3
今日も今日とて真っ白で寒い。
バルドは自分の息まで白いのを見てうんざりしていた。小競り合いをしながら北のローブルに辿りついてすぐに大雪が降り、それ以来雪は降ったり止んだりを繰り返している。
村外れにぽつりと佇む石積みの砦の塔から見下ろす景色は、どこもかしこも雪をかぶって白い。例外は北に見える海と、砦の補修や雪かきをする黒いローブをまとった魔道士達ぐらいだ。
「いや-、ずいぶんまともな砦らしくなってきましたよー」
塔の一室で外で眺めるバルドの元へ、水将のラルスが肩についた雪を払いながらやってくる。
「……補修、順調」
皇家軍一万余りを抱えるには少し手狭な砦は、到着時は今にも崩れかけそうだった。ゼランシア砦よりも少し後に建てられたという建国前の砦で、千年以上放置されていた。砦として形が残っているだけでも、奇跡的だった。
見かけに反して実際は状態も補修すればなんとか使える程度にはよく、この二十日近くで今にも崩れそうなという見かけではなくなった。
「このまま雪が降らねばいいんですけどねー。これは無理そうかな」
ラルスが鎧戸の奥に見える、べったりと空に張り付く重たげな灰色の雲にため息を零す。
あまり雪が降りすぎるのは困りものだ。ここ数日は徐々に減ってきているとはいえ、まだまだ雪が解けそうにない。
兵糧がまだふた月分は残っている。島北部は皇家派が多く、物資の調達が想定以上に潤沢となった。おかげで砦の補修と雪解けを待つ余裕ができた。
「用件」
バルドはラルスが何か報告があるのではないのだろうかと問う。用がないのならひとりにして欲しい。
「偵察と思しき者が行商になりすまして村へ来ていたそうです。こちらも隠すべき大げさな情報というのはありませんし、お互いこの雪では軍も動かせないですし放っておいてよろしいでしょうか」
「……ひとつ、砦の弱み。東」
バルドは不要かとは思いつつ、敵の進軍方向を誘導しておくことを提案する。
「了解しましたー。東の補修が追いつきそうにないと、さりげなーく話を回しておきますね。やはり、戦には砦があったほうが格好がつくものですねー。皇主様の居城としては不足ですが」
ラルスが上機嫌で言うことにバルドは返事はしなかった。
砦は兵達が雪を少しでもしのげる場所があれば十分だ。自分ひとりならば掘っ立て小屋でもかまないぐらいなのだ。
しかし、砦を築いている内にこれが自分の棺なのだとぼんやりと思った。
戦場で戦い果てれば後は野晒しで朽ちても、首をさらされても死んだ後のことはどうでもよかったはずなのに、今更になって棺を思うのは納めたいものがあるからかもしれない。
(リー……)
今頃、リリーは新しい暮らしをなんとか始めている頃だろうか。
戦が終わるまで彼女の身が自由になることはなさそうだが、クラウスが不便がないようには取りはからってくれているはずだ。
暖かい寝床、温かい食事。取り上げたも同然の戦場と剣の代わりになる何か。
自分にはけして贈れないものを、リリーは少しずつ得ていけるはずだ。その中でたくさん自分との思い出は忘れていってしまっていいけれど、ほんの少しでも覚えていて欲しい。
(俺は全部持っていく)
リリーとの思い出を全て忘れないうちに望むままに戦って、終わる。自分が満足できる戦になれば最良なのだが。
「皇主様、よろしければ剣の相手などしますが、いかがですかー?」
ラルスの誘いにバルドは躊躇いなくうなずく。軍内でまともに相手になるのはラルスぐらいである。
しかし、慣れれば慣れるほどラルスとの稽古も飽きてくる。本気でやりあうことがれば、楽しめることがわかっているからこそ物足りなくなってくる。
かといってここで寒さに耐えてじっとしているよりはいい。
うんざりするぐらい退屈でも、リリーと一緒なら耐えられるのに。
バルドはいまだ未練がましい自分自身に呆れながら、鈍い足取りでラルスと共に砦の外へと向かった。
***
「あ、雪降ってきたわ」
首都を歩いていたリリーは、頬にひんやりとした感触を受けて空を見上げた。今日の空模様だと雪になるかもしれないという予想は当たった。
「じゃあ、予定繰り上げて屋敷に戻るか。せっかく一緒に出掛けたのになあ」
一緒に歩いていたクラウスが残念そうにつぶやく。
「珍しいことするからじゃない? 街は見ても昔と全然変わらないわ」
今日はクラウスの予定が空いたので、一緒に首都を巡ってみないかと誘われたのだ。生まれ育った街を探索することにさして興味は覚えなかった。
だが屋敷の中でやることもないので使用人の手伝いをしたり、編み物をしたりして過ごしている時間が多かったので気分転換に出てみたのだ。
「だから言っただろ、これから変わってくんだって。士官学校も学問を修める場になるし、孤児院も貴族以外の孤児も受け入れることになる。今は瓦礫と崩れ賭かけの家ばっかりの下層部も変わる。だいたい、じっくり街なんて見たことないだろ」
「それはあんただって一緒じゃない」
自分もクラウスも故郷に愛着をもつ質ではない。
「俺は裏道とか、抜け道とかしかっり見てたけどな」
かつて皇太子の命でディックハウトへ潜り込み密偵をしていたクラウスが肩をすくめる。
「自分が利用できる情報でしょ、それ」
「そうだな。リリー、楽しくないか?」
首を傾げられてリリーは眉根を寄せる。
「嫌じゃないけど、楽しくはないわ。仕事でもないのにあんたとふたりっきりで歩いてるのって変な感じがするわね。クラウス、楽しい、これ?」
どこまでも真っ白い街並みは上から下に向けて家々の大きさが徐々に小さくなるぐらいで、目に楽しいというわけでもない。つい先程通り過ぎた中層の広場は今日は市も開かれておらず、閑散としていた。
「言われると、まあ俺もそんなかんじだなあ。リリーと一緒にいられるのは嬉しいけど、街巡りが楽しいかって言うと微妙だ」
クラウスもリリーと同じように悩ましげにする。
「じゃあ、なんで街の巡回したいなんて言ったのよ」
