5
モルドラ砦に侵入した不審者が捕縛されたことに、問題がひとつ片付いたとほっとする反面、侵入者の正体について軍議では揉めた。
バルドが尋問はリリーとふたりですると宣言したことで、上位官らからの不満や不審は募るばかりだ。しかしそれでも彼は聞きだした情報は伝えると主張して他の意見は一切とりあわなかった。
「こうするしかないのは分かるんだけど、大丈夫?」
軍議の後にシェルを捕らえてある牢へ行く途中、リリーはバルドがひとりで批判を引き受けることを案じる。
結局自分に関することは、バルドが前に出て煩わしい思いをしなければならなくなってしまう。
「リーの問題、俺の問題」
神器についてバルドがまったく無関係というわけもないのはわかっている。だらかといって彼ひとりに押しつけるのも違う気がするのだ。
「……うん。ごめん。ありがとう」
かといって他にどうしたらいいのかは思いつかず、甘えているばかりでもやもやする。
「もう、起きてるかしら。本気で眠りこけるなんて、図太いわ……お疲れ様、尋問は将軍とあたしでやるから、防音の魔術お願い」
気を取り直して、リリーは格子の填まった覗き窓がついている木の扉の前に立つふたりの見張りのうち、『杖』に魔術をかけてもらい牢に入る。
天井近くの高い所に小さな明かり取りの格子窓がみっつ並んだ牢の中は薄暗い。部屋に寝台は当然無く、ボロ布の上にシェルは拘束されたまま横になっている。
「話、訊きにきたわよ。起きて」
「……ん、ああ、おはようございます」
リリーが声をかけるとシェルが目を開ける。どうやら本当にこの状態で安眠していたらしい。
「よく眠れるわね、あんた」
リリーは呆れ果ててため息をつく。
「夕べは大事な記録帳がなくて眠れなかったのです。お持ちですか?」
「持ってるわ。これでしょ」
リリーは手に持っていた書類の束の中からシェルの荷物の中にあった紙束をよりわけて渡す。
「それです。よかった。これがなければここまでやってきた意味がなくなりますので……私は帰してもらえるのでしょうか?」
シェルがほっとしたのも束の間、自分の状況に気づいて不安そうにリリーとバルドを見上げた。
「事情による。大陸出自、事実? 大陸に魔道士はいないと聞いた」
「そういえば、大陸には魔道士はいないと、この島の人間には教えられていましたね……ところで、話しにくいので拘束を解くか、せめて体をおこさせていただけないでしょうか。媒体がなければ魔術が使えないのはあなた方と同じなので……」
シェルの言葉はまるで彼とリリー達は違うという意味に聞こえた。
「拘束は念のために解かないわ……大陸の人間がこの国の人間にどうしてそんな嘘をつくの」
バルドがシェルの体を起こしている合間も、リリーは質問をする。
「さて、どこから話していいものか。話すべきなのか……観測対象と接点を持たない方がよかったんですが」
「今更、話さないなんてなしよ。無事に帰りたかったら、全部あらいざらい話しなさい」
リリーが剣の柄を握り、バルドが無言で睨むとシェルがびくりと肩を振るわせる。
「……なんて野蛮な。ええ。もうこうなったらお話しましょう。まず、私の目的ですが、ある魔道士の足跡を追ってここまできたのです。この千年、彼以上の魔道士は産まれなかった。希代の天才魔道士、ザイード・グリム。この島で彼はグリザドと名乗り王となった。そう、あなた達のご先祖です」
もったいぶった口調で告げられたことにリリーとバルドは息を呑む。
この島では神とも崇められ、自分達の祖先である上にまだ心臓だけ生きている皇祖グリザドの正体。
彼がどこから現れ、一体何のためにこの島に魔術をもたらしたのか。誰も知らなかったはずのことを、シェルは知っているのだ。
「……グリザド、大陸の魔道士。ただの人間?」
「ええ。人間です。それどころかは元は奴隷だった。しかし、彼は魔術の才能で地位と名声を得ました」
「いちいち仰々しいわね。魔術の才能って、ものすごく強い軍人だったってこと? けど、どうやって他の人間に魔術を与えたの?」
自分とバルドの祖先が強い軍人であったと言われれば納得できる。しかしながらこの島の人間に魔術を使えるようにしたこととは上手く繋がらない。
リリーが首を傾げていると、シェルがふむとうなずく。
「本来の魔術というものをあなた方は知りませんでしたね。そうですね、そこに魔術文字があるでしょう」
リリーはシェルが顎で示す紙束を床に置いて、話はまだ長くなりそうだとバルドと一緒に腰を下ろす。
「魔術文字、神聖文字?」
バルドが神聖文字が書かれている紙を示す。
「そうです。魔術を扱うのに必要な基礎中の基礎です。幾種類もの魔術文字を組み合わせて、魔術を作るのです」
「魔術を作るって何?」
いまひとつ言葉を呑みきれずにリリーは首を傾げる
「この魔術文字ひとひとつに意味があり、組み合わせることで蝋燭に火をつけることも、物を宙に浮かせることができるのです。例えば長距離を移動をするような、大がかりな魔術ほど組み合わせが複雑になります。そうですね、魔術はよく織物に例えられます。魔力という糸で、魔術文字を織っていくのです。そして織られた魔術は媒体を通して実行される」
「なんとなくは分かったけど、あたし達の知ってる魔術じゃないわ」
魔術を使うのに、そんな複雑な過程は踏まない。炎を出すにしても、水を出すにしても、それぞれをどういう形で媒体から放出するか考えるだけだ。
