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発端は『剣』の社近くに領地を持つ男爵家の分裂からだった。
元はディックハウト側であった男爵家は、革命軍につく当主の兄派と皇家につく弟派で意見が割れ二分していた。
そうはいっても社からは川を隔てた山間の盆地にある小さな領内でのことだ。魔道士の数は五十にも満たず、二分したといっても大きな火種になるとは誰も思っていなかった。
しかし、兄弟が相打ったことによって状況は一変した。
跡継ぎがまだいなかった男爵家の領地は、これによって領主不在となった。
これが安定した統治下ならまだしも、内乱の混乱の真っ直中である。そして魔術という絶対的な力と血によって確立してきた貴族の地位が揺らいでいる状態だ。
近隣の領主がすぐさま動いた。小さな領地とわずかな兵とはいえ、少しでも足しにしたいと革命軍寄りである東隣の領主と、皇家派の西隣の領主が相対することとなった。
主を失った魔道士は西側と東側に別れ、小さな領地を巡っての対立は革命軍派と皇家派という建前の元に拡大し、さらに近辺の領主を巻き込んだ大事になっていた。
(早急に対応って言っても、無理な話よね)
軍議で状況の拡大の仔細を確認する中で、リリーは内心でため息をつく。
領主不在となった時点で何かしらの対策を取らねばならなかったが、戦況の影響で状況把握が遅れている内にこの様である。
「炎将が鎮圧に出ておられますが、我らも出陣すべきでは」
「いや、今はあちらに戦力を偏らせるわけにはならん。炎将殿ならば鎮圧してくれると信じて我々は、南の防衛を強化すべきだ。なんとしても皇都への侵攻は食い止めねばならん」
「とにかく、まずは情勢を見極めて慎重に動かねばならん。出来うる限り、味方も増やさねばならんだろう」
議場は様々な意見が飛び交っているが、やはり慎重派が多い。
(出られるなら出たいけど、バルドが動くわけにもいかないか)
戦は始まっても戦に出られないことはほぼ決まりとなると、途端に軍議が面倒になってくる。
リリーはついぼんやり話を聞き流してしまいそうになりながらも、なんとか全ての意見に耳を傾ける。
「炎将に一任。南と同時に、デルン方面も警戒。北側への退路の確保。以上」
ある程度意見を聞いてから、バルドが話をまとめる。異論はなく、さらに誰がどこを受け持つかの詰めに入り軍議が終わったのは夕刻前だった。
「今から、演習は無理よね」
空いた時間があればバルドと剣の稽古をしたかったリリーは、廊下の窓から暮れていく空を見ながら落胆する。
剣を振るうのには、まだ体が少し重たい感覚があるので早い所本調子に戻りたいところだが、バルドもこれからまだ執務がある。
「……明日はする」
「実戦までには、まともに動けるようになるといいんだけど……あたしらが出るとしたら、皇都かデルンよね」
「同時進行の可能性あり。俺達はデルン」
デルンは『剣』の社を南西に向かった場所にある平野だ。元はディックハウト領内であり、社より近いものの川や深い谷によってハイゼンベルク領内と隔てられ、そこから侵攻してくるには大軍では少々厳しい。
だがこちらの手勢が手薄で社近隣で戦火が上がっているなら、革命軍側は出来る限りの兵を送り込みながら、近隣のどっちつかずの魔道士を取り込み無理にでも進軍してくるとバルドは考えているらしい。
その時皇都も同時に攻められれば否応なく南東側、南西側で皇家側は兵を二分して防衛にあたらねばならなくなる。
そして、食い止めきれなかった時は、北へと退路を取るしかない。
「バルド、皇都は向こうに渡してもいいと思ってるでしょ」
「……内側が、もたない」
皇都の内部崩壊は止められない。止める気も、バルドにはなさそうだった。
「そう。ゼランシア砦よりも北になると、この先本当に寒そうね」
戦う意志はあっても、バルドに戦に勝つ気はなさそうだった。それはディックハウトとの戦の時からであるものの、その時よりもずっと諦観が強く思える。
今のバルドはただひたすらに死へ向かって突き進んでいる気がする。時々置いていかれそうなほどに、彼の歩幅が広がっていっていると感じる時すらある。
「寒い。雪、頻繁に降る」
「雪か……。食料もだけど、薪も毛布もうんといるわね」
物資は足るのだろうか。雪の中動けず物資もつきて終わりというのは避けたい事態だ。
「確保、進める。北は味方多い」
敗戦は目前だ。それでも、誰もが負けることなど微塵も考えていない素振りで物資を整え策を立てる。
これはこれで魔術という力に、戦うことに取り憑かれた者達の葬儀の準備なのかもしれないと、リリーは思う。
魔術のでもって築かれた皇国という棺に己自身と生きてきた全てを収めて、燃え尽きるまでの段取りを自らつけていく。
(皇太子殿下の棺には、バルドは何も収められなかったわね……)
死者への最後の贈り物をバルドはできなかった。今、この全てがその代わりなのかもしれない。
(あたしは……)
自分の棺に収めるものは、剣と、バルドとの約束ぐらいだ。