「リリーとふたりっきりで何か変わったことしてみたかったからかな。俺もまだリリーとどう過ごすのが一番しっくりくるか、わからないしな。今までより少し近い距離がいいけど、どれぐらいが馴染むんだろうな」
クラウスが自問するのに、リリーもどうなのだろうと考える。
事前に言われた通り、一緒に暮らすと言っても広い屋敷の中でお互いの部屋も遠く時々一緒に食事をする程度で、ほとんど毎日兵舎で顔を突き合わせていた頃よりお互いの姿を見ることは少なかった。
かといって距離が昔よりあいたわけでもなく、会えばクラウスが好きに喋って自分が適当に返事をするのは昔のままだった。
「変わる必要あるのかしら」
自分はこの程度の距離感がほどよいと思うのだが。
「必要があるかないかっていうとないかもな。そのうちなんとなく気がついたら昔より近い気がするぐらいになれたら一番いいな。……この先ずっと一緒にいれたらそうなれるんじゃないか?」
道を折り返し、馬車に向かいながらリリーは考える。
この先。自分はずっとクラウスと一緒にいたら、そんな風に今より近い距離が馴染んでくるのだろうか。
「一緒にいられたら、か」
繰り返した思考がつい口に出ると、クラウスが苦笑した。
「この話は急ぎすぎか。まあ、この街にいるのも悪くないって思えるのが先だな」
「ここが嫌いなわけじゃないわよ。カルラだっているし、知らない場所よりは過ごしやすいもの」
だけれど欠けているものがある。
(バルドが、いないわ)
思い出だけが街のあちこちに散らばっている。街が変わってしまったらもう拾い集めることはできなくなるのかもしれない。
「……大雪になってきたな。リリー、急ごう」
リリーの憂う表情に何かを察したのか、クラウスが彼女を馬車まで急かす。
「ここでこんなに雪が降るのなんて初めて見るわ」
馬車の窓からは大粒の雪がばらばらと降ってきているのが見えた。
「俺もここまで降るのを見たのは初めてかな。あ、ほんと四つか五つかぐらいに見たっけな。ああ、そっか。リリーが産まれた頃……もうすぐ誕生日か。いつだったけ」
クラウスが手を打つ。
「そういえば誕生日だったわね、あと六日?」
正確に言えば孤児院に捨てられていた日なので、本当の誕生日は別であるが祖父に聞いてもいないので知らない。
「まだ時間あるな。欲しい物とかあるか?」
「祝わなくてもいいわよ。あんた去年までそんなことしなかったでしょ」
「去年はしただろ。焼き菓子あげた」
リリーはそんなことあっただろうかと記憶を掘り返して、苦虫を噛み潰した顔になる。
「何日か過ぎて、食堂の子からの贈り物を渡してきたわね」
林檎のパイをもらったはいいが、好きではないので少し遅い誕生日祝いなどと言って押しつけてきたのだ。
「それ。だってなあ、他の男の好物と間違えて贈ってきたんだぞ。美味かったとは言ってただろ」
「美味しかったわね……。本当にしょもないんだから」
揺れる馬車の中で向き合い今までと変わらない調子で話せることに、リリーはこれが一番しっくりくると改めて思う。
「じゃあ、今度はちゃんと誕生日にうちの料理人に美味しい物作らせる」
「あんたんちの料理普段から全部美味しいじゃない。……そうね、林檎のパイご馳走になるわ」
リリーはそう妥協しながら、バルドと過ごした誕生日を思い返すが七年分全部混ざって正確には思い出せない。戦場にいてそれどころではなかった年もあったはずだ。少なくとも去年は戦に夢中でふたりとも忘れていた。
バルドは忘れてしまっていたことに、少々落ち込んでいた。
『リー、おめでとう』
毎年聞いたバルドの声が耳奥で響いて、微笑むはずの唇が一瞬震えて目尻が熱くなった。
「……蜂蜜はちょっとだけ多めがいいわ」
リリーはひと思いに湧き出た感情を呑み込んで、クラウスに注文をつける。
「控えめな贅沢だな。そう伝えておく」
何も気づかなかったのか、それとも気づいていないふりをしてくれているのかなのかクラウスの表情や声音ではわからなかった。
***
クラウスと出掛けた翌日、リリーは手作りの干し葡萄のスコーンを手土産にカルラの元を訪ねた。
もうそれぞれの暮らしを始めて十日余り手紙のやりとりはしたものの、会うのは久しぶりだ。
「リリー。そこの路地を入って裏よ。迎えに行くわ」
中級階層区域に建つ屋敷の三階の窓辺から、カルラが手を振る。仕立屋の屋敷でお針子達が二十人ほど暮らしているらしい。表は入ってすぐに注文を受ける広間と工房があり、店の客でなければ裏手から入るらしい。
リリーは言われた通りに屋敷の右手側の細い路地に入り、裏へと回る。裏庭の門前で待っていると、カルラがやってきて三階の奥の部屋へと案内された。
「階段、大変じゃない?」
リリーはカルラがひきずっている足を見ながら、心配になる。
「これぐらい平気。あ、椅子はないからそこに座って」
カルラの部屋は狭く、寝台と仕事道具が置かれた作業台、後は茶器が置かれた小さな机がひとつでぎゅうぎゅうだった。椅子を置ける場所がなく、寝台を椅子代わりにして机を使うそうだ。少し高めの寝台の下が収納になっているらしかった。
リリーが寝台に腰掛けると、カルラもその隣に座った。
「残ってた部屋はここだけなの。他の部屋は広い代わりに二人か三人でつかっているけれど、おかげでひとり部屋だから気楽よ」
「広くても人数が多いならたいして変わらなさそうね。あたしも大勢で広い部屋より狭い部屋でひとりがいいわ。あ、これ、ちゃんと味見したから味は大丈夫だと思うんだけど……」
リリーはたどたどしく干し葡萄のスコーンを入れたバスケットを机に置く。あらかじめ、お茶菓子は自分が用意してくると手紙でやりとりしていた。そしてどうせ大してやることもないのだから、自分で作ってみたのだ。
「あら、美味しそう。リリー、いつも料理するの?」
バスケットを開けて中から布に包んでいたスコーンを取り出すと、カルラが微笑んだ。
「全然しないわ。これも屋敷の料理人に手伝ってもらってなんとかできたの。思ってたより難しいわね」
