「あたしも出たい……」

 朝から急な出兵の準備に追われていたリリーは、出陣の半刻前にやっとバルドの執務室の長椅子に腰を下ろして長いため息をつく。

 バルドとヴィオラが出陣するため、砦の護りが手薄になるということでリリーは砦で控えることになったのだ。

「陽動。すぐに退く」

 執務机で残った政務を片付けているバルドが顔を上げずに言う。

「向こうもそんなに兵を出してこないのは分かってるわよ。でも、将軍が出て補佐官待機なんて普通は逆なのに」

 面倒な仕事だけしてご褒美なしでは愚痴のひとつやふたつ零したくなるものだ。

 今日の策が向こうの挑発に乗ったと見せかけゼランシア砦の前まで攻め入り、ある程度鬩ぎ合ったら怖じ気づいたふりをして退却するのだとしてもだ。

「策、成功すれば、リーも出られる」

「乗ってくれるかしら」

 思惑通りディックハウトが勢いづいて砦から出てきてくれれば、確かに思う存分戦えるが上手く行く補償はない。

 すぐに深追いしてくることはなく準備を万全に整えて出てくるだろうという予想で、今日の所はどのみち大人しく待機だ。

「将の判断による。待機中、クラウスの動向注意。他、砦内の警備も重要」

「クラウスは散々怪しまれてるのに出て行けるのかしら」

 離叛者として疑われクラウスの動向には誰もが気にしている。四六時中誰かしらの監視の目が合っては、出陣しない限り逃げ道はなさそうだ。

「不明。クラウスばかり監視も、危険。他にも離叛を目論む者、必ずいる」

 バルドの言う通り、クラウス以外の魔道士が全員信用できるわけではない。まだ他にも離叛を考えている者もいるはずだが、かといってその兆候を見抜くのも困難である。

「そのためにあたしとジルベール補佐官が残るのよね……苦手だわ」

 マリウスが将軍ふたりがいない間の砦の最高責任者となる。全体の統率ができるジルベール家嫡男のマリウスが統率をとることは当然だが、四角張った彼のやり方を思うと堅苦しいのが苦手なリリーは考えただけで疲れてしまっていた。

「少しの我慢」

「できるだけ早く帰ってきて。クラウスじゃないけど、ここで昼寝してたいわ……」

 リリーはそのまま長椅子に横になる。

 今日も今日とて暑いが風がある分多少は涼しく、窓を開け放っておけばよく眠れそうだと思うと本当に眠くなってきてあくびまで出る。

「眠ったら、尚更面倒」

 席を立ったバルドが横になったリリーの側に屈んで、彼女の頭を撫でる。

「ジルベール補佐官にどやされるわね。ああ、もう。それされると余計眠くなっちゃう」

 バルドの大きな手で優しく触れられる心地よさに、リリーは猫のように目を細てくすくす笑う。

「これならいい」

 どこかに触っていたいらしく、バルドが手を握る。

「こっちの方が眠くはならないわ。なんだか、士官学校の時みたい。バルドが戦に行って、あたしが待ってるの」

 指先を絡めて遊びながら、懐かしくなってくる。

 バルドは年齢と立場上、学徒であっても戦場に時々出ていた。その間数日は、ひとりで退屈な時間を過ごしていた。

「今回は、すぐ帰る」

「うん。あたし達、あの頃よりずっと一緒にいるわね」

 卒業したら離ればなれになると思っていたのに、今では昼夜なくバルドと同じ時間を過ごしている。

「不足」

 それでも手の甲に唇を寄せてくるバルドは、底なしに寂しいのだろうか。

 どんなに暑く寝苦しい夜でも手だけでも繋いでいたがるのだ。バルドが本当の所何を思っているか、一番奥深くまでは見通せない。

 しかし以前ほどバルドのことが全てわからなくても、あまり不安には思わなくなった。安心よりも諦めの方が近い。

 自分とバルドはまったく同じではないのだから仕方ないと思うことに寂しさはあっても、だからこうして触れ合って得られるものがあることは悪くないと楽観もできた。

「そんなこと言ったって、これ以上は無理よ……時間ね」

 執務室の外でバルドを呼ぶ声があって、リリーは起き上がる。

 将がふたりに兵が二千の軍団が砦を出たのはそれから間もなくのことだった。


***


 ハイゼンベルク方出陣の報告を受けて、ゼランシア砦には緊張が走った。

「動いたか……」

 フリーダは腑に落ちないものを感じながら、軍議の場で首を傾げる。

 まだゼランシア砦からハイゼンベルクの兵団は豆粒程度の大きさしか見えず、多からず少なからずの数だろうということは把握できても将が誰かは分からないままだ。ただ旗を掲げている所からして、バルド自ら出陣しているのではということだった。

「奥方、このまま、砦の内に攻め上がってくると思うか」

 フリーダに意見を求めたのは、ゲオルギー将軍だった。

「攻め落とすにしては、少々手薄ではないかと思いますが。神器がある以上はなんとも言いかねます。もう少し、布陣がはっきりとしなければ」

 神器を得たバルドは単身で百人の敵兵を討つことができる。だが狭い砦の内に入ってしまえば、得物も攻撃も大きなバルドの実力は十分に行使できないはずだ。

「しかしフリーダ、あの血に餓えた獣のような男ならば、上手く誘い込んで砦の中で一網打尽にできるのではないか」

 夫のフランツが問うのに、フリーダは首をすくめる。

「獰猛だが、阿呆ではないのがあの獣ですよ。だから使者も殺さなかった。むしろ獣だからこそ勘も鋭く、目端がきく。そう簡単に誘いには乗ってこないでしょう」

 送り出した使者は生きて帰ってこないだろうというのが、この軍議に参加するゲオルギー将軍の部下やマールベック家の重臣達の意見だった。だがフリーダは、帰ってくると予測した。

 頭に血が昇りやすい幹部もいるものの、彼らを押さえるのは冷静に対処ができるバルドとヴィオラだ。

 そう単純にことは運ばない。

「布陣の詳細が分かるまでは、護りを固めるのが得策か」

 ゲオルギー将軍がそう判断を下し、すでに戦支度を整えている杖達が正面を護るために配備される。上からも寸断なく攻撃をするために、城門付近には『杖』の魔道士を重点的に置き、砦三階の張り出し歩廊へ『剣』の魔道士が多く配置されることとなった。

