灰色の影
序
「皇妃様、おめでとうございます。皇子様でございますよ」
ディックハウト皇主に十五で嫁いだロスヴィータは、結婚三年目にしてやっと授かった子供を産婆に腕に抱かされて呆けていた。
死んでしまうかと思うほどの出産の苦痛から、まだ体も精神も回復しきっていなかった。
まだ夜明けで蝋燭の灯だけでは顔もよく分からなかったが、もぞもぞと動く赤子の重みを腕に感じている内に衝動的に涙が零れた。
「わたくしの、子」
ぽつりとつぶやくと産婆が満面の笑みでうなずく。
「ええ。そうでございますよ。皇太子殿下をお産みになられたのですよ。ご立派なことです……まあ、宰相閣下、お身内とはいえ皇主様より早くいらっしゃるとは」
そこへ宰相である年の離れた兄が入室してきて、産婆が眉を顰めた。
「皇主様はまだお休みになられている。皇子か。ロスヴィータ、よくやった。皇太子殿下をお休みさせろ」
自分の甥であるのにまるで暖かみのない言葉で産婆に命じる兄に、ロスヴィータは反射的に我が子を腕に抱き込む。
「さあ、皇妃様。皇太子殿下はわたしどもがしっかりとお世話をしますので」
産婆が赤子に手を伸ばしてきたのを拒もうとしたが、体は疲れ切っていて抵抗する力はなかった。
「ロスヴィータ、お前が産んだのは皇太子だ。そう心配せずとも、大事に扱われる」
乳母が去った扉をじっと見ていると、兄が寝台の側にやってきて自分を見下ろしてくる。
「……あの子はわたくしの子です。それ以外の誰の子でもありません」
そう、自分があの子を産んだ。それだけでいい。
他のことはもうどうでもいいことだ。
「そう、あれはお前の子だ。子供の成長を見ていたいなら、余計なことは考えるな」
喉元に指をかけてくる兄に、ロスヴィータは息を呑む。
脳裏に浮かぶ無残に殺害され暗い海に打ち棄てられた侍女の姿が、自分へとすり替わった。
「ええ。承知しました、兄上」
承諾したというよりも、諦観が強かった。ロスヴィータはそのまま意識を失うように、遠くに聞こえる赤子の泣き声を聞きながら眠りについた。
***
それより十年。
天蓋付きの寝台の中央に横たえられた息子のアウレールの姿に、ロスヴィータは愕然とする。
「アウレール……」
赤らんだ顔で浅い呼吸を繰り返すアウレールは、息も絶え絶えといった様相だった。
ここグリザド皇国は黒のハイゼンベルクと白のディックハウトが皇位の正統性を争い、五十年にも渡って戦が続いている。
今は島の北方に位置するゼランシア砦で、全ての勝敗を左右する戦の只中。
ディックハウトの勝利は目前だった。
前皇主が五年前に崩御しアウレールがディックハウトの皇主に即位して五年。もうすぐ皇国の正統な皇主となるのだ。
「なぜ、神器を……」
ロスヴィータは息子の小さな手を握って、その尋常ではない熱さに声を震わせる。
アウレールは戦勝祈願のために神器が祀られている社に籠っていたが、突然社の扉が突開き、彼が高熱を出して倒れていたという。
アウレールの傍らには、グリザドの左腕が変じたという神器、『杖』があったそうだ。
本来神器は棺に納められており、式典や祭事以外で外に出すことはない。アウレールが興味本位で重たい棺の蓋を開けたとも思えなかった。
「アウレール、母の声が聞こえますか。アウレール、どうしてこんなことに」
まるで反応を示さない息子に、ロスヴィータは涙を滲ませる。
侍医も高熱の原因がまったく分からず、『玉』の魔術でも熱をわずかばかり下げることすら出来なかった。首元や額に氷嚢が置かれていたが真夏の気温と、アウレール自身の体温ですでにほとんど水になっている。
「アウレール……」
『玉』の魔道士であるロスヴィータは息子に声をかけながら、魔術の媒体である碧玉の指輪に意識を集中させる。
魔術が効かないと聞かされていても、やらずにはいられなかった。
自分の命ごと注ぎ込むように、ロスヴィータは魔力を指輪へと流し続ける。暑さだけではなく、額にじんわりと汗が滲んで体が重くなってもやめられなかった。
ピシリ、と大量すぎる魔力に耐えきれなくなった碧玉に罅が入る。
「アウレール!」
その時アウレールの指先が動いて手を握り返してきて、ロスヴィータは大声で息子の名を呼ぶ。
「は……は、うえ」
風が天蓋の紗を揺らす音かと思うほど微かな声ではあったが、確かにアウレールはそう言った。
「アウレール、母はここにおります。お前の側に!」
しかし反応はそれ以上は返ってこない。だが心なしか呼吸が楽そうに見えた。
ロスヴィータは侍医を呼ぼうとしたものの、魔力を使いすぎたせいか体がまるで動かなかった。
「皇太后様!」
新しい氷嚢を持ってきた侍女が、その場に倒れ込みそうになっているロスヴィータに駆け寄る。
「わたくしの方はかまいません、早く侍医を。皇主様が……」
そうしてアウレールの容態は多少回復したと侍医が診たものの、まだ意識は戻らなかった。魔術が効いたのは血が近いためかもしれないということで、ロスヴィータは魔力が回復したならもう一度治癒を施すことにした。
「アウレール、どうか目覚めて」
息子の柔らかい髪を撫でながら、ロスヴィータはひたすら祈る。
アウレールは自分の全てだ。
妊娠が分かった時から産まれるまでは不安ばかりがつきまとっていたが、初めて腕に抱いた時から何があろうとこの子を護ろうと心に決めた。
どんな嘘を吐いてでも、だ。
これはその罰だろうか。
「罰を受けるのならわたくしです。アウレールに罪はないのです……皇祖様」
贖罪を口にしてロスヴィータは、ただひたすらに祈るばかりだった。
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