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革命軍の蜂起からひと月、リリーとバルドは皇都に戻れず、島の北部のルベランス城に留まっていた。
森の中に佇む城の周囲は戦のことなど嘘のように静かだ。
だが、周囲は騒がしい。多くの魔道士が裏切る一方で、戦場を求める者も想定以上に多くいた。
この北部のルベランス城から北東に位置する皇都、そして島の中央部近くにある剣の社を頂点とした三角区内に皇家に追随する魔道士のほとんどが終結している。
島の南東部には玉の社があるが、その周囲はベーケ伯爵家が裏切り一緒に離叛した者達で占められている。
よって最も革命軍より遠いルベランス城に皇主であるバルドが留まり、剣の社近くのアッド子爵邸には炎将のヴィオラが赴いて指揮を取っている。
そうして、皇都は残る水将、地将、風将の三将軍が前皇主の元で防衛を務めているが、最も混乱をきたしていて危ういのもまた皇都だった。
「クラウスの義理姉と、伯爵家次男はもう家に戻った頃かしら……」
ゼランシア砦で受けた傷も痛まなくなったリリーは、バルドの執務室で柱時計を見やりながら言う。
「帰さない理由はない」
ふたりを生家に戻す決断を下したバルドが、静かにうなずく。
皇都において、ベーケ伯爵が殺害された。実行したのは伯爵の実娘であり、宰相家嫡男の妻であったアンネリーゼだった。
アンネリーゼは夫の弟であるクラウスに思慕を寄せ、数ヶ月前に夫を殺害している。そしてその事実を知った父親が次男を連れて、娘へ直接事情を問いただし適切な処罰を科すために皇都にやってきた。
しかし、アンネリーゼとふたりきりになったベーケ伯爵は自分が殺されることになった。
「結局、裏で手を引いてたのは伯爵家の嫡男と次男の思惑通りってことになっちゃったわけね」
アンネリーゼは最初、父親と面会することを拒絶した。そこで伯爵家次男が妹を説得しにふたりきりになった後に、やっと父親と話をすると決めた。
問題は当主不在のベーケ伯爵家の屋敷を預かる嫡男と、伯爵に同行した次男が皇家を裏切る腹づもりであったことだ。
『剣』の魔道士であったアンネリーゼに刃物を持たせることはしていなかったはずなのに、彼女は魔術で父を殺めた。
次男が凶器を渡したことは明らかだろう。だが、気が触れた妹が父親に殺されるという妄想を抱き、凶器を隠しもっていたと次男は主張したのだ。
そしてこれはベーケ伯爵家の問題であり、すみやかに父親の遺骸と妹を連れ帰り次の当主である長兄と話し合いたいと訴えた。
これに、皇都の重臣達は頭を抱えることになったのだ。確かにアンネリーゼは正常とは言いがたい状態で、身内同士の諍いとなれば口を挟むにも厄介だ。
しかし、アンネリーゼはすでにディックハウトへ寝返ったクラウスとの関係も疑われている。
皇都に留めている内に、嫡男から父と弟の帰りが遅い何かったのかと白々しい書簡が届いた。そのすぐ後に革命軍の蜂起だ。
忠誠心を求めないバルドは、次男とアンネリーゼの帰還を許した。すでに新しくベーケ伯爵となった嫡男は、皇家廃絶に賛同していた。
「皇都はどうなるのかしらね。水将はこっちだとしても、風将と地将はわからないし」
もはや投げやりともとれるバルドの判断に、皇都内も紛糾しているという。水将のラルスは魔術そのものに狂信的で、風将と地将はハイゼンベルクを選んだ自分の選択肢に意地になっている側面があるという。
残っている魔道士も、このままバルドについていくのをよしとしない者も多いだろう。
「好きにすればいい。皇家への信奉、不要」
「そうね。元から皇家に本気で忠義を誓ってる魔道士なんてほとんどいなかったんだもの。向こうにつきたいなら早くすればいいわ。でも、前の皇主様は本当にいいの?」