 フリーダを含めた指揮官達も、敵方の動きを見て随時指示を出すため物見がいる砦の最上階である五階へと移動する。

(殿下がいるなら、リリーもいるだろうか)

 フリーダは期待を抱いて、緑の絨毯の上を黒蟻のように行軍する魔道士達が近づいて来るのに目を凝らす。

 しかし誰もが目深にフードを被っているので分かるはずがなかった。

「将がふたりいるな」

 やがてハイゼンベルクの軍団が間近に迫ってきて、バルドとヴィオラの姿が確認されるとゲオルギー将軍がつぶやいた。

 じりりと、ディックハウト側も攻撃に備え緊張感を高める。

「くる……」

 やがて城門近くまで辿り着いたバルドが神器を天高く掲げるのを見て、全員が身構える。フランツはすでに魔術を放出し透明な壁を築き始めていた。

 剣先から晴天へと蒼白い雷光が昇り、蛇のごとくうねりながら近づいて来る。

 砦正面に張られた何層もの魔術の障壁が一枚、また一枚と破られてそのたびに砦が大きく揺れる。

「く……っ」

 一番最後の護りを築くフランツの築いた障壁にもぶつかって、鬩ぎ合う。

「フランツ殿、退け」

 みしりと見えない壁が軋む音にゲオルギー将軍が剣を構えて、フランツが障壁を消す。

 それと同時にゲオルギー将軍が眼下のバルドの雷を打ち落とそうと、雷撃を雨のように降らしていく。

 障壁にぶつかったことで威力を削がれていながらもなお、神器から放たれた魔術は強力でゲオルギー将軍の放った幾筋かの雷光とぶつかり合って大きく爆発した。

 耳が痛いほどの轟音と、爆風にまともに目を開けていられなかった。

 しかしながら砦に及ぼした衝撃は少ない方だった。

 砂塵や石つぶての混じる風が収まり目を開けると、すでに他の黒の魔道士達も攻撃に加わり初めていた。

 上と下で白と黒が激しく魔術を叩きつけ合う。

 バルドが下がって、前に出たヴィオラが急ごしらえの砦入り口の柵へ向けて炎の塊を投げつける。

「攻め込んでくる気か……」

 フランツが杖をきつく握りしめて、つぶやく。

「……敵将の補佐官達の姿が見えない。マリウスはともかく、リリー・アクスがいないのは不自然と思われます」

 フリーダはバルドの周囲を見てみるが、リリーらしき人物は見つけられない。

 モルドラ砦に送った使者の報告ではマリウスの生存は確認されているものの、あの傷ですぐに戦場に出られはしないだろう。

 リリーがもし戦闘に加わっているならすぐに分かるはずなのに、見当たらないということは参戦していないのだろうか。

「しかしフリーダ、将がふたり出たならモルドラ砦は手薄になる。離叛者が出た以上、あちらの砦にも戦力と指揮官を確保しておきたいのではないか」

「決着をつけるつもりなら、あちらの雷将は炎将を砦に待機させ、かわりに補佐官を連れてくるはずです。留守番など彼女にはさせない」

 フリーダは夫にそう答えながら、なおもリリーの姿を探すが見当たらない。

 それともうひとり姿が見えない人物がいる。

「クラウスもいないな……」

 魔力の突出した者が戦闘していれば、どれだけ数が多かろうが目立つものだというのにバルドとヴィオラ以外に目につく者がいない。

「我らの皇主に膝を折る気があるフォーベック家の跡継ぎか……リリー・アクスと婚約したという噂もあるらしいが、そのふたりが参戦させられていないということか」

 フランツが再び魔術の防壁を築きながら、困惑した顔をする。

 先日の戦でハイゼンベルクを見限り寝返った者達から、リリーとクラウスが婚約したという話があると聞いた。

 クラウスとリリーという取り合わせは、意外と言うほどでもない。だが、リリーがクラウスに簡単になびくとは思えなかった。なんらかの政治的な思惑で、噂を流しているにすぎないと見た方がいい。

「さあ。クラウスは裏切りの可能性が高いので残されているのでしょうが、リリーは砦の護りで違いないでしょう。婚約が噂だけなら、事実ではないとみてよいかと。……将軍、私は下で攻撃に加わりますがよろしいですか」

 夫の質問に答えた後、フリーダはゲオルギー将軍に向き直る。

 もしかしたらリリーがいるかもしれないという期待を、まだ捨て切れていなかった。

「奥方は三階より攻撃を。俺は門近くで指揮を取る。フランツ殿、俺の補佐官をここに置いていくので、共に砦の護りをお願いする」

 ゲオルギー将軍が『杖』の魔道士である補佐官の三十代女性に指示をして、フリーダの申し出を許可した。

 一番下までいけないのは残念だが、上からの方がリリーがいるかよく見えるだろう。

「フリーダ……いや、いい。下は頼んだ」

 階下へ向かおうとすると、フランツが何か物言いたげしながらも、結局何も言わなかった。

 フランツの父であるマールベック伯が死去した日から、ふたりの会話は増えた。歩み寄ったわけではない。フランツが新たにマールベック伯となったため、やるべきことが増えて会話が必要な用事が増えただけだ。

 戦や政の話の他に、フランツが何か言いたそうにすることはあったが、やはり今のように言葉を呑み込んでしまっていた。

 わざわざ訊ね返す気は起こらなかった。夫が何を考えているかなどまるで興味がないのだ。

 たったひとりの少女にしか関心を抱かないフリーダは、義務的にうなずいて夫に背を向けた。



***


 一方、リリー達ハイゼンベルクの幹部らはモルドラ砦最上層の張り出し歩廊から、交戦開始の合図である青空を遡る雷光を見ていた。

「見てるだけなんて、退屈」

 リリーは思っていることをつい口に出してしまう。

「……アクス補佐官、待機も立派なお役目。指揮を取る者がそんなことを言ってはならない」

 近くにいたマリウスが窘められてしまい、リリーは小声ですみませんと形だけ謝罪する。

(でも、退屈なものは退屈なんだもの)

 この後も万一のために戦闘訓練は剣は使わずなく、隊列の確認だけなのだ。この隊列訓練というのが、リリーはすこぶる嫌いだった。

 型通りの陣形をいくつか実際に作り、行軍の練習をするのは疲れるだけで何も楽しくない。雷軍はあまりかっちりとした隊列は組まないので日常的にはあまり隊列訓練を行わないが、炎軍はそうではない。砦の指揮を取るのが炎軍補佐官のマリウスである以上、一糸乱れぬ隊列が強いられるに違いない。

