各地で戦が勃発し革命軍が目前に迫る中、皇都はいまだに静かだった。しかし静寂は平穏ではない。誰もが物音を立てずに動いているだけのことだ。

 水将補佐官のカイは密やかに王宮を出る前皇主の五人の妃達の護衛にあたっていた。侍女の質素な衣装を身に纏い、うつむいて静々と歩く彼女らの表情は一様に固い。

 王宮の裏手から親族や後見人に引き取られて行く際、誰も王宮を振り返ることはなかった。

 妃達を王宮から出すことは前の皇主が革命軍が蜂起した際に提案していた。

 だが人質であり忠誠の証でもある妃を王宮から出すことを、大臣や官吏らは渋ってすぐにはなされなかった。皇都が戦場になる目前に前の皇主が再度命じてやっとのこと妃達は外に出ることとなった。

「静かすぎるな……」

 つぶやくカイに答える者はいない。上官である水将のラルスはまだ王宮で典儀長官を務める彼の父と話している。おそらく宰相家の没した嫡男の妻達と子供らが明日、屋敷から出ることについてだろう。

 宰相は息子のクラウスが革命軍にいるものの、孫達については彼に便宜を図ってもらってはいないという。

 そうやって皇都で革命軍と戦うか、それとも従うかの決断を誰もがしている最中だ。

 自分もまた、兄の忘れ形見である甥と決別することとなった。

 庶子であった自分はベッカー家の家督を継ぐ気もなければ、わずかばかりの財を分けてもらうつもりはなかった。

 だが、ひとつだけ戦死した兄への義理立てに死ぬことは譲ってもらうことにした。

 甥は妻と子だけは妻の実家に預け、父親と同じように忠誠を尽くして戦うことを望んだ。しかし妻子に後ろ髪を引かれていることも知っていた。

 少しでも未練があるならば、生き残ってほしい。

 そう願って、甥は静かに首を縦に振った。

(俺も、お前がいたらそうしただろうな)

 昔も今も皇家への忠誠心というものはないのだ。もし妻がまだ生きていて子供でもいたなら自分も生きる選択をしたはずだ。

「お待たせしました」

 妃達が去るのを見届けて少し経ってから、ラルスがやってきた。

「おう。長かったな」

「うん、ジルベール侯爵も一緒だったからね。彼と僕で皇都の軍を取り纏めるしかなさそうですねー」

「地将と風将は軍議にも顔出さなくなっちまったからな。今すぐ皇都で戦が始められねえとはいえ、堂々と戦支度か」

 すでに皇都の軍議はまともに機能していなかった。皇家に最後まで仕える者とそうでない者が二分され、戦支度をしていてもお互いに切っ先を向け合うためだ。

 そんな状態で水将の水軍、地将の地軍などという軍の編成も成り立っておらず、皇家側と革命軍側で部隊を越えて結束を固めていっている状態だ。

 皇家側の指揮の中枢は水将のラルスと、ヴィオラとマリウスの父であるジルベール侯爵で以前から固まりつつあったので今更の決定ではある。

「おそらく戦まで後二日もなさそうですしねー。向こうの指揮官の中にクラウスがいるっていう話も間違いなさそうです。宰相殿はどうするやら」

 敵増援の中にクラウスがいるらしいという情報が入ってはいたものの、まだ正確ではなかった。

 革命軍側で中枢にいるのなら出てきてもおかしくないとはいえ、この大局で指揮官とはずいぶんと出世したものだとカイは他人事のように感心していた。

「……クラウスの奴はまだわかるけどよ、炎将はいるのか」

 消息不明のヴィオラの姿が目撃された件も報告が上がって以降、なんの情報も入っていない。

「皇主様が出陣してからは何も報告がないですからねー。マリウスと皇主様の方に炎将がいってるとまずいかなあ」

 マリウスが敵の陽動を引きつけることを始め、バルドも出陣した後は動向が皇都からはわからなくなった。バルド達の進行方向では小規模の衝突が起きていて、伝達がもたついているのだ。

「炎将がマリウスと戦すると思うか? 弟が一番大事だっただろ」

「マリウスを寝返らせたいなら、無理矢理でも捕虜にするしかなさそうですけどね。マリウスが皇主様に忠誠を尽くしたいなら、口出しするのはいらない世話って僕は思うよ」

 魔術という力を幼い頃から崇拝しているラルスがぼやく。

「てめえはそうだろうな」

「忠誠心もない魔術にもこだわりがないカイには全然わかりませんよねー」

「わかんねえよ。だが、てめえのお守りだけは責任持ってさせてもらうからな」

 甥は十分独り立ちして、あと世話がやけるのはこの九つ年下の上官だけだ。自分がこちら側に残る理由は幼少期から守役をさせられたラルスぐらいしかない。

「もう子供じゃないんですけどね-。できれば皇主様の元で最期まで戦いたいなあ」

 ラルスがぽつりと本音を漏らして、そうさせてやりたいところだがもはや三日先に生きていられるかすら怪しい。

「……寒いな。とっとと帰るぞ」

 吹き込む風に、肩をすくめてカイ達は軍舎へと戻る。

 そのわずか半日後、ヴィオラとマリウスの部隊が衝突しマリウスの部隊が壊滅したとの報せが届いたのだった。


***


 ヴィオラの襲撃が部隊を殲滅するためでないということに、マリウスが気づいたのが遅すぎた。

 戦力差と背後に控えるバルド達の増援を考慮してぶつかることより、退くことを選択したが進行方向が大きくずれた。

 これによってバルドの部隊と分断されたと悟ったときには、自分達を追う敵勢の数は大きく減っていた。おそらく自分達の動きから本来の進路を読んだ大多数がバルドの部隊へと向かったのだ。

