雷軍の兵舎。その主たる将軍の執務室は、一見すると誰もいないかに見えた。

 部屋の主を起こしに来たリリーは、長椅子へと釣り目がちな深緑の大きな瞳を向ける。

 そこには軍装である黒いローブが無造作に置かれていた。

 魔道士の血が染みたローブは魔術攻撃を防ぐための鎧だ。黒はハイゼンベルク方を示す色で、ディックハウトは白になる。

 それがここに置かれているなら、すぐ側にローブの持ち主もいるということだろう。

「またそんなところで寝て……。ほら、朝よ。あともう半刻したら軍議と演習が始まるのよ、起きなさい」

 長椅子の裏を覗き込めば、大柄な青年が壁と長椅子の隙間にみっしと挟まって寝ていた。側には大きな剣も一振りある。

「……あと四半時は寝られる」

 漆黒の髪の青年が薄く空けた紫の瞳でリリーを確認して、再び目を閉じる。

 この青年が、グリザド皇国第二皇子であり、雷軍の将であるバルドだ。傍らにあるのはグリザドの右腕ともいわれる神器の『剣』である。

「あんた、起きても半刻はまだ半分は寝てるしょ。ほら、今日は他の将軍との軍議なんだから、もう起きなさい」

 リリーはバルドをお気に入りの寝床に入り込む。

 巣穴で眠る彼は普段『雷獣』と呼ばれているわけだが、その名残はまったくない。ただの怠慢な大猫だ。

「リーも一緒に寝る」

「寝ないわよ。って、ちょと、バルド!」

 愛称で呼ばれリリーはローブの裾を掴まれて引っぱられ、バルドの上に倒れ込んだ。そして彼はばたばたともがくリリーをがっちりと抱きしめて、また眠り始めた。

「バルド、だから、あたしがいいって言ってないのにこういうのやめてって。せっかく苦労して編んだ髪もぐちゃぐちゃになるから。馬鹿、もう、起きてって」

 羞恥と息苦しさに顔を真っ赤にしてリリーはバルドの腕に噛みつく。そうすると反射的にバルドに首元を噛み返されて自分が墓穴を掘ったことに気付く。

「違う。遊んでるんじゃないの。嫌だから噛んだの。こういう遊びはもうしないって言ったでしょ」

 まだ寝惚け眼のバルドは不服そうに腕を解いた。

 自分とバルドが出会ったのは七年前。士官学校で遅くに入学してきた四つ年上のバルドと剣を交え、互いに共鳴してずっと一緒にいる。

 自分は曰く付きの孤児で士官学校で孤立していた。バルドもまた高い魔力を暴走ささせていた幼少期に周囲から距離をおかれ、兄以外の人間とはまともに会話もできなければ、関心を持つこともできなかった。

 ふたり共、戦うことがどうしようもなく好きだった。獣のようだと周りに揶揄されるほどに。

 初めて出会った、自分と同類の相手。

 バルドは言葉も少なければ表情も薄く、雰囲気も獣染みていた。雷の魔術しか使わない戦闘時の狂暴さも相まって『雷獣』と密かに渾名され、敬遠されていた。

 自分はそんな彼が言いたいことや、感情が理解できた。

 獣の言葉は獣にしか分からないと影で言われても気にしなかった。

 他者との関わり方を知らない同士で、じゃれ合い身を寄せ合って初めて知る安らぎは何ものにもかえがたかった。

「一緒に寝るのも?」

 今は三つ編みにしている、リリーの癖の強い金茶の髪にじゃれようとした手を引っ込めて、バルドが不満げに言う。

「うう。たぶん駄目。こんなにくっついて寝るのはすごく駄目」

 つい最近までバルドの膝を枕にしたり、ここで一緒に寝たりはしていた。お互い子供の頃からしているので普通のことだ。

 しかしほんのひと月あまりに知ってしまったのだ。いろいろと自分達の遊びが間違っていたと。

(子供って、夫婦か恋人同士で接吻したらできるんじゃなかったのよね)