「それがザイード・グリム……グリザドの魔術なのです。彼は魔術でもって、魔術の鋳型を作って人に与えたのです。あなた方はあらかじめ用意された鋳型に魔力を流し込んでいるにすぎない。疑問に感じたことはありませんか? あなた方の魔術は軍事利用に限定されていることを」
考えたことなど、なかった。
『剣』で戦い、『杖』で護る。唯一『玉』は癒しの力を持っているが、病を癒やすにしても少し熱を下げる程度、後は外傷の治療を早めることで戦場で使用されることがほとんどだ。
魔術とはそういうものだということしか、自分達は知らない。
リリーは神聖文字に目を落としてみるが、これが魔術の基礎と言われても理解しがたかった。
「皇祖、戦を望んだ?」
バルドが問いかけに、シェルは首を横に振った。
「望んだのは、人為的に魔道士を作り出すことです。そのために彼は禁忌を犯したのです」
神は人へと紐解かれ、途方もない夢を追い駆けたひとりの男の半生が物語られる。
***
ザイードは娼婦の息子だった。父親は誰ともしらない。娼館で産まれた男児はある程度育つと、奴隷として売られる。
ザイードも例に漏れず、五つの時にひとりの老爺に買われた。
老爺は魔道士だった。世界の魔道士を教育し管理する『学院』の教授である彼は、ザイードに魔術の才を見出し、彼を養子に迎えた。
ザイードは老爺、グリム教授の元で魔術にのめり込んだ。
彼の幼い好奇心は魔術に全て注がれた。妄想し空想したものを魔術文字で描き、魔力でもって実現できる。
積み木を組み立てるように、ザイードは一日中魔術文字を組み立てあらゆる魔術を産み出していった。
あまりに複雑で膨大な魔力を要するため、彼にしか扱うことのできない魔術も多くあった。その反面、過去に編み出された魔術を略式化し、少ない魔力でも操れるように改良をして多くの魔道士がその恩恵を受けた。
そうして若き天才、千年に一度の傑物。『学院』においてザイードはあらゆる名声を得た。多くの国も彼の才能を欲し、『学院』への出資を惜しまなかった。
だが、ザイードは名誉にも財にも目をくれなかった。
彼は探求心のままに数々の魔術を産み出していくことさえできればよかったのだ。
そしてザイードは魔道士をつくることに長年関心を寄せていた。
かつて魔道士を作るための術式は数多く考案されてきた。だが誰も理論を実証できたものはいない。
『学院』は倫理に反するとして人体実験を固く禁じていた。それだけでなく、魔道士を作るには膨大な魔力が必要だった。
ザイードは魔道士の作成を成せるだけの魔力を保っていた。そしてついに彼は知的欲求を満たすために動いた。
とある国の王が強い軍事力を求めていたのに目をつけ、仕えることにした。
ザイードにとって重要なのは、魔術を使える人間を作ること。どんな魔術を使うかはさほどこだわりもなく、王に求められるまま軍事利用できる魔術を使える魔道士を作ることに決めた。
『学院』で魔術研究は目につく。魔術の媒体を揃えるにも費用と人手がいる。それらを全て王は秘密裏に提供してくれた。
やがてザイードはひとつの島にたどりつく。
世界の主たるみっつの大陸から遠く離れた海上にぽつりと浮かぶ、魔道士が存在しない島。
島の人間はいずれも微弱な魔力しか持っていなかった。
島民の魔力を増幅し単純な魔術を扱わせる魔術実験のため、ザイードはグリザドと名乗り王となる。
魔道士を作ることに成功した後に、彼は次に島民にかけた魔術の維持に取りかかる。
島民に魔術を与えること自体が、すでに人体実験であり禁忌の領域だ。
しかし、ザイードは魔術の維持のためにさらに倫理の壁を打ち壊す。
生きた魔術媒体の作成。
それはすなわち、自らの血を分けた子供を使った交配実験だった。
***
「生きた魔術媒体、要するに、人間を剣や杖の代わりにすることです」
シェルが一息で話しきって、リリーを見る。
「あたしは、グリザドの魔術の媒体ってこと……?」
リリーは愕然とつぶやく。
シェルの話す魔術と自分が知っている魔術の違いが大きすぎた。
皇祖はただの人間でしかないのはわかった。そうして、自分が今持っている双剣と同じく、魔術の媒体だということも。
しかしそれ以外はさっぱりだ。
「そうです。魔術を扱うには、必ず魔道士と媒体の間に紐付けが必要、というのは知っているでしょう」
「知ってるわ。媒体に自分の血を混ぜ込むか、染み込ませなきゃ魔術は使えないもの」
双剣の刀身には自分の血が混ぜられ、ローブには血を染み込ませてある。
媒体と魔術を使う者を結ばなければ、けして魔術を使うことはできない。
「……心臓が、魔道士。肉体が媒体?」
バルドが先に理解したらしく、シェルに問う。
「そうです。ザイード・グリムは自分の心臓を永続的に動かすことで、島にかけた魔術を同時に維持しようとしたのです。しかし、そのためには媒体とは強い繋がりが必要なのです。つまり、自分と血を分けた子供ですね。血を薄めないために、近親婚を繰り返す必要があったというわけです。さらに、最初の媒体は双子が最適だったという記録から、何組か双子以外の自分の子を近親婚させて媒体となる孫を作ったらしいですね」
我が子を魔術のための道具扱いしていた皇祖にリリーはぞっとする。
狂った妄執が自分の体を利用して、脈打っているのだ。グリザドの心臓への嫌悪感はますます募っていく。
「ねえ、この心臓を取り出せないの?」
「取り出したら、あなた、死んでしまいますよ。心臓がふたつあるわけでもないんですから。ザイード・グリムの魔術を解けば、その心臓は普通の人間のものに変化する可能性はありますが……」
シェルの言うことにリリーは目を見張って、前のめりになる。