「リー、明日、早起き」
「ん、そうね。早く起きたら稽古できるわね」
バルドが声をかけてきて、リリーは思考を切り替え、時間が取れないなら作るしかないとうなずいた。
***
父からの手紙にエレンは眉間の皺を深く刻む。
自分が今は革命軍側についていると連絡したものの、父は皇家に刃を向けるつもりはなくこのまま静観するらしい。
かといって生家周辺は革命軍がすでにひしめいていて、いずれ決断を迫られるだろうに。
どちらにもついていないというのは、自分も同じといえば同じなのだが。
エレンはため息をついた所で、部屋の扉が叩かれる。
「何か?」
部屋に入ってきたのは、クラウスだった。
「そろそろ皇都を落とすらしいから、協力してくれだってさ。王宮内部の事情はエレンの方が詳しいだろ」
「皇都を、攻め落とすのですか……」
直にやってくると分かっていても、実際にその時が迫ると胸に迫ってくるものがあった。
皇都で過ごしたのはほんの数年だが、何よりも思い出深い。ラインハルトに使えた日々の全ては王宮にある。
王宮の外に出ることすらままならなかったラインハルトは、それでも屋上庭園や中庭に度々出ていた。自分はいつも車椅子を押して、彼の望む場所に連れて行った。
海が見える屋上庭園をよく好んだ。体の調子がよければそこで少しの間執務をしたりもしていた。
だけれどラインハルトが本当に行きたい場所は、王宮の外だった。その願いは灰になってからやっと叶った。
「といっても、最低限の犠牲ですませたらしい。皇都で確実に敵に回って手強いのは水将とジルベール侯爵ぐらいだからな」
海にラインハルトの遺灰を撒いた時の事を思い出しながら、クラウスの話にうなずく。
「ええ。地将と風将はおそらく最後まではつかないでしょう。ジルベール侯爵のご息女らの方はどうするのです」
かつて炎将を務め今は軍司令部で重責についているジルベール侯爵の嫡男と長女は、マリウスとヴィオラだ。今は剣の社近辺の戦に出ていると言う話だが、クラウスはこのふたりはどうにか味方に引き入れられないかと考えているらしい。
「ヴィオラさんは皇家への忠誠心が強いわけじゃないからどうにかしたい。マリウスがいなかったら、さっさとこっちに来てると思うんだけどな」
「御嫡男を討てば。炎将は寝返るとお思いですか?」
むしろそれは復讐心をあおり立てて敵に回すだけではないのか。
「いや、そこまではやらない。だけど、マリウスも片腕なくしてる。ヴィオラさんも、いよいよとなったら自分でマリウスを説得にかかるだろう」
「そう上手く行くでしょうか」
「さあなあ。今の戦によるな。俺がやれることも大してない。先に炎将との戦を片付けたら、上の連中は皇都に進軍するつもりだ」
剣の社近辺の戦が終わる目処はついているらしい。
エレンは事の進行にそう感じながら、やはり父にもう一度だけ手紙を出しておこうと思う。
「……上の連中と仰っていますが、あなたもそちら側では?」
クラウスは革命軍の中でも中枢の立ち位置にいる。どうやらもっと上の地位に就けて表に立たせておこうという革命軍の思惑もあるらしいが。
「俺は都合のいい人間。面倒ごとの的にちょうどいいって奴だから、そういうややこしいのはごめんだ」
口は上手く若く見栄えのいいクラウスは確かに、革命軍側としては態のいいお飾りにはなるだろう。ただし信頼できる人物には足らず、上層部でも扱いには慎重といったところか。
「エレンは、終わった後の身の振り方、決めたか?」
「いいえ。終わってからでないと、どうしたいのかもわからないでしょう……」
ラインハルトの代わりに全てを見終えるのが自分の役目だ。
戦が終わった後に自分が何を思うのか、何を望むのかは何も見えなかった。きっと全てが終わった時に、見える物があるだろう。
それはラインハルトが見たかったものなのか。
何も想像がつかない。だけれど、その瞬間をとても自分は待ち侘びていた。
***
炎将率いる軍勢は、戦の鎮圧に予想外に苦戦させられていた。
地の利が圧倒的に不利だったのだ。戦場は小さな盆地である。周囲を山に囲まれたそこへ赴くのに時間を費やされたことが響いていた。
「姉上、引き返して北側から回るか、迂回して山を突き進むかどちらかしかなさそうです」
やっと戦地を目前として倒木や岩で塞がれた道にマリウスは、将である姉へ判断を問いながら焦りを募らされていた。
行軍に手間取っている内に最短の道筋が敵に塞がれてしまった。何かが崩れる大きな音と振動でこうなっていることは予想済みだったとはいえ、魔術で道を空けるのも難しいほどの酷い状態を実際に目の当たりにしするとやりきれない。
「引き返すのにも時間がかかりますし、進むなら迂回して山の中を進むしかありませんわね。ですけれど、道を塞がれたことを考えるともうずいぶんとこちら側は分が悪くなっているかもしれませんわ」
ヴィオラがまったく情勢の見えない道先を厳しい顔で見据える。
「ならば、なおさら急ぐべきでは」
「急いでたどりついたとしても、退路は困難となると無駄に兵を損ないますわ。先に偵察を出して、それから策を立て直しましょう」
