1
夏も盛りに入った皇都ベルシガはゼランシア砦奪還の大戦を目前に控え、慌ただしい日々が続いていた。
誰よりも疲弊が激しいのはバルドだろう。
将軍執務室の長椅子と壁の間に座るリリーは、自分の膝を枕にして眠るバルドの硬質な黒髪をそっと撫でる。
ひと月あまり前、バルドの兄である皇太子のラインハルトが病没した。喪が明けると同時に彼は父である皇主に譲位を願い出て即位した。それからというもの、バルドは王宮と兵舎を往き来する毎日を過ごしている。
(政務までやってるのよね……信じられないわ)
ここ数代、皇主というのは宰相の言葉に首を縦に振るだけの存在だった。だがバルドは即位すると、政務を宰相に丸投げすることなく自ら主導している。
まっとうに人と会話をすることもできずに、常にリリーを横に置いていたバルドは彼女抜きで朝議に出ていた。
あいかわらず、意思の疎通はままならないらしいが自分の意見をまとめた書面と、大臣達の意見に是か否か答えるでなんとかこなしているらしい。それに加え、将軍としての職務もこなしている。
肉体は丈夫だが、精神は繊細なバルドはずいぶん疲れ切っていた。今も夜ではなく、昼を少し過ぎた頃合だ。朝に王宮で政務をこなし、今は昼食の後にお気に入りの寝床で小休憩を取っている最中だった。
リリーはバルドの寝顔に目を細める。
膝を貸しているのは一緒にいて欲しいとバルドが望んだからだった。添い寝するには狭苦しいのでこの格好に落ち着いたのだ。
(……自分で自分のことを全て決められる、か)
フリーダと最後に交わした言葉を思い出して、リリーは自分の心臓の鼓動に耳を澄ます。
魔道士の力量は血脈が重要視され、魔力の高さと身分は比例するのでどこかの貴族の娘だろうとは言われつつも親族は全くみつからず、自分のことは自分で作り上げて行かなければならなかった。
誰かの思い通りになったら、自分というものが損なわれる怖れを抱くほどに自らの決断を優先して生きてきた。そのつもりだった。
だが、違ったのだ。バルドと出会い彼に惹かれるように、仕組まれていた。自ら選び取ったはずの居場所は、あらかじめ他人に決められていたことだった。
(なんで皇祖はこんなことしてくれたのかしら)
それを決めたのは、皇祖グリザド。自分の出自は皇家の血脈だったのだ。
山奥の屋敷で皇祖グリザドは自らの双子の息子と娘を夫婦にさせ、さらにその子らも契らせて千年もの間兄弟間でのみ子孫を成してきた皇家の純血の末裔だった。
常軌を逸してまで純血を保ったのは、神器を保管するためらしい。
皇祖グリザドの体は死後、右腕が剣に変じ、左腕は杖に、最後にその心臓は深紅の宝玉へと変化したという言い伝えがある。
バルドのすぐ側の壁に立てかけている大剣が、神器のひとつグリザドの右腕とされる神器である。
グリザドの左腕とされる『杖』は、祀られていた社ごとディックハウトが占有している。
そうしてグリザドの心臓と呼ばれる『玉』は、ハイゼンベルクが所有していると宣言してしていたが本来祀られているはずの社になく長らく所在不明だった。
五十年越しに判明した、グリザドの心臓の在処はリリーの体内だった。
人目を避けて代々、グリザドの心臓は子から子へと移され続けていた。神器の容れ物とするために純血を保っていたのだ。
本来ならばリリーも、兄弟と契り次の器とその伴侶を産むことになるはずだった。しかしリリーの母ヘラは双子の弟であり、神器の容れ物であった伴侶のヘルゲとの間にリリーひとりしか産めずに没した。
そうしてリリーの父は、グリザドの言い残した通りもうひとつの皇家の血脈を伴侶とすべくリリーを皇都まで連れてきた。言い伝え通りに、神器や血脈に関しては一切誰にも伝えずリリーを孤児院の前に捨て、心臓をすでに娘へと移し変えていた彼は間もなく死んだ。
なんのためにグリザドがこんなことを子孫にさせているのかは、唯一生き残っている肉親である祖父のクルトも知らなかった。ただそうするべきだと伝えられるままに行動しているだけなのだ。