 今、思い出しても死ぬほど恥ずかしい。

 女親は当然として女友達すらいないリリーは、子供がどうやったらできるか大きく勘違いしていた。

 三年前から甘噛みし合ったりするいつもの遊びの延長で、バルドと口づけを交わすようになった。

 そして子供ができないということは、自分達がただの友人同士でいつものじゃれあいと変わらないからだと思っていた。

「なんだ、お前らそこにいたのか。いつもながら仲いいな」

 頭上から声が降ってきて、リリーとバルドが同時に顔を上げる。

 そこでは呆れ顔の銀髪と眼鏡の優男がいた。

 彼はクラウス・フォン・フォーベック。五代続けてハイゼンベルク方の宰相を務めるフォーベック家の次男で、『剣』の統率官をしている雷軍の三番手だ。

 そしてバルドのお目付役でもあり、リリーの知識が過ちに気付いて貴族の子女の嫁入り前の『教本』を渡した人物である。

「う。違うの。バルドを起こしてたんだから、別にふ、ふしだらなことしてたわけじゃないのよ」

 覚えたての『ふしだら』という言葉をぎこちなく使いながら、リリーは抗議する。

「ふしだら……」

 バルドが鸚鵡返しにして考え込む。

「そう。こういうのはふしだらって言うの。クラウスと一緒なのよ」

 見た目は生真面目そうだが、実際は女癖が悪く仕事も不真面目なクラウスを引き合いに出してリリーはバルドに念押しする。

「クラウスと一緒。それはいけない」

 そしてバルドが相も変わらず無表情ながらも、深刻そうにうなずいた。

「俺がふしだらなのは認めるけどな、せめて本人がいないところで言えよ」

 さして気にした素振りもなくクラウスがため息をつく。

「……では、ふしだらでなくリーに触れて共に眠るににはどうすればいい?」

「え。うんっと。基本的に結婚してないから駄目なのよね。でもあたしら結婚はする気ないし、無理だし」

「俺は結婚しなければ、子を成す行為はしてはならないとしか教わっていない。他は服の下に触らなければいい?」

 リリーはバルドの言葉に再び赤面して顔を逸らし、ふたりそろって黙り込んでしまう。

「お前ら本当にそっちの知識がおかしいな……リリーはまだしも、バルドもか」

「う。ねえ、この場合どうなのよ。何が良くて何が駄目なのよ」

 リリーとバルドが再びクラウスに顔を向ける。

「ああ、まあ。お互い真剣に好きならいいんじゃないか? まっとうなお付き合いは俺、したことない」

「本当に役に立たない駄眼鏡ね」

 まったく答らしい答がもらえなくてリリーはむくれる。

「俺はリーが好き。リーは俺のことが好き?」

 そしてバルドが聞いてきて顔の紅潮はさらに酷くなる。

「き、嫌いじゃないわ。嫌いじゃないからずっと一緒にいるんじゃない」

「では、触れてはいけないのはなぜ」

「もう知らない」

 リリーはバルドから逃げ出して、長椅子に座り込む。

