首都の元王宮にリリーが滞在して五日になる。

 始めて作ったレースのリボンは、緩く編んだ三つ編みを飾っている。思いの外、余計なことを考えずに黙々と集中していられる編み物は性に合った。身構えたほど難しくもなく、基本をある程度覚えてしまえば規則的に手を動かしているだけでいい。

 そして基本を覚えるためにいくつかリボンを編んだ後、毛糸でクッションカバーを作り始めて午前中には完成した。

 昼食を終えた後に、リリーは今度は針を持っていた。

「ああ、そっか。こう、よね」

 手持ちの古い日常着のドレスに刺繍をしているのだ。繕い物は戦でローブや服を直すのによくしていたが、刺繍は初めてだった。

 ほつれた襟元を直して、縁飾りを施すだけで蓬色のドレスの古びた印象が薄れた。

「そう。リリ-、針の扱いも上手だわ」

「こういうの苦手かと思ったけど、やってみればできるものなのね……」

 今までやろうとも思わなかったことが、実際にしてみれば手に馴染むことにリリーは驚く。

 だけれどやはり両手にかかる剣の重みがないのは、落ち着かないものがある。

 戦いたいと本能は戦を求めている。

 だけれど我慢できないほどの退屈さは、今はまだなかった。まだ感情が状況に追いつききっていないせいもあるだろう。

 数日経っても自分自身のこの状況を他人事のように遠くから俯瞰している感覚は消えない。

(これが、バルドがあたしに望んでることなのかな)

 剣を持たずにこうして日常を過ごして生きていくことに、自分は耐え続けられるのだろうか。

「つっ、と」

 意識が逸れて、つい指を針でついてしまった。血玉がドレスにつかないように気をつけながら、リリーは血を手巾で拭う。

「大丈夫?」

「大丈夫。軽く差しただけ。それにローブ作るときは血が必要だから、短刀で指先切ってたから慣れてるし」

「最初に会ったとき、ローブを作ってるところ、見たわ。まだ、あれから一年も経っていないのね」

 しんみりとつぶやくカルラの表情に投獄生活の影が見えた。

 お互い再会するまでに何があったかはほとんど話していない。わざわざ聞くことでもなく、注意を払って話題を避けるほど気を遣っているわけでもなかった。

 ただ話題に上らない。それだけのことである。

「いろんな事が起こりすぎて、あっという間に時間が過ぎたって思ってもまだそれぐらいなのよね」

「出てきたら何もかも変わってしまっていて本当に何年も経ってしまったみたいだと思ったわ。……私、ずっと考えてたの。兄様が自決したと聞いて、同じようにするべきか。でも、私はディックハウトに忠誠心があるわけでもなかった。ただ自分のことを認めてくれるものが欲しかっただけだったんだわ。死ぬ理由すらなくてどうしたらいいかわからなかった」

 カルラの異母兄もまたディックハウト信奉者で投獄されてすぐに自決した。

「死ぬ理由か。戦で負けたら死ぬんだと思ってたのに、今、こんな状況でどうしたらいいかあたしもわからないわ。でも、カルラは生きてることに決めたんでしょ」

 理由なんて考えなくても、人は死ぬときは死ぬのだ。自分の場合は戦で負ければ終わりなのだとはっきりと最期が見えていた。

 だけれど今は自分の先行きが見えなくなってしまった。

「あのね、何のために生きるかだとか、死ぬ理由だとか戦がなくなってしまえばそこまで考えなくてもいいんじゃないかしらって私、思ったの。リリーみたいに戦で負けて終わりでいいって思ってる人よりも、本当は死にたくないって思ってる人の方がきっと多いわ。そんな人達は家族や友達、そんな大事な人のためにだとか、自分自身の誇りのためだとか忠義心だとか何か死んでもいいと思える理由が必要なのよ」

「そうね。生きてる理由考えることはあっても、死ぬ理由はよっぽどのことがないと考えなくていいんだわ」

 リリーは血が止まったことを確認して再び針を動かし始める。

「だから、私、ただ今まで与えられるものを受け入れて流されるばかりだったし、とにかく自分で生きてみないと駄目なんだって思ったの。死ぬ勇気も覚悟もないだけの言い訳かもしれないけど」

 カルラはそう言って、自嘲した。

「そんな覚悟も勇気もなくったていいんじゃない。あたしは、カルラが生きていてくれてよかったわ。仕事探しの邪魔にはなってない?」

 カルラは自分の世話係としてほとんど一日中ここにいる。まだ国の状況が掴めないとはいえ、このままではまともに身動きできないのではないだろうか。

「大丈夫よ。昔一緒にお針子をしていた人達に手紙を書く時間は十分あるもの。返事ももらってるのよ。これから、街の人も増えて何かしらの針仕事にはありつけるっていう話だわ。それに、リリーとこうして一緒にいられるのは私も嬉しい。……それで終わりね」

