ゼランシア砦での第二次の戦から二日後。皇都にも戦況が伝えられ、軍議が開かれた。

 辛くも目的は果たしゼランシア砦の防衛力を削いだとはいえ、戦死者の数の中に生きて向こうへ寝返った者があるとの報告に重苦しい雰囲気となった。

 軍司令部の幹部であるジルベール侯爵は、嫡男のマリウスが片腕を失ったことに、敵将相手によく戦ったと平静な態度だった。

 そして皇都でも具体的な離叛者への打開策も出ず、軍議は終わった。

「マリウスは片腕なくしても帰還する気はなしか」

 水将補佐官のカイは軍司令部の建物から出て、陽射しの強さに目を細める。

 戦線離脱する重傷者や遺体は明日明後日には皇都につくらしいが、その中にマリウスの名はなかった。

「片腕あったら魔術は使えて、指揮も取れますからねー。それにしても、離叛者が問題だなあ。宰相殿は皇主様がご不在をいいことに、また我が物顔で議会をとりしきってるけど、ちゃんとアンネリーゼ嬢の見張りはしてるのかなー」

 カイの傍らで、不機嫌そうにつぶやく青年は水将のラルスである。

 ラルスは皇主が絶対的な君主であらねばならないと考える皇家派だ。宰相に言いなりになる傀儡は皇主と認めず、政治の主導権を握れる真の主君を求めている。

 そして、ラルスは宰相に従わないラインハルトを主君と定めていたが、病没してしまった。しかしラインハルトから教育を受けたバルドも、十分に理想に値するらしい。

(こいつの理想も正直よくわからねえけどな)

 ラルスは子供の頃から魔力を神聖視している。この奇蹟の力を与えた皇祖の末裔は、崇められるべきで誰の意のままにも動いてはならないらしい。

 確かにバルドはラルスの理想に近く、宰相の傀儡にはならない。かといって他の人間を信用することもなく君主としては問題が多すぎる。

「……さすがに、嫡男の首を撥ねたアンネリーゼ嬢に警戒しないわけないだろ」

 カイは会話に意識を戻してそう告げる。

 ベーケ伯爵の子女で忠誠の証に宰相家嫡男に嫁いだアンネリーゼは、夫の首を魔術で切り落とした。凶行に及んだ理由は、夫がクラウスを処分しようとしたからだという。

 アンネリーゼは、夫よりも歳の近い、クラウスの方に長年想いを寄せていたらしかった。

「だといいんですけどねー。まあ、クラウスが一緒にいるよりは、使い物にならないとは思うよ。僕の方でも見張っているからアンネリーゼ嬢が何か失敗してくれればいいけど、家の中の行動までは見張れないからなー」

 ディックハウトの内偵とも噂されたクラウスを戦に参戦させるかは、出陣の直前まで揉めたがアンネリーゼと引き離していた方がいいという意見の元、結局参戦させた。

 クラウスがなんらかの謀略を企てて入れ知恵えしていたとしても、これまで箱入り令嬢だったアンネリーゼがひとりで滞りなく事を進められる可能性は低い。

 ラルスはアンネリーゼの失態から、クラウスの計略を事前に知ることができるかもしれないと考え、独自にフォーベック邸に怪しい人の出入りがないか確認している。

 今の所は問題ないらしいが、手紙や使用人などを使われると把握しきれない。

「ベーケ伯爵が寝返るかどうかが問題だな。伯爵の方はハイゼンベルクに忠義だてしてるようだが……」

「問題は御嫡男。父親を立ててハイゼンベルク側にいるけど、いざとなったらどう転ぶか分かりませんよ-。伯爵もいいお歳ですし、いつころっといっちゃっても不自然でもないですしね。家あっての主君か、主君あっての家かはそれぞれだからなあ」

 いざとなれば嫡男が家のために、父親を『病死』させることもありうる。

 アンネリーゼの件とて、宰相家嫡男は病死として公表されている。ここ近年で当主が病死し代替わりすると同時に主君まで変わった家がいくつあったことか。

(家あっての主君、主君あっての家、か)

 カイはラルスの言葉を胸の内で繰り返す。

 貴族の落胤で市井育ちで二十歳まで実父を知らなかったカイは、貴族の子弟という自覚は薄い。ただ戦死した兄の遺児である甥に、兄の代わりに育てた分愛着がある程度だ。

「……カイは、どうします」

 兵舎のすぐ手前までくると、足を止めてラルスが何気なく問うてくる。

「どうするって今さら何言ってやがる。俺は家も何もないし、もう十分だ。ここでてめえに最後までつきあってやるよ」

 妻はとうに戦死し、甥もハイゼンベルクに最後まで忠義を尽くす気でいる。

 これといって自分ひとりで生き延びる理由もない。

「それなら心強いですね-。僕はひとりより、カイがいてくれる方が助かるんですよねえ」

「てめえはもうちょっとひとりでどうにかなれよ。三十過ぎていつまでたっても手間のかかるガキでいるんじゃねえよ」

 ラルスとも、かれこれ二十年近い付き合いだ。

 父と交流のあったラルスの父のブラント伯爵に、束の間遊び相手を頼まれたのがきっかけだった。

 どうも教育係に馴染まず、他人とも馴れ合わない息子に若干の不安を覚えていたかららしかった。どんな貴族の子弟とも馬が合わないので、市井育ちで親交のがあり信頼できるベッカー伯爵の息子ということで自分に目をつけたそうだ。