(……何か理由つけて、訓練に参加しないは無理よね。駄目だわ、クラウスみたいなことばっかり考えてる、あたし)

 リリーはいつも仕事から逃げているクラウスをちらりと見る。彼は戦闘が始まったことに興味はないらしく、柱にもたれて退屈そうにしている。

「では、これより訓練に移る。アクス補佐官、雷軍と炎軍混成でやるので指揮しっかり頼む」

「はい……」

 マリウスに指示されたリリーは力無くうなずくしかなかった。

 何よりも嫌いなのはこの指揮官という役回りだ。今日はバルドがいないので自分が一番上というのも気が重い。群れるのが苦手だというのに、いちいち他人に指図して群れを作らねばならないというのが嫌でたまらない。

「リリー、そんなに嫌なら俺とどっかでのんびりしないか」

 階下へ降りる途中、リリーはクラウスに暗い表情を見つけられた。

「あんたと一緒なのはともかく、訓練に参加はしたくないわね。だけど指揮官不在っていうのはさすがにまずいでしょ」

「リリーはなんだかんだ言ってても真面目だよなあ」

「参加しなかった方が後が面倒くさいじゃない」

 マリウスから延々と説教を聞かされるのと、隊列訓練どちらを選ぶかと聞かれたら迷いなく後者を選ぶ。

「それはそうだな。俺は訓練を横目に『玉』の魔道士と草引きって、酷い扱いだろ」

 治癒が主な仕事の『玉』の魔道士は隊列に加わらないので、雨と陽射しですくすくと育った砦内の雑草をむしることになっている。訓練に加わっても統率を乱すだけだと判断されたクラウスは、草引きに回されるのだ。

「あたしは隊列訓練よりそっちがいいわ。……バルドがいたら指揮はほとんどやってもらえて、あたしはただの伝言役ですむのに」

「……最近、またバルドと仲いいな」

 クラウスが面白くなさそうな顔で言うのに、リリーは膨れる。

「悪かったことなんてないわよ。いいじゃない、一緒に寝てたって誰も困るわけでもないんだから」

「いや、バルドは皇主様だから困る人間もいると思うぞ。俺としてもいつバルドが理性の限界になるか、心配だしな」

「心配しなくてもいいわよ。……そうなったって、あたしはいいんだもの。もう、この話は終わり。真面目に草むしりしなさいよ」

 言っている内に羞恥心が込み上げてきて、リリーは歩幅を広げてクラウスと距離を取る。

「リリー」

 しかし腕を掴まれて足を止められる。

「何?」

 思いの外強い力にも驚いたが、それ以上にクラウスの痛みを堪えるような顔に腕を振りほどけなかった。

「……どうしても、バルドじゃないと駄目なのか」

「あたしは、バルドが望んでること、全部叶えたいの。バルドが好きだからそう思うのよ」

 リリーはクラウスを真っ直ぐに見つめ返して告げる。

 今の自分の気持ちはそれ以外になかった。例え一目でバルドに惹かれた理由が、グリザドの心臓が定めたことでも、彼に全てを尽くしたいと願ってしまうほどの好意は自分だけのもののはずだ。

「それで、それだけでリリーはいいのか。バルドはなにも返さないのに」

 クラウスが手を離しながらも、視線はそのままで訊ねてくる。

「いいの。バルドが安心するならならあたしも嬉しいわ」

 見返りなんてことは考えたこともなかった。自分がしたいことをしているだけにすぎないのだ。

「アクス補佐官、フォーベック統率官」

 廊下の途中で立ち止まったふたりをマリウスに訝しまれ、ふたりは会話を打ち切る。そうして強い夏日が射す外へと出る時、砦の内から異変の知らせが届いた。

「貯蔵庫に不審者? 見張りはどうしたんだ」

 マリウスが怪訝そうな顔をする。

 貯蔵庫には食料の盗難が疑われているので、常時一箇所しかない入り口に見張りを立たせている。話によれば地下の貯蔵庫から不審な物音がして、中を覗いてみれば人影が見えたというのに誰も見つからなかったということだ。

「食料泥棒、あの灰色の魔道士なのかしら」

 見張りを立たせてからぴたりと食料が減るの収まったので、灰色の魔道士の可能性は除外されていた。しかし、見張りがいながらも食料庫に忍び込んだとなれば、窓も扉も関係ない灰色の魔道士かもしれない。

「そういうことかもなあ。マリウス、どうする?」

「見過ごすわけにもいかないが、訓練もある……何人かそちらに回す」

 少し考えて、マリウスは訓練を優先させることにしたらしかった。

「あたしも、行っていいですか? 指揮は『杖』の統率官に任せるんで」

 バルドとのことは自分の中で一応の踏ん切りはつけたものの、やはり心臓のことは気にかかる。

 できれば自分で捕まえておきたかった。

「アクス補佐官自ら赴かねばならないほどに、その不審人物は重要なのか?」

 どことなく不満を感じる声でマリウスが訊ねてくる。

 灰色の魔道士の件は、リリーの血統や心臓についてが明かせないため重要案件としては取り扱われてはいない。しかし、皇主の補佐官が自ら捕捉に出たいと名乗り出るのは、不審をもたれてしまうのは当然だ。

 焦ってついうかつなことを口にしたとリリーは返事に詰まる。

「よく分からない魔術使うみたいだし、リリーぐらいの手練がひとりぐらいはいた方がいいんじゃないか? どうせなら俺も草むしりよりもそっちがいい」

「……そうですね。アクス補佐官、ではそちらは頼む。フォーベック統率官も連れて行っていい」

 クラウスが助け船を出してくれたことにリリーは安心する反面、関わってくることに不安も覚える。

「分かりました。じゃあ、訓練の方、お願いします」

 しかしクラウスを連れていく行かないで揉めている内に、灰色の魔道士を取り逃してしまっても困るとリリーは仕方なくクラウスを連れて貯蔵庫へ向かう。そのさい他にも五人ほど魔道士があてがわれた。