 最後の一針を刺し終えると、カルラがリリーの手元を覗き込む。

「こんなものでいい?」

 いささか最初の方の縫い目ががたついているが、注意して見なければよく分からない程度ではある。

「着てしまうと、些細なところはぜんぜんわからなくなるわ。リリーなら、すぐに上手くなるわね」

「じゃあ、明日これ着てみるわ。それにしても、結構首と肩凝るわよね、これって」

 リリーは固まった肩を回して首も動かす。

 剣を扱うのとはまた違う疲労感は、そう嫌なものでもなかった。ひとつ作り終える達成感は、戦って勝つときほどとまではいかないものの心地いい。

 少し休憩をとお茶を始めたところで、使用人がクラウスから伝言を持ってくる。

 今この元王宮にいる使用人は皇家に仕えた魔力を持たない者達で、そのまま施設内の清掃や政務を行う官吏らに食事を提供したりと以前とさして変わらない雑務を任されているそうだ。

「……今日は、カルラとふたりだけでって伝えて置いて下さい」

 クラウスからの伝言は夕食を一緒にしてもいいかということだった。

 毎日訪ねてくるつもりなのかと思ったクラウスは、今の所三日だけ夕食か昼食、合わせて三回だけしか来ていない。来る前には事前に連絡もあった。

 今日はなんとなしに、クラウスと食事をする気になれなかった。

「律儀な方ね」

 カルラが感心するのに、リリーは眉根を寄せる。

「そうなのかしら。自分でくるのが面倒くさいんじゃない? だいたい、ひとりでふらっと来て勝手に居座るのがいつもなのに……」

 クラウスに気をつかわれているのが苛々するのは、彼に自分を託したバルドのいらない配慮を見ているようで感情が波立つからだ。

「ここを出た後は、クラウス様のお屋敷に招かれているんでしょう。リリーが居心地よく過ごせるためじゃないかしら」

「まだ、一緒に暮らすって決めたわけじゃないわ。……一緒に暮らすってことは、求婚を受けたことになるのかしら。あ、クラウスにね、前に、求婚されてもう二回か三回は断ってるわ。一回は面倒ごと避けるのに、婚約したってことにもなってたし」

 この手のことは相変わらずよく分からないので、リリーはカルラに問いかける。

「……クラウス様がリリーに結婚しない意思があるのがわかってても、周りから見たら結婚も同然とみなされてしまうわね。何も言わずに外堀を埋めてしまうのは、ずるいわね」

 カルラがクラウスへの印象が変わったらしく、難しい顔で考え込む。

「それなら爺様の所の方がいいのかしらね」

 クラウスと一緒に暮らすのはまだしも、やはり結婚となるとまったくの別問題だった。

「リリーが一番行きたいのは、やっぱり戦場?」

 カルラが寂しげに問うてきて、リリーは迷いながらもうなずく。

「戦いたいわ。まだ、戦っていたい」

 自分の感情を噛みしめるように、リリーは繰り返す。

 戦場に出たい気持ちが消えることはない。以前の自分なら迷わず双剣を手に入れる方法を模索しただろう。いっそ革命軍でもいい。バルドと戦うことも厭わない。

 彼と命懸けで剣を交えることができれば最上の戦となるだろう。

 だけれど、きっとそれは叶わない。

 バルドが自分に生きて欲しいと思っている以上、少なくとも彼はどこかで手を緩める。以前もそうだったのだ。今度はその時よりもバルドの意志がはっきりしすぎている。

「……でも、今は剣もローブも持てないし、クラウスも持たせてくれないわね」

 紅茶を飲み干して、リリーは長椅子に深くもたれかかる。

「そうね、大事な人には傷ついてほしくないし、死んでほしくないもの。私も、そうよ。せっかく仲良くなれたんだから。……そう言ってもリリーは行く時は行ってしまうわね。自分で選んでしまう」

 カルラと以前の別れ際の時に話したのと似たことを話すカルラに、リリーはフリーダを思い返す。

 彼女もまた、似たことを言った。

 今の自分は何も選べていない。バルドに置き去りにされて途方にくれているだけだ。

「ねえ、もっと時間がかかる大きいもの編みたいわ」

 リリーはもう少し時間が欲しいと、カルラに訪ねる。

「それなら大判のショールなんてどうかしら」

 表情を陰らせていたカルラが、ほっとした顔で微笑んでそう答えた。。

 

***


 それからさらに、五日が過ぎ。首都に来てもう十日目になった。

 夜中にリリーはカルラと始めたショール造りをひとりで進めていたが、すぐに手を止めた。一昨日に月の障りがあり、初めて経験するほど重たく二日は横になっていたので、ほとんど進んでいなかった。