 ラルスは人見知りかと思えば、客人に対して愛想もよく、剣も学問も独学で十分すぎるぐらいにできがよかった。

 ただ十歳という歳の割には妙に達観した子供ではあった。

 魔術や皇家への神聖性もその頃から、独特のものだった。ブラント家は祭事を司る典儀長官の家系なので、その影響も少なからずはあるのだろうが。

 熱心に魔術や皇祖のすばらしさを説いて聞かされても、まったくもって理解不能だった。

『さっぱりわからねえ……』

 その答がラルスの興味をひいたらしかった。

 今までは理解を得られても噛合わないか、理解する振りをする人間ばかりだったらしい。その件についてわかり合えることはなかったものの、付き合いは続いた。

 そして気がつけば最初は部下だったラルスは自分の上官になっていた。

「僕もそれなりに大人になったと思うんですけどねー」

「なってねえよ。ほら、仕事するぞ、仕事。補給部隊は俺らの管轄だろう」

 カイはラルスの背を押して、兵舎へ押し込む。

 兵舎では、すでに多くの魔道士が動いている。戦が終わる頃に黒いローブを着ているのは一体どれぐらいいるのだろう。

 カイはとりとめのないことを思いながら、ラルスと共に部下達に指示を与えて職務を黙々とこなしていった。


***


 アンネリーゼはクラウスが無事だという報告を受け、安堵しながら父と兄への手紙を認めていた。

 表向きに自分の立場は夫に先立たれた、不幸な未亡人である。監視の侍女は常時ふたりついているものの、そう不自由はない。手紙も検閲されているが、見られて困る内容はなかった。

「これをお願い」

 アンネリーゼは手紙を侍女に渡してペンを置く。後はすでに宛名と署名がされた封筒に使用人が手紙を入れて封蝋をして生家に届けられるのだ。

 だが使用人の幾人かにはすでにクラウスの手が回っている。

 兄への手紙の中身は別のものへすり替えられる。

 父はハイゼンベルクに義理立てしているが兄は違う。自分が嫁ぐ時もそうまでして共倒れしたいのかとぼやいていた。

「アンネリーゼ様、こちらを」

 ひとりが手紙を部屋の外に持っていった隙に、もうひとりの監視役がこっそりとクラウスからの手紙を渡してくる。手紙の体裁はモルドラ砦にいる彼女の夫からとなっているが、内容はクラウスからの伝言である。

 砦攻略は順調という内容だった。

 あえて現在ハイゼンベルクが攻めているゼランシア砦とは記されていない。この手紙が示す砦は、ハイゼンベルクが拠点とするモルドラ砦のことになる。

 後はいくつか今後の指示も、日常の雑談に紛れさせて示してあった。

 手紙を運び出した侍女が戻ってくる音に、アンネリーゼは手紙を内通者に戻しながら返信の内容の指示を出す。

「お生まれになったそうですよ。お嬢様だそうでございます」

 そして、戻って来た侍女がそう告げる。

 殺した夫には自分の他にふたりの妻がいた。ひとりは男児を二年前に産み、もうひとりは身重だった。

「そう。お祝いを差し上げないと」

 産まれたら何か贈りたいので教えて欲しいと事前に頼んでいたアンネリーゼは、にっこりと微笑む。

 監視役の侍女がアンネリーゼの完璧すぎる美貌を、気味悪がりながら眉を顰める。

「玩具か着るものがいいわね……」

 どうしようかしらとアンネリーゼは、考える。

 外から何かを持ち込むのに利用するためではあるが、祝う気持ちは本物だった。

 彼女たちのおかげで自分は夫の子供を持たずにすんだし、寝台を共にすることもほとんどなくなったのだ。その礼はしておかねばならない。

(わたくしはクラウスと幸せになるの……)

 アンネリーゼは近づいてきているはずの自分の理想の未来を、ひたすらに夢見るのだった。


***


 ゼランシア砦の攻防から五日。

 戦線離脱する重傷者や戦死者は皇都に送られ、残ったマリウスを含む重傷者の容態も落ち着いてきて、忙しいようで退屈な毎日になりつつあった。

「ねえ、あんたまだここに居座るつもり?」

 軍議も訓練もなく、物資の確認作業を終えたリリーは執務室の長椅子に横たわっているクラウスに目を向ける。

「だって、どうせ監視ついてるんならリリーに見られてた方がいいだろ」

 離叛者への警戒が強まる中、要注意人物となったクラウスには監視の目がつくことになった。無論、本人には告げてはいないが早々に気づいたらしくこの頃はずっと一緒にいる。

「……邪魔」

 執務机のバルドが不服そうに言う。このせいでリリーとふたりきりでいられる時間が少なくなって、彼の機嫌が悪かった。

「皇主様の目の届くところにいた方、みんな安心するんだから我慢しろよ。俺だって人に見られてばっかでて窮屈なんだからな」

「どう見てもくつろいじゃってるじゃないのよ、この駄眼鏡」

 重要事項に関わる書類仕事にも関わらせるわけにもいかず、こうしてだらけさせておくしかないのだ。

(あの灰色の魔道士の件もなんとかしなきゃいけないのよね……)