「おかげで、俺は草むしりしなくてすんで、リリーも訓練不参加の理由ができたな」

 呑気なクラウスの言葉は、果たして本音なのだろうか。

 バルドからクラウスの義姉とエレンが接触した可能性が高いとリリーは聞いていた。

 皇祖が使っていた神聖文字とリリーに関わりがあることや、灰色の魔道士が神聖文字らしきものを浮かび上がらせ、なんらかの理由で神器に関心を示しているのかもしれないとクラウスは知っている。

 彼がそれ以上のどこまで知っているか、皆目見当がつかなかった。

(さっさと捕まえて喋らせせなきゃいいわよね)

 自分の秘密が誰かの耳に入る前に、自分の手で捕まえて黙らせておくしかない。

 リリーはそう考えながら早足で貯蔵庫へ向かう道を行く。

 見張りの立っている貯蔵庫の分厚い扉をくぐり幅の広い階段を下りてていくと、肌に触れる空気が少しひんやりとしてくる。

「貯蔵庫って思った以上に広いわね……」

 積み上げられた小麦の袋や芋袋で視界は塞がれ灯も乏しいので、実際よりも広く見えるのかもしれない。しかしそれにしても城の地下の大部分を占めるほど広大である事は間違いない。

「この数の兵を食わせなきゃならないんだからな。あっちの方だっけか? 俺とリリーはそこ、探すからお前らは向こうと、あっちに手分けして見てくれ」

 クラウスがについてきた魔道士に指示を出して、リリーが口を挟む隙はなかった。

「戦力、偏り過ぎてない?」

「マリウスは俺の監視のためにリリーつけたんだろ。一緒にいないと意味ないんじゃないか? 灯は俺が持つ」

 言われてみればそういうことで、リリーは渋々承諾する。灯があるのは入り口のあたりだけで、奥に行くには燭台が必要なためクラウスが持つ事になった。

「まだいるかしら」

「どこにでも移動できるなら、とっくに消えてそうだな。それにしてもわざわざここで食料盗まなきゃならないのはなんでだろうな」

「そうね。灰色の魔道士じゃないのかしら」

 確かに食料はここに多いとはいえ、わざわざここを選ぶ理由もない。

「でも、見張りが立ってて人影があったんなら、進入路がなあ……ここで行き止まりか」

 葡萄酒の詰められた樽が並べられた所で壁際だった。クラウスが辺りを燭台でくまなく照らし、リリーも感覚を研ぎ澄ませるものの誰かが潜んでいる気配はまるでなかった。

「いないわね……。何してるの?」

 クラウスが壁をじっと見ていて、リリーは首を傾げる。

「城とか砦っていうのはな、隠し通路のひとつやふたつはあるものなんだよ。こういう所には特にな」

 そう言うクラウスの掲げた燭台の火がふと揺れる。

「この辺りかしら」

 リリーは彼の側に近づいていって、壁に触れながら目を凝らす。石と石の隙間がきっち詰まった石積みの壁の、一箇所だけに指一本が入りそうな隙間が空いていた。

 明るい部屋なら目立つ隙間も、地下の暗がりでは灯を近づけてじっくり見なければ分からない。

「ああ。ここだな。家の屋敷にも似た隠し扉があるな。こうしたら、開くはず」

 クラウスが指を入れて隙間をいじると、壁が扉のように動いた。その奥には狭い通路があった。

「これなら誰でも入りこめるわね」

「といっても、どこに繋がってるか知ってないとな。幾つか入り口があって全部同じ通路に繋がってるのか、それともバラバラなのか」

 クラウスが通路を燭台で照らし出す。乾いた地面に泥の靴痕が点々とある。

「これ、この間の雨の時かしら」

 そう古い足跡にも見えないで、ここ数日の間に誰かが忍び込んでいたのは間違いなさそうだった。しかし、手がかりはそれまでで、他には何も見つからず延々と暗い通路が続くだけだった。

「なあ、リリー、この道、どこに続いてると思う?」

「外、じゃない? でも、雨漏りもしてたし外に出て、中に入ってから別の入口から……はまどろこっしいかしら」

「砦の外に出たら、そのまま一緒に消えないか?」

 前を歩くクラウスの冗談とも本気ともつかいない言葉が反響する音が尾を引く。

「……こんな時に馬鹿言わないで。もう。それにしても長いわね」

 残響が消えた頃にリリーは静かに叱りつけて、話題を変えた。

 数歩先は暗闇でどこに辿り着くかもわからないせいでずいぶん長く続いている気がする。

「分かれ道だ。足跡はこっちだな」

 クラウスが右手に曲がって少ししてから止まる。

「行き止まりと隠し扉、どっち?」

 燭台に照らされた奥には石壁が立ち塞がっていて、足跡もその前で途切れていた。

「うーん、と隠し扉だな。開け方はさっきと一緒だ……部屋だな」

 クラウスが壁の端を見やって貯蔵庫の奥にあった通路の隠し扉と同じように開く。中は寝台がひとつだけある小部屋だった。緊急時に身を潜めるためのものらしかった。

 寝台といっても積み重ねた石の上に藁と敷布と上掛けによっって、それらしく見えるだけだ。体を横たえて眠ることができる最低限の広さしかない。

「荷物があるわ」

 寝台の脇に、布袋を見つけてリリーは中を検める。簡易の筆記具と紙束と少しの着替えがある。その中にまだ真新しい灰色のローブがあった。

「ここに潜んでたのか……一部は神聖文字だろうけど、他も文字か?」

 紙束にはいろいろ書きつけてあったが、なにひとつ判読できなかった。

「ここにいたのが灰色の魔道士なのは間違いなさそうね。戻ってくると思う?」

「さあな。でも、これ持ってたら取り戻しにくるんじゃないか」

 分厚い紙束と書き付けられた文字の量を見る限り、簡単に捨てていい物でもなさそうではある。

「ここで待ち伏せするか、これ持っていって誘き出すか……あ、ここに来るの、誰にも報告してなかったわ」

 遠くから自分とクラウスを呼ぶ声が聞こえて、リリーは待ち伏せはできなさそうだとため息をつく。

「一旦出るか。バルドが戻って来ないことには、最終決定は下せないからな」

「そうね……」

 クラウスに同意しながら、リリーは紙束に今度はじっくりと目を通す。

(この中に、あたしのこと、書いてあるのかしら)

 ひとひとつの文字らしきものを目で辿っても、何が書いてあるかさっぱり分からない。しかし神聖文字のいくつかは、琴線に触れるものがあった。

 自分の記憶か、それとも皇祖の記憶か。

(これ、あんまり人目にさらさない方がいいかもしれないわ)