(あたしはバルドを見つけた)
祖先曰く、自分は伴侶となるもうひとつのグリザドの血脈に巡り会い必ず惹かれるということになっていたらしい。
千年も前から仕組まれていたのだ。
「……リー、いる」
ふっと、バルドが目を開いて紫の瞳をリリーに向ける。
「いるわよ。まだ時間あるし、もう少し寝てたら?」
「起きている。このまま」
バルドが側ににあるリリーの手を握った。けして強い力ではないが、どこかすがりつくようだった。
リリーが自らの意志で決めた居場所を失った時、バルドも大事なものをなくしてしまっていた。
病弱だったラインハルトが最後に望みをかけたものはグリザドの心臓だった。自らの弱った心臓とリリーの心臓を入れ替えることを画策したのだ。
僅かな可能性だろうと、忠誠を誓う兄のためになら何でもすべきだとラインハルトに要求されたバルドは拒んだ。
そうして、ラインハルトは死んだ。
ラインハルトは誰からも避けられていたバルドに、作法と教養を与えた人だった。自分に都合よく弟を利用するためだったとはいえ、父とは疎遠で母を産まれてすぐに亡くしたバルドにとっての唯一無二の肉親であり、彼自身の一部を作り上げたのがラインハルトだ。
そんなラインハルトよりもリリーの方が大事だと、バルドは選択した。
だけれどいくら切り捨てても、ラインハルトはバルドの一部だった。欠けたものを埋めんとするかのように、バルドは即位してラインハルトのなそうとした、皇家主導の内政をしている。
「バルド?」
おもむろに起き上がったバルドに、リリーは何か急な用でも思い出したのかと首を傾げる。
しかしすぐに抱きすくめられて、そうではないと分かった。
「……嫌な夢でも見てたの?」
「リー、いなかった」
バルドがぼそりと耳元でつぶやいて、リリーは彼の背中に片手を回す。
「側にいてって言う限り、あたしはバルドの一緒にいるわよ」
結局、バルドの側にいたいという意志が自分のものであるかそうでないかは、分からずじまいだった。
ただバルドの望むことを叶えたいという気持ちがあった。
誰かの意志に従うなどずっと拒んできたが、従うのならバルドがいいと他人に初めて自分自身の意志を委ねることを受け入れたのだ。
訳の分からない先祖に動かされるより、バルドの方がずっといい。
「リー、ここ」
リリーはバルドが一度体を離しながらも、自分の足の間に座ることを促すのに従う。
「……もうちょっとしたら軍議ね。クラウス、くるのかしら」
この後の軍議にバルドと同時期に知り合った昔なじみのことを口にしながら、バルドの広い胸を背もたれにする。
「こずとも、宰相から伝わる」
長らく実権を握り続けた宰相家の次男であるクラウスとは、彼がバルドのお目付役だった縁で今も親しい人間のひとりだった。
しかし、クラウスはハイゼンベルク側に残る気はない。沈みかけの船に乗る気はないと、常々言っている。そんな彼を今度の戦に同行させるかどうかが、協議されていたのだ。
「そうよね。兄嫁と引き離したほうが得策ってだけで、元々は一緒に行くことになったわけだから直接伝える必要はないけど、仕事手伝ってもらわないと。最近まで行くかどうか分からないから、まともに軍の仕事させられなかったし」
最大の問題はクラウスの兄の第一夫人だったアンネリーゼだ。南部の要となるベーケ伯爵令嬢である彼女は、クラウスのために夫の首を切り落とした。
クラウスがアンネリーゼを足がかりにベーケ伯爵を寝返らせ、ディックハウトへ離叛することが最大の懸念だった。
「……面倒」
「そうね。……あたしのこと、本当に厄介なことになってないの?」
貴族が宰相家の後釜におさまるためにバルドを手懐けている自分を養女にして、皇妃にしよう企んでいたり、あるいはバルドの自立に不要として排除せんとした者もいた。
前者はともかくとして、後者には自分の出自や神器のことを知る者が数人いる。
「問題なし」
バルドはいつもそうとしか言わない。政務にまで自分を付き合わせないのには、面倒事を避けるためだったのだろうと、うっすらと気付いてはいる。