 リリーが困っているのはその件についてもあった。

 戦を終えた翌朝、部屋の外に人の気配があるので訝しんでそっと様子を見ると、バルドが扉の横の壁にもたれて眠っていて驚いた。事情を聞くと、また灰色の魔道士がまた近くをうろついているかもしれないというのだ。

「やることないしなあ。例の灰色の魔道士、また近くうろついてるんだろ。暇だし、俺が探してもいいんだけどな」

「外に出せるわけないでしょ。何人か出してるからいいの」

 不審人物として砦周辺の見廻りにも、灰色のローブを着た魔道士には注意するようには言っている。

「結局、目的はなんなんだろうな……」

「そんなの捕まえてみないとわからないわよ」

 リリーは灰色の魔道士を捕捉する目的を知らないクラウスに、うかつなことを喋ってしまわないよう気をつけながら答える。

 神器が目的かもしれないというのが大方の予想だが、実際に本人に聞かなければ分からない。

(見つけたら、あたしの心臓の神器をどうにかできるかしら)

 自分の心臓は、かつては皇祖であるグリザドのものだった。血の繋がった兄弟同士で子を成し、延々と千年ものあいだ引き継がれてきたのだ。

 兄弟のいない自分は、最も近しい血縁であるバルドを血を繋ぐための伴侶として求めているという。

 他人の心臓が自分の中で動いて、勝手に意志を操られるなどという不快感を取り去りたかった。

「そうだな。なんならリリーが出てった方が引っかかりそうだから、後で一緒にその辺り見廻りに行かないか? 灰色の魔道士は探せるし、俺の監視も一緒にできる」

「それもいいわね。ねえ、今出てもいいかしら」

 やることはあらかた終わっているので、リリーは上官であるバルドに訊ねる。

「俺も行く」

「じゃあ、暇つぶしに三人で砦の周りうろうろしてみる? あ、炎将にはちゃんと言っておかないとね」

 そうと決まったらと、リリーはそそくさと片付けを始める。

「お前ら、戦闘できるかもしれないとか考えてるだろ」

 クラウスの指摘に、リリーとバルドはもちろんとうなずく。

 体勢の立て直しや物資の補給が整うまで進軍はできない。向こうも簡単には攻め入ってこないだろうということで、しばらく戦闘になる見込みは薄い。

 戦える機会があるならいいに決まっている。

「いいじゃない。炎将と話すの任せたわ。あたしもバルドも、炎将と話すのあんまり得意じゃないし」

「お前ら、話すのが得意な相手いないだろ。まあ、いいけどな」

 クラウスがだるそうにしながらも立ち上がる。

 そうして三人揃って砦周辺の見廻りに向かった。


***


 外は薄曇りで陽射しは弱いが、湿り気を帯びた暑さがあった。時々髪を揺らし頬を撫でる風も水気を含んでいて重たい。

「雨、降るのかしら」

 砦の城壁沿いを歩くリリーは首をもたげて眉根を寄せる。いつもより髪の癖も強くなってきているので、これは一雨くるかもしれない。

「雨、嫌い」

 湿気が嫌いなバルドも不愉快そうだった。

「降り出す前に戻らないとな。夏場でもずぶ濡れになるのは俺も勘弁したい。でも、この辺り潜伏できそうな場所は近くにないよなあ」

 このモルドラ砦周辺は牧草地帯で開けている。楡の木が所々見える他に、羊や山羊などの家畜がいる。家畜小屋と住人の住処は砦より遠く離れた場所にぽつんと見えるぐらいで、あたりは緑一色だ。

「近くの住人の所は見回ってるし、こんな所灰色のローブでうろついてたら目立つわよね……」

 砦周辺は人間より家畜の数が圧倒的に多いほど、住人が少ない。余所者がいたならすぐに気がつくはずだ。

 元々なんらかの魔術であちこち移動している灰色の魔道士は、またどこかへ行ってしまったのかもしれない。

「……それにしても結構、傷んでるわね」

 ひと休みがてらに城壁にもたれかかったリリーは、ふと壁の傷み具合に気づく。

 石で積み重ねて築かれた高い城壁は、苔生しところどころ削れ欠けている所が見られる。砦の内部もバルドやリリーのいる上位の者にあてがわれている部屋は比較的綺麗だが、あまり手入れが行き届いているようには見えなかった。

「ここは決まった城主もいないからな。名目上は皇主様が城主で、二、三年置きに砦の管理者が変わるけどそこまで整備されてない。この五十年はゼランシア砦があれば十分だったしな」