しかし、そうしている間にも自分の知らないうちにこの戦は敗北し終わってしまうかもしれない。
そうは思っても、姉の判断が正しいのは分かってるマリウスは言葉を呑み込んで、偵察部隊を編成し直す。
そしてしばし付近で軍は待機となった。例え後がなくとも今すぐにでも戦地に飛び込み、戦いたいという者らは苛立ちを隠し切れずにいる。だが山道の行軍と朝晩の冷え込みに、疲れ切っている者や体調を崩しかけている者も多く、戦に突入したところで全力でとはいかなそうだった。
「もう少し食べておきなさい」
強い意思はあれどやはり疲れが出ていて食事を口に運ぶ手が止まるマリウスに、ヴィオラが優しく窘める。
「はい……」
うなずいたものの兵糧は干した芋や肉に、固く焼きしめたパンと顎が疲れるものばかりでなかなか進まない。
「状況によっては撤退もやむなしですわね……」
声を潜めてヴィオラがつぶやいて、マリウスは眉根を寄せる。
「すでに勝敗は決しているでしょうか」
「皇主様のご命令は戦の鎮圧。もう取られていたなら強襲は不要でしたわね」
どことなく、姉はこれ以上の戦を拒んでいるかに思えた。
「……ですが、ここで引き下がるのは時期尚早ではないでしょうか」
「このまま兵を減らすこと自体が無駄ですわ。わたくしたちがなすべきことは皇主様をお護りすること。負け戦と分かって無為に兵の命を散らすわけにはいけないことはわかるでしょう」
負け戦というのなら、この皇家と革命軍の戦そのものが負け戦だ。討死するのが早いか遅いかの差でしかない。
(ここを死に場所とするのか)
そうするにはまだ早過ぎる。自分はまだ主君の役に立ちたいと思う。だがここで何もせずに引き下がるのは悔しい。
相対する理性と自尊心をかみ砕き、咀嚼するようにマリウスは固い猪肉を食べる。
時間は黙々と過ぎていく。日が短くなったせいか、夜になるのも早い。
「遅いですわね……」
夜営の準備を始める頃になっても、偵察隊は戻って来なかった。日が傾いてくると山間のこの場所は急速に冷えてくる。
皆、ローブの前をかき合わせて、冷える夜に憂鬱そうな顔をしている。
がさりと道を外れた場所から物音がして、全員が気を引き締めるが、戻って来たのが偵察部隊と分かり別の緊張が走る。
六名が行った内、戻って来たのはわずかふたりだった。
一度全員敵方に落ち、交渉のためにふたりだけが解放されたらしかった。
「すでに領地の三分の二が取られて、籠城戦に入っていますのね……相手方の要求は」
状況を聞いた後、ヴィオラが本題に入る。
敵の要求は停戦のために炎将が籠城する残りを説得することだった。降伏すれば全員の身の安全を保証し解放する。革命軍に加わるなら戦が終わった後の身の振り方も悪いようにはしないということだった。
ただし、一両日中に求めに応じなければ城に総攻撃をかけるということだ。
「わたくしひとりの一存では決めかねますわ。と言っても、皇主様にお伺いを立てるには時間はないのね……」
「姉……将軍、このような見え透いた誘いに乗る必要はありません」
弟としてではなく補佐官としてマリウスは交渉に応じることを考えているヴィオラを制止する。
あからさまに炎将を誘い出す罠だ。兵を無駄死にさせるなとさっき言ったその口で、上官は死地に赴こうとしている。
「だけれど、見捨てるわけにもいかないでしょう。よろしいですわ。わたくしは籠城する者達の説得に向かうから、マリウスは残りの軍勢を率いて撤退と、皇主様へのご報告をなさい」
ヴィオラが意を決したことに、マリウスは首を横に振る。
「なりません、姉上。姉上が、将軍が行くというのなら、私もお供いたします……!」
「駄目よ。上官と補佐といっても、お前とわたくしは身内同士。ふたり揃っていなくなれば兵に動揺を与えるわ。……必ず戻るわ。大丈夫、わたくしはマリウスをひとりにはしない」
幼い日にいつも寄り添っていてくれていた笑顔に、マリウスは何も言えなくなる。
「マリウス、自分が何を失うかではなく、何を得られるかを考えることを忘れないでいなさい」
最後にそう耳元で囁いて、ヴィオラが暗い森へと向き直る。
偵察役も帰りも同伴することとなっていて、三人が闇の中へと消え去っていく。
「姉上……」
マリウスは姉の後ろ姿が見えなくなっても、少しの間呆然と立っていた。
何を得られるかを考えろと言われたが、今はたったひとりの姉を失いかけていることしか考えられなかった。
「補佐官殿」
気遣わしげな部下の呼びかけに、マリウスはどうにか気を取り直し今夜はこのまま夜営し朝早くに出立することを決める。
翌朝も何か報告がないかと少しだけ待ったが、ヴィオラが帰って来る気配はなかった。
そしてこの日を境にヴィオラの行方は分からなくなった。
***
ヴィオラが交渉に向かって十三日。
籠城していた者達がどうなったかは全員寝返っただのあるいは処刑されただのと情報が錯綜し、ヴィオラに関しては異様なほど何も音沙汰がなかった。
その中で、将軍の代理を務めるマリウスを正式に次の炎将に任命することにバルドが決めた。
