グリザド皇国最古の砦と言われる、ゼランシア砦。

 岩山を削り築かれたその砦は、黒と白の魔道士達がぶつかり合う戦場となっていた。

 巨大な鉄の落とし格子が隧道状になっている砦の内側へと倒され、白のディックハウトの魔道士が下敷きになりその上を黒のハイゼンベルクの魔道士達が踏みつけ砦の中へ雪崩れ込んでいく。

 憎悪と、生への執着、死への恐怖。

 あらゆる感情を闘志に変え魔道士達は剣を振るい、自らの敵を屠らんとする。

 それぞれが鬼気迫る顔をする中、微笑む少女がひとりいた。

 フードか外れ、癖のある金茶の髪を無防備になびかせながらハイゼンベルク雷将補佐のリリー・アクスは笑っていた。

 闘争の快楽に燃える深緑の瞳が捕らえているのは、リリーと同じ雷軍で『剣』の統率官を務めていたフリーダ。

 かつて黒のローブを纏っていたフリーダは、このゼランシア砦城主のマールベック伯の嫡男に嫁ぎ今は白いローブを羽織っている。

 白、といっても戦闘ですでに煤け血が所々に散って汚れていた。

 対するリリーのローブもほつれや切り裂かれた跡がいくつかある。

 白と黒が混戦する中でリリーとフリーダだけは互いしか見ていなかった。

「そんなに、弱くなってないですね」

 双剣を構え、リリーはフリーダに笑いかける。

「嫌味だな。君だけを相手している私と違って、君はゲオルギー将軍の攻撃や周りの雑魚にかかずらって魔力を消耗している」

同じく双剣を持つフリーダが苦笑した。

「一年も剣を持ってないなんて、嘘みたいですよ」

 揶揄するのでは本気でリリーはそう思っていた。

 確かに戦闘を始めた時、フリーダの動きは鈍っていたものの剣を交えるごとに一年前と変わらない動きと重さを取り戻していった。

 ふたりとも魔術を派手にぶつけ合うほどの魔力もなく、剣技が勝敗を左右する。

 負けた方は死ぬか、運がよくても二度と戦場に立てないほどの深手を負うことになるだろう。

 極限の状況にリリーの高揚感は最高潮に達していた。

 周囲で繰り広げられている戦闘の轟音も耳に届かないほどに、勝負に夢中になった獣の目は相手の指先のわずかな動きすら見逃さない。

 フリーダが動く前に斬り込んでいく。

 右で突きを繰り出し、同時に左で薙ぎ払う。

 突きは躱されたが、左には肉を切る手応えがあった。

 避けきれなかったフリーダの左の腿から血が吹き出る。

 だがそれで安易に怯むフリーダではなかった。

 攻撃を受けた瞬間には、リリーのものより刃渡りのある双剣の右を思い切り突き出していた。

 近距離に詰めていたリリーは体を捻るものの、左の上腕部を深く切られる。剣には雷の魔術が纏わされていて、ローブで受け止めきれなかった分が鋭い痛みをもたらす。

「――っ!」

 激痛に顔を歪めながらも、リリーは追撃を喰らわないために右で炎の魔術を放ちながら間合いを取る。

 あと、もう一撃で勝負は決まる。

 リリーとフリーダがじっと攻撃の瞬間を窺う中。

「リリー・アクスを捉えよ!」

 男の声が響いて、リリーの周囲に岩壁ができる。

 魔術の気配を察知して危うく閉じ込められることは避けられたものの、白の魔道士がぐるりと彼女を囲んだ。

「お前達! 邪魔をするな! フランツ!!」

 そう怒り叫ぶフリーダが睨みつける先には、多くの白の魔道士を従え杖を持ったひとりの青年がいた。どうやら彼がマールベック家の嫡男である、彼女の夫らしかった。

「本当に、邪魔」

 勝負の邪魔をされて不機嫌なリリーは、残りの魔力をローブの方に回して防御を堅め、襲い来る白の魔道士達を次々と斬り伏せていく。

 魔術がほとんど使えず手負いの少女ひとりと自分を侮っているのも気に食わない。

 怒りのままにまたひとり、もうひとりと斬り捨てていくもののやはり数が多い。

 周囲の近くにいる味方もリリーに状況に気づきつつも、自分の目の前の敵を倒すので手一杯だった。