 神器に纏わることは多くは伏せられている。ここから余計な詮索をされるのは困る。

「ねえ、クラウス。これ、あたしが持って行くの、内緒にしてくない? 事情は話せないんだけど……」

 あまりクラウスに弱みを握られたくはないが、こればかりは仕方ない。

「わかった。まあ、いろいろややこしそうだから、説明できる時がきたら説明してくれ」

 やけに聞き分けのいいクラウスに違和感を覚えつつも。リリーローブの中に紙束を隠す。

 それからすぐに他の魔道士達もぞろぞろとやってきて、周囲を一通り確認してから隠し部屋から出た。 


***


 ハイゼンベルク方の攻撃は城門に集中していた。上への攻撃は最低限で『杖』の防衛が主だった。

 馬から降りたバルドはじりじり後退していく味方を横目に、城の入口へとヴィオラを含む手勢の半数を引き連れて迫っていく。

「突入」

 仮の城門であった木柵は燃え尽き、灰すら飛び散ってがら空きになった場所に白の魔道士達が人で壁を築いている。

 バルドは自ら先陣を切って敵の中に飛び込む。

 いかなる魔術攻撃も、彼の血の染み込んだ漆黒のローブには無意味だ。

 真っ向から悠然と近寄ってくる姿に、白の魔道士達は本能的に後退る。

 バルドは神器を一閃して、雷の飛沫を撒き散らす。

 咄嗟に後衛にいるらしき『杖』が岩の防壁を築くものの、雷撃の飛沫は壁を粉砕しさらのその向こうの魔道士達をも強かに打ち付ける。

「皇主様、わたくしが前に……」

 背後に控えるヴィオラが告げて、バルドは静かに一歩下がる。

 さして手応えもなく、闘争心よりも恐怖心が勝っている敵はいくら譲っても惜しくなかった。

 深紅の炎がはためく深紅の布のように広がり、敵兵を包み込む。視覚的には大きな威力を持っているかに見えても、実際はそれほどでもない。いくらかの魔道士達はローブで防ぎ切れている。

 バルドは難しくとも、ヴィオラならば手傷を負わすことができるかもしれないと敵が俄に勢いづく。

 ここまでは策通り。

 後は小競り合いをして、敵勢の猛攻に怯んだ体を装って後退すればいい、

「お前達、下がっていろ」

 敵の後ろの方で声がして、雷撃が飛んでくる。

 それはヴィオラの火球をあまねく撃ち落とし、尚勢いを殺さずヴィオラすらも撃とうとする。

 白の魔道士達が道を空けて姿を見せたのは、ゲオルギー将軍だった。

「……敵将がきましたわね」

 ローブに魔力を供給し攻撃を防いだヴィオラがどうするかと、視線でバルドの判断を仰ぐ。

 敵将が出てきたので退くか、それとももう少し戦うか。

(戦いたい)

 バルド個人のとしては戦う以外になかった。

 強敵が闘争心を漲らせて眼前にいるのだ。戦わないなど、あり得ない。

「……炎将、他任せる。敵将、俺が相手」

 いずれにせよ自分が将を前にして尻尾を巻いて逃げるなど、不自然だろう。

 バルドは戦う言い訳を考えながら、ゲオルギー将軍以外はヴィオラに任せて踏み込む。

 振り下ろした剣は避けられる。

 相手の剣も自分と同じく大きい。神器が両刃、ゲオルギー将軍の得物が片刃というだけで魔術なしでも十分に受け止められたはずだ。

 先日剣を合わせたのはほんのわずかしかなく、互いの手の内はまだ知らないので様子見のつもりかもしれない。

 次はゲオルギー将軍が先に出た。

 細い雷光を巻き付かせ、雷の糸巻きのようになった太刀が真横から襲いかかってくる。

 バルドはそれを神器のみで受け止める。

 太刀の雷光が一斉に解けて襲いかかってくる。

 バルドはすぐさま雷撃で撥ねのけて、相手の間合いから出る。

 魔力も、剣技もやはり抜きん出て強い。

 否が応でも血が滾って闘争にのめり込みそうになる。

 このまま戦って勝利した後に、砦を攻め落とす余力は残らないだろう。ディックハウト側はさらに頑なにたてこもり、増援がくるまで護りに入る。

 わずかな理性が退くべきだと警鐘を鳴らして、バルドは歯噛みする。

「皇主様! 予想より敵の勢いが激しく、攻めきれません。一旦退くべきでは!」

 必死にバルドが闘争の欲求を抑え込んでいたところへ、ヴィオラが撤退を申し出る。

 少し早いのは、やはりこのまま自分が敵将との戦闘に夢中になってしまうと危惧したのかもしれない。

「……全軍、撤退」

 バルドは言いながら雷の塊を白の魔道士らの足止めをしてから後退する。

 ディックハウト側の追撃もなく一団は岐路の半ばで足を緩める。多少の負傷者はいるものの、死者重傷者はなく陽動作戦としてはいい結果だ。

「後は向こうの出方ですわねえ」

 ヴィオラがつぶやいて背後にそびえるゼランシア砦を見やる。

 皇国最古と言われる砦からは戦闘の名残の煙がたなびいている。しかし岩山と一体化した砦はどっしりとしていて揺るぎない。

「出なければ、攻め落とす」

 陽動にかからねば、一旦総攻撃をかける手はずになっている。モルドラ砦から一番近い半日ほどの距離にある城にも、すでに二千の増援が待機していた。

 どちらにせよ、もうすぐ敵の雷将と思う存分戦える時が巡ってくる。

 肌が粟立つほどの高揚を、バルドは一呼吸でおさめてリリーが待つモルドラ砦へと向き直った。


***


 貯蔵庫から繋がる隠し通路や隠し部屋、そこに何者が少なくとも数日は潜んでいたということで、隊列訓練は急遽とりやめとなった。そしてマリウスを筆頭にモルドラ砦に待機している上位官が軍議をしている大部屋に集まった。

(隠し通路の場所ってみんな知らないのかしら……)