「この砦なんで建てたんだっけ?」

 士官学校時代に史学でモルドラ砦の成り立ちも習った覚えはあるものの、試験で合格点を出すために覚えただけですぐに忘れてしまった。

「八百年前。マールベック伯爵と対立」

 答を投げたのはバルドだった。

「うーん、あー、建国してからも、領主同士で小競り合いは結構あった……駄目だわ。全然覚えてない」

 しかし細切れの解答では答えにたどり着けずリリーは頭を抱える。

「グリザドが国を治めるまでは島はいろんな領主が狭い土地を奪い合って争ってたのが、建国後もあったんだよ。それで、マールベック家は交通の要所に先祖代々の砦を構えてるから、皇家に対しても強気だったんだ。で、皇祖様が死んで権威が薄まってきた八百年ぐらい前に増長して、それに張り合うために建てられたのがモルドラ砦。結局、マールベック家が膝を折ってからは、そこまで重要拠点扱いもされたなかったからな。ここ数年で急に重要性が高まったけど、補修が追いついていなくてこの傷み様ってわけだ」

 詳しく説明してくれたのはクラウスの方だった。

「ふーん。でも、結局皇祖様のおかげで国がまとまったようで、あんまり纏まってなかったってことかしら」

 グリザドによってこの島はひとつの国となったとはいえど、結局争いが絶えなかったのなら建国前とさして変わらないのではないだろうか。

「……皇家の権威は、魔術。戦以外で魔術は不要」

「まあ、そういうことだな。皇祖様が国を纏められたのは、この島の人間に魔術を与えたからだ。魔術を使うことで与えられた力の偉大さを知り、皇家に畏れと敬意を抱かせる。下手に皇家に逆らったら、魔術を取り上げられてあっという間に命も領地も失うかもしれない。そういうやり方で、千年もやってきたんだよな、この国は」

 クラウスが呆れ混じりにつぶやく。

「どっちみち、戦はなくならないってことね……今の皇家同士の戦が終わったらしばらくはそんな小競り合いしてる余裕はなさそうだわ」

 五十年にわたる戦で疲弊しきった中で、領地争いなどできるはずはない。しばらくはディックハウトの皇主を祀り上げて、荒れた土地を整え財政を立て直すことで手一杯になるだろう。

「戦闘があるとしたら、残党狩りぐらいだろうな。……だいぶ曇ってきたな」

 クラウスが見上げた空は、空を出た時よりも雲が厚くなってきていた。

 三人は雨が降り出す前に門へと帰り着くために再び歩き出す。

「皇祖様ってなんなのかしら」

 リリーは未だに自分の中で生き続けているらしい遠い祖先の鼓動に意識を傾ける。

 どこからやってきたかもしれない男は、人々に戦う力を分け与えこの島に君臨した。一体何の目的で彼がこの島に現れ、国を築いたかは誰も知らない。

「こんな島ひとつ手に入れても特にはならなそうだよな。よく知らないけど、大陸っていうのはこの島よりもっとずっと大きいんだろ」

 島から遠く離れた場所に広大な大陸がみっつあるという話だが、数百年交流がなく大陸が実際どんな場所であるか知る者はいない。

「……灰色とグリザド、似ている」

「そうね。どっから来たかもわからないし、変な魔術使うし」

 灰色の魔道士が突然姿を消したり現わしたりする魔術は、見たことがない魔術だ。グリザドのみが使用していた神聖文字に似た文様が、魔術を使った時に現れてもいる。

 そうして、彼はグリザドが何者であるか知っているらしい。子孫であるリリーやバルドですら知り得ないことを、灰色の魔道士はしっている。

「第二のグリザドになるつもりとかな。でも、今のところ戦に関わってそうな気配はないよな」

「こんな状況見て、新しい皇祖様になりたいなんて思うのかしら。やだ、降り出してきたわよ」

 まだ門は遠いというのに雨粒が落ちてきて、リリーはフードを被る。

「走る」

「走るのもだるいなあ」

「だったらずぶ濡れになりなさいよ。あたしは走るわ」

 リリーはバルドが共に駆け出して、その後を追ってクラウスも結局走り出す。

 しかし間もなく土砂降りになって城内に駆け込む頃には、三人とも濡れ鼠になってしまった。砦全体が滝に打たれているような音が、ごうごうと響くほどの大雨だった。

「ああ、もう嫌。びしょ濡れだわ」

「走った意味なかったな……」

 毛先やローブから水を滴らせてリリーは顔を顰める。クラウスも濡れた眼鏡を外して顔を拭っていた。

 ぐっしょりと全身が濡れたバルドはひたすらに無言で不快感に顔つきが悪くなっている。

「……何かしら」

 早く着替えてしまいたいとそれぞれ自分の部屋に戻ろうとしていたが、慌ただしく魔道士達が走っているのを見て三人は足を止めた。

「雨漏り?」

 事情を聞いてみれば砦の南側の雨漏りが酷いらしく、すでに水浸しになっているそうだ。

「補修は全然間に合ってなかったんだな。ヴィオラさんも様子見てるらしいし、俺らが急いでどうにかなるわけでもないから、先に着替えた方がいいだろ」

「うん。さっさと体乾かしてきた方がいいわね」

 戦闘になるならこのまま駆けつけるが、雨漏りではどうしようもない。

 そうして濡れた服を着替えて髪は湿ったまま、雨漏りがしているという砦の南側に行って絶句する。

「……これ、天井のどっかに穴開いてるんじゃないの?」

 下級魔道士の寝床となっている広間の天井からは、雨水が大量に流れ込んできていて床はすでに水たまりだった。魔道士達が余った毛布を敷いて水を吸わせているが、焼け石に水といった状態だ。