 しかし、確実に月日は過ぎていく。あと二日で首都内での外出は許され、そして五日ほどで王宮を出ることになっている。

 まだ結論は選べていなかった。

 まだ首都の外で居住する許可はまだ出ないので、もし祖父の所に行くのなら少しだけ王宮での滞在は引き延ばしてもらえるらしい。

 バルドはもう北に落ち延びたのだろうか。

 そう考えると、突然首根っこを掴まれて感情の嵐に呑み込まれる。

 真夜中にひとりでいると時々そうなる。全身を叩きつける激情に、為す術もなく打たれるままになって気がついたら朝になる。

 その間の記憶がすっぽりとない。眠っていたのか、起きていたのかすら分からない。

 窓辺から朝陽が差し込んでいて、頬がほんの少し濡れている。

 泣いては、いたのだろう。

 自分が何を思い、何を求めていたのか思い出したいのに何も思い出せない。

 リリーはふらつく足取りで起き上がって、帳を開けて光を部屋全体に入れる。わずかに窓を開けてみるとすきま風があまりにも冷たく、すぐに閉めた。

 今日も一日寒そうだと、リリーは白い吐息を零した。


***


 元王宮からいよいよ出られるとなった日、事前にカルラに誘われたとおり、リリーはふたりで市に出ることとなった。

 来る時は馬車の中で窓を閉め切った状態だったので、街を見るのは実に数ヶ月ぶりだった。

「……よろしく、お願いします」

 リリーは王宮の裏口に止められている箱馬車の側に立っているマリウスへ会釈する。当然のごとく監視役がつくことになり、それが彼だった。

 マリウスはローブは羽織っていないものの、外套の下に帯剣しているのが見えた。

「不自由はしていないか」

「ないです……」

 表情の薄いマリウスを前にして、リリーはバルドと向き合う他の者達はこんな気分だったのだろうかと思う。機嫌がいいのか悪いかすらわからず、さして親しくしてもいないので間が持たない。

「先に」

 マリウスが顎で示してリリーは最初に馬車に乗ってカルラが乗るのに手を貸す。カルラは見るからに不安そうだった。

(一緒に乗るのよね)

 最後にマリウスが乗って扉が閉められた車内の空気は重かった。カルラがリリーの手を離さず緊張している。

「自分は監視ではなく護衛としてつく。邪魔にならないよう、距離はできるかぎり空ける。以上で問題ないか」

「護衛なんですか?」

 見張られることに護衛も監視も変わりないとはいえ、意味合いが大きく異なる。

「……皇主様に最後に頂いた勅命だ。自分はアクス補佐官を監視するつもりはなく、護衛という名目で動く心づもりだ」

 以前から知っていたことが、面倒くさい青年である。だが、彼にとって戦場ではなくここにいるもっともらしい理由が必要なのだ。

(戦いたいなら、あたしはもう放っておいてもいいのに)

 マリウスが首都から動かないのは、もっと他に事情があるからだ。彼の残るたったひとりの家族である姉のヴィオラは自ら革命軍についた。そして、おそらくバルドと取引をした。

(あたしの身柄の安全の確保とジルベール補佐官を切り離すこと。勝手なんだから……)

 バルドの決断のことを考えていると、どんよりとしたものが胃の奥からこみあげてきそうでリリーは視線をカルラへと向ける。

 カルラは居心地悪そうにしていて、気軽に話ができる雰囲気でもない。ほんの少し我慢すれば外だと重苦しい空気にたえることにする。

 そうしてやっと馬車が止まって外に出た時の開放感は格別だった。

「カルラ、大丈夫? 何考えてるかあたしもよく知らないけど、悪い人間じゃないわよ」

 先に言っていた通り、マリウスが少し距離を空けて後ろをついてくるのを確認して、リリーはカルラに小声で問いかける。

「ええ。ただ、皇家への忠誠心がお強い方らしいから、その、私、ディックハウトについていたでしょ。すごく、気まずくて」

「あの人だって今は皇家軍じゃないもの。カルラを責める理由もないし、そこまで理不尽な人でもないと思うわよ」

 たぶんという言葉を省略して言うと、カルラはリリーが言うならと安心した様子だった。

 そしてふたりで人の流れに逆らわずに市を見て回ることにした。皇都であった頃と人出の多さは大して変わりなく見えた。

「懐かしいわね。リリーと前もこうやって一緒に歩いたわ」

 カルラがお互いはぐれないために繋いだままの手を揺らして微笑む。

「前より人はちょっと多いかしら」

 歩いている内に徐々に人の波に押されて歩きづらくなってくる。

「今まで、ディックハウト領側との商路が断絶されていたでしょ。皇家同士の戦が終わってから物も人も流れてきているらしいわ」

 言われてみれば果実や織物、陶磁器など以前はあまり目にしなかった物珍しい物がちらほらと目についた。

「そうなんだ。これからまだ街に人が増えるんだっけ」

 カルラから下層区の廃墟になっている所も古い家を修繕したり建て直したり整備が進められている話や、外壁の外にも街を広げる噂話を聞いたことを思い出す。

「賑やかになるといいわ」

 最初こそ一変してしまった国の様子に戸惑っていたカルラは、期待が不安よりも大きいらしくこの頃は明るい。

 周りを見渡せば誰もがカルラと同じに見える。終戦の喜びと希望に満ちて、寒々とした冬の空気も熱気に包まれ市は生気に溢れている。

 自分だけが、取り残されている気がした。

(あたしだけってわけでもないか)

 リリーは後ろをついてくるマリウスへをちらりと振り返る。混雑していても距離を変えることもなくぴったりとくっついてきている彼も、賑やかな群衆の流れの中の淀みにはまっている。

「リリー?」

 足運びが鈍くなったリリーに、カルラが首を傾げる。

「うん、なんでもない……あ」

 何気に目を向けた人混みの向こうに、一瞬見知った横顔を見えた。カルラも同じ方向に目を向けてどうしたのかと訊ねてくる。

「顔見知りがいたの。カルラも会ったことあるわよね、皇太子殿下の侍女をしてた人」

 エレンはこの街で暮らしているのだろうか。革命軍に加わっていたのでいても不思議ではない。

「ラインハルト殿下のお側にいつもいらした方なら、何度か会ったわ。その方とは、親しくしていたの?」

「親しいってわけじゃないわ……。一瞬だったから人違いかもしれないけど、後でクラウスに訊いてみるわ」

 エレンと話がしたいと思った。置き去りにされた者同士で、何かを分かち合いたいわけではない。ただどうやってエレンがひとりで歩き続けているのか、どこかにたどり着けたのか彼女の口から聞いてみたかった。