「……リー、心配不必要」
リリーの体を抱きしめながら、バルドが言う。
立ち入るなと言うなら、大人しく従うのだけれど。
リリーは顔を上げてバルドの表情を見ようとする。だがその前に唇を塞がれる。
昔、男女のことなどまるで分からず、何度も交わしてきたのものとは違う。
意味を知って面はゆさにしばらくは拒んでいたが、バルドが望むのならと多少の恥じらいは覚える者ものの受け入れていた。
(なんなのかしら、あたし達)
恋人同士と言うにはまだ違和感に似たものがある。
バルドが自分を好きでいてくれても、自分の気持ちがはっきりしないせいかもしれない。
この心臓がバルドの血を望んでいる故の好意か、自分自身の七年一緒にいたバルド自身に対する想いなのか。
唇が離れるとリリーは口に出しかけていた言葉も、疑問も呑み込んでバルドが望むままに静かに寄り添うのだった。
***
第二の王宮とも呼ばれる宰相家の屋敷の一室で、クラウスは兵舎へ向かうために黒いローブを羽織る。
午前は屋敷にいるように父に言い含められて、軍での雑用をしない口実にもなるしと大人しく従っていた。しかし王宮での朝議の後はゼランシア砦奪還に当初の予定通り、自分も参戦することが決定して軍務につけと命じられたのだった。
「クラウス、いいかしら」
部屋の扉が叩かれてクラウスは自ら扉を開ける。
そこには美しい女が立っていた。金糸の巻き髪に、白磁の肌と碧玉を填め込んだ瞳。『人形姫』と呼ばれるとおり、どこもかしこもつくりものめいた美しさがある。
年は十九と二十二のクラウスより年下ではあるが、兄の妻で義理の姉となるアンネリーゼだ。
「義姉上、俺は今から兵舎に行くんですけど急ぎの用ですか?」
問いかけると、不安そうに胸の前で両手を組んだアンネリーゼがこくりとうなずく。
「戦に、出てしまうと聞いて……わたくしをここに置いていってしまうの? ちゃんと帰ってきてくださる?」
幼子のようにたどたどしいが、ねっとりとした女の執着が見え隠れしていてクラウスはかすかに眉を顰める。
アンネリーゼのことは昔からあまり好きではない。兄のお下がりに手をつける気もなかったし、美しいがそれだけの少女だ。
わずか十二で嫁いできたアンネリーゼに、ただ一言普通に挨拶をしただけで年が近いせいもあって懐かれてしまったのだ。
「そのことでしたら、ご心配なく。皇都で義姉上にやってほしいこともありますから出立までにお伝えします」
「ええ。わたくしにできることならなんでもするわ。……皇主様にクラウスが討たれることはないわよね」
戦に参戦させられる理由はアンネリーゼと引き離すと同時に、戦場なら都合よく始末できるからだろう。兄もそうやって人を使い自分を戦場で殺そうとした。
「……俺ひとり死なせるのに、わざわざバルドは使わないですよ。危なくなったら離脱しますし、その時のことも後で説明しますから」
ひとりで勝手におろおろしているアンネリーゼにうんざりしているが、先々にために蔑ろにするわけもいかない。
「わかったわ。……それで、あなたの婚約の話はなかったことにしてしまうの? バルド殿下は即位されたのだし、彼女をそのうち皇妃に迎えるおつもりでは?」
「……しばらく噂は噂で放っておくことになりました。義姉上と俺の関係を疑われないためにもその方がいいでしょう。それにそう簡単に一介の孤児と独断で婚姻はできませんよ」
クラウスはリリーと婚約したという噂を周囲に流していた。正確に言えばリリーに求婚したと話しただけだが、尾ひれや背びれがくっついて婚約したことになっている。
リリーもバルドとの関係を他人に立ち入らせないために、噂を肯定も否定もしないと事後承諾した。
「だけれど、皇主様は誰の言うこともお聞き入れにはならないのよね。お義父様がとても苛立っていたわ」
「単に父上のいいなりになっていないだけでしょう。なんでも自分の思い通りにならないのが気に食わないだけですよ」