戦場でも食事を作る当番はたいてい『玉』の魔道士で、『剣』は山鳥や鹿や猪、野兎などを狩って捌くのがせいぜいだった。
「私は料理は苦手。リリーは好きになれそう?」
カルラが紅茶をカップに注ぐ。
「わかんない。でも、ひとりでできるようになりたいわ……」
リリーはスコーンを手に取って囓る。ごくごく普通の味である。しかし作るまでに段取りが悪く、納得がいっていないのでまたやりたい。
今はまだ楽しかったというより、意地になっているところだ。
「あ、美味しいわ。あのね、私、干し葡萄大好きなの」
スコーンを食べたカルラが笑いかけてきて、リリーも微笑み返す。
「あたしも。……お茶も美味しい。仕事、上手く行ってる?」
「なんとか。前にも少し、ここから繕い物の仕事を手伝ったりしていたこともあるから、慣れるのはすぐだと思うわ。私のこと、知っている人もいるけど色々言ってくる人はいないわ。リリーは?」
「あたしは、何をしていいのかまだ見当つかなくて屋敷の掃除とか洗濯とか買い出しとか、人が足らない時に手伝いしてるぐらいだわ」
広い屋敷の中で使用人は必要なだけいるものの、大がかりな掃除や晩餐会などの催し物の時は忙しくなる。そこで人手がもうひとりぐらいは欲しいという所へ雑用をしに入るのだ。
「リリーは働き者ね」
「体をちょっとは動かしてないと落ち着かないだけよ。部屋を借りてるわけだから、なんにもしないのもね」
一日中屋敷で大人しく座っていられる性分でもなければ、あまりクラウスに借りを作るのも気が引けるのだ。最初に奥方様と使用人に呼ばれて、誤解が広まるのを防ぐためでもあった。
士官学校の時も、孤児の自分は校舎の隅の小屋に住んで学内の雑用をしていたので少し懐かしい気分もする。
「クラウス様は何も言わないの?」
「したいなら好きにしていいって言ってるわ。でも、いつまでもこうしてるわけにはいかないって思ってるんだけど、時間ってなんとなく過ぎてくものね」
戦のない、穏やかな日常。物足りないものを抱えながらも、気がつけば夜が来てまた朝が来る。
戦場以外に生きられる場所はないと思っていたのに、戦から離れてふた月近くも経つ。
戦ほどの高揚も充実もないけれど、屋敷の雑用をし手が空いているときは編み物をしていることは退屈ではない。
だけれどまだ、朝に頬が濡れていることがたまにある。
変わらないこと、変わっていくこと。
穏やかな波に乗せられてたゆたうように日々は過ぎていく。
そうしている内にいつもでもこうではいけないとじりじりと焦りもでてきていた。
「そうね。これから仕事が増えていくとあっという間に過ぎそう」
「あ、忙しかったらいいんだけど、五日後に夕食をクラウスの家で一緒にどう、かな。……あたしの誕生日で、、クラウスがカルラも招待したらって言ってくれたの」
自分で自分の誕生祝いに誘うというのは、妙な気分だとリリーは面はゆくなりながらカルラに訊ねる。
「ええ。大丈夫だと思うわ。すこしだけリリーの方が年上になるわね」
「カルラは春頃?」
確か去年の初夏には同い年だったはずだったとリリーは記憶を辿る。
「あとふた月ぐらい先よ。もう十八なのね……」
しみじみとカルラがつぶやく。
「十八って言っても特に変わったこともないけどね」
「そうね。結婚を急かす身内もいないし、まだ自分のことでいっぱいでそれどころじゃないもの」
「……この歳ってそういうこと考える歳なのね」
早ければ十五、六で嫁いで遅くとも二十才頃には大抵家が決めるなり、当人が決めるなりして結婚するものではあるがリリーはバルドと色々あるまで気にしたことはなかった。
身寄りもなくいつ戦場で死んでもおかしくない身の上だったのだ。
まったく結婚のことなど、頭になかった。
「私達と歳の近い子達はみんな、今は親や親戚が持ってきた縁組みの話をよくしてるわ。私のことを知ってる人は何も言わないけれど、知らない人には訊かれるのは少し困るわね」
かつて伯爵令嬢としてバルドの婚約者候補だったカルラが苦笑する。
「でも、そのうちカルラは結婚する気はあるの?」
「それはもうちょっと先にならないと分からないわ。身内と縁がないなら、自分で決めることになるからしないかもしれないし……一緒に生きる人を自分で決められるのは大変でもそっちの方がいいのかしら。急がされることがないのは気楽ね。お茶のおかわりいる?」
カップの中身が空になっていたので、リリーはもう一杯もらうことにする。
「リリーも、このままのんびり時間に任せてみるといんじゃないかしら」
「あたし、焦ってるように見える?」
「少しだけ。もう少し、いろいろなことゆっくり決めてもいいと思うわ。クラウス様もたぶん、そうできるようにして下さってると思うわ。今までが慌ただしすぎたのよ」
クラウスが干渉しすぎず、屋敷の中でも好きにさせてくれる理由はわかっている。
「……戦がないってこういうものなのかしら」
戦と戦の合間は退屈でも、焦りはなかった。次ぎにすべきことが決まっているからだ。
だけれど次がないまま時間だけが過ぎていくことに慣れない。
「リリーはまだのんびりしててもいいと思うわ。時間はたくさんあるんだから」
「沢山あるのも困りものね」
二十まで生きてはいないだろうと思って生きてきたのに、今は自分が幾つまで生きられるかさっぱり見当がつかない。
「たくさんある分、楽しいことも嬉しいこともいっぱいあるはずって思って私は生きることにしたわ。外に出てリリーに会えて、こうやって一緒にお茶をしてられるのが楽しいことだもの」
「カルラは強くなったわね」
最初に会った時は、何かに縋らなければ生きていけなかったカルラはすっかり明るくなった。もしかすると、こちらの方が彼女の本質なのかもしれない。
「リリーがいてくれたからよ。ひとりぼっちだったら、こんなに前向きにはなれなかったわ」
「……あたし、一個だけなんとなく思ってるの。また剣を持とうかなって。それでどうするかっていうのはまだ分からないけど」