 昼食はクラウスの屋敷へと招かれているので、その時に教えてもらえるはずだ。

「そうするといいわ。ああ、ほら見てあれ可愛い」

 カルラが丸々とした兎を模した陶器の置物を示して、リリーは本当だと口元を緩める。人が多すぎてゆっくりと見ている暇はないものの、物が多すぎるので色々見るにはちょうどよかった。

 そして編んでいるショールに飾りとして使おうと、カルラと色違いの安価な飾り石を買ってクラウスの屋敷へと向かうことになった。

「わざわざありがとうございました」

 帰りの馬車にマリウスは乗らないということで、リリーは市の入口の門前で彼に会釈する。その隣でカルラもありがとうございましたと深々と頭を下げて言った。

「アクス補佐官。まだ剣を握るつもりがあるなら、いずれ軍の方にくるといい。戦はなくとも、治安維持のための力は必要だ」

 マリウスがそう告げて、リリーは目を瞬かせる。

「ジルベール補佐官は、今、そっちに?」

「姉上の仕事の手伝いをしているだけだ。……この腕では、いずれ魔術が失われれば、いや、すまない。余計なことを言った」

 マリウスが苦悶の表情を見せて、リリーは小さく首を横に振る。

 皇家が滅びれば、いずれ魔術が失われるとクラウスが嘘と真実を織り交ぜた話を流布している。

 マリウスにとって魔術が消えるということは、いずれくるバルドの死を口にしているも同然だ。片腕を犠牲にしてまで忠誠を捧げた主君を失うことに、そして最後まで仕えられないことに彼もまだ自分の中で折り合いがつかず煩悶しているのだろう。

「いえ。そのことも、考えてみます。……本当にありがとうございます」

 リリーはマリウスの気遣いに感謝して、カルラと馬車に乗る。

 戦うことができる道がまだあるのは知ってる。だけれど、たぶんきっと自分の求める戦場はない。

 自分も時代の流れの淀みにはまったままだと、リリーはついため息をついてカルラに心配されてしまうのだった。

 

***


 カルラと市の話をして、リリーの気持ちが切り替わり始めた頃にクラウスの屋敷に着いた。

「近くで見ると、思ったより大きいわね……」

 リリーは屋敷を見上げて思わずそう零す。

 元王宮の屋上庭園からもこの屋敷は見えていたので、第二の王宮と言われていただけの広さがあるのは知っていたものやはり目前で見ると迫力が違う。そして庭先や玄関付近に戦の名残も見えた。

「ご立派なお屋敷ね……」

 一応は伯爵令嬢だったカルラも感嘆しながら、重圧感に気圧されていた。

「早かったな。遠慮しないで入ってこいよ」

 入口からクラウスが手招いて、リリー達は屋敷の中へと入る。屋内もまだ修繕中の箇所がいくつか見られた。

「昼食の前に、部屋、見ていくか」

 そう言って、クラウスが屋敷の奥の方へとふたりを案内する。

「迷子にならない?」

 同じ扉が左右にずらりと並ぶ廊下に、リリーはついそんなことを訊いてしまっていた。今まで大きな屋敷や砦に入ったことがあるとはいえ、常々屋敷の住人は迷わないのか不思議になる。

「子供の頃はよくなってた。今でも正直、どこがどこだったかすぐに思い出せないときもある。まあ、慣れたら自分の部屋と玄関ぐらいまでの道はわかる。と、ここだ」

 クラウスが目印に青いリボンが結ばれたドアノブの扉を開ける。

 来客用の部屋らしく、寝台や鏡台など調度品一式が揃えられている。さほど広くはなくリリーが過ごしている元王宮の部屋と変わらないぐらいだった。

「とりあえず、ここをリリーの部屋にするつもりだけど、部屋ならいっぱいあるから他に好きなところ選んでもらえばいい」

「……広すぎないならなんでもいいわ。まだ、住むかはわからないけど」

 特に部屋を選り好みするつもりはなかった。それ以前に何も気持ちは決まっていない。

「強情だな。まあ、後は食べながらにするか」

 クラウスが苦笑して廊下を引き返す。次に通された部屋は広いことは広いが、大仰なことはなく真っ白いクロスがかかった円卓に、野菜や肉を挟んだパンとスープと、素朴な昼食が用意されていた。

「この屋敷も俺の物ってわけじゃなくてお互い借家住まいだし、兵舎にいるのと変わらないだろ」

 昼食を摂りながら、クラウスが言うのにリリーは渋々うなずく。

「これだけ広いと四六時中顔を見ることもなさそうね」

「同じ家の中でもお互い会おうと思わないと会えないだろうな。だからさ、あんまり色々考えずに一緒に暮らしてみるのも悪くないんじゃないか?」

 クラウスは気軽にそう言うけれど、彼が本心では何を考えているかはよくわからない。後でカルラに相談してみようと、リリーは口を挟まずに静かにしているカルラに目を合わながら返事を濁す。

