洗濯籠を抱えて中庭に出たリリーは陽射しの暖かさが気持ちよく、目を細めて春の気配を体一杯に感じる。

「もうちょっとあったかくなったらいんだけど、まだ先かしらね」

 暑くもなく寒くもない陽射しが心地いい季節が待ち遠しいリリーは、まだ花はもちろん蕾すらついていない花壇を眺めながらつぶやく。

 時の流れに流されるままでなく、待ち侘びる先ができてきた。目覚めて頬が濡れていることもない。

 中庭の隅にある囲いをされた物干しで自分の洗濯物をのんびりと干していく。昨日マリウスが戦から帰還したので、ヴィオラから今日の午後にお茶の誘いがきていたので出掛けるつもりだ。

 今日は屋敷の仕事も使用人達で十分ということで、茶会まではこれといって急ぐ予定はなかった。

「せっかくだから、外で繕い物しようかしら」

 長椅子の上で暖かい紅茶を側に置き、古いドレスの身頃を整えるのも悪くなさそうだ。しかし、私物の整理も少ししておきたい。

 屋敷を出るのはまだ先だけれど、荷物はできるだけ少ない方がいい。

 元よりあまり自分の持ち物は少ないので、時間もかからなさそうなので茶会までに両方できるかも知れない。

 洗濯物を終えたリリーは次にすることを考えながら、部屋へと道を引き返す。

「ほんと、いい天気」

 帰りは視界を塞ぐ樹木や建物が少ない方向に向かって歩くので、ことさら澄み切った青空が広々と見える。

(……そっちも、いい天気?)

 リリーはもう戦を始める準備を整えているだろうバルドに胸の内で問いかける。

 雪解けの頃に革命軍は仕掛ける。その前に皇家軍が動くかもしれない。

 戦をするなら晴れの日がいい。そしてほんの少し寒いぐらいだともっといい。動いているうちに暑さを感じるぐらいが、心地いいのだ。

 北の方はここより寒いだろうから、きっといい戦日和になっている。

 まだ北で戦が始まったという話はきかない。だけれど、始まるのは遠い先ではないだろうと、リリーはそわそわとした気持ちを深呼吸で宥めた。

 

***


 雲ひとつない空にハイゼンベルクの旗が閃く。

 修復が一通り終わった砦の上に立てられた旗は開戦の合図だった。奇襲でも強襲でもなく儀礼に乗っ取った戦の始まりだ。

 砦を出た一万余りの軍勢が雪がまばらに残る平原をを一糸乱れず行軍し、砦よりやや離れた所で敵を待つ。

 対する革命軍も近隣の駐在部隊をかき集め、皇家軍が見える場所まで進軍する。

 最前列に立つ互いの将の顔がぼんやりと分かる距離で、黒のローブを纏う皇家軍と、白のローブを纏う革命軍のふたつの群が向かい合う。

 皇家軍の将であるバルドが先に神剣を抜いて高々と掲げる。

 革命軍の将も、剣を抜いて応じる。

 声もなく、両者が剣を振り下ろす。

 彼らの後ろに控える魔道士達が一斉に動き出し、あっという間に白と黒が混ざり合っていく。

 バルドはあらゆる熱を含んだ風が横を通り過ぎて行くのを見ながら、補佐役であるラルスと戦況を眺める。

「向こうはまだ数がないですねー」

「……こちらはこれで全て」

 多勢に無勢というほど兵数の差があるわけではないのは、この場だけの話だ。背後にはまだ多くの兵が控えている。

「まあ、今回は、まだ挨拶程度ですからねー。さあて、行きますか」

 ラルスが緊張感の欠片もなく混戦する中へと駆けていく。バルドは無言で見送って混ざり合っていた白と黒が再び別れていくのを待つ。

 ラルスを筆頭にして皇家軍は敵兵をみっつほどの塊になるように誘導していき、バルドは追い込まれた羊の群と化した革命軍に雷撃を落とす。

 一挙に敵兵の数が減る。

 効率はいいがつまらない。

 バルドは攻撃に怯んで後ろへ下がっていく革命軍を見やり、密やかにため息をついて前へと出ていくものの先に革命軍が撤退を選んだ。

 勝利と言うには手応えがなさすぎる。

「皇主様ー。こちらも引きますか?」

 後退してきたラルスが指示を仰ぐのに、バルドはうなずく。

「深追い、不要。撤退」

 ものの一刻もかからなかった初戦に、味方の兵達も拍子抜けしている様子だった。とはいえそう時間がかからないとは、事前に予測はしていたのだ。

 あくまで首都に控える本隊をこちらに招くための前哨戦にすぎない。

 バルドは兵らを引き上げさせながら、首都の方角を振り返りかけてやめる。

 自分が見ようとしていたのはやがて押し寄せてくるだろう大軍なのか、捨てきれない未練なのかわからなかった。 


***


 皇家軍進軍、駐留部隊壊滅という報告が首都に届いたのは二日近く後だった。夜明け前にクラウスはその一報に叩き起こされて、議事堂と名を改められた元王宮へと向かっていった。