 リリーは対応策を話し合っている者達の顔を眺めながら、ひとり無言で様子を見ていた。

 この場にクラウスはおらず、貴族でもなければ皇主に忠実な臣下というわけでもないリリーは他の上位官の中で浮いていた。

 この場にいるのも将軍補佐という立場上、いないといけないというぐらいでリリー自身の考えや意見が欲しいわけでもない。バルドが帰ってくるまでは、じっと座っているのが仕事だ。

「アクス補佐官、入口を見つけたのはフォーベック統率官で間違いないか」

 マリウスから不意に質問を投げられて、リリーはうなずく。

「砦や城に隠し扉はつきものだった言ってました……扉の仕掛けもフォーベックの屋敷にあるのと同じだって」

 貴族の屋敷の事情など、リリーには知らない。

 だが、貴族である他の上位官達は珍しい仕掛けでもなく自分の領地の城や屋敷に似た隠し扉があると言う者も多く、たまたま見つけたということではということで落ち着きそうだった。

「アクス補佐官は、灰色の魔道士については何も聞かされていなかったか」

 マリウスが顎に手を当てて考え込むのに、リリーはうなずいて手元の書類に置いた腕をに白を切る。

(早くバルド帰って来て)

 自分のローブの中に隠した灰色の魔道士の荷物の中にあった紙束は、今、他の書類の束の間に置いてある。

 ローブの中といっても内ポケットに無理につっこんでいるだけで、明るい所だと不自然にローブが膨らんでいるのが丸わかりになる。どこかに置きっぱなしにしていて灰色の魔道士が持っていってしまっては、元も子もないので常時携帯しているために後でバルドに渡す他の書類で隠すしかなかった。

 灰色の魔道士や隠し通路のことに気が向いているので気付かれていないが、リリーは冷や冷やとしながらバルドの帰りを待つ。

 やがて話題が堂々巡りになった頃になってやっとバルドの帰還が告げられる。

 ゼランシア砦への陽動作戦は特に大きな問題もなくすんだとのことで、さっそく話題は隠れ潜んでいた侵入者についてとなった。

「おかえり」

 リリーはバルドが自分の近くに腰を下ろしたのを見やって小声で言って、隠してある紙束をちらりと見せる。

 それでだいたいのことは察したバルドは、侵入していた灰色の魔道士を砦の外で探索することと、砦内の見廻りを増やすことを即時決めた。

 そうして隠し通路に関してはバルドが全て把握していることを告げ、それを全員に教えるかどうかは保留となった。

「やっと終わった……」

 緊急の軍議も終わり、バルドの執務室でリリーは長椅子に深く座り込んで緊張を解く。

「理解不能」

 隣に腰を下ろしたバルドはリリーから渡された紙束を見ながら、眉根を寄せる。

 自分もひととおり書かれているものは確認してみたが、神聖文字に胸がざわつくものがあったぐらいで他はさっぱりだ。

「大事なものだと思うから取り返しにくるでしょ。どうせ、バルドとあたし今日はもうずっと一緒にいるんだから、ふたりで見張るわよ」

 今日中に取り返しに来るとは限らないとはいえ、灰色の魔道士を捕らえるならもうこれに賭けるしかなさそうだ。

「早急に捕縛。神器、外せればよし」

「そうね。あたしの心臓のこと、向こうは気づいてそうだった? あたしが出て行かないことには、そんなことわからないか」

 いまだに神器に関しての情報をどうするか皇都の方から連絡はなく、ディックハウト側に情報が渡ったかどうすら把握できていない。

「敵、特にリーを探す気配なし。敵雷将、強かった」

 バルドの言葉は低く落ち着いているようで、興奮が隠し切れていなかった。

 これだけバルドがはっきりと強いと言うのも珍しいことで、本当にディックハウトの雷将は強かったらしい。

「向こうの将軍も出てきたのね。いいわね。あたしも出たかったわ。シュトルム統率官は、いた?」

 フリーダがどうしていたか気になって、リリーは訊ねる。

「上からの攻撃におそらく」

「じゃあ、あたしは出てもつまらなかったかもしれないわ。……向こうが攻め込んでくるなら、灰色の魔道士はその前に捕まえておきたいわね。隠し通路ってあとどこにあるの?」

 うっかりディックハウト側に捕まえられても困るので、早々に捕まえるにこしたことはない。

「貯蔵庫を覗き五箇所。道は三本。隠し部屋はみっつ。隠し扉一箇所は俺の寝室」

 リリーはバルドから聞かされた言葉にきょとんとする。ここ数日ずっといるのにそれらしきものにまったく覚えがなかった。

「どこ?」

「タペストリーの裏。地下通路への階段、ある」

 そういえばバルドの部屋に草木の模様を縫い取った大仰な壁飾りがあったが、皇主の部屋だから普通のことだろうと気にしなかった。

「そこから入ってくるかしら。でも、好きに移動できるんだから扉は使わないかもしれないわね」

「いずれにせよ、取り戻しにくるならよし」

「そうね。あたしとバルドでなら、戦力は十分だけど、向こうに移動の魔術を使わせないようにしないと」

 戦って勝てるかよりも、逃げさせない方が問題だ。

 リリーとバルドはそれからふたりで作戦を練りながら床についたが、その日枕の下に隠した紙束を灰色の魔道士が取り戻しにくることはなかった。


***


「……来てたわね」

 午前の軍議を終えて真っ先にバルドの寝室にバルドと共に戻ってきたリリーは、壁際のタペストリーのすぐ側に落ちている黒い糸屑を拾い上げる。

 夜の内に隠し扉の間に挟んでいたものだ。朝に部屋を出る時にはなかったので、軍議の間に来たのだろう。

「動かした形跡なし」

 寝台や長椅子に長卓、広い部屋を見回していたバルドが首を傾げる。

「捜し物をしたってかんじはないわね。部屋に入ってすぐ諦めたのかしら」

 リリーは前日と同じく他の書類と一緒にした、灰色の魔道士の紙束を見る。寝るときは枕の下で、軍議の時も持ち歩いているのでこの部屋を探しても見つからないことがわかったのか。

 いずれにせよ不自然である。

「移動に隠し通路使用。……移動の魔術は未使用?」

「そうね。ここにきて魔術を使わないなんてどういうことかしら」

 バルドがこの砦で最初に灰色の魔道士の気配を感じた時、魔術を用いて逃げたと思われる。近くに隠し通路の出入り口があるわけでもなく、忽然と姿を消したからこそ実際に見ていなくても灰色の魔道士だと思ったのだ。