 さらに追い込まんと新手が投入され、魔術攻撃もローブで防ぎ切れなくなってくる。

 それでもリリーは気にせず、敵に突っ込んでいく。

 生存本能というものはすでに闘争心に呑み込まれていた。

 戦いたい、という欲望しか残っていない。

 しかし白の集団へ火球が飛んで来て破裂して、りりーはふっと我を取り戻した。

「リリー!」

 名前を呼ばれて振り返れば、クラウスが十数人の味方を引き連れてきているのが見えた。

「こっちも救援……」

 リリーは敵が退いている隙に駆け寄ってきたクラウスに、ふて腐れた顔を向ける。

「無事だな。その分じゃもう魔力ないだろ。……不機嫌そうだな」

「いいところだったのに邪魔されたわ」

 すでにフリーダの姿はどこにも見えない。

 せっかくの勝負がこれで台無しだと、リリーは歯ぎしりする。

「勝負がついたところで救援来なかったら、死ぬまで戦い続けてただろ。暴走しないって言ったの誰だっけ?」

「……捕虜になるぐらいなら手加減できないぐらいに暴れてやるとも言ったわ。だいたいあんたも、あんまりこっちで攻撃に加わってると向こうに寝返りづらくなるわよ」

 リリーは退却しながら、邪魔な敵兵を虚仮威しの爆発で追い払うクラウスを横目で見る。

 戦闘にのめり込みすぎていたのは事実だが、怒られる筋合いもないのだ。

 口元で一番美味しいものを取り上げられた同然のリリーは、今は何もかもが気に食わないほどに不機嫌だった。

「リリーが一緒にいないと、生き延びる意味なんてたいしてないからな、俺は」

 軽口を叩くようにそんなことを言うクラウスに、リリーは眉根を寄せる。

 ずっと一緒に生きていたいたいと、クラウスは自分に求婚してきた。断ったとはいえ、彼はもう一度だけ考えてから返事をして欲しいと言っていた。

 自分が囮となる今回の戦略を立てた時もクラウスは、身の安全を心配していて出陣前夜も会いに来ていた。

「心配かけさせたのは悪かったわ」

 リリーはそれだけ謝って口を噤む。

 だからといって死に場所を戦場から変えるつもりもない。

「……ジルベール補佐官は退避できたの?」

 そしてリリーは気まずい沈黙を避けるために話題を変えた。

 砦の門の破壊のため、敵兵力を分断するのにまず自分と炎軍補佐官であるマリウス・ジルベールが少ない手勢と共に砦の中に入った。しかしディックハウトの雷将、リーヌス・ゲオルギーが援軍に現れて、マリウスの左腕は彼に斬り落とされた。

 その後も戦闘が続き、深手を負いながらもマリウスは忠義心を支えに戦っていたのだが。

「退避して、治療も受けてるけど意識はない。五分五分らしいな」

「そう」

 勝てば生きて、負ければ死ぬ。

 それが戦場だ。これといって感傷的になることもなく、リリーは離れた場所で炎の華が開き雷の雨が降り注ぐのを見やる。

「ゲオルギー将軍はヴィオラさんが相手してる」

「バルドは?」

 マリウスの上官で姉でもある炎将のヴィオラが敵将と戦うのは不思議ではないが、戦闘を楽しめる相手がいるというのにバルドが加わっていないのは不思議だった。

「さすがに、皇主様を突撃させるわけにもいかないだろう。ヴィオラさんも門の破壊で魔力を消耗してるし、あっちの将軍の魔力をある程度削ったらバルドの出番だろうな」

「ああ、じゃあ、今頃バルドの機嫌は最悪ね」

 弱った獲物をよこされるなど、子供の玩具で遊べと馬鹿にされているも同然である。

 大人しくバルドが周囲の立てる策を承諾したのはすでにマリウスとの戦闘で、ゲオルギー将軍が消耗しているからだろうが、それでも一番いい獲物が目の前にいて全力で楽しめないなどつまらなさすぎる。

「だから、リリーは後退してバルドを宥めて欲しいんだってさ。こっちも目的の城門破壊はできたけど兵も消耗してるし、ディックハウトも同じだろうから向こうが退いたらこっちも退く」