「革命軍は生きたいと望む者の願いを叶えるわ。これ以上走ることも戦うこともしたくない者は投降しなさい」

 森の中で追い詰められたマリウスの部隊の魔道士達は傷だらけで、これ以上動くのは限界という状態の者も少なくなかった。

「姉上、私は降伏などいたしません」

 一番前で部下達を背に庇いながら、マリウスはヴィオラを見据える。

「ここでわたくしと戦って死ぬというの? お前には無理よ。その状態なら、生け捕りにできるわ」

「姉上、私は決めたのです。皇主様に最期までお仕えすると」

 ヴィオラが自分を生かそうとしているのはわかる。だが、自分にはその選択肢を選ぶことができない。

「皇主様がお望みなのは、皇国のと魔術の滅亡よ。死ぬことよりも生きることが恐いのよ、お前は。わたくしたち、しらないんですもの。戦がない日常なんて。今まで生きてきた全部が無駄になる、力を失った後に何が自分に残るか」

 ヴィオラの語りかける言葉はマリウスだけに向けられたものではなかった。むしろ彼の背後にいる魔道士達に強く訴えかけていた。

「それは、生きてみないとわからないことよ。皇家が滅んで魔術がなくなるこの島がこれからよくなるのか、悪くなるのかもわかりませんわ。自分にとっていいことか、悪いことかも。見えない先は恐いわ。だけれど先を恐れて死ぬぐらいなら、わたくしと共にきなさい」

 肉体も精神も疲労した者達にとって、ヴィオラの声は生存本能に強く響いた。

 敵の甘言に動じるなとマリウスは言えなかった。生きたいと望む者を死地に引きずり込むことができるはずがない。

「……投降したい者はしてもいい。ここまで、よくやってくれた」

 自分は行かないと強い意思を見せながら、マリウスは部下達を振り返る。

 戸惑い躊躇いを表情に浮かべる者が大多数だった。迷うということは生きたいということだ。

「マリウス……」

 ヴィオラが悲しげに目を細める。

 このままお互い剣を向け合うこともできなければ、並んで歩くこともできない。

 姉弟で視線を交えながら先にヴィオラが剣をしまった。

「投降する気がない者は向こうから行きなさい。間に合うかどうかはわかりませんけれど、皇主様のお近くには行けるはずよ」

 ヴィオラが示す道はバルドとの合流地点への遠回りな道程だった。最大の譲歩にマリウスも剣をしまい頭を下げる。

 ヴィオラは何も言わなかった。薄暗い森の中で姉の目に涙が滲んでいることは見ないふりをした。

 マリウスについてきた者達はわずか八名。実質的に部隊は壊滅状態となってしまった。

(姉上の仰ることは正しい。それでも……)

 自分の将来が見えないことを恐れている。だがそれでも確かに忠誠心もあるのだ。

(どうか、ご無事で)

 ヴィオラがいないならバルドは十分に耐えられるはずだ。補佐官のリリーもいる。あのふたりがいれば早々に負けはしない。

 マリウスは急ぎながら耳を澄ませ中空に目を凝らす。雷鳴はまだ聞こえなかった。

 そしてマリウスが急ぐ一方で、ヴィオラも動けない者達を部下に任せてバルド達を追った部隊に追いつこうと急ぐ。

「やっぱり、あの子の考えを変えられるのだけは皇主様だけね」

 ヴィオラは自分の声が少しでも弟に届いていればと、捨てきれない希望を抱いてひた走った。



***


 山中の絶壁に囲まれた谷底と谷の上の崖の二手に分かれて、バルドを将とする軍は進軍していた。

 リリーとバルドを含む『剣』中心とした、近接戦に突出した部隊は岩肌にまばらに草が伸び隆起の激しい谷底を、戦闘に出られるものの戦での傷が治りきっていない者と戦闘の経験が浅い者が上となる。

「もうそろそろ合流してもいいんじゃない?」

 リリーは頭上に見えてきた合流の目安としていた吊り橋に視線を向けながら、バルドに小声で訊ねる。

 地面を這うようにゆっくりと進んでいても、いつまでたってもマリウスの軍勢と落ち合える気配はなかった。

「戦闘の気配、なし」

「静かだもね」

 魔術ではない風が立てる音や、どこからともなく聞こえてくる鳥の鳴き声ばかりで不穏な音はまるでない。

 行軍が予定より遅れているのか、あるいは途中で敵に敗北したのかと不安がる部隊の空気は重苦しい。

「行軍停止。総員迎撃態勢維持」

 バルドが足を止めて、ここで様子見をすることとなった。バルドの命を部隊で最も声の大きい者が復唱して谷の上の部隊も止まる。

 谷間は緩やかにうねっていているものの、今の位置は見通しがいいので敵勢が攻めてきてもすぐに対処できる。

 響いた声に敵がここぞとばかりに攻めてくるのか、それとも味方が急ぎ足になってくれるのか。

(まだかしら……)

 早く実戦でもやもやとした気分をはらってしまいたいリリーは、剣の柄に手を置いて戦闘が始まらないことに苛立ち始めていた。

 しかし、それも少しの間のことだった。

 行軍の足音よりも先に魔術が発動する気配を感じる。そして空を切る甲高い音を立てながら風の刃が迫り来る。

 『杖』がすでに防護のための岩壁を築いていて、最初の攻撃が当たることはなかった。

 そして防御の壁が岩から透明な薄膜へと変わって視界が開けると、敵影が見え始めていた。

「手応えのある奴が多いといいわね」

 リリーはバルドに語りかけながら双剣を抜く。

「期待はあまりできない。……攻撃する」

 バルドも背から神剣を抜き、杖達に魔術を溶かせて雷光を走らせる。

 すでに迫って来ていた炎や水の奔流を噛み砕きながら、雷の大蛇が猛然と敵へと突撃していく。

 いつもながら総毛立つほどの力を孕んでいるが、これでもまだ力を押さえているほうである。

「バルド、全部持ってかないでよ」

 敵前衛を蹴散らしたのを確認して、リリーは唇を尖らせる。

「まだ数はいる。魔力、不足」

 まだここからは見えないが、どうやらバルドには彼が魔力を使い果たしても倒せそうにないぐらいは敵がいると鋭い五感で感じ取っているらしい。

「総員、突撃」

 そしてバルドが命令をくだして一斉に『剣』達が前に出る。

 一気に進軍を始めた皇家軍に、革命軍も前へとでてきた。さほど広くない谷間は数百人の魔道士達で埋めつくされていく。

(本当に、ぞろぞろといるわね。炎将をどうにかできたんだから、それなりにやってくれるといいわ)