 隠し部屋にあった真新しい灰色のローブや、神聖文字を含んだ謎の文字を書き付けた紙束の持ち主が灰色の魔道士以外の持ち物であるとは考えがたい。

「俺達が魔術、使わない理由」

「ん、あたしらが魔術使わない時って、魔力を温存したいか魔力切れで使いたくても使えない時よね。魔力切れって一日かそこらで回復するものだし、温存かしら」

 魔力を空になるまで消耗したとしても、全快するのに三日とかからないはずだ。

「やはり第一目標は杖」

 昨夜も杖さえ破壊すれば魔術は使えないはず、と見つけたら真っ先に杖を破壊する算段を整えていた。

「そうね。どんな魔術を使う気でも、杖さえなんとかすれば大丈夫よね。ねえ、待ってるのも疲れるからいっそ、追い駆けてみる?」

 リリーはタペストリーをめくってバルドを見上げる。

「……待機、より先制」

「そっちの方があたしららしいわよね」

 じっと我慢していることが苦手なリリーとバルドは、待ち伏せする策を放棄して隠し扉を開いた。中は入ってすぐに階段があって、下の方は真っ暗で何も見えない。

「灯、いるのよね……バルド、見える?」

 できれば手を塞ぎたくないので、リリーは扉を閉じて夜目が利くバルドに問う。

「…………見える。リー、気配だけで十分?」

 暗がりにじっと目を凝らしていたバルドが、こくりと頷く。

「うん。あたしもしばらくしたら目が慣れてくると思うわ。気配があったら攻撃もできるし。あ、でもバルド、ここで剣、振れる?」

 リリーも慣れれば暗闇でも人の輪郭程度は認識できて、人の気配にも敏感なので灯なしでも戦える。

 それよりもリリーが両手をいっぱい広げてぎりぎり指先が触れない程の、狭い通路でバルドが大剣を扱えるかが問題だ。

「抜ける。振るう……狭い。魔術を撃つに不足なし」

 バルドが狭い中でも器用に背の大剣を抜いて構える。

 振り回すのは無理でも魔術を撃つのが難しくなければ大丈夫だろう。

「じゃあ、バルド先歩いてね」

 リリーはバルドに道案内を頼んで壁に手をつきゆっくりと階段を下りていく。灯があった昨日と違ってほとんど何も見えないぐらいに暗い。だが、目の前を歩いているのがバルドだというだけで安心感があった。

 やがて地下通路に降りる頃には、リリーの目も慣れて道が二手に別れているのが分かった。

「片方が外に繋がっててもう片方は隠し部屋と他の通路に繋がってるんだっけ?」

 朝の軍議の場で隠し扉の場所や通路などについては、神器の手紙を受け取った忠誠心の強固な者にだけ知らされていた。唯一手紙を受け取っていないリリーも、バルドの裁量で皆と一緒に聞いた。

「外か、部屋か」

 バルドが外に向かう右手側と砦内の別の隠し扉と隠し部屋にたどりつける左手側を示す。

「まだ中に用があるんだったら出て行かないわよね……あの灰色の魔道士、全部の出入り口知ってるのかしら」

「おそらく。俺の部屋に来たのは偶然と思えず」

「これの在処はすでに突き止めてるってことだものね……あたしはまだ中だと思うんだけど」

 紙束をに触れながらリリーが左を示すと、バルドもうなずいて先に砦の内側を調べることにした。途中、バルドが足を止めて隠し扉を開くがそこに誰かがいた気配はなかった。

「出口」

 やがて昇り階段が見えて、バルドとリリーは顔を見合わせる。引き戻すかどうか考えた末、一度砦の内側へと出てから隠し通路は使わずに外の出口に向かうことにした。

「ここ、一階の西側よね」

 扉を開けると老朽化が激しく使われていない小部屋に出る。調度品のひとつもなく石櫃のような部屋は、先日の大雨で浸水もしていたせいかまだどこか黴臭い。

「……いる」

 そして部屋を扉を開ける前に、バルドが何かに気づいたらしく小さくそう言う。リリーもすぐに外で足音がしているのに気づいた。

 距離は少し遠い。

 いきなり出て行くより、気づかれないようにそっと近づいた方がいいだろう。

 リリーとバルドは視線だけでお互い同じ考えだと確認して、ゆっくりと扉を開く。出た廊下は広く真っ直ぐで、杖を持った黒いローブの魔道士の背が二十歩ほど先に見えた。

 見廻りの自軍の魔道士かと、拍子抜けしそうになったがすぐに違うとふたりは気づく。

 魔道士がひとりで見廻りはしない。『杖』と『剣』、必ずふたり以上の混成で動くものだ。

 リリーとバルドはうなずきあい、ゆっくりとした動作で目の前の魔道士の後をついていく。

「見張り、ご苦労様」

 そして、リリーは目の前にいる魔道士に声をかける。

 魔道士はびくりと肩を跳ね上げながらも逃げる素振りは見せずに、立ち止まってそろりと振り返った。

「これは、皇主様と補佐官様、おふたりも見廻りでしょうか」

 ローブを目深に被った頭を下げる魔道士の顔は見えない。しかしながら、砦内の魔道士の顔を全員把握しているわけはなく、顔が分からないことはそれほど困ることではなかった。