「普通の心臓にできるの!?」
「え、ええ。あくまで可能性がある、程度なので詳しく施された魔術の構造を見ていかねばなりません」
それでも、希望はあるのだ。皇祖の妄執が消え去れば、誰の意志も自分に介入しなくなれば、それだけでいい。
「魔術、解く。……魔道士はいなくなる?」
「ええ。島民にかけた魔術の維持のための魔術ですから。この島で魔術を使える者はいなくなります」
しかし次に告げられたことに、リリーははっとする。
一度にあれこれ説明されたことと、冷静さを欠いていたせいでそこまで考えが至っていなかった。
魔術が使えなくなる。つまり戦う力を大きく損なうということだ。
剣だけで戦うことはもちろん可能だ。しかし、今までと戦い方がまるで違ってくるだろう。
「魔術がなくなったら、この戦ってどうなるの? 皇家が、皇主の必要ってあるの?」
なによりも、魔術がなくなってしまえば皇家の存在意義すら怪しくなるのではないか。
政は長年、宰相が主導してきた。それでも皇主が玉座にいるのは、この島に魔術をもたらしたグリザドの末裔だからこそだ。
「そうですね。そもそもザイード・グリムが王となったのも、権威欲ではなく魔術の維持のためです。この島には何重にも魔術がかけられているのです。ひとつは魔力の少ない島民の魔力を増幅させる魔術。ふたつめがその魔力を使うための鋳型を作る魔術。これの媒体が神器の『剣』と『杖』となります。できれば、その『剣』も拝見させていただきたいものです」
シェルがバルドが膝に上に置いてある神器に興味津々の目を向ける。
「後。魔術の話」
バルドが眉を顰めて神器を自分の後ろに隠し、続きを催促する。
「はい……さらにその鋳型を定着させ血縁によって繋げる魔術。この魔術の維持には国家を築き、貴族という選民意識を植え付けるのが最も効率がいいわけです。ザイード・グリム亡き後も、人は血統の重要性を重視したわけです。魔力の増幅のための魔術も、島民の元々の資質によるものが大きかったので、力の強い者ほど選民意識も高くなり貴族階級の定着は容易だったでしょう」
ひとり得心してうなずいて、シェルが一呼吸してリリーへ視線を向ける。
「他にも細々とした魔術で全ての魔術が結びつけられています。そして、その全ての魔術を維持するための魔術が、生きた魔術媒体というわけです」
「だから、あたしの心臓が普通の心臓になったら、全部の魔術が解けるのね……」
この国の魔術を支えているものが、この心臓ひとつということはあまりに話が大きすぎて実感がわかない。魔術そのものが失われるということもだ。
グリザドの心臓と共に千年続いた全てが消え去るのだ。
「どのみち、近いうちにこの島の魔術は解けますよ。魔術の要は純血。必ず血を分けた兄弟でなければ、魔術の媒体になりえませんから」
あっけらかんとシェルが言って、リリーとバルドは驚きに言葉を失う。
「……じゃあ、なんで皇祖はあたしを皇都におくるように言い残してたの? そもそもあんな場所に隠れ住んでたの」
もしひとりしか子供が産まれなかった時、皇都へと届けろという言い伝えにのっとり祖父と父は自分を皇都に送った。兄妹の代わりとなる、もうひとりのグリザドの子孫に引き合わすためだ。
もし兄か弟がいたなら、山深く、魔術によって隠された場所でリリーは次の媒体を産むはずだった。
「血縁同士という禁忌を侵す必要がある以上、その定めに従わせるために隔離しておいた方が都合がよかったからでしょう。ザイード・グリムが自分の正体を隠していたので、心臓を引き継ぐ理由の説明もできませんし、島民が興味を示して心臓の引き継ぎの障害になるかもしれませんからね。表向きは皇家を作って隠れ蓑にして、最も重要な純血は隠したのでしょう。それと、この島自体、大地の魔力が薄いので魔力を集めておく必要があったのもありますか」
「大地の魔力が薄いってなに?」
また知らない言葉にリリーは首を傾げる。
「ああ。それを知りませんか。魔力は消費するものですよね。どうやって回復してると思っていました?」
「どうやってて、勝手に元に戻るものだって思ってたわ。ねえ」
魔力は空になっても、放っておく内にまた体に満ちてくるものだと、リリーはバルドと確認する。
「大地には魔力が満ちています。それを息をするように人は吸い込み、体に溜め込むのです。この魔力を体に溜め込みやすい人間は、魔力が高くなるのです。人は体の中にそれぞれ大きさの違う魔力を溜め込む容れ物があると考えていただければよいかと。この島の島民が持つ魔力の容れ物は元々はとても小さかったということです。それに、大地から供給される魔力も少ない。ザイード・グリムは島民の容れ物を大きくして、さらに少ない魔力を体に取り込んで増幅させる魔術を施したということです。もっとも、それには限度があるので、あなたがたが使える魔術が限られているのもそのためでもあります。私のローブにも似たような魔術を施しているんですよ。だから、あれを返していただかないと魔力が全く回復しなくて困ってるんですが」
シェルが懇願する顔をして、暗にローブを返して欲しいと訴えかけてくる。
「それは後で考えるわ。結局、皇祖はなんであたしをバルドに会わせようとしたのよ」
「さあ。私にもまだ解明できていません。薄まった血同士では、魔術は繋げないと分かっていたはずです。それでも、分けたふたつの末裔をひとつにしたい何かがあったのかもしれませんが……以前、あなたを少し調べさせていただいたのですが、お爺様と比べてかけられている魔術が変容していました」