バルドの政策方針はラインハルトとまったく同じらしい。そして宰相に全ての決定権を委ねず、他の大臣からの意見を自ら問う。あくまで皇主自らが内政の主導権を握り、権力は分散させているのだ。
ただ決定的にラインハルトと違うのは、味方を作らないことだ。
他人を器用に操ることは、今まで兄に操られてきただけのバルドにはできない。彼に臣下をまとめるということはこなせない。
(バルドが護りたいのはリリーだけだろうからな)
バルドがリリーををあくまで雷軍補佐官として軍務にしか関わらせないのは、政治的なことに彼女を関わらせるつもりはないという無言の主張なのだろう。自分とリリーの婚約の噂を放置しているのも、きっとまた勝手に縁組みされるのを避けるためだ。
リリーの出自に関してはかなり厳重に隠されているらしく、ほとんどの人間が知らないらしい。
(やっぱりディックハウトと関わりがあるとかか? 神器にも関係してるみたいだけどなあ)
情報は依然として掴めないままだが、どうやら父にすらはっきりしたことが教えられていないことまでは知った。隠されれば隠されるほど、ことの重大さが浮き彫りになってくる。
おそらく、戦況を左右するだけのものがリリーにある。
「……クラウス、何を考えているの?」
アンネリーゼがひどく不安げに声を震わせて、クラウスは思考を止める。
「この沈みかけの船から脱出する方法ですよ。考えなしに海に飛び込んだって助からないでしょう」
「そうね。……必ずわたくしも連れて行ってくれるのよね」
何度も同じことを繰り返すアンネリーゼに、クラウスはため息をつく。
「もちろん。兄から俺を解放してくれた義姉上をこんな所には置いていきませんよ。では軍議に遅れるので、失礼します」
潤んだ碧玉の瞳が期待しているものを見ない振りをして、クラウスはアンネリーゼとの会話を打ち切る。
アンネリーゼが求愛の言葉を待っているのは知っている。あまり期待させても後々面倒で決定的なことは口にする気はない。
自分には心に決めた相手がいるのだ。
最初はただのバルドのお気に入りであるという理由だけで、リリーが気になっていた。ただ一緒に過ごす時間が増えて、彼女の特別になってみたいと思うようになった。
もうバルドのものだからという理由はない。自分はリリーを愛おしく思っていて、手に入れたいと願っている。
(……義姉上には、勘づかれてるよなあ)
アンネリーゼがしきりにリリーとの婚約話を気にしているのは、女の勘というものだろう。
(リリーをバルドから引き離す方が先決だな)
一番の難題だが、バルドとリリーの関係は目に見えてラインハルトの死から変化していた。バルドの方がリリーへの執着を増しているのは当然として、リリーの方が一歩退いているかに見えた。
リリーは以前よりもバルドにべったりでを甘やかしているが、彼女自身がバルドに寄りかかっている様子がない。
「……エレンが事情を話してくれればいいんだけどな」
ラインハルトに唯一信頼され、常に側に控えていた侍女のエレンは主君亡き後、生家へと帰っていった。彼女が仕えていたのはラインハルト個人で、皇家に忠を尽くしていたわけではない。
手紙を一通だけ送ったものの、返事はいまだなかった。
隠されたことについて全てを知っていて、情報をくれそうなのはエレンだけだ。
だが、帰郷するときにはラインハルトの後追いをしそうなほど憔悴していた彼女に、もう何かをするという気力はないかもしれない。
出征前に返事が来れば助かるのだがと、半ば諦めぎみにクラウスは屋敷を後にした
***
丘に築かれた皇都の頂点に佇む王宮の一画、夜更けにバルドは執務机で眠たい目をこすっていた。
ハイゼンベルクの財政は戦で摩耗し、戦で荒廃した土地の復旧も進まず食料の高騰も続いている。何もかもが崩壊寸前まで来ているところへ、どんな案を講じても焼け石に水だ。
だが何もしないわけにもいかず、ラインハルトから習ったとおりに一時凌ぎの打開策を書面に認めていかねばならない。