バルドの父は皇都にいる。皇家断絶が宣言された以上前皇主もまた、討たれるだろう。
皇都の情勢がおぼつかない中で、真っ先に首を取られる可能性は高い。
幼い頃から父親との触れ合いはないに等しいとはいえ、母を産まれてすぐに失くし、先日兄を失ったばかりのバルドにとっては唯一の身内である。
ハイゼンベルクの戦況が悪化した時点で、とうに覚悟は決めていただろうとバルドは言ったのだけど。
「いい。父上は、己のことは己で決める。助けが必要なら、行く」
救援を求められない限りは、父親のことは当人に任せるという意志は変わらないらしい。
(あたしは爺様に、もう一回だけでも顔を見せたほうがいいのかしら……)
終わりを間近にして、リリーは祖父のことも少し考えていた。
皇祖に命じられるままに、近親で血を繋いできただけのこととはいえ、自分にとってやはり祖父は唯一の身内である。しかし、存在を知ったのも最近で共に過ごした時間も一日足らずといったところだ。
グリザドの築いた特殊な空間にある城にいる祖父が、戦火に巻き込まれることはまずないだろう。
皇祖グリザドと同じ大陸からやってきたという魔道士、シェルに祖父に事の真相ともう血を繋げる必要はないと伝言を託す気ではいるが、自分で直接会いに行ったほうがよいのか迷っていた。
(まあ、そんな暇、もうないだろうけど)
このまま戦が始まれば、祖父の元へ行く時間もない。何よりバルドの側を離れたくはなかった。
「向こうの準備が整のうまで後どれぐらいかしら」
今はまだ、大きな武力衝突はどこにもない。各地でベーケ伯爵家のように身内の間で揉めているところもあれば、革命軍も軍勢が増え指揮系統を整えるのに時間がかかっているところだ。
こちらもゼランシア砦での戦の損失が尾を引いていて、まだ本格的に戦ができる状態ではない。
「おそらく、ひと月もかからない。侵攻は南側から」
北のゼランシア砦が塞がれた今、敵本拠地に近く多くの兵を抱えているベーケ伯爵家がいる南側からの侵攻が濃厚とみられている。
「もう少しでこの戦、仕掛けてきたのがクラウスって噂が本当かどうかもわかるわね」
革命軍の中枢の多くはディックハウトの重臣らが占めている。その中にしれっとクラウスの名が混じっているのだ。末席の立ち位置ではあるようだが、ディックハウト皇主の崩御の混乱の中で、皇家廃絶を真っ先に言い出したのは彼だという噂があった。
皇家を滅ぼせば数十年の間に魔術が消えるという話を広めたのがクラウスである事は間違いない。
(戦をなくす、か)
ゼランシア砦に囚われていた時、クラウスは戦をなくしたいと言っていた。血筋で王を決めることがそもそもの間違いだともだ。
彼は戦をせずに事を進める気らしかったが、状況が状況なのでこれを最後の戦として決着をつける気なのかもしれない。
「クラウスは、人を動かせる。だが、支配はしない……王のいない国を纏めるには、適任」
後一歩、踏み出せずにいる人間の背中を押すことを、クラウスは得手としている。誰を動かせば自分の望むとおりに事が動くか、よく分かっているのだ。
誰かを跪かせることもせずに、のらりくらりとした態度で思うように事態を動かすことができるというのは恐いものがある。
「うん、頭はいいのよね。仕事はできないんじゃなくて、やらない駄眼鏡だし。でも、クラウスがまとめ役っていうのもしっくりこないわね」
なんでもかんでも面倒臭がって、仕事を放り出してばかりだった。そして貧乏くじを引かされるのは、いつも自分だった。
「全部、リーのため」
不意にバルドから投げられた言葉に、思い出で苦虫を潰した顔になっていたリリーは目を瞬かせる。
「……誰も頼んでないわよ、そんなこと」
クラウスは戦のなくても生きられるといっていたけれど、戦場以外に自分は楽しみも生きる場所も見いだせない。