 リリーは一切の迷いなく先頭に立って、真っ先に敵の中へ斬り込んでいく。

 たったひとりで懐へ潜り込んできた彼女に、革命軍は一瞬の動揺を見せるものの気を取り直すのもはやかった。

 素早く統制を取り戻してリリーを総攻撃する部隊と、皇家軍の突撃に備える部隊に別れる。

(なんだか、前の炎将の部隊みたいね)

 統率がきっちりと取れている上に、リリーが単身で突っ込んで来た時の対応をあらかじめわかっているかのような動きだ。

 こういう秩序だった部隊は、ヴィオラ率いる炎将を彷彿させる。

(本当にいるのかしら)

 敵の攻撃を躱すことと、こちらからの攻撃をほとんど同時にやって次々と周囲の敵を一掃していきながらリリーは考える。

 秩序だった部隊など珍しくもなければ、自分がひとりで大軍に突っ込んで攪乱することもよく知られている。

 だが、事前にヴィオラの目撃情報を聞いていたせいか、どうしても彼女が率いているのではないだろうかと考えてしまう。マリウス達の部隊がここにたどりつかない理由も、彼女と対峙したというのなら納得いく。

(前の炎将とだったら、もっと楽しいわ)

 実戦に気持ちは昂ぶりはじめているものの、まだ頭の隅で冷め切っている自分がいると感じているリリーはより強い相手との対峙をしたいと求める。

(ちょっとは手応えがありそうなのもいるわね)

 向けた右の剣を弾かれると、リリーは口角を上げてそちらへと目を向ける。

 視線が合った中肉中背の男は炎の魔術をこちらへと放っていた。

 リリーはローブで炎を防ぎながら間合いを詰める。

 一合、二合と打ち合わせていく中で期待したほどでもなかったかと落胆する。

(シュトルム統率官ぐらいは強くないと、つまんないわね)

 首筋を狙った一撃を躱して、右の剣で男の腕を凍らせる。もう片方の左からは細かな雷の雨を降らせて周囲の敵を一掃した。

 勝った瞬間は、以前と同じで楽しい。だけれど高まった感情は一瞬で物足りなさという空虚な穴へ転がり落ちていく。

(もっと、強い奴いないのかしら)

 見渡しても自分の近くにいる兵は及び腰で戦意に欠ける者達ばかりで気が萎える。

 リリーの他の皇家軍も敵を圧倒している。その中でもやはりバルドが圧倒的で、敵はまったく近寄れる状態ではなかった。

 それでも数だけは革命軍が多い。倒しても倒しても後続からぞろぞろと沸いて出てくる。

「全軍、後退」

 敵兵の数とマリウス達が来るのを待つことを諦めたバルドが、皇家軍へと後退を命じる。

 それは谷の上を行くもうひとつの部隊への合図でもあった。

 まばらになっていた皇家軍がひとかたまりになって隊列を取り戻して間合いを取った時、上からの攻撃が加わる。

 風の魔術で木々を薙ぎ倒し、さらに水の魔術で谷底へと押し流す。頭上から振ってくる木々に革命軍は否が応でも足止めされる。

「時間稼ぎにはこれで十分かしら」

 うずたかく詰まれた丸太の壁を見上げて、リリーはつぶやく。魔術で突き崩せてしまえるだろうがこちらが谷を抜ける間際はまではもつだろう。

 向こうも魔力を多量に消費して追撃にも慎重となるはずだ。

(もっと、楽しめるとおもったんだけど、ね)

 後退しながらリリーは満足のいく戦闘ができずに、鬱憤がたまるばかりだった。

「リー、問題ない?」

 そんな彼女の様子に気づいたバルドが心配そうに問いかける。

「問題ないわ。もっと強い奴と戦うなら、皇都の方よね」

「おそらく。皇都の様子、不明」

 付近で戦が勃発している影響で皇都との連絡はまともに取り合えていない。落ち合う経路は水将と取り決めているものの、あちらの様子がわからないのでは進路をどう取るかはまだ確定できない。

(炎軍は、将軍も補佐官もいなくなっちゃたわね)

 ジルベール姉弟の消息も絶えて、リリー達の部隊は道は見えているものの周りの景色が全く見えない状況で走り続けるしかなかった。

 そして谷の抜け道が近いことを示す物見を請け負ったシェルが立つ吊り橋が見えた頃、背後で大きな衝撃音がした。

「封鎖、突破されました!! 敵の攻撃、来ます!」

 シェルが叫んで『杖』が身構える。

「ちょっと、早すぎるんじゃない……」

 早くとも半刻は持つだろうと思われた封鎖は、四半刻とわずかで打ち破られた。少々上から落とした木々が足りなかったのかもしれない。

 あるいは敵の戦力が相当数上だったのか。

 どのみち完全に追いつかれる前に谷を上る坂道を上り、できるだけ有為な地形で戦闘に望むしかない。

 背後に警戒しながら、皇都軍は進軍を早める。

「敵増援、前方よりきます!! 数はこちらのほうが多いです!」

 しかし、想定外の奇襲を喰らう。谷の出口からも敵が来ているというのだ。

「……あっちもこっちも敵だらけね」

 こちらの動きを読んだわけでなく、近隣の革命軍派がたまたま進軍を目にして一斉に会したといったところだろうか。

「後方。防御。前方、強攻突破」

 急揃えの有象無象の軍を切り抜けることはそう難しいことではないだろう。

「露払い、いい?」

 うなずかれなくともすでに飛び込んで行く気のリリーは、バルドに軽い調子で聞く。

「前方、リー、頼む。俺はしんがり」

 将であるバルドがしんがりを務めることを、誰も咎めることはしなかった。自分達の将が戦狂いであり、誰よりも強いのは百も承知だ。

「シェル、あんたももういいわ! どっかに退避しといて!」

 リリーは釣り橋の下を通り過ぎる前に、シェルに撤退を促す。

「了解しました。 みなさん、ご武運を!」

 シェルが両手を振って橋の上から一目散に逃げ出す。

「……あいかわらず緊張感ないわね。道開けて!」

 リリーは苦笑して前の仲間達を両脇に避けさせる。

 そして右から炎を、左から風を解き放ち灼熱の暴風を前方に向けて解き放った。


***


 挟み撃ちにされたリリー達は、思った以上に苦戦していた。

 谷を抜ける急勾配の坂の上からの攻撃を防ぎながら、上へと向かうのに想像以上に体力を削られて思うように進めない。

 先頭を行くリリーは隊列がだらりと間延びしていることに気づいて、眉根を寄せる。

 敵も急揃えで崖の両脇に回る余裕はないらしく、四方から攻められることなく幸いだがいかんせんこのままでは魔力を消耗しすぎる。

(上の部隊もたいして魔力は残ってないわね……)