「炎将、生きてるのかしら……」
軍議の後、広間にバルドとふたりきりで残っているリリーは、静かな部屋でぽつりともらす。
すでに籠城戦となっているはずの場所へ偵察は送っていたが、城の兵どころか民の姿までなく、戦の発端となったはずの領地はがらんどうだった。
「生死限らず、戻ってはこない」
見切りをつけるには早過ぎるという声もありながら、マリウスを炎将とすることを決めたバルドのヴィオラの帰還はないという考えに変わりはないらしい。
「バルドはあの人が裏切ると思う?」
ヴィオラのことは苦手な部類の人間でよくは知らないが、少なくとも片腕をなくした弟を見捨てて寝返るとは到底思えなかった。
「……不明」
バルドは本気で分からないらしく、眉間に皺が寄っている。
「どっちにしろ、戦力が減ったことに代わりはないわね……。そろそろ動くかしら」
裏切らないと信じられ、指揮官としても軍人としても心強かった炎将が消息不明とあって兵達も動揺している。かろうじて忠義心の厚いマリウスが残り統率を取っていてなんとか保たれているが、いかんせん将をひとり欠いてまったくの無傷というわけにもいかない。
敵の侵攻が予測されているデルン方面と、島南部への警戒は強めているものの、今は不気味なほど静まりかえっている。
「すでに動いている。浮き足だったら負け」
「十分そわそわして落ち着きないと思うけど……ほとんど籠城戦ね、こっちも」
皇家側が緊張で疲弊しきった頃か、あるいは痺れをきらして動き始めた時が向こうの攻め時といったところらしい。
「相手方。慎重」
うんざりした様子でそう言うバルドも、この睨み合いにはもう飽き飽きしているらしかった。
「どうせ兵数では上回ってるんだからが多いんだから一気に攻め込んじゃえばいいのに」
「戦に勝った後が問題。流血は最小」
「できるだけ味方の数を増やしてからってこと?」
政に疎いリリーには相手方の動きはまどろっこしく鬱陶しいだけにしか思えなかった。
「統治に遺恨が多いのは厄介」
それに付き合っているバルドの考えていることもよくはわからない。政というのはやはりまったく理解できないと、リリーは席を立つ。
「バルド、勝負しよう」
そして自分に分かるのは剣での勝敗だけだと、バルドを稽古に誘ったのだった。
***
翌日、吹き荒ぶ冷たい風に肩をすくめながら、リリーは湖の畔にひとりで訪れた。
「寒くない?」
いつも通りシェルがそこに座って考え事をしていた。さすがに寒いらしくかたかたと体が震えている。
「今日は冷えますね……。少しでも魔力を効率よく補充しようと思ったのですが、風邪をひいてしまいそうなので屋内に戻ります。……おひとりですか?」
城に戻ろうと立ちあがったシェルがあたりを見渡してバルドの姿を探す。
「仕事中。政の話らしいから、あたしは立ち合わないの」
皇都で何か動きがあったらしいが、政としての意味合いが強いのであくまで軍務の補佐官である自分は外された。相変わらず、バルドはなるだけ自分を政と引き離そうとしている。
「戦争というのは残虐な政治手段のひとつ、と思うのですがね。今の情勢であれば戦争と政治は同義語でしょうに、なんとも複雑な」
「あんたの言ってることが、一番意味不明だわ。貴族同士の立場とか利権っていうの? そういう腹の探り合いなんてあたしにはぜんぜんわからないもの」
魔道士は基本的には貴族が主であり軍内は貴族ばかりだが、必要最低限の名前と顔を覚えているぐらいで、爵位まで覚えていない。当然家同士の繋がりや関係などわかるはずもなかった。
貴族同士の面倒な関係に興味もない。そんな貴族達がやる政にも関心がなかった。そもそも戦うこと以外に頭を使うのが好きではないし不得手だ。
「リリーさんの場合、理解できないのではなく理解する気がないように思いますが」
城に引き返す道すがら、シェルが考えを見透かしたように苦笑する。
「……だって、つまんなくて面倒なだけでしょ。それで、皇都に動きがあったからたぶん、戦が始まるわ。魔力はどう?」
「それがここから南に飛ぶにはまだ不安で。進軍に同行させていただくことになりそうです」
シェルの魔力がこの場所からリリーの祖父の元へ移動するのに足るほどにならなければ、南側近くで戦になるときに一緒に行くことになっている。
「ねえ、大陸まで帰れるの?」
ここまで魔力回復に時間がかかっているのを見ていると、シェルが島から出て家に戻れるか気になった。
「……帰れるはずです。帰れないと困ります。さすがに両親と兄姉に申し訳ない」
「家族、いるの」
「ええ。両親も健在で兄も姉もいます。普通よりも少しばかり裕福で、七つ上の兄と五つ上の姉にもそれなりに甘やかされて育ちました」
「そこまでは聞いてないわ」
余計なことまでぺらぺらと喋るシェルにリリーは呆れる。
「ああ、すいません。この頃故郷と家族が恋しく思うのです。そういう時はいつも手紙を送るのですが……」
シェルが憂い顔でため息をつく。家族のいないリリーには彼の気持ちはよくわからず、どんな声をかければいいか戸惑う。