今、皇家側へついている人間も同じだ。
戦場で生きて死ぬことを選んだ者達は、これからまだ増えるのか減るのか。
(後は戦うだけだわ)
何も考えずに戦に興じればいい。だけれど、ゼランシア砦で元部下のフリーダとの戦闘が忘れられない。
これ以上ないというほどの高揚を味わった戦の後では、先の戦への期待感が薄い。
それでも戦いたいという本能はうずいてもどかしいばかりだった。
***
自室に戻ってやっとひとりになれたクラウスは、椅子に深くもたれて長いため息をつく。
真面目に働くのが嫌いな自分に、このひと月の忙しさは一生分働いたと思うほどの慌ただしさだった。
ディックハウトの幼い皇主アウレールの死去の触れの後、その生母であり宰相の妹であったロスヴィータは我が子と共に海に身を投げたという。
混乱の最中、ロスヴィータはアウレールの遺骸を抱いて姿を眩まし、その後に探しに出ていた侍女のひとりが断崖から身を投げる所を見たと証言した。ふたりの亡骸は見つかってはいないが、アウレールは前の皇主の子ではないと宰相自らが認めたため、捜索は行われなかった。
「皇家の血筋は、バルドと前の皇主だけ……」
リリーとその祖父については革命軍側では自分とエレンしか知らない。なんとしてでもリリーの身柄の確保はしなければならない。
「それより最初に義姉上か」
アンネリーゼが父親を殺したことは、まったく想定していなかったわけではないものの、伯爵家嫡男と次男がこうもあっさり妹に父親を殺させるとは思わなかった。
現在ベーケ伯爵家でアンネリーゼは軟禁中らしい。家中でも前の当主に付き従っていた古参の家臣らは、妹を唆して当主の座を奪った今の伯爵に不服がある者も多くいるそうだ。
それでも布陣は整えられ南部に展開されているので、そう問題ではない。
ただ、アンネリーゼの処遇については自分に意見を聞きたいと、ベーケ伯爵家から書状が来ていた。
引き取る気があるのか、それとも家内で内々に決めていいのか。
クラウスはもう休みたいと思いながら、重たい腕でペンを取る。
長年にわたる兄のアンネリーゼへの非礼を改めて詫び、生家で安静にしていた方がいいだろうとくどくどと文面を認めた。
面倒なので関わりたくないというのが本音だ。
大事に育てられたようで身内にとっては手駒のひとつでしかなかったアンネリーゼに同情はする。
自分も彼女を利用したことに代わりはないはないが、かといって責任を感じるほどまっとうな精神は持ち合わせていない。
「後はみんな勝手に動いてくれるだろうから、好きにしてくれよな……」
皇家廃絶に動き出して、まとまりもできている。後は前に立って人を動かすのが得意な者がやればいい。
だというのに、まだ皆自分に仕事をあれこれと押しつけてくる。
誰よりも皇家に近いところにいたという理由でだ。
「リリー、どうしてるかな」
怪我は深かったもののもうずいぶん回復しているという話は聞いている。今頃バルドの補佐で忙しいかもしれない。
「会いたいなあ……」
もうこのひと月でこんなことをつぶやくのは、一体何度目だろうか。無事と聞いていても姿を見るまではどうにも落ち着かない。
クラウスはふわりとあくびをして、そのまま椅子の上で眠ってしまわないうちに寝台へと移動する。
一眠りしてから他にやるべき雑事をかたづけようと思ったものの、結局朝までぐっすりと眠ってしまった。
***
「おいこら、歩きながら船漕ぐな」
水将補佐官のカイは半分目が潰れている上官のラルスの頭を鷲掴みにする。
「だって、まだ夜明けがきてすぐじゃないですかー。夕べだって遅くまで軍議だったっていうのに、もう全然眠れてないんですよー」
「てめえ、昨日思いっきり昼寝してたじゃねえかよ。午後はちょっとは間があるから、その時にしとけ」