 道を塞ぐ役目を果たした部隊は後続の援護をしているが、まともな威力をもった魔術は放てていない。

 後続はバルドが蹴散らしているが、彼の魔力もいつまでもつかわからない。

「こういうの、一番つまんなくて大っ嫌い」

 さして敵が強いわけでもなく無駄に体力を消耗するだけで、まるきり戦う楽しさがない。

 肩で息をついてリリーは苛立ちながら風の魔術を両の剣から放つ。

 向こうもこちらが魔力と体力を使い切るのを待っているのはわかってはいても、動かなければ結局やられてしまう。

 少ない手数でできるだけ多くの敵を倒しつつ、リリーは背後の様子も気にかけながら谷の上を目指す。

 数が減ってくればまとまりのない敵部隊の動きは次第に乱れて、こちらの攻撃も仕掛けやすくなってくる。

 リリーを囮にして後続の魔道士達も少しずつ大きくなっていく敵の隙を狙って痛手を与え、徐々に挽回していっていた。

「後、少し」

 やっと敵が坂の頂上より後退し始めて、リリーはもう一踏ん張りだと敵の雷撃を躱して敵軍へと踏み込もうとする。

 だが、背後で大きな魔力を感じて振り返る。

 坂の真下では真っ赤な炎の花が咲いていた。それはすぐさまバルドの雷の矢で散らされたが、一瞬でも誰の攻撃かはわかった。

「炎将、生きてたのね」

 マリウスではなく、姉のヴィオラの方だ。

 魔術が散った衝撃でフードか外れ、よく目立つ桃色がかった金髪が靡いているのがリリーのいる場所からもはっきりと見て取れた。

(どうりで突破されるのが早かったわけだわ)

 おそらく相当前からヴィオラは敵部隊の中にいて、バルドの魔力が減っていくのを待っていたのだろう。

「下は気にしないで、先に上を取るわよ!」

 しかしバルドがそう簡単に負けるわけがないので、リリーは後ろを気にせずに前へ突き進む。

 動揺していた魔道士達も、リリーや他の上官に促されて残りの距離を一気に駆け上がっていく。

 真っ先に谷から抜けたリリーは、あっという間に敵に囲まれるがいとも容易く刃も炎も雷撃も全ての攻撃をいなしていった。

 多少躱しきれずとも、ほんの掠り傷である。

 刃が喉元近くを通っても怯むどころか嬉々として向かってくるリリーの異様さに、敵勢の方が一歩後退る。

 そしてリリーの後に続いた魔道士達も次々と谷を抜け、寄せ集めの奇襲部隊は指揮系統が乱れてちらほらと勝手に撤退していく者の姿も見えた。やがて分が悪くなったとみた敵勢は退いていった。

(後は、バルド達ね……)

 谷底ではバルドとヴィオラの一騎打ちになっていた。

 互いに一分の隙もない剣戟を繰り広げているのを、上に辿りついた魔道士達は固唾を飲んで見守る。だが、バルドの太刀筋や癖を知り尽くしていて、ヴィオラとも何度か剣を合わせたことのあるリリーだけは訝しげな顔をしていた。

(どっちも、本気じゃないわね)

 真剣に刃を打ち合わせてはいるものの、実戦のそれではなく演習をしているかのように見える。

 炎と雷がぶつかり合うのも、お互い魔力を温存しているわけでもなく見せかけだ。

(向こうについたんじゃないのかしら……?)

 しかし、それにしてもヴィオラの意図が読めない。

 ヴィオラとバルドが戦っている周囲では、巻き添えを恐れてどちらも動かずに睨み合ってるだけで今は援護の必要もなさそうだ。

(何かしら)

 気のせいだろうか。一瞬、バルドと間近で剣を合わせていたヴィオラのが自分のことを見た気がした。

「あ……」

 バルドの大剣にまともにぶつかったヴィオラのレイピアが大きくたわんで今にも折れそうになる。

 だが、寸前のところでヴィオラが退いた。その隙を狙ってバルドが巨大な雷の柱を打ち立てる。

「まだ十分魔力あるじゃない」

 リリーはこれだけ離れていても肌がちりちりと痛むほどの威力を持った魔術に感嘆する。

 しかしながら、敵側に損傷はみられずこの攻撃は牽制らしい。効果は十分で敵勢は足が竦んでしまっている。

 さらに、敵勢の頭上に新たに青い炎の雨が降り注ぐ。

(……無事だったの)

 新たに攻撃を加えたのは、谷の上部にいた部隊に加わったマリウスだった。少ないながらも他にも何人か増えている。

 それを見やって、ヴィオラが撤退を促す。部隊にもうひとり指揮官がいるらしく、その人物が不満を唱えているが、バルドがさらに剣を構えて下にいる革命軍も退いていった。

 前後への警戒はおこたらずに、部隊は谷の上で合流してやっと全員がこの場を切り抜けたことに安堵する。

「リー、負傷なし?」

「掠り傷程度で問題ないわ。あんまり楽しくはなかったけど……」

 ヴィオラとのあの戦闘はなんだったのかと訊こうとしたリリーは、後の方がいいかと駆け寄ってくるマリウスが見えて言葉を止めた。

「……皇主様、遅れて申し訳ありません」

 マリウスがバルドに跪いて深々と頭を下げる。

「いい。状況、報告」

 バルドが義務的に訊ねて、マリウスの部隊のほとんどが寝返ったことが知らされる。そして寝返りを先導したのがヴィオラだということも。

(バルドに訊かないと、炎将がどういうつもりかわからなそうね)