両手が寂しいのは変わらない。そのうち自分が剣を持つだろうとは思っている。
「そう。指南役っていうのもあるわね」
「あたし人に教えるの、向かないのよね。ほとんど直感で動いてるから、型にはまらない敵の動きに対処する演習の適役に使われるぐらい」
「あら、それでも十分訓練になるんじゃないかしら」
カルラがくすくすと笑う。
「まあ、剣が持てるならなんでもいいわね。それまでに体が鈍らないようにはならないと。体力は落ちてる気がするわ」
急ぎでないかぎり買い出しは歩いて行くとが多いが、帰りの坂を上るときに以前より息切れしやすくなっている。
「リリーは動くことが好きなのね」
「好きなんだと思うわ」
昔は単純に剣術が好きなだけと思っていたが、今は体を動かすだけでそれなりに気が落ち着くのでそういうことかもしれない。
そしてカルラと談笑しているいる内にあっというまに夕暮れ時が近づいていた。
(楽しいこと、嬉しいこと、か)
リリーは歩いて帰る途中、カルラの言っていたことを思い出す。確かに少しだけ増えてきている気はする。
今まで気づかなかった自分自身のことも知る機会ができている。
「……でも、本当に、鍛え直しておかないと」
屋敷に帰り着く前に足が辛くなってきて、リリーは苦笑して明日あたりからもう少し手伝わせてもらえることを増やそうと決めた。
***
そして翌々日。リリーは厨房の片隅で木箱に座り黙々と芋の皮むきをしていた。
何度かやったことのある作業で、難しいこともない。刃物を持つことは少し前に許可されていた。こんな使い古した包丁では自分の血を塗りつけても魔術は一度か二度使うのがせいぜいだ。
「リリー、いるか?」
クラウスが厨房にやってきて、リリーは手を止める。
「何?」
「シェル・ティセリウスっていうぼやっとした胡散臭い若い男、例の灰色だよな」
そして意外な名前に目を瞬かせる。祖父の元に行ったはずの大陸の魔道士がいったいどうしたのだろうか。
「そうよ。もしかして来てるの?」
「ああ、やっぱりか。昨日から不審人物として拘束されてる。リリーの知り合いっていうから、一応俺に話が回ってきたんだ。じゃあ、すぐにこっちに呼ぶな」
「うん。頼むわ」
リリーはクラウスにそう答えて芋向きを再開する。
「リリーさん、お客様なら着替えた方がいいんじゃない? こっちはもういいから」
年嵩の使用人の女性が古びた少年用の仕事着を着ているリリーに話しかける。使用人用のドレスも動きやすいが、やはり屋敷中を動き回るには少年服の方が勝手がよかった。
「そこまでちゃんとする相手でもないんで大丈夫です。あと残りやったら失礼します」
リリーは作業を続けながら、シェルが落ち着いたらまたなどと言っていたことを思い出す。
皇祖の魔術について調べているというので、その件かもしれない。
(……それ以外に用はないわよね)
リリーは芋剥きを終えると前掛けを取って、自分の部屋に一度戻った。そして編みかけのショール造りを再開して時間をつぶしていると、クラウスがシェルを連れて戻ってきた。
「どうも、お久しぶりです……」
クラウスと一緒に部屋に入ってきたシェルが気まずそうな顔で頭を下げる。
「……久しぶり。爺様、元気?」
「はい。とてもお元気ですよ。あ、これをリリーさんにとあずかってきてます」
背負っている袋からシェルが取り出したのは胡桃だった。何か孫に手土産でもという意図らしい。
「そう。うん。ありがとうって伝えないとね……」
身内という実感が薄いリリーにとって、祖父からの贈り物は今までバルドからもらった時とはまた違った、嬉しいような面はゆいような不思議な感覚がした。
「で、間違いなく、これが大陸の魔道士なのか」
クラウスが不思議そうにシェルを眺める。
「クラウス、シェルの顔は見たことなかったんだっけ?」
思い返してみれば、シェルと最初に会った時はクラウスは味方側にいたので、顔ぐらいは見ていなかったのだろうかとリリーは首を傾げる。
「俺は、灰色の魔道士騒動に隠れて色々動いてたからなあ」
「ああ。そうだったわね」
シェルを捕らえてすぐにクラウスは砦を内部から崩壊させて離叛したのだ。その下準備も大詰めで、ハイゼンベルク内でも警戒されていたのでシェルの顔を見る機会がなかったのだろう。
「で、何しに来たんだ?」
クラウスが全員を長椅子に座らせながら、怪訝そうにシェルを見る。
「ええ、ザイード・グリム……あなた方の言うグリザドの手記が残っていないかと思って訪ねてきたのです。リリーさんにも、ご挨拶をとも思いまして。しかし、どこへ行けばよく分からず道行く魔道士にリリーさんのことを聞いたら、なぜか拘束されてしまったのです」
身振り手振りを交えながらシェルは早口で説明する。
「リリーがここに移送されたことを知ってて、街の外から来た魔道士なら不審者扱いされても仕方ないな」
「ねえ、魔力はそんなに回復してないの?」
シェルはグリザドの痕跡がある場所なら魔術で移動できるときいていた。しかし大量の魔力を消耗するらしいので、足りないのかとリリーは訊ねる。
「お爺様の所はやはり魔術的に特殊な場所なので、魔力の回復は早いです。しかし、大陸に帰ることを考えると無駄な魔力は使わないでいたほうがいいと判断したのです。実際、ここまでくるのに魔術は使わず、行商の馬車に乗せてもらって来たんですよ。で、リリーさんを預かっているのは、国家元首ということで王宮内に魔術文字が書かれたものなどがあれば見せてもらえないかと……」
言いながら、シェルがクラウスへ目を向ける。
「魔術文字っていうのは皇祖様が使ってた神聖文字だったか。王宮内の書庫はまだ誰も手もつけてないから残ってるはずだけど、俺よりエレンの方が詳しいだろうな」
ラインハルトはグリザドの残した神器について深く調べていたので、その側近だったエレンなら正確な場所も分かるかもしれない。