 自分とてなんだかよく分かっていないのだから答えられるはずがなかった。

 とにかく、きちんと知識を得てからバルドと触れ合うことが、恥ずかしくてたまらないのだ。

「まあ、好きだからなおさらだめっていうのもあるらしいぞ」

「不可解」

 やっと寝床から這いずりだしてきたバルドが首を傾げながらリリーの横に座る。

「で、お前ら今日は他の将軍と軍議だろ」

 クラウスの指摘にリリーは部屋の柱時計を見て、近くのバルドのローブをひっつかむ。

「そうよ。バルドは起きたからまあいいわ。ほら、ローブ着て、朝食は食べるわね。髪もちゃんとするのよ」

 ローブを渡してリリーはバルドを朝食などが用意されている隣の私室へと向かわせる。

「そういえば、あんたはどうしたの?」

「いや、俺が他の統率官と留守番だろ。仕事預かりにきたんだけどな」

「……あんたがまともに仕事やる気あるなんてどうしたのよ」

 本気で薄気味悪げにリリーが言うと、クラウスは不服そうな顔をする。

「いや、俺だってたまにはやる気になるぞ。たまにだけど」

「どうせなら、毎回やる気になりなさないよ。まあいいわ、ちょっと待ってよ」

 リリーはバルドの執務机から必要な書類を引っ張り出して、クラウスに引き継ぎをする。そうしている内に、バルドが身支度を調えて出てくる。

 リリーは上から下まで彼の身形をしっかり確認して、よしとうなずく。

「じゃあ、ちゃんと留守番しててよ。飽きて途中で逃げないでよね」

「できるだけ努力する」

 クラウスがまるきり自信がなさそうに言って、リリーはいつものことと呆れる。

「さあ、あたしらも行くわよ」

 リリーはバルドと共に執務室を出て、ふっと今、自分がこうしていることがどこか不思議に思える。

 ひと月前、自分は離叛した。

 ディックハウト方への情報漏洩の冤罪で追い込まれ、このまま戦わずに終われるものかとハイゼンベルクを見限ったのだ。

 どうせ自分には身寄りもなく、負けが見えているハイゼンベルク方にしがみつく理由もない。ただ戦って、戦場で終われるならなんでもいいと思っていた。

(あたしは、バルドと一緒にいたかっただけだったんだわ)

 神器の『玉』を持ち去ったディックハウト側と合流し、そこにバルド率いる軍が攻め込んできて、バルドと本気で対峙することになった。

 結局全てはバルドを思い通りに動かしたいラインハルトが、ディックハウト信奉者の掃討作戦のついでに自分を排除しようとしたことだった。

 そしてバルドはラインハルトに唆されて従った。自分を敗戦間近のハイゼンベルク方から、ディックハウト方へと逃すために。

 負けて自分は彼の側にいたかったのだと気付かされて、お互い離れることはしたくないのだと自分の気持ちを思い知らされた。

(まあ、皇太子殿下は目論見が外れて残念だっただろうけど)