「あれ、あたしの魔術調べてたの? 何が違うの?」
最初にシェルと接触があったのは、『剣』の社での戦の後に眠っていた時だ。額に手を触れられて、目覚めると灰色のローブを纏ったシェルと遭遇したのだ。
「短い間のことでしたので、詳細はまだ解析できていませんが、心臓の受け継ぎの魔術の構文が見当たらなかったんです。ですが、かの天才のやることですから自分の血のふたつの末裔を出会わせることには、何らかの意図があるはずです。……まだ、おふたりに子供はいませんよね。失礼な質問ですが、もう何年ほど性交渉を……」
あまりにも直接的な物言いにリリーは赤面して返答に詰まる。
「ない」
バルドが代わりに答えて、シェルがきょとんとする。
「え。ああ。すいません、てっきりとっくにと思っていましたが、そうですか。申し訳ない。そこから何か推測はできませんか。やはり、きちんと彼女にかけられている魔術を検証しなければ詳しいことは分かりませんね。ということで、拘束を解いていただけないでしょうか」
シェルが愛想よく笑いかけてくるのに、リリーはバルドと一旦牢の隅まで移動する。
「ねえ、全部、信じていいと思う?」
全てが嘘だとは思わない。しかしシェルの全てを信じるきる材料がない。
「……神聖文字、解する。使う魔術、違う」
「それぐらいしかないわよね……ねえ、だいたいなんの目的で大陸から、皇祖の足跡追い駆けてきたの?」
リリーは根本的な疑問に行き着いていて、シェルを振り返る。
「単純に学術的興味からです。自分で言うのも恥ずかしいのですが、私はザイード・グリム以来の天才と呼ばれてまして、ええ。しかし彼の残した数々の魔術を見れば、自分が到底彼に及ぶ魔道士ではない。比べられるうちに、気になって彼が生涯最大の魔術を用い、人生の終わりを迎えたこの島にはるばるやってきたのです」
「興味本位の物見遊山ってことね」
観光しにきたというのは、あながち嘘ではないらしいとリリーは呆れる。
「……移動の魔術、使わなかった」
「ああ、そういえば、今まで移動の魔術を使ってたのに、今度に限ってなんで使わなかったの?」
バルドの問いにリリーもうなずくと、シェルが気恥ずかしそうに顔を逸らす。
「うっかり魔力を使いすぎて移動の魔術が使えなくしまったんです。探求心に気を取られてこんな初歩的な失敗をしまって……。移動の魔術はとても魔力が必要なんですよね。だから八百年ほど前にこの島の観測が打ち切りになったんです」
「交易、魔術……?」
かつて大陸と島とには交易があった。しかし八百年前から島と大陸との交流は断絶されている。
「そうです。ザイード・グリムはとある国王に仕えていたと説明しましたが、その国王が息子に魔術実験を行っていることを知られて、『学院』にも伝わりました。しかし時すでに遅し。ザイード・グリムはすでにほとんどの魔術実験を終えていたのです。結局、『学院』は起こってしまったことは仕方ないと、ザイード・グリムをこの島に追放し彼を含めてこの島を観測することにしたのです。『学院』は彼に罪を押しつけて、歴史上類を見ない大がかりな魔術を見てみたかったのもあるでしょう。その関係で、島民に何か勘づかれてはと、大陸に魔道士はいないということになっていたんです」
そしてそのあと、『学院』は船を魔術で近くまで運んで交易を装い島の様子を観測していた。だが島まで船を動かせるほどの魔力を持つ魔道士の減少や費用の面、そして倫理におおいに反する魔術の実験場に、これ以上関わるのはよくないという当時の風潮で観測は打ち切られたのだとシェルは語った。
「私としてもあなたたちに非常にまだ興味は尽きませんし、できればザイード・グリムの魔術の全容を解き明かしたい。ということで、逃げも隠れもしないので拘束を解いてローブと杖も返していただけませんか?」
シェルが再度懇願してバルドが動いた。
「拘束、解く。部屋はここ。杖とローブは後」
「あ、ありがとうございます。腕が楽になっただけでもやはり違いますね……」
シェルがほっとした顔で強張った腕を動かしてほぐす。まったくもって呑気な囚人だ。
「では、さっそくあなたにかけられている魔術を見ましょうか。それとも、神器からの方が」
まるで餌を前でよだれを垂れる犬のようなシェルの態度に、リリーは渋う顔をして身を退く。
知りたくないことはないのだが、こうも明らかに興味本位で探られるの気持ちが悪い。
「……あたしの心臓が、普通の心臓になったら、魔術はなくなってしまうのよね。そうじゃなくても、あたしが死んだら終わり」
リリーは自分の左胸に手を置いて考える。
どのみち自分は戦場で生きて死ぬつもりだ。魔術がなく剣だけでも戦えるものなら、戦う。
ただ魔術がなくなって戦がどうなってしまうのか予想がつかなかった。
「ええ。そういう魔術ですから。あの……?」
戸惑うシェルにリリーは首を横に振る。
「あたしにかけられてる魔術がどいうものかは知りたいし、知るつもりだわ。この心臓だって、自分だけのものにしたい。でも、ちょっと待って。頭の中がぐちゃぐちゃで、なんだかよく分からないから、また後にして欲しいの」
あまりにも多くのことを一度に知りすぎて、すでに頭の中はいっぱいいっぱいだった。これ以上何か言われても、自分の現実をただ聞き流すだけになってしまう。
「分かりました。また、気持ちが落ち着いたらでかまいません。お待ちしています」
シェルが素直に引き下がって、リリーはバルドと共に牢を出る。
「リー……」
心配そうに名前を呼ばれて、リリーはバルドの手を握る。