「昼寝と、夜の睡眠は別物ですよー。夜眠れないんじゃ、朝はつらいん……で……す」
「言いながら、寝るな。こら!」
そのままふらりとその場に倒れて寝てしまいそうなラルスの頭を、カイはなおさら強い力で掴む。
痛い痛いと抗議の声があがって、まるで平穏な日常が始まりそうだとぼんやり思う。
実際はそんな安穏としていられる状況ではない。革命軍が蜂起してひと月、皇都は混乱の真っ直中にある。
情報統制が間に合わず、皇都にすぐさま大軍が押し寄せ戦場になると民衆が混乱し一時騒然となった。前皇主、皇都に残る三将軍が表に出て防衛は強固であると鎮めたとはいえ、現皇主であるバルドがいつまでも戻らないことに不安半分安心半分といったところだ。
しかしながら不安は民衆だけではない。魔道士達もどうすべきか迷っている。
戦となれば革命軍に寝返るべきかここで討死すべきか。軍内でも誰が裏切るのか残るのか、疑心暗鬼に苛まれていていた。
革命軍が攻め込んできたと情報がたどりついた時に、このままでは皇都は内から崩壊する。
かといって対策もまとまらず、連日重臣や軍司令部で延々と話し合いばかりだ。
「地将は微妙ですよねー。風将はまだ残ってくれそうですけどー」
あくびまじりにまったくもって安心できない状況で呑気にラルスが言う。
「将軍すら信用できねえとはな。くそ、信用できる人間が誰かもわからねえじゃあ、どうにもなんねえだろ」
軍議に座っている重臣らすら、信頼できるという確証が得られない。
誰も彼もが腹の探り合いをしながらの軍議でまとまるはずもないのだ。ラルスの手前絶対に口にはしないが、膠着状態の軍議ではうたた寝をしたいとすら思う。
「まー、僕はカイのことだけしか信頼してないからねー。王宮警護も警護になってるのかな」
「……てめえも裏切らなさそうだな。嬢ちゃんのことはまだ向こうが何も言い出さないってことは、クラウスの奴は隠しておく気か」
皇家が断絶すれば島から魔術が確実に消えるのと言い出したのはおそらくクラウスだろう。リリーが囚われている時にクラウスに話したという報告は受けていた。
「クラウスも諦め悪いですねー。アクス補佐官はもう動けるんでしたっけ。今やれることは向こうが攻めてくる前に、残る気がある魔道士を見極めることぐらいですねー」
「それがどれだけ間に合うかだな。……皇主様は、自分と戦好きを犠牲にして全部終わらせるつもりか。みんな、獣だのなんだの言ってるが、あの歳で色々考えてるな」
バルドの触れを最初に聞いたとき、カイはすぐに戦をここで畳むつもりだと察した。
皇都内でバルドの風評はよくはない。正直なところ、自分も近く接する機会がなければ民衆と意見はそう違わなかった。
何を考えているかは相変わらず分からないが、少なくとも本能だけで動いているわけではない。
若干二十一の皇主は、内乱前から続いていた宰相が奪っていた政の権限を取り戻した。
だが評価されないのは、彼の無愛想さと口べたさのせいだけではないだろう。
(本当は、みんな皇主はいらねえんだ)
権力を得たい者達は、意のままにならないバルドを快く思っていない。
結局、重臣らの内心は革命軍と変わらない。
「もう少し愛想があればよかったんですけどねー。僕として命を賭けるに値する皇主様でありがたいです。そうしたくなくても逃げるに逃げられない人達は、さっさと余計なしがらみは解いて上げた方がいいね」
いつもの緊張感のない笑顔で自分を見上げてくるラルスに、カイは口を引き結ぶ。
「……そうだな」
自分はここで死んでもいい。だが、死なせたくない者はいる。
カイはしばらく顔を見ていない甥一家の元へ、早い内に会いに行こうと決めた。
***
人気のない露台で皇都から届いた父のジルベール侯爵からの書簡を読んでいた、炎将ヴィオラは頬杖をついて目を細める。