 やはりヴィオラの意図はまったく読めない。

 戦闘中に視線を向けられたことがやけに引っかかるリリーは、バルドの顔を窺うもののやはり彼からも何も読み取れなかった。

 そして日暮れも近いということで夜営することになった。幸い近くの湖の側で待機していた設営部隊は奇襲にはあっておらず、そこにシェルも逃げ込んでいた。

「みなさん、ご無事でなによりです」

「まだ魔力回復しないの? いい加減離れた方がいいわよ」

 すっかり一兵士として馴染んでいるシェルに、リリーは呆れる。

「えっと、いや、もう少しあちら側に近づいてからの方がいいので、後少しだけお世話になります」

「そうしたいならすればいいけど、身の安全の保証はないわよ」

「重々、承知の上ですのでおかまいなく。あ、では食事の仕度の手伝いに行ってきますね」

 そう言って逃げるようにシェルが炊き出しの手伝いに行って、リリーは首を傾げる。

 どうにも挙動不審である。

「ねえ、バルド、シェルなんかおかしくない?」

「……シェル、いつもおかしい。それより、進路」

 バルドがさしたる興味も示さずに、この先に皇都に向かうかどうかの話し合いをマリウスも含めた数人の指揮官と共にすることとなった。

 皇都からの報告は相変わらず入ってこず、反乱軍への寝返りが多い周辺の状況からも正確で素早い情報の伝達は不可能と判断してあらかじめ決めていたみっつの道程から、ここからまず南側の山道へ迂回して、それから北へと向かうこととなった。

(シェルはその途中で置いていけばいいわね)

 祖父の屋敷がある山の近くも通る。そこまでいけばシェルも逃げやすいだろう。

 そして南側の山道を抜けた後は、皇都の状況に応じて東寄りか西寄りかの道を進むことになる。

 どの道を進もうが、皇都を攻める軍勢との戦闘は極力避けるのだ

 そして島の最北で万全の体勢を整えて、革命軍と決着をつける。負け戦だけれども、戦い続けられる限り、ひたすら戦うことが自分達にとって重要だ。

 納得のいく、満足のいく最期の戦。

 だが自分がそんな戦ができるという自信が、今し方の戦闘でますますなくなっていっていた。

(楽しいのに、楽しくない)

 リリーは地図をぼんやりと見ながら、戦の余韻を思い返しても胸の奥にぽっかりあいた穴に確かに味わったはずの高揚も快感も吸い込まれて蘇ってこない。

「以上。休息」

 そうしている間に、軍議は終わってしまった。ヴィオラについても一切言及がなかった。

「バルド、さっき、炎将本気じゃなかったわよね」

 ふたりきりになってやっと、リリーはバルドに問うことができた。

「……縁切りの義理立て。つまらない」

 寝返ることに対する詫びとして、陽動部隊を退かせたということらしいがいまひとつ納得のいく答ではなかった。

「炎将が、あたしのこと見た気がするの。気のせいだったのかしら?」

 確かに、ヴィオラの目は自分に向いていたはずだと、リリーはもやもやしながら眉根を寄せる。

「偶然、見えた? リー、食事と休息。俺も疲れた」

 たまたま視界に入ったのではとバルドも首を傾げつつ、空腹と疲労をうったえる。早く休みたいのはリリーも同じだったので、今夜の所はもう体を休めることにした。


***


 小さな天幕の中で寒い中、リリーはバルドと身を寄せ合って暖を取りながら目を閉じる。

 しかしやはりヴィオラのことも、シェルの態度も、それにここ最近のバルドの様子もなにもかもが違和感だらけで気になる。

 疲れ切った体が休もうとする眠気と、胸のわだかまりがぶつかり合って体が先にうごかなくなっても意識はなかなか眠りにつけない。

 だけれど、最後には眠気が勝って意識が途絶える瞬間、深い穴に引きずり込まれるようなどうしようもない不安と恐怖に胸を掴み取られる。

 だが目覚めることもなくそのままリリーは眠りにつくしかなかった。

 夜明けに起きたときには眠る瞬間の記憶は消えて、朝日に奇妙な安堵感を覚えるだけだった。

「……バルド、朝」

 かといって安心しきれず、心細くてリリーは傍らのバルドを起こす。

「出立の、準備。リー?」

 寝惚け眼でバルドの顔をまじまじと見ていると、彼が不思議そうに首を傾げた。

「うん、なんだろう。嫌な夢でも見てたのかしら。今朝も、寒いわね」

 まとまらない頭でリリーはぼやく。

「寒い」

 バルドがうなずいて、抱き寄せてくる。

 リリーはバルドにもう少し甘えたくなってもう一度だけ寒いとつぶやいた――。


***


 バルド達が谷間での戦闘を終えて三日の後、革命軍はついに皇都を包囲していた。

 すでに革命軍側に寝返った者達によって皇都の入口の門は開け放たれて、最後の通告がなされていた。

 皇家軍はすみやかに降伏し、前皇主の首を差し出すこと。さもなくば武力をもって、皇都を奪取すると。

 民衆らは家の扉や窓を固く閉ざして、戦火が及ばないことをひたすら祈るすらなく下層部は静まりかえっている。

 そうして、上層部では王宮と宰相家に皇家軍が集まり、反旗を翻した者達は軍舎の方で蜂起の時を待っている。

 圧倒的に皇家軍は不利な状況だった。それでも腹を決めた者達は戦うことを決めていた。

「降伏するつもりはないか。思ったより皇家側も多いな」

 クラウスは慣れ親しんだ巻き貝にも似た皇都の螺旋を描く坂道の先を見上げて目を細める。

 ここまで追い込まれても与しない者がまだ数千いるというのは、まったく理解出来ない。足取りが掴み切れていないバルドの側についている魔道士も、いまだ一万は超すという見込みだ。