「では、見せていただけるということでよいのですね!」
シェルが表情を輝かせた後、我に返った顔でリリーを見る。
「あ、リリーさん、あの、隠し事をしていた件に関してはですね、本当に申し訳なかったと」
「いいわよ。それはもういいの」
バルドの選択に荷担したシェルを責めたところで何が変わるわけでもない。彼が協力しなくても、バルドの決断は変わらなかったはずだ。
「……今すぐに王宮に行けるわけじゃないから、今日の所は屋敷で泊まってくれていい。面倒だからリリーの向かいの部屋でいいな。少し話もしたいから、戻って来たら早い夕食にするか。とりあえず……」
クラウスがシェルの今晩の宿を決めて、リリーとシェルを交互に見る。
「ふたりで部屋で待っててくれ」
そして何やら納得した顔でふたりを残してクラウスは部屋を出て行った。
「いやあ、いい人ですね。しかもお若いのに、新政府の旗頭とはご立派だ……」
シェルがクラウスを褒め湛えて感銘を受けている様子に、リリーは思わず奇妙な物を見る目付きになる。
クラウスをまともに褒める人間を見たのは初めてだった。彼の悪い噂も普段の素行も知らなければこう感じる島民もいるのかもしれないと思うと、いたたまれない気分になる。
「クラウスは悪い奴じゃないけど、いい人でもないわよ。だいたいあたしに一服盛って砦から連れ出したんだから」
「ああ、そういえばそうですね。打算的な野心家……。ふむ。革命家というのはそちらの方がしっくりきますね」
「野心もたいしてなさそうだけど……」
全部、リリーのため。
クラウス本人やバルドから言われた言葉を思い出して、リリーは口を噤む。
あの面倒くさがり屋のクラウスが、国家元首などという面倒極まりない椅子に大人しく座っている理由の根拠を口にしてしまっている。
正直なところ、いまだにクラウスが自分のためにそこまでするのだろうかと不思議だった。
「なんだかよくわかりませんが、とにかくリリーさんは使用人とはいえ、待遇が良さそうでよかったです」
ほっとした様子でシェルがなんどかうなずく。
「使用人とも違うわ。居候させてもらってるからよ。爺様の所にある本は読み切ったの?」
祖父の屋敷の書庫にも大量の書物があった。過去に一度シェルは訪ねているので、全て読み切ることは不可能でもなさそうだが。
「あらかたは。お爺様からも改めて話を聞きましたが、これといった魔術を解く手がかりもなさそうでした」
「魔術、解く気なの? でも、あたしとバルドが一緒にいないと駄目なんじゃないの……?」
どんな魔術もかならず解く方法あるという。この島全体にかけられた、魔術を扱えるようにするための魔術を解くには、自分とバルドのふたりが必要なのではとシェルは仮説を立てていた。
「実際解けなくても、どういう仕組みなのか知りたいんです。もちろん可能であれば実証したいです。学者としての探求心です」
「解けるなら早い内に解いてもらった方がいいかしらね……」
魔術の解き方には興味はないが、魔術なしで自分がどれだけ戦うことができるのか。自分自身を支えてきた大きな力を失って何か変わるのかは今はとても知りたかった。
だけれど、バルドが必要ならば無理かもしれない。
「魔術を解くことに、ご協力いただけるということでよいのですね」
シェルが嬉しそうにするのに、リリーはうんとうなずく。
「そもそも、あたしの心臓が皇祖様のじゃなくて普通になるならしてほしいって言ったじゃない」
自分の意志を皇祖に操られているわけではないとわかったとはいえ、やはりよくわからない魔術のかかった他人の心臓が自分の中で動いているというのは気味が悪いのだ。
「そうでしたね。では、心置きなく探求に励みたいと思います……ところで、厚かましいお願いなのですが水などいただけないでしょうか。ほんの少しパンの一欠片などあればなおよいのですが」
恐る恐る申し出るシェルに、リリーは眉根を寄せる。
「食べてないの?」
「ええ。夜はパン一切れと水、朝はスープだけで、昼は何もなく……」
牢に入れられていたなら仕方ないとはいえ、さすがにそれではもう夕刻近い時間にはひもじいはずだ。
夕食まで少しの間とはいえ、待たせるのも酷だとリリーは仕方なしにシェルと共に厨房へと食べられるものをもらいにいくことにした。
***
皇祖の残した記録は元王宮の奥深くの地下書庫にあった。
皇家の居住区だった区画の複雑に入り組んだ廊下を迷いなく進んでいくエレンに先導され、リリー達は書庫までやってきた。
「こんなとこにまで部屋があるのか。王宮内の見取り図はやっぱりいるな……」
最後尾をついてきたクラウスが廊下の突き当りの隠し扉を振り返りながらため息をつく。
「見取り図の在処って誰も知らないの?」
王宮や砦等の見取り図は防衛の為に残されていないことも多いが、厳重に保管されていることもある。
エレンなら知っているだろうと思っていたリリーは、振り返ってクラウスに訊ねる。
「ない。だいたいそういう大事な物預かってるのは皇家への忠義心が強い奴ばっかりだから、死んでるか皇家軍に従軍しているかのどっちかだな。で、新政府に協力してくれる王宮内に一番詳しいエレンも知らないんだよな」
「見取り図は私も知りません。皇太子殿下の足代わりだったからこそ、知っているだけのことですので」
エレンは自力で歩くことがままならなかったラインハルトの車椅子を押していた。ここの書庫は階段があるので彼女が代わりに出入りしていたそうだ。
「王宮というのは、やはり宝の山ですね」
そわそわとした様子のシェルがエレンの肩越しに暗い書庫覗き込む。
「宝物庫は貧相なものだったぞ。父上が昔、恩賞に貴金属ばらまいたって話は聞いてたし、戦続きで財政難だったとはいえあそこまで減ってるとはな。ディックハウト側も似たようなものだったからここから立て直すのは大仕事だ」
「なにもかも駄目だったわけなのね」
戦で財政が逼迫しているというのは知っていたものの、具体的なことに興味がなくリリーは知らなかった。
