最初に動きがあったのは、姉のヴィオラの代わりに新たに炎将となったマリウスが中心となって陣を構える『剣』の社だった。

 ヴィオラが消息を絶った北部側で斥候と思しき革命軍の魔道士目撃の噂が立ったが、確たる情報という材料が足らず攪乱か否かでまごついていた。

 そうしている内に先々より警戒していた『剣』の社南西部デルン平野方面から革命軍が進軍を始めたという噂も出た。

「社が攪乱。デルンが本命。だが、要点は炎将足止め」

 軍議にてバルドが即座に判断を下して、議場にいる者達も同意見らしく難しい顔でうなずく。

(とうとう、南側の敵が動いて皇都に攻め込むってことね)

 リリーはバルドから聞いていた敵の動きの予想を思い出す。革命軍の目的は戦力の分断である。先に囮となる軍を動かして『剣』の社周辺の兵を足止めし、南の本隊を皇都へ動かす。

「このまま、策に乗りますか」

「予定通り、炎将を動かす。敵勢はゴシュム渓谷へ誘導。南の敵が動き始めたら、こちらも動く」

 バルドが卓の上の地図を指で示して、これまで立ててきた策の再確認をする。

 島の中央部付近から北東にある渓谷向けて敵を誘導しながら、南側の皇都を攻めると思われる本隊の様子を見つつマリウスと合流するというのが当初の予定だ。

 そして渓谷で敵を足止めして、皇都の救援。あるいは北へ撤退。後は戦況によるといったところだ。

 策に大きな変更はなく、そのままそれぞれ出陣への準備をするために軍議は終了となった。

「やっと出陣ね。体も大丈夫そうでよかったわ」

 堅苦しい軍議が終わってリリーは伸びをしながら、負傷して動けないうちになまっていた体が元通りといえる状態であることにほっとする。

 だが、ゼランシア砦でフリーダと一騎打ちした後の、空虚感はいまだに埋まらずにぽっかりと風穴を開けて戦への気持ちが高まりきらない。

 剣を振るうことは楽しい。相手がバルドなら、なおさらだ。

 しかし実戦と演習は違う。フリーダとの戦闘で限界まで膨らんだ高揚感は、終わった後に弾けてしまった。

 戦うことで最も楽しいのは勝利の瞬間だ。フリーダに勝った時以上の喜びを得られることがもうないかもしれないと思うと、気分が盛り上がりきれない。

「リー、あまり楽しそうでない」

 バルドに心の内を読み取られてリリーは愛刀の柄をぐっと握る。

「こればっかりは、実際戦場に出なきゃわかんないわよ。あたしだって、久しぶりに出るんだから思いっきり楽しみたいのに……。これはあたしが自分でどうにかしなきゃいけないことだから、気にしないで」

 バルドには自分のこの気持ちは分からないらしい。だから話しても噛合わないことばかりだ。

「……分かった。シェルも連れて行く」

「うん。そっちはあたしらが責任持って面倒見るしかないわね」

 結局、シェルの魔力の回復は間に合いそうになく戦に同行させることになった。いざとなったら自力で安全な場所に避難することぐらいはできるらしいので、足手まといにはならないはずだ。

「あたしとバルドで皇祖様の魔術を解く方法も、わかりそうにないわね。皇都にあるかもしれない記録を探すのは無理そう、よね」

 皇都に自分達が戻ることはもうないだろう。

 シェルなら魔力が十分に回復すれば行けるとしても、それまで皇都が保つとは考えにくければ自分とバルドが生きているともかぎらない。

「地将の動きが不穏。風将も続く可能性あり。他にも分裂」

 皇都も元よりディックハウトに寝返る心づもりの者が多かった。そのまま皇家廃絶に同調する者がいてもなんら不思議もなく、いよいよ動き始めているといったところらしい。

「あんまり皇都に近づきすぎても不利、か」

 バルドはまだここで終わるつもりはなく、最後の最後まで抗い戦い続けるつもりだ。まだ北への退路が残されてるのなら、引き下がり軍勢を整えて退路のない場所で最後の戦をする。

「不利。……リー」

 執務室に入って扉を閉めると同時に、バルドが抱き寄せてくる。

「なに?」

 バルドに体を預けながら、リリーは急に甘えてどうしたのかと首を傾げる。

「出陣まで数日、静かに過ごせる」

「うん。そうね。だいたいは整えてあるし、そんなにいっぱいやることもないわ」

 軍務も政も何も考えずにふたりで一緒にゆっくりと過ごせる時間が、もう少しだけもてそうだった。

 バルドが身を屈めて軽く唇をついばんでくるのに、リリーはくすぐったくて笑い声をもらす。

 こうしていると、何も知らなかった士官学校の時にじゃれあっていたことを思い出す。

 思うままに、望むままに触れ合って心を満たしていた頃。

 だけれど、あの時ととは違う。

「……書類片付けてから、ね」

 自分からバルドに口づけて、リリーはふわりと微笑んだ。

 あの日から何度か体を重ねるごとに、お互いのことはよくわかっていたつもりなのにまだこんなにも知らなかったことが多かったのかとしみじみと思う。

 やはり自分とバルドは違うのだと噛みしめるごとに、お互いの体が馴染んでいくのは不思議なことのようでいて、だからこそだとも思える。

(子供、か……)

 欲しいとはやはり思わないけれど、ふたりで寄り添い合ってその果てに形として残るものが新しい命なら受け入れられる気はする。

 面倒な仕事をさっさと片付けてふたりで寝台に潜り込んだ後、リリーはバルドの胸に頭を預け彼の鼓動を聞きながらぼんやりと考える。

 しかし、ふたりで穏やかに過ごせる時間があるだけで十分幸せだ。

「リー、入浴」

「…………一緒に入りたいの?」

 バルドが髪を撫でながら、そんなことを言ってリリーは彼の表情を覗き込む。浴槽も狭い上に、慣れてきたとはいえ寝台の上以外で肌を晒すのも躊躇いがあった。

「無理なら、いい」

 明らかに落胆した顔で言われると断りづらい。

 リリーは仕方ないとうなずいて一緒に入浴することにした。そしてふたりで湯船に浸かると緊張も解れて思ったよりも落ち着くことに気づく。

「これ、落ち着きすぎると寝ちゃいそうね……」

 安心感が勝ってくると疲れもあって一気に瞼が重くなってくる。

「ねえ、バルド、あたし寝ちゃったら体拭いて髪乾かして、服着せて寝かせてくれる?」

 冗談交じりに背もたれになっているバルドに問いかけると、彼は難題をつきつけられた顔をした。

「…………要、努力。髪、難しい」

 昔から髪を複雑に編み込んだり、梳って手入れしているのをよく見ていたせいか、バルドにとって自分の髪は取り扱いに気を使う物だという認識らしかった。

「冗談よ。ねえ、なんで一緒に入りたかったの?」

 リリーは笑いながら、バルドの真意を問う。

「できるだけ一緒にいたい」

「もう十分一緒じゃない。でも、これも悪くないわね。ふたりで入った方がお湯たさなくていいし。でも、本当にあたし寝そうだからそろそろ出ない?」

 少々恥ずかしいが、悪いことはなにもないとリリーはもうあまり回っていない頭で納得する。

 そして風呂を出ると、手早く水気を拭って寝衣をまとい寝台に上がる。先に眠ったのはリリーだった。

 ぐっすりと眠るリリーはほんの少しの間バルドが側を離れてシェルの元へ行ったことには気づかなかった。

 

