に戻ってていいわよ。あたしの方はもうよくなってきたし、クラウスも居てくれるって言うから」

 リリーが距離を取ろうとするのに、バルドは口を引き結ぶ。

「俺がいるより、クラウスがいた方がいい?」

「どうしてそういうことになるのよ。……バルドと一緒にいたくないわけじゃないのよ。でもね、一緒にいたいっていう意志があたしのもかどうか分からいの……。自分の気持ちを他人に操られてるみたいで、嫌で嫌でたまらなくなるのよ。あたし、今、全然分からないの。バルドが好きなのか、血が濃かったら誰もよかったのかどっちなんだろ……」

 リリーが両手で顔を覆って静かに肩を震わせる。

「ごめん。……バルド、ごめん」

 そうして続くのは謝罪の言葉だけだった。

 バルドは静かにリリーの姿を見ていることしかできなかった。頭の中ではラインハルトに言われたことが木魂していた。

 リリーにとって特別なのは自分ではないのかもしれない。

 でも、自分にとってはやはりリリーは大事で特別な存在で、全部自分だけのものにしてしまいたいと思っている。

 噛合わない時、どうすればいいのか。

「リー……」

 バルドは両手を伸べてリリーをきつく抱きしめる。

 どこにも行かないように、繋ぎ止めておきたかった。どうやれば束縛してしまえるのだろう。

 体は縛りつけられても、心を縛る方法は思いつかなかった。

「バルド、苦しい」

 体が軋むほど強くリリーを抱きしめていたことに気付いて、バルドは腕を緩める。なかなか離すこともできずにじっとしていた。

「ねえ。バルドはそれでもいいの? あたしが、ただ、自分と同じ血が混ざった新しい神器の容れ物が欲しいだけでも一緒にいたいの?」

 リリーが震える声で訊ねてくる。

「いい。俺は、リーが一緒にいるならいい」

 自分の側からリリーが離れないなら、本当になんでもよかった。

「…………ごめん。あたし、やっぱり。駄目。そんなの、嫌」

 リリーがまた泣き出して、バルドは彼女を抱きしめていた腕を解く。

 もう二度と泣かせたりしたくなかったのに。

 これ以上、彼女の泣き声を聞くのも泣き顔を見たくないのに、止める方法もなくバルドはその場を離れることしかできなかった。


***


 食堂で無花果をもらってリリーの部屋へ戻ってきたクラウスは、バルドが居なくなっていることに首を傾げる。

 このまま居座るかと思っていたのだが。

「リリー、バルドは帰ったのか……」

 半分扉が開いたままの寝室に入ると、リリーは背を向ける格好で横になっていた。

「どうした、また具合、悪くなったのか? 無花果、一緒に食べないか」

「……後で、食べるから。そこに置いといて。ありがとう」

 リリーの声は少し掠れていた。気丈な彼女が泣いた所を自分は見たことはなくて、ほんの少し見たいと思った。ただの興味本位でなく、ただもっとリリーのことを知りたかった。

「喧嘩したのか。だいたい悪いのバルドだろうけど」

 バルドがここに居ないとなるとリリーに追い出されたか、自分に非があって逃げ出したかのどちらかだろうとクラウスは問う。

「……あたしが酷いこと言ったの」

 リリーがバルドを庇って言うのに、クラウスは心底呆れつつ苛立ちを覚える。

 いつもいつもバルドは何も決められずにラインハルトの言葉ひとつでぐらついては、リリーに負担をかけている。それでも、彼女に見放されない。

「たまには、いいだろ。バルドには余計な苦労させられてるんだしな」

「余計な苦労かな……」

 リリーが半身を起こして寝台に座り込む。彼女の目元は赤く、頬も涙の痕が少し残っていた。

 どことなく放心した体でリリーは自分の膝元を見ていた。

「リリーはバルドと一緒にいなかったら、好きなだけ前線で暴れられてただろ」

 バルドと出会わなければ、きっとリリーは小隊長でも任されて、部下はそっちのけで戦闘に勤しんでいたに違いない。そうなっていたら、もうとっくに戦死していたということもありうるが。