「あの人との決着はつけられるかしら」

 戦の目的は果たせたとはいえ、リリー個人としては消化不良にもほどがある。

 この先フリーダとの再戦が臨めるかどうかも怪しく、また苛立ちがぶり返してきていた。

「さあな。総力戦になったら出てくるだろう。フリーダさんだってリリーと戦いたいなら戦えるんじゃないか」

「そうね。そうだといいわ」

 血の臭いが濃く立ちこめる門扉まで辿り着いて、リリーは足を止める。

 もう周囲は味方ばかりで黒い。その中でも砦の内側まで後一歩のところで留まっているバルドの姿は異様に存在感があった。

 元より大柄で目立つのに加えて、身を包む餓えた獣のような雰囲気がさらに彼を大きく見せていた。近くで控えている『杖』の魔道士達は、今にも食い殺されそうな青ざめた顔をしていて護衛というより猛獣が暴れ出さないための見張りに見える。

「ああ。相当苛ついてるわね。バルド」

 リリーが歩幅を広げて近づきながら声をかけると、視線だけで心臓の弱い者を殺せそうな凶悪な顔を向けられた。

「……戦えない。リー勝った」

 妬ましげに言われて、リリーは唇を尖らせる。

「あたしも、あと一手って所で邪魔されたわ」

「だが、戦えた」

 自分は戦えないのに、と実に不服そうにバルドがさらに眉根を絞る。

「お前、一応『杖』と戦っただろ」

 追いついてきたクラウスが足下の鉄格子を軍靴で踏みならして指摘する。

 門には強力な防護の魔術がかかっていて、バルドはそこに幾度か攻撃を加えた。確かに『杖』の魔道士と戦ったことにはなっているが、直接剣を交えられない戦闘は味のしない食事と同じだ。

「あたしもバルドも、消化不良ってとこね」

 リリーも不機嫌なままぼやく。

 結局のところ餓えて苛ついた獰猛な獣が一匹から二匹に増えただけの現状に、他の魔道士達は気が休まることはなかった。

「……加勢」

 そして少しすると、ヴィオラが押されているので援護をとの報告が入ってきて、バルドが数歩前に出る。

「よっぽど炎将が魔力を使い切っちゃってるのか、相手が強いのかどっちかしら」

「両方じゃないか。……っと、派手にやるなあ」

 天井部や壁に音が反射してすさまじい轟音を上げるバルドの攻撃に、クラウスが耳を塞ぐ。

 不満を一気に放出する攻撃に、ディックハウト方が城内へ退いていく。深追いはせずにハイゼンベルク方も一旦退くことにする。

 ゼランシア砦における二度目の戦は、ややハイゼンベルク方が有利ではあるものの一度目と同じく両者痛み分けで幕を閉じた。

 

***


 戦場となったゼランシア砦と牧草地帯を挟んで、真向かいに位置するハイゼンベルクの拠点となっている、モルドラ砦に引き返す頃には誰もがぐったりと疲れ果てていた。

 石造りの砦にある音といえば、負傷兵の苦悶の声や彼らを診るために走り回る救護担当の足音ばかりだった。

 そして日が落ち夜になってからになってやっと、ハイゼンベルクの被害状況がぼんやりとながら浮かび上がってきた。

「思ったよりやられたわね……」

 自分で歩くことすらままならない重傷者の数に、砦の一室で開かれている軍議に参加するリリーはつぶやく。

 最初の突入は数で圧倒的に不利だったとはいえ、そもそもが少数で負傷したのは突入後と城門破壊の際だろう。最終的に六千投じた兵の内、重傷者だけで百五十人近い。死者と重傷者を合わせるとおおよそ四百の戦力の損失になる見込みだった。