「考えてみるわ。あ、エレンを市で見かけたんだけど、あの人、街にいるの?」

 そして話題を他に変える。

「皇家の墓守するのに、近くに住んでるな」

「墓守……。会えるかしら」

 死んだ後の世話を始めたのかと驚きながらも、リリーはクラウスに訊ねてみる。

「確か、明後日ヴィオラさんが見に行くって言ってたから、一緒に行ってみるといいな」

「今度は姉の方なの……」

 ジルベール姉弟とはまだ縁が続きそうだと、リリーは複雑な心境になる。

「今、リリーに好意的な人間で信頼できるのはそのふたりぐらいだからな。他の奴らよりましだろ。カルラ嬢も同行するのか?」

「あ、いえ。私はディックハウト方でしたし、明後日は私用があるので……リリー、一緒に行った方がいいかしら?」

 明後日はカルラはお針子を雇いたいという人物と話をすることになっている。せっかくの仕事の宛をふいにする必要は全くない。

「いいわよ。カルラはあたしのお付きじゃないんだし、監視役がひとりいるんだから十分よ」

 クラウスの言う通り、全く知らない他人に見張られるよりはジルベール姉弟のほうがいい。

「じゃあ、ヴィオラさんに伝えておく」

 クラウスがうなずいて、後は市を見に行ったときの話題と共に昼食を続けることになった。

(会ってどうするかも、訊かないのね……)

 リリーはクラウスが必要以上に干渉してこないことにほっとする。ここに連れて来られた時からずっとそうだ。

 必要最低限の物だけ用意して、不用意に立ち入ってはこない。

 自分がほどよいと思う距離をクラウスはちゃんと知っている。

 どうしても王宮から出なくてはならなくて、祖父の所にもいけないのならクラウスとこの屋敷で暮らすことはそれほど嫌ではないと思い始めている。

 だからといって流されるままになるのも嫌なのだ。

(どうしたい? どうするべき?)

 自分自身に何度となく訊ねても、やはり返事はどこからも聞こえてこなかった。



***


「リリーちゃん、お久しぶりですわね」

 墓所へ向かう日、リリーを迎えに来たヴィオラは軍装ではなかった。

 髪を結い上げて首元まで覆う露出も飾り気もない黒いドレスは、他の者であれば質素な出で立ちだがヴィオラの内から滲み出る華やかさを覆い隠し切れてはいなかった。

(……相変わらず派手だわ)

 そう感心するリリーも普段以上に控えめな紺色のドレスを選び、髪も三つ編みを後頭部で丸く纏めただけで明るい色はない。

「一昨日はマリウスが一緒だったでしょう。気が利かない子だから、窮屈ではありませんでしたこと?」

 馬車の中で向かい合わせに座っているヴィオラが小首を傾げる。

「いえ。大丈夫でした……あの、炎将は軍にいるんですか?」

 リリーはマリウスがヴィオラの手伝いをしていると聞いたことを思い出し訊ねた。

「ええ。軍にいるとはいっても、組織の再編のお手伝いだけですわ。わたくしは必要に迫られない限り、もう剣はもたないつもりですの」

「そう、なんですか?」

 ヴィオラも将を務めるのに十分すぎる魔力と剣才を持っていたのに、もったいないことだ。

「他にやりたいこともあるから、本当は軍のお仕事も早めにマリウスに引き継ぎたいのですけれどね」

「まだ、何かあるんですか?」

 ヴィオラが離叛した理由はそれなのだろうか。

「わたくし、子供が欲しいのですのよ。もし、戦がなかったら早い内に優しい旦那様をみつけて、ふたりか三人。もっと多くてもいいかしら。そんなことをずっと考えていましたの。似合わないでしょう」

 ヴィオラがはにかみ小さく笑うのに、驚いたけれど似合わないと思わなかった。

「そんなことはないと思います。……戦はずっと嫌だったんですか?」

「嫌々戦をしていたわけではありませんわ。わたくしも武勇で名を上げたジルベール家の子。行儀作法より剣の方がずっと性にあっていましたもの。だけど、他にも辿りたい道があっただけですわ」

「だったら、もっと早くにもうひとつを選ばなかったんですか?」

 裏切り者だとか、逃げただとかいう批難する意味合いはなく、リリーはただ漠然と聞き返した。

 皇家同士の戦の時にディックハウト側に行っていてもよかったのではないのだろうか。

「もっと早くには、選べませんでしたわね。わたくしには皇家への忠誠心もありましたもの。弟もそう。どちらかの皇主様に従うかと言われたなら、ハイゼンベルク以外にありませんわ。だけれど、その皇主様が忠誠を望まれないなら、わたくしはもうひとつの道を選ぶことにしましたのよ」

 ヴィオラが一呼吸おいて、それでもと憂い顔を浮かべる。

「決断するまでに時間はかかりましたわ。だけれど、あの籠城の説得に行って、決断しましたの」

「あの戦、何があったんですか?」

 ヴィオラが離叛したのはは革命軍派と皇家派に分かれた男爵家の内紛の鎮圧の最中だった。

 すでに皇家派は劣勢となり籠城していて、革命軍派から停戦交渉を持ちかけられ残る籠城している者達の説得に向かったのだ。そして領民と共に消息を絶った。

「籠城している者達は魔術を失った後を恐れていましたの。自分達が統治者であり続けられたのも、領地で上位の立場にいられるのも魔力があるから。もし魔力がなくなってしまえば、今まで築き上げたものが全部なくなってしまうと思っていましたわ」

