黒と白の鳴動
序
執務机の書類の整理をしていた十六になったばかりのリリーは、人の気配にふと顔を上げる。開け放したままの扉の所には、すらりとした長身の女性が立っていた。
肩口までで切りそろえられた、白金の髪と深い藍色の瞳をした涼やかな面立ちが美しい女性は、黒のローブを羽織っており、腰には双剣を穿いている。
「……どうしたんですか?」
ローブも双剣も、もう彼女には必要のないもので、そんな格好をしている女性にリリーは首を傾げる。
「いや、つまらない結婚生活が始まる前に君ともう一度だけ試合をと思ったのだが、ね」
つい昨日までこの雷軍において『剣』の統率官を務めていた女性、フリーダがリリーに近づいてきながら苦笑する。
フリーダは結婚するために統率官の役目を辞した。彼女の意志ではない。
最初の魔道士、グリザドが小さな島に建国した、ここグリザド皇国は黒のハイゼンベルク家と、白のディックハウト家に皇家が二分し正統を争っている最中だ。
ディックハウトは十数年前より魔道士の血脈の神聖性を喧伝し始めた。現在は弱冠九歳の幼い皇主を祀り上げて、本格的に神格化を推し進めている。
一時期にハイゼンベルクが領地拡大に躍起になって、下級魔道士を使い捨てにした戦略を乱発した失策もあり、ディックハウトの信奉者の増加は加速し始め、ハイゼンベルクの敗退は目前に迫っていた。
そうして、ハイゼンベルク方の北の護りの要となる、ゼランシア砦を居城とするマールベック伯爵家も離叛が危ぶまれている。それを繋ぎ止めるために、財務大臣の息女である、十九のフリーダは伯爵の嫡男と婚姻を結ぶことになった。
「試合、しないんですか?」
戦うことが好きでたまらないリリーは、フリーダが戦意をなくしていることにがっかりする。
「なんだか、今生の別れみたいだろう。妙に感傷染みててつまらないなと思うとやる気がなくなった。……あまり、君にいろいろ教えてあげられなくて残念だ」
「……後はひとりでもなんとかやります」
士官学校を出てすぐにリリーは十五という若さで将軍補佐官となった。
双剣という高い魔力と同時に、器用さを求められる得物を使いこなせる実力あってこそではない。
雷軍将軍である、第二皇子バルドは言葉も少なければ表情も薄く雰囲気も獣染みている。そんな彼は雷の魔術しか使わない戦闘時の狂暴さも相まって、『雷獣』と密かに渾名され敬遠されていた。
しかしリリーはバルドを恐れるどころか兄以外に懐かない彼が言いたいことや、感情が理解できたがために若く孤児という身分でありながら補佐官に取り立てられた。
戦闘以外はまるきり平均的な能力しかなく、執務は不得手なリリーに必要なことを教えてくれたのがフリーダだった。
「ひとりで、か。君はバルド殿下にしか懐かないな」
真正面に立つフリーダが困った風に目を細めて微笑む。
「……あたしは、別にそれでもいいんです」
そうして、リリーもまた、バルドとしか馴れ合えなかった。四つ年上のバルドとは仕官学校で十歳の時に剣を合わせ、互いに獣のようだと揶揄されるほど戦いに興じる性質であることを直感し共に過ごすことになった。
「そうか。それは、羨ましいな。君は自分で自分のことを全て決められる。やっぱり、私は君のことが嫌いらしい」
楽しげにフリーダが笑う。憎悪や敵意はまるでなくて、彼女は本当に愉快そうだった。
「そうなんですか」
フリーダとは私的な会話はほとんどなく、職務についてぐらいしか言葉を交わしていなかった。親しくはないが、不仲でもないと思っていた。
「そうだよ。嫌いだから君のことがとても気になっていたんだろうね。……今日も君は可愛らしくしてる」
フリーダが、リリーのシニヨンに編み込まれた金茶の髪の、耳元に垂れた後れ毛の一筋を指で掬う。
人に触られるのは苦手なので、ついリリーは身構えてしまう。
「いけませんか?」
髪型をいじるのは、リリーにとって唯一の剣以外の趣味だった。それほど華美な髪留めを使ってはいるわけでもない。今日も後ろで纏めて、茜色の小さなリボンで飾っているだけだ。
「いや、好きだよ。君は本当に、警戒心の強い仔猫みたいだ」
嫌いなのか好きなのかどっちなのだろう。
フリーダが髪から手を離すのを見ながらリリーは不思議がる。
「……試合しないんですか?」
どうせならこんな会話よりもやはり剣を合わせたいと、ねだってみる。
「その内また機会が巡ってくるのを待つことにする。邪魔をしたね、またどこかで戦おう」
フリーダの言うどこかは、戦場のことを言っている気がした。
離叛を繋ぎ止めるために嫁ぐ彼女の言葉としては不適切だが、味方がいつ敵に変わってもおかしくない戦況だ。
フリーダが身を翻して、立ち去る。
次に会う時彼女が纏っているのは白のローブかもしれないと、リリーは後ろ姿を見送った。
そうしてフリーダがローブも双剣も持ち込むことが許されず、花嫁衣装ひとつで嫁いでからわずか一年あまり。
リリーの予想は現実のものとなろうとしていた。
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