午後の暑い盛り、自室でエレンは侍女と共に荷物を鞄へと詰め込んでいた。

「お嬢様。本当に皇都へ行かれるのにこれだけでよろしいのですか」

 華美さのない普段着のドレスがたった三着に下着などの着替えと、書き物の道具や最低限の化粧道具ぐらいしかない荷に、侍女が心許なさそうに訊ねてくる。

 いくら地方の男爵令嬢とはいえ、皇都に行くには夜会や晩餐会用の煌びやかなドレスと宝飾品ぐらいは持っていくのが嗜みというものだ。

「ええ。ほんの数日、友人に会いに行くだけですから。必要な物があれば後で買い足します」

 しかし、皇主が出陣中に派手な催しをやることはなく、晩餐会にも出席する予定のないないエレンはそのまま鞄を閉じる。

 そもそも自分は遊びに行くわけではないのだ。

 ここには二度と戻ってこられないかもしれない。

「エレン。少しいいか」

 閉めた鞄に手を置いたまま物思いにふけっていると、父のベレント男爵が部屋の扉を叩いた。そうして侍女が部屋から追い出されて、エレンは表情を硬くする。

 父にすでに何か勘づかれている可能性は高い。ここ数日手紙を何通も出していることは、知られているはずだ。しかし、皇都に友人を訪ねに行くという嘘に反対はしなかった。

「そろそろ行くのだな。侍女のひとりも連れて行かなくてもいいのか」

「はい。身の周りのことは自分でできますので。父上のご用件は?」

 当たり障りのない会話から、本題へとエレンは移す。

「……お前の忠心はどこにある」

 無駄な前置きは不要だと諦めたのか、ベレント伯爵は娘に厳しく詰問するわけでもなく、穏やかな口調でそう問うた。

「ラインハルト殿下ただおひとりの元にあります」

 そして迷わずエレンは返答する。

 自分が忠誠を誓った相手はラインハルトのみだ。今のハイゼンベルクの皇家に、尽くす忠もなく、かといってディックハウトに与する意志もなかった。

「ラインハルト殿下がお前を侍女にしたいとご命じになったことを断るべきだっただろうか」

 ベレント男爵がため息と共に自責の言葉を吐き出す。

「父上が後悔されようと、私は忠を誓える主君を得られたことを悔やみはしません。皇太子殿下にお仕えしたことは私の誇りです」

 今でも、ラインハルトと出会った春の日を鮮明に覚えている。

 穏やかな陽射しに照らされた微笑みは、儚げでいて強くもあり最初に持っていた病弱な皇太子から想像していた姿とまるで違った。

 必要とあれば弱みを見せることを厭わない、強い意思を持ったラインハルトに敬意を抱き自分の持てる全てを捧げる覚悟をするのに時間はかからなかった。

 たった四年。だけれど自分の生涯であれほどまでに、生きる喜びを見いだせることはこの先ないと思えるほどに色鮮やかな日々だった。

「……そうか。お前に辛い思いをさせただけではなかったのだな」

 父が確認してくるのに、エレンは静かにうなずいた。

 ラインハルトが身罷った時は自分の魂をもぎ取られたかのような痛みと喪失感にも苛まれた。

 だけれどこんな苦痛を受けるぐらいないなら、ラインハルトに仕えなければよかったと後悔することはなかった。

(私は、幸せだった)

 苦痛が教えてくれた過去の幸福の大きさの方が大事だ。

「父上、私はまだ生きたいのです。皇太子殿下と共に」

 生きて見届けろというのが、主君の最後の命だった。

 全てを見るためには滅び行く者の側にも、勝利する側にもつく必要がある。そのために自分は皇都へと向かうのだ。

「そうか。お前はもう自分の行く道を決めてしまったのだな。家を継ぐ気もどこかへ嫁ぐつもりはないか」

 父親の寂しげな表情に、エレンの胸は罪悪感にちくりと傷んだ。

 今から自分が取る行動は、母を早くに亡くした自分を不器用ながらも懸命に育て信頼してくれていた父への裏切りにもなる。

「父上……」

 次に続けるべき言葉が見つからずに、エレンは黙してしまった。

「かまわない。ベレント家が受けた神器の移送という開戦時の役目も、失われた神器の捜索という役目も終えた。神器はふたつとも皇主様の元にある。お前が家を背負う必要もない。……出立の邪魔をした。遅くならないうちに行きなさい」

 エレンは父の言葉に、うなずくことしかできなかった。

 今度はたくさん言葉を思いついたが、今喉の奥からは嗚咽以外漏れそうになかった。

「……行ってきます」

 そうして最後にエレンはそれだけいって、慣れない仕草で父親と抱き合い生家を後にした。


***


 二日に渡る雨の翌日の昼下がり、モルドラ砦の魔道士らはすっかり疲弊していた。

「黴臭いわ……」

 石造りの堅牢な砦のいたるころから漂ってくる不快な匂いに、廊下を歩くリリーは顔を顰めた。

 雨漏りは砦の西と南の至る所で起こり、東側も石の継ぎ目からじわりと水が染み出していて無事なのは北側ぐらいだった。そして雨が止んで蒸し暑い夜を越した後には、黴の猛威が待ち構えていた。