 そのことをリリーが知ったのは、夜が明けてから朝食を厨房に取りに行った時だった。

 使用人がクラウスが朝早くに出て行ったことを告げただけで、理由は知らなかったがリリーはおそらく戦がとうとう始まったのだろうと、察した。

「勝ったのかしら、負けたのかしら……」

 駐留部隊の数はさほど多くはないとは聞いている。数がそう多くないのなら、簡単にバルド達が負けるはずもない。

 詳しい事を知っているクラウスが屋敷に戻ってくるのはまだ先になるだろう。

 リリーは朝食を黙々と呑み込んで、後は上の空で何をする気にもなれなかった。しかし今日は廊下の拭き掃除を手伝うことになっていたので、動かないわけにもいかない。

 使用人服に着替えてリリーはクラウスが戻ったら教えてほしいと他の使用人に頼んで、モップを片手に予定をこなすことにする。

 だが延々と続く長い廊下を拭きながら、どんどん気持ちが焦っていく。

 今、どこで、何がどうなっている。

 バルドはどうしているのか。

 自分の手が止まっていることに気づいて、リリーは口を引き結んで作業に没頭しようとする。だけれど考えないことを意識すると、余計に考えてしまう。

「リリー」

 昼食前になって、二階部分の掃除を終えたリリーの前にクラウスが現れた。

「始まったの?」

 それとも、もう終わってしまったのか。

「始まった。駐留部隊は壊滅状態。明後日には本隊を出す」

 クラウスがあまり表情を動かさずに返答する。

「そう。とりあえずは勝ったの」

 安堵に膝から崩れ落ちそうになるのを、リリーはこらえながら顔を強張らせる。

 今、勝ったからといってそう遠くない内に負ける。本隊が出れば一万弱の皇家軍はそう長く持ちこたえられるはずがない。

 今からこんな調子で、その時がきたら自分はどうなってしまうのだろう。

 急にこれまで抑えてきた不安や恐怖が吹きだしてきてリリーは固まってしまう。

「リリー、昼、一緒に食べるか」

 クラウスが近づいて来て、ためらいがちにモップの柄を固く握りしめすぎているリリーの手に触れる。

「……今、あんまりおなかすいてないから」

 リリーは力を込めすぎていた拳を緩めて、クラウスから一歩距離を取る。

「食べなくてもいいけど、とにかく一緒に座って落ちいて話したほうがいいだろ」

 誰とも一緒にいたくないと思う反面、今、ひとりきりになって自分と向き合う覚悟もなかった。

 リリーは弱々しくうなずいてその場を片付けてから、クラウスと食堂に行く。

 食事は出されたものの、とても手をつけられる気分ではなかった。

「……つまらないわね」

 戦の様子をクラウスから聞いて、リリーはぽつりとこぼす。

 呆気なさすぎてバルドは物足りないと思っていることだろう。だからこそ本隊の到着を彼は待ち侘びている。

「思い切り暴れられてないからな。でも、こっちも将軍が何人か出る。きっとさ、バルドは好きなだけ戦える」

「うん。それなら、楽しいわね。バルドは強い相手と戦いたいだろうし」

「こっちも全力でやる」

 クラウスが答えるのに、あとひと月もないのかもしれないなとリリーはぼんやり思う。

 待ち侘びる春に、バルドはいない。

「リリー、今日の所は屋敷で仕事するから一緒にいてくれ。今、ひとりにしときたくない。それに、なんにも知らないより、知っておきたいだろ」

 クラウスが心配そうな顔を、リリーは見上げる。

 確かに、何も状況がわからずひとりで悶々とするよりはすぐに情報を得られる方がいいと思えた。

「……邪魔にならない?」

「ならない。人の出入りが少しあるかもしれないから、着替えて俺の執務室にだな。その前に、少しでも食べておいた方がいいな」

 クラウスがパンと魚のスープを示して、リリーはスープだけ一匙飲む。

 だがそれ以上は喉を通らなかった。

 

***


 戦の準備は整っていたので、出陣までの仕度はそう手間取ることはなかった。

 クラウスは黙々と準備を進める中で気がかりなのは、やはりリリーのことだった。

 報告があって半日もすれば落ち着き、出陣当日である今日になると平静に見えた。しかし、表情には陰りが見えた。バルドに置き去りにされ、首都へ来たばかりの頃に戻ってしまったようだ。

 クラウスは屋敷の私室で肩肘の張る正装を整えて、リリーを迎えに行く。

 北への行軍は大々的にやるのだ。今から出立式を見届けるために議事堂前の広場へと向かう。そして、リリーが同行するのは彼女の希望だった。

「リリー、仕度できたか?」

 扉を叩くと、できていると返事があってリリーが出てくる。落ち着いた薄紫色のドレスにきちんと髪も結い上げている彼女の表情はやや硬い。

「あたし、横で座ってるだけでいいのよね」

「それでいい。……シェルは?」

 クラウスは振り返って向かいの部屋のシェルの様子を訊ねる。

「夕べも遅くまでやってくれたみたいだから、寝てるんじゃないかしら? 神器のことで結論出たら話すとは言ってたんだけど……」

 魔術を解く方法までは無理でも、神器の破損があった時に島にかけられた魔術がどうなるのかだけでも知りたいとクラウスはシェルに質問していた。

 それについてはまだ結論はでていないが、もう少しで意見をのべられそうだということで待っていたのだがまだ時間がかかりそうだった。

「まあ、すぐにってわけでもないし、こっちもあんまり時間もないから帰ってからだな」

 神器もまた複雑に織られた魔術のタペストリーの糸の一本というのなら、多少は影響があってくれればいいが。

 最終的に神器の破壊も戦の終わりの時にするのだから、何も分からないなら実際にやってみるしかないだろう。

 そうしてクラウスとリリーはこれといって会話をすることもなく議事堂前広場へと向かった。

 円形の広場を見下ろす望楼の役目も兼ねた分厚い石壁の上に設けられた席にふたりは座る。少し離れた所にヴィオラとマリウスの姉弟もいてリリーが会釈だけ交わす。

「ここって思ってたより高いのね」

 リリーが下の方へ目をやってぽつりとつぶやく。

「リリー、ここ昇ったことなかったか?」

「あたしは見下ろされて見上げる方だったもの」

 確かに言われてみればまだここが王宮前広場と呼ばれていた頃、出陣や式典でリリーは一軍人として下の広場で控えているばかりだった。公開処刑なども行われてはいたが、高みの見物をするのは貴族だけで、そもそもそんな悪趣味な見世物に彼女が来たことはない。

 今日も下でいいとリリーは言っていたが、あまり目を離したくはなかったので一緒についてきてもらったのだ。

「そういえばそうか、と。始まるな。リリー、俺は挨拶ぐらいはしないといかけないから行ってくる」

 クラウスは官吏に呼ばれて立って望楼の中央に立つ。

(白か。ここで、こういう光景見るとはな)

 魔道士達の纏うローブは白一色。ほんの半年近く前のバルドの即位式は黒一色だったことが、もう始めからなかったことにすら思える。

「……これが、最後の戦になる。勝てば、終わりじゃない。やっと本当の意味でエンデル共和国が始まる。私は国家元首となっているが、王ではない。ひとりの主君に忠誠を誓う時代はとっくに終わった。自分のために、自分の選ぶ大事な誰かの未来のために全力を尽くして戦ってくれ。そして、全員で始めよう。新しい自由の国を!」

 用意された原稿のまま、クラウスはもっともらしく演説を打つ。

 年若い指導者の明日への希望に満ちた言葉に広場から熱気に満ちた歓声が上がる。

 その高まった熱情を抱えて兵達は最後の戦に赴いていく。

 それを見守る民衆からも応援の声が上がり、首都は終戦に向けての熱気に包まれ沸き上がる。

「……国家元首様なのよね」

 席に戻ると、リリーがぽかんとした顔で待っていたのでクラウスはどうにもいたたまれない気持ちになってくる。

「あのな、改めて言われると恥ずかしいからやめてくれ。俺はああいうのは、本当にきらいなんだからな」

「でも、以外と様にはなってたわよ」

 リリーがくすりと笑ってくれて、クラウスは面はゆさもありながらやっと見られた少しでも明るい彼女の表情に安堵する。

「あと、五年は格好つけなくちゃならないのかと思うと、いやになるな」

「あっという間よ。きっと、あっという間……」

 リリーが自分自身に言い聞かせるような口ぶりで言って席を立ち、望楼の縁まで歩いていく。

 風にドレスの裾を揺らされるリリーの後ろ姿が、今にも落ちていってしまいそうに見えてクラウスはすぐに彼女の側まで寄っていく。

「風将と地将もいたわね。他にもディックハウトの将軍もいたのよね。ディックハウトの方は顔、覚えてないからよくわからなかったけど……」

「風将と地将は絶対に出陣するって自分から志願した。寝返ったとはいえ、最後までハイゼンベルクについてたんだから、多少は忠誠心もあるんだろ」

 バルドへの一番の餞は戦うことだ。それを分かって出陣する者もぽつぽつといる。

「でも、『剣』より『杖』が多いのね」

 リリーがそんな所まで見ていたことに驚きつつ、クラウスはうなずく。

「バルドの神器は厄介だからな。こっちも兵を無駄死させるわけにもいかないし、杖で魔力を削ってから総攻撃する。ただ、最初に当たった部隊の損害が思ったより大きかったから、なおさらな」

 最初の皇家軍と革命軍の死者は二十人足らずだったとはいえ、負傷者の数はおびただしかった。備えが不十分だったことは否めない。

「そうでもしないと勝てないわね。バルドは力押しばっかりと思ってるのも多いわよね」

「だいたい力押しでなんとかなるからな。上の方はあの皇太子殿下が軍略まで仕込んだのは知ってるが、下の方は実際に何いわれても力押ししかできないと思って侮ってる馬鹿もまだ多い。そこがまとめきれてないから弱いんだ」