 想定を上回る数に他の面々の表情も重苦しい。

「味方が敵……」

 バルドが味方に攻撃されたという者の証言があることの報告に、低くつぶやく。

 どうやら混戦中に寝返った味方に襲撃され、部隊が混乱し負傷や死亡に繋がったこと。

「あちらがわざと黒のローブを使ったとも考えられますけれど、そればかりではありませんでしょうね」

 炎将のヴィオラが桃色がかった金髪をかき上げながら、こつこつと苛立たしげに長靴の高い踵を踏み鳴らす。

 彼女の弟のマリウスの意識はまだ戻っていない。

「この兵数だからな。全員が顔見知りじゃない。混戦になったら敵も味方も区別がつかないし、遺骸を回収できない以上は誰が裏切り者かは分からないな」

 クラウスの言うように、動けない負傷者を砦に運び込むので手一杯で戦死者の骸を回収することはできなかった。見張りからゼランシア砦で大きな灯が見えたとの報告もあったので、すでに遺骸は骨も残さず焼かれてしまっているだろう。

 季節は夏。骸はすぐ腐る。腐肉は疫病の苗床ともなりやすいので、すぐに燃やされるのは仕方ないことだ。

「全員戦死者扱いにするしかないのね。でも、これじゃいつ味方が敵になるかわからいなんて、厄介ね」

 正直なところ自分は味方が寝返ろうが売られた勝負は買うので、これといって問題はないのだが。

 リリーは内心でそんなことを思いつつ、どうするのだろうとバルドを見やる。

 このままでは疑心暗鬼にかられてまともに統率などとれない。

「……敵は斬る」

 しごく単純すぎるてまともな解答になっておらず、周囲はうなずくこともできずに通訳であるリリーに視線でバルドの真意を問うてくる。

「バルド、あたしとあんたはそれでいいけど他は困るんだって」

 リリーが小声で対策をせっつくと、バルドは面倒くさそうに眉間に皺を寄せた。

「対策、不可。混戦となれば、監視も無意味」

 どうやら監視役を置くことも考えてはみたらしいが、多数の敵味方が入り交じる中では自分の身を護ることで精一杯だろう。

「そうですわねえ。常に互いを監視させ合うわけにもいけませんし……本当の味方はこの砦にいったいどれぐらいいるのかしら。この砦も確実に安全というわけでもありませんのね」

 ヴィオラのぼやきに誰もが気鬱な表情になる。もし砦内で反乱が起きれば危機的状況に陥る。

 多数の兵を集めた以上、最悪の事態を想定していないわけもなく出陣前の軍議でも皇都の兵は常にすぐに動かせるようにもしている。

(こういうこと考えなきゃいけないのは、もう駄目よね)

 ここ数年にわたる相次ぐ離叛によってハイゼンベルク内の結束も弱い。バルドが神器を手にして圧倒的な力を見せつけたことで、いくらかは人心を留めているとはいえ限度がある。