 ラインハルトは自分を別の場所で他の将軍を使い始末するつもりだった。敵側に潜ませていた内通者との間で何か手違いがあったらしく、バルドと対峙することになったのだ。

 バルドはラインハルトの真意を知らない。

 彼にとっては、敬愛するたったひとりの兄だ。わざわざ教えることもない。

「リー?」

 ぼんやりバルドの背を見ながら歩いていると、足音に何か感じたのか彼が振り返る。

「なんでもないわよ。もたもたしてると遅れるわ」

 リリーはそう誤魔化してバルドの隣に並ぶ。

 最後の最後まで彼の側にいると自分で決めた。彼もそれを望んでくれるだけで十分だった。


***


 皇軍の五将は王宮の一角にある軍司令部に集まることになっており、リリーとバルドは軍議のための部屋へと向かっていた。

「リリーちゃん。久しぶりですわあ」

「――――っ!」

 廊下でバルドと静かに並んで歩いていると、背後から気配も足音もさせず近づいて来た女性に抱きすくめられて、リリーは驚きに毛を逆立てる。

「は、離して下さい。ジルベール将軍!」

 人に触られるのが苦手なリリーは抗議の声を上げる。珍しい桃色がかった金髪と、色香を滲ませる華やかな面立ちの女性はヴィオラ・フォン・ジルベール。

 凹凸のはっきりした体の線にそったローブを纏い、踵の高い長靴を履いた蠱惑的な彼女は炎軍の将である。

 炎の魔術を得意とする『剣』の魔道士だ。腰にはレイピアを佩いている。

「なあに。いけないわあ。目上にはもっと可愛くないと」

「ならば、姉上はまずバルド殿下にご挨拶を。殿下、おはようございます。アクス補佐官もいつもながら姉がご無礼を」

 ヴィオラのフードを引っ張って、無表情で淡々と言うのは彼女の補佐官であり弟でもある二十のマリウスだ。

 ジルベール侯爵家は軍人家系で、嫡男以外が入隊する軍の中においても珍しく嫡男であるマリウスが補佐官を務めている。

 やっと離されたリリーはバルドの影に隠れて、警戒心を漲らせる。

 小さくて可愛いものに目がないというヴィオラのことは、初対面で挨拶もなく抱きつかれて以来大の苦手だ。

 バルドもこの女性の騒々しさが苦手で、雷軍の主従は毛を逆立てて威嚇する猫になってしまっていた。

「あ、おい。こら見てみろ炎将と殿下がいるってことは俺らが最後じゃねえか!」

「時間には間に合ってるからいいんじゃないですかー?」

 次に黒髪の四十前後とみられる粗野な風貌の男が、二十代前半と思しきぼんやりとした金髪の男のフードを持って彼を引きずるようにしてやってきた。

 引きずられている方が、見た目は若いものの実際は三十一になるラルス・フォン・ブラント。水軍の将である。そして引きずっているのがその補佐官でカイ・フォン・ベッカーである。

(将軍のフード引っ張るのが補佐官の仕事かと最初思ったわ)

 バルドに挨拶しつつ舟を漕ぎ始めるラルスを叱りつけるカイと、ヴィオラのローブを掴んで御しているマリウスを眺めるリリーも、よくバルドのフードを引っ張っている。

 そして部屋に入ればすでに他の二将軍が席についていた。

 最年長で厳格な風貌の男が風将、ユリアン・フォン・ビュッサー。凡庸としてこれといって特徴のない次に年嵩の男が地将、ベルント・フォン・デーメルになる。

 他には司令部の官僚がいる。議長はヴィオラの父であるジルベール侯爵だ。

 集うのは上位貴族ばかりで、孤児で最年少のリリーはいつも以上に浮いてしまう。

(ここでやる軍議って座れないから嫌いだわ)