「大雨、久方ぶり。補修予定間に合わず」

 先に来ていたバルドが腕を組んで考え込む。

「ここ弱ってて、補修するつもりで間に合ってなかったのね」

 どうやら元々この一画は補修する予定だったものの、実際補修を行う前に大雨が降ってついに限界がきたということらしい。

「砦のあちこちが傷んでるから、間に合いませんわ。人手も予算も足りていないのですもの」

 部下達と話をしていたヴィオラがうんざりした顔でやってくるのに、リリーは少し身構えてふとまだクラウスが来ていないことに気づく。

「バルド、クラウスは?」

 必要以上に炎将と距離を詰めないように気をつけながら、リリーはバルドの顔を見上げる。

「見ていない」

「あら、そういえばクラウスは皇主様とリリーちゃんと一緒のはずでしたわねえ。まったく、勝手は困りますわ」

 ヴィオラが近くにいた部下を呼んで、クラウスを探しに行かせる。

(クラウスは、もう出て行く準備してるんだろうけど……)

 クラウスを軟禁にするには、離叛者であるという確たる証拠もない。本人がいくら出て行くと口にしていても、いざとなってそんなことを言った覚えがないと言われてしまえばそれまでだ。

 なので監視とは言ってもそこまで厳重というわけでもなく、隙を見つけてはこそこそと何かやっているのだろう。

 リリーもクラウスが離叛するのは知っていても、いつどうやってまでかは聞いていない。彼も出て行くことは言っても、具体的なことは何も話さない。

 詮索してどうするつもりか知ってしまったら、いくら補佐官の責任を負う気はないとはいえ何もしないわけにもいかない。

 クラウスも面倒なことになるのは分っているのだろう。

 お互い必要以上に立ち入らないのは、昔と変わらない。

(変わらない、のかしら)

 以前のクラウスは単に無関心だからこそリリーの領域には踏み込んでこなかったが、今は何かが少し違う気もする。

「おっと、下も酷いな」

 そんなことを考えていると、クラウスがひょっこり顔を出した。

「あらあ、探しに行かせた子とは会いましたこと?」

「会いましたよ。上の方も水がすごかったぞ。屋根の方の天井に元から入ってた罅が広がって一気に崩れたみたいだな」

 ヴィオラの訝しげな視線に素っ気なく返して、クラウスが天井を指差す。

「排水……」

 バルドが止めどなく溢れる水を見ながら言うのに、リリーも床を見る。このままではこの周囲は水が溜るばかりでしかないだろう。

「穴を塞ぐのもすぐにとはいかないわよね」

「昇るだけでも、時間がかかりますわ」

 モルドラ砦は三階建ての砦だ。この大雨で高所での修復作業となると、そう簡単にはいかないだろう。

「今、向こうに攻め入られると分が悪いわね」

 このままだと整備不良で自滅というなんとも間抜けなことになりそうだった。

「向こうもおそらく、雨漏り」

「皇主様の仰る通り、それなりにやりましたしこの大雨だと向こうも雨漏りぐらいはしてますわね……別の場所も雨漏りがしているようですので、わたくしが見てきますわ」

 新たな雨漏りの報告にヴィオラがため息をついて、状況を見に行く。

「とんだおんぼろ砦だったわけね」

 見かけは巨大で頑丈そうなのに、中身はがたが来ているというのはハイゼンベルクの砦らしいといえばらしいかもしれない。

 そんな皮肉なことを考えるリリーは、また面倒なだけで楽しくない仕事が増えたと肩を落とす。

「築八百年で大きいからなあ……。直しても直してもきりがなさそうだな」

「ここまで酷いのは、もうないと思いたいわ。バルド、どうする?」

「砦内、南と西を重点的に確認」

 その辺りの補修が進んでいないらしく、魔道士達は手分けして雨漏りしている場所や、補修の必要そうな所を探すことになった。

 将軍補佐官を含めた一部指揮官は軍議に使用している部屋で対策を講じることになり、リリーとバルド、そうしてクラウスもその場を離れることとなった。

「雨が長引かないといいんだけど……」

 しかしリリーの願いも虚しく、雨が止む気配は一向になかった。

***


 翌朝も雨は激しく降り続いていた。

 薄暗い朝を迎えたフリーダは、新しいローブを纏い砦の四階の先日の戦で倒壊した張り出し歩廊の残骸の上にいた。水滴が撥ねて自分にかかるのにもかまわず、モルドラ砦がある方に視線を向ける。

 しかし雨にけぶってはっきりと見えない。

「フリーダ、そんなところで何をしている」

 ふと、肩を掴まれ中へ引き込まれる。振り返れば夫のフランツが強張った顔で自分の顔をじっと見ていた。

「飛び降りはしませんよ、夫殿。血と死臭が洗われてちょうどいい雨だと思っていただけです。……雨漏りは困りものですが」

 フリーダは笑ってそう返し、真下の方を見やる。

 破砕された門は気休めにもならない木組みの柵が置かれている。柵が置かれる前に多くの遺骸がそこで燃やされた。灰は風の魔術で牧草の肥料代わりに撒かれたが、血は多くの魔道士が犠牲になった砦の入り口にや、壁に飛び散って残っていた。