 皇主であるバルドにあるのは他者を圧倒する魔力だけ。

 他人を意のままに操る器用さも小狡さも持ち合わせていない。それを持っていたバルドの兄のラインハルトはもういない。

 戦うことでしか皇主としての存在感を示せないバルドから、人心が離れていくのも時間の問題だ。

 バルドは戦なくして皇主たり得ない。

「明日早朝持ち越し。全員休養」

 そしてバルドが軍議を打ち切る。

 軍議に出ている半数以上が前線に出ていて疲労困憊だった。引き上げてからも雑事が多く、食事もパンひとつ、乾し肉一欠片程度しか口にできていなかった。

 休んで仕切り直した方がもう少し有益な話し合いもできるはずだ。

 軍議を終えて部屋を出ると、ちょうど魔道士がひとり待機していた。

「ジルベール将軍、弟君の意識が戻られました」

 喜ばしい報告ではあるが報告に来た者の表情は強張っていて、もうこれが言葉を交わす最後の機会かもしれない雰囲気だった。

 リリーは近くに立っているヴィオラの横顔を見やる。

 毅然とはしているものの、やはり疲れだけでない影があった。

「そう。……皇主様、僭越ながら弟に一言かけてはいただけないでしょうか」

 ヴィオラの申し出に、バルドが少し沈黙しながらも首を縦に振る。

「リーはいい。休息と食事」

 そして彼は一応は一緒にいた方がいいかとリリーが訊ねる前に、先にひとりで休めと言った。

「わかった」

 リリーはうなずいて、ひとりで食事を取って休むことにする。用があればバルドは自分でやってくるだろう。

「マリウスがいなくなったら、戦力的には困るな」

 いつの間にか隣に来ていたクラウスが言うように、マリウスがこのまま息を引き取ればハイゼンベルク側にとっては相当な痛手だ。

「ジルベール補佐官は生き延びたらまた戦うのかしら」

 数少ないバルドの信奉者であるらしいマリウスは、片腕だろうとまだ戦場に立つ気がする。

 皮肉な話だだ。忠義心の強い者ほど危機に真っ向にに立ち向かい、散っていく。

 味方だと確信できる者達が次々と戦場から消えていく。

 生き延びたければハイゼンベルクを捨てるより道がないのだから、そうなるのも当然ではあるが。

「指揮官としての能力も高いからな。なにがなんでも戦場には出そうだな。じゃあ、俺ももう休む。リリーも、しっかり体を休めろよな」

「言われなくてもそうするわ。思いっきり戦えないのは嫌だもの」

 そう答えると、クラウスは苦笑だけしてお休みと自分の部屋の方へ去って行く。

 リリーも次の戦闘に備え、しっかりと食べて眠ることにした。


***


 大勢の重傷者が大広間は治療作業のための物音が不規則にする中、時々呻き声が上がっている。この人数なので、寝台はなく石の床に厚手の布を敷いた上に皆寝かされている。

 ヴィオラは部屋の奥でふたりの『玉』に見守られているマリウスの傍らに屈む。左腕は上腕部の半ばの切断面は包帯で巻かれていて、血が滲んでいる様子もない。止血が早かったとはいえ、その方法が傷口を焼くというやり方だ。

 魔術で応急処置はしているが失った血を取り戻す術はなく、あとはマリウスの体力次第ということだ。

「……姉、上」

 虚ろな視線が自分を捉えて、声が聞けてヴィオラはずっと堅く引き結んでいた口元を綻ばせた。

 ただこの瞬間だけで、大丈夫だと直感的に確信できた。

 マリウスは生き延びる。こんな所で死にはしない。

「よくやったわ。マリウス皇主様もいらして下さったわ」

 ヴィオラは背後に立っているバルドに会釈する。

「大義」

 短すぎるとはいえ、功労をたたえる言葉にマリウスの瞳に光が宿る。

「……まだ、お役に立てます。戦は……」

「決着、まだ」

 バルドが返すのに、マリウスが苦しげな呼吸をしてから残っている右の拳を握る。

「自分も、まだ、戦います」

「……戦いたいのなら、止めない」

 その言葉に安堵したのか。マリウスがほっとした顔をする。そしてまた彼は意識を失った。

「マリウス!」

 思わずヴィオラは弟の名を呼ぶ。脈を取る魔道士を見つめると、脈は安定しているということだった。今夜を持ち越せれば、安心していいだろうとのことだ。

「……皇主様、ありがとうございます。弟も生きて必ず、忠を尽くすでしょう」

 今、マリウスにとって最も必要なのは生への執着だ。

 姉である自分が生きていてと願うよりも、主君からの言葉の方が効果的というのは少し寂しい気もするが。

「……退出する」

 バルドがそう言ってマリウスから離れる。

 しかし他の重傷者やもう危うい者にも声をかけてもらえないだろうかと、恐る恐る乞うてくる臣下に呼び止められて部屋からはまだ出られそうにはなかった。

 そうしている間にも、ひとり、息を引き取ったと報告が上がる。

 まだこれから死者は増えるだろう。何度も戦場にいて見慣れた光景でも、心はいつまでたっても慣れない。

 ヴィオラはマリウスの傍らに腰を下ろして、幼い頃の面影が残る寝顔を見つめる。

 小さな頃は臆病で泣き虫な子だった。

 自分が護ってあげなければ、と奮起していたのに今では背丈も追い越された。剣でも魔力でも実力はマリウスの方が上だとは分かっていたが、敵の雷将ゲオルギー将軍と対峙して驚いた。