「そうよね。将軍のお守り任せられてなかったら、もっといろんなとこに狩り出されてたんだろうな……。ついでにあんたに仕事を押しつけられることもなかっただろうし」

「……そうだな。俺も今頃、リリーとこうやって話すこともなかったかもな」

 しかし、バルドとリリーが惹かれ合わなければ自分も彼女と出会うことがなかったのかもしれないと思うと複雑だ。

「そうしたら、あたしはただのよくいる孤児のままで終わってたかしら」

「どうだろうな。まあ、魔力が高いからある程度は気にはかけられただろうけど、前線に放りだしておいてる内に、死んでましたってことになってたかもな。……ただの孤児じゃなかったのか」

「……あたしの両親さ、双子の兄弟だったんだって。別にお互いどうしても好きになったからとかじゃなくて、決められたことだからって。爺様も、婆様もみんな血の繋がった兄弟だっただって」

 リリーの口から聞かされたことに、クラウスは何とも言えない気分になる。

 彼女の両親についてはまるきり予想外だったが、自分の血筋が異質すぎることを聞かされれば思い悩むのも当然だと思えた。だが、おそらくそれだけではないものも感じる。

「……また、すごい家系だな。いいのか、俺にこんなこと話して」

 情報は得たかったものの、どことなくリリーが自暴自棄になっているかに思えて不安になる。

 クラウスは傍らの机に無造作に置いていた無花果を、リリーに手渡す。

「よくないわね。あんた全部知ったら、あたしを利用するんだろうし」

「利用価値、あるのか」

 リリーが迷いながらも無花果の皮を剥くのを眺めつつ、クラウスは言葉尻をとらえる。

「もう、いちいち揚げ足取らないでよ」

 唇を尖らすリリーは、少しいつもの調子が戻って来た風に見えた。

「皇太子殿下にとって、リリーは邪魔だってはっきりしたのか。それとも、バルドとくっつけた方が得策だって方向になったのかどっちだ?」

 ラインハルトの強い命令がバルドに下されているのだけは確実だ。バルドの先ほどの態度を見る限り、リリーを始末したい方向である可能性が高い。

「あたし自身は役に立たないわ。でも……」

 リリーが手元の無花果の赤く剥き出しになった実を見ながら、考え込む。そうして深く眉間に皺を寄せた。

「でも?」

「今度こそ、本当に殺されるわ」

 硬い声でリリーが断言する。

「……で、バルドはそのこと分かってるのか。だけどな、死にかけの皇太子殿下がリリーを殺せって命じてもバルドは従わないだろ。」

 さすがにバルドがリリーを抹殺するなど、出来ないはずだ。例え、死が迫る兄の最後の願いだとしても。

 むしろラインハルトが死ぬのなら、なおさらリリーを手放せないはずだ。

「分かんない。たぶん、バルドも困ってる。ああ、もうやだ。あたし、本当にバルドに酷いこと言っちゃったんだ…………」

 リリーは今にも泣き出しそうに顔を歪めて、ひどく落ち込む。後悔と自責に落ち込む彼女を慰めたくて、触れようと思ったができなかった。

 女の子を泣かしたことはいくらでもあっても、本気で慰めたことはないのだ。

「なあ、リリー、俺は味方になるから、全部話してくれないか」

「全部は話せないわ。関わらなくていいわよ。自分でなんとかするから」

 自分が全面の信頼をよせてもらえる人間ではないことは、重々自覚している。だが後ほんの一歩だけでも踏み込ませてもらえず、クラウスは落胆する。

「なんとかって、バルドが頼りにならないんだったら、皇太子殿下がどう動くかなんてリリーには予測できないだろ、情報源は必要だとおもわないか?」