***


 陽動に誘われマリウスの率いる部隊が動いたとの報告が届く頃、クラウスも自分の執務室で出陣準備を始めていた。

 皇都侵略の指揮の一端を担うことになっているのだ。

「俺、こういうのあんまり向いてないんだけどな……」

 六人いる指揮官の最下位ではあるが、宰相家、つまりは生家の制圧も任されている。試されていると言ってもいいかもしれない。

「向いていない、嫌だのと言いながらしっかり上にたっておりますわね」

 そう呆れた声をかけてきたのは、ヴィオラだった。

「自分で動くよりも他人を動かすのが得手なら、向いているのでは」

 淡々と返してくるのはエレンである。

 クラウスは自分の執務室の長椅子の両端にそれぞれ座っている彼女らを、半眼で見返す。

「誰がなんと言おうと俺はこういうのは好きじゃない。だいたい、わざわざふたり揃ってこなくてもいいだろ」

 エレンとヴィオラを部屋に呼んだつもりはない。ふたりとも用があるらしいが、彼女らはあまり相容れないらしくどちらも本題を切り出そうとしない。

「示し合わせてきたわけではありませんので。皇都の進軍には予定通り同行しますが、途中父の元に寄ってもよろしいでしょうか」

 最初に話を切り出したのはクラウスの指揮下に入っているエレンだった。

「下手な邪魔しなきゃなんだっていい。エレンの所は皇家に味方するつもりはないんだろう」

「ええ。ただし革命軍にもです。当家の魔道士の数はさしたるものではなく、加勢を強く要望されることもないでしょう。ただ、父ともう一度ゆっくり話したいだけです」

「まあ、魔道士は十分足りてるからな。足しになるならありがたいけど。で、ヴィオラさんも実家の話か? 侯爵はともかく、マリウスの方は俺も関われない」

 自分はあくまで宰相家の陥落でしか権限をふるえない。ヴィオラの父のジルベール侯爵と相対するかも定かではなかった。

「マリウスの方はわたくしでなんとかしますわ。お父様に伝言だけ頼んでおきたいの。それは後で出立前にしますわ」

 父親の命乞いではないらしかった。ヴィオラは先の戦の交渉の末、革命軍側に下った。自分も彼女との交渉内容に多少は進言したとはいえ、自分の指揮下にヴィオラがいない以上は動けない。

「じゃあ、ふたりとも用は後でいいな」

「いいですけれど、個人的にあのお人形姫をどうするのか気になりますわあ。ねえ、あなたも思いませんこと?」

 ヴィオラがエレンに話題を振る。

「私は特には。途中ベーケ伯爵家に立ち寄ることにはなっているので、どうぞ身辺にはご注意をとしか」

 エレンが言う通り、進軍途中でベーケ伯爵の城に一旦駐留することになっている。アンネリーゼに会わねばならないかもしれないと考えると面倒で仕方ない。

「……なあ、俺のこと嫌いだよな、ふたりとも」

 用事ついでに出陣までの暇つぶしに人をいじめにきたのだろうかと、クラウスはふたりを睨む。

「まあ。自分が女になら誰でも好かれると思っているのかしら」

 ヴィオラの大仰な驚きにクラウスは渋面になる。

「あなたを好く理由は見当たりません」

 エレンはエレンですげない返しである。

 ふたりに好かれたいとも思わなければ、むしろ嫌われ者の自覚はあるものの、こうも扱いが悪いのはいい心地はしない。

 クラウスは派手にため息をつきながら、ふたりから表情の見えない所で唇を引き結ぶ。

(リリー、まだ死ぬなよ)

 これから戦が始まれば、リリーも戦場に間違いなく立つ。バルドが生きている限り意地でも彼女は死にはしないだろうが、それでも不安は大きい。

 しかし、戦わねば戦は終わらない。

 クラウスはもはや立ち止まることのできない奔流の中で、失うわけにはいかないものを掴み取る決意を再度して故郷へと向かうのだった。



***


 姉は生きて無事にいるのだろうか。

 行軍の休憩中、ひとりで食事を取りながらマリウスはまたついヴィオラのことを考えていた。

 こうしてひとりで干した肉を食んでいると、どうしてもヴィオラと最後に会った日のことを思い出してしまう。

 革命軍に寝返ったとの噂もあれば、あるいはもうすでに戦死していて敵がこちらを動揺させる情報を好きに振りまいているのではという見方もある。

(動揺するな。なすべき事をするのみだ)

 今、自分は主君から将軍の地位を与えられ軍を率いることを任されている。責任を果たさねばと思う一方で、将となって思っていた以上に姉に頼っていた部分が大きいことに気づかされていた。

 社交的で少々眉を顰めるほどに騒がしいところがある姉と違い、自分は人と接するのはあまり得意ではない。だから姉のように部下を気づかいながら統率するということも、不得手だった。

 指揮を取ることはある程度はできているとは思う。だがやはりヴィオラが将を務めていた時とは、まとまり方が違うと部隊全体の雰囲気でなんとなしに感じる。

 こういう小さな休憩の合間にすら、姉は大事な話がある時以外は積極的に部下達の輪に入って行っていた。

 自分はといえばひとりで黙々と休息を取るだけである。

 ひとりで静かに休みたい者もいるだろう。だがそうでない者もいる。しかし、姉がしているように威圧感を与えず部下に声をかけるということは、できなかった。

 ただ寡黙に命令を下すだけでは上手くはいかない。それを今まで姉がやってきているのを見ていたのに、何ひとつ学べていない。

(……戦うことができたなら)

 マリウスは失った左腕に視線を落とす。ローブの袖には膨らみがまったくなく、そこに腕はもうないと分かっていても指先を動かす感覚がある。

 も片腕がない生活にも慣れ剣を扱うこともできるとはいえ、腕を失う前と同じというわけにはいかない。

 足りない部分は部隊の指揮で補うしかないというのに、力不足を感じる。

 自分自身への苛立ちと焦り、常に側にいた姉がいないことの想像以上の喪失感にマリウスは日々精神が疲弊していくばかりだった、

(姉上がなさりたいこととは、なんだったのだろう)

 戦の終わった後にでヴィオラはやりたいことがあると言っていた。姉はよく喋る人だけれど、そんな話を今まで聞いた覚えはなかった。

(戦のない世……昔は望んでいた気がする)