 革命軍は元々戦をしていたハイゼンベルクとディックハウトの混成部隊だ。ある程度は統率がとれているとはいえ、綻びがまったくないわけではない。

 この最後の戦は綻びを繕う意義もある。

「でも、皇家軍は一万と少々。革命軍は四万以上は動員できるんでしょ。数で押すのは簡単よ」

「……簡単に勝たせてくれるといいな。リリー、下にいくか。寒いだろ」

 まだ春と呼ぶには寒く、じっとしているとじんわりと体が冷えてくる。

 クラウスは下ではなく空の彼方に視線も心さえも向けているリリーを、自分の方へと引き戻す。

「国家元首様、リリーちゃん、お借りしてもよろしいかしら」

 ふたりで階段を下りていると、ヴィオラが声をかけてきてクラウスは眉を顰める。

「ふたりで食事する予定ですよ。その後はリリーに聞いて下さい」

「じゃあ、ついでだからわたくしも食事に同席させていただこうかしら。マリウスもいらっしゃい」

「……姉上、勝手に決めてしまうのはご迷惑です」

 ヴィオラが好き勝手言うのに、マリウスが申し訳なさそうな顔をする。

「あたしはかまわないわよ」

 リリーはこのところ剣の相手をしてもらっているせいか、昔ほどヴィオラに対して苦手意識を持たなくなってきている。

 リリーが籠らずに他人と一緒に食事をするのはいいことではあるので、クラウスはふたりを昼食に招いた。

「リリーちゃんの様子はどうかしら? 元気がないのはしかたないことだけれど……」

 屋敷に戻ってすぐ、クラウスはリリーが自分から厨房へ人数分の昼食の仕度を頼みに行った隙にヴィオラに少し話があると止められた。

「最初は落ち着きがなかったけど、今の所はかろうじてってところです。正直、俺にもひとりにしない以外にやれることはないです」

「……変わりましたわねえ。こんな男にリリーちゃん任せるのは不安だとわたくしは思っていましたけれど、多少は認めて上げてもよろしいのかしら? ああ、でもやっぱり嫌かしら」

 複雑そうな表情で見上げてくるヴィオラに、クラウスはため息をつく。

「ヴィオラさんの許しはいらないでしょ」

「…………皇主様に勅命を頂いているので」

 ほとんど気配もなく近くで佇んでいるマリウスが静かに口を開いて、クラウスは一瞬驚いた。

「だから、俺はその皇主様に任されてるんだ。いや、あいつが何言おうが俺はリリーを大事にするのは最初から決めてるけどな」

 バルドの言うことを素直にきくつもりはないというのに、先に手を回された以上はこういうことがつきまとうのだ。

(分かってなくてやってるのが分かるから腹立つな)

 バルドがリリーのことだけ考えて自分に託したことが分かっているからこそ、怒りのぶつけ場所もない。

(お前とももうすぐ、本当にお別れだな)

 物心ついた頃から一緒にいるバルドのことは昔から嫌いで、今でも友好的にはなれない。

 それでも別れに少しぐらいの寂しさはあった。

 戦も佳境となる頃には、自分も赴いてバルドの最期を見届けることになる。

 その日を思うとやはり感傷的な気分にもなる。だが、それ以上にリリーのことが不安だった。

(どうなるんだろうな……)

 リリーがバルドの死を乗り越えられるのか。その時自分は一体何ができるのか。

 国の先行きよりも未だに答を見つけられないそのことばかりが、クラウスにとって一番気がかりだった。

***


「……どうして起こして下さらなかったんですか」

 日暮れ前になって起きたシェルがさめざめと訴えるのに、着替えるために自分の部屋に入ろうとしていたリリーは呆れる。

「悪かったわね。まさか今の今まで寝てるなんて」

 クラウス達と食事をしてその後ヴィオラと剣を交えている間、シェルはもう起きて考えているだろうと思っていた。

「そうですね。日暮れ近くまで寝ているのは怠惰な人間がいるとは思いませんよね」

「なんでそんなにいじけてるのよ。神器のことわからなかったの?」

 シェルが気を落とす要因はそれだろうかと訊ねる。

「いや、分かったんですよ。分かって一度は起きたんですよ。しかし、外出中だったので部屋に戻って気づいたら……」

 どうやらシェルが落ち込んでいるのは分かったことをすぐに喋りたかったということらしい。

 依頼したのは自分達とはいえ、面倒くさい男だとリリーは思わずため息を零しそうになった。

「今日は出立式があるから見に行くって言ってたでしょ」

「出立式……ああ、そう、でしたね……」

 なんともばつが悪そうな顔をするシェルに、リリーはどう返していいのかわからず少し気まずい空気になってしまう。

「……春が近づいたらこうなるのは始めから決まってたことだもの。神器ももうすぐ壊すの。クラウスと一緒に夕食だからそこで教えて」

 誰よりも戦を望んでいるのはバルド自身だ。それがもう勝てない戦だとしても、戦い続けて終わることを彼はもうずっと前から決めているのだ。

 思う存分バルドが戦えることを、自分だって願っている。

 だけれど、その果ては。

 リリーは自分自身の思考に暗がりに突き落とされかけて踏みとどまる。

「あたし、着替えるから。夕食まで、寝ないで待っててよ」

 リリーはシェルの返事も聞かずに自分の部屋に戻って、ヴィオラと剣を合わせるために着ていた使用人服から普段着のドレスに着替える。

 その間も胸の奥からどうしようなく苦しい感情がせり上がってきて、必死に押しとどめる。

 バルドは自分の思い描く生き方をまっとうする。強い将も多く出る。けして彼自身にとって悲劇的な結末にはならない。

 だから悲しまない。自分は絶対に泣かずに受け止める。

 そう思っても時が迫るにつれ、そうやって見送れる自信は減っていくばかりだ。

 リリーは鏡の前にたって暗い表情をしている自分をねめつけて、髪を整え始めた。


***


 ひととりの政務が終わった後、クラウスは夕食の席にシェルがいることを聞いて思ったより早く結論が聞けそうで安堵する。

「それで、神器を壊したらどうなるんだ?」

 単刀直入に訊くと、シェルが一気に葡萄酒の杯を煽ってから話し始める。

「結論からいいますと、この島にかけられている魔術の効力は薄れるでしょう。まったく魔術が使えなくなるわけはないですが、今のように軍事利用するのは無理になるかと」

「それはありがたいな。戦に利用できなくなるだけでも十分だ。神器破壊するだけでそこまでの効果があるなら、ずいぶん脆いな」

 皇家が主権を取り続ける限り意図的に破壊するということはないとはいえ、万一ということもある。

「千年経って綻びが大きくなってきてるからです。もっと初期であれば、それほど急速な影響はなかったでしょう」

「それでも魔術はちょっとは使えるのね。火をおこす程度なの?」

 ウズラのの蒸し焼きを黙々と食べていたリリーが首を傾げる。

「規模としてはそうですね、暖炉に火をつける程度でしょう。水も一杯、雷は微弱。それだけあれば使い方によっては色々とできるでしょうが、それもゆっくりとさらに弱くなっていくはずです。理論などの解説などは……」

「わからないからいい。やっぱり、目下の問題は火葬か。今の魔術で一気に燃やすっていうのができなくなるのはなあ」

 戦以外で利用している魔術でなくなると不便なものとして、そのことが議題に上がっていた。灰になるまで一気に燃やすことは難しくなるので火葬場を新たに整えるべきだと、場所や規模を議論しているところだ。