 しかし諦め悪く押しつけると、リリーの視線がやっと真っ直ぐに自分に向いた。

「……たぶん、水将も動くと思うわよ。あたしも全部は教えないわよ。それでも関わる気? あんたがそこまでする理由なんて、どこにもないでしょ」

 こうもきっぱり、切り捨てられるとさすがにきついなとクラウスは苦笑する。

「じゃあ、この間助けてもらった礼、でどうだ」

「別にあたし助けたわけじゃないわ」

「そうだったな。……一応婚約者として協力するならいいか?」

 訊ねるとリリーの視線が胡乱なものに変わる。

「…………一気に胡散臭くなったわね。もういいわ。逃げたいときに好きに逃げても恨まないから都合が悪くなったら好きに逃げて」

 しかしながらなんとか了承してもらえて、安堵する。さすがに戦闘力以外にこれといって、他に何もないリリーがラインハルトをひとりで相手取るのは無謀なのだ。

「まずは、元気にならないとな」

「そうね……おいしいわ」

 リリーは無花果をかじって難しい顔のままうなずいて、もくもくと食べていく。

 そんな様子を見ていると胸に込み上げてくるものがあって、思わずクラウスの口元がほころぶ。

 たぶんきっと、こういう感情を『愛おしい』と呼ぶのだろう――。

 

***


 午後、ラインハルトの部屋にはラルスとカイが居た。バルドとは時間をずらしてラインハルトは彼らを呼びつけていたのだ。

「いかがでした、バルド殿下のご判断は」

 ラルスが問うのに、半身を起こしているラインハルトは冷めた表情でため息をつく。

「迷っているよ。まだ執着が捨て切れていないらしい。まったくとんでもない所へ隠されていたものだ」

 失われた神器がやっと見つかった。

 こんなにも長い時間と多くの人を割いて探し求めていたものが、十七年も前からすぐ近くにあったなど思いもしなかった。リリーが血に植えつけられた本能に従って、バルドの元へとたどりついたのは幸いだった。

「長い間、アクス補佐官にお世話してもらっていましたからね―。それもこれも新しい神器の器を産み出すためだったなんて、すぐに納得がいかないのも仕方ありませんね」

「そうだな。まっとうにあの子が他人に愛されるなどないとは思っていたが。少々憐れといえば憐れか」

 周囲の人間に怯えられ、ろくに言葉も話せずまともに食事の作法も知らない獣同然だった幼い弟の姿を眼裏に思い起こす。

 黙って玉座に座って宰相の傀儡の皇主になればいいだけのバルドに、最低限の教養すら進んで施そうという者は誰もいなかった。

 この先もきっと、弟は誰にも必要とされないはず。そんな考えはリリーによって覆されたと思ったが、結局の所は強い魔力を持つ皇家の血が濃い伴侶であれば彼女はバルドでなくてもよかったに違いない。

 バルド自身が選ばれたわけではなかったのだ。そのことに安堵するものがあった。

 誰にも必要とされないのは自分だけではない。やはり弟もそうなのだ。

「……それで、どうされます。弟君が決断するのを、悠長に待つなんてことはなさらないでしょう」

「できれば、バルドにさせたかったが、仕方ないな。ブラント将軍、君にひとつ確認しておきたい。彼女が皇家の純血であるならば、君の忠義に反する所が出てこないか」

「もちろん、皇家には忠心を持っていますが、血筋だけではなく、崇高な血統に見合った君主としての資質を持ち得るかどうかが重要ですから。だから、僕はハイゼンベルクにお仕えしているわけですよ」