 ハイゼンベルクでゲオルギー将軍は剣の技量も魔力に敵うのは、バルドぐらいだろう。

 その将にすでに魔力をいくらか消耗し片腕をなくした状態でマリウスは、生き延びられたのだ。自分が思っていた以上にマリウスは強くなった。

 だけれど素直で真っ直ぐすぎるところはちっとも変わらない。

「お前にとって、この道が一番いいのかしら……」

 何度も疑問に感じていたことをヴィオラはつぶやく。

 ジルベール侯爵家は軍人の家系だ。ハイゼンベルクの他の貴族と違って嫡男であろうと戦場に出るものだ。武功をあげてこそのジルベールだ。皇家同士の内乱が起こる以前より、幾度か起こった反乱や貴族同士の対立の鎮圧でも前線に立って功績を挙げて確固たる地位を築いてきた。

 マリウス自身が戦場に立つというなら、同じジルベール家の者として止めはしない。

 だが、いざこうして片腕を失い瀕死になった弟を見ると、もっと他の生き方も選べなかったのだろうかと思ってしまう。

「魔術の使い方を教えたのは、わたくしでしたのにね」

 ヴィオラは自嘲しながら、目尻に滲んだ指先で払う。

 ここで生き延びたとしても、ハイゼンベルクで戦う以上はいずれは戦場で果てることとなる。

 ヴィオラは負傷者達の間を無表情で回るバルドを見やる。

 皇主としてのバルドへの忠義はある。自らに流れる血と、手にしている魔力とに、皇主への敬服を感じずにはいられない。与えられた力をもってして戦うことにも、誇りを感じる。

 だが、と弟を見やる。

 誇りや忠義を捨ててでも弟を護りたいという思いがあった。

 寝返る者達は保身のためばかりではなく、こうした思いを抱え身内を護るためだった者も多くいたはずだった。

「マリウス、お前はまだ戦にでるつもりなのよね」

 分かりきったことを聞きながらヴィオラは立ち上がる。そしてマリウスの顔を少し眺めた後、静かに退室した。


***


 軍議を終えた後、クラウスは自室に戻る道を途中で方向転換していた。

 向かった先は軍の小隊を纏める隊長のひとりである、『剣』の魔道士の男の部屋だった。

「ちょっと、俺も混ぜてくれないか」

 挨拶もせず急に扉を開けると、予想通り男の狭い部屋には複数の魔道士がいた。

 無事に生き延びたことを仲間内で喜び合っている雰囲気ではない。誰もが剣呑な顔で額を突き合わせていた。

「何の用だ」

 魔道士達の中心にいる、四十前後の武骨な大男が睨みつけてくる。彼がこの部屋の主であるハンネス・ネッケだ。

「だから、言っただろう。俺もお前らの悪巧みに混ぜてくれって」

 わざと軽い口調で言うとハンネスの顔が怒りに赤らむ。

「貴様、どこまで知っている」

「この砦で反乱を起こす、だろう。作戦なんて知らない奴が勝手に寝返って、砦の警戒がきつくなったから、困ってるってとこか」

 ハンネスはハイゼンベルク東部の小さなみっつの村を纏める小領主だ。ハイゼンベルク内のディックハウト信奉者の中でも、多くの仲間と徒党を組んでいることを長く内偵として動いていたクラウスは知っていた。

 自分を内偵に潜り込ませていたラインハルトには、報告していない。そのうち、自分のために使えるかもしれないと隠しておいた情報のひとつである。

 時期をじっくりと見計らって息を潜めていたが、今回の戦に自ら名乗りを上げ参戦してきたのはことを起こすためだろう。

 モルドラ砦にいるディックハウト信奉者と接触しているのも、確認済みだ。人手を集めてやることといえば、内部からこの砦を崩すことだ。

「フォーベックの若造、何を企んでいる」

 警戒心も露わなハンネスに対して、クラウスは肩をすくめる。

「ちょっとした協力さ。そっちが知らないここにいるディックハウト信奉者を知ってる。今回みたいに勝手に動く奴はこれで減るはずだ。それと、この砦の構造も知っている。お前達より遥かに詳しくな」