 バルドへの挨拶を始めとして、退屈な軍議の開始の口上を聞きながらリリーはうんざりする。補佐官はもれなく円卓につく将軍の真後ろに立っていないといけないのだ。

 やっと終わると話は先日のディックハウト信奉者の掃討作戦に移り、視線がリリーに向く。

 ラインハルトに陥れられたということもあって、自分とバルド、後はクラウス以外には敵方へ内偵に入っていたことになっている。

「わたくしの元からもずいぶん裏切り者が出たと思ったけれど、どこも似たものですわね」

 ヴィオラが上げられる各軍の反逆者の数につまらなそうにつぶやく。

 軍内からも多数の反逆者があぶり出され、どの軍も似たり寄ったりという結果だった。減るばかりの戦力に場の空気は重い。

 状況は戦場で味方にやられる危険が減った程度である。

「バルド殿下が神器を持たれて士気は上がった。臣民の『雷皇』への忠義がより強固となったのはよいことだ」

 風将ユリアンが言うように、掃討作戦においてバルドは初めて神器を用いた。

 元より雷の魔術しか使わない所以と、皇太子が余命幾ばくもないとされるなかで実質の次期皇主であるバルドは表向きには『雷皇』と呼ばれている。

 そんなバルドが神器を使い、絶大な力を見せつけた。

 離宮で彼が落とした雷は百人近い敵を討ち、その稲光や轟音を放つ雷鳴は離れた皇都にまで届いて人々に畏怖を植え付けた。

 今、皇都はあの天を裂き地の底まで震わす雷に微かな希望を見いだしている。

「なおの一層の殿下への忠義心を高め、我々の正義を知らしめるために、今より三月後、雷軍と炎軍でゼランシア砦を奪還する」

 ジルベール侯爵が言うのに、水将ラルスがああとため息をつく。

「えー。それは要するにマールベック卿と戦をするということですかね。結局、和議には応じませんでしたか。そうなるといささか雷軍の士気が気がかりですが」

 北部の護りの要となるゼランシア砦。そこを居城とするマールベック伯爵家が先日、ハイゼンベルク方へ離叛の意を示した。

 元より離叛を危ぶまれていたマールベック家を繋ぎ止めるために、クラウスの前任であった『剣』の統率官の女性が嫁いでいたが、僅か一年前のことだ。

 何かと慕われていた元上官が敵に回るなり人質にされるなりすれば、雷軍の多くの魔道士達は士気を削がれるだろう。

「今さらですことよ。裏切り者は裏切り者。人質というのは、フリーダの性格からしてありませんですし、雷軍が動けないならわたくしが昔のよしみで討ち取ってさしあげてもよろしくてよ」

 ヴィオラの言う通り、元『剣』の統率官であった彼女が人質になるとはリリーも到底思えなかった。

「殿下、以上でよろしいでしょうか」

「……異論はない。状況に応じて両軍で編成を」

 バルドが黙して短く答えて、議長がリリーに目を向ける。

「言葉通り、殿下に炎軍との協同に不服はなく、状況に応じては両軍混成部隊も考えるとのことです」

 そしてリリーがバルドの言葉を補足して次の話題へ映る。

 士官学校を出てすぐに孤児であるリリーが将軍補佐に任じられたのはこのためだ。

 とにかくバルドは言葉を使うのが不器用で、表情もほとんどないとあってこういう場で支障が多い。

 それで、唯一バルドの言葉も表情も理解出来るリリーは、通訳として取り立てられた。魔道士としての能力も不足しているわけではないが、家柄と経験がものを言う上位職で異例のことである。

 二年経った今でもバルドは他者との交渉を、リリーに頼りきりだった。

「バルド殿下、皇太子殿下より先にお聞き及びかと思いますが、戦の前に戦勝祈願と地方に広く神器を殿下のお姿をお披露目しておきたく、剣の社への参拝を計画しております。出発は八日後と決まりましたが、よろしいでしょうか」

 そういえば数日前にバルドがそんなことを言っていたと、リリーは思い出す。熱気が冷めない内に離叛を迷う者達を止めおくためらしい。

「剣の社は少々危険が伴うのでは。あちらはディックハウト方の領地に近く、実質は寝返っている者も周囲に多いと聞きます」

 地将のベルントが案じるのに、他の将も同意する。

「問題ない。敵は討つ」

 バルドが静かに言い放って、議長がうなずく。

「そのお力を見れば己の過ちに気付くでしょう。無論アクス補佐官を始め、雷軍から護衛として兵は十分におつけします」

 となると実質は社周りのディックハウト信奉者の一層となりそうだ。

 ただのお使いでなく戦闘ができるとあって、リリーはこっそりと喜ぶ。

 そして以後の細かなことや今の戦況についての話が続き、最後にこの後の演習について話が映る。

(演習は今日はバルドが神器を使う練習なのよね……見てるだけってつまんない)

 グリザドの右腕と言われる神器は、通常の剣より魔力を消費するらしい。

 魔力は無尽蔵に湧いてくるものではない。体力と同じで限度がある。

 リリーがバルドと対峙した時、彼の魔力はローブの魔術攻撃への耐性が弱まるほど枯渇していた。

 バルドはまだ一度だけしか神器を使っておらず、雷軍での演習では以前使っていた大剣を使っている。

 魔力の消費や加減を覚えるなら、将軍相手でないと務まらないからだ。

(いいな)