「いや、辛気くさいですね。そうです、リリーさんにかけられた魔術ですが、やはり同じ血統と同調するという術式がありました」
シェルの方から話題を変え、リリーは安堵しながら首を傾げる。
「それってあたしとバルドがすぐに気が合うようにする魔術……?」
口にしてから心臓がきゅっと縮まる感覚がした。
自分がバルドに惹かれたのは、グリザドの意志であって自分で選び取ったものではないかもしれない。バルドの側にいたいというのは、自分ではなく自分の中にいる他人の意志なのか。
その疑惑は今でも胸の片隅でしこりになっている。
それでもバルドの望むことは叶えたいという自分の意志に従って、彼の側にいる。
「気が合う、というのも少し違うかもしれませんね。ほら、初めて見たはずの景色なのに、見覚えがあるということ、ありませんか」
「……あるわね。じゃあ、それだけで何年も一緒にいるように仕向けたりしてるわけじゃないの?」
自分の気持ちを操られているわけではないということなのだろうか。
「魔術で人の感情や選択肢を直接的に変えることはできないんです。例えば、生まれつき蛙が苦手な人間いるとしましょう。この人が分かれ道を右か左か迷っていたとします。そうしたとき、右側に蛙を一匹置いたとすればその人は左を選ぶでしょう。魔術ができるのは蛙を置くことであって、その人に直接的に左側に行くことを指示できるわけではないのです。わかりますか?」
「なんとなく。それ、魔術でなくってもできることよね」
「そうです。こういうのは詐欺師が得意でしょうね。政治家や軍略家も同じです。相手のことを知っていれば、選択肢を誘導することはできるはずです」
言われながらぱっとリリーが思いついたのはラインハルトやクラウスのことだった。ふたりともよく周囲を見ていて、その時々の情勢や人間関係をよく把握している。
「でも、あたしのことは皇祖様は知らないわよね。バルドのことだって知るはずもないわ」
千年も後に産まれる自分の末裔のことを予測するのは、いくら天才魔道士でも不可能に思えた。
「そうです。同調するというのはあくまでお互いの存在を認識するきっかけにしかならないのです。その後にふたりがどうなるかは、まったく予測がつかない。そもそも異性同士で出会うかすら分からないのです。だから、この魔術は表の末裔と、裏の末裔が知り合うきっかけでしかなく、血を残すためではないのです!」
シェルが拳を握りしめて力説することに気圧されながらも、なんだと拍子抜けする。
「……あたしがバルドとずっと一緒にいたいって思うのは、この心臓のせいじゃないの」
安心しただとか嬉しいだとかという感情はなく、ずっと背中にのしかかっていたものが急になくなって呆気にとられたような顔でリリーはつぶやく。
「恋に落ちるきっかけなんてものは、人それぞれですし、同調がきっかけということはもちろんあるでしょう。ですが、えっと、七年でしったけ? それだけ長く続いた関係というのは、おふたりが築いたもので違いないのではないでしょうか。……いいですね。私は研究と自分どっちが大事なんだと言われて、迷いなく研究を選んだらふられてもうそれから六年ほど独り身です」
どうでもいい情報まで一緒につぶやいて、シェルがまた嘆息した。
「そっか。そうなんだ。でも、それなら血を繋ぐ気がないんだったら、なんのために引き合わせたの? 心臓なしで島の魔術を解かずにいるなんてできたりするの?」
全ては心臓を引き継ぐためという根底は全て覆された。血が途絶えたときに、グリザドの心臓は止まりこの島の魔術も消え去るということを回避する別の手段があるのだろうか。
「術者の心臓が動いていなければ魔術を存続させることは不可能です。それだけは絶対にあえりえません。しかし、終わりに際して何かを成そうとしているのは確かです。以前も話した通り、魔術というのは必ず解けるものなので、解除に必要なものかもしれませんね。これだけの入り組んだ魔術なら、解き方にも拘りがあるはずです」
「あたしとバルドが、島の魔術を解けるっていうこと? あたし達そんな複雑な魔術なんて使えないわよ」
大陸の魔道士が必ず知っている魔術文字すらこの島の誰もが知らないというのに、皇祖の魔術を解けるとは思わなかった。
「複雑なことはありません。どんなに複雑に見える結び目でも糸の端を引っ張ればするりと解ける結び方があるでしょう。有能な魔道士ほど、糸の端を上手く隠してとても難解な結び目に見せかけることができるのです。くしゃみひとつで解けるという魔術を作った魔道士もいますよ。髪の色を変えるという小さな魔術ですが」
「大陸の魔道士って変わり者しかいないの?」
リリーはまじまじとシェルを見ながら訊く。
「魔道士といえば変わり者の代名詞であることは否定しませんね……。魔術を解く定番は合い言葉というのがありますから、何か手がかりなるものが裏か表、あるいは両方に残されているかもしれません」
「爺様の所と皇都、両方調べたらわかるかもしれないのね」
しかしもうそのことはどうでもよい気もする。他人の心臓が自分の中にある違和感はあるものの、意志まで操られているわけでなければいい。