 ラルスが瞳の奥に狂信をちらつかせるのを、ラインハルトは見過ごしはしなかった。

 忠心と盲信は紙一重だ。ラルスがその境界をふらついているのは少々危うい者を覚えるが、皇家に尽くしてくれることは間違いない。

「そう言ってくれるならば、安心して任せられる。ところで、クルトという老人は神聖文字を解読できたのか?」

 王宮の奥まった部屋で滞在させてあるリリーの祖父であるクルトが、神聖文字を解読できないか確認させていた。

 隠れ潜んでいた屋敷を人々の目から隠す魔術は、屋敷を囲む神聖文字を彫り込んだ石の杭でなされていたらしかった。そして、神器の容れ物となる赤子の胸に浮かび上がる文字も、神聖文字で違いないということだった。

「そちらは残念ながら……あの文字を用いて神器を移すという魔術は受け継いではいるらしいんですけど、意味はさっぱり分からないそうです」

「……読めれば、神器をわざわざ人体に保管するなどということをした理由が分かると思ったのだがな。彼に魔力はあるのか」

「ええ。あるにはあるんですけど、『剣』『玉』『杖』どれにも適正がありました。だけど、どれもそう強くはないんですよねー」

 ラルスによれば魔術の媒体となる『剣』『玉』『杖』を用意して、クルトの血をそれぞれに塗りつけて簡易に媒体と紐付けして試させたということだ。

 いずれに対しても同程度の魔術を扱うことができたものの、どれも下級魔道士程度のものだったらしい。本来は適正のあるひとつ以外は微弱でほとんど扱えないのが普通のことだ。

「みっつ全てに平均的に、というのはやはり純血ゆえか……。だがリリーは『剣』が特化しているか。器と守護では何かが違うのかもしれないな。そちらはそれほど問題なさそうだが、灰色の魔道士が気になる。本当に何も知らないのか?」

 存在も知られずにいた神器の真の社とも呼べる屋敷を見つけ出した灰色の魔道士。そしてリリーと接触を試みたということは、神器が彼女の中にあると知っていたということだ。

 ハイゼンベルクの者でもなく、ディックハウトの者でもない。

 依然正体がまるで掴めない。

「念入りに聞いたんですけどねー。本当に知らないそうですよ。その情報をディックハウト側に喋ってしまう、という可能性がありますからねえ」

「そちらは、引き続き調べるしかないか。ひとまずは、リリーから神器を取り出さねばな……」

 なにはともあれグリザドの心臓を、ディックハウト側に絶対に渡らない場所に保管しなければならない。

 すなわち、自分の胸へと。

 ラインハルトはもうほとんど使い物にならいがらくたになり始めている、自分の心臓へと意識を向ける。

「王宮に呼び出して、そのまま拘束しますか?」

 ラルスが提案するのに、ラインハルトは首を横に振る。

「いや、先にバルドを離しておかなければな。まだ決断しきれていない。それに、彼女ならこちらの目的も察しがつく。そう簡単に、都合よくはここへはこさせられないだろうし、王宮内での戦闘は避けたい」

 獣同然の娘とはいえ、まるきり知恵がないわけでもない。呼ばれて素直にここまで来るとは思えなかった。

 何よりバルドが感情に流されて邪魔に入る可能性も捨てきれない。

「生きたままじゃないと駄目って面倒ですねえ。死体にして持ってくる方が早いと思うんですけどね―」

 ラルスは神器さえ手に入れば、リリーはどうでもよいらしかった。

 皇家の血だけではなく、君主として相応しい者しか彼が主君として認めないのは本当らしい。

「瀕死程度で留めておくならいいかもしれないが……今、リリーは暑気あたりで伏せっていてクラウスと一緒だったか」

 バルドを部屋に呼び寄せる前に、リリーの現状も傍らで静かに佇んでいるエレンを通じて調べさせていた。

 睡眠不足と食欲不振からくる体力の衰えで暑気あたりを起こしたとは、思いの外繊細な神経も持ち合わせていたらしい。ただクラウスが献身的に看病しているというのは、気がかりではあるが好都合とも言えるだろう。