 この雨で血はいくらかは洗われうっすらと纏わり付くような死臭もしなくなった。

 その代わり、罅の入った壁から雨水が染み出して何部屋か使い物にならない状態ではある。

「……父上が身罷られた」

 不意にフランツがそう言って、フリーダは目を瞬かせる。

 フランツの父であるマールベック伯爵は『杖』の魔道士として、門を護っていた。しかしバルドにより魔術の防壁が破られ、その反動で両腕が内から破裂し体の内部にも衝撃を受けて重体となっていた。

 全ての魔力を注いだ魔術防壁を打ち破った神器の破壊力はすさまじいものだ。

 神器で門が受けた攻撃は二度。一度目に三十名近い『杖』が防壁を張っていたが、半数が戦死、もう半分も腕が二度と使い物にならない状態になった。

 二度目の攻撃はマールベック伯爵と数人の『杖』での防壁を築き、すでに伯爵以外は死亡している。

「夫殿が家督を継ぐのですね。葬儀も略式ですませるのでしょう。私がすべきことはない……っ」

 冷淡に返せば、ふと体が浮いて背中に衝撃が伝う。

 フランツに胸ぐらを掴まれて石壁に叩きつけられるように体を押しつけられたのだ。

「貴女は、貴女は一体何のために私の元へ嫁いで来たのだ……っ!」

 夫の激怒にフリーダは眉を顰める。

「……命じられたから嫁いできた。それだけのことです。夫殿は一体私に何をしろと仰るのです。むしろそちらがなぜ私を娶ったのですか。寝返るつもりなら最初から縁組みを断ればよかった」

 ハイゼンベルクの油断を誘うためになのか、自分を使って情勢を探らせるつもりだったのか。なんにせよ、自分は父の命に従っただけで、それ以上の理由などなかった。

「父の決めたことだった。私は貴女が拒むのであれば、娶る必要などないと言った。貴女は命じられたと言うが、人質としての役目も、妻としてに役目を果たすつもりもなく逆らっている」

 ぎりりと息苦しい程にローブの襟首をしめつけられながら、フリーダは憤る夫に向けて薄笑いを浮かべる。

「なるほど、では今は父親を亡くして傷心し、これから当主としての重責を負う夫を慰め支える妻になれということですか。残念ながら、そのような献身的な妻にはなれそうもないので、早い内に離縁して新しくディックハウトの貴族を娶ればよろしいでしょう。私はただの捨て駒の兵にして下さって結構。戦死の方が離縁よりは体面がよいかもしれませんね」

 つらつらと挑発的な言葉を並べながら、フリーダは自分自身でも不思議に思う。

 フランツに対しては、いつもこういう態度ばかりになる。

 父親の顔色を窺ってばかりいるのが自分のようで嫌いなのかもしれない。

 そうだ、初夜の時も、覚悟がまだないなら床入りは先延ばしでもいいと言ったのも妙に気に食わなかった。

 生娘でもないので余計な気遣いはいらないからさっさと済ましてくれと返すと、決まった相手がいたのかとなんとも複雑そうな顔をしていたのをよく覚えている。

 退屈凌ぎの関係が数人いた程度だと正直に言って、叩き返されるだろうかと思ったものの結婚後の不貞は互いにしないという約定をされてやっと事が済んだ。

 結局、わずか半年ほどで寝所を共にすることはなくなったが。

「それほどまでに、私のことを嫌っているのか」

 ついに呼吸ができなくなる。

 しかしフリーダは足掻かなかった。このまま夫に絞め殺されるのも悪くない。

(ああ、でも、君との決着はつけておきたかったな……)