「そうですね、まずお爺様の元へ行くのでその時に調べましょう……あ、終わったようですね。では、私は自分の部屋に戻ります」
城に入ってすぐに、バルドを廊下の奥に見つけたシェルが彼の視線に怯えてそそくさと逃げた。
バルドは少々不機嫌であるものの、怒っているわけでもない。
「早かったわね」
「時間の無駄。宰相は据え置き」
「宰相変えるって話だったの?」
何が議論されていたかまったくしらなかったリリーは、驚きに目を丸くする。
「クラウス離叛。ベーケ伯爵家との関係維持の失敗。問題多い」
言われてみれば実質の嫡男となったクラウスが率先して皇家を裏切り、政略結婚でベーケ伯爵家と縁戚になっていたにも関わらず離叛されて確かに立つ瀬がない。それ以前にバルドが即位した時点で、政の中心という権力もなくしかけていた。
「でも、今更でしょ」
この戦も終わりかけに宰相を降ろしてどうにかなることは何もない。
「最後だからこそ、忠臣を宰相に据えるべきとの声。複数候補者あり。面倒」
「政って本当、わけがわからないわ」
不忠義者を自分より上の地位に置きたくないという心情があるのだろうが、やはり今頃になってそんなことで揉めることは理解しがたい。
「理解する必要なし。……リーは?」
「あたしにかけられた魔術がちょっと分かったの。あたしがね、バルドのこと好きなの、この心臓のせいじゃなんだって」
リリーはシェルから聞いた話を、自分の理解できたぶんだけかいつまんでバルドに説明する。
「ただの、きっかけ」
「そう。きっかけ。今の、この気持ちはあたしとバルドのふたりだけで作ったものなんだって」
そう伝えるリリーの口元には自然と微笑みが浮かんでいた。
出会いから今日までの様々なことが蘇ってくる。
初めて剣を合わせたあの日、お互いに気になったのは皇祖の仕組んだことだとしても、その後は全部、自分とバルドだけのものなのだ。
他人と触れ合い、一緒にいることに慣れないふたりで、少しずつ手探りでお互いのことを知って、知らなすぎて勘違いしもした。
身分の違いからいつか離れなければならないかもしれないと不安になったり、皇祖の真実に気持ちが揺れ動くこともあった。
それでもずっと、ここまで一緒にきた全部がふたりだけのものなのだ。
「リー」
バルドが頬を撫で来て、リリーは物言いたげな彼の瞳に視線だけで何、と問い返す。
「…………結婚式、する」
そしてバルドの返答にきょとんとした。
「誰が?」
「俺が、リーと」
思いもよらなかったことに、リリーはしばらくぽかんとしていた。
「リー、嫌?」
「え、待って、急でちょっとわかんない。何、宰相の話以外にそういうのあったの?」
頭の中は混乱でこんがらっていて、今何を自分が思っているかすら分からないほどだった。
「違う。少し前から考えていた。ふたりだけで結婚式、する」
どうやら政治的なこととは全くの無縁のことらしかった。しかし、それはそれでなぜバルドがそんなことを言い出すのかと疑問になる。
だけれど、嫌ではなかった。遅れてゆっくりと嬉しい気持ちも心の奥から滲み出てくる。
「……うん。ふたりだけっていいわね」
誰かに認めてもらうためでもなく、ふたりだけでもう一度約束をするのは悪くないと思った。
「いつ、どこでするの?」
「明日の晩。部屋で。……ドレスないのは、いい?」
とても不安そうに難しい顔でバルドが訊ねるので、リリーは吹きだした。
「いいわよ。そんな全然かまわない。ねえ、どうせだからローブ着てしない? そっちのほうがたぶん、あたしとバルドらしいと思うの」
綺麗なドレスはもちろん魅力的だけれども、軍装でもなんでもかまわない。
「花だけは、俺が用意する」
バルドが眉間の皺を緩めてうなずいた。
「楽しみにしてるわ。……バルド、大好きよ」
言ってみると思いの外照れくさくなって、リリーはバルドの胸に顔をうずめて赤らんだ頬を隠す。
「俺も、リーが好き」
とんとんと、背を撫でられてほっとする。
これでやっとゆらゆらと揺れ動いていたものが落ち着いて、安心できた気がした。
***
結婚式はバルドが捕まえた山鳥に雑穀を詰め蒸し焼きにした料理を、無言で食べることから始まった。本来はもっと大きな鳥を使い、花嫁花婿が食した後に両親も食べるらしい。
(結婚式って、どんなことするんだろ)
食事を済ませた後、清めのための入浴ということで陶器の湯船にひとり浸かりながらリリーは考える。
思えば結婚式を見たこともなければ、どんなものなのかすら知らなかった。
「なんにも知らないなあ。あたし」
先に清めを済ませたバルドが今、部屋で準備を進めている。
どこからこの時期にそれだけかき集めてきたのかと驚くほどの大量の花を、部屋に持ち込んでいるのはちらりと見たが何をしているかまったく想像がつかなかった。
バルドは自分が全て準備するから知らなくても、問題ないと言っていた。自分もすぐに分かることだと聞き返さなかったものの、直前になって気になってきた。
そわそわと落ち着かない気分のまま、リリーはふと真顔になる。