「掃除までは徹底できないから我慢するしかないな。食料庫が無事なだけでもありがたいと思わないと」

 隣を歩くクラウスが苦笑する通り、地下の貯蔵庫は無事なのは不幸中の幸いでなく、最優先で補修が行われていたからだ。

「あんまり酷い所は綺麗にしたはいいけど、ほっとくとまた黴が生えてくるわよね」

「どうせ後はディックハウト側がやるんだろ。壊れた砦も荒れた土地も全部、向こうが立て直さないといけない。ハイゼンベルクはそう考えると、気楽なもんだな」

「そんなことを軽々しく口にするものではありません」

 クラウスの軽口に厳しく返してきたのはマリウスだった。瀕死の重傷を負ったとは思えないほどに、彼は回復していた。しかし、ローブの左袖が上腕の半端な所からは布の厚みしかなく、傷の深さを物語っている。

「マリウス、軍議に出るのか」

「もう動けるので、出ます。フォーベック統率官、ご自分の立場をわきまえ軽率な発言は気をつけるよう、以前も忠告したはずです」

「お目付役の上官と一緒にいるんだから、そう恐い顔するなよ」

 雷軍の三番手のクラウスが二番手のリリーを示す。

 こういう都合の悪い時だけ上官扱いしてくるのに、リリーはほとほと呆れ果てる。

「……アクス補佐官が、フォーベック統率官を監視しているのか? 婚約したとも聞いたが」

 マリウスの怪訝そうな視線が向けられて、リリーは言葉に詰まりクラウスを見やる。

「求婚はしたけど、まだ返事はもらってない。だから、監視役に不適当ってほどもないだろ。マリウスの方はどうなんだ? 一応嫡男として結婚も考えとかないとならないだろ」

「ちゃんと血を残すことは考えていますが、あなたのように私情で選ぶつもりもありません。……アクス補佐官、監視をするならけして気を緩めず、フォーベック統率官の言動に気をつけてくれ。では、私は先に行く」

 まだいろいろと不審感を持っているらしいが、急いでいるらしくマリウスはすぐに行ってしまってリリーはほっとする。

「ジルベール補佐官も、炎将とは違うかんじに面倒くさいわね」

 今までマリウスとは皇都の軍議で時々顔を合わすぐらいで、必要事項をやりとりするぐらいで会話はほとんどしたことがなかった。

 しかしながら今回の戦で規律と忠義を重んじる性格で、自分に厳しく他人にも厳しい性格だとわかってきた。真面目すぎるところはどうにも苦手だ。

「マリウスが喋るのはだいたい小言だからな。それで、求婚の件、ちゃんと考えてみてくれてるのか? いい返事が聞けるまでこっちに居座ることになるかもな」

 クラウスが冗談めかして言うのに、リリーは視線を足下に向ける。

「ハイゼンベルク側に最後まで残ることになるわよ」

 もう返事は決まっているのだ。自分の気持ちが揺らぐことはない。

「そうか。で、俺は軍議にでていいのか?」

 クラウスがいとも簡単に引き下がって、話題を変えてくる。

 今、クラウスとリリーが一緒にいるのもそのためだった。離叛者が戦中に出たことで砦内の緊張感は高まるばかりだ。普段から忠誠心の薄い態度を取っていて、内通者とも噂されたクラウスを軍議に参加させるのはとの声が高まっている。

 結局今日の軍議をどうするかバルドと炎将、他の統率官らが話し合うことになってその間リリーがクラウスを監視しておくことになったのだ。

(でも、あたしをわざわざつける必要もないのよね)

 自分を閉め出しておきたい意図もあるのか、それとも婚約の噂が響いているのか。軍議の前にバルドと会えていないせいで状況がはっきりしない。

 マリウスが急いでいたのもその件かもしれない。

「あたしもよく知らないわ。出陣前と同じ状態になるかもしれないわね」

 戦の前にもクラウスを出陣させるか揉めて軍議にも参加させず、書類にも触らせなかった。今もその時と変わらない。

「じゃあ、俺は仕事しなくていいわけか。でもリリーがわざわざ監視についてるのはなんでだろうな。バルドの命令じゃないよな」

 クラウスがリリーと同じ疑問を口にする。

「知らないわよ。あたしだって、雨漏りとか黴とかの対処してるときに急に言われたんだから。大人しくここで待ってればすぐ分るわよ」

 指定された部屋に辿り着いたリリーは、だんだん胸騒ぎがしてきて眉根を寄せる。

 あまりいい予感はしない。早く説明があればいいのだが。

「そうだな。俺はリリーとふたりきりだから役得だ」

「……変なことしてきたら斬るわよ」

 長椅子に腰掛けようとしたリリーは双剣の柄を握り、クラウスをじとりと睨みつける。

「しないって。今はリリーとできるだけ一緒にいられるだけでも十分だしな。ほら。だから座れよ」

 クラウスが促すのに距離を空けて座ると、笑われてしまう。

「リリーのそういう所、可愛いくていいな」

「もう、うるさいわね。余計なことは言わなくていいのよ、この駄眼鏡」

 小馬鹿にされているのに腹が立って言い返したものの、妙に子供じみていてリリーはますますふて腐れる。

「それにしても軍議で重要なことなんてどうやって向こうを平原まで引っ張り出すかだろ」

「そうね……あたしもバルドも、できるなら明日にでも攻め込みたい気分だわ」

 いい加減、この雨の対処でふたり揃って退屈になっているところだ。

 しかしバルドは皇主としての立場上はできるだけ戦を有利に進めねばならない。布陣も分らない城内に数だけで攻め込むには、向こうの戦力がまだ有り余っている。退路を取ることすらままならなくなるはずだ。