 ふっとリリーのことが思い浮かぶ。

 初めて彼女と実戦で剣を合わせた時、今までにない感情の高ぶりを覚えた。

 あの時、フランツに止められなければきっと負けていた。次になんの邪魔もなくリリーと戦うことになったら、自分の力ではもはや太刀打ちできないだろう。

 それでもまた戦いたかった。互いの全てをぶつけ合う瞬間を夢想すれば、胸の奥で燻っていたものが燃え上がる。

「何をしている! フランツ殿!」

 意識が朦朧とする中で、誰かが怒鳴りつける声が聞こえて呼吸が楽になる。

 フリーダはふらつきながらも座り込むこむこともなく声の主を見る。右目の際から顎にかけての傷痕が目立つ黒髪の大柄な男は、ディックハウト雷将のリーヌス・ゲオルギーだ。

「なに、些細な夫婦喧嘩です。父君が亡くなられて少し動揺されているらしい」

 夫が沈黙している間に、フリーダは襟元を直してゲオルギー将軍に向き直る。

「……伯爵のことは今し方聞いた。惜しい方を亡くした」

 ゲオルギー将軍が哀悼を告げ、フランツが深呼吸をひとつして深く頭を下げる。

「見苦し所を見せて申し訳ありません。そのような事情なので、軍議を少し遅らせていただけますか」

「無論、かまわん。この雨だ。動くに動けない。俺も部下達もできることがあれば協力する。遠慮せず言ってくれ」

「お気遣い、痛み入ります。では、失礼いたします」

 フランツが立ち去るのに、フリーダはついていかなかった。

「大事ないか。……夫婦のことに立ち入るつもりはないが、奥方はハイゼンベルク方だった。そのことに関わるなら、俺は将として立ち入らせてもうらが」

 至極真面目にゲオルギー将軍が話しかけられたフリーダは、思わず吹きだした。

「そちらとは関係ありません。私の悪妻ぶりについに夫殿も我慢ならなかっただけです。私はディックハウトの魔道士として、前線で戦って死ぬ覚悟もありますので、どうか好きにお使い下さい。では、私は呼ばれるまでしばしここで待機しています」

「そうか。それならばいい」

 ゲオルギー将軍は決まりが悪そうな顔をして、その場を後にする。

 ひとり残ったフリーダはフランツに絞められた首元を撫でて、ため息をついた。

 夫婦になった以上は、信頼を築けたらとも彼は最初の頃に言っていた気もする。初めから離叛は決まっていたというのに、おかしな話だ。

「本当に、ここは退屈だ」

 フリーダはつぶやいて、再びモルドラ砦の方へと目をむけてひとりごちる。

 ハイゼンベルク側でも退屈なことに変わりなかった。退屈しのぎとは言ったものの、父の目を盗んで幾人かと共寝をするだけの関係を持つことはさして楽しいものではなかった。

 やはり戦場が一番いい。リリーと戦って終わりたい。

 フリーダはリリーと対峙した時の高揚を思い返すが、上手く掴みきれない。だが確実に自分の空虚な心を満たしてくれるとわかっているからこそ、もう一度あの高揚感を味わいたくてしかたなかった。


***


 父親であるマールベック伯爵の略式の葬儀の準備を終えたフランツは、短い軍議も終えても席も立たず頬杖をついてうなだれていた。

 妻のフリーダは軍議が終わるとまた歩廊の方へと向かい、飽きもせずに外を眺めているらしかった。

 朝に見た時はそのまま歩廊から飛び降りかねないと思うほど、何かに恋い焦がれている顔をフリーダはしていた。

 視線の先にはハイゼンベルクの拠点であるモルドラ砦がある。

 あちらに戻りたいのか。しかし彼女はかつての戦友らに刃を向けることを躊躇わなかった。

「フランツ殿。大丈夫か」

 ゲオルギー将軍が声をかけてきて、フランツは顔を上げる。

「朝から慌ただしく申し訳ない」

「かまわない。父君が亡くなられたのだ。気落ちするも仕方がない。俺も父が戦死した時はひどく落ち込んだ」

 そう言われて、フランツは父親が死んだばかりだというのに、フリーダのことばかりが気になっている自分に気づく。

 神器で魔術防壁が打ち破られれば、父親が助からないことは予期していた。もう助からないと、意識の戻らない父の姿にある程度の覚悟はできていた。しかし辛いことは辛い。

 父の死に対して悲しみもあるが、それ以上に孤独感の方が大きかった。

 兄弟はおらず母も身罷り、親族はもういない。古くから仕えてくれている家臣達もいるが、唯一の家族を亡くした寂しさはそれで慰められるものでもない。

 だから余計に、新たな家族となるはずの妻のことを考えてしまうのかもしれない。

「……私は妻のことがわからない。この婚姻は彼女にとって不本意ではあったのでしょう。だが、妻はハイゼンベルクに戻ろうともしなければ、こちらに与する気もなく前線に立ちたがる……」

 子供の頃から見知っている重臣にする零したことのない悩みを零してしまったのは、よく知らない他人だからだろうか。

 ゲオルギー将軍の歳は自分よりひとつ上で、年齢が近く気安い雰囲気もあった。

「自分を今の立場に追いやった誰も彼もを恨んでいるのかもしれない」

 ゲオルギー将軍が隣の席に腰を下ろす。

「ハイゼンベルクの身内も、私達も、ですか。……できるだけ、私は妻に心を砕いてきたつもりでした。ですが、彼女はなにひとつ受け入れてくれはしなかった」

 フリーダを妻に迎えることは、自分も最初は不本意だった。父はディックハウトに寝返る準備をする時間稼ぎに使うと言っていたからだ。

 場合によっては後で始末するという話もあった。いくら家が生き残るためとはいえ、むごいではないのかと父に訴えて、フリーダの意志だけは確認してもらった。

 そしてフリーダは嫁いできた。

 軍で『剣』の統率を務めていたというだけあって、軍人らしい顔つきで凛とした姿に同情と感心を覚えた。

 フリーダに、後ろめたい気持ちもあった。だがそれ以上にこの先共に生きていかねばならないなら、よい関係を築けたらとフリーダの意志をできるだけ汲む努力をするつもりだった。

(なにひとつ、心の内を見せなかった)