 フォーベック家の屋敷は第二の王宮とも呼ばれている。

 広大な敷地だけがそう呼ばれる理由だけでなはい。長らく政権の実権を握ってきた宰相家には、多くの重要機密が保管されているという理由が大きかった。

 その次男である以上、父親から信頼されていないとはいえ情報を盗み出すことは他の者達がやるよりは上手くやれる。

 持っている情報の量が、田舎の地方領主に劣るはずがない。

「なるほど、貴様が俺達を裏切らない補償はあるのか」

 ハンネスが釣り餌にかかったのを見て、クラウスは笑う。

「むしろ、俺がバルドに忠誠を誓う理由がどこにあるんだ。あともう一個、役に立つことともある」

 その場にいる全ての魔道士がハンネスに従った方がいいのか、それともクラウスに与した方が確実かと思案しているのを確認して、クラウスはもったいぶってみせる。

「ベーケ伯爵を動かす。娘のアンネリーゼはすでに俺の味方だ」

 北のゼランシア砦と対をなす南の防衛の要が、ベーケ伯爵家だった。ここが崩れればもはやハイゼンベルクになす術はない。

 恭順か、従わず死を選ぶか。

 多数の前者によって、後者は討ち滅ぼされる。

 部屋に集まっていたハンネス以外の魔道士達は、仲間に引き入れた方がいいとハンネスにぼそぼそと告げる。

 この部屋においての中核は、すでにハンネスからクラウスへと移っていた。

(これで、ひとまずの手勢は手に入りそうだな)

 できるだけいい条件でディックハウトに寝返るには、これだけの功績は必要だ。

 クラウスは部屋の魔道士達に席を勧められて座り、そのまま会合に加わる。

(一番の問題は、どうやってリリーを連れ出すかだよなあ)

 自分の意志で来てもらえないなら強引に、と考えでもないがリリーを捕虜にできるだけの力を持った魔道士などいない。彼女が追い込まれても死ぬまで戦うのをやめないのは、今日の戦で嫌というほど分かった。

 平静な素振りをしていたが、リリーがボロボロになったローブで戦い続ける姿にぞっとした。

 リリーがあそこまで敵に追い詰められて戦う姿を見るのは初めてだった。

 目の前にある死への畏れなど微塵も見せずに、敵の中へと飛び込んで剣を振るう姿は常軌を逸していた。

 彼女が戦うことに夢中になれば自らの命などどうでもよくなっていることがあまりにも恐かった。

 このままであれば、自分は確実にリリーを失う。

 他の誰でもなくリリー自身が自らを死に追いやってしまう。

(剣を握らせなければいいんだろうけどな……)