「一度手に入れた力は捨てきれない、あるいは変化を受け入れられない。そういう人間はいくらでもいるということでしょう」

 隣を行くエレンが静かに返す。

「どっちも俺には理解できないな……。今は、魔術が使えることは必要だけど」

 魔術が使えるということが、唯一リリーが生きていることを確認する手段だ。

 どうしても迅速に情報が手に入らない以上、リリーが無事であるかどうかずっと心配し続けている。

 本当に彼女の死と島の魔術の死が同時になるかはわからないが、今はそれを拠り所にするより他はない。

「上まで、戦闘はなさそうか」

 平民が暮らす下層区を抜けても、皇家軍が控えている様子はなかった。上へと行くに連れて屋敷の規模も大きくなっていく。普通は数人いる門前の私兵の姿も見受けられない。

 使用人や戦闘に出ない妻子がいるはずだというのに、物音ひとつなかった。家が粗末なこともあってか、まだ下層の方が物音がわずかながらでもあった気がする。

 人がいるはずなのに、まるで廃墟のようだ。

 しかし最上層が見えてくると様相は一変する。

 真っ先に目に入るのは軍区に立ち並ぶ白いローブを纏う魔道士達だ。真白い街に黒のローブの魔道士がいるのが普通だった光景を見慣れたクラウスとエレンには、違和感ばかりが先だった。

 例え、自分が白のローブを着て迷いがなかろうと、見慣れた景色が変わるというのはしっくりこないものだとクラウスは魔道士達の姿を眺める。

 そして皇都の革命軍派と合流すると、改めて布陣が整えられることとなった。

 皇家軍の本隊は当然、王宮に布陣している。宰相家にいるのは革命軍の横腹をつくためと、退路の確保のためだろう。

 しかしこの数の差では策など無意味に近い。戦らしい戦をしたいという体面だ。

(生き延びてバルドに付き従うつもりの奴もいるか)

 王宮と宰相家の裏手から北側へ下りていけば、以前クラウスが水将と戦闘となった時にあちこち崩れて防壁も脆くなっている場所がある。そちらにももちろん兵は配備しているが、そこを突破されれば逃げられる。

 宰相家と王宮からの隠し通路は、おそらく使われることはない。前の皇主も宰相も逃げるつもりはなさそうだということだ。

 クラウスは予定通り、宰相家の制圧の指揮を任されることになった。

(自分の家を攻めに行くのも、変な感じだよなあ)