 思い切り戦えるとあって演習場へ移動するバルドはとても楽しげで、リリーは羨ましく思うのだった。


***


 将軍の内訳は『剣』が四人、『杖』がひとりとなる。

 まず『杖』の地将ベルントの作る防壁を破砕することから始めた。魔道士百人がかりでも打ち砕けないという彼の作り上げた泥の防壁を、バルドはあっさり木っ端にした。

 そして次は風将、水将、炎将と残る『剣』の魔道士達が代わる代わる相手し、最終的には三人同時にバルドに攻めかかった。

 高い魔力でひたすら力押しして攻めるバルドと違って、将軍達はやはり立ち回りが上手い。

 しかし、圧倒的な力の前では持ち前の技術も経験も粉砕される。

 三将が完全に押される中、バルドの魔力が尽きてきて終了となった。

「満足はしてないか、物足りなさそう……」

 ぬらりとした黒とも銀ともつかない色合いの刀身の神器を片手に、荒く息をするバルドの目は獰猛な色を宿したままだ。

「それにしても、やっぱり変な感じがするわね、神器って」

 初めて目にした時と同じく、心臓のあたりがやけにうずうずして落ち着かない。

 神器を間近で見た者達は誰もが血が沸き立って畏怖を覚えるというのはあるが、それとはまた違う別の感覚だった。

 なんとなしに見やった他の三人の将軍達も、神器の威力とバルドの狂気染みた闘志に表情は硬い。汗だくの彼らは顔を見合わせて、視線だけで何かやりとりしている。

 そして視線は何度か自分に向いた気がして、リリーは首を傾げる。

「……リリーちゃん、遊んで差し上げるからいらっしゃい」

 乱れた髪をかき上げて、ヴィオラがリリーを手招く。

「はい。よろしくお願いします」

 将軍と剣を交えられるならなんでもいいかと、目先の楽しみにつられてリリーは腰の双剣を抜く。

 ヴィオラが乱れた息を整えると、すぐにレイピアで突いてくる。

 見た目よりもずっと鈍重なレイピアを、しかも歩きにくそうな踵の高い長靴で彼女は俊敏に扱う。

 しかしバルドを相手にした後とあって、いつもよりかは鈍い。

 リリーは器用さと高い魔力が求められる双剣でもって切っ先をを弾く。

 ヴィオラのが螺旋状に刀身に巻き付けた紅蓮の炎を突きと同時に放ち、火球に変えてぶつけてくる。

 リリーは右の剣で同じく火球を放ち、左の剣で風を産み炎を煽って勢いをつけて返す。

 やはり神器相手にした後で魔力が減っているのか、ヴィオラの魔術攻撃の勢いは常よりない。

 といって気を抜ける相手ではないが。

 ヴィオラが返された炎をあまり得意ではないという水の魔術でくるんで、その間に距離を詰めてくる。

 本当に、この踵の高さでこんなにも軽く動けるものだ。

 相手の強さに沸き立つ気持ちを抑えられず、リリーの口元には笑みが浮かぶ。

 あっという間に切っ先が届く距離まで間合いを詰められる。

 得物の長さで分が悪いリリーは突きが来る前に、両手の剣から雷撃を放ちつつ距離を取る。

 しまったと、動いてから気付く。

 雷撃は炎を纏わせたレイピアに突き破られて、切っ先が喉元まで迫る。

 だが、そう簡単にやらせまいと体をずらして左肩を犠牲に差し出す。

 そこでぴたりとヴィオラの剣先がローブを突き破る前に止まった。

「もう、リリーちゃん、夢中になるとどんな手でも使ってくるのはいけませんわよ。はい、今日はこれでおしまい」

「え、終わり、ですか」

 まだ勝負もはっきりついていないのにと、リリーは不満を隠し切れずに唇を尖らせる。

「あら、手負いのわたくしに勝ってもつまらないし、負けてもくやしいでしょう」