「先に報告すませて、やること全部終わらせてからで大丈夫よ。ふたりきりでゆっくり考えたいの」
正直、軍務どころではないが他の兵達もシェルについてせっついてきて、落ち着かせてくれないだろう。
(全部、崩れていくのね)
真実を明かされる度に自分の信じてきたものが、脆く崩れ去っていく。
変わらないのはバルドと一緒にいることだけ。
持っている気持ちも一緒に理由も、状況もなにもかもが変化していても自分はバルドの側にいる。
リリーはこれだけはいつまでも変わらないんだろうかと、バルドと握り合う手の力を強めた。
***
結局、ふたりでゆっくり落ち着ける時間は寝台の上となった。
他の者達にシェルに関しては敵意や害意はなし。ディックハウト側でないことは確かだと告げて処遇は保留となった。
「誰も納得しないわね……」
あまりにも情報がぼやけすぎて、また隠し事かと落胆する重臣らの顔を思い浮かべ、寝台の上で膝を抱えるリリーもため息をつく。
「大陸からの来訪者。混乱」
バルドも対応には困っているらしい。大陸からの来訪者は八百年ぶりということになる。しかも魔道士はいないはずとなっているのだ。
神器の件を隠している以上、下手に真実に触れることを口にするわけにもいかない。そうしてひたすら嘘を重ねる度に、嘘は見え透いたものになってしまう。
やっと固まり始めた重臣達との信頼関係も、これでまた元通りになってきていた。
「正直、あたしも大陸から来たって言われても、よくわからないわ。でも、信じるしかないのかしら……」
リリーは寝台の上に広げたシェルの覚え書きを眺める。
神聖文字と、見たこともない文字。これが自分の知らない世界の一端であることに違いない。
「ねえ、魔術がなくなるってバルドはどう思う?」
「……戦うのに、不足なし。剣があればいい」
「あたしも、剣を握れる限り戦うわ。だけど、バルドよりずっと弱くなるかもしれないわね」
今、体格も腕力の差も大きいバルドと対等に戦えるのは、魔術でもって差を埋められているからだ。剣技をどれほど磨いても、男と女ではやはり差がありすぎる。
ましてやバルドは男の中でも長身で体格もいい。剣の腕も立つ。
「リー、弱くなっても、戦うことを求めるなら、変わらない」
どうやらバルドにとって大切なのは強さよりも、自分と同じほど戦闘を心から楽しめるかどうからしかった。
「それなら変わらないわね。あたしが一番好きなのは戦うことだもの。ねえ、魔術がなくなったらこの戦って、本当にどうなるの? なし崩しで終わって平和になるわけないわよね」
一度振り上げた拳を下ろすのは簡単ではない。五十年も続いた戦なのだから、尚更だ。だが、魔術がなくなってしまえば皇家の正統性を争うという戦の根本があやふやになってしまう。
「魔術喪失は、失望と怒りがおそらく皇家へ向かう。ハイゼンベルク側、ディックハウト側、表立って覇権争い」
「皇家を滅ぼして、こんどは誰がこの国の新しい皇主様になるかで揉めるのね。戦は、終わらないってこと。あたしが死んで、魔術が消えても同じ。戦は続くんだわ」
新たな王が誕生するまで争い続ける。今度はグリザドのように魔術という明確な他者との違いがない以上、戦は何度も繰り返されるかもしれない。
「戦、魔道士のみならず。島民全て、戦をせざるを得ない」
「そうよね。魔術なしに戦うんだったら、誰でもできるもの。……魔術があってもなくても、戦う場はあるのね」
戦い続けられるなら魔術はそう必要でもないかもしれない。
だが、魔術なしの戦うなら自分の死期は早まるかもしれない。バルドよりもずっと早くに、戦場で尽きることも十分にあり得る。
「グリザドの魔術解く?」
「まだ、解けるかはわからないでしょ。あたしにどういう魔術がかかってるのかはっきりはさせるわ」
バルドの側にできるだけ長くいるためなら、終わりまでこの心臓が皇祖のもののままでいい。
リリーはそう考えながら、広げたシェルの覚え書きを片付け始める。
「……この国は終わるのね」
そしてふと心に湧いた言葉を零す。
「終わる。皇国は無意味。皇家に尊厳もなにもなし」
バルドが坦々と告げてリリーを抱き寄せる。
「皇祖はただの頭のおかしい魔道士で、島の人間も自分の子供もただの道具だったのよね……」
この戦はなんの意味のないものだったのだ。
じわりとその真実が胸に染み込んできて、なんとも言いがたい脱力感に全身から力が抜け落ちていく。
皇家の正統性などどうだってかまわない。最初からそうだった。戦場で戦うことそのものだけが、自分にとって意味があるものだ。
だが、血統のしがらみに煩わしい思いもしてきた。これまで振り回されてきたのはなんだったのかと、馬鹿馬鹿しく思えてくる。
(一番振り回されてるのはバルドだわ)
今まで皇主らしく、皇家の威厳を保つとバルドは重荷を背負ってきた。これからも死ぬまで彼が重圧を受け続ける必要などあるのだろうか。
「バルド、もう皇家とか、皇主のあるべき姿とかそういうの、考えなくてもいいんじゃない? バルドの好きに戦を楽しんだらいいんだわ」
虚脱感から抜けると、怒りと悔しさに感情が急に高ぶってきてリリーは声を震わせる。
「……そう、できたらいい」
バルドが抱きしめる力を強める。
「できないの?」
「……できない」
どうして、と問い返しかけてバルドの顔を仰ぎ見た、リリーは唇を引き結ぶ。
悲しげで、苦痛を耐えているかにも見えるバルドの瞳の揺れで、彼が投げ出せない理由に気づいた。
彼が背負っているのは皇家ではなく、ラインハルトだ。
「そっか。できないのね」