皇国はとっくに瀕死の状態で、崩壊するべくして崩壊したのかもしれない。
「……奥の方に神聖文字で書かれた文書があります。保存状態が悪い物も多いですので、取り扱いにはお気をつけ下さい」
すでに階下へと降りているエレンが燭台を書庫の奥に向ける。
「はい、では、早速失礼しますね」
シェルが明らかに歩調を早めていそいそと部屋の奥へと行く。
「俺は長居できないから後はリリーとエレンに任せる。帰り道が分からないから後でエレンには送ってもらわないとなあ」
「国家元首様が元王宮で迷子になって行方不明なんて笑い話にもならないものね。蝋燭がつきる前には戻ればいいのね」
「そうだな。夕方ぐらいにはなるか……俺は屋敷で待ってる。しかし、本当に古いな」
丸めた羊皮紙が無数に棚に整列しているのを見やり、クラウスが古びた紙や黴、埃などが混ざり合った独特の匂いに顔をしかめる。
「貴重な資料がもったいない……。いや、しかし読める物もずいぶんありますね。写本とおぼしきものもいくつか見受けられますが、素晴らしい。ザイード・グリム直筆の魔術文字です。値がつけられないほどの価値があるのものですよ、これは」
幾つか机の上に広げるシェルが興奮しきっているのを聞きつつ、リリーはクラウスを見上げる。
「価値があるらしいわよ、これ」
「と言っても、この島じゃだたの古紙だな。皇家を廃する以上、場合によっては廃棄されるな」
「廃棄なんて、もったいない……!」
クラウスが一枚広げてぼやくのに、シェルが批難の声を上げる。
「どうせ捨てるなら、持って帰れるだけ持って帰ってもらったらいいんじゃない?」
元王宮の物とはいえ、捨てるならシェルに渡しても問題ないのではないだろうかと、リリーはエレンとクラウスに問うた。
「残しておいて、どうとなるものでもありませんしよろしいのでは」
どうやらエレンも同じ意見らしかった。
「ああ、そうだな。ここに何があるかなんて知ってる人間は俺らぐらいだろうから、ちょっとぐらい減っても問題ないな。今日はもう、ここで読むんじゃなくて屋敷に必要な分を少しずつ運んでいくか」
クラウスも納得したところであまりにも静かなシェルに、リリーは目を瞬かせる。
「いらないの?」
「いえ。こんな貴重なものをいただけるのですか? 本当に、好きなだけ持って帰ってもよろしいのですか?」
唖然とした顔でシェルが何度も確認するのに、クラウスがもちろんとうなずく。
「魔術を捨てるこの国にはいらないから好きにしていい。あってもほとんど読めないしな
「で、では遠慮なくいただきます。なんと親切な……」
そしてシェルが感動に打ち震えながらもエレンに案内してもらって必要な物を見繕っていく。
「ねえ、それって全部魔術のことなの? 全然読めないわ」
リリーはシェルが紙を広げて中身を確認するのを覗き込んで訊ねる。魔術文字というのはやはり意味不明の模様の羅列にしか見えなかった。
「皇太子殿下も読み解こうとはしていましたが、一部しか読み解くことができませんでした。私も、ここに何が書かれていたのか知りたいです」
エレンにしては珍しく感情が見える声だった。ふたつ返事で書庫への案内を引き受けたのは、彼女自身が興味があったからもしれない。
「魔術文字の原点は古代に使われていた文字ですので、それでもって記されています。島の様子や魔術の構想に関すること、様々なことです。魔術を持たなかった人々が、未知の力を前に変化していく様子もかかれているようです」
「まさに実験場だったわけだ、この島は」
クラウスが悪趣味と言いたげな顔で眉を顰める。
「千年も崇め奉られる人間じゃないわね……やっぱりこの心臓嫌だわ」
リリーも皇祖への不快感が深まって、自分の胸で脈打つ心臓から皇祖の妄執を取り払いたいと強く思う。
「一番にはリリーの心臓の問題を片付けてくれないとな……よし俺はもう行くから適当に見ててくれ。エレン、悪いけど頼む」
そしてエレンとクラウスが一度離れて、リリーはシェルとふたりきりになった。
「皇祖の血を受け継いでても、あたしも他の皇族も魔術文字を使った魔術は使えないのよね……」
何度見ても神聖文字と魔術が自分の中で繋がらなかった。
「おや、本来の魔術を使ってみたいのですか?」
「そういうんじゃないわ。皇祖の魔術を解くのに皇家の末裔ふたりがいるっていうことは、できないことはないってことでもあるんじゃないかしらって思ったのよ」
シェルから魔術を解くことに魔術を使えるかどうかは関係ないとは聞いていたものの、ここまで大がかりな魔術を解除することに魔力も何もいらないというのは信じられない。
「一定の魔力さえあれば、魔術を学べばできないことはないかもしれません。ただ、以前に話した、ザイード・グリムの魔術によって魔力を増幅させているだけだと、難しいでしょう」
「そうなると、この島では本当に魔術がなくなってしまうのね……」
口にしてみると、いまさらながらに喪失感がわいてきた。
これまで自分を支えてきたものが全て消える。だけれど失った物を補う足がかりも確かにあって、そこからもう一度自分自身を築き上げられる気はする。
(やっぱり一度、捨てないと駄目ね)
魔力がこの身に残り続けるかぎり、自分は足枷をつけたまま歩くことになるだろう。
リリーはその後は静かにシェルが本を吟味するのをうたた寝をしながら待つことにした。
***
「エレンが知ってる王宮の隠し部屋ってあれぐらいか?」
クラウスは知っている場所までエレンに送ってもらう道すがら、彼女に問うた。
「隠している財源になりそうな物をお知りになりたいのなら存じ上げません。宰相家が資産の管理は全て行っていたでしょう」
「だよなあ。俺の家もしらみつぶしに調べたけど、大した財産残ってなかったからな。財政の立て直しは後はできる奴に丸投げしとけばいいか」
国家元首としてあまりに雑な物言いに、エレンが呆れた視線を向けてくる。