 軍区から家までの道程は、あまえりにも馴染みすぎていてますます頭の中が奇妙な感覚だった。

 必要な物がある、どうしても父や兄と会わねばならないという時しか家には帰らなかった。

 家が嫌いだった。そこで大きな顔をしている父も、兄も、大嫌いだった。

 帰りたくないと思いながら嫌々辿っていた道を、今はその大嫌いだったものを壊すために歩いている。

 第二の王宮と呼ばれる宰相家の巨大な屋敷が次第に迫ってくる。すでに、視界に入る景色全てが、フォーベック家のものである。

「攻撃、開始」

 門前にずらりと皇家軍が並んでいる様を見やりながら、クラウスは躊躇いなく開戦の合図を送る。

 魔術同士がぶつかり合い、周囲に衝撃の余波が押し寄せても屋敷は微動だにしない。

「父上か……」

 屋敷の周囲に張られた透明な魔術の防壁に気づいたクラウスは、剣を抜いて前へ出る。

 思えば、父と真っ向にぶつかるのははじめてかもしれない。

 いつも、自分は斜めを向いて真正面から父を見返すことはなかった。父もまた、自分を見ることがなかった。

 クラウスは道を開けさせ、手に握った剣に魔力を流し込む。

 そしてすうっとひとつ息を吸い込んで、一気に魔術を解き放った。

 糸状の炎は真っ直ぐに屋敷に向かっていきながら縺れて糸玉になったかと思えば、今度はぐじゃぐじゃと蠢いて防壁に到達すると炸裂した。

 手加減のきかない暴走気味の魔術に防壁が絶えきれなくなる。

 しかし完全に押し切られる前に、魔術は爆風を包み込む形に変化して周囲への損害は最小限で留まった。

 とはいえ、門前にいた魔道士達は吹き飛ばされ、屋敷の扉までに敷かれた石畳は割れて粉々になっていた。

「一気に制圧するぞ」

 クラウスらはそのまま屋敷内部めがけて突撃する。

 門前の皇家軍を数の差で押し潰し、最初家の内部へと革命軍は乗り込む。広い屋敷の内部にも魔道士達はいた。

 クラウスは黒いローブを身に纏った『杖』の魔道士ひとり、ひとりを見ていくが父の姿はなかった。

 だが、いる場所は分かっている。

 クラウスはもはや指揮の必要のないほどの物量差で圧倒している自軍をおいて、屋敷の奥へと進んでいく。

 宰相は見捨てられたのか、奥の方には魔道士も使用人も見当たらない。

 自分から向かったことは一度もなかった父の書斎。

 長い廊下を歩く時は、呼び出された時だけだった。廊下の脇におかれたつるりとした陶器の壷に映った、自分の嫌そうな顔をよく覚えている。

 その壷は攻撃の衝撃で床に落ちて割れてしまっていて、今の自分がどんな顔をしているかは見えなかった。

 クラウスは重たい扉の前に立って、声もかけずに中へと入る。

「……お久しぶりです、父上」

 父、フォーベック家当主のアウグストは、ひとりで杖を持って悠然と椅子に腰掛けていた。だが先程の魔術のぶつかりあいのために、指先からは血が滴っていた。

「まさか、お前がここまで来るとはな」

 これといって感情をこめずに、ぼそりと父がつぶやく。

「どうしますか。降伏する者は殺さない、というのが革命軍の信条です。生き延びて俺を足がかりにして、好き勝手はさせるつもりはないですが殺す理由は俺にはない」

 一体、自分は父にどうしてほしいのだろうと今更ながらにクラウスは思う。

 殺したいと思ったことはない。今更認めて欲しいとも思わない。

 惨めに降伏すると命乞いをする父が見たいわけでもない。

 何もなかった。あれほど嫌悪していたはずの父を目の前にして、父から奪いたいと思うものがなにもなかった。

「生きる理由はない。私が築いたものはなくなる。ヘルムートが死んだ時に、それは決まっていた」

 始めからお前には期待していなかったと、言われていると思うのは気のせいではないだろう。

 兄のヘルムートばかりに父は熱心に跡取りとしての教育を施していた。

「もっと前でしょう。兄上がああまで、傲慢でなければ義姉上もあんなことはしなかった」

 父の厳しい教えと期待に抑圧されながらも、宰相家の嫡男であるという尊厳で大きな顔をしていた兄の振るまいを父も咎めなかった。

「いいや、足らなかったのだ。あれは少々臆病なところがあった。小娘ひとり大人しく従わせるだけの、強さが足らなかったまでのことだ」

「……死ぬまで父上のことは理解できそうにないですね」

 まったくもって、嫌な男だとクラウスはつくづく父への嫌悪を噛みしめる。

「お前にはわからんさ。私が、私の父が、祖父が築いて引き継いできたものの重みなど、お前のような誇りを持たない者にわかるものか」

 冷ややかなアウグストの視線は、ヘルムートとよく似ていた。

「わかりたくもないですね。そんな誇りなんていりません」

 そうだ、欲しいはずがなかった。この父からは欲しいものがあるはずがないのだ。

 そして、自分はずっと昔から本当に欲しいものや執着するものを持てない人間だということを思い出した。

 クラウスは父を見下ろして、彼に会うこと自体なんの意味もなかったのだと剣を抜く。

(俺がこんなことやってんのは、リリーが欲しいから以外の理由はなかったな)

 この家も、父も、どうだっていい。

 自分にとって大事なのは、リリーだけなのだ。

「……この命、お前にはやらん」

 アウグストが隠しもっていた刃を、自らの胸に突き立てる。

 苦悶に顔を歪めながも、ももがき苦しむこともなく小さな呻き声もらしただけでアウグストはあっけなく逝った。

「それもいりませんよ、父上」

 クラウスは事切れた父を一瞥して身を翻す。屋敷の入口に戻れば、すでに戦闘は終わっていた。

 そしてこれをもって、長らくハイゼンベルクの実権を握っていたフォーベック家は終わりを迎えたのだった。

  

***


 宰相自決の報せが届いた時、王宮も陥落寸前だった。

 中庭の草花は踏み荒らされ、白亜の王宮は血で赤黒く汚されてしまっていた。残った皇家軍は、皇族の居住区の方へと追い込まれていた。

「宰相も逝ったか。この辺りが潮時だな」

 カイは前皇主の私室にに繋がる回廊で額から滴ってくる血を拭う。

「でしょうねー。できるだけ多くを皇主様の元に残らせなければならないし、ここまでだね」

 ラルスがいつもと変わらないのんびりした口調で言う。

 全員、ここで終わらせるつもりはなかった。まだバルドが生きている可能性があるならば、できうるかぎりの兵を合流させる手はずになっている。

 そのために王宮の裏手にすでに数百の魔道士達が退路を取り始めていた。

 自分達は、敵勢を引き受けて時間稼ぎをするのが役目だ。

「将軍……! ジルベール侯爵、お討死、なさいました……」

 血塗れになり足を引きずりながら、青年魔道士がヴィオラとマリウスの父親の戦死を告げに来る。

 最期は前線で死にたいと、言っていた侯爵は望みを叶えたらしい。

「そっか。君も、お疲れ様。もう、休んでいいよ」

 ラルスが報告に来た青年に声をかけると、彼は弱々しくうなずいてその場に崩れ落ちる。まだ二十歳そこそこといった歳の彼は、もう立ちあがることはないだろう。

 青年の側に膝をついたカイは、ゆっくりと呼吸が弱まっていくのを確認して目を伏せる。

「……ラルス、お前も行け。後は俺がやっておく」

 バルドと合流する兵を率いるのはラルスの役目だ。そして、自分はこのまま時間稼ぎを続ける。

「そうですね。行かないと」

 言いながらも、ラルスが動く気配は見られなかった。

「なんだ、ここで終わるつもりじゃねえよな」

「もちろんです。……でも、何かカイに一言言っておいた方がいいかなーって思うんですけど、何言ったらいいんでしょうね」

 にこにことした顔をしながらも、ラルスは少し寂しそうに見えた。

「いらねえよ。お前は、生きたいように生きて死ぬんだろ」

 出会った頃から、ラルスはよく分からない子供だった。彼の魔術を崇拝し皇家を尊ぶ信条や考えはまったくもって理解はできないが、己が道を真っ直ぐ突き進んでいるのだけはわかった。

 だから皇家に尽くすのをやめて生きろとは言えない。

 理解出来ないからこそ引き止める言葉も見つからなかった。

「カイは、これでいんですか?」

 今更なことを訊いてくるラルスに、カイは苦笑してその頭をくしゃりと撫でる。

「俺は、ガキ共がひとり立ちするのを見届けたら、それでいいつってんだろ。ほら、だからお前ももう、いいかげんひとり立ちだ」

 甥は生きる道を選んで、ラルスもまた自分の進む道を決めている。

 ひとり立ちできていないのは、むしろ自分の方かもしれない。だが、もう十分ふたりの成長を見届けた。

「僕はもうとっくに、大人ですよ……。カイ、うん。行ってきます」

 ラルスが何かを噛みしめるように深くうなずいて、珍しく真面目な顔を見せた。

「おう、行ってこい。後悔だけは、するなよ」

 カイもうなずいて、その背を強く叩いて送り出す。

 ラルスは後は躊躇いなど微塵もない背を向けて、足早にその場を離れていった。

 残されたカイは、両手で握った杖の先で床を打ち付けてありったけの魔力で各回廊に石の防壁を築く。

 視界に入らないが、攻撃を受ける度に杖を持った指先から衝撃を感じる。

 無理矢理魔術を破られていく反動で、指先が裂けて血が吹く。それでも杖を固く握りしめて、敵の歩みを遅らせることに腐心する。

 爪が割れ、指が裂け、血と痛みで杖から手が離れそうになっても絶え続けた。

 やがて、最後の壁が打ち破られる。

 多くの足音が雪崩れ込んでくるのが聞こえてくるのに、腕の皮膚までもあちこち裂けたカイは粗い息を整えて身構えた。

 前皇主の首を狙い、大勢の革命軍が攻め込んでくるのに、魔力の尽きたカイは棒術で応戦する。

 もう腕の感覚はほとんどなかった。

 数十人を前にして反撃もまともにできなかった。

 だが、カイは意識が途絶える寸前まで杖を振るい続けた。

(遅い、とは言わねえだろうなあ。でも、早過ぎもしねえだろ)