あいかわらず皇都は混乱したままで、父は前皇主を死守すべく邁進する。アッド子爵邸で駐留している自分と弟にも命懸けで戦うようにと鼓舞する内容だった。
「姉上、父上から手紙が届いているそうですが、何か進展は?」
ひとり見廻りをしていた補佐官である弟のマリウスがやってきて、ヴィオラは手紙を渡す。
「何もありませんわ。向こうが動き出すまではここで警戒して、兵の受け入れもすすめてね」
ヴィオラは先の戦で上腕部の途中からなくなっている弟の左腕をに視線を向ける。
「向こうの間諜であるか否かの見極めが難しいですね。……姉上?」
視線に気づかれたヴィオラは、そよぐ風に靡く桜色がかった金髪をかきあげながら苦笑する。
「腕はもう、痛まない?」
「まだ、少しだけ。ないはずの左腕の感覚があるのは奇妙ですね……。ですが、魔術を使うのに不足はありません」
マリウスは日々鍛錬を欠かさず以前の剣を片手で扱えるほどになっている。
「そう。……皇主様は忠誠心はお求めになっていないわ。マリウスは、忠誠心以外に戦う理由はあるのかしら?」
マリウスは魔術という力に信奉心が強く、そして皇家への深い忠誠心がある。だからこそ片腕を失って尚、戦場に立とうとしているのだ。
「力を失ったあとのことを考えられません。姉上は、まさかここを離れるおつもりではありませんよね」
表情を強張らせるマリウスの瞳は、昔の臆病な子供のままだった。
「お前を置いていったりしないわ。わたくしは、お前に行くところに行くのよ」
そう、剣を握ったのも士官学校に入ったのも臆病で真面目すぎる弟のためだ。剣術自体は嫌いではないが、戦がなくなるならそれでいい。
「……姉上は、力を失うことに怖れはないのですか」
「戦がなくなる世界は面白そうだわ。やりたいことがないこともないけれど……。お前も失うことではなくて、得る物のことも考えてみればいいわ。ねえ、マリウス、今日はいいお天気で風が気持ちいいとおもわない? これからあっという間に秋が来るわね」
夏の暑さが和らいだ青空の下で流れる空気は心地いい。
ヴィオラは戸惑うマリウスからの手から手紙を奪い取って、自分のローブの胸元に仕舞い込んだ。
***
革命軍との膠着状態が続く中、リリーはバルドと一緒に日課の散歩に出ていた。
腹部の痛みも和らぎ、しばらく松葉杖をついていたせいで萎えた片足を元に戻すためだ。それと、バルドの息抜きのためにこの頃はふたりでルベランス城を囲む森を散策している。
「風が気持ちよくなってきたわね」
まだ夏の暑さの名残が残る中を泳ぐ、緑と土の匂いをたっぷりと含んだそよ風は清々しい。
「……じき、寒くなる」
手を繋いで隣を歩くバルドが、重苦しくつぶやく。
「それを言わないでよ。あたしは冬のことは考えたくないわ」
ふたり揃って冬は苦手だった。寒くなると少しでも暖を取ろうといつも以上にくっついていた。特に冷える日はお互いぎゅっと手を握りしめ合って指先まで暖めていた。
今、手を繋いでいるのは寒いわけではなく、まだ足取りがおぼつかなかったリリーを支えるための名残だ。
ひとりで歩くことはもう大丈夫だが、なんとなしにふたりとも手を繋いだままだった。
「春」
「うん。春が一番いいわね」
寒い、寒い冬へと向かって行く今頃よりも、冬が終わってひと息つく春の方が好きだ。
だけれど、次の春に自分達はどうなっているのだろうか。冬を越すことはもうないのかもしれない。
同じ事を考えているのか、バルドも話を続けなかった。
(今年の春はどうしてたっけ)
花が咲き始めるとバルドが王宮の庭先や道端でよく花を摘んできてくれた。あの頃はまだ何も知らなかった。