「あなたを長とするとは、血迷った選択でしたね。……リリー・アクスは最近はあのような調子ですか?」
「うーん、あんなかんじだなあ。ものすごく普通すぎて、なんだかな。大丈夫そうに見えて、大丈夫じゃないかもしれない。ただ、俺にはちゃんとしたことはわからないし、リリーも自分でわかってなさそうだからな」
ここへ来た時こそ、暗く沈みがちだったリリーの表情はこの頃はごくごく平常に戻ってきている。
あくせくと使用人の真似事をして、カルラと連絡を取り合って仲良くしていたりと穏やかな人生を歩み始めているかに見える。だがまだバルドと別れて三月と経っていないのだ。
そう簡単にバルドのことも、戦のことも振り切れるものではないはずだ。
「そうですか……」
エレンがしばし傷ましげな顔をして黙り込む。
「やたらリリーのこと気にかけてるな」
エレンはあまりリリーのことは好きではなかったはずだ。
「気にかけているほどでもありません。ただ、少し気になるだけです」
不服そうな声に、クラウスはこれ以上問い詰めることはしなかった。同じ立場に立たされた者同士で、引っかかるのかもしれない。
「では、私はここで」
そして会話のないままエレンは書庫へと引き返していって、残されたクラウスは重々しくため息をつく。
魔術がこの島から消えない限り、リリーが戦へと駆り立てられる不安は消えない。
「頼れるのは、あの胡散臭い魔道士だけか」
あまりにも心許ないが、できるだけ早く魔術が解けることをひたすら祈るしかなさそうだった。
***
十八度目の誕生日の朝は、憂鬱な気分だった。頭からすっぽり被った毛布から顔を出すと冷気が頬を刺して、起き上がるのに相当の決心がいった。
それでもとっくに夜明けは過ぎているので、体に毛布を巻き付けたままリリーは部屋履きをつっかけて、暖炉の前へと急いで体が暖まってきても気持ちはなかなか浮き上がってこない。
夢見があまりよくなかった。どんな夢だったかは覚えていないが、悪夢ではなかった。
なのにこんなに心が重たいのはむしろ目覚めたくないぐらいに、心地いい夢だったからだろう。
リリーは暖炉の灯をぼうっと見つめながら、揺らめく炎の中に燃えつきていく花々の残像を見た気がした。
それはきっと結婚式の後にふたりでくべた花たち。
「……朝食、シェルの分も」
リリーは思い切って毛布を寝台の上に戻して、少年用の使用人服に着替える。
シェルはしばらく屋敷に滞在することになり、少しずつ運び入れた資料を部屋に籠って見ている。
着替えると幾分か体を動かす気にもなって、リリーは厨房へとのろのろと進んでいく。
「おはようございます。朝食、いただきます」
いつもどおりほとんど仕度のすんだ厨房で、パンにハムとチーズを挟んで、鍋の玉葱のスープを椀に入れる。それをふたり分できると盆に乗せてまた引き返す。
「シェル、入るわよ、いい?」
気の抜けたかすかな返事があって、リリーはそっと部屋に入る。寝台や机の上に書類が山積みになり、シェルは長椅子の上で横になっていた。
「……おはようござ、います……?」
「そうよ、朝。机の上に朝食置いておくから」
どうやらまだ半分眠っているらしく、シェルからはくぐもった返事がした。リリーは机の上の書類を隅にまとめて朝食を置く。
「ああ! そうか!」
唐突にシェルが飛び起きて、リリーは驚いて肩を跳ね上げた。
「何?」
「ずっと、人為的に魔道士を作るということの根底に、ザイード・グリムのいかな思想があったのかわからなかったんです。定説は魔術の繁栄や永続性に対する実験というのがあったのですが、ここが違うのです! 記録を見ていると魔術を持つ者持たざる者の差異に注視しているのですが、この定説を一度忘れれば違う物が見えてくるはずです。そうか。あ、リリーさん、おはようございます。いつからそこに?」
自分でさっき挨拶をしたことも覚えていないシェルが、リリーを見てきょとんとした顔をする。
「部屋に入る前も、入った後も返事したじゃない。魔術を解く手がかりが見つかったの?」
「とっかりを見つけたというべきでしょうか。おいしそうですね。いただきます」
シェルが朝食を目に留めたので、リリーはそのまま一緒に朝食をすませることにした。
「とっかかりが見つかったってことは、早い内になんとかなりそうなの?」
「いや、あまり期待されると困るのですが。魔術を解くことに、かけた魔道士の人となりや思想というものが色濃く反映されるものです。だから、彼を知ることは重要なてがかりなのです。ああ、あたたまりますね」
シェルが玉葱のスープを飲んで、ひと息つく。
「そう簡単にはいかなそうね」
リリーはがっかりしながらチーズとハムを挟んだパンをかじり、部屋中に広げられた資料を眺める。千年前に生きていた人間のことを知るには少なすぎるのか、十分すぎるのかもわからない。
「いや、必ず見つけて見めせます。ここまで来たなら、やりとげないと気がすみません」
シェルが拳を握りしめて言うことに、いつになるのやらとリリーはため息をつく。
だけれど時間はまだ有り余っているので、焦ることもない。戦が終わった後でなければ、混乱をきたすので実証もできないのだ。
(バルドがいなくなってから)
リリーは死ぬという言葉を無意識に避けて考える。
「あ、リリーさん、今日はお誕生日ということになってましたね。おめでとうございます」
「……ありがとう。晩餐は美味しい物いっぱい食べられるわよ」
ついでなので夕食にはシェルもいることになった。
「いやあ、本当にこのお屋敷の料理番は素晴らしい腕です。しかし、今日も誕生日だというのに使用人のお仕事を?」
リリーの格好を見てシェルが首を傾げる。
「それとこれとは関係ないわよ、どうせやることないから、今日はいい天気だから敷布を干すの。あんたのも出すから、上に置いてる物はよけておいて」
なにもしないというのは、自分にとって苦痛だ。編み物ももちろん楽しいしショールを仕上げたいが、体を動かすことだってしたい。