 幼い頃は魔術という力そのものを恐れていた。力などなければいいと拒んだことや、戦が終われば魔術を使う必要もなく、父はもっと穏やかで優しくなってくれるのではないか。

 そんなことを考えていたことも、この頃ぼんやりと思い出す。

 だからといって他に何がしたいということもなかった。魔術を使うこともなく静かで穏やかな漠然とした日々を思い描いていたはずだ。

 今の自分はそんな穏やかな中でどうやって生きていけばいいかわからない。ましてや何かを得ることなど、考えられるはずもなかった。

(だから、皇主様についていく)

 忠誠はいらないと主君が言っていたが、忠誠心はある。ただそれ以外に戦うこと以外に、生きる術を見いだせないことも主君についていく理由でもあった。

 マリウスは冬空の下で寒さに体を震わせている部下達を見やりながら、重い腰を上げる。そろそろ出発の時間だ。日暮れまでには目的地の目前まで到達しなければならない。

「総員、出立」

 命を下してマリウスは行軍を再開する。今からは林道を通ることになるので、陽射しの恩恵が少なくますます寒くなるだろう。

 あまり急ぎすぎても兵が疲労しきって敵を誘い出すはずが、追いつかれてしまう。

 マリウスは白い息を吐いて、うつむきがちな顔を前に向ける。

 気候や途中山に入って行かなければならないことなど、不安要素はあったもののその後は順調に進んだ。

 野営地につくと真っ先に烽火をあげる。遠く離れたバルド達の元へ所定の位置についたという合図であると同時に、敵にこちらが動いていることをしらせるためでもある。

 こちらにむけて敵勢が進行してくる側は道幅が狭く一斉には攻めてはこれない。

 マリウスの率いる部隊も五千に満たないが、バルドの部隊と合流するまで小競り合いをしながら誘い出し堪え忍ぶしかない。

(父上……)

 だが、敵の本隊が狙うのは皇都である。そこで誰が寝返ろうが、父は武人として生き抜く。

 母も近年に身罷りもういない。姉の消息は知れず父も遠からず先立つだろう。

 家族はすでに散り散りになって生きて顔を合せられるかも不確かで、今の自分はひとりきりだ。

 マリウスはちらちらと燃え盛る赤い炎に、またヴィオラを思い出して沈痛な面持ちでうつむいた。


***


 烽火が上がった翌朝には、リリー達もすぐさま進軍することになった。夜更けにばたばたと慌ただしく準備を整え、夜明けと共に隊列を組んで出撃も目前だった。

「んー、こんなものかしらね。前、見やすいでしょ。後ろもちょっとだけ整えておいたから」

 リリーはほんの少し空いた時間でバルドの伸びた髪を整えていた。ちょうど昨日の夕刻頃にふとバルドの前髪がずいぶん伸びてきたことが気になって切ろうとしたのだが、鋏を探している内に烽火が上がった報告が来てしまった。

「邪魔にならなくていい」

「もう、邪魔だって思ってるならもっと早く言えばいいのに。あたしも気づかなかったのは悪いけど」

 リリーは少しローブについてしまった髪を払い、改めて出来を確認する。

「リーは、切らない?」

 バルドがリリーの高く結った金茶の髪の毛先に指でじゃれながら訊ねる。

「この先髪をいじってる余裕はなさそうだから、ばっさり切っちゃうものもいいわね。バルドはどっちがいい?」

 切るならいっそ肩口まで短くしてしまう方が楽かもしれないと、リリーは手で肩を示す。

「……短すぎる。ここまで」

 バルドが背中の半ばまでを示したことに、リリーは少し驚く。

「どっちでもいいって言うかと思った」

「リーの髪、撫でるのは好き。短すぎるともの足らない」

「じゃあ、切らない。あたしもバルドに髪撫でてもらうの好きだもの……でも、いまは駄目よ」

 そのままバルドが抱き寄せて髪を撫でようとしてくるので、リリーは制止する。ふたりの話し声は届かない距離とはいえ、周囲には多くの魔道士がいるのだ。さすがにここでじゃれあうは躊躇われる。

 バルドが結婚式の準備をしているのを見かけた者達は、ふたりで勝手に式を挙げたことにはうっすらと気づいているもののそのことをはっきりとは訊ねてきはしない。

 一度だけ、バルドに自分の扱いは補佐官ということだけでいいのかと確認されたということだが、彼も公にするつもりはなく、周囲も正式な手続きはしていないので、下手に騒ぎ立てるよりは見て見ぬふりらしい。

(ごちゃごちゃ言われないのは助かるわ)

 皇妃問題はこの戦況ではもう誰も気にしないということだ。次に繋ぐものはなく、ここで皇家は終わるだけなのだから。

「皇主様、南側の敵本隊が動き始めました」

 そしてそろそろ出立という頃になって、火急の報せが届いた。

 どうやらはやった皇家側の一軍が先に仕掛けてこれをきっかけに先に敵本隊との戦が始まってしまったらしい。

「先に動いたの……どうするの?」

 敵が間近に迫っていつまでも動かず焦らされて我慢がきかなくなる気持ちはよくわかるのだが、とリリーはバルドを見る。

「……策に変更はなし。このまま予定通り進軍。皇都の動きに引き続き注意」

 バルドの早い決定の元、予定通りマリウスの率いる部隊と合流するために出立することとなった。

 空の狭い森から出ると、頭上には雲ひとつなくどこまでも薄青の空が続いているのが視界いっぱいに確認できる。

 天候は快晴。しかし吹く風は厳しさを増し容赦なく肌を冷気でいたぶっていく。

「寒いわね」

 言いながらも、戦を目前にしてリリーは自分の内側が熱く滾るのを感じていた。

 戦いを前にした高揚感は以前と同じようで少し違う。この燃える感情が行き場を見つけられない怖れが胸にちらつく。

 戦いたい。ただ戦うのではなく、最高の勝利を手にしたい。

 その期待ははたしてかなうのか、裏切られるのか。

 今までにない緊張を胸にリリーは冷えた空気をめいっぱい吸い込み、戦場へと赴くのだった。


 

***


 石を積み上げて築かれたごつごつとした印象の大きな城、ベーケ伯爵家に到着したクラウスはすでに交戦が始まっていることを真っ先に伝え聞いた。

「……俺らがつく前に決着つくんじゃないか?」

 クラウスは傍らにいるエレンに冗談半分で耳打ちする。

「そこまで脆くはないでしょう。それにここに集まった指揮官がやらなければ、色々と不都合ですから」

「そうだな、皇都奪還の大役を果たした人間が、しばらく統治していくんだからな」

 真面目に返してくるエレンにクラウスは誰も彼も冗談が通じず息が詰まると、伯爵家の広間へ向かう者らの背に目を向ける。

 この指揮官達が後の政府の要職を担うことになっている。これに老齢や負傷で戦場に出られないかわりに、現状の革命軍領側の統治に携わる者達も加わり新たな政権の柱となるのだ。