 魔力を持つ者達が選民意識を持つことは希ではない。むしろ大半の魔道士がそうだともいえるかもしれない。

「革命軍は地位を保証するって説得してきたんですか?」

「ええ。すぐには信じられないでしょうし、皆、今更寝返るのはと迷っていたのですわ。だけれど、自決も選べずにいた。わたくしは革命軍へ共に行きましょうと手を引いただけですのよ。自分より高位の者が言うのならと、皆、ついてきましたのよ」

「たったそれだけのことなんですか」

 もっと複雑な事情があったのかと思えばそんなことかと、リリーは拍子抜けする。

「そんなものですわ。自分だけの意志で突き進めるほど、強い人間は多くはありませんのよ。わたくしにも、革命軍から、離叛すればマリウスの命の保証もすると言ってきましたわ」

「捕虜ならともかく、前線に立つ人間の身の保証なんて無理です」

「ええ。無理よ。だけれど、自分の手でならやれるかもしれないとわたくしは思ったの。誰よりもあの子のことを知っているから……。それも、過信でしたわ。皇主様に頼るしかなくなってしまった。リリーちゃんには悪いけれど、とてもいい交換条件で引き受けて下さいましたわね」

 悪びれた素振りはなく、哀しげにヴィオラが言ってリリーは膝に置いていた手をかすかに振るわせる。

「……どっちにしろ、あたしを置いていくことには変わりなかったんです」

 ヴィオラが交渉しようとしまいと何も変わらない。バルドはマリウスを無条件でヴィオラに引き渡したであろうし、自分はここへと送られることになっただろう。

 ふたりの間に沈黙が横たわって少し経った後、馬車が止まった。

 半分ほど取り壊された石垣に囲まれた皇家の墓所は、木々がまばらに生えるただの草むらだった。奥の方に神器を祀る社のような、こじんまりとした白い石造りの建物が見えた。よくよく見れば、王宮を縮めた形をしているらしい。

 墓所の敷地を狭めるためらしく、石垣を解体してそれを元に新しい囲いを作る作業が同時に行われていて墓所らしい静謐さはなかった。

「あら、だいぶ狭くなりますのね」

 ヴィオラが新しい囲いの様子を見てつぶやく。

(あれぐらいでちょうどいいんんじゃないかしら)

 社の大きさは人ふたりが入れるかどうかという大きさだというのに、残っている石垣から察して墓所全体の広さは王宮ほどの広さがある。狭められた後でも、数十人は入れる有余があるだろう。

「っと、え、ごめん、大丈夫?」

 敷地に入ってすぐにリリーは足下にふたつぐらいの幼子が前も見ずに駆けて来て転ぶのに驚く。

 幼子はこくりとうなずいて泣きもせずにすぐに走っていってしまった。その先では慌てた様子の母親らしき女性がいて子供を抱き上げて、深々と会釈した。

「ベッカー補佐官の甥孫ですわよ。ふふ、可愛い」

 ヴィオラが告げて、リリーはぽかんとしながら母子の姿を見る。

 戦死者を祀ることになっているのだから、墓参りか何かなのだろう。そして唐突にカイが死んだのだと、実感した。

 悲しみや寂しさがあるわけではなく、今までどこか遠くでぼやけていたものがはっきり見えたのと似ている。

「ああ、エレンちゃんはあそこですわ。わたくしは自分の用があるから失礼いたしますわ」

 ヴィオラが指し示す方向に苗を持ったエレンがいた。

 リリーはヴィオラに短く礼を言って、エレンの元へとぎこちない足取りで向かった。

「……どうも、お久しぶりです」

 さして親しく会話をしたことのないエレンに声をかけるのにも、妙に固くなってしまっていた。

「お久しぶりです。こちらへ来るとは思いませんでした。なぜ?」

 深緑のドレスを纏ったエレンは、あいかわらず淡々としていた。

「なんでって、言われると困るんですけど、あなたがどうしてるのかと思って。それは?」

 真正面から訊ねられてリリーは上手く答えられず、エレンが持っている苗を見る。

「金盞花です。……皇太子殿下がお好きだったので」

 何かを懐かしむように、エレンが花の苗に目を落とす。

「皇太子殿下のために、墓守をしてるんですね」

「いいえ。これは、私自身のためです」

 エレンが苗を社の側に植え付けながら、答える。

「自分の、ため」

 リリーは意味が分からずに鸚鵡返しにする。

「あの方の望みは、海に遺灰を撒くことで、ここで祀られることではありませんでした。私は自分自身の過去を埋葬したいのです。忘れるためではなく、過去を引きずりながら前に進まないために、整理をつけたいと言った方がわかりよいでしょうか」

 苗を見つめたままそう語るエレンに、誰にも語らない思い出が両手一杯にあるのだろう。

「引きずったままじゃ駄目なんですか」

「……少なくとも、私は引きずっては歩き続けられる気がしないのです。過去が時々懐かしめる思い出にならなければ、私は動けなくなると思うのです」

 きっぱりと言い切るエレンに、リリーは自分はどうなのだろうと考える。

(なんにも置いていきたくないな……)