(…………結婚式ってことは、最後までするのかしら)
唐突に以前クラウスに借りた女子のための教本の内容を思い出して、頭が茹だる。結婚した最初の夜から、子を成すことを始めると書いてあったのだ。
(うん、でも、この結婚式ははそれとちょっと違うわよね。でも、結婚式にそれも含んでるのかしら。身を清めるっていうのも、うん、そのためなんだろうし)
リリーはぐるぐると考えながら顔半分まで湯船につかる。
何も今、気づかなくてもいいではないだろうかと、自分で自分に悪態をつきながら顔を上げる。
「……全部バルドに任せておけばいいわよね」
少し恐いけれども、バルドに全て委ねておけば大丈夫だとも思えた。
リリーはこれ以上はのぼせてしまうと湯船から出て、素早く浴布で体を拭いて服を纏う。それから湿った髪を丁寧に拭いて、結うかそのままにするか少し迷った。
そして鏡の前に立って、緩く編みこむことに決めた。
こうして髪を丁寧にいじるのも久しぶりだった。最近はひとつに結わえて、結び目の位置を上か下かにするぐらいの変化しかつけてしていなかった。
編み込んでいく内に、気持ちがふわふわしていく。
結婚なんて面倒でしかないと思っていたけれど、身分だとか政だとか体面だとか、そんなややこしいものを取り払うとこんなにも幸せな心地になるのだ。
誰かのためでなく、自分達のためにふたりだけでつくる特別な日。
リリーは自分の髪の仕上がりを確認して小さくうなずき、真新しいローブを羽織る。
そして緊張と期待を胸にバルドの部屋の扉を叩いた。
***
部屋の扉を開けた瞬間、花の香りが溢れ出した。
「……いっぱい集めたわね」
リリーは暖炉前の花の円陣に目を丸くする。ちょうどふたりでゆったりと座れるぐらいの広さがある円座を、青と白を中心にした花が綺麗に取り囲んでいた。
円の中心には小さな卓があり、火の点いていない太い蝋燭を真ん中にして両脇に火の点いた細い蝋燭が二本と、合わせて三つの燭台が置かれている。
「散策で目星」
どうやら日課になっていた森の散策で、バルドは花の蕾などを探しては記憶していたらしい。
そんなにも前から結婚式をすることを考えていたのかと驚くリリーに、バルドが両手に持っていた十数本の遅咲きの秋桜をおもむろに彼女の髪に挿し始める。
編み込みに沿って飾られた秋桜は花冠のようだった。
リリーは真剣な顔つきで花を飾るバルドに、くすくすと小さな笑い声をもらす。
花を差すだけだというのに大げさなほど慎重になっているのがおかしく、自分のためにこんなにも懸命になってくれていることが嬉しくもあった。
「ベールの代わり。城の中で探せなかった」
最後の一本を飾り終えて本来とは飾る物が違うことを、バルドが残念そうに告げる。
「いいわよ。これ、きっとすごく綺麗だもの」
鏡はなくともだいたいの仕上がりは想像できる。バルドが代わりになる物を考えしてくれただけでも十分だ。
「……今までバルドにいっぱい花、もらったわね。どれだけもらったんだろ」
「覚えていない……」
「そうよね。全部覚えていたくても、無理だもの。でも、今日のは絶対に忘れないわ」
後一年先まで生きていることはなさそうだが、もし仮にこれから何十回も秋を迎えたなら秋桜を見る度に今日のことを鮮明に思い出せるだろう。それが例え十年先でも、五十年先でも。
そう思いながら見上げたバルドは、嬉しそうにわずかに目を細めていた。
「……ねえ、次はどうするの?」
微笑み返しながら、リリーはこれからどうするのか訊く。
「輪に一緒に入る」
バルドが手を伸ばしてきて、リリーは彼と手を繋いで花の円陣の中に言われるままに一緒に入る。
「誓いの言葉の後、火をふたりでつける」
「誓いの言葉?」
リリーは何を言えばいいのかと首を傾げる。
「立会人が輪の外にいる。ふたりの家の家長が務め、誓いの内容を述べる。が、いないので省略」
「なんだか面倒くさそうだからそこは省略でいいわ」
よくはわからないが家で一番偉い人間の話というのはつまらないものだろうと、リリーは勝手に解釈してうなずく。
そしてバルドが燭台をひとつ手にとって、今まで一番優しい眼差しで見つめてくる。
「……俺は、リーを生涯の妻とすることを誓う」
言葉ひとつひとつを大事にして告げる声と視線に、心臓が幸福感に押し潰されそうなほど締め付けられる。
「あたしも、バルドを生涯の夫として誓うわ」
リリーも燭台をひとつ取って、ふたりで同時に一番の大きな蝋燭へと火をつける。
目の前で赤々と燃える暖炉の炎よりも、ふたりでつけた燭台の光の方がもっと眩く見えた。
バルドがそのまま小さなふたつの蝋燭の火を消す。
「結婚式は、終わり?」
残った大きな蝋燭の炎をリリーは不思議な気分で見つめる。
たったこれだけのことで、こんなにも胸が幸せいっぱいになってもっとバルドが好きにるだなんて思いもしなかった。
「……あと、ひとつ」
バルドが火の点いた燭台を手に取り、部屋の奥の寝台を示す。
「…………あと、もうひとつあるんだ」
わかってはいても緊張に一気に体が強張る。
「リー、もうひとつは嫌?」