 焦れて向こうから平野に出てくれれば、バルドの魔術で敵を一掃しやすい。

 しかし相手方もそれは分っているだろうので、じっと待っているだけでは事態は動かない。

 どうやって上手く釣り出すかが、問題だった。

(クラウスが知りたいとしたらそこだから、軍議に出させたくないのよね。だけどやっぱりあたしが外されてる理由が分からないわ)

 考えれば考えるほど嫌な予感は増すばかりで、リリーは拳を硬く握ってバルドの訪れをじっと待つのだった。


***


「皇主様、この件は真でございますか」

 その頃、バルドは炎将や他の統率官らから糾弾されていた。

 誰もがバルドの無言と表情に怖じ気づきながらも、これだけはただしておかねばならないといった気迫があった。

「わたくしどもは、まずこれが事実かどうかが知りたいだけですのよ。皇主様、神器の『玉』は皇都にありますのかしら」

 最も多く言葉を発するのはこの場でバルドの次に位の高いヴィオラだった。

 事の発端は少し前に届いた手紙である。バルド以外のこの場にいる全員が同じ内容の手紙を受け取った。

 差出人はでたらめな名前で、皇家が神器の『玉』を紛失した旨と、そのことを知る者のの名、手紙を受け取った者の名が記されていた。

 実際に手紙を見たバルドは、すぐに差出人がわかった。

 兄の側近でもあった侍女のエレンだ。彼女にそのことを隠す気はないらしく、文字も偽っていなければ神器紛失を知っている者の一覧から、彼女の名が抜かれている。

 そして手紙を受け取った者はハイゼンベルクを裏切る見込みのない者達。

(意図、不明)

 結束を崩したいのか、他に目的があるのか不明だった。

 なによりもひっかかるのは、リリーの心臓が神器である事実を知っていながら伏せていることだ。事実を知る者の中に、リリーの名も含まれていない。

「……皇都にはない。別に保管。場所を知るのは俺のみ」

 バルドは考えた末、秘密は真実の中に隠せというラインハルトの教えに従いできるだけ真実に近い嘘を告げる。

「紛失したという事実はあるのですか」

 統率官のひとりが問い正して、バルドは躊躇しながらも是と返す。

「神器紛失はいつ頃なのでしょうか。ディックハウト信奉者の掃討作戦の時に用意した贋物の『玉』は紛失を隠蔽するために用意していたのですか」

 以前、贋の神器をディックハウト側に掴ませ皇都内にいる裏切り者をあぶり出した。皇家が贋物を作っていた以上、本物があると言っても信憑性が薄い。

「……内乱勃発時に回収後、紛失。近年発見」

 一体エレンがどこまで明かす気があるのか読めない。しかしリリーの心臓が本物の神器ということだけは隠し通さねばとバルドは真実に嘘を重ねた。

 皆が息を呑む気配を感じる。

 この戦の発端はハイゼンベルクがディックハウトと交代で即位するという約定を破ったことからだ。ディックハウトの統治力に問題があった主張はすれど、簒奪したも同然だ。しかしそれでも正統性を主張し、強気に出られたのはみっつある神器の内ふたつを手にしていたからだ。

 その大事な神器を紛失していたなどと知られれば、ハイゼンベルクは多くの臣下から正統性を疑問視され早々に戦に負けていただろう。

「いったいなぜ紛失してしまい、今頃になって出てきたのですか。何を明かされようと、我々の忠義は変わりません。我らが欲しいのは真実ではなく、皇主様の信頼なのです」

 炎軍の『剣』の統率官が切々と訴えかけてくるのに、バルドは苦悩する。

 わからない。彼らの自分に対する期待も皇家への忠心もなにひとつ理解できなかった。いったい正しい答はなんなのか。

(兄上は知っている)