 今はなにひとつただの思い出にしたくなかった。バルドとの思い出も、彼への想いも全て抱えこんで離したくない。

 だから、バルドとの思い出は誰にも話さずにいる。カルラはあまり触れて欲しくないのを察してくれているのか、何も聞いたりはしない。クラウスも話題には極力出してこない。

「ただ、それは私のことです。何が正しいかは、それぞれでしょう」

 リリーの心を読んだかのごとく、エレンが立ちあがって言う。

「なによりも、まだバルド殿下は戦を続けています。戦況はご存じですか?」

「知らない、です。……バルドは今、どうしてますか?」

 迷いながらもクラウスに訊ねずにいたことを、口にする。

 さすがに討ち取られたとなれば大々的に公表されるはずだから、生きてはいるはずだ。

「島の最北部のローブルという小さな街にたどりついたそうです。まだ、多くの魔道士が従っているとのことです。やはり、神器は脅威となっていて膠着状態になっている内に、大雪で攻め入ることができず革命軍は一旦退きました。雪解けの頃、春までかかるかもしれません」

 追い駆けるのならまだ、間に合うはずだと暗に言われている気がした。

「そうなんですね。……あの、急に来てすいません。ありがとうございました」

 リリーは表情を強張らせて、逃げるようにしてエレンに背を向ける。

 墓所の入口にまできた時、走ったわけでもないのに鼓動が早くなっていた。墓所には故人を偲ぶ者達や、古い物を取り壊し新しい物を築く者達で溢れかえっている。

(進みたいわ。あたしだって、いつまでも止まっていたくない)

 だけれど何も、捨てたくない。抱えたままで歩けるならそうしたい。

 リリーはヴィオラが再びここに戻ってくるまでじっと、立ち尽くしながら今ならどこへでも行けるのではないのだろうかとふと思う。

 だけれど、そうはできなかった。

(あたしは、ここで生きていくのかしら)

 しっくりこない答に首をかしげながらリリーは、結局そのままヴィオラと共に首都へと戻ることとなった。

   

***

 

 元王宮に戻ったリリーはすぐに使用人に書庫に案内してもらった。目当ては島の地図だった。

 書棚の奥には製本されていない紙束が丸めたり積み重ねられていたりしている。その中の紙筒のひとつが地図だった。

「……えっと、ローブルだっけ」

 机の上に広げた地図の北側をリリーは目を細めて目当ての地名を探す。小さな村々の名前が点在する島北部の中から、ゼランシア砦よりさらに北。海沿いの小さな村だ。西側は山岳がそびえ立ち、北側の海沿いは切り立った崖で港湾もなかったはずだ。

「遠い」

 リリーはローブルから首都までを指でたどってつぶやく。地図の上ではほんのわずかな道程も、ゼランシア砦よりさらに北なら果てしなく遠い。

 リリーは地図を片付けて、何かローブルについての本があるか探してみることにした。そして百年近く前に書かれたらしい、島全体を巡った記録書を見つける。

 文字の羅列にあまり字を読むのが好きではないリリーは一瞬怯んだものの、なんとかローブルについての記述を見つけ出す。分厚い本の中でほんの数行だけしかなかった。

 村人は五十人に満たない魔道士である村長が治める小さな村である。真冬にふたつきほど大雪で周囲と隔絶される。土壌は豊かで食料に事欠くことはない。皇祖への忠誠厚い村である。

「ああ、なんかそんな話聞いたわ」

 北へ向かった後、拠点候補の街や村のことをバルドと話した記憶がぼんやりと思い出されてくる。


『雪、いっぱい降るんだ』

 天幕の狭い寝床で身を寄せ合い寒さを凌ぎながらだった。雪をあまり見たことがないので、雪深い場所と言われても想像がつかなかった。

『伝聞。見たことはない』

『雪が降る日ってうんと寒いからあたし嫌いだわ。それがずっとならもっと寒いのね』

 今でさえしっかりと着こんで毛布を被っていて、ふたりぶんの体温があっても寒いというのにこれ以上の寒さは堪えそうだ。

『冬。仕方なし』

 バルドにすっぽりと包み込まれて、暖かさは増す。そうやってこの先もずっとふたりで寒さを乗り越えるのだと思っていたのは、自分だけだった。


「……籠城を決め込んだなら、兵糧は十分足りてるのかしら。持ちそうにないなら、撤退はしないはずだし」

 リリーは記憶を振り払ってバルドの意図を探る。

 この後に及んで兵糧が尽きて追い込まれるという惨めな終わり方は選ばないはずだ。体制を整えて、雪解けと同時に討って出るつもりなのか。

 その間に革命軍はバルドの神器への対策を固めるはずだ。バルドはそれも待っているのかも知れない。

 戦のない国を望む者達の中には神器を前にして、命を惜しんで怯んでいる者も大勢いるはずだ。革命軍の士気が上がったところで決着をつけたいのか。

「無策で籠ってることはないわよね」

 水将もまだ一緒なら尚更だと考えながら、リリーは腰元の軽さに落ち着かなくなる。

 腰に剣を携えていないのは、ゼランシア砦の時に受けた傷の療養中以来だ。二本の剣の重みがないことにも慣れてきたと思ったのに、戦のことを考えていると違和感がぶり返してくる。