リリーは素っ気なく言って言葉を止める。
「……寝る」
バルドがリリーを抱きかかえたまま横になった。
ふたりともかといってそれですぐに眠れるはずもなかった。先行きに不安や怖れがあったわけではない。
元より戦って死ぬつもりだ。
先のことよりも過去のことへの方が大きかった。自分達を煩わせ、窮屈な思いをさせてきたものたちへの様々な感情が複雑に混ざり合って、心が波立った。
自分の中で虫の羽音がしているような、落ち着かない心地のままふたりがやっと眠りにつけたのは考えることに疲れ切った明け方だった。
***
炎天下の下、リリーはあくびを噛み殺してぐったりと日陰に座り込む部下達を見やる。
ここ数日で一番暑い日となった今日の午前は演習だったが、予定は大幅に繰り上げることになりそうだ。
ディックハウトがいつ出てくるかも分からない状態で、あまり体力を削りすぎるわけにもいかない。午後は全員、雑務をこなしつつ待機となるだろう。
さすがのリリーも暑さに堪えて、休息の指示を出した後に木陰へと移動する。
バルドは少し残っている政務を片付けているところで、近くにはいない。シェルにいろいろ問い詰めるのも、午後からになりそうだ。
早く全部知りたい焦りはあまりないものの、やはりグリザドにかけられた魔術のことを考えるとそわそわしてしまう。
「暑い……」
することもなく話し相手もないリリーは、木にもたれて立っているだけで汗が滲んでくる熱気に思わず零す。
「リリー」
どのとき、不意に木の後ろから声をかけられて振り返ると、カップをふたつ持ったクラウスがいた。
「ん、何、ちゃんと草むしりしたの?」
「俺がちゃんとしてると思うか?」
今日こそ草引きに回されていたクラウスが聞き返してくるのに、リリーは苦笑する。
「しないわね。どうせまだ終わってないのに勝手に抜け出したんでしょ」
「監視されてるのに、それは無理だな。暑くて死にそうだからちょっと休ませてくれとは言ってる。ほら、あれ。ちょっと話したいこともあるから、監視かわってくれないか?」
クラウスが示す先に、魔道士がひとりこちらを向いて立っていた。
「まあ、いいけど、……話って何?」
リリーは監視役に交代を言ったあと、クラウスに訊ねる。
「向こうに座れそうな日陰があるから、そこがいい。ゆっくり、話したい」
断る理由もないのでリリーはクラウスが案内する杏の木の側にある、長椅子代わりに置かれた長方形の石の上に腰掛ける。
「……あの灰色の魔道士、リリーと関わりあるのか?」
「それ、探りに来たの。あんたの役に立つことは何もないわよ」
シェルのことをクラウスが知ったところで、離叛に有益になるものは何ひとつない。
例えあったとしても、話す気にはならないが。
「そうか。気になるから、出て行く前にきければよかったんだけどな」
クラウスがいつもより静かな口調で話すのに、リリーは自分の爪先に目を落とす。
「もう、行くの?」
頃合と言えば頃合なのかもしれない。そろそろ大きく戦を動かそうと駆け引きしている最中だ。ハイゼンベルク、ディックハウトのどちらかが動いた時にでも出て行くのだろうか。
「いつまでも、いられないからな。だから求婚の返事、聞かせて欲しい」
返事といっても、最初に答えた時から気持ちはなにひとつ変わっていなかった。
「できないわ。クラウスとは結婚しない」
はっきりそう告げると、しばし沈黙があってリリーは視線だけクラウスへ向ける。
彼は何かを考え込む顔をして、うつむいていた。
「……バルドと、一緒に死ぬんだな。それで、リリーは幸せだって思ってる」
会話というよりも独り言のような口調でクラウスがつぶやく。
「あたしは、バルドの側で戦い続けられればいいわ」
他に望むものなどなにもない。
「俺はもっとリリーに他に楽しいこと、知ってもらいたいよ。……悪い、渡そうと思ってたのに、緊張してたな」
クラウスがやっと表情を崩して、手に持ったカップをリリーに渡す。
中は果実水らしく、甘酸っぱい香りが仄かに漂っている。
「ありがとう。戦は楽しいわ。今すぐにでもこっちから攻め込んでいきたいぐらいだもの」
カップには口をつけずに、リリーは水面を鏡代わりにして笑顔を作る。
戦うことがたまらなく好きだ。それをクラウスはまるで理解はしない。かといってしてほしいとも思わない。
自分にとって一番大事なことは、自分自身が知っていれば十分だ。
「単独はやめておけよ。……ぬるくなるから、冷えてる内に飲んだほうが美味しいぞ」
クラウスがカップに口をつけて、リリーも倣う。暑さだけでなく妙に緊張してしまって喉が渇ききっていた。
酸味が少し強い気がしたが、渇いた喉にはちょうどよい加減だった。
「……これ、なん、の」
半分ほど飲んだところで舌がもつれたかと思うと、強烈な眠気が襲いかかってきてリリーは手からカップを落とす。
それだけでなく、まともに座っていることすらままならなかった。
「本当は、一緒に行くって言ってほしかったんだけどな……」
倒れかけたリリーの体を、クラウスが抱きとめる。
(何か、入ってた……)
もはや目を開けていることすら難しく、瞼が下がっていく。体は眠りについているのに、意識はまだ半分ほどはっきりしているので、指一本動かせないのがなおさら腹立たしい。
「リリーはここにいない方が、ずっと幸せになれる。俺はそう信じてる」
剣帯が解かれ、ローブも脱がされてクラウスにリリーは抱き上げられる。
薄れいく意識の中で、リリーはなぜこうもクラウスに隙をつかれやすいのか悟る。
