ひとつ歳をとったからといって、自分自身が何か変わった実感はない。

 リリーはさして代わり映えのない毎日をあいかわらず過ごしていた。使用人服から日常着のドレスに着替えて外に出ると、いつもより魔道士が行き交う姿が多く見られた。

(戦の準備かしら)

 慌ただしく張り詰めた空気は、馴染みのあるものだ。このごろは日中の寒さがいくらか和らいできている。北も暖かくなってきているのなら、そろそろ雪解けが近いかもしれない。

 クラウスもこの頃忙しいらしく、ほとんど顔を見ることもなく会えば疲れた顔をしている。忙しいと愚痴を零すことさえしないので、自分にはあまり話したくない戦のことだろうとは薄々感じている。

 市にでると、相変わらずの賑やかさだったが耳を澄ませば人々の噂話が入ってくる。

(南?)

 果物を並べる店の前で、南側で小競り合いが起きて行商がしにくくなっているという声が聞こえた。情報を得ようと歩調を緩めてあれこれ話を拾っても、北側ですぐに戦が起こりそうな前兆はなさそうだった。

(領地の管理で揉めてるのね……)

 クラウスも少し前に新政府によって領地の所有権が世襲ではなくなっていくことで、しばらくはごたつく事態が起こるだろうと聞いた気がする。難しい話は苦手なので、よくはわかっていない。

(北じゃないんだ)

 皇家軍との決戦というわけではないことに、リリーは無意識のうちにほっとしながら目当ての卵と海老を探し始める。今夜は新政府の中枢にいる者達を招いての夕餉だそうだ。

 無論ただの居候であるリリーは出席はしない。今日はこの夕食会の準備の手伝いが主な仕事だった。

「これと、あとこれと、んー、あとはこっちとこっちお願いします。」

 大振りの海老を十匹選んで、リリーは籠に入れる。後は卵を十個。人混みを分けてリリーは卵売りをなんとか見つけ出す。

 すでに何人か客がいて必要な数を揃えられるか悩ましいところだと思っていると、客のひとりがエレンであることに気づいた。

「あ、こんにちは」

 声をかけるとエレンも会釈を返しながら、リリーの手提げ籠の上に被せた布の端からのぞく海老に目を留める。

「厨房の買い出しですか?」

「はい。今日は夕食会だから準備してるんです。……すいません、十個ありますか?」

 エレンがふたつ買った後、リリーもなんとか必要数を確保する。

「何かと、慌ただしい時期ですからその集まりでしょうか。南での諍いが大きくなって近々出兵だそうですね」

 世情に詳しいエレンに問われてリリーは曖昧にうなずく。

「市を歩いていたらそういう話、してました」

「北への出兵が近いことは?」

 リリーは一瞬言葉を詰まらせて、エレンを見上げる。

「もうすぐ、なんですか……?」

「今度の南での内紛が大きくなったのも、そのためとも言われています。北までついて行けなかった皇家派が革命軍への足止めを始めたのではとは、と。しかし、潜んでいる皇家派をいくら合わせても、兵力差がありすぎますから……」

 勝てる見込みもなければ、皇家軍の敗北も止められるものでもない。

「死に場所がほしいだけなのね」

 リリーのつぶやきにエレンの返答はなかった。

「……灰色の魔道士は今もいるのですか?」

 身の置き所のない居心地の悪さに気が重苦しくなっていると、エレンが話題を変える。

「いますよ。あたしにかけられてる魔術も改めて調べながら、よくわからないことばかり喋ってます」

 シェルは日々部屋を散らかしながらグリザドの足跡を追い続けている。時々関を切ったように喋り出して、こちらが全く話についていけずにぽかんとしていると失望した顔でため息をつく。

 大陸の本当の魔術という物をまったく知らないので、わかるわけがないではないかと毎回理不尽に思うのだが、喋りたくて仕方ないのだろうとこの頃は何もかも聞き流している。

「まだ何も解明されていないということですか」

「少なくともあたしが理解できることはなんにもないです。あ、皇祖様は永遠を望んだわけでじゃなくて、終わりの方が重要だったのかもって話してたかしら……」

 断片的に覚えているのはそれぐらいだった。

 人為的に魔道士を作り上げることと同時に、魔術を永続的にかけることが重要というのがこれまでの見解だったが、永久機関は存在しないという覚え書きを見つけたことによってこの定説は完全に覆されただとかなんとかそういう話だった。