ふたりで気の向くままにじゃれあって、無邪気に寄り添いあっていた。クラウスはただの仕事嫌いで、バルドの兄のラインハルトも生きていて、敗戦間近の諦観を重石にして深く暗い水底に沈んでいるかのように皇都は静かだった。
何もかもが大きく変わり始めたのは、春の終わり。
バルドの婚約話が持ち上がって、自分とバルドの関係は一変した。その時はまだ、それほど悪い方へではなかった。
(神器が持ち出されて、それで、あたしが誰なのか皇太子殿下が本気で突き止め始めた)
ディックハウト信奉者をあぶり出すのに表に出された神器の『玉』の贋作を、自分は本物ではないと見抜いた。それを契機に全ては転がりだした。
自分の出生からやがては、皇祖グリザドへの真実へ。
そして千年の皇国は今、終焉を迎えようとしている。
(あたしとバルドはこれで落ち着けたかな)
何度も繋いだ手を放しかけては、お互い指先を伸ばしてもがいて握り直してきた。その度に自分は、バルドの側にいるのだと決意を固めるのだけれど、バルドの方はどうなのだろう。
リリーは繋いだ手に視線を向けて、バルドの横顔を見上げる。
手を離しかける度に、バルドは不安定になっていった。不安そうな顔をしては、ぴったりと体を寄せてくる。
(でも、今回は違ったわよね)
ゼランシア砦へとクラウスに連れ攫われた時、もしかしたらもう二度と会えないかと思った。それでも必死になって戻ってすぐには、バルドはやはりいつまた離れ離れになるのかと怯えていた。
しかし、それはほんの短い間のことでこの頃は時々何か考え込んでいる素振りは見せても、不安や焦燥の影は見当たらなかった。
「リー」
バルドが近くに咲いている山萩の花を手折って、リリーの髪の結び目にさす。赤紫の小ぶりな花は、金茶の彼女の髪によく映えた。
「うん。ありがとう」
やっと、バルドは安心したのだろうか。残り短い先はずっと一緒にいられると信じてくれているならいい。
そう思うのに、今度は自分の心がざわざわと落ち着かない。
つい握った手に力を込めそうになりながら、リリーはバルドと湖の方へ足を向ける。そこにはひとりの魔道士の後ろ姿があった。
皇祖グリザドの真実を知っていた大陸の魔道士、シェル・ティセリウスだ。
長らく着ていたローブの色で灰色の魔道士と呼ばれていたシェルは、今はハイゼンベルクの色である黒いローブを纏っている。
「調子、どう?」
リリーは手元に紙束を持っているシェルを覗き込む。
「おや、どうも。まずまずですね。やはり、希代の天才魔道士の魔術とあってなかなか複雑で……。まだほんわずかしか解析しきれていません」
手元に目を落としたまま、シェルが唸る。
学術的な好奇心から大陸からこの島へと渡ってきた彼は今、グリザドがリリーにかけた魔術を解析している。
「ちょっとはわかったの?」
「ええ。やはり、リリーさんには心臓の受け継ぎの魔術の構文がありません。心臓を引き継ぐ魔術は、この島にかけられた魔術の要でもあります。長い間に自然に魔術構文が変容するということは希にありますが、意図的なものにも見受けられます」
「皇祖は自分の心臓を止める気だってこと?」
今、自分の胸で動いているのは皇祖グリザドの心臓だ。この心臓が動いている限り、島にかけられた島民に魔力を与えるという魔術は維持され続けるという。
そして、心臓は代々兄弟同士の近親婚で繋がれてきた。しかし、リリーは他に兄弟がいない。
その代わりに、ひとりごになった場合は皇都にいる同じグリザドの血を引く者と引き合わせろという言い伝えに従った祖父と父によって、リリーは赤子の時に皇都にひとり置き去りにされたのだ。
「リリーさんのご両親の段階で魔術が変容していた可能性もおおいにあるのですが、お亡くなりになっていますからね……。いずれにせよ、彼は自分の魔術を解く気だった」
「せっかくこんな大がかりなことやって、なんでかしら」