 確かにそうなのだが、せっかく気分も盛り上がってきたところだったので、もうちょっとは楽しんでいたかった。

「リー、危険」

 バルドにまで注意され、リリーはむすっとする。

「あんたひとり、楽しんでてあたしはこれってつまんない。はあ、炎将に早く勝ちたい。そうしたらいきなり触られることもないし」

 子供の頃から売られた喧嘩は片っ端から買った。勝てば貴族の子弟達が口にする自分への嘲りはただの負け惜しみになる。後々変に絡まれることもなくなるのだ。

 そうやって煩わしい者は力で排除してきた。

「……炎将のは、喧嘩とは違う」

「で、でも。強くなったら、可愛いとかよく分からないこと思われないでしょ。あたしが炎将より弱いから、可愛いなんて言われるのよ」

 リリーが持論を力強くバルドに訴えると、彼はしばし黙って考え込む。

「リーは、強くても可愛い」

 そして不意打ちの返答にリリーは、ぐっと言葉に詰まる。

「やだ。なんかバルドがそういうこと言うの変」

「変……」

 しばしバルドは考え込んでふっとリリーから目を逸らす。いつも以上に眉間に皺が寄り、端から見れば怒り心頭といった表情に見える。

「ちょっと、自分で言っておいて今頃照れないで。もう、急に変なこと言うからそうなるのよ」

 だが、それは珍しくバルドが恥じらっている顔だと知っているリリーは、つられて赤面しながら意味もなく彼の袖を掴んで何度も引っ張っる。

 演習場の隅で周りの目を忘れてやりとりをしていたふたりが、将軍達が寄り集まって密やかに話し合っていることに気付くことはなかった。


***


 やっとラインハルトの体調が落ち着いてきて、エレンはひとまずの安堵を得ていた。眠るラインハルトの側で、故郷より取り寄せた『玉』の社周辺での記録を見ていると来客の知らせがあった。

 ジルベール侯爵ということで、記録を隠しラインハルトを他の侍女に一時的に預けて別室に移る。

 彼は宰相が実権を握る皇都の中で、数少ない皇太子派の人間だった。今日は軍議の議長もしていたので、重要な話かもしれない。

「お待たせしました。壁は必要ですか?」

 礼儀正しく腰を折ったエレンは、ジルベール侯爵が是非にと言うのを聞いて部屋の音を遮断する。

「本日、予定通り、バルド殿下と他の将達で演習を行った」

「問題がありましたか?」

 神器を実戦で用いることは長い歴史の中で初めてのことなので、未知の部分は大きい。

 ここにも演習の凄まじい轟音が鳴り響いてきていたが、特に何か起こったかには思えなかった。

「殿下ご自身にも神器にも問題はなかった。間近で見て私も身が竦む思いをした。あれほどまでに神器というのは、魔道士の血に畏怖をもたらすのかと」

 ジルベール侯爵が思い返してか身震いをひとつする。かつて炎将を務めていた時には、猛将として名を馳せた彼がこう言うのだから、よほどのものだろう。

 かくいう自分も雷鳴が響く間は、暗がりの中で獣に狙われているかのような緊張感を覚えて落ち着かなかった。

「それでは、他に何があったのでしょう」

「リリー・アクスだ。剣を交えた三将共に、アクス補佐官と対峙した時に神器への畏怖と似たものを覚えたことがあるとのことだった。娘のヴィオラがその後にすぐ、彼女と剣を交えたが、似ているというより同質の何かがあると感じたらしい。ひとりならまだしも、全員が同じというのはいささか気がかりで、皇太子殿下にご報告をしておいた方がよいだろう。アクス補佐官の出自は本当に分からないのか?」