 声色からしてまだ若い男のようだ。

「見廻りよ。本当は『杖』がひとりぐらいついてなきゃいけないんだけど、ちょうどいいわ。今、ひとり?」

 何気ない様相を取り繕いながら、距離を詰めていく。

「はい。ひとりです。いや、こんな広い中、ひとりで見廻りも心細いので、皇主様と補佐官様がご一緒してくださるなら、私の方も助かります」

「そう。ひとりなのね……っ!」

 リリーはすかさず双剣を抜く。狙うのは男の杖だ。

「そんな、ばれないと思ったのに!」

 男が杖でリリーの剣を受け止めながら、杖から炎を放ってリリーは予測外のことに目を見張って後ろに飛び退る。

 攻撃魔術を放てるのは『剣』だけだ。

 灰色の魔道士が知らない魔術を使うとはいえ、『杖』が攻撃魔術を使うというのは日常的にありえないことで面食らってしまった。

「いや、ちょっと、待ってください、私はけしてそちらに危害を……っ!!」

 バルドが雷撃を放って、男が透明な壁を築き上げる。

「かなり、魔力が強いわね」

 加減をしているとはいえ、バルドの攻撃を真正面から受け止められるのは相当な手練だ。

「大人しく投降しないと、腕が吹き飛ぶわよ!」

 リリーは剣を構えたまま、男に警告を投げつける。

「投降します! 投降するので剣を収めてください!」

 男が情けない声で懇願して、バルドが攻撃を止める。

 その瞬間、男は杖を振り上げて床に叩きつけようとするものの、リリーが先にその懐に飛び込んで、首元に刃を当てた。

「杖を離しなさい。そうじゃないと斬るわよ」

 低い声で脅すと、男は青ざめた顔で杖をから手を離す。

 石床に堅く高い音が響かせた杖を、リリーはバルドの方へ蹴り飛ばした。そうしてバルドがさらに杖を遠くへ置いてから、男を後ろ手にする。

「やっと捕まえたわ。何者なの」

 リリーは自分の髪紐を解いて、男の両手の親指同士を縛り拘束してから男のフードを外す。

 思っていた以上に若い。まだ二十そこそこだろう。柔和でひ弱そうな容貌で、褐色の髪と目もよくある色だ。これで黒いローブを羽織っていれば、お互いの顔を知らない者が多いこの砦では気づかれにくい。

「た、ただの観光客です。けして、敵の間者などではありません」

 拘束され逃げられないと悟った男は、動かせない体の代わりにめいっぱい首を横に振る。

「観光? 戦場を見に来る魔道士なんて、敵か味方のどっちかよ。名前と、出身」

「名前はシェル・ティセリウス……大陸から来ました」

 シェルと名乗った男は、一瞬迷って仕方なくといった体で吐き出す。

「大陸……」

 リリーは息を呑んで、見知らぬ遠くの場所を声に出す。

 この国の内乱を知らないらしいという情報から、島の外から来た可能性もバルドが示していた。しかし、ひとつ辻褄があわない点があった。大陸には魔道士はいないらしい。

 交流が絶えてもう八百年の間に、大陸にも魔道士が存在するようになったのだろうか。

「何事だ!! 皇主様!」

 そこへバルドの放った魔術で騒動が起きていると気づいただろう砦の魔道士達が駆けつけてくる。

「あたしと、バルド……後ろにいる皇主様が尋問するから、気絶したふりでもしておいて」

 リリーはそう言うと、シェルは抵抗しないほうがよいと考えたのか、大人しく横に倒れて目を閉じた。

「不審な魔道士を捕まえたわ。気を失ったから運ぶの手伝って……」

 リリーは気絶したふりをしているシェルを見て絶句する。

 あろうことかこの状況で寝息を立て始めていた。狸寝入りかと思ったが、体全体に緊張感の欠片もなく、本当に眠ってしまっていたらしかった。

「なんなの、こいつ……」

 そして額に手を当ててリリーは深々とため息をついたのだった。


***


 ハイゼンベルクからの攻撃を退けたゼランシア砦は、攻め込むべきかそれとも相手の出方を窺うべきかで紛糾していた。

「陽動作戦の可能性は捨てきれない」

 ゲオルギー将軍がそう言うのに、フリーダも内心おそらくそうだろうと思いながらも口出ししなかった。

 ここでじっとしていてもリリーとは戦えない。ならばこちらから出向いて行けばいだけのことだ。

 幸い、軍議の場は攻めに転じることを望む者が多い。このままいけば数日中に出陣だろう。

 フリーダは全員の意見が相手方の砦を落とすことに向かっていくのを、静かに待つ。夫のフランツは一刻も早く勝利を収めたい焦りと、ゼランシア砦で敵を迎え撃ちたいという保守的な理性の間で葛藤しているようだった。

「二度の攻撃でこの砦もずいぶん削られました。これ以上攻撃を加えられても、砦の損傷を増すばかりでは」

 フリーダは砦の主であるフランツがなかなか意見をはっきりと定めないのに焦れて、自分の望む流れを引きよせる言葉を発する。

「フリーダ、それはあの雷獣がこの砦を潰しかねないということか」

「ええ。あまりにも長引くようであれば、そうするでしょう。私は攻めるべきかと思います」

 夫に答えながら、視線はゲオルギー将軍に向ける。

「……三分の一の兵とフランツ殿は引き続き、砦の防衛にあたってもらう。残りの手勢はモルドラ砦を攻める。それでかまわないか?」

 ゲオルギー将軍は決断を全員に問う。異議を唱える者はなく、編成と日取りについての話し合いへと変わってフリーダはほっとする。

「奥方はここでフランツ殿と護りに徹するか、攻撃に加わるかどちらを選ばれる」

「私は夫の許しがあれば攻撃に加わりたいと思います」

 一応は夫の顔をたてて答える。だが気持ちはすでに固まっている。

「……貴女の、好きにすればいい」

 フランツはどこか諦めきった表情で同意した。

 もはや自分達夫婦の間には溝しかなかった。夫はいっそこのまま戦死してくれればありがたいと思っているのかもしれない。

 妻は果敢に前線に立ち名誉の戦死となれば、夫が再婚するにあたってどこにも角が立たない。

「では、全力をもって戦わせていただきます」

 戦う相手はリリーひとりのみ。

 フリーダはやっと戦えると、編成が着々と進み出陣の日取りが決まるのを心待ちにする。 そんな中、軍議の場へ緊急の知らせが入った。

「ベーケ伯爵家からの使者か。ついに南も獣を見限ったのか」

 北の防衛の要であるマールベック伯爵家当主のフランツが、南の防衛の要であるベーケ伯爵家からの接触に声を上げて、議場がどよめく。

「使者を通せ」

 ゲオルギー将軍の呼びかけに、ひとりの女性が通される。ローブを纏っておらず、簡素なドレス姿の年若い女の顔に、フリーダは見覚えがある気がした。

 無愛想で地味な容貌とはそう印象に残るものではなく、記憶の奥に沈み込んでしまっている。

「……エレン・フォン・ベレントか」

 やっと思い出して彼女の名を口に出すと、エレンが肯定するように視線を向けてくる。

「フリーダ、知り合いか」

「いいえ。知り合いではありませんが、彼女は先日身罷ったラインハルト殿下の侍女であり、第一の側近だったはずです」

 フリーダの返答に再び議場が騒がしくなる。

 そうしてもたらされた報せは、フリーダにとってはあまり面白くないものだった――。


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