「なるほど。葬祭と魔術が密接しているのは興味深いですね。魔術を得て生まれた風習が、魔術の喪失と共に変化する。これはなかなかいい論文の題材になる。火葬は疫病対策に続けた方がいいということだけ助言させていただきます。特にこのような小さな規模の島ではなおさらです」

「……ねえ、それ食事中に話すこと?」

 リリーがうんざりした顔をして、クラウスとシェルはそれぞれまだ手をつけていない料理を見つめてそれもそうだとうなずいた。

「とにかく、派手にやりあうことがなくなるのは助かるな」

 まだ魔術を使う者がいても大きな害にならないのならいい。ゆっくりとこの島は魔術を捨てていく。元々魔道士自体の数は減っていて、貴族以外はそれこそ葬儀の時ぐらいにしか恩恵がない。

 後は戦の巻き添えを食うだけだ。

「その分、戦争が民衆も武器をとる時代が来るでしょう。現在の状況では大々的な戦争はないでしょうが……」

 クラウスの思考と同じ所を辿ったのか、シェルがそんなことを重々しく言う。

「大陸の魔術のことは興味ないけど、統治や歴史は話は聞いときたいな」

 閉鎖されたこの島ではまったく新しいことだとしても、広い大陸では似たことがあるなら知っておくに損はない。

「ええ。そういうことでしたら、お世話になっているお礼にお話しさせていただきます。リリーさんも一緒にどうですか?」

 そこはかとなく嬉しそうな顔をするシェルに、リリーが首を横に振った。

「あたしはそういうの苦手だからいいわ」

 心底興味なさそうなリリーの皿ははナイフとフォークを動かしているのに、あまり料理が減っていないことにクラウスはふと気づく。

「リリー、口に合わないか?」

「ん、美味しいわよ。……あんた達が変な話するからよ。ちゃんと、全部食べるから」

 リリーの食事の進みが悪いのは、そればかりではないだろうが。

「しかし、このお屋敷の料理は本当に美味しいですよね」

 シェルが気づかっているのか、ただ率直に感想を言っているのかわからない口調でしみじみと夕食を口にする。

 食事の間、誰も北での戦のことはほとんど無意識のうちに話題にあげることはしなかった。


***


 バルドは砦の最上階の窓から何もない平原を見渡す。昨日一瞬冬が戻ってきてうっすらと雪が積もったものの、灰色の空の隙間から差し込む陽光がすぐに溶かしてしまうだろう。

「やはり東側に『剣』を多数配備しているようですよー」

 物見の報告を持ってきたラルスの報告に、バルドは静かにうなずく。

 東側の補強が整っていないという話を流した件は上手くいったらしい。だが。西からも南からも続々と革命軍やってきている。

 雪の影響でどうやら東側の部隊はまだそろっていないらしいが、各方向から集まっている敵の数はこちらの倍近くになっている。

 有利に戦を進めるというより、できる限り自分達が長く戦えるための下準備といったところだ。

「西と南はまとめる」

 ばらけてこられるよりはある程度固まってくれた方がやりやすい。そのために兵を動かす算段を進めることにした。

「ではもうそろそろ、軍議を始めましょうかか。みなさん、退屈し始めているところですからね-」

 バルドに異論はなく下の階の広間へとラルスと共に移動する。

 すでに多くの指揮官ら集まり、長卓に広げられた布陣図を眺めながら議論を交わしている。

 人の感情を察することが苦手なバルドでもはっきりと分かるほど、彼らは楽しそうだった。

 負け戦に挑む絶望感は微塵もなく、戦に胸を躍らせて意気揚々としている。

 それはバルドも同じ事だが、彼らと共感することはできなかった。

 戦を彼らはしたがっているが、自分はただ戦いたいだけなのだ。

 軍略を立て兵を率いるよりも、たったひとりで剣を振るいたいのだ。そのどうしようもない本能を分かち合えたのはリリーだけだった。

 大きな戦があるのに戦えないことをリリーは今、どう思っているのだろう。

 終わりが近づくにつれてリリーのことを考えてることが多くなっている気がする。

 今、一体何をしているのか。誰と過ごしているのか。何を思っているのか。楽しいことは幾つか見つけただろうか。笑うことは増えているのだろうか。

 自分のことを思い出してくれているのか。

(時々、でいい)

 自分のことを全部忘れて欲しいとは言えないし、思ってもいない。残した思い出をたまに懐かしんでくれたらいい。

「皇主様」

 声をかけられてバルドは指揮官らの話を順番に聞き、自分の意見も間に挟んで軍略をまとめていく。

 報告から上がる敵将の中に見知った者もいれば、一度剣を交えてみたいと思っていた相手もいて俄然期待が膨らむ。

 早く、戦いたい。

 バルドは静かに闘争心を燃やし、一時の間リリーへの想いを胸の奥に仕舞い込んだ。


***


 空を覆っていた雲が晴れる頃、先行したのはまだ数が揃いきっていない革命軍だった。

 西側と南側から『杖』で強固な透明の防御壁を築きながら、緩やかに砦に向かって進軍していた。

 対する皇家軍はまだ動かない。

 最上階の物見台の上に立つバルドはじっと進軍を見渡し、南からと西からの二手に別れてやってくる二部隊の距離が最も近づく瞬間を待つ。

 うっすらと残る灰色の雲の下、緩やかな風にゆらゆらとローブを揺らしていたバルドは厳かに剣を掲げる。

 黒銀の刃は光を反射して敵にその存在を知らせる。

 しかしまだ革命軍にバルドがいることはまだ視認できない。砦の上で時々光るものが何かの合図かと注視する。

 そうしてバルドはふたつの部隊の間に雷の拳を振り落とす。距離があるため威力は削がれたものの、地が揺れ動くだけの衝撃はあった。

 攻撃に革命軍の動きが一瞬乱れる。

 バルドはすぐさま下へと駆け下りる。

 待機していた皇家軍も動き出す。革命軍が追撃に多少の動揺を見せながらも体勢を立て直して行軍し、両軍がぶつかる。

 砦の門前に用意されてた馬に飛び乗ったバルドは西と南への攻撃を加えながら、単騎で東側へと駆ける。

 東側には皇家軍の横腹を突くために攻撃に特化した部隊が控えている。

 様子を窺っていた東側の革命軍は、バルドがひとり向かってくることに虚を衝かれながらも将の首を取る好機と進軍を始める。

 バルドは勢いを落とすことなく軽い攻撃を仕掛けながら、敵の動きを左手側に見える木立の方へと誘導する。

 そして馬を降りて、糸のような雷撃を繰り出して敵勢を絡め取って動きを鈍らせる。

 革命軍側へ木立の方から火の雨が降り注ぐ。皇家軍の伏兵だ。

(数は少ない)