 しかしフリーダは従順なふりを続けるばかりだった。気がつけば皮肉の応酬ばかりになり、義務的に身を任せるだけの彼女と寝台を共にすることもなくなった。

 やっと、フリーダが自分の意志を示したのは、再び剣を握り前線に出たいということだった。

「……俺が知っている人も、心を閉ざして誰も受け入れない。そうしてしまったのは、俺がどうしようもなく愚かだったからだ。フランツ殿は、そうではないだろう。時が解決してくれることもある。貴公がディックハウトに忠を誓った以上、時は十分にある」

 時間が果たして凍り付いたフリーダの心を溶かしてくれるものだろうか。

「諦めてしまうのが、一番早いのでしょう。所詮は人質。遠方に住まいを用意させることも、このまま最前線に送り出すことも私にはできるはずなのです」

 フリーダの言う通り、新しい妻を迎えれば済む話だ。父も、戦に勝った後にディックハウトの貴族との新たな縁組みも用意する考えだった。

 だのに、その選択ができない。

 フリーダを諦めきれないのだ。ただ彼女のなにひとつ手に入れられず、意固地になっているだけなのか。

 愛していると言うには、あまりにも心の繋がりがなく怒りや苛立ちの方が大きすぎた。

「手に入らないものほど、執着してしてしまうものかもしれないな」

 ゲオルギー将軍の言葉はやけに重みがあってフランツは彼の横顔を見る。

 彼も諦めていないのだろうか。

「このような話に突き合わせてしまって、申し訳ありません」

「いや、いい。皆が心置きなく戦に挑むことができるようにするのも、将の務めだ。何か必要なことがあれば言ってくれ」

「これ以上ないお言葉です。将軍、皇主様のため、亡き父のため、私は戦います」

 そう、今は戦に集中すべきだ。悲しむのも、悩むのも戦に勝利してからでも遅くはない。

「ああ。頼む。俺も皇主様のため、命を賭けて戦う」

 そう言って席を立つゲオルギー将軍に瞳に、一瞬映った影にフランツは気づかなかった。


***


 皇主のアウレールが倒れて早五日以上が経つ。しかし快癒に向かう気配はなかった。

「アウレール……」

 息子に添い寝するロスヴィータはすっかり窶れていた。手や指にの包帯が巻かれ、血の滲んでいるものもある。

 寝台の傍らに置かれた机の上には、無数の玉石が転がっている。城にあるあらゆる宝飾品をかき集めさせ、台座から取り外したものだ。これらは全てロスヴィータが魔術の媒体にするためにある。

 日に二度、ロスヴィータは指先や手の甲を傷つけ血に濡れた手で玉石を握りしめて、魔術を使う。

 ロスヴィータの魔術によってだけ、アウレールはわずかながら目を醒まし食事を取ることができた。意識はあまりはっきりしておらず、まるで赤子のような状態でいることがほとんどだが。

 膨大な魔力が必要で魔術を使う度に媒体は割れてしまう。もうすでに幾つもの宝玉が砕けてしまっている。

 しかしアウレールの命を繋ぐためなら安いものだ。

「もう少し、待っていて。またわたくしがお前を目覚めさせてあげるから……」

 今すぐにでも息子の目を開かせ声を聞きたいが、まだ魔力が回復しておらずロスヴィータは歯がゆく思う。

 彼女自身の体も限界に近かった。

 毎日空になるまで魔力消耗し、血を流し続けているのだ。体力も磨り減りほとんどその場から動けない状態だった。

 それでもロスヴィータは自分の命を削り、息子に分け与え続けるのをやめなかった。

「ロスヴィータ、皇主様の容態は」

 音もなく部屋に入ってきたのは、宰相である兄だった。

「見ればおわかりになるでしょう。こんなにもやせ細って、可哀相な子……」

 ロスヴィータはアウレールの削げた頬を撫でながながら、兄へと侮蔑の視線を投げつける。

「勝利まで後少しだというのに。一体どうやって灰色の魔道士は、社の中へ入り込んだのだ」

 昨日、目覚めたアウレールは意識が以前よりも明瞭だった。灰色の男が、社の中にいたと怯えていた。おそらく、神器の社の周辺で目撃されていたの灰色の魔道士だろうと結論づけられた。

「……皇祖様かもしれませんわ。今の皇国の姿をお嘆きになって彷徨っているのかもしれないわ。ねえ、兄様。最初に罰を受けるなら、兄様でないとおかしいでしょう。この子はただ産まれてきただけ」

 兄が何も言わずに部屋を出る音が聞こえる。

 昔から利己的で傲慢な兄は嫌いだった。自分の望んだ幸せは全て、兄に奪われてしまった。

「お前だけなの。わたくしにはもうお前だけなの」

 自分の命はなどどうでもいい。アウレールの命さえ助けられればそれでいいというのに、その願いはまだ叶わない。

 北から灰色がかった雲が緩やかに押し寄せてくる。その日の夕刻の内に稲光と共に、雨は降り出した。

 北で降ったほどの強い勢いはく、冷たい雨はしとしとと降り注ぐ。

 その音を聞きながら、ロスヴィータは静かにすすり泣いた。

 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る