彼には敵意や悪意がないのだ。そして自分は他人の好意や善意に不慣れで鈍感すぎた。
地鳴りに似た大きな音が、近くで響く。
リリーは音の正体を知る前に、深い眠りに落ちていった。
***
執務室で政務をこなしていたバルドは、轟音と共に砦が揺れインク壷が倒れて机上に真っ黒い水たまりができたのを見やって、傍らに立てかけてある神器を手に取る。
「襲撃……」
砦に魔術攻撃が仕掛けられたことに違いはないが、物見からゼランシア砦から出兵の報告はなかった。
「反乱」
となれば内部しかないだろうとバルドは執務室を出ると、異変に兵達が慌ただしくしていた。リリーを探すがまだこちらに来ていないのか、それともすでに交戦中なのか姿が見えないた。
「皇主様、南側と西側で反乱です! 首謀者は不明、すでに南側で炎将が交戦中ですが反乱に加わる者達が増えて混戦となっています」
「鎮圧。出る」
配下の報告にバルドは早足で戦場へと急ぐ
裏切りに焦燥も怒りもなかった。ただ敵が増えただけのことだ。
魔術があろうがなかろうがとっくに皇家の威厳など、ないに等しいものだ。
皇主の存在意義などとうの昔に形骸化してしまっている中、兄は皇家が傀儡でなく真に王となることを考えていた。全てが無意味だと知っても兄が生きるよすがだったものを、簡単に投げ捨てられない。
「敵……」
西の方へ向かうと壁に穴が開いた廊下で黒の魔道士達が入り乱れて、どちらが敵で味方かわからない状況だった。崩れた瓦礫の下にも黒いローブの端が見えている。
ものの僅かで砦内に甚大な損害が出ていた。
「補佐官」
バルドは手近な者にリリーの居所を問うが、見かけていないと答えられて意識を研ぎ澄ます。
リリーが魔術を使っている気配はない。
違和感を覚えながらも向かってきた風の刃を、一閃して打ち砕く。バルドの姿に反乱者は固まって後退し、味方は主君を護らんとバルドの側に寄る。
これで敵味方の区別がある程度はついた。
かといって双方これ以上は砦の全壊のおそれがあるため、大きくは動けない。
睨み合っている内に、南で戦闘していた集団もこちらへ寄ってくる。ヴィオラ率いる部隊に追い詰められて、味方と合流する気らしかった。
反乱に回った魔道士は千はくだらないだろう。どれだけ被害が出ているかも把握しきれない。
「ゼランシア砦から直に応援がくる!! 真に正しいのはディックハウトと思う者達は我々に続け!」
扇動者のひとりと見られる男が声を張り上げて、動揺が広がる。
これが初陣という者も多く、この状況では混乱してかえって足を引っ張ることになるだろうと思われる状態で、統制の取れたディックハウトに攻められるのは分が悪すぎる。
「皇主様、ゼランシア砦からの出兵が確認されました。向こうの言っていることは本当のようですわ」
ヴィオラがマリウスと共に駆け寄ってきて、硬い表情でバルドに報告する。
「……砦は捨てる。出来うる限り、生存して撤退」
ここは砦を護るより、これ以上兵を失わないことの方が重要だ。
本心はゲオルギー将軍と相対したいバルドだったが、将としてそう判断を下す。
「では、わたくしがしんがりを務めますわ。マリウスは、兵を纏めて撤退の編成を。皇主様、アクス補佐官は?」
ヴィオラが訊ねてきて、バルドは表情を険しくする。
「見ていない。補佐官、見なかった?」
問い返すとヴィオラも怪訝な顔をする。
「見ていませんわ。おかしいですわね。リリーちゃんならすぐに駆けつけていそうなものですのに」
そして近くの兵達に誰かリリーを最後に見た者はと、探すと反乱の直前にクラウスと一緒にいるのを目撃したという。
そういえばクラウスの姿も見えなかった。
「まさか、フォーベック統率官と一緒にアクス補佐官も離叛したのでは」
「補佐官、裏切らない」
マリウスが危惧することに、バルドがきっぱりと返す。
リリーは絶対に自分の側から離れたりはしない。それにまだグリザドのかけた魔術についても全て分かっていないと考えて、シェルも連れて逃げなければということを思い出す。
「灰色の魔道士も、連れて行く」
命じて、リリーは本当にどこに行ってしまったのかとバルドは内心焦っていた。
「分かりました。アクス補佐官とフォーベック統率官はわたくしたちに任せて、皇主様は先にお行きください」
ヴィオラが敵勢に荷担する者が再び増え始め、逃すものかと剣を構える。そしてマリウスの指揮の下、狭い廊下でごちゃついていた味方が、『杖』と『剣』に分かれひとまず隊列らしきもの築かれていく。
『剣』と『杖』が交互に並びバルドは敵勢に背を向ける。
どうせならしんがりは自分がしたかったのだが、いたしかたない。おそらく退路を塞ぐ敵もいるはずだ。
(リー、こない)
クラウスがリリーと正面からぶつかって勝てるはずがない。そもそも戦闘をしている気配がないのだ。
リリーが戦わないなど異常事態である。
「皇主様、東の園庭の長椅子の下にこれが。長椅子の上にはカップがひとつと、地面にありました。何か盛られたのでは」
そして背後の戦闘の音を聞きつつ東にある裏門に向かう途中、先に偵察に行っていた魔道士がローブと双剣を持ってきた。
双剣は間違いなくリリーのものだった。
リリーはなんの警戒心もなくクラウスから渡された、体の自由を奪う薬を飲んでしまい剣とローブをはぎ取られたのかもしれない。
それ以外にリリーが剣を手放すことはないはずだ。
自分もクラウスがこんな手段に出るとは、予測していなかった。
「皇主様!」
バルドは東に向けてひとり駈け出す。理性的になどなれなかった。