 ざっと見渡してすでに戦意喪失しているらしい者もいる。数はあれど使い物になる人数は三分の二程度しかいないかもしれない。

 そう思っていると、敵陣の奥から見知った顔が前へと出てくる。

「命が惜しい者は下がれ! 下がれ!!」

 部下達に檄を飛ばしながら前に出てきたのは、ハイゼンベルクの風将ユリアン・フォン・ビュッサーだった。

「皇主様、お相手願いたい!」

 そして一騎打ちを申し入れてきた。

「……是」

 バルドに断る理由はなかった。

 何度か風将とは打ち合ったことはあっても、実戦は初めてのことだ。これが最初で最後の機会となるはずだ。

 他は伏兵に任せてバルドはユリアンとの勝負に専念する。

 望んでいた戦いができることに、喜びを感じる。

 バルドは昂ぶった感情のままユリアンへと襲いかかる。

 中降りの片刃の剣が水よりも柔らかく、風のように鋭く応戦してくる。この柔軟な動きがバルドは苦手だった。

 剣と同じく大振りな動きの隙間に入り込んでくる切っ先を、バルドは躱していきながら演習とはまるで違う張り詰めた緊張感に戦意を高める。

 お互い魔術を繰り出さなかった中、バルドが正面から攻撃を受け止め力任せに弾こうとするとユリアンが一気に風の塊を放った。

 塊はすぐに破裂して細かな刃となりバルドのローブを何カ所か引き裂いた。続いてさらに下から切り上げてくる。

 バルドは避けるときにずれた軸足を戻して、剣を受け止める。

 この男はこれほど強かったのか。

 何度も剣を合わせた相手だというのに知らなかった。

 驚き喜びを噛みしめてバルドは何度もユリアンと剣を打ち合わせる。双方、退かずに攻め続けた。

 勝負は毛先ほどの刃の噛み合わせのずれで決まる。

 バルドの大剣の重さをまともに受けてユリアンの剣が折れる。折れる間際に彼は魔術を放って追撃を避け、首から右肩に浅い傷を負っただけに踏みとどまった。

 バルドの胸は勝利の喜びに震える。

「皇主様、最期にお相手していただきありがとうございます」

 目の前の戦意を失い死を覚悟したユリアンがじっと首を撥ねられるのを待ち受ける。

「終わり」

 バルドは剣先をユリアンへ向けることはしなかった。戦意の欠片もなく死を受け入れた男に、興味が失せた。

 ユリアンが無言で背を向けかけているバルドを見据え、深く一礼する。

 その頃、伏兵に攻撃受けていた他の魔道士も押されバルドが再び剣を向けると幾人か後退し始めた。

 こうして東側の皇家軍は一時撤退を余儀なくされる。残る西と南の軍勢も革命軍の猛攻に手こずっていて、バルドが加わると撤退していった。

「……被害」

 完全勝利というわけではない。見渡す平野に黒のローブを纏っている者が横たわっているのが見える。

「それなりにやられましたねー」

 返り血と己の血で汚れきったラルスが指揮官ふたりの戦死と、他多数死傷者が出ていることを告げる。

 一足先に終わりを迎えた同胞らを生き残った者達は静かに砦へと運び込んでいく。ここまで共に戦ってきた仲間を失ったことに悲しみはあれど、寂しさは薄かった。

 そう遠くないうちに同じように終わりを迎えることを知っているからだ。

 それぞれが様々な思いを抱えながら、悲しみを共有する中でやはりバルドはひとりきりだった。

 これまで見てきた戦の後となにひとつ変わらない光景。

(風将、強かった)

 勝利の高揚感を反芻して、終わりまで後何度強敵と戦えるのか楽しみですらあった。

 だが思うように戦は進まなかった。両軍にとってだ。

 未明頃、再び天候が乱れて雷が鳴り風が吹き荒れ雹が降り注いだ。

 空を覆う黒雲の中を這う青紫の雷光に革命軍はすわ奇襲かと取り乱し、やがて氷の粒が打ち付けられ時々大きな塊が天幕すら突き破った。

 暗がりの中で状況がはっきりと把握できず、混乱は深まるばかりで皇祖の怒りによりこのまま夜明けがこないのではと絶望感すら漂った。

 これ以上皇主に剣を向けるのは無理だと言う者まで現れる始末だった。

 嵐は革命軍のわずか一刻で戦意すら掻き乱して、通り過ぎて行った。

 皇家軍も夜明け前に砦を打ち叩かれる音に、やはり奇襲かとざわついた。敵勢の姿が全く見えないことで落ち着きはしたものの、氷の礫で砦がどれだけ被害を受けるか気が気でなかった。

 そして統率と戦意を高めるために革命軍が国家元首と数人の閣僚を予定より早く戦地へ呼び立てることとなった。


***


「明日……?」

 窓を拭いていたリリーはクラウスに明日には出立すると本人に知らされて、あまりにも早過ぎることに困惑する。

「ちょっと、天候不良で予想以上に動揺が出てるみたいだからな。リリー、雹見たことあったっけ? 空から氷が降ってくるやつ」

「ないと思うわ。雪じゃなくて氷?」

 少しずれたことをクラウスから訊かれたリリーは、さらに頭の中がわけがわからなくなってくる。

「そう。雷が鳴って大風が吹いて、氷が落ちてきたから皇祖の天罰とか言い出す奴もいてな」

「皇祖様もバルドも神様じゃないわ」

 リリーはおかしなことを考えるものだと、思考が麻痺している頭でそう答える。

「そうだな。神様じゃない。ただの偶然だ。ま、そういうことだから何日か留守にする。リリーは普段通りに過ごしてればいい。……待っててくれるか?」

 クラウスが苦笑しながら、何かを懇願する目で見てくるのにリリーは、何を待つのだろうと思う。

 クラウスが帰って来るのを。

 戦が終わるのを。

 バルドが――。

「……嫌。待つのは嫌。あたしも一緒に行く」

 気がつけばリリーは首を横に振って、そんなことを口にしていた。

「それは駄目だ。リリー、剣は持てない。戦えないのに、戦場に行ってじっとしていられるのか。戦をみてるだけなんて、一番嫌いだろ」

「でも、バルドが戦ってるわ」

 クラウスが言い含めるのに、声を強めてリリーは彼を見据えて言う。

「見届けないと、納得いかないか」

 胸に渦巻いている感情のひとつを、ふいにクラウスが言葉に表してリリーはうなずく。

「だって、あれであんなので最期なんて納得できるわけがないじゃない。最後まで一緒にいるって約束したのに。そんなの、納得なんてできない」

 バルドの想いを呑み込んでここで自分の道を探して、歩き始めたけれど心の中のどこかでは呑み込みきれないものがあった。

「見届けたら、それでリリーはいいのか。リリーがどうしても、ここで新しい生き方をするのに必要なことなら連れて行ってもいい。でも、俺の気持ちとしてはすごく嫌だ。これ以上、あいつのことリリーの中に残したくない。バルドが負ける瞬間なんて一生忘れられないだろ」

 クラウスが困っているというより悲しげに見てきて、リリーは視線を落とす。

「あと一個ぐらい、いいじゃない」

「その一個は重いな……」

 お互い下がることも進むこともできずに、無言で向き合う。しばらくして長い、長いため息をクラウスがついた。

「分かったよ。ただし、条件がいくつかある。ひとつは、常に俺の横にいること。もうひとつはこの街にいる誰かに、手紙を書いて遠出することを報せて帰って来たら一緒にしたいことを書くこと。誰かって言っても、カルラとヴィオラさんぐらいか」

 ひとつめはとにかくとして、ふたつめは不思議な条件だった。

「手紙……?」

「そう。明日の朝までに書いて送る。ああ、ローブはないとな。そこまで前には出ないけど、念のためだ」

 難しい条件ではないと、リリーは承諾する。

 そしてその夜、手紙を二通書いた。

 カルラに裁縫を教えてもらうことと、ヴィオラに剣の相手をしてもらうことをお願いした。


***


 再びクラウス達が仰々しい出立式をしている間、リリーはクラウスが乗る予定の馬車の中でひとりでローブを仕上げていた。出掛けにもらった白いローブに針で刺した指に浮いた血をつけていく。