(あたしは、戦場が好き)

 戦況を聞いただけで胸が沸き立って、いますぐその場に飛び込んで行きたくなる。

 命懸けで戦って勝つ喜びを味わう瞬間を思い出すと、堪えきれない。

「いっそ、相討ちのほうがよかったかしら……」

 今まで最も高揚を得たフリーダとの勝負で討死していたなら、何ひとつ悩まずに済んだのにと思考は陰鬱になってくる。

 バルドの元へ帰ることに必死だった。だけれど、今の彼の望みは自分が生きることだ。

「子供か……」

 ヴィオラの話を思い出して、リリーは机に突っ伏せる。

 誰も何も言わないけれど、街に出ることが許されたのが月の障りの最中であったことが全く無関係ではないとはわかっていた。

 別に欲しいとは思わないけれど、バルトの間に残るのが思い出だけしかないことは少し寂しく思った。

(だから、結婚式)

 どんなに忘れたくなくても、記憶は薄れぼやけていく。全部は覚えていられないけれど、だけれど絶対に忘れないこともある。

 バルドは思い出だけ残せれば、それでよかったのだろうか。

「リリー」

 ふと、肩を叩かれてリリーは顔を上げる。クラウスが少し心配そうな顔をして後ろに立っていた。

「どうしたの?」

 クラウスが自分から探しに来るのは、ここ最近なかったことだ。

「リリーが戻って来たっていうから顔見ようと思ったらここだっていうからな。書庫にいるなんて珍しいな。何探してたんだ?」

 普段本など読まないリリーが書庫にいることを心底意外そうにクラウスが何もない机の上に目をやって首を傾げる。

「……ローブルってどのあたりで、どういうとこなのかなって」

 リリーはクラウスの顔を見ずに答える。

「エレンから聞いたのか」

 クラウスが隣の席に腰を下ろして、リリーは小さくうなずく。

「今、膠着状態なんでしょ」

「大雪のせいでな。神器にも手こずってる。今更死にたくない奴らも多いからな……」

 エレンから聞いた話と、自分が考えていたことと同じらしかった。

「じゃあ、本当に春まで決着つきそうにないんだ」

「つかないだろうな。ああ、城を作ってるというか、補修してるのか。あそこに古い砦があって、それを今補修してるらしい。物資も確保できてるみたいだな」

「砦? ふうん。面白そう」

 新しい情報に、リリーは何をするつもりなのだろうと微笑む。

「戦には出せないからな。首都内ならどこに行ってもいいし、好きにしていいけど、剣だけは戦が終わるまでは駄目だ」

 クラウスが表情を硬くして念を押すのに、リリーは唇を尖らせてわかっていると答える。

「戦が終わったら剣は持っていいの?」

「……どうしてもっていうなら。俺は、リリーがしたいようにしてるのを見てるのは好きだからな。でも、命を捨てに行くなら別だぞ」

「戦に行く時だって、捨てに行ってたわけじゃないわ」

 ただ勝つために、自らの命も惜しまなかっただけだ。

「俺からしたら、捨てに行ってるとしか見えなかった。できれば、危ないことはしてほしくない」

「心配されることはしないわよ」

 今のままでは剣は握れない。バルドは自分を戦から遠ざけた理由は、ただ命をながらえるためだけというわけでもないだろう。

 まだ全部は思い出にしてしまえる気はまったくしないし、どこへ向かうべきかも見えない。

 だけれどひとりで立ち止まっているわけにもいかない。バルドがどこにいるのか分かっただけで、不思議と気持ちは落ち着いた。

「クラウス、早い内にあんたの家に厄介になることにするわ」

 まずはここから動かねばならないと、クラウスへ向き直る。

「……できれば、長い付き合いになれるといいな」

 クラウスが表情を緩めるのに、リリーは上手い返事は思いつかなかった。


***


 リリーが元王宮を出るのはそれからわずか二日後だった。調度品は全部置いて、中身だけ持って行くことにした。

「リリー、これ、私の新しい住所。近くだから何かあったら、いつでも連絡して。また、時々一緒にお茶をしてくれると嬉しいわ」

 ちょうどお針子として住み込みの働き先を見つけたカルラが、住所を記した紙をリリーに渡す。

「うん。連絡する。色々、ありがとう。ショールももうちょっとかかりそうだけど、頑張って作るわ」

 二人で作り始めたショールはまだ半分ほどしかできていないが、いい時間つぶしにはなるだろう。

「この分なら、春までにはできそうね。今度、一緒に編んだりもしましょう。リリー、じゃあ、またすぐに会いましょう」

 叶えられない約束ではなく、確かに果たせる大仰ではない約束をしてリリーはカルラと別れる。

 荷物はなくそう遠い場所でもないので、リリーは歩いてクラウスの家まで向かうことにする。

 まだ冬の最中の風は冷たく、馬車の方がましだっただろうかと思いながらも街路を一歩ずつ自分の足で歩いて行くことで気が引き締まる。

 白い街並みを魔道士や官吏が行き交う中、中級階級層程度のドレスでひとりでいるリリーは少々浮いていた。彼女の顔を知っている者は興味ありげに視線を向けるものの、声はかけなかった。

 リリーも周囲のことは見なかった。ただただ前を見て、ようやく自分の道を踏み出し始めていた。

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