クラウスがリリーを遠くまで連れて行ってしまうのを、阻止しなければという思いだけに体を動かされていた。
隊列を大きく乱しながら、バルドは扉を勢いよく開けて外に飛び出す。
「リー」
そして辺りを見回してリリーを探す。もう、門から出てしまったのかと、東門に向かうが石の扉は固く閉ざされていた。門兵も控えたままだ。
「こちらは敵の攻撃はありません。皇主様、今の内にお行き下さい」
クラウスは門から出ていない。ここから出るには西門を通るか、あるいは隠し通路を使うかしかない。
「皇主様、どちらへ!?」
バルドは来た道を引き返す。すぐ近くにこの裏門側と正門側に通じる地下通路の入口があった。
クラウスは西側の正門へ向かっているはずだ。
バルドは砦の中へ引き返す。
屋外の出入り口から地下通路へ降りるより、砦内の出入り口から追った方が早い。
リリーを抱えているならそう急げない。ぎりぎり追いつける可能性がまだある。
小さな部屋が密集する一角へ赴き、バルドはその部屋の敷物を剥いで地下への入口を開く。耳をすませれば足音がして、バルドは暗闇の中をひた走った。
「クラウス!」
クラウスの後ろ姿が見えて、バルドは声を響かせる。
「……よくここだって分かったな」
クラウスが振り返る。彼の腕にはぐったりとしたリリーが抱きかかえられていた。
「リー、返す」
低く唸ってバルドは神器を抜く。
「やめとけよ。いくらお前が強くてもここじゃ剣も振り回せないし、俺に魔術を撃ってもリリーが巻き添えになる。リリーごと俺を殺せないだろう」
余裕ぶった物言いにバルドは歯噛みする。事実、リリーに傷をつけずにクラウスを攻撃することは難しい。
戦うことだけが、自分ができることだというのにそれすらできない。
「……反乱、このため」
だがクラウスはリリーを奪い去るために、この反乱を企てた。首謀者は間違いなく彼だと、バルドは確信していた。
「元からあった計画を乗っ取っただけどな。俺のことが怪しいって言ってる奴らがせっせと反乱の準備してるなんて誰も思わなかっただろうな」
クラウスに注意が集まりすぎていることに危惧は覚えていたものの、他を警戒するにしても砦の中に魔道士が多すぎた。誰が敵で味方か把握しきれないまま数だけ集めた軍勢は、あまりにも脆い。
しかし敵味方を選り分ける余裕は、ハイゼンベルクにはなかった。
この戦は小さな勝ちは収めても、最後には負けるために戦っているも同然なのだ。
「……バルドには何もできない。戦に勝つことも、俺からリリーを奪い返すことも、リリーを幸せにすることも、全部できないんだ」
バルドの焦燥を見透かしたように、クラウスが冷ややかに告げる。
(リーの、幸せ)
戦場で戦い続けることだけが、リリーの望みで喜びだと言い返せなかった。
バルドはローブと剣を剥ぎ取られ、意識もなくただの無力な少女でしかないリリーを見やる。
剣を持たず、ローブの代わりに綺麗なドレスを着て楽しそうにしているリリーの笑顔が脳裏を掠める。
「おい、クラウス、何をもたもたして……くそ、追い駆けてきたのか」
離叛者達が灯を盛って幾人かやってきて、バルドは身構える。
「バルドにリリーは攻撃できないから大丈夫だ。向こうも増援が来てるみたいだから、変な欲出さずにさっさとここから出るぞ」
クラウスの言う様に、自分を呼ぶ味方の声も近づいてきていた。
多少の時間稼ぎとばかりに敵の『杖』が石壁を築いて道を塞ぐ。
「リー……!」
目の前からリリーの姿が消える。
石壁を砕くだけの魔術を放てば地下通路は砦もろとも崩れ落ちて全てを押し潰してしまう。
バルドは壁に拳を叩きつける。
魔術があってもなくても、リリーを取り戻す術はひとつもなかった。
「皇主様! ここにいましたか」
真っ先に駆けつけて来たのは、なぜか水将補佐のカイだった。
「…………水将」
バルドは自分自身への怒りとクラウスへの憎悪で目の前が真っ赤になるのを、深呼吸ひとつでおさめて振り返る。
「あいにく、ブラント将軍は皇都です。神器の件についての返事を持ってきたのですが、アクス補佐官は、クラウスの野郎が連れ去ったと聞いたのですが、神器のことを……」
「神器、関係ない。……水将、いることにして撤退」
補佐官ふたりが戦力外となってしまったとしても、将軍が三人もいるとなればさすがに向こうも砦を落とした後の追撃は躊躇うはずだ。
(リー……)
敵の魔道士がすでに遠くに離れたのか。石壁が消え失せる。
闇に沈んだ長い道筋に、すっと再び追い駆けるだ気力が呑まれてしまう。
この先にあるのがリリーにとって戦場よりもっといい場所なのだろうかと、クラウスがいつか言っていたことが首をもたげる。
「皇主様、今はアクス補佐官のことはお諦め下さい!」
カイに強い口調で窘められて、バルドは鈍い足取りでリリーが連れ去られた方角に背を向ける。
自分が勝手な単独行動をとったせいもあって、すでに東側にも反乱者の兵が回ってしまっていた。
(何もできない……)
襲い来る敵を薙ぎ倒しながらも、バルドの胸にあるのは無力感だけだった。
そうしてゼランシア砦からの兵が到着する一歩手前で、バルド達はモルドラ砦を脱する。
二千の兵を控えさせてあるここから半日の城までたどり着いた時、砦に布陣した初め二万数千いたハイゼンベルク方の魔道士は、一万五千にも満たず三分の一ほども兵を失っていた。
そのほとんどが離叛とみられた。
わずか半日足らずでモルドラ砦は陥落し、ハイゼンベルクはこの日大敗を喫したのだった。
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