 懐かしい作業だが、黒のローブと違って白のローブは血の色が鮮明で新鮮な感覚だった。

(バルド、あたしに気づくかな)

 遠く離れた場所に白いローブで武器も持たずに立っている自分の姿は、革命軍の『玉』の魔道士にしか見えないだろ。だけれど、クラウスの横にいたら気づくかもしれない。

 見つけて欲しいと言うより、顔が見たかった。表情は見えないほどの距離だろうが、それもその視線がもう一度自分に向いて欲しい。

 今、バルドが望む道を歩こうとしている自分を見せれば、もっときちんと踏ん切りがつく気がする。

「待たせた」

 クラウスが馬車に乗り込んできて、リリーは退屈していないから平気だと告げる。

 馬車が動き始める。

 リリーは出来上がったばかりのローブを羽織、目深に被って顔を隠す。馬車の窓は開けておくので、クラウス付きの魔道士のひとりと見せかけるためだ。

 見送る人混みが沿道を埋めつくす街を降りていく中、リリーはふっと懸命に人混みをかき分け前に出てくる息をからしたカルラを見つける。

 彼女が自分に気づいて手を振って、リリーも小さく振り返す。

 手紙が届いてすぐに来てくれたのだろう。帰ったらたくさん、たくさん彼女と話をしたいと思った。

 そして馬車は街を抜けると、速度を上げて北へと向かっていった。



***


 皇家の墓所であった場所は縮小作業が進み、遺灰を納める建物の周りには新たな囲いが着々とできつつあった。そして冬の間眠りについていた花々達も、もうすぐ目覚めの時間だった。

 エレンは自分が植えた金盞花の蕾が膨らみ、今にも弾けそうになっているのを見つけてほんの少しだけ口元が緩んだ。

 亡き主がまた見たがっていた花は、今日か明日には咲きそうだ。

「あら。あなたも笑うのね」

 ふと目の前で驚くヴィオラの声が聞こえて、自分が笑っていたこと気づいていなかったエレンは何を言われたのかいまひとつ把握しきれなかった。

「……お久しぶりです。墓所は整ってきています」

「ええ。これぐらいの大きさがちょうどいですわね。わたくしは今日はお墓を見に来たのではなくて、落ち着かないから外に出てきましたの」

 クラウス達が昨日出陣したからかとエレンは思う。もうすぐ戦の終わりがくるが、ジルベール姉弟が終わりに立ち合うことはない。

「ついに、終わるのですね」

 エレンは少し離れた丘の頂上に佇む、今は議事堂と呼ばれる王宮を見上げる。

「終わりですわね。リリーちゃんもクラウスに同行しているのはご存じかしら? さすがに剣は持たせずに見ているだけだそうですけれど」

「よく、同行を許したものですね」

 リリーが決戦の場に行きたがることは意外でも何でもなかったが、クラウスが彼女を戦場とバルドに近づけることに驚いた。

「自信があるのかしらね。帰ったらまた一緒に試合しましょうって可愛いお手紙もリリーちゃんからもらったのですけれど……」

 まるでその約束がもう果たされないと確信しているかのように、ヴィオラが寂しそうに微笑む。

「戦うわけではないでしょう」

 参戦しないのであれば。よほど悪運が強くない限り無事に戻れるだろう。

「皇主様の間近に行って、あの子がこちらへ帰って来る気になると思いませんわ」

 エレンはうなずくつもりはなかったが、何気なく足下の金盞花の蕾を見下ろした時に思いがけず首を縦に振ってしまっていた。

 しかし、ヴィオラの言うとおりかもしれない。

 自分ならどうするだろうかという考えをエレンは直ぐに打ち消す。彼女は自分ではないのだから、考えても無駄なことだ。

「……彼女は理性よりも本能で動いてしまうかもしれませんか」

 何を選ぶにしろリリーが向かいたい場所へ好きに行けばいい。

 願望ではなく、それが自然なことだと思った。時期を迎えて花が開くことや、潮の満ち干きや風の流れと同じだ。

 止めることはしてはいけないし、できるものでもない。

 エレンは微かに潮の香りを感じる穏やかな風を受けながら、北へと顔を向けて見えない全てを見ようとするように目を細めた。


***


 首都を出発して二日が経って、少し肌寒くなってきたのでリリーは自分で編んだ毛糸のショールを膝掛けにしていた。

 山林を通る間馬車は不規則に揺れている。向かいのクラウスは悪路にも慣れたものでうとうとと半ば眠っている。

「あ……」

 することもなく窓の外を眺めていると延々と続いていた杉の木立の合間に城が一瞬だけ見えた。

「どうした?」

 クラウスが目を開けてリリーはもう見えない城を思い出しながらもしかしてと思う。

「城が見えたんだけど、ルベランス城かしら」

「ん、ああ。この辺りで見える城ってそこじゃないか? そうか、しばらくそこにいたんだよな」

 ゼランシア砦での戦の後、拠点としていたモルドラ砦が崩落していたのでハイゼンベルク軍は近くのルベランス城に滞在していた。

(あそこで結婚式、したの)

 口に出しかけた言葉は声にはならなかった。ふたりだけの一番大事な思い出を誰かに話す気持ちにはやはりまだなれていなかった。

「……シェルもしばらくいたのよね。ひとりでどうしてるかしら」

 リリーは代わりに首都に残っているシェルのことを話題に出す。

「いつも通り資料に埋もれて考え事してるだろうな……。ここまで来たら予定の居留地まで半日ぐらいって所か。朝までにはさすがにつくか……」

 そう言ってからクラウスがあくびをする。どうやらまだ眠いらしい。

「道が悪いのによく寝られるわね」

「俺にはちょうどいい揺れだな。かえって夜の野宿の方が寝られない。だから今、ちょうど眠い、頃合……」

 喋りながらクラウスがまた舟を漕ぎ始めたので、リリーはそのまま寝かせておくことにした。

 そしてリリーはまた窓の外に顔を向けて、木々が流れるのをぼんやりと眺める。もう一度城が見えることはなかった。


***


 雹が降ってから六日。一時期革命軍が尻込みしていたものの、増援が到着するにつれて士気を取り戻していった。

 雹の被害や三日前に雪がまた降ったこともあって両軍がぶつかったのは二度ほどだが、皇家軍はじわじわと兵を失っていっている。

 朝から三度目の交戦となったこの日、ラルスは澄み切った青空を見上げていつもより今日は体が軽いとなんとなしに感じていた。

「皇主様、南からの手勢はこちらでやりますー。といっても四方八方、敵兵ばかりでなんともかんともですけどもねー」

 砦から見渡す限り、平野は革命軍の白いローブで雪でも積もったかのように真っ白だった。

 これが本当に最後となるだろう。

「好きに戦え。策、不要」

 側に立って同じく戦場を眺めていたバルドが自分はそうすると言外に告げて身を翻し、戦に向かって行く。

「はー、最後の最後までお変わりにならないなー」

 臣下達の忠誠心をついぞひとつも受け取らなかった主君に、ラルスは苦笑しながら自分も戦場へと足を運ぶ。

 バルドは一足先に先陣を切って東側で雷の雨を降らしてる。圧倒的な力の気配は、自分が幼い頃より信奉してきた魔術の象徴だ。

 バルドのあの人に左右されずにひたすらに力を暴れ狂わせる姿は、王と言うよりも神に等しいとさえ思える。千年にわたりこの島を支配したものの最後でありながら、原初に近い。