「終わり、ですか。そうかもしれませんね。永遠に続くものなど、どこにもないのでしょう。皇太子殿下も命を永らえさせることを望んでいましたが、ただ生きるだけが目的ではありませんでした。成し遂げたいことを成せずに無為に生を終えたくはなかったのです」

「……意味がなく生きたってしょうがないか」

 戦場を死に場所に選ぶ人間は、戦でしか生きる意味を見いだせないからだ。自分もそうだった。

 だけれど今のこの生き方を、自分は意味のないものだとはもう思えなかった。

 せっかくできた友人のカルラは大事で、あたらしいことを始めてみることも、自分のできることを模索していることも無駄なこととは思わない。

 祖父にももっと自分から歩み寄って行きたいとも思う。クラウスのことはこの先関係が変わるとは今の所全く考えられないが、できることならこのまま友人として付き合えるならそうしたい。

 戦場でなくても自分は生きていける。このままなら、最期に満足はなくても後悔することもなさそうだとも思う。

(でも、なんだろう。やっぱり、変なかんじがする)

 胸の奥で燻っているこの感情はなんだろう。

 押さえきれない何かがあるのを、自分は必死で押さえつけて蓋をしている。手を放して覗き込む勇気がわかない。

「すみません、お手伝いの途中でしたね」

 エレンに言われて、時間に余裕は持ったもののあまりのんびりしすぎてもよくないとリリーは気持ちを切り替えてエレンと別れて屋敷へと引き返す。

 体を動かすことを意識し始めてから上り坂で息切れすることはなくなっていた。


***


 夕食会の準備がすみ、来客がやってくる時間になるとリリーは大広間のすぐ側の部屋まで呼び出された。

 来賓であるジルベール姉弟が顔だけでも見たいということだった。

「まあ、リリーちゃん使用人をしているのは本当でしたのね」

 少年用の使用人服を着たリリーを見たヴィオラが、扇子で口元を覆いながら驚く。

 さすがにこの格好では失礼だろうとはリリーも思ったのだが、時間もあまりないのでそのままでいいと言われたのだ。

「住ませてもらってるので……」

「まあ。まあ。でもその方がクラウスに気兼ねしすぎないでよろしいかもしれませんわね。男の子の服なんて、可愛らしいこと!」

 ヴィオラが今にも抱きついてきそうだったので、リリーは一歩だけ後退った。

「あたしは、このとおり上手くやってますから……特に大事な話があるっていうわけじゃないですよね」

 本当に顔を見に来ただけなのだろうかと、リリーはヴィオラの後ろ手無言で立っているマリウスへと何気なく目をやる。

 なんとなく彼は物言いたげな雰囲気だった。

「わたくしはリリーちゃんに会いたかっただけですけれど、マリウスが直接報告したい話がありますのよ」

 ほら、とヴィオラがマリウスを前に出す。

「……この度、マーキル地方の内紛の鎮圧の指揮をとることになった。革命軍として、皇家軍を討つ」

 彼は一体、自分にそれを伝えるのだろうとリリーはきょとんとする。

「そう、ですか。ご武運を」

 リリーは当たり障りない返事をするが、マリウスの方はさらに深刻な顔つきになってしまった。

「裏切り者と思わないか」

「ジルベール、様が選んだならいいんじゃないですか。あたしは皇家に忠義を尽くしたわけじゃありませんから、昔から離叛者が出ても裏切られたと思ったことはないです」

 本音で答えると、マリウスがなんともいえない顔をして考え込んでしまった。

「…………そうか。戦を終わらせる、その助けを自分はしたい。言い訳に聞こえるだろうが」

 マリウスが言葉を選んでいる中、リリーはなんとなく彼の気持ちが掴めた。

「いい、死に場所を。そういうことですね」

 戦場で終わることを望むかつての同士達に彼は、こういう形で報いたいのだろう。

「ああ。……すまない、きっと私はアクス殿を通して、皇主様にお伝えしている気持ちでいる。わずらわせてすまなかった」

「わずらわしいことはないです。わからないことも、ないですから。あたしは、あたしでなんとかやってます。前に、進んでると思います。……前に進むことは後ろめたいことじゃないって……」