「さあ。そこがまず大きな鍵でしょう。他も解析してみれば、はっきりしたことはわかりませんね」
ということはろくに何もわかっていないということらしい。
「……リーは、普通の子を産める?」
不意に、バルドがそんなことを問うてリリーは目を瞬かせる。
「普通の子、というのはリリーさんの心臓を引き継がなくても、生きていられる子供ということですよね。どうでしょうか。何世代にも渡ってひとつの心臓を引き継いできたリリーさん自身が、普通とはいえません。繁殖が魔術によって制御されていたのですから、子供を産むのはおそらく無理でしょう」
そして、シェルの返答にリリーは一瞬だけ頭が真っ白になった。
「無理、なの」
「繁殖に関する魔術は禁忌ですが、過去に何人もの魔道士が鼠を用いて実験していてその場合でも、何代かか魔術で繁殖を制御されていた子孫は魔術を解いても繁殖はできませんでした。ザイード・グリム……グリザドもその仮説を立てていましたね。現在バルドさんしか残っていない皇家も確証はありませんが、繁殖能力が衰えているかと思われます。だから、おふたりの間にとなると、より不可能に近い……ああ、すいません。こういうことは女性には繊細で大事な話でしたのに……」
リリーに向き直ったシェルは、彼女の表情に気づいて頭を下げる。
「え、ああ。別にあたしは子供が欲しいわけじゃないし、いいわよ」
そう、子供が欲しいと思ったことなど一度もない。なのに、いざ無理だと言われるとなぜだか落胆してしまっていた。
「いえ、まあ、私も気遣いというのが不得手なもので……」
「だから、いいんだって。ねえ、魔力の回復はどうなの?」
気まずい雰囲気に、リリーは話題を他へ逸らす。
シェルは移動の魔術が使えるものの、今は魔力が枯渇していて大陸まではもちろん島内の移動すらままならないらしい。
今、この島で安全と呼べるのはリリーの祖父が住む、グリザドの魔術によって秘された山中の屋敷ぐらいだ。そこに行ける程の魔力が回復したなら、シェルには避難してもらうつもりだった。
「まだ、もう少しかかりそうです。それまではお世話になります」
「そう。じゃあ、邪魔したわね……。バルド、そろそろ戻ろうか」
そしてリリーはバルドと城へ引き返すことにした。帰りの道筋はほんの少し行きよりふたりの空気はぎこちなかった。
「……バルド、どうして子供のこと、訊いたの?」
我慢できず、リリーは自分の足下を見ながらバルドに問いただす。
「気になった。それだけ」
「どうして気になったのよ。……子供、今更になって欲しくなったってわけじゃないでしょ」
後はもう、死ぬだけだ。なにひとつ先に残す物はない。
「俺は、いらない」
「あたしだって、いらないわよ」
リリーはなんとなくバルドが勝手に自分だけ子供を欲しがっているみたいに言うのが面白くなくて、唇を尖らせる。
バルドは何を考えているのだろう。
リリーは心許なくなってしがみつくように、バルドの手を強く握り直す。
(やっぱり、今はあたしの方が落ち着いてないわ)
いつまでたっても相変わらず、自分達はゆらゆらと揺れてばかりだ。本当に最後の最後の瞬間になるまで、こうなのかもしれない。
リリーは足を止め、きょとんとしたバルドを見上げて彼の頬に手を伸ばして、口づけをせがむ。
バルドが屈んで、そっと唇を重ねてくれる。
不安なときほど触れ合っていると落ち着く。寒くなるのは悪くないかもしれない。
寂しいだとか、不安だとか、ごちゃごちゃと余計なことを考えずに、単純に寒いという
だけでくっついていられる。
そうして、事が大きく動いたのはそれからわずか十日ほどの後のこと。
冷たい雨が降りしきる日に、『剣』の社付近で戦が始まった。
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