 脳裏に兄の姿がよぎって、思わず救いを求めたくなる。いつでも君主としての正しい姿勢を兄は示していた。

「……仔細は典儀長官と相談の上。事態煩雑。神器はふたつハイゼンベルクの手にあることは確か。この場の者に偽りは不必要」

 ここにいる者達が裏切る心配はしておらず、嘘を吐くつもりはないと偽りの宣誓をするものの言葉は上手く伝えきれなかった。

 やはりリリーがいなければ、意思の伝達にもたついてしまう。

「一体誰がこの手紙を送ってきたきたのか、お心当たりはあるのですか。手紙にある人物以外にこのことを知る者はいるのでしょうか」

 そう質問してきたのは、じっと黙って成り行きを見ていたマリウスだった。

「……断定できず」

 まだエレンの目的が見えない内には、うかつには喋れない。

「そんな重大事項を知る者が裏切り者なのか……」

 絶望的なつぶやきが静かな議場ではよく響いて、沈鬱な雰囲気がさらに重苦しくなるばかりだった。

「裏切りならば、なぜわたくしたちを選んだのかしら。もし、裏切るつもりならとうに他の者達に広め混乱させているのではありませんこと」

 ヴィオラの意見に一同が顔を見合わせて、うなずきあいバルドに視線を向ける。

 しかし彼らが納得する解答を持ち合わせていないバルドは、無言でいることしかできなかった。

「……この件は後に再度協議。先決は砦攻略」

 答を先延ばしにされた面々が憂鬱なため息を呑み込んで、渋々と軍議を進めていく。

 しかしクラウスの処遇についての議題で、神器の件が再び問題になる。

「皇主様、宰相殿は神器紛失の件をクラウスに知られていないで、よろしいですわね」

「宰相、神器紛失は隠しているはず。神器発見、宰相に伝えていない」

 そう答えると小さなどよめきが起こった。

 これまで政の主導権を握っていたのは宰相だった。皇主はお飾り同然で宰相の意見に同意するだけの存在。

 しかし皇家の復権を目指していたラインハルトから教育を受けたバルドは、宰相に全てを任せることはしなかった。最重要事項のひとつを皇主が伝えておくべきはずの宰相に伝えていないことは、皇主が宰相主導の政をさせない決定的な意志の現れだとその場の誰もが思った。

 そうして、手紙での告発があったからにせよ、バルドがこの場にいる者を宰相より信ずるに値する臣下とみなしたも同然であると受け取った。

(これが狙い……?)

 そして、バルドも今、偶発的に宰相の政においての絶対的地位が崩れたのを悟った。

 果たしてエレンは自分が最も隠しておくべき秘密を守るために、ほとんどの事実をこの場にいる者達に明かしてしまうことまで予測していたのだろうか。

(兄上……)

 誰よりもラインハルトの側近くにいたエレンなら、ある程度は予測できていたかもしれない。

「では、フォーベック統率官の処遇はいかがいたしましょうか」

 ひとりの統率官が決定打をバルドに求める。

「……軍議に参加させず。今日は剣術指南」

 バルドが答えて、長らくハイゼンベルクで権威をふるっていたフォーベック侯爵家の失墜は確実なものとなる。

 宰相本人に皇主からの信頼もなく、跡目を継ぐ嫡男アウグストは死亡し残る相続人は裏切りの兆候が見られる次男のクラウスと、わずか二歳のアウグストの長子のみだ。

 これで宰相家としてのフォーベック家は終わりだ。

(終わりは誰も同じ)

 しかし、戦に勝てる見込みはすでにない。自分もここにいる誰もがハイゼンベルクで戦う限り終わりを迎えるのだ。

 バルドは議場に集った臣下の顔を見やりながら、果たしてこの軍議にどれほどの意味があるのだろうかと考えてしまう。

 自分には終わりを先延ばしにして、リリーと一緒にいられる時間をつくっているぐらいの意義しかないというのに。

 こんな皇主に忠を誓い、彼らは命を賭けるのか。

(皆自分自身のために戦う)

 所詮、忠心も自己満足だとラインハルトはいつかつぶやいていた。

 そんな臣下の自尊心を利用してまとめあげていくのが君主というものらしい。しかし他人のことなどまるで理解できない自分に、そんなことができるはずもない。

 やはり自分などに兄の代わりが、務まるはずがなかった。

「補佐官、呼びに行く」

 バルドは広い議場がひどく狭苦しく居心地の悪い空間に思えてきて、席を立つ。

「皇主様、アクス補佐官に神器の件は」

「伝えていない」

 ヴィオラが問うてくるのに、バルドは答を投げ捨てて議場を出る。

 リリーとクラウスが控えている部屋に入って、ふたりが一定の距離を空けていることに安堵しながらクラウスの処遇を先に伝える。

「剣術指導って子供のお守りしながら監視されるんだろ。どうせなら見張りを部屋の扉の前に置いて謹慎の方がよかったのにな」

 クラウスが心底嫌そうな顔をして大人しく指示に従って出て行く。

「……どうしたの? 顔色悪いわよ」

 そしてクラウスがいなくなってからリリーが心配そうに顔を覗き込んでくる。

「エレンが動いている。神器の件、幾人かに知られた。リーについてはまだ」

 軍議であったことを話すと、リリーも顔を青ざめさせた。

「皇太子殿下の侍女はディックハウトにつく気なの?」

「不明。宰相は立場がなくなった」

 兄の目指した皇家主導を最後にやりとげたかったのか、それともこの先ディックハウト側へ渡る準備をしているのか。

 それともラインハルトが何か遺言でも残していたのかもしれないと考えて、バルドは自分が見限った兄の影を重たく感じる。

「そう、なの。難しいことはよくわからないけど、神器の在処が分かったらあたしの心臓を取り出そうとする輩が増えるのね」

 リリーが自分の心臓に触れながら、顔を顰める。

「させない」

 抱きしめると、腕の中でリリーが笑う気配がする

「あたしだってそんな簡単にあげないわよ。知られたら知られたで、いっぱい戦えそう。それも悪くないわ」

「……敵、白ばかりでなし」

 すでに水将のラルスがラインハルトの命を受けて一度リリーを狙った。今はまだ大人しくしているラルスだが、神器のことが他に漏れる可能性があると分かれば再びリリーの心臓を狙いかねない。