「そうか。そうだな」

 自分の思いを言葉にするのはやはり難しい。それでもリリーとマリウスは、ぼんやりながらもお互いを理解し合った。

「ああ、よかったですわ。リリーちゃん、この子もこれで気持ちが晴れますわ」

「ちょ、ドレスが汚れますよ!?」

 不意打ちでヴィオラに抱きつかれて、リリーは驚く。

「姉上、ご迷惑です」

 マリウスがヴィオラの肩を掴んで引き離す。

 ふっと、マリウスがヴィオラのローブのフードを引っ張って止めていたことを思い出す。水将補佐のカイも、そして自分も世話の焼ける上官のフードをひっぱていた。

 もうずっと遠い昔の出来事に思えた。

 カイは死んで、自分もバルドともう一緒にいない。

 だけれどこの姉弟は変わらないだろうと思うと、嬉しいという気持ちに似たものがわいてきた。

「じゃあ、もう行きますわね。マリウスが戻って来たら、堅苦しくないお食事でもうちでいたしましょう」

 ヴィオラがマリウスと去って行く後ろ姿を見送って、リリーは変わらないもあるのも、悪くないと微笑んだ。


***


 マリウス率いる革命軍は夜明け頃、ひっそりと戦地へと発っていった。

 最後の決着をつける時の民衆への印象付けがうすくなるので今回は目立たずに、ということをリリーは朝食の席でクラウスに聞いていた。

「そういうのばっかりね」

 ディックハウトとハイゼンベルクで戦をしていた頃も、『見栄え』ということは重視されていた。

 だが戦に出るリリーにとって大事なのは好きに暴れられるかどうかだけで、見てくれなどどうでもいいことだった。

「そういうのが大事なんだよ。今の戦は特にな」

 ハムと卵を炒めた物を口に運びながら淡々と返答するクラウスは、疲れているのがありありと顔に出ている。今日も昼食や夕食で顔を合せることができないので、せめて朝食ぐらいはということで一緒だった。

「でも、面倒くさくてたまらないんでしょ」

「そう。俺もこういう面倒なこと考えるのは嫌いだからな。俺は具体的なことは考えないで、意見のとりまとめ役。それはそれで、だけどな」

「どっちにしろ、やりたくない仕事ね」

 パンを囓り、リリーは物言いたそうなクラウスに怪訝な顔をする。

 言いにくいことを言いそうな気配がする。

「で、リリーにもちょっと面倒な頼みがある。八日後にある晩餐会に一緒に出席してくれないか? 大人数じゃなくて二家族ぐらいの身内同士のこじんまりしたやつだ」

 人数が多かろうが少なかろうが、そういった食事会が面倒なことはなくリリーはうんざりした表情になる。

「リリーがそういうの嫌いなのはわかってるけどな、そろそろ公的にリリーの立場をはっきりさせたらどうかって話がちらほらと出てるんだ。まだ時期が早すぎるっていう輩もいる。だから、ごく内輪の集まりで顔だけ見せるだけ見せるってことで」

 どうにも回りくどい言い方をするクラウスを、リリーはどうにか飲み下す。

「……要は、あたしはあんたの身内ってことになるの?」

 クラウスがそういうことだとうなずく。

「俺はリリーとそのうち一緒になるつもりっていうのは変わらないからな。婚約は明言しなくても、結婚する気があるっていうのを周りに伝えること自体に俺自身はなんの問題もない。リリーが決めるには早過ぎるのはわかってる。出るだけ出てくれれば助かる」