もういっそ全てを誰かに押しつけて、戦が始まるまでリリーと一緒に怠惰に過ごしていたいと投げやりな気分にもなってくる。
(兄上……)
ラインハルトは死んだが、兄に与えられたものまで死なせてしまいたくなかった。
兄にとっては自分は都合のいい手駒でしかなかったけれど、それでも自分にとってはかけがえのない存在だったのだ。
政務がひと区切りつくと、バルドは手を止めて背後の窓を開ける。湿ったなまぬるい潮風が吹き込んでくる。
この執務室は、海側に面していて窓の向こうには黒い海が広がっている。真下を覗き込んだ先も街も、遊里のある場所だけぽつぽつと灯があるだけだ。
ハイゼンベルクの先はもうないだろう。次に待ち構える戦に負ければ、ディックハウトの勝利が磐石となる。
(……勝つ)
自分は自ら剣を振るって戦い勝利の瞬間の快楽を得たいだけだ。ハイゼンベルクそのものを、勝利に導くつもりは毛頭なかった。
死は恐ろしくない。戦って死ねるならそれでいい。
だが、リリーを失うことだけは耐えられない。
「先がいい」
ひっそりとバルドは願望をつぶやいた。
死ぬのならリリーより先に逝きたい。
自分が終わるときは戦が終わる時となるだろうが、リリーはきっと最後まで戦い続けるだろう。
命果てる瞬間まで深い緑の瞳をきらきらと輝かせ、笑みを浮かべて双剣を振るうのだ。
しかし、ふと胸が軋んだ。
本当にそれでよいのだろうかと漠然とした疑問が胸に浮かび上がってくる。
何がだろうと、バルドは首を傾げて頭に浮かぶのは、戦場ではなく普段、嬉しいときや楽しいときにリリーが見せる笑顔だった。
戦場の力強く輝いてはないけれど、木漏れ日のように柔らかく滲む光に似た微笑み。
ふるりとバルドは小さく頭を振る。
漠然としたものは漠然としたままで、何も分からなかった。
「リー……」
今、分かるのはリリーと四六時中一緒にいたいということぐらいだ。
だが彼女を煩わせないためにもひとりで政務はこなさなければいけない。
皇家の純血、心臓の神器。ハイゼンベルクとディックハウトの皇家の正統制を争う、この戦を根本から変えてしまう可能性のあるリリーはどちら側にとっても都合が悪い。
できるだけこれまでと同じくリリーと一緒にいるには、彼女を政に関わらせてはいけない。ハイゼンベルク方に利用価値があるとも思わせてもいけない。
だからこそクラウスとの婚約話も放置しているのだ。
リリーの出自と神器のことを知るのは、典儀長官であるブラント伯爵とその嫡男と次子で水軍の将であるラルス。それからラルスの補佐官であるカイ。あとはラインハルトの側近であった侍女のエレンと、神器の捜索に携わっていた彼女の父であるベレント男爵のわずか六人である。
宰相はリリーが皇家の傍流とまでしか知らない。
「灰色の魔道士……」
そしてもうひとり秘密を知っていると思われる人物。
神器の社周辺で目撃されリリーに接触してきた、灰色のローブを着た魔道士。人里離れた山奥に魔術で隠されたリリーの生家に侵入し、誰よりも皇祖全てを知っているらしかった。
ハイゼンベルクの魔道士でもなければ、ディックハウトの魔道士でもないらしい灰色の魔道士の正体はまるで掴めない。
グリザドだけが使用していた神聖文字を用いた魔術を扱っていたり、五十年続く内乱のことを知らなかったりと不可解なことも多すぎる。
だがリリーの心臓に埋められた神器をどうにかして取り出すことができないか、なぜ純血を保つことが必要だったのかをおそらく彼は知っている。
全てを知るために灰色の魔道士を探すことをリリーと決めたが、戦でそちらに人手を割いている余裕がなかった。お互いに見つからない可能性が高いとも、考えてはいる。
しかし灰色の魔道士が一体何の目的で、神器に関わる所でうろついているか分からないのは不気味だ。
尽きない不安にバルドはため息を零して、執務机に戻る。
明日には出征前に開かれる夜会についても、話を詰めることになっていた。
この戦況と財政状況で豪奢な夜会などとは思うが、士気をあげて対外的にも余裕があることを見せるのには必要だ。