 ラルスだけではなく、他の者達もそうだろう。

 リリー自身を大事にしている者など、ハイゼンベルクにもディックハウトにも自分とクラウス以外にいはしないのだ。

「誰だろうと、売られた喧嘩は買うのがあたしよ。それで、軍議の続きあるんでしょ」

 リリーが言うのにバルドは腕を解く。彼女のぬくもりや感触が離れていく瞬間が、この頃は苦しい。

 自分とリリーは違うのだという現実を突きつけられる気がするのだ。

「知っている。……リーは神器のことを知らない体裁」

 リリーが戦う機会が多くなるということは、それだけ彼女が戦死する可能性が増えるということだ。

 しかしバルドはそのことは口にはしなかった。

「うん。なんにも知らない振りしておけばいいのね」

 そうしてふたりは軍議の場に戻るのだが、少し遅かったせいか一同の表情は少々不安げだった。

「軍議」

 誰かが口を開く前にバルドが先に告げて、普段と変わらない軍議が始まる。

 しかしその日の軍議はディックハウト側を平原まで引っ張り出す手段については、挑発することや忍耐強く待つべきではとの様々な意見が出たものの、皆考えあぐねるばかりでまとまらなかった。


***


 砦の広場では、五十人近いまだ十三、四の少年少女らが無心に剣術の演習に打ち込んでいた。

 クラウスは指南役を命じられたものの、監視役も兼ねた他の指南役に役目を任せて隅であくびを噛み殺していた。

(今の所実戦で役に立ちそうなのは三、四人といったとこか)

 十五歳未満の兵は平民か弱小貴族の出自で、これが初陣という者達がほとんどだ。魔術を用いず真剣で演習をする子供達は、向かってくる剣先や刃に怯えを見せる者はもちろんいるが、相手に攻撃があたりそうになると怯む者も多くいる。

 一瞬の畏れや躊躇いは戦場で命取りになる。

 この砦の中で突然の反乱が起きてまともに対処できるどころか、混乱を広めるだけになるだろう。

(……リリーと神器の繋がりがはっきりしないと困るんだよなあ)

 今日、エレンから一通の手紙が届いた。すでに手紙の検閲をすり抜けられる手段はこちらでも整えており、ラインハルトの側近であった彼女なら監視の網目も見つけているはずなのに、文面は直接的な表現ではなかった。

 

『今、私は皇都にいますが、『玉』の社近くに住む親類の元に用件があるのですぐに発ちます。空は灰色ですが、雨は降りそうにありません。以前話していた仔猫を連れ帰ろうとおもったのですが、宝石がついた首輪がついていました。盗まれやしないかと心配しましたが、首を切り落とさないかぎり外せそうにない丈夫な鎖でできた首輪でした』


 もはや最初の手紙をやり取りした時の、侍女時代の友人への手紙を装う必要もないのにそんな内容だった。

 仔猫はリリー、仔猫の首輪の宝石は神器の『玉』ということだろう。

(リリーが神器を持ってるだけじゃないないよな。リリーが皇家の純血なのと関わりがあるんだろうが)

 首を切り落とさないかぎりという文章があることが物騒だ。

 曖昧な文面はこちらを焦らしているのか、まだ駆け引きをしているのかもしれない。そうしてもうひとつ灰色の空とわざわざ天気を記した文が不自然だ。

 灰色は、おそらく灰色の魔道士だろうが。

(リリーとバルドがやけに灰色の魔道士にこだわるのもそこか。皇太子殿下もやけに気にしてたしな)

 リリーに狙いをつけている不審人物として気になるのはわかる。しかしそれにしても、あのふたりが気に止めるのには少々不自然だった。

 灰色の魔道士が神器の社をうろついていたことや、皇祖しか扱わない神聖文字を用いた魔術を使うことから、神器が鍵ではないかとは考えていた。

 全てリリーに繋がっている以上、灰色の魔道士の存在は無視できないとはいえ、捜索は滞っている。

(皇家の血統に加えて、神器か……エレンはどうするつもりだ)

 ディックハウトにエレンが知ることとなれば、リリーを連れて行くのは厄介になることは分かる。

 エレンがディックハウトに簡単に寝返るとも思えず、判断に困る。

「フォーベック統率官、あちらの者達の指導をお願いします」

 考え事にふけっていると、声をかけられてクラウスは仕方なしに一旦思考を中断する。

(だけど、時間もないな……)