 クラウスはハンネス達があらかじめ立てていた策を聞きながら、頭の片隅でじっとそのことに考えを巡らすのだった。


***


 食事も湯浴みもすませたリリーは重たい瞼をどうにか持ち上げて、眠気をこらえていた。

 バルドがあとで部屋に来るとも言っていないので、待つ必要があるわけでもない。なのになぜ自分は起きているのかと、自問するが特に答は思い浮かばなかった。

「寝よう……」

 ついに眠気に負けたリリーは長椅子から寝台へと移って、双剣を自分の横に寝かせて上掛けを被る。

 体にのしかかってくる疲労にそのまま眠りへと沈み込む。それからどれだけ熟睡していたのか、リリーは物音に目覚める。

 誰かが部屋にいる。

 思い返すのは、剣の社の戦闘後に灰色の魔道士が眠っている間に部屋に忍び込んできたことだ。

 リリーは眠ったふりをしたまま、側の双剣に指を伸ばす。

 柄を握って近づいて来る足音に耳をすませていたが、暗がりの中の大きな人影を見て柄から手を離した。

「バルド」

 安心すると体を動かす気になれず、リリーは横になったまま声をかける。

「……起こした」

 寝台の側に屈んだで自分の顔を覗き込んでくるバルドの紫の瞳は、こっそりと入るのを失敗しててしょげているらしかった。

「うん。ちょっとびっくりした。どうしたの? 話があるとかじゃないの?」

「起きていれば話。寝ているならそれで問題なし。……リーの、姿見たかった」

 バルドに金茶の髪を撫でれて、リリーは心地よさに目を細める。

「そう。ジルベール補佐官は?」

「おそらく生きる。だが、三人死んだ」

 淡々と告げるバルドの表情に哀しみや怒りなどない。

 足音もなく忍び寄ってくる終焉の影を静かに受け入れている。彼が最初に戦場に立った頃には、敗戦は見えていたのだ。

 戦い抜くことを選んだ者は、死んでいく。

 自分も、バルドも遠くない先にそうなる。

 リリーは自分の髪に触れている手に、自分の手を重ねた。お互い言葉を交わすことなく、どちらともなく顔を寄せて口づける。

 優しく触れあった唇はすぐに離れてしまう。

 バルドがもう一度リリーの髪に触れ、頬も指先で撫でて立ち上がる。

「おやすみ、バルド」

「リーも」

 本当はお互いもっと触れ合っていたかった。ただそうするには躊躇いがそれぞれにあった。

 扉が閉まる音を聞いてリリーは再び眠りにつく。

「……血に刷り込まれた魔術魔術は人の感情に作用できるのか。なかなか面白い命題です」

 そして部屋の影から灰色のローブを纏った男が音もなく現れる。

「やはり、もうひとりの末裔も検証する必要がありそうです……その前に魔力を回復しておかなければ」

 男は思案した後に杖を振るい姿を消す。

 リリーが侵入者に気づく事はなかった。


***


 バルドはうとうとしながらも、今夜もまた眠れずにいた。

 満足に戦闘に参加できなかったのもあって、闘志が燻ったままで消え去らない苛立ちがあった。

 敵のゲオルギー将軍とはほんの少し剣を交えた程度だったが、おそらく自分が今まで戦ったどの将よりも強いと感じた。だから余計に戦えなかったことに不満は募った。

 だが、それ以外のことでも胸にわだかまりを抱えていた。

 戦を終えた後の死者を看取った。何度も経験していることだ。戦場は人の命の灯は儚く、死は日常だ。

 関心のない人間が戦死するのに、胸を痛めるような心は持ち合わせていない。

 ただずっと、リリーを看取るときのことを考えていた。

 今日の戦も危ういところだったのは、リリーの姿を見ただけで分かった。

 彼女は望むままに戦って、死んでいく。自分も同じだからリリーの戦うことへの貪欲さはよく分かっている。

 ただ、リリーは自分と違うところがあると気づいてしまったのだ。

 自分には戦うことしかない。生きる場所は戦場以外にないのだ。

 だけれどリリーは戦場以外でも笑っていられる。

 リリーは全部自分と同じだとずっと思っていた。唯一無二の同類で、本当にわかり合えるのはお互いだけだった。

 自分はリリーで、リリーは自分であるはずだった。

 だけれど、本当は違う。

 だから必ず終わりが一緒であるとは限らない。一緒である必然もないのだ。

 自分はいつも耳を塞いで、目を閉じて、認めたくないことから逃げている。同じようにリリーの目を、耳を塞いでいるのかもしれない。

 考えれば考えるほど、自分がどうしたいのか、どうすべきなのか混乱してくる。

 バルドはふるりと頭を振って、側の神剣を持って部屋を出る。魔術は使わずとも、ただ剣を振るっているだけでも多少は気が紛れる。

 夜更けに何事だろうか衛兵が訝しむ視線に気づいて、バルドは素振りとだけ答えて広間に出る。

 絶やされることのない篝火に照らされる広場ではなく、砦の裏手の演習場にたどりついたバルドは、ふと人の気配を感じて辺りを見回す。

 だが庭木の多いこの場所は物陰が多すぎる。

 敵意や殺意は感じないが、ただじっとこちらの様子を窺っているらしかった。

 バルドは剣を振り、切っ先を視線を感じる方へと向ける。そうするとかさりと下草を踏む音がしたが、ほんの二、三歩ほど歩いた程度のものだった。

 音のした場所に行き暗がりの中目を凝らすと、確かに下草が踏み潰された跡が残っていた。

 だがほんの数歩ぶんぐらいと見られる程度にしか痕跡がなく、突然その場に現れて少しうろついた後にまた消えたかに見える。

「……灰色」

 バルドは思い当たる節をつぶやいて、考える。

 なんらかの魔術を用いて突然現れ消える、灰色のローブを纏った魔道士。誰も知り得ないはずだった、リリーの心臓に隠された神器のことも知っていた正体不明の男。

 神器の納められていた社の付近での目撃が多いので、自分の持っていた神剣に興味があるのかもしれない。

 あるいは、またリリーに接触を図ろうとしているのか。

 バルドは剣をしまい、リリーの部屋の前で夜を明かすことに決めて砦の中へと戻った。

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