(忠誠と言うよりやっぱり信仰だなー。カイはさっぱりわかってくなかったけど)

 ラルスは剣を抜いて身の内に流れる魔力をありったけ剣へと流し込んで、水流で敵を押し流す。

 この力を失うことも、過去の遺物として形骸化していく様も見たくない。

 斬っても斬っても次から次へと沸いてくる敵兵を退けながら、ラルスは退路も気にせず向かう先すら決めずに前へ前へと押し進んでいく。

 周囲の味方達も全力でもって戦っているが圧倒的な数に次第に立っている数が減ってくる。

 ラルスは周囲に味方の姿が見えなくなり、どこからともなく襲ってくる風の刃が皮膚を裂いても、炎が肌を舐めても歩みは止めない。

 ラルスは剣を振るうと同時に魔術を惜しみなく使う。

 攻撃の合間を縫って、剣先が脇腹を掠めるのを避けたものの、後に来た別の刃は躱しきれなかった。

 背中から右肺が貫かれて、喉の奥から泡だった鮮血が溢れてくる。

 両膝をつきながらもラルスは残る魔力を最後の力を振り絞って放つ。周囲にいた敵が大波に呑まれるのを見やりながら、ラルスは最後に空を見上げる。

 雲ひとつない空に雷光が見える。

(最期に見えた景色がこれなら、文句なしですよ)

 腹心であり父親と兄の中間のような存在であったカイの、後悔はするなという言葉を思い出しながらラルスはうっすらと微笑む。

 そしてそのまま地に倒れ伏した。


***


 懐かしく肌に馴染む雰囲気に包まれて、丘を上がるリリーの足取りも自然と速くなる。

 昨夜遅くに駐留地について夜営の後、戦場となる平野を見下ろせる丘の上で戦況を見守ることとなった。革命軍の拠点の東南に位置する上にはすでに天幕が設置され後詰めの魔道士達が控えていて、なかなか平野の方は見えてこない。

「バルド、戦ってるわね」

「そうだな」

 リリーが空に雷光が閃くのを見上げると、半歩前を行くクラウスがうなずく。そして頂上まで行くと、魔道士達がクラウスのために場所を空けて、やっと全てが見渡せるようになった。

「……すごい数だわ」

 平野は革命軍のローブで真っ白だった。対する皇家軍は四分の一もいないかもしれない。圧倒的に数では革命軍が有利だ。黒いローブの皇家軍は海沿いに佇む古ぼけ今にも崩れそうなくすんだ色の砦の周囲に固まっている。

(いた)

 東側で突出している白の中に一滴落とされた黒い点を見つけ、リリーは目を凝らす。

 顔までは見えないとはいえ、思ったよりも近く持っている剣ですぐにバルドと分かった。

「リリー、水将、ついさっき討ち取られたってさ」

 兵達の報告を聞いていたクラウスがそう伝えてくる。

「この状況じゃ、遅かれ早かれ全滅だわ……」

 押し寄せる白に黒は瞬く間に砦の方へと押されて消えていく。

 皇家軍の魔道士達は勝つためでも生き残るためでもなく、生き抜いて終わるために戦っている。誰がどう見ても間もなく壊滅するのは明白だ。

「バルド……」

 ただひとり前に進んでいたバルドが敵を引きつけるためか砦へと後退していく。そうしながら彼はひたすら剣を振り回し、雷を撃ち戦い続けている。

(今、楽しい? きっと楽しいわよね)

 バルドの姿からリリーは目を離さずに心の内で声をかける。自分もあの中へ剣を持って混ざりたいと思っても、両手には何もない。

 南側の黒が消える。西側も砦の中へと退避していく。大勢を相手するなら狭い砦へ入った方が、まだ相手をしやすい。しかし迎え撃つにはあまりにも砦は貧弱すぎる。

「あと少しか……士気をあげにくる必要はなかったな」

 クラウスが呟いて、リリーはバルドの姿が砦の方へと消えてしまうのに息を呑む。

 歩き方が少し不自然に見えたのは気のせいではないはずだ。しかし大人しくバルドが砦で静かに終わりを迎えるとは考えられない。

 自分ならどうするかとリリーは考える。

 大勢の敵に突っ込んでいくか、それとも質の高い戦いを望むのならひとりかふたりを相手にするための狭い場所に移るか。

 後者、だろう。砦を築いたのもきっとそのためだ。

 自分の考えが合っているかどうか確かめる術はない。バルドの姿はもう見えない。

 彼がどんな風に戦っているのか、どんな顔をしているのか、何を思っているのかここからではなにも見えない。

 次に姿を見られるとしたら、その時バルドは自らの足で立ってはいないだろう。

「リリー。もう、十分だろ」

 クラウスに遠慮がちに手を引かれてリリーは首を横に振る。その時、瞳から涙がこぼれ落ちた。

「まだ、終わってないわ」

 バルドはまだ戦っている。だけれど、本当に終われていないのは自分だ。

 伝えたいことを全部伝えきっていない。話したいことが沢山ある。きっと一生かかっても終われないぐらいに、届けたい言葉や想いがありすぎる。

 バルドがいなくても歩いて行けると思っていたけれど、本当は違う。

 心の隅で居場所さえ分かっていればいつでもまだ、バルドにまたいつでも会いにいけると安心していた。

 だからこの数ヶ月新しい道を進みながらも、バルドに続く道をこっそりと胸の奥深い方へ自分の目からも隠してきた。

 その道がなくってしまう。

「リリー!」

 思わずクラウスの手を振り解いて丘の下へと駆け出しかけたが、今度は強く手を引かれて進めなかった。

「嫌なの。バルドがいない場所なんて、そんなのやっぱり無理よ」

 涙を拭うことなく、リリーはクラウスを見返す。

「無理じゃない。上手く行ってただろ。これからだって、大丈夫だ。約束もしてきただろう。ちゃんと帰るんだ。……行かないでくれ」

 聞いたこともないほど悲しい声でクラウスが引き止めてくる。

「上手く行ってたのは、バルドがいたからよ。また会えるってほんとうはずっと思ってた。絶対会いに行くって考えてた。カルラの事は大好きだし、炎将とだって今までよりいい関係になれると思うわ。新しい好きなことも、やってみたいこともできたわ」

 けして、バルドと一緒にいることに比べて数ヶ月の間にできた友人や、新しい生活が軽いものではない。本当に自分にとって心の底から大事で愛しいと思えるものになり始めていた。

「クラウス、ずっと一緒にいられると思うぐらいあたしにとってあんたは初めての友達だわ。いっぱい、いろんな事をあたしのためにしてくれたこと、すごく感謝してる。だけど、あたしバルドがいないのだけは耐えられないの。お願い、バルドに会いたいの」