 いつまでも悠長にハイゼンベルクに留まるつもりもない。

 クラウスは腰の長剣を引き抜いて、緊張する少年少女らへ顔を向ける。

「俺、教えるのは苦手だから、好きにかかってきてくれればいい。実戦積む方が役に立つしな」

 付け焼き刃の剣術の基本よりも相手を斬ることと、切っ先を向けられることに慣れる方が先だとクラウスが促しても、誰も向かってこなかった。

 これだから子守りは嫌なのだと、クラウスは自分から動いた。


***


 書簡を送って五日。昨日には書簡を受け取ったとの連絡がバルドの元に入ったものの、まだ協議したいとのことだった。ちょうどこのモルドラ砦に手紙が届いた日に、エレンが宰相家を訪ねていたらしいが、こちらからの書簡が行き着く前に発ったそうだ。

 エレンはその後、生家のベレント男爵家へ帰る道筋をたどったかと思われたが、帰っていないらしく足取りが掴めなくなっているという。

(南。……ベーケ伯爵)

 バルドはエレンの行き先を考えて気鬱になる。ベレント男爵家とベーケ伯爵家は途中まで方向は同じだ。

 アンネリーゼとエレンが接触したと思われることから、皇都からの手紙でもそのことを危惧していた。エレンの目的も見えず、気分は落ち着かないままだった。

 だが、リリーと一緒に眠るようになってからは不安は和らいだ。

 眠っている間もリリーの気配が側にあるだけで、あんなにも気が安らぐとは思わなかった。

 しかしそのリリーは、今は執務室にいない。演習に狩り出されているのだ。まだディックハウト側に動きもなく、気の緩みも散見されたので引き締めも兼ねて、訓練の強化がされている。

 外でリリーの魔術が暴れる気配に闘争心をかき立てられてうずうずとするものの、バルドは手紙の返信と一緒に皇都から送られてきた政務があって加われない。

「バルド、俺、お前の所行けって言われたんだけど、やることあるか?」

 早くすませれば演習に参加できるかもしれないと思いながらペンを動かしていると、クラウスが扉を叩くことなく入ってくる。

「……ない。訓練」

 クラウスも演習に従事しているはずではと、バルドは訝しむ。

 同時にアンネリーゼとエレンが接触したなら、クラウスは何か知っているのではないかと考えた。

 だがクラウスに訊ねて素直に答えるとは思わなかった。

「俺がなんかやらかしそうって噂が出てて、気が散るから皇主様のお側に控えてろってさ。要は人目につかなくて全員が信頼できる監視役の所にいろっていうことだろうな」

 クラウスは昼寝をすることにしたらしく、長椅子に横になった。

 この頃クラウスへの不審感がますます強まっている。最も疑うべきではあるが、あまり軍内で逆臣の噂が回りすぎても他の離叛者への警戒が薄れてよくない。

「なあ、最近リリー、お前の部屋で寝てるだろ。抱いたのか?」

 クラウスが唐突にそんなことを聞いてきて、バルドは手を止める。

「ない。一緒に寝たほうが落ち着く」

 リリーと深く口づけるだけでは足りず、彼女の肢体をなでて唇で触れることはしてしまっているものの、最後の一線は越えていなかった。

 衝動的にこのまま踏み越えかけても、結局わずかな理性に歯止めをかけられるのだ。

(リーの全部、俺のもの)

 リリーの言葉を頭で繰り返すと、自分の全てが受け入れられた安心感と真実彼女が自分のものなのか確かめたい気持ちが混ざり合う。

「ふうん。お前らのこと、もうかなり噂になってるぞ」

「……一緒にいる方が重要」

 今、神器の問題がある中でリリーと密接にしているのは、周囲からはよく思われていないだろう。しかしもうこれ以彼女と過ごす時間を削りたくはなかった。

「面倒ごとを避けるとか言ってられないのか。戦況もこんなだしな。俺がお前の立場だったら抱くけどな。そんなに子供ができるのが嫌か? それともまだリリーが受け入れてくれないのか?」

「クラウスに、関係ない」

 子供がいたらリリーは自分のものでなくなってしまうことも、己の血を分けた子を憎んでしまうのも恐かった。

 だけれどそれだけでない何かが自分を抑制していた。

(リーと俺は、同じでない)