 霞がかった脳裏に最期に浮かんだ戦死した妻の姿に、わずかに口角を上げたカイの手から杖が滑り落ちた――。


***


 前皇主のいる部屋にはたったひとりの魔道士も護衛についていなかった。

 魔術で護っていた扉が開かれたときでも、長椅子の上に座った前皇主は動揺もせずに踏み込んでくる者達を一瞥する。

「ちょうどよいところにきた。余も生きるのに飽いていたところでな、誰ぞ、この命、持っていってくれぬか」

 幼少の頃より宰相家の傀儡でしかなかった男は、悠然とかまえて死を受け入れていた。

 攻め入った魔道士達は、前皇主を前にして指揮官であり革命軍で最も中枢にいる初老の男に視線を向ける。

「……自決をお選びになっても結構。どうなさる」

 指揮官が討死か自決かの選択を、前皇主に迫る。

「自決できるものならとうにしておる。余は、自分で自分を殺す方法など知らぬ。だからそなたらを待っていたのだ。あまり苦しみ痛むことのない方がよい。痛いのは嫌いだ」

 まるで着替えを手伝わせるかのような口調で、前皇主は指揮官へ命じる。

 この状況下でただのお飾りであっても、最後まで千年続いた皇国を打ち立てた皇祖の末裔として尊大に振る舞う姿に虚勢はなかった。

 まともに政ができさえすれば、ハイゼンベルクの道は変わっていただろうにと指揮官は前皇主を見下ろしながら剣を抜く。

「では、首を前によろしいか」

 前皇主はこともなさげに後ろ首がよく見えるように、頭を軽く下げた。

 刃が振り下ろされて、王宮から主が失われる。

 こうして、皇国の都は終わりを迎えたのだった。そしてこれが新たな国への礎が築かれた瞬間でもあった。


***


「呆気ないものですね……」

 エレンはたった一日で陥落してしまった皇都の王宮を軍舎から見上げて、目を細める。

 宰相自決、前皇主斬首と共にここに新政府を立ち上げると、革命軍は宣言した。

「そうだな。後片付けするのが王宮と俺の家ぐらいですんでよかったな。飲むか?」

 エレンは湯気が昇るティーカップをクラウスに渡されて受け取る。日暮れが差し迫った今は冷え込んできて、かじかむ指先に暖かい器は心地よかった。

「どちらも被害はたいしたことはないでしょう」

 下層部での戦闘が回避されたことで、けっして無血ではないが被害は最小限にとどまって民衆から革命軍への印象が悪化することもなさそうだ。

 自分は宰相家の戦闘に加わっていたので、王宮がどうなっているかはわからない。だが宰相家と同じく庭が踏み荒らされ、建物は傷が入って血で汚れてしまっているに違いない。

 ラインハルトがお気に入りだった、書庫の中庭が見渡せる硝子の壁は全部割れてしまっているかもしれない。

 彼が人生の大半を過ごした私室は、奥まった場所にあるので綺麗なままだろうか。

 エレンは思い出が本当に記憶の中だけのものになってしまっていくことに、寂しさをおぼえる。

「明日明後日ぐらいで片付くんじゃないか? 後は、バルドだけだな。水将に逃げられたのも、大した痛手でもないだろう」

 水将を筆頭とした皇家軍は皇都の外へと脱出した。海沿いの崖淵の細い道へと逃げ込み、途中で道を崩していったのでそこで追跡は終わった。

 革命軍も残党狩りよりも皇都を新政府設立に力を尽くしたいということもあって、深追いはせずに周辺の警備を強化するにとどまることとなった。

「バルド殿下の消息は、まだ不明ですか」

 後はバルドを討ち取るだけであるが、革命軍としては皇都を占領したことでもう戦に勝ったも同然だ。そう焦って動かずとも、もっともらしい舞台を仕上げてから大々的に首を上げても遅くはない。

 もはや、戦に勝つことよりもどれだけ島中に広く新政府の正統性を広め、派手な建国の演出ができるかが重要になってきている。

 魔術が失われれば貴族の意義も価値も変わり、力に屈していた魔力をもたない民衆の心境もおおいに変わるだろう。

 力尽く以外の方法で人心をまとめあげるには、少々の装飾や誇張も必要となる。

「まあ、行くとしたら北しかないだろう。そのうちすぐに見つかるさ。俺はリリーが無事ならそれでいい」

 父親が自決するのを目の前で見ていたというクラウスは、皇都に攻め込む前とまるで変わらない。

 変わらず目的はリリーだけらしいと、エレンは茶を啜って王宮が茜色から次第に暗闇にのまれていくのを見やる。

 夜が明けてもこの光景は変わらなくとも、王宮は王宮でなくなり新たな時代の幕がいよいよ上がっていく。

(私も、これから道を見つけなくてはいけない)

 生きて、自分はこれから何をするのか。そのために生家に戻ることなくエレンはまだ皇都にとどまるつもりだった。

 思い出が思い出でしかなくなる時になってやっと、答を見つけられる気がした。

(あとひとつだけ、残っているものがある)

 ラインハルトが自らの手足とするために、様々な知識や思考を与えたバルドがまだ生きている。

 新たな夜明けまでは、まだ後少しだけ遠そうだった。


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