 クラウスのことも、大切な人だと素直に受け入れることができてきた。

 彼の自分に対する想いには応えられないけれど、一緒に過ごした七年は色々あったがいい思い出もあるし、よくない思い出も今は笑い話にできる。

「……連れてきたら、こうなるかもって考えてはいたんだよな。リリー、全部、捨てていっていくのか」

 クラウスの手が緩む。

「捨てないわ。大事だもの、全部。ここにしまって持って行くわ」

 リリーは自分の胸に手を置いて、笑顔を作った。

「そうか。リリーらしいな」

 完全に手が離れて、リリーを無理矢理この場に縛り付けるものが消える。

「クラウス……カルラとか炎将とか、屋敷の人達とかにありがとうと、ごめんって伝えて」

 約束を破ることを許して欲しいなんて言えない。だけれど感謝と謝罪だけは伝えたかった。

「わかった」

 静かにクラウスがうなずく。

「ありがとう。じゃあ、行ってくる」

 リリーはバルド目指して駈け出した。白いローブを纏って杖も剣も持たない自分を目に留めて危ないと告げる声を聞き流し、平野の兵達をかき分けひたすらに走った。

 息がきれて、足がもう動かないというほどに駆け続けた。

 いよいよ血臭が強くなる砦の前でリリーは一度呼吸を整えて再び走り出す。

 細い廊下にはバルドに敗れたと思しき者達が無数に倒れている。生きている者も、事切れている者もいた。

 もう戦っている気配はどこにもない。

 リリーは間に合って欲しいと願いながら廊下の先にたどりついて、奥の開けた空間に剣を持って立っている人影を見つける。

「バルド!!」

 名前を呼んで部屋に飛び込むと、血に塗れたバルドの姿があった。

「リー……」

 驚くバルドの顔に微笑み返して、リリーは言葉を発するよりもバルドの胸へと飛び込む。

 片腕で抱き返されてああ、やっぱり自分の居場所はここだと安心した。


***


 戦って、ひたすら戦い続けて望む終わりくるのを、バルドは待っていた。

 終わりの方になると、どんどん強い者達が挑んできてこれまでにないほどに楽しい戦となった。

 じわじわと脇腹の傷から血が流れ出ていっている上に、闘争の高揚感に意識はふわふわとして地に足がついていない感覚だった。

 だが、後もうひとりぐらいとは戦える。誰かもっと強い相手が来ればいいと待っていると、リリーが自分を呼ぶ声が聞こえた。

 幻聴かと最初は思った。強い相手のことを考えていたから、リリーのことを思い出してしまったのかもしれないと。

 実際に姿をみてもやはりまだ信じ切れなかった。胸に飛び込んで来た体を剣を持っていない片腕で抱いて、やっと現実だと認めた。

「何故」

 どうしてリリーはここに来てしまったのだろう。朦朧とした意識は疑問は覚えても、答を出せるほど回っていなかった。

「うん。たぶん、バルドがあたしに見て欲しかったもの、見たと思うの。すごく素敵なもの。でもね、あたしここがいい。バルドと一緒がいい」

 胸に顔を埋めていたリリーが顔を上げて、満面の笑顔を見せる。

「バルド、大好き」

 そうして伝えられた言葉に、バルドは呆然とする。

 戦って終わるつもりだったというのに、それを望んでいたというのに今、自分はとても満ち足りていた。

 いや、しかし少し足りない。片腕だけでは物足りない。

 だから剣はもういらいない。リリーを両腕で抱きしめて終われるなら、剣を握らなくてもいい。

 バルドは剣の柄から手を離し望みを叶える。

「リー、俺も、愛している」

 重たい神剣が石床に落ちる音と共に、バルドは告げる。

 もう彼女以外本当に何もいらないと思った。

 そして落ちた神器は淡く発光し、全てが白むほどの光を放ち地上から天へと雷が駆け上がる。

 その稲光を中心にして島は暗雲に包まれた。

 しかしそれは一瞬のことだった。細く枝分かれした雷光が黒い空を引き裂く。空を覆う大きな一枚の布が引き裂かれるようだった。

 びりびりと島中を揺るがす豪音が消え去る頃には、再び雲ひとつない蒼穹が人々の頭上に広がったのだった。


***


 一瞬の暗黒と雷鳴の後に、魔力を持つ人々は空を見上げるよりも、よりもまず自分の体を見下ろした。

 今まで自分の身の内を流れていたはずの魔力が消え去ったのだ。

「あ……」

 ちょうど外に出ていたカルラはこの世の終わりかと思う一瞬を経て、自分の胸に手を当てて瞳を潤ませる。

 理由はわからないが、リリーはもう帰ってこないと感じた。

「やっぱり、行きたい場所に行ってしまうのね……」

 カルラは親友の旅立ちを受け入れて涙をぬぐい、戦が終わったのかとどうなったのかと困惑する人々共に再び歩き始める。


***


 主君は逝ってしまったと、マリウスはしばらく呆然としていた。

 幼い頃怖れ、いつか誇りに変わった魔力が消え失せたことを受け入れるは容易いことではなかった。

「マリウス、始まるのよ。終わりではないわ」

 一緒に茶を飲んでいた姉のヴィオラが優しく告げる言葉に、マリウスはゆっくりと胸に染み込ませる。

 そしてそれは始めるしかないのだ明確な意志となっていった。


***

 

 島の北西部の小さな村の片隅で、母子が手を繋いで自分達の体に降ろしていた視線をまた空に向けていた。

「本物の皇主様は天に帰られたのですね……」

「ええ。そうでしょうね。アウル」

 母と子は、ディックハウトの皇主であったアウレールと生母のロスヴィータだ。

 体調が回復し始めたアウレールを死んだと偽って自らも海に飛び込んだと見せかけ、乳母を頼り名前を変えひっそりと暮らしている。アウレールにも本当の父親のことを話した。

 驚いていたがすぐに何もかもが腑に落ちた様子だった。

 ずっと前にこうするべきだったのだとロスヴィータは思う。

「父上様にも報告しましょう」

 そしてふたりはお互いに手をしっかり繋いで、村の隅にある戦没者の墓所へ向かった。


***


「皇太子殿下、終わりましたよ」

 魔力が消え去ったことを感じ取りながら、花が綻び始めた墓所でエレンは亡き主に語りかける。

 バルドは全てを壊してしまうかもしれないとラインハルトがいつか言っていたことは本当になった。

 海がある東からの風が強く吹いて潮の香が濃くなり、答を返してもらっている気がした。そんな錯覚を覚えてしまってる自分が変におかしく思えて、エレンは小さな笑い声をもらす。

 終わったけれども、自分はまだこれからだ。

 魔術と皇家をなくしたこの島の行く末をここで見ていく。ラインハルトが見たかったものを生きる限り目に焼き付けて生きていく。

 自分は生きていくのだと今やっと、なにもかも受け入れて歩いてけるとエレンは思った。


***


「リリー……」

 クラウスは自分の掌を見つめて手放してしまったものの大きさを噛みしめる。後悔がないとは言わない。

 ただ自分が好きなったリリーが彼女らしくあり続けたことはよかったと思えた。

 終戦に沸く声は周囲はなく、誰かがぼそりと天に帰ったとつぶやく声が聞こえる。

 魔道士達はもう魔道士ではなくなった。

 当たり前にあったものを失ってはじめて喪失感に苛まれる。しかしもう新たな世界は始まってしまったのだ。

 後戻りなどできない。過去を振り返ることはあってもけして同じ場所には二度と立てない。

「戦った全ての者に敬意と感謝を」

 厳かにクラウスが声を発すると誰もが黙祷始める。嗚咽を押し殺した声も所々で聞こえた。

 そうしてゆっくりと誰もが前を向いて次へと歩き始める。

 皇家軍が拠点としていた砦は、あの天へ昇る雷と共に白く燃え瓦礫もわずかにほとんどが灰になってしまっていた。

 とうぜんのごとく誰の遺骸も見つけることはできなかった。

 見つかったのは折れた朽ちかけた神剣だけだった。しかし、魔術の消失と皇主の死は同じことだ。

 残っていた杖も灰となっていて、贋の玉の欠片と共に全て皇家の墓所に納められた。

 これによって千年続いた皇家の血脈は途絶え、島は新時代の夜明けを迎えたのだった――。



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