(俺、どの辺りに立たされるんだろうな)

 新しい国の元首となる人間がまだ定まらず、派閥は築かずに単身でいる自分が中立的かつ若き革命の立役者として民衆の支持も得られるのではという意見に徐々に賛同が増えている。

 現在の扱いは末席だが、面倒ごとを全部おしつけられそうな嫌な予感がひしひしとする。

(それより、リリーがどっちに向かうかが知りたい)

 皇主の軍に動きありとの報告はあったものの、マリウスの援護なのか戦況を聞いて皇都へ向かったのかはまだ不明だ。

 予測では先に陽動を片付けて加勢に加わるとの見方が強い。バルド達が来る前に決着をつけられるかは、皇都の内部で寝返りそうな者達の数によるといったところだろう。

 あともうひとつ押さえておくべき場所は、王宮と宰相家の屋敷にある隠し通路の出口だ。

 バルド達が全壊にしたモルドラ砦と同じく、緊急時の脱出用に丘の上から真下まで繋がる通路と身を潜める部屋がある。

 もし前の皇主や父が逃げ出すとしたらそこだ。知っている者は宰相家の人間と、皇家の者ぐらいである。

 エレンすら隠し通路の話は聞いたことはあってもはっきりとした場所は知らない。それでもラインハルトは王宮にもし何かあった時に逃げ込む位置は言われていたらしい。

 そのことを聞いた時は、少々驚いた。

(あれ、皇后ぐらいしか教えられないんだけよな)

 皇家の直接の血縁でない側室達にも教えられるものではなく、皇太子を産んだ皇后だけが知ることができる。

(父上は逃げるんだろうか)

 失策によってハイゼンベルクを傾け、挙げ句の果てに大事にしていた嫡男は殺害され残った跡取りとなる次男の自分はこれだ。

 あの父が自分に日和ってくることはまったく想像できない。

(あー、子供らは義姉上達と一緒に家に戻すのかな)

 軍議の席につきながら、クラウスは自分に甥と姪がいることをふと思い出す。

 兄にはアンネリーゼの他にふたりの妻がいて、それぞれ男児と女児をもうけている。甥はまだふたつで、兄が身罷ってから産まれた姪も乳飲み子である。

 大事な嫡男の忘れ形見はいざとなれば父が生家に戻すだろう。みすみす道連れにはしないはずだ。

(俺は隠し通路の場所は教えてもらえなかったな……)

 軍議で先鋒に早めに脱出路付近に配置する話を取り纏めている中、クラウスは自嘲する。

 屋敷の中に隠し扉があるのはわかっていたので、自分で幾つか隠し部屋や通路を突き止めたうちのひとつがそうだったのだ。

 父がどういう意図で隠していたのかは知らない。

(別に、いいんだけどな。今更父上のことなんて)

 そのはずなのに、皇都での戦が近づくにつれて頭の中で子供の頃の記憶や父のことが膨らんでいく。

 何ひとついい思い出はない。歳の離れた兄の鬱憤晴らしに付き合わされ、父からはなおざりにされてただ鬱屈とした毎日を過ごしていた。

 父とあの家で直接対峙することになる。どんな顔で、どんな言葉をかけてくるのか。

(俺は何を期待してるんだろうな)

 クラウスはただの再確認に過ぎない退屈な軍議を聞き流しながら、内心でため息をつく。

 父に認められたいと思ったことは幼い頃ならいざしらず、今は露ほども思っていないはずである。

「フォーベック殿」

 軍議が終わって席を立った時、真っ先に声をかけてきたのはベーケ伯爵家の現当主であるアンネリーゼの長兄だった。

 歳は確か三十前後。目鼻立ちが整っている点はアンネリーゼと同じだが、顔の作りはさほど似ていない。

「どうも。ご無沙汰しています」

 兄とアンネリーゼの結婚式以来であるはずだ。

「ええ。兄君の件はまことに申し訳ない。妹は甘やかされた上にあまりにも嫁いだ歳が幼すぎた。取り返しのつかない過ちを二度も犯しておいて、言い訳がましいのですが……」

「いいえ。そちらも父君のことで何かと大変だったでしょう」

 なんとも白々しい会話だと、クラウスは自分で言いながら呆れかえる。

 アンネリーゼが兄を殺したのは衝動的だったが、この長兄は家督を得るために妹を利用して父親を殺すよう仕向けた。

 兄を嫌っていた自分はもとより、この男も多少の罪悪感はあったとしてもとうに割り切っていることだろう。

「色々とありましたが、ええ。その……妹にひと目会ってやってはくれないでしょうか。書簡ではもう会うおつもりはないご意志がおありのようでしたが、妹はどうしてもあなたに会いたいようで」

 躊躇う素振りを見せながら、ベーケ伯爵が本題を切り出す。

「そうですか。……また、後ででもいいですか? 少し、休ませていただければありがたいのですが」

 ここで断ることは無理そうだと、クラウスは時間をもらうことにする。

「それはもちろん。長旅の後に無理をお願いして申し訳ない。では、また後ほど」

 ひたすら腰を低くしてベーケ伯爵はそう言い離れていく。

「やっぱり会わないことにはならないよなあ」

 クラウスは他に話し相手もいないのでエレンの所へ行ってため息をつく。

「身から出た錆でしょう。あなたの扱いが思いの外よいので、できればアンネリーゼ様を引き取ってもらって縁故を深めたい思惑もありそうですね」

「やっぱり、そういうことだよなあ」

 一度手紙で問い合わせておいて返事をした後に、また話を持ってくるというのはそういうことだろうとは勘づいてはいるものの面倒だ。

「私は、あの方に斬られるのはご遠慮したいので、この城では極力あなたと一緒に行動しないようにいたします」

「さすがにもう、刃物は持たせてないだろうけどな……」

 エレンと一緒にいるのは避けた方が賢明なのは確かなので、クラウスは少しの間ひとりで休息をとってからアンネリーゼと対面することにする。

 案内された部屋は上位の客を迎えるためと一目でわかる広さと調度品の豪勢さで、待遇のよさに気が重くなるばかりだ。

 クラウスは卓の上に用意されいるまだ湯気の立つポットに入っている紅茶を、杯に注いで手持ちの銀の匙でかきまぜ、色味と匂いを確かめて一口分だけ舌で転がす。

 令嬢を唆し前の伯爵を死に追いやったことになっている自分をよく思っていない使用人も少なくないはずだ。

 特に妙な物は入っていないらしいと確認してから、クラウスはいっぱいだけ飲み干す。

 暖かい紅茶で幾分か疲れがほぐれて、ほんの一時の休息をとれた。


***


 彼はいったいいつ会いに来てくれるのだろう。

 結婚して家を出た時から七年何も変わっていない、白と桜色のフリルを基調にした自室でアンネリーゼはクラウスの訪れを待っていた。

 あいにく自分の部屋の窓から見えるのは裏庭の景色だけで、クラウスの姿を見ることすら叶っていない。

 長兄に命じられた侍女達が部屋からは出してくれずただ待つばかりである。

 あんなにも帰りたかった生家は今となっては、婚家と変わらず窮屈なものでしかない。

 昔と変わらず居心地がいいようにと古参の侍女達が部屋を整え、小さな頃気に入りだったウサギのぬいぐるみも綺麗にして置いてくれている。

 この城が自分にとっての世界の全てだった頃、何もかもが自分にとって優しいものだった。

(お父様はわたくしを利用しただけだわ)