見栄を張るために、くらだらない無駄なことをするのだと兄は自分に教えた。
「夜会……」
人が多く集まり騒々しい行事は苦手で、バルドは今からうんざりしてしまう。
しかしリリーも人が多いのは嫌うが、着飾ることは好きらしいので彼女を喜ばせられるということがひとつだけあるだけましといえばましだ。
バルドはリリーに髪を飾るものを贈ろうかと考えながら、再び退屈な政務に戻るのだった。
***
出征まで十日を切り軍は慌ただしさを増していた。午前から軍議でリリーもひとり王宮にある軍司令部まで出てきていた。バルドは政務が押しているらしく、もう少し後になりそうだと到着してから教えられた。
リリーは他の将軍と補佐官が控える広間にいるのは居心地が悪いので、複雑な文様が編み込まれた絨毯が敷かれた廊下でひとりバルドを待つことにしたのだ。
ゆるく三つ編みにしている自分の金茶の髪を撫でながら、高い天井を見上げる。
軍司令部の建物は王宮内とあって兵舎よりも小綺麗な造りだ。
(こういうかしこまった場所って苦手だけど、人がいないっていいわね)
昔から人が大勢集まる戦場以外の場所は苦手だ。しんと静まりかえっている廊下は落ち着く。風通しもいいのか、兵舎よりも涼しいのがさらによい。
しかしリリーが静けさにくつろいでいられたのも束の間のことだった。
「おはようございまーす。アクス補佐官はこんな所でどうしたんですか?」
間延びした男の声が聞こえて、リリーは表情を険しくする。
「……おはようございます。ブラント将軍、ベッカー補佐官」
声をかけてきたのは水将であるラルスだった。彼の後ろには補佐官であるカイもいる。皇家主導の内政を理想とするラルスは、ラインハルトを皇主とするためにリリーの命を奪わんとした。
緊張感のないだらけた笑顔の裏で何を考えているか見当がつかない。警戒心を剥き出しにした視線をリリーが向けると、ラルスの後ろにいるカイは困った顔で後ろ頭をかく。
リリーが先日負わせたカイの足の怪我はもうよくなっているらしい。
「……皇主様待ってるんだろ。俺らは広間で待てばいいだろ」
カイがラルスのフードを引っ張ってリリーから引きはがそうとする。
「んー、じゃー暇つぶしにおじさん達と一緒にお話ししないかなー? ほらー、最近の皇主様のご様子とか。政務も有能なお方ですけど、あまり誰かに相談らしい相談はなされないんだよね。どうです、そういうこと何か皇主様から聞いてないかなー」
「聞いてません。だいたいあたし、政治のことなんて全然分からないですから」
事実、リリーはまったく政治に詳しくないのだ。相談された所で何も答えられない。
あまりにも無知すぎて困ることもあるので、多少は知っておかねばならないとは思ってはいる。しかしながら何を学べばいいかすら把握できていないので、結局何か問題が起きたときにバルドかクラウスから教えてもらうことになるのだ。
「あらあ、リリーちゃんきていましたの? いやですわ、ブラント将軍、若い女の子を捕まえてこんなところでなにをしていらっしゃるのかしら」
リリーは新たに聞こえて来た面倒くさい人物の声に顔を顰める。
凹凸のはっきりした体の線にぴったりと沿ったローブを纏い、踵の高いブーツを履いている妖艶な美女が廊下の奥から颯爽とやってくる。
珍しい桃色がかった金髪が目を惹く彼女は、炎将のヴィオラ・フォン・ジルベールだ。
「僕が捕まえたんじゃないよー。アクス補佐官がひとりでいたからちょっとお話してただけ」
「でしたらわたくしがリリーちゃんのお相手してさしあげたのに。これからしばらく戦で一緒なのですから、じっくりそのお話をすべきでしょう」
ゼランシア砦攻略はバルド率いる雷軍とヴィオラ率いる炎軍の合同部隊になっている。
小さくて可愛いものが好きだと言うヴィオラは、いきなり抱きついてくるのでリリーは苦手だった。
だいたいは補佐官であるヴィオラの弟のマリウスが止めてくれるのだがと、リリーは赤毛の青年の姿を探し廊下の奥で見つける。