 クラウスが真面目に頼んでくるので、リリーも食事をするだけなら行ってもいいという気にはなった。

 だけれど、そこにくっついてくる体面や外聞がひっかかってしまうののがあった。

「……返事、一晩か二晩考えさせてもらっていい?」

 温かい紅茶を飲み込んで、リリーは少し考えさせてくれと返答を渋った。

「二晩までなら。考えてくれるだけでもありがたい」

 クラウスがほっとした顔をして、紅茶を飲み干す。

 そしてリリーは言葉少なに残りの朝食を咀嚼し始めたのだった。


***

 

 昼食を前にした頃、クラウスの屋敷に突然ヴィオラがリリーを訪ねてきた。

「リリーちゃん、突然お邪魔してもうしわけありませんわね。お庭、借りられるかしら?」

「……たぶん、断れる人はいないと思うんですけど戦支度ですか?」

 ヴィオラが毛皮の外套を脱いだ下は、男物の衣装と長靴に剣と、ローブ以外の軍装だったのでリリーは何事かとぽかんとする。

「いいえ。わたくし前線から身を引きましたもの。だけれど、体を動かしたくなったからリリーちゃんに相手してもらおうと思って」

「相手って、あたし、剣は持ってま……」

 言い切る前にヴィオラの侍女が一抱えある荷物を持ってきてリリーに渡す。

 中身は演習用に刃を潰した二振りの小ぶりな剣だった。重量は以前自分が使っていのよりも少し重く両手にずっしりくる。

「手に馴染んでいないからやりにくいでしょうけれど、お付き合いいただけるかしら」

 にっこりと微笑むヴィオラにリリーが首を横に振れるはずがなかった。

 両手に剣を持ってしまったのだ。そして目の前には将を務めていた実力者。これで、できないないなどと言えない。

 久方ぶりの剣の感触に気が昂ぶっていた。

 リリーは屋敷の使用人のとりまとめ役に中庭を使うことをひと言断って、ヴィオラと中庭に出る。

 端の方では洗濯物がはためいているが、魔術を使うわけではないので広さは十分だった。

「リリーちゃん、ちょっと重いかしら」

 ヴィオラがリリーが剣を軽く振って重量を確かめている様子に首を傾げそう

「重いです。でも、うん、なんとかなりそうです」

 まだ間合いは掴みきれないが、重すぎることもないので問題ないだろう。

「なら結構。では、いきますわよ」

 ヴィオラも演習用のレイピアを構えて、ふたりの間の空気が張り詰める。

 心地よい緊張感に、胸の高鳴りは増すばかりだ。

 先に攻撃を仕掛けてきたのは、ヴィオラだった。リリーは避けて、動きながら剣の重さに体を慣らしていく。

 久しぶりということはもちろん、長年の愛刀ととも違ってまだ色々としっくりこない。

 避けた先を突いてくる剣先を、刃で受ける。

 鈍い金属音が懐かしい。

 剣と剣がぶつかり合う音が続けて鳴って、リリーが次第に感覚を掴むごとに小気味いい音へと変化していく。

 しかし体に馴染んだ愛刀との間合いの違いに、狙いがはずれる。

 右下斜めから切り上げた刃は、上手くヴィオラの攻撃を返せずにそのまま体の重心がとれずに大きく体勢を崩してしまう。

 ここから持ち直すには、ヴィオラが強すぎた。

 間髪入れず入ってきた鋭い突きはもう首元に迫っていた。

「……降参、です」

 リリーは潔く負けを認めて剣を収める。

 風が吹いて体がひんやりとし、自分が汗だくで息もずいぶん上がっていることに気づく。

「わたくしもですけれど、リリーちゃん、なまってますわね。でも、やっぱり剣術は楽しいですわね」

 同じく汗だくのヴィオラが清々しい笑顔を見せる。

「はい。でも、なんっでわざわざあたしに。軍にもっと強い人もいますよね。魔術だって使えるし……ありがとうございます」

 よくよく考えてみれば、こんなところまで足を伸ばすよりも魔術も剣術も楽しめる相手は軍にいるずだ。

 リリーはヴィオラと一緒に近くに置いてある長椅子へと腰掛ける。そこへ様子を見ていたらしい侍女が、檸檬水を持ってきてくれた。

「わたくし、今は夫捜しの最中ですもの。あまり、大立ち回りしていては殿方に逃げられてしまいますわ」

「それぐらいのことで、逃げる人と結婚するんですか?」

 純粋な疑問をぶつけると、檸檬水を飲んでいたヴィオラがむせこんだ。

「まあ。そうですわね。わたくしは、子供が欲しいから結婚するのが前提ですもの。自分よりも子供のためいよさそうな夫を選びますわ。ありのままのわたくしを好いて下さる方がいるのなら、最良なことですけれど」