 皇都の婚家で顔を合せた父は真っ先に自分を責めた。

 代々引き継いできた自分の忠誠心を蔑ろにしたのだと、初めて激しく罵られた。夫のこれまでのひどい振る舞いを訴えもした。

 だが結婚というのは夫に従順になるものであり、不平不満を言うことが間違っている。むしろ嫡男をあげられないながらも、第一夫人の座に置いてくれていることに感謝せねばならない。

 その上義理の弟に懸想するなど、こんなふしだらな娘になるとはと嘆くのだ。

 嫁ぐ前までの父はとても優しい父親だった。その頃の大好きな父親はいったいどこに行ってしまったのかと混乱した。

 だけれど十二の自分を夫の元に嫁がせたのも父だ。

 あの時には自分の幸せなどこれっぽちも考えてくれていなかったのだ。父は父自身の自己満足で自分を宰相家に嫁がせただけだった。

 お前のことは私がしかるべき責任をとらねばならない。

 そう、父が言ったとき二番目の兄に耳打ちされたことが事実だと確信した。

(お父様がわたくしを殺そうとしていた)

 最初に二番目の兄にそう教えられたとき、あの優しい父がそんなことをするはずがないと信じなかった。だから、短刀を手渡された時も最初は必要ないと断ったのだ。

 だが持つだけ持っておきなさいと諭されて、ドレスの袖口に忍ばせることになった。

 兄には感謝しなければならない。そうでなければ、クラウスともう二度と会えなくなる所だった。

 どれだけ家に帰りたいと思いながらも、婚家で耐えていたのは全てクラウスのためだ。

「お嬢様、よろしいですか」

 部屋へ古参の侍女が入ってきて、クラウスが会いに来たのかとアンネリーゼは期待に胸を膨らませる。

「クラウスと会えるのかしら」

 訊ねると物心ついたときから仕えている侍女が、まだと首を横に振る。

「今は少しおやすみになっておられて、後でまたいらっしゃるそうです。……お嬢様、あの方のことは諦めた方がよろしいのでは」

 突然のことにアンネリーゼは目を瞬かせる。

「どうしたの。急にそんなことを言って」

「お嬢様には内密にしていましたが、若様が以前お手紙を出した時、あの方はお目にかからないとはっきり断られたそうです。女性に関してあまりよい噂を聞かないお方ですし、お嬢様がこれ以上お辛い思いをなされるのは私も耐えられません」

 涙を滲ませながらそう訴えかけてくる侍女に、アンネリーゼは首を横に振る。

「そんなことはないわ。他の方々とわたくしはちがうもの。誰よりもクラウスにわたくしは尽くしてきたわ。きっと、手紙の時はお兄様が何か失礼なことをしたのでしょう。今日は会って下さるのだし、顔を合せて話せばクラウスも何か約束をしてくれるわ」

 自分は今までクラウスに近づいて来た他の誰とも違う。特別なのだ。

 アンネリーゼは自分に言い聞かせるように、侍女に話しかける。

「お嬢様……時にどれだけ尽くしても思いが叶わないことはたくさんあります。お話しになるなら、そのこともよく覚えていて下さいませ」

 侍女が諦めた顔で静々と下がっていった。

「……大丈夫よ。きっと叶うわ」

 アンネリーゼは自分を慰めながらも、クラウスの顔を思い出してた。

 自分ではなく他の少女に向けられた、心の底から楽しそうな彼の特別な表情。

 だけれど彼女は遠くにいる。いずれ戦で死んでしまうはずだ。

 アンネリーゼは口を固く引き結んで、今までクラウスに会えることに浮き立っていた気持ちが沈み込んでいくのを留める。

 だが侍女の言葉が重石になって、一度沈んだ気持ちが浮き上がらないままクラウスとの対面の時を迎えることとなった。


***


 もう少し浮ついた雰囲気でやってくると思っていた。

 クラウスは数ヶ月ぶりにあったアンネリーゼの落ち着いた表情に、内心拍子抜けする。

 みっつ年下の義姉はいつ見ても寸分の狂いなく完璧な美しさを纏っていた。自分で殺した父親の喪に服しているのか、飾り気の少ない黒に近い紺のドレス姿で佇む姿はどこを切り取っても絵になる。

 だがやはり素直に美しいとは思っても生きた人間に対する評価というより、人形や絵画に対する感覚と似ている。

「クラウス、無事でよかったわ」

「義姉上こそ、ご無事で何よりです」

 儀礼的に頭を下げてクラウスはアンネリーゼが先に座るのを待つ。椅子と小ぶりな円卓が置かれた部屋は天井が低く、床に敷かれた焦げ茶の毛織物の黒い色と相まって窮屈で重苦しい。

「……またすぐに戦に行ってしまうのね」

 席についてすぐにアンネリーゼがぽつりとつぶやいた。

「行きます。こうやって話すのはこれが最後でしょうね」

 クラウスは席につかないままアンネリーゼを見下ろす。

「どうして? わたくし、ずっと待っていたわ。あの人から解放されて、戦のしがらみからもなくなればずっとあなたと一緒にいられると思って精一杯やったわ……」

 アンネリーゼが嗚咽を堪えるように息を深く吸い込んで沈黙した。

 泣かれるのは面倒だなと考えながら、クラウスはため息をひとつついて腰を下ろす。

「義姉上の期待を知っていて利用したことは否定しません。俺はあいにく善人じゃない。利用できる物ものはいくらでも利用するし、逃げも隠れもする。本当ならこのまま会わずに終わるつもりでした」

 ベーケ伯爵家に滞在する予定がなければ、このまま距離を置いて知らぬふりを通すはずだったことを包み隠さず告げる。

「でも、悪い人でもないわ。初めて会ったとき、あなたは優しかった」

「たったそれだけでしょう。兄嫁に対する最低限の礼儀を尽くした挨拶程度だったはずです。特別なことなんて、なかった」

 アンネリーゼに具体的に何を話しかけたなど覚えていないが、自分がどんな態度だったかぐらいは想像がつく。

 作り笑いと当たり障りのない言葉。結婚式の場にいた誰もが彼女に同じ態度で接していたことだろう。

「わたくしにはとても特別だったの。十二のわたくしには優しい言葉のひとつもかけてくれない十三も年上の夫がとても恐ろしかった。知らない家でその夫と暮らしていくことも不安だった。だけれどみっつだけしか違わない、あなたが笑いかけてくれて、安心したの」