姉と違ってまったく表情らしい表情がないマリウスは、少し離れた場所でこちらをじっと見ている。
「あー、そうですね。でも、皇都でお留守番する僕等はしばらく会えなくなるから、今の内にお話しておきたいこともいろいろありまして」
「まあ、お話って何をなさるのかしら。ブラント将軍、皇主様が即位なさってから少し出過ぎではありませんこと?」
ヴィオラが微笑んだまま瞳を鋭くするのに、ラルスも笑みを崩さずに小首を傾げる。
(面倒くさいことになってきたわ。水将が皇家派で炎将の父親のジルベール侯爵が宰相の後釜狙いだったわよね……)
軍司令部で高官の位置にいるジルベール侯爵はリリーを養女に迎えようと画策していた。いずれバルドにリリーを嫁がせ、外戚の立場を手に入れて宰相家の立ち位置につくためである。
要は皇主はお飾りにして自分が実権を握ろうと狙う、数多の貴族のひとりだ。皇家主導を理想とするラルスとは立場は逆になる。
バルドに近しい場所にいる以上、政治問題はついて回る。
リリーはうんざりしながらも、後ろは壁で正面で自分を囲うようにしてラルスとヴィオラが睨み合っているので逃げ場がなかった。
いつもは将軍を窘めている補佐官も、政治的な駆け引きとあって静観するだけだ。
(バルド、早くこないかしら)
軍議が始まればこの厄介な争いから逃げられる。
戦うことは好きだが剣を使わない争いはからきし苦手なリリーは、ラルスとヴィオラの会話を聞き流してじっと耐えることにした。
「リー、遅くなった」
幸い、バルドがやってきたのはそれからすぐのことだった。
さっとラルスとヴィオラがリリーから離れて深く頭を下げる。
(……皇主様、なのよね)
上背ばかりが大きくなった幼馴染みを見上げながら、リリーはぼんやりとそんなことを思う。
まだバルドが皇主であることには実感があまりなかった。元より皇子らしくなく身分差などほとんどなくずっといたのだ。
即位したからといって身分差に対する感覚がそう変わることもない。
こうしてバルドへの周りの態度が、皇子であった頃よりさらに慇懃なものに変わったことに違和感めいたものを覚えてしまう。
「……次から、遅れない」
リリー以外を追いやってぼそりと言うバルドの目元には、疲れが滲んでいた。
出征の日取りが迫れば迫るほど政務も軍務もやることが増えて、この所まともに昼食を摂る間さえない日が続きバルドは仕事に忙殺されている。
軍務以外で顔を合せることもここ最近は少なかった。
「あたしは平気だから、無理、しなくていいのよ……」
立ち入るなとバルドが無言で訴えてきても、疲れ切った顔を見ているとそう言わずにはいられなかった。
彼の無茶をする理由に自分の存在があると、気付いているから尚更だ。
「無理はない」
バルドが足を止めて見下ろしてくる。
「……バルドはあたしにして欲しいこと言うだけでいいのよ。一緒にいろっていうならそうするわ。そのためにバルドが何かする必要なんて、なんにもないんだから」
バルドが望むことはなんでもすると決めたのだ。自分は多少の面倒だって我慢するし、煩わしいといってもそこまで負担に思ってはない。
「リーは、一緒にいるだけでいい。面倒事は俺ひとりでしたい」
バルドが手を握ってきて、リリーは弱々しく握り返す。
「……分かったわ。でも、無理はしないでよ」
「しない。じき戦。戦える」
バルドが紫の瞳を鈍く光らせる。まともに戦に出られない鬱屈が溜っているのは、リリーもそうだった。
互いに闘争に餓えている。
「そうね。あたしも思いっきり戦いたいわ」
戦場ほど居心地のいい場所はない。
生死の境で本能のままに剣を振るい勝利を貪る快楽は、なにものにもかえがたいものだ。
リリーはありとあらゆるものから解放され自由になれる戦場に思いを馳せる。
そうしてふたりは手を離して、軍議へと向かった。
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