 だからこそ、バルドを一度兵舎に帰したのだ。

「さすがにアクス補佐官も気が動転して、ずいぶん憔悴してましたからねー。うーん、クラウスが一緒、ですか。何か喋らされちゃってますかねー」

 リリーの現状を聞いたラルスが眉根を寄せる。

「どうだろうな。リリーとて、クラウスを信用しきっていないだろう。ただ、バルドが言うには、クラウスはリリーに気があるらしい。あながち婚約は本気のつもりかもしれない」

「あのクラウスが、ですかー? 裏があると思うんですけどねえ。どのみちアクス補佐官をクラウスに渡す訳にもいきませんしね」

 クラウスの本意には懐疑的なラルスが思案する。

「できれば、ふたりまとめて追い込みたいとは思っているのだが、何しろ、クラウスにはベーケ伯爵令嬢という切り札がある。宰相家もこれ以上不安定にしてはな」

 クラウスの兄の第一夫人だった、南の護りの要であるベーケ伯爵令嬢のアンネリーゼはクラウスのために夫を殺害した。彼女を利用すれば南の防衛を崩せる。

 そして、宰相家が今、弱体化すれば政情が不安定となる。

「クラウスの立ち位置は厄介ですよね。ですが、皇太子殿下に無事に神器が移せればもはや後釜の宰相争いなど、不要になるでしょう。内政はグリザドの心臓を御自らの体に宿した皇太子殿下が、戦はグリザドの右腕を振るうバルド殿下がなさることになる。そうすれば、ベーケ伯爵もクラウスに唆されて裏切ろうなど、微塵も思わないのでは? 彼もハイゼンベルクを正統と思うからこそ、ご令嬢を証として宰相家に差し出したのでしょう」

 ラルスがいつも以上によく回る口で説くのに、ラインハルトは思案する。

 確かに成功すれば、宰相という地位の権威は損なわれ、神器を宿した新しい皇主が立てば正統性の主張は強固なものとなる。

 だが成功しなければ。

(自分が死んだ後のことなど、気にしても無駄か)

 失敗すればもう自分には関係のないことだと、ラインハルトは密やかに自嘲する。

「そうだな。ならば、リリーを生け捕りにして、一緒にクラウスを処理して宰相家を追いこむことにするか。エレン、後でバルドを王宮に待機させておくように言ってくれ。ブラント将軍、明日には指示を出すから君もそれまで、通常通りに職務にあたっていてくれ」

 ラインハルトは一息に指示を指示をして、ラルスと黙って待機しているカイが退出するのを待つ。

 そうして、彼らが姿が見せなくなると半ば倒れように体を横たえる。

 体はひどい疲労感を覚えていた。呼吸するのが苦しく、寝衣の背は汗でぐっしょり濡れている。

 エレンがすぐに窓を開け、風通しをよくしてから汗をぬぐってくれる。寝衣の上着を着替えるのを手伝って貰う頃には少しは楽になる。

「他に、何か必要なものはございますか?」

「いや。十分だ。これから、どうするか考えなければな……」

 言いながらも瞼は重い。後少し、もう少しだけだというのに体はもう思うとおりにはなってくれない。

「少し、お休みになられてはいかがですか? また、お言いつけの時間に起こします」

 エレンが静かに言うのに、ラインハルトはため息をついて仕方なしに体を休めることにする。

(延命……心臓……)

 瞼の裏には何年もかけて見てきた神聖文字が浮かび上がる。

 皇祖グリザドは永遠に生きようとしたのだろうか。だが、心臓が動いているというだけでは生きている意味はないかに思える。

(私は永久に生を持ち続けたいとは思わないな)

 ただ誰からも忘れられて必要とされずに、生を終えたくないだけだ。

 しかし果たして生きたとしても必要とされるだろうか。

 無性にエレンに問いかけたかったが、ラインハルトの体はすでに眠りにつきかけていて言葉を発することはできなかった。

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