 アンネリーゼが青い瞳を真っ直ぐに向けてきて、必死に語りかけてくる。

「だけど、俺にとっては特別じゃなかった。義姉上の好意に気付いた時、利用できる手駒になりそうだとしか思わなかった」

「それでも、あなたの役に立とうと頑張ったわ。あなたのために、夫の目を盗んで情報を渡したわ。あなたを護るためにあの人を殺したの……」

 クラウスはアンネリーゼの言葉に首を横に振る。

「俺のためじゃない。全部自分のためだよ。義姉上は兄上からずっと逃げたかった。それを俺を理由にして実行しただけです。みんな、誰かのためって言い訳しながら、自分のために動いてるんだ。……俺がそれを利用しているのは事実だけれど、だからって責任なんてとらない」

 クラウスは静かに立ち上がる。

 長々と話をするつもりはなかった。アンネリーゼを説得する気もまったくない。半端に優しさを作るよりも、本音をさらして切り捨ててしまった方がましだ。

「わたくし、あなたに置いていかれてどうやって生きていけばいいの?」

 アンネリーゼは立ちあがらないまま、唇をわななかせる。

「死ぬ気がなければ生きていけますよ。自分で決められないなら兄君達がなんとかしてくれる。書簡で義姉上のことは全部兄君のベーケ伯爵に任せることになってたんです」

 沈黙が下りる。

 アンネリーゼはうつむいて固く両手を組んでじっとしていた。

「……あなたはわたくしを、誰かを利用して何がほしかったの」

 そのまま踵を返して立ち去ろうとしたとき、か細い声で問いかけてくる。

「特に何が欲しいってわけでもなかった、父上達と心中するのだけはごめんだって思ってただけだな。今は、ちゃんと欲しい物があるけど、それは義姉上には関係ないことです」

 クラウスはこれ以上の会話を打ち切って部屋の扉に手をかける。アンネリーゼが動く気配はなかった。

「待って」

 しかし、半歩だけ部屋を出たところで制止の声がかかって、クラウスがもう一度だけきちんと別れを告げようと足を止めたその時だった。

 近くで魔術が発動する気配がする。

 アンネリーゼではない。廊下の方からで、反射的に部屋に戻ったところで目の前を風の刃が通り過ぎた。

「クラウス!?」

「奥にいろ! くそ、狭いな」

 クラウスは駆け寄ってこようとするアンネリーゼを部屋の奥に移動させて、自分の剣を抜く。

 この城の廊下は狭く、部屋もさして広いわけではない。長剣を振り回すには不便だ。

 幸いなことは部屋の入口も狭いので一斉に斬りかかってくることがなさそうだということか。

「伯爵の差し金、ってわけでもないか」

 ここで自分を襲撃したところでベーケ伯爵になんの特もない。かといって革命軍ということもないはずだ。

「覚悟!」

 先鋒の男が炎の魔術を放ちながら斬り込んでくる。クラウスはそれを水の魔術で押し返し、一刀のもとに斬り倒す。

 間髪入れず風の刃が部屋に吹き込んでくるのをローブで躱しながら、ふたりめを斬り捨てる。そこで敵方も様子見のつもりか、一旦攻撃は止むがまだ廊下に数人いるのは気配で察せる。

「……お父様の、側近だわ」

 アンネリーゼが絶命した襲撃者ふたりを見て呆然とつぶやく。

「まあ、それしかないか」

 ベーケ伯爵家も前の当主に仕えていた者達が全員革命軍につくことに納得いっているわけではない。主君の仇討ちのつもりだろう。

「まさか、わたくし達を彼らは殺すつもりなの」

「俺は確実にそうだろうな。義姉上は、どうかな。こいつらの中ではまだ俺に騙された可哀相なお嬢様だといいな」

 実際に画策したのはアンネリーゼの兄達だが、城内で騒動が起これば面目は丸つぶれにはなるだろう。

「わたくしが話をするわ。皆、すぐには攻撃しないはずよ」

 前に出ようとするアンネリーゼに、クラウスは思案する。誰かが気づいて救援にくるまでの時間稼ぎにはなるとはいえ、彼女の命の保証はなかった。

(……さすがに盾にするのは寝覚めが悪いな)

 クラウスは耳をそばだてて廊下側の様子をうかがいながら、アンネリーゼを自分の側まで手招く。

「とりあえず、俺のすぐ後ろに立って声だけかけてみてくれますか」

「ええ。……あなたたち、一体どういうつもりでこんなことをするの」

 アンネリーゼが声を振り絞って問いかけると、廊下から足音が聞こえてきた。クラウスは剣を構え、攻撃に備える。

「お嬢様、ブルーノです。覚えていらっしゃいますか」

 そして初老の男が入口の前に立った。彼は腰の剣の柄に手を置いているものの、仕掛けてくる気配はない。

「ええ。覚えているわ。もちろんよ。子供のころにたくさん遊んでもらったもの……」

 アンネリーゼが幾分か緊張を和らげた様子で首を縦に振る。

「それは嬉しい限りでございます。お嬢様はお変わりない。本当に嫁がれるまえのままでいらっしゃる。人を斬るなど、できる方ではない」

 ブルーノが襲撃者とは思えない穏やかな顔で目を細める。

「……でも、夫もお父様も殺したわ。わたくしが、この手で殺したの。夫はひどい人で、お父様はわたくしを殺そうとしたの。わたくしは抵抗しただけよ」

「御館様は苦しんでおられた。罰を下すのなら、せめて己の手でとは仰っていました。お嬢様はそれだけのことをなさったのです。しかし、誠に悪いのはその者でしょう」

 敵意の目が向けられて、クラウスは否定する。

「殺されるような真似したうちの兄が悪い」

 兄が死んだのは自業自得だ。もとより傲慢な質でアンネリーゼに対しても不遜だった。

「貴様、どこまでもふざけた真似を。お嬢様に対して責任を果たすならば、命は取るまいと思っていたが……お嬢様も、もうよいでしょう。ここで私が御館様に変わって討たせていただきます。不貞の末、夫殺し父殺しまでして捨てられたなどと後ろ指を差されて生きていくよりも、ここでこの男と死んだほうがよいはずです」

 ブルーノが剣を抜く。彼は本気で自分とアンネリーゼをまとめて始末するつもりだ。

「……ええ。そうかもしれないわ」

 抑揚のない声でそうつぶやくアンネリーゼに、クラウスは眉根を寄せる。

「義姉上達がよくても、俺はよくない」

 勝手に話を決められても困る。ここまできて死ぬ気はまったくないのだ。

 クラウスはアンネリーゼには気を回さずに、ブルーノと対峙することに専念することにする。それほどの強敵でもないが、自分の命を惜しまず向かってくる者をあなどると痛い目に合う。