「はあ。わかりました。食事が終わったら出しますね」
そしてリリーは朝食の片付けをしに厨房に行った後、古書の埃を被ったシェルの寝台の敷布を持って他の使用人達と使っていない客室の敷布を集めて中庭で日干しする。
真っ青な空の下、冬の乾いた冷たい風に白い敷布が数十枚はためく光景は、朝の憂鬱な気分が取り払われるほど心地がよかった。
***
日暮れ前に敷布を取り込むと、リリーは慌ただしく着替えをする。淡い青のドレスを着て、髪は結い上げて夜会というほどでもないが普段着というわけでもない装いだ。
カルラにも来てもらうので、客をもてなすのにある程度はきちんとした格好をしておきたかった。
「んっと、これでいいわね」
姿見の前でくるりと回って、おかしな所がないか確認してリリーは向かいの部屋にいるシェルに、夕食の時間だと告げる。
「おや、今晩は綺麗な格好をしているのですね。はあ、こうしてみるとなかなか普通のお嬢さんですね」
リリーを見ながら、シェルが褒めているつもりがあるのないのかわからないことを言う。
「友達がわざわざ祝いにきてくれるんだから、綺麗な格好してないと失礼じゃない」
「なるほど。しかし、お祝いの品など一切用意していないのですが、よろしいのでしょうか」
「いいの。欲しい物なんてないし……」
誕生日をバルド以外に祝われることに慣れていないので、どうにも落ち着かない。
使用人達にもさらりとおめでとうと言葉をもらった。使用人でもないのに屋敷のことを手伝っている自分を最初は扱いづらそうにしていたものの、今では少し慣れてきた雰囲気ではあったものの祝ってもらえるとは思わなかった。
お決まりの挨拶としても、やはり祝われるのは戸惑ってしまう。
そうして大げさな晩餐会を開くのとは別のこじんまりとした食堂に入ると、すでに多くの料理が並べられてた。肉類は鳥の香草焼きだけで、後は貝のスープやムニエルなど魚介類が多いのは、リリーの好物だからだった。
「本当に、すごい。ありがとう……」
リリーは食卓を見て感嘆しながら、先に席についているクラウスに例を言う。
「今回の俺の贈り物はこれだけだからな。リリー、おめでとう。あ、ご希望の林檎のパイは食後にな」
クラウスが向かいの席を勧められるままに、リリーは席につく。よく見れば四人分にしては少し控えめな量なのは、きっと後にくるパイのためだろう。
「今晩はお招きありがとうございます。リリー、おめでとう」
そうして、最後にカルラがやってきてリリーは立ちあがる。
「うん。来てくれて嬉しいわ。座って。あ、こっちはシェル。知り合いで屋敷に泊まってるの。話は食べながらしよう」
リリーはカルラを自分の隣の席に促しながら、ついでにシェルを紹介するとふたりが軽く挨拶を交わす。
「あ、リリ-、これ。お祝いの贈り物。時間があればもう少し他の物も用意できたんだけれど……」
カルラが手に持っていた包みを差し出した。
「ありがとう。開けていい?」
とても大事に受け取ったリリーは、カルラが緊張気味にどうぞと返事をしてから黄色いリボンを解く。
包みを開けると白い花が一輪あった。繊細なレースの花びらで作られた花飾りだった。
「綺麗……もしかして、カルラが作ってくれたの?」
丁寧な作りに感動しながら訊ねると、カルラが照れくさそうにうなずいた。
「あまり時間がなかったから小さめだけれど、ドレスにも髪にも飾れると思うの」
「すごく素敵。大事に使うわ。本当に、綺麗。カルラ、すごいわ」
仕事の合間に作ってくれたことを思うと、感謝してもしきれない。
「よかった。喜んでもらえて」
カルラが安心した顔をするのに、リリーは彼女の誕生日にこれに見合うだけのものが返せるのか今から心配だった。
(……先のこと、考えてる)
そしてふっと自然と今後初めてできた友人の誕生日を祝うことを考えている自分に気づく。
前に、きちんと進めているということなのだろうか。こうやって、歳を重ねて生きていくのかとやっと今までよりははっきりとした実感があった。
実際、晩餐は楽しく過ごせた。友人達と美味しい料理を楽しんで、とびきり甘くいけれどほどよい酸味もある林檎のパイも想像以上に美味しい物で、明日の朝にはちゃんと料理番の人達にも礼をしなければと思った。
楽しい夜だった。
晩餐を終えてカルラを見送って、寝台に潜り込むまで暖かく優しい気持ちは続いていた。
だけれど目を閉じると、忘れてしまっている今朝見た夢を見たいと望んでいいる自分がいた。
夢の中にしかない幸せを、まだ求めている。
リリーは首を横に振って固く目を閉じて、望みを振り払い眠りにつく。
結局その日は、夢は見なかった。
***
バルドはひとり固いパンと乾し肉を囓りながら、今日という日が過ぎていってしまうのをやるせない気持ちで過ごしていた。
(リーの、誕生日)
去年は忘れていたけれど、今年はしっかり覚えていたのに肝心の祝う相手がいない。
渡すこともできないのに、ひと月近く前から何を贈ったらリリーが喜ぶだろうと考えてしまっている自分がいた。
今日は、誰かが祝ってくれているのだろうか。リリーの誕生日を知っているのはクラウスぐらいだが、どう過ごしているのか見当もつかかない。
彼女が少しでも明るく笑える誕生日を過ごしていればいいのだが。
(明日、早い)
バルドは古びた柱時計を見上げて、今日は早い内に床に入ることにする。
例年よりは暖かいらしく、南側は少し雪が溶け始めている。このぶんだとあとひと月ほど後には戦が再開される。
明日は周辺の様子を念入りに探る予定だ。
「……リー、おめでとう。おやすみ」
寝床に入るとき、バルドは口にするか迷っていた祝いの言葉をつぶやく。
この先、リリーが何度も歳を重ねていくこと思いながら、何十回分もの想いをこめてただひたすらに先に多くの幸せが訪れることを祈りながら――。
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