返事に詰まっているとバルドが難しい顔で瞳を覗き込んできて、リリーは首を横に振る。
「嫌じゃない。嫌じゃなくてすごく緊張するだけ」
「ならば俺と同じ」
バルドはバルドで同じ気持ちだということに、リリーは少しだけ肩の力を抜いた。
それからふたりで花輪を出て寝台へと無言で上がる。
(この時のためなんだ……)
寝台の脇の卓に置かれた誓いを立てた蝋燭を見ながら、リリーはこれからのことをあまり考えすぎないように気を紛らわす。
「バルド、あたしなんにもしなくていいの……?」
教本にはこれから何をするのかは書いていたが、とにかく夫に身を任せていればいいだけで自分は何もしなくていいとあった。
「おそらく。嫌なことがあれば、教えてくれると助かる」
寝台の上で座ったままのふたりは未知の領域に踏み込むのを前に、どちらも視線が泳いでいた。
「……あ、待って。ぬ、脱ぐのは自分でした方が恥ずかしくない、と思うの。そう、花も外さないとぐちゃぐちゃになるし、その間バルドは花、抜いて」
羽織っていたローブに手をかけられてリリーは真っ赤になりながら、早口でまくしたてる。
「了承」
シャツの留め具をひとつふたつバルドに外され、肌に触れられたことは何度かあるもののいざ全部となるとやはり恥じらいがあった。
(どっちがましだったかしら……)
しかしいざ自分でしてみても、指が強張ってみっつの子供よりも不器用になってしまう。
「まって、まだ見ないで」
花を慎重に抜くバルドの視線が少し下がっているの気づいて、リリーはシャツの胸元をかき合わせる。
「……すまない」
そう言って視線をあげたバルドも動揺のためか、花を抜くのに時間がかかっていた。
留め具を外し終えたのは、彼が花を外し終えるよりも少し先だった。リリーはすばやくシャツの袖から腕を抜いてすぐに、腕で胸元を隠す。
(し、下どうしよう。後で? 今?)
そのままの体勢で動けずに、リリーは混乱する。上半身は何も身につけていないのに、寒さを全く感じないほどに体が熱い。
「リー、いい?」
バルドが視線のやり場に困りながらローブだけ脱いで問いかけてくる。
(後は、バルドに任せればいいわよね)
これ以上自分はどうにもできそうにないと、リリーは諦めてこくりとうなずく。そうすると、最初に啄むだけの軽い口づけをバルドがして、彼も上だけを脱ぐ。
二度目はもっと深い口づけだった。
胸元を隠している手をそっと握られ、口づけが深まるにつれて腕の力が抜けていく。そっと寝台に横たえられて、リリーはバルドと見つめ合ってもう一度うなずく。
そして自分を隠していた腕を彼の首に回し、全てを委ねた。
***
お互い手探りで戸惑いながらことを終えるまでずいぶん長い時間がかかった気がするけれども、視線の先の蝋燭はまだそれほど減っていないないように見えた。
リリーはちらちらと揺れる炎を視界に入れながら、せめて上着は羽織っておかなければと思いつつ指一本動かす気になれなかった。
「……リー、大丈夫?」
湯で湿らした布で体を清めてくれていたバルドが、そっと背中を撫でて疲れ切った様子に心配そうにする。
「うん。すごく疲れたし、思ってたより痛かったけど……大丈夫。でも、動けないから、上着取って……」
リリーはバルドの手を借りてやっと上着を羽織る。一度全部見られたからといって羞恥心がなくなったわけもなく、むしろ余計気恥ずかしくできるだけ急いで前を止めた。
そしてバルドが毛布をたぐり寄せてふたりで一緒にくるまって横になる。
抱き寄せられるとなおさら暖かく、疲労もあってすぐに眠ってしまいそうだったが、今日という特別な日がもう終わってしまうのがもったいなくて眠りたくなかった。
「花、どうしよっか」
リリーはせめて秋桜を一輪ぐらいは押し花にでもして残しておこうかとも考える。しかし何も残さなくても十分な気もする。
「本来は、来賓に配る。いないので、明日の朝、暖炉にふたりでくべる」
「明日の朝は、早かったかしら」
だったらもう寝ておかないとまともに動けそうにない。
「何もなければ遅くともいい。……結婚式、できてよかった」
バルドがほっとした声音でつぶやく。
「うん。あたしも、そう思う。今日はいっぱいありがとう……」
眠気に勝てず呂律が回らなってきたリリーは、そのままずるずると意識を失った。
次に気がつけば朝だった。
まだ夢見心地で昨夜のことも全部夢だったのではないかという気分だったが、卓の上の蝋燭や秋桜、暖炉の前の花達が現実にあった。
寝台の上でバルドが持ってきた暖かいスープを飲んで、疲れた体をゆっくりと休めてからふたりで花をのんびりとくべる。
特別な結婚式の日はこれで本当におしまいだ。
しかし、寂しさや名残惜しさは感じなかった。自分達の心の中にずっと残り続ける大切ものを得られたのだという、実感の方が強かった。
そして軍議が始まるまでの間、リリーとバルドは暖炉の前で寄り添い合って束の間の穏やかで幸福な時間を過ごした。
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