 ブルーノが剣を振るい、炎の飛沫を撒き散らす。

「いやああっ!」

 クラウスは水の魔術とローブで防ぎきれたが、アンネリーゼはいくらか被ったらしく悲鳴が上がる。

「死にたくないなら、下がってろ。そうじゃないなら好きにしろ!」

 クラウスは舌打ちして、一瞬ブルーノが動揺した隙に間合いに入り込んで風の魔術を打ち込む。

 炎以外の魔術を使うのは不得手なのでさした威力はないが、切っ先を喉元に突き立てるまで相手が体勢を崩していればいい。

 反撃の刃が腕を掠める。しかし、クラウスは確実にブルーノの首を割いた。

 ちょうどその時、廊下でも剣戟の音が上がる。やっと異変に気づいて救援が駆けつけたらしい。

「ブルーノ……」

 その場にへたり込んだアンネリーゼが放心した顔で事切れたブルーノを見る。彼女のドレスにぽつぽつと焼け焦げた痕があり、唇の横にも火傷が見られるものの大した怪我ではなさそうだった。

「死にたいですか、義姉上」

 アンネリーゼが糸に引かれたように、ゆるゆるとクラウスを見上げる。

「あなたに置いていかれるなら、死んだ方がましだと思ったわ。それなのに、恐かった。わたくし、まだ死にたくないの……」

 造り物めいた青い瞳から涙が伝う。そしてアンネリーゼは両手で顔を覆って子供のように泣きじゃくりはじめた。

 クラウスは剣をしまい、慰めることはもちろんアンネリーゼに目をむけることもなくなく眼鏡に散った返り血を拭いながら人が来るのを待つ。

(みんな自分のため、だな。俺も)

 戦場で死ぬよりも戦のない世界で生きる方がリリーのために一番いいと言いながら、自分とて彼女を手に入れたいがゆえのことでしかない。

 ばたばたと人が駆け込んできて、先に泣き止まないアンネリーゼが他の部屋へと治療のため連れて行かれた。

 立ち去る時、アンネリーゼがクラウスを振り返ることはなかった。


***


 騒動から一夜明け、アンネリーゼはいつも通り自分が朝を迎えたことを漠然と受け入れていた。

 『玉』の魔術の治療によって火傷は痛まない。後のことは知らない。兄達が謝罪に奔走したことは、聞いた気がする。

「……クラウス」

 アンネリーゼは夜着の上にショールを羽織って部屋から出ようとして立ち止まる。

 クラウスに見捨てられたら、生きていく意味はないと思った。自分で死ぬよりもブルーノに殺される方が楽だろうと、諦めたはずだった。

 アンネリーゼはうっすらと火傷の痕が残る顔を撫でる。

 クラウスへの想いは自分への言い訳でしかなかったのだろうか。ずっと夫から逃げたかった。父に殺されたくもなかった。

 それもまた本心だ。だけれど、クラウスがいなければ行動に移せずにいたはずだ。

 夫を殺さなければ、父を殺すこともなかった。だけれどあの家で夫とずっといる過去に戻りたいとは微塵も思わない。

 ただひとつ確かだと言えることは、自分は今ここで生きていることを悔やんでいない。

「お嬢様、具合はいかがですか? 食事をお持ちしますけれど、食べたいものはございますか?」

 隣の部屋にいた侍女が、物音で目覚めたことに気づいてやってくる。

「いらないわ。クラウスは、もう行ってしまった?」

「今、ちょうど出立するところですが、お見送りになるのですか?」

 侍女が困り顔で訊ねてくるのに、アンネリーゼは自分がどうしたいのか考える。

 クラウスはもう、自分と話すつもりもないだろう。会ったところできっと目もくれないかもしれない。

「東棟の窓からなら、姿が見えるわよね」

 アンネリーゼは侍女に付き添われて前庭が見える三階の窓辺へと向かう。

 下をのぞけば沢山の魔道士達が隊列を組んでいる所だった。皆同じ白いローブを纏っていてクラウスを見つけることは難しい。

「あ……」

 日の光が反射する銀の髪を見つけて、アンネリーゼは身を乗りだす。後ろ姿だった彼が振り向いて、クラウスだと確信する。

(でも、やっぱりあなたのことは好きだったわ。わたくしにとって、特別な人だった)

 アンネリーゼは硝子窓に指をはわせて瞳を潤ませる。クラウスがこちらに気づくこともなく、行ってしまう。

 これで終わりだ。自分の恋は終わってしまった。

 アンネリーゼは嗚咽を呑み込んで窓辺から離れる。

 恋を失っても、死にたくないなら生きていくしかない。

「……温かいスープが飲みたいわ」

 侍女の付き添いを断って、アンネリーゼはひとりきりで自室へと戻った。



***


 ベーケ伯爵家の騒動によっての行軍の遅れはなく、エレンは生家のベレント男爵家へと予定通り立ち寄ることになった。

 父は男爵家に仕えている全ての魔道士に、すでに進退をきめさせていた。三分の一はすでに皇家軍へと向かい、叔父を含めた残る兵の大多数は革命軍に加わることになった。

 そうして、父を含めた少数は何もしないことを選んだ。

 何もせずにただ流れに身を任せるままの父らに眉を顰める者は多かった。それもひとつの選択だろう。

 主君に刃を向けるつもりはなく、かといって自ら滅びを望む主に追随することもできない。

 ならば流れに身を任せる他にないではない。

「……本当に、こんなに早く皇都に戻るとはな」

 ベーケ伯爵家での騒動の後も動揺も何も見せていないクラウスが、晴れた空の向こうに小さく見える王宮にそうつぶやいた。

 今日は空気が澄んでいるので小高い丘の頂上にある王宮がよく見えるが、到着までまだ二、三日はかかるはずだ。

「……ええ、そうですね」

 二度と戻ることはないと終ヵ月前に背にした王宮を見上げて、エレンは素直にうなずく。

 クラウスからの言伝を預かって宰相家を訪ねた後、皇都に行くのはこれが最後だと思っていた。

 しかしこんなにも早くに戻ってくることになるとは、まったく考えていなかった。

 革命軍の魔道士達も皇都に近づくにつれて、これから大きく国が変わる前触れに期待と高揚を隠し切れずにいる。

(だけれどあそこに、皇主はいない)

 バルド率いる皇家軍はマリウスの救援に向かったという報告が届いていた。今王宮にいるのは前の皇主のみである。

 それでも千年の間皇主が君臨し続けた皇都を、皇家の支配から解放するということには大きな意味がある。

(もし、まだ生きていられたらあなたはどうしたのでしょう)

 王宮にラインハルトがいたならもっと革命軍は苦戦することになっていたかもしれない。

 そんな意味のないことをつい考えてしまう。あの場所で主君の側で終焉を迎える皇国を見ていたかったのは、やはり後を追いたかったとまだ思っているのかもしれない。

(それでも、あなたは私に生きろと仰るのでしょうか)