 リリーからはっきりと告げられた言葉が蘇って、バルドは瞳を曇らせる。

 彼女の全てが自分のものだとしても、同じにはなれない。

 そう思うとリリーの全てに触れるのに躊躇いが生じてしまうが、その理由は自分でもよくわからなかった。

「俺としてはこのまま手はつけないでおいてくれたほうがいいから、それならそれで耐えてくれよ」

「…………昼寝」

 リリーを欲しがっていることを隠さないクラウスに、バルドは苛つきながら早く寝ろと促す。

「俺だって寝てたいんだよ。でも暑くちゃな。バルド、灰色の魔道士探しくらいなら俺がしてもいいんじゃないか? そっちはそれほど重要なことでもないだろう」

 クラウスが起き上がって、バルドは表情を常より強張らせる。

 自分から仕事など滅多にしないクラウスが、自ら手がかりもない人間ひとりを探すと言い出すのは不自然すぎた。

「なんだ、それ、重要なことなのか?」

 返答が遅れているうちにクラウスが確信を得た顔をする。

「…………手がかりなし。無駄足」

「確かになんの手がかりもないし、お前だって直接見たわけでもないか。それにしても、敵方の出方待つのは退屈だなあ」

 灰色の魔道士の重要性を確認できたからかクラウスは、そこで話をやめて何気ない動作で部屋を出ようとする。

「待機」

 本当は部屋から出ていってくれるのが一番よいわけだが、そうも行かずバルドはクラウスを嫌々制止する。

「やっぱり駄目か。砦の見廻りも駄目か? 四、五日前から貯蔵庫から食料が減ってるってらしいし、訓練中にこっそり盗み食いしてる奴がいるかもしれないぞ」

「貯蔵庫?」

 その話題は初耳で、バルドは聞き返す。

「報告上がってないのか? パンや乾し肉が少しだけ減ってるっていう話だから、誰かが勝手につまみ食いしてるだろうってことで上には報告してないのか、犯人見つけてから報告するつもりだったのか。まあ、職務怠慢だな」

「兵糧、重要。報告すべし」

 たかがパンひとつ、乾し肉一欠片でも兵糧がいつの間にかなくなっているのを、見過ごすわけにもいかない。

 面倒なことだとうんざりしていると、兵のひとりが気色ばんだ顔で部屋を訪ねてきた。

「ディックハウトからの使者です……我が軍の魔道士の首が十、運ばれて来ました」

 そうして歯を食いしばり声を絞り出されたのは、ディックハウト側が動いた報告だった。


***


 演習でひとしきり暴れたリリーは、フードを取り払い顎をつたう汗を手の甲で拭った。

「……本当にあたしの好きにやってよかったんですか?」

 そして演習に加わった魔道士の一部が、すっかり怯えた顔をしているのを見て隣にいるヴィオラを見上げる。

「これでかまいませんのよ。リリーちゃんが皇主様のお気に入りだから補佐官になったわけではないと知られればいいんですの。……できればリリーちゃんも寝る場所は考えてもらいたいのですけれどねえ」

「…………どこで寝ようがあたしの勝手です」

 むくれて答えると、ヴィオラがため息混じりに苦笑する。

 どうやらバルドの部屋で夜を明かしていることで、リリーをよく知らない魔道士達の間で皇主は実力や血統ではなく私情で補佐官を選んだのは間違いないと噂されているらしかった。

 先日のゼランシア砦への突入の際、マリウスが深手を負ってリリーが軽傷だったことも皇主の愛妾に功績だけ持たせるためだけの人選だったのではと言う者もいるそうだ。

 出陣した者でもリリーが戦闘中の姿を見ていない者もいる。

 大がかりな作戦の後、長引く待機期間の中で緊張の糸が緩む中で退屈しのぎの噂話といったところだ。

 リリーを知っている者が埒もない話だと窘めても話は収まらないだろうということで、演習で好きなだけ暴れてもいいとヴィオラから言われたのだ。

(くだらないわ)

 これはリリーのためではなく、バルドの皇主としての威光を護るためだという。

 うんざりするほど周囲は立場や見栄を尊重する。

(だけど、好きに戦わせてもらえたのはよかったわ)

 言われた通りリリーは遠慮なしに魔術を放ち剣を振るった。

 久しぶりということもあって、体を動かすのも魔力を放出するのも楽しくて戦闘にのめりこんだその結果が、一部の噂話を鵜呑みにする集団の怯えぶりである。

「リリーちゃん、まだ戦う余裕はあるかしら」

「戦えます。だけど、他はもう少し休ませないと無理そうですね」

 リリーはぐったりと地面に座り込んでいる兵達をみやる。炎天下の演習はさすがにリリーも堪えているものの、戦い始めたら戦闘に没頭して暑さも疲れも忘れられる。

「演習はもう終わりですわよ。敵襲があっても動けないでは困りますもの。皇主様が退屈されていらしたら、わたくしとリリーちゃんでお相手してさしあげた方がよろしいかと思いますの」

「それなら、やります」

 ヴィオラには他にも目論見がありそうだと思いつつ、リリーはバルドと久方ぶりに魔術を交えて戦えるのならとふたつ返事をする。

 空いた時間でふ誰にも邪魔されないよう裏庭で剣を合わせることはしているものの、やはり魔力を発散できるのとできないのでは楽しさが大違いだ。

 バルドも喜ぶだろうとリリーはいそいそと執務室に行こうとする。だが、ディックハウト側からの使者が首を届けにきたという報告で足を止められた。

 そうしてヴィオラと共に使者が待つ広間に行くと、バルドとクラウスを含め他の統率官らも集まっていた。

 バルドだけが神器を抱きかかえて椅子に座し、彼の右手側に雷軍士官、左手側に炎軍の士官が縦一列に立って並んでいる。

 皇主に一番近い場所が両側にひとり分ずつ空いていて、バルドを除くと雷軍で一番手になるリリーと炎軍の将であるヴィオラがそこに収まる。

「見た顔ですわねえ」

 バルドの真正面にずらりと並べられた十の木箱の前に鎮座する、白いローブを纏った中年の男の顔にヴィオラが忌々しげにつぶやく。彼女の隣に立つマリウスの表情も険しかった。