「……あたしには、なんだかよくわからないです」

 ヴィオラの結婚の条件、というのはリリーはまったく理解出来なかった。

 そんな自分を押し殺して窮屈な思いをすることが、いい結婚になるのだろうか。

「自分のありのままを受け入れてくれて、自分が受けいれられる相手なんて簡単にみつかるものではありませんのよ。わたくしは貴族の生まれですから、本当は家同士が勝手に決める所を自分で選ばなければならなくなりましたけれど」

 自分にとってそんな相手は、たったひとりだけだ。

 リリーは口を引き結んで、そういえばとヴィオラにクラウスから今朝聞いた話をする。彼女なら晩餐会を招かれている人物のことは知っているだろう。

 クラウスがあえて話していないこともあるだろう。

「今、幾つか派閥が出来上がってその中でも大きいふたつ派閥の大臣ですわね。そのご家族に招待されてクラウスと一緒にいくというのは、結婚前の顔見せになりますわねえ」

「そいうことにはなるとは聞いてはいます……」

 ヴィオラの話しぶりからして、思ったよりも大仰な話らしいとリリーは考え込む。

「リリーちゃんの立場があやふやなのは、本当の話ですものねえ。でも、リリーちゃんは体面や外聞は気にしませんものね」

 ヴィオラに言われて、リリーは確かにと思う。誰に何を言われようが、自分は気にしない。

 クラウスと食事に行って婚約者扱いされても、それはそれで自分の気持ちが何か変わるわけでもないのだ。

「行っても行かなくても、あたしは変わらないですね……」

 それならクラウスの顔を立ててちょっと食事に付き合っても問題はないが、しかし面倒くさいことに変わりはない。

「そうですわね。さあ、リリーちゃん、もう元気になったかしら?」

 ヴィオラが立ちあがって、もう一勝負と持ちかけてきてリリーは望むところだと受けて立つ。

 二戦目にはずいぶん剣にも慣れて、体も動くようになったとはいえあと一歩の所でヴィオラに届かなかった。

 しかし、負けてもやはり剣が好きだとまざまざと実感すると同時に、実戦での高揚にまでは得られないことに物足りなさもあった。

(剣は手放せないわね)

 それでも、剣は持ち続けたいとリリーは両手にある重みを感じながら、自分の行く先を探し始めていた。



***


 リリーは考えた結果、クラウスの頼みを聞いて晩餐会に出席することにした。

「それで、こんなに……」

 屋敷に遊びに来ていたカルラがリリーから事情を聞いて、寝台の上に置かれた十着近いドレスを呆気にとられながら見る。

 ちょうどカルラがいる時に、クラウスからドレスが届いたのだ。

「手持ちので着て行けそうなのあるのに、どっからこんなに調達してきたのかしら」

 クラウスから以前譲ってもらったものもあれば、衣装棚にいつの間にか追加されていたものもあるのだ。たった一度の晩餐にこんなにも必要なはずがない。

 リリーは古着というには綺麗すぎるドレスにため息をつく。

 当日好きなのを着て、後は衣装棚にしまって他の機会に着てくれればいいということも使用人から伝え聞いていた。

「きっと、嬉しいんだわ。リリーが自分のために苦手なことしてくれるのだもの」

「あんまり貸し借り作りたくなくて承諾したのに、これじゃあたしの借りが大きいじゃない」

「そう思ってないのよ。クラウス様にとってはこれに見合うぐらいのことなんだわ」

 カルラがそう言っても、やはりリリーには過剰な報酬に思えた。

「とにかく、これしまっとかないと」

 いまひとつ納得しきれないまま、リリーはカルラと一緒に衣装棚にドレスをしまい始める。

「リリー、どれ着ていくの?」

「んー、この水色のかしら。せっかくだから、カルラに誕生日にもらったコサージュを髪留めに使って、それに合わせるのにほら、これ着ていくつもりだったから。色が近いでしょ」