 しかし、状況が変わったところで結局は同じ事をラインハルトは命じる気がした。

 エレンはそっとため息をついて再び王宮を見上げる。

 王宮を破壊するまでにはいたらないだろうと言われているがどうなるかはわからない。

 しかしこの景色はいつもでも残って欲しいと思わずにはいられなかった。

 離れたこの場所から見るこの光景には初めて皇都に向かった時の不安と緊張、そして去った時の寂しさや悲しみ全てがある。

 ラインハルトに仕えた最初から最後までの記憶に留まる景色が消え去ってしまうのは、どうしても耐えがたく悲しいことに思えた。

 自分はこんなにも感傷的な人間だっただろうか。

 うっすらと視界がぼやけてエレンは瞳をぬぐう。一瞬の仕草に自分の感情の波を誰かに気取られることはなかった。

「バルド殿下は皇都が陥落したらどうするのでしょう」

 帰るべき城をなくしたとしても、バルドがここで簡単に終わるとも思えない。

「北ぐらいしか、行くところはなさそうだな。ここで早く決着がつくといいんだが」

 クラウスもバルドは崖っぷちに追い込まれるまで戦い続けるのだろうと思っているらしく、深々とため息をつく。

 彼女は終わりまで一緒にいられるのだろうか。

 エレンの胸に引っかかるのはバルドの行く末よりもリリーのことだった。

 ゼランシア砦で囚われのリリーが逃亡するのを見送った。自分の叶えられなかった望みを、彼女はなそうとしている。

 それが昔はひどく妬ましく苛立ちすら覚えるものだったが、今はどこまで思いのままに走り続けるのか見てみたくもなった。

 不意に曲がりくねった道の中で山の陰に王宮が隠れて見えなくなると、エレンは視線を足下に戻して流れに身を任せて前へと進んでいく。

 やがてあちらこちらで戦闘が勃発している情報が入ってくる。だが皇都はまだ静からしい。

 だけれど、その静寂が長く続かないことは皇都へ攻め入る誰もが知っていることだった。


***


「バルド、バシュクでも戦闘だって」

 行軍の休息の途中、新た入ってきた報告をリリーは木陰で座り込み目を閉じているバルドに告げる。眠っているわけではないので、すぐに彼は目を開けた。

「生き残った者は合流。この先も同じ」

 そう告げてバルドは再び目を閉じてしまった。リリーはその言葉を他の者達に告げて、バルドの傍らに座る。

 バルドは眠たいわけでも疲れているわけでもなく、いつも以上に戦の空気に高揚しているのだ。気を鎮めるためにこうして眠っているような状態でじっとしている。

(もう四箇所目だものね。あたしだってそわそわしてる)

 行軍を始めてから今まで沈黙していた者達も次々に行動を起こし始めていて、周辺でも小規模の戦が勃発している。すでに内乱で腐りきった皇国は、今になって砂の城のようにぼろぼろと崩れ始めていた。

 あちらこちらで起こる闘争に、戦狂いのバルドも自分も落ち着かない気分でいた。

(でも、なんだかそれだけじゃない気もする)

 バルドがこうして周囲と意識を遮断していることが、戦前の高揚を鎮めるためであることにはちがいない。

 しかし、何かほんの少しだけ胸騒ぎがする違和感がするのだ。

 リリーはバルドの手に自分の手を伸ばしかけてやめる。その代わりそっと寄りかかってみる。

 バルドは身じろぎひとつせずにいて、おかしいところは何ひとつない。

(思い過ごし、かしら)

 なにもかも満たされすぎているから、些細なことが変に気になりすぎているだけかもしれないとリリーは考えるのをやめる。

(明日ぐらいには合流できるのよね……)

 今現在、マリウスの軍は敵勢を引きつけながら目的地の近くで睨み合っているという。もう少しこちらへ寄ってくれば戦闘に入れる。

(演習したいけど、バルドが無理だから諦めるしかないわね。皇都の方が戦は面白くなりそうなのも気になるわ)

 じっとしていられずに今すぐ愛刀を鞘から抜きたいところだが、剣を向ける相手がいないことにはどうにもならない。

 皇都の方へはすでに本隊に加えて、さらに革命軍の中核たる者達が率いる軍も合流しいよいよ派手な戦になりそうだった。

「バルド、ちょっとその辺歩いてくるわ」

 リリーは一応声だけかけて、気分転換の散歩をひとりでしてこようかと立ちあがろうとする。

「リーは、ここ」

 だがバルドが目を開けないままそう言って、リリーは動くことをやめた。だったらいっそ寝てしまおうかと考えるものの、自分の手をしっかりと握っているバルドにまた違和感を覚えてしまう。

「いるわよ。あたしはちゃんとバルドの側にいるし、手の届かない所に行ったりしないわ」

 戦の高揚に別れの不安でも混じっているのだろうかと、リリーは囁いてみるがバルドの反応は何もなかった。

 何かすっきりしないと、リリーは晴れ渡った空を見上げて途方にくれるしかなかった。


***


 マリウスの率いる部隊は負傷者を出しながらもひとりも欠けることなく、逃げる素振りで敵軍をゆるやかに目的地へと誘っていた。

「もう、あとひと息だ。そうすれば皇主様のお力を得ることができる」

 山中の行軍が続き疲労が濃く見える部下達にそう告げながら、マリウスは自分自身を鼓舞する。ここまで誰ひとり失わずにやってこれたのだ。

 気を緩めずに進めばバルド達と問題なく合流できるはずだ。

 マリウスは近くに沢が見えるとそこで一度足を休めることにした。周囲には敵の気配はない。

 だが皇都へ向かう最短距離を取っていると、敵が認識しているなら追いつかれるのもすぐだ。休息と言っても気を休める暇はない。

 しかし、疲れ切った体で緊張を緩めるなというのも難しいことだった。

 マリウス達の休息する沢の向かいにある山の斜面から、凍てついた暴風が来る。

 即座に複数の杖が動いたものの、足並みが揃いきらなかった。

 複数の魔道士が足下を凍らされて形勢は一気に不利になる。

「動じるな! 向こうも消耗している。落ち着いて退避しろ!」

 マリウスはまだ全体像が見えない敵兵に向けて青い炎の礫を放って、向こうの攻撃を押さえる。

 そしてその隙に軍の体勢を取り直し、予定通りの方向へと進もうとする。

 しかしそちらにも数人の敵の影があった。

「……姉上」

 マリウスは目の前に現れた白いローブを纏ったヴィオラの姿に、歯噛みする。

 姉が裏切ったことよりも、生きていること喜んでいる自分に戸惑った。

「わたくしは、生きる方を選んだわ、マリウス」

 ヴィオラの切っ先がマリウスに真っ直ぐに向けられる。

 かつての実力をよく知る将が敵として立ち塞がっていることに、皇家の軍は動揺を隠しきれない。

 ヴィオラの切っ先から深紅の炎の花が咲く。

 マリウス達は一瞬で窮地へと追い込まれたのだった――。


 

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