 どうやら離叛した者のひとりらしいが、リリーには見覚えはなかった。

「……誰?」

 リリーはすぐ隣にいるクラウスに小声で男の正体を問う。

「そこそこお偉いさんの三男で炎軍の仕官。この間の戦で一応戦死扱い。離叛してたんだな。覚えてないか?」

「……言われてみたら見たことあるかもしれないわ」

 そう言いつつも他人への感心が薄いリリーにとって、このぐらいの年格好の人物は同じ印象しか残っておらず、果たしていま記憶に引っかかっているのが使者の男であるかは怪しかった。

 しかし知らないということは、中の上ぐらいの立ち位置だろう。

「首、検分」

 バルドが静かに告げ、使者が箱を持ち上げる。

 現れたのは氷付けの首が十。この暑さで溶けた歪な氷の塊の内にある首は精巧な作り物にも見えた。全て雷軍の魔道士で、こちらはリリーにも見覚えのある顔ばかりだった。

 だが怒りや悲しみはわいてこない。

 どれだけ日常的に接することがあっても、彼らは狭い自分の世界の外側にいる者達だった。そんな彼らに感傷がないためでもあれば、死に慣れすぎているためでもあった。

「皇家の正統はディックハウトにあると、認めぬ者達の首でございます」

 使者が臆することなく言って、その場の空気が殺気と怒りに澱む。同士を討たれ蔑まれたことに感情を動かさないのはリリーの他に、バルドとクラウスもそうだった。

「要求」

 バルドが眉一つ動かさずに問う。

「御首をいただければ、全ての者に許しを与え臣下に迎える所存をお伝えに参ったのです」

 露骨すぎる挑発だった。

「この痴れ者が!」

 挑発と分かっていながらも雷軍の部隊長のひとりが声を荒げたのを皮切りに、一斉に怒号が吹き出す。

 怒りと憎しみを一身にぶつけられながらも、使者の男は顔色一つ変えなかった。

(炎将も補佐官も止めはしないのね……)

 ヴィオラとマリウスはただじっとことの成り行きを見ているだけで、上官として制止する気はないらしい。マリウスの方は震えるほど強く拳を握っているのを見れば、裏切り者の部下を叱責したいのを必死に押さえているかに思えた。

「静粛」

 バルドが立ち上がり剣先で床を叩く。

 音よりも大柄な体をさらに大きく見せる不機嫌な雰囲気がもたらす威圧感に、ぴたりと怒声が止んだ。

「……ご返答はいかに」

 さすがに使者も表情を引きつらせて返事を求める。

「俺の首が欲しくば、戦って獲るべし」

 声は抑揚がないながらもバルドの眼光にちらつく戦いへの狂気は、味方すらも本能的な恐怖を与えるほどのものだった。

「承知いたしました」

 息を呑んで返事をする使者の顔からは血の気が引いていた。

 どれだけ高い矜恃を持っていようと、戦意に満ちたバルドの視線を向けられれば怯えずにはいられないだろう。

(今のバルドと戦いたいわ)

 ただひとりリリーだけは戦闘への欲求をかき立てられていた。

 やはり実戦の時のバルドの雰囲気が一番、闘争本能をそそられる。この後は長々と軍議になって剣を合わせる時間がないことが、つくづく惜しい。

 気分が上がった分、落ち込みも激しくリリーは思わずため息を零しかけて呑み込む。

(この使者どうするのかしら)

 こうなれば首を撥ねられるてもおかしくはない。

 リリーがそう考える内に、何人かが使者を首だけにしてゼランシア砦へ送り返すべきの声が上がる。

「わたくしとしても、処分を下したいと思いますけれど、挑発に乗ってさしあげるのも癪ですわねえ。皇主様、いかがなさいます?」

 ヴィオラが問うと全員の視線がバルドに向かう。

「不要。手間。いずれ戦」

 言葉が少なすぎたらしく、今度は補佐官であるリリーへと説明を求める視線が向けられる。

「首だけにしたら送り返すにも、こちらから人を出さないわけにもいかないのが手間だそうです。だったら後で戦場で首を落とせばいいってこと、で、いいですか、将軍」

 リリーが確認をとるとバルドが鷹揚にうなずいて、使者だけ部屋の外に待機していた魔道士数人に連れられ外へ出された。

「皇主様、こちらから仕掛けるということですか」

 残された同胞の首を見つめていたマリウスが言うのに、バルドはしばし考える素振りを見せる。

「軍議、弔いの後」

 バルドの視線がクラウスに一瞬向いて、気が急いていた者達もやっと冷静さを取り戻した様子でそれが先決とうなずく。

(クラウスは、軍議に参加させられないのよね)

 ごくごく自然に隣にいるのでクラウスが軍議から外されていることを、リリーもすっかり忘れていた。

「わたくしが火葬させていただいてよろしいでしょうか」

 首だけになった骸は燃やされ灰にして遺族に返すのが通例だ。

 将であるヴィオラがその役目を担うというのは、戦死者にとっても最後に与えられる栄誉でもある。

 その後、改めて箱に収められた首は砦の広場で多くの同胞に見守られながら皇主であるバルドからねぎらいの言葉を手向けられ、ひとつずつ火葬されていった。

 そうしてその日の夜の内に、翌日の出陣が決まったのだった。

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