「……あれは、このドレスに合わせるのにはちょっと安っぽすぎないかしら?」

 カルラが不安そうな顔をするのに、リリーは首を横に振る。

「大丈夫よ。すごく綺麗だったもの……どうぞ」

 扉を叩かれて、リリーは誰だろうと入室を承諾する。

「すいません、リリーさん何か食べるものを……あ、お友達がいらっしゃったんですね。お邪魔してしまって」

 寝起きらしくぼさぼさ頭のシェルがやってきて、リリーは呆れ顔で机の上に置いてある胡桃入のパンを示す。

「それ、持っていっていいわよ。昼食、置いてたでしょ」

 昼頃に確かにシェルの部屋に昼食を届けたはずだ。まだあれから二時間と少ししか経っていないはずだ。

「皿が空だったので食べたと思うのですが何分記憶が薄くて……」

「あんた、見かけによらず大食いなのね。足りないってクラウスに直接頼んだら?」

「あ、いえ。さすがにそこまでしていただくわけには。では、少し頂いていきます。失礼しました」

 そしてシェルは小さくなりながらもちゃっかりパンを持って、向かいの自分の部屋に引っ込んでいった。

「あの方も長く滞在されているのね」

 誕生日会の席で一度だけシェルに会ったカルラが物珍しそうに言う。

「もうしばらくいるみたいだわ。シェルのことはいいから、お茶にしない」

 シェルはグリザドの魔術を解く糸口を見つけたらしいものの、そこからまた何やら壁にぶつかっているらしくこの頃は寝起きの時間も不規則だ。

「ああ、そうだわ。ドレスですっかり忘れかけていたけど、リリーはまた剣を扱う職につくの?」

 椅子に座りながら、ドレスが届く直前に話していた話題をカルラが思い出した。

「そのつもり。今の所、警備部隊かしら。すぐにとはいかないらしいけど、クラウスにも少し話してあるわ。宿舎があるならそこで住むし、なかったらどこか部屋を借りるつもり」

「このお屋敷は出てしまうの?」

「うん。居心地は悪くなくても、いつまでも世話になってるのものね」

 クラウスは適度な距離を保ってくれるし、屋敷の中での暮らしもすんなりと馴染んできたけれどもやはりこの屋敷で暮らすのはやはり違うと思うのだ。

「そう。よかったわ。リリーはもうずっとこの街で暮らしていくつもりなのね」

 カルラがほっとした顔で紅茶に口をつけるのに、リリーはうなずく。

 ぼんやりとながらも、自分がここで生きていく先は見えてはきた。ただ今は考え過ぎずに動くことがいいはずだ。

 そうでないと、ふと後ろを振り返ってしまいそうになる。

「あ、カルラ、ショール、できたからちょっと見てくれる?」

 リリーはようやく出来上がったショールをカルラに見せて、次に作るものの相談をする。縫い物ももう少ししっかり覚えておきたいので、何から始めればいいかも聞いてみる。

 そのうち、また剣を持つ職務について、空いた時間で編み物や裁縫をして、カルラと時々お茶をしてそんな毎日をすごしていく。

 それでいい。自分の行く道はそんな穏やかで、退屈な道でいい。

 リリーは自分自身の手を引いて、来た道を振り返らないように進むべき道を進んでいく。


***


 晩餐会は聞いていたとおり、十数人ほどの小規模なものだった。いつも通りリリーはひとりで身支度を調えて出席したものの、惜しみなく使われた無数の蝋燭で照らされた食卓はやはりあまり居心地がいいものではなかった。

 主催も賓客も落ち着いた雰囲気で始終和やかだった。ちょうど両家の嫡男と子女それぞれが婚約者を招いており、話題が自分とクラウスの婚約になって少々困りもした。

「あんまり、食べた気がしないわ」

 食事と談笑を終えて馬車に乗るとやっと肩の力が抜けて、リリーは数々の料理の味を堪能できなかったことにため息をもらす。

 鴨肉など普通に食べていればきっともっと美味しかっただろうと思うと、もったいないことをしたと思う。

「そういうもんだからな。今日は助かった」

 向かいでそう言うクラウスは出掛ける前から機嫌がいい。

「二度とはごめんだわ。嫌な人達じゃなかったけど、ああいう上品なのは苦手」

「知ってる。だから無理言ったと思ってる……俺だってああいうのは好きじゃないからできるだけ出たくはない」

「でも、慣れてるでしょ。人が多くても話す必要がない大人数の夜会の方が気楽ね」

 人混みは苦手なものの、その分壁際にいてゆっくり食事をつまんでいても誰も気に止めない。

「そうだな。人が多いと逃げやすい」

「あんたは女の子から逃げてばっかりだったわね」

 懐かしいとリリーは苦笑すると、クラウスも同じように笑う。

「正直、今も逃げてるけどな。リリー、屋敷はどうしても出て行くつもりか?」

「決めたの。自由になったらあんたの家に厄介になる理由はないもの」

 何度目かの応酬にリリーは唇を尖らせて返事する。

「そうか。それまでに気が変わることを期待しとくか。出て行ったとしても、さすがに全然顔を見せてくれないってこともないよな」

「時々は会うんじゃない?」

「他人事みたいだな」

 クラウスが呆れるのに、リリーは自分もこれからクラウスとの繋がりが薄れた後どうなるかはよくは分からなかったが、なんとなしに会う機会はある気がした。

「あたしはともかく、あんたは忙しいでしょ」

「時間作るし、会いにも行く。おっきな花束でも持って行くか?」

「それはやめて」

 冗談にお互い笑い合って、リリーはなんとなしにヴィオラと話したことを思い出す。

 自分を受け入れてもらって、そうして相手も受け入れられる出会いは簡単にはないという。

(クラウスのことは、そうなのかしら)

 なんだかんだでお互い、相容れない所も気が合う所も知っているけれど自分の中で噛合わないものあった。

 ずっと一緒にいられるとは思えても、一緒にいたいかというと違うのだ。

「リリー?」

 自分の思考に固まっていたリリーは、クラウスによばれてぎこちなく表情を崩す。

「疲れたわ。帰ったらゆっくり休みたいわ」

「そうだな。俺も、明日は早い」

 そうして馬車がクラウスの屋敷について、クラウスが先に降りてリリーに手を伸べる。

「……今日は本当にありがとうな」

 リリーは戸惑い気味にその手を取って、屋敷の中に入る前にふと空を見上げる。

 満月が煌々と輝く夜空は澄み切って冬の様相だが、肌に触れる空気にもう鋭さはなく春はもう近そうだった。


***


 雪解けと共に、南部での皇家軍の蜂起敗退がバルドの元に届いていた。

「皇主様、もう時期でしょう」

 軍議の中、誰もがそう口を揃えて動き出すべき時と告げる。

 すでに革命軍も近隣に駐在し今か今かと開戦の時を待ち望んでいる。ここで決着をつけて真の意味でこの島は新しくなるのだ。

「……攻撃開始。三日後」

 バルドは重い口を開いて、最後の戦を始めることを告げる。

 勝てる戦ではない。だが誰しもが望む生き方をまっとうできることを喜び、戦うことを心待ちにしていた。

 少数精鋭でいかに大軍に立ち向かい、いかにして戦い抜くのか。

 そのことばかりを考えて幾月も待ち侘びてきた。

 皆、闘志に心を燃やして歓声を上げる。

 バルドも彼らの姿を見渡しながら、やっと力の限り戦えると静かに喜んでいた。

 ただ一抹の心細さがあった。

(リー……)

 もうとっくに手放したはずのものが恋しくてたまらない。最後に一目でもと思っても、そんなことはもう叶わないし、叶ってもいけないことだ。

 そうして、春よりも一足先に皇国の滅亡の時がやってこうようとしていた。

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