 予測外の返答にエレンは眉を顰める。

「ええ。いくら手を尽くしても未だに手がかりがありません。皇太子殿下も気にかけていらっしゃるのですが……」

「そうか。他の件についてはつつがながくすんでいる」

 ジルベール侯爵はそう言った後に、しばし黙して再び口を開く。

「……宰相家の次男が逆臣であるとの噂が立ち始めているのをご存じか?」

 エレンはわずかに眉を上げて、いいえと首を横に振る。実際そんな噂があるのはまだ知らなかった。

「先の掃討作戦でディックハウト方にも疑いをかけられていたので、遅かれ早かれと言った所ではありませんか?」

 クラウスはラインハルトの命でディックハウト方へ内偵として潜り込んでいる。先の掃討作戦にも彼は貢献したが、そのせいで向こうでの立場が少々危うくなっている。

 このことをハイゼンベルク方で知っているのも、皇太子の側近数名のみ。バルドですら知らない。

 どちらかといえば、まだ皇都で息を潜めているディックハウト信奉者が、クラウスの真意を図るためのものかもしれない。

「そろそろ切り時か」

 眼光を鋭くしてジルベール侯爵が言う。

「それは、皇太子殿下がお決めになることです」

 クラウスが逆臣であれば宰相家に泥を塗ることになる。元よりディックハウト信奉者の増加の原因を作った失策をうったのは宰相家である。

 このままひきずり落としたいという意図がジルベール侯爵からは感じ取られた。

 皇太子側と言いつつも、あわよくば宰相家の立ち位置を彼も狙っているのだ。

 ラインハルトがもう長くないと分かっていて、誰もが次の皇主であるバルドの世話を託されるのを虎視眈々と狙っている。

「そうか。それと、もうひとつ。これは前々から考えてもいたのだがアクス補佐官の身元がどうしても分からないというなら、当家で引き取ってもよいかと考えている。娘も彼女を気に入っていることだ。バルド殿下の補佐官がいつまでも孤児というのも、外聞が悪かろう」

 露骨にバルドを手懐ける餌を手に入れようとするジルベール侯爵の提案を、エレンは冷めた思いで聞く。

「ええ。皇太子殿下もアクス補佐官に一代限りの男爵位を授ける特例もお考えです。ハイゼンベルク方と同じく、こちらも能力ある者を重用するという対外的な宣伝ともなりますから」

 まるきりの嘘ではありながらも、リリーが自分の父と肩を並べる男爵位となることを考えると少々不快な気分になった。

「なるほど。いや、余計な心配だったか。では失礼する」

 ジルベール侯爵が立ち去って、やれやれとエレンは魔術を解く。

 誰も彼もがこの状況でまだ権威欲に目がくらんでいる。どうせ終わるならせめて頂上にいたいのか、あるいは奇蹟が起こって勝利するのを夢見ているのか。

 くだらないとエレンは思いながら、ラインハルトの私室に戻って行く。

(では私はなぜここにいるのだろう)

 そしてふと足を止めて考える。正直なところ、家が存続さえできればディックハウト方についてもいい。

 父は忠心に生きて死ぬつもりだが、自分はそこまでの気持ちはなかった。それでも父のことは敬愛しているし、力にはなろうと思う程度だ。

 ラインハルトの元に戻ると、彼はどうやら起きているらしかった。代わりに残していた侍女を外に出して再び結界を張る。

「客人はジルベール侯爵だったか……」

 掠れた声で言うラインハルトに、水を飲ませてエレンは侯爵の報告を全て伝える。

「彼も私がそろそろ死にそうだと焦ってきたな」

「笑う力さえないお方が仰っても、おかしくともなんともありません」

 自嘲すら浮かべられないラインハルトに、エレンは無表情で淡々と返す。

「手厳しいな。みんな君のように素直に物を言ってくれればいいんだが。しかし、リリー・アクスが神器と関わりがありそうな可能性は高まったか。始末できなかったも結果的によかったな」

 ラインハルトがゆるりと思考を巡らすのを、見下ろしてエレンはぼんやり思う。

 こんな状態でひとりの孤児の身元を割り出すなどできるのだろうか。

「十七年も前となると、やはり手がかりも難しいですね」

「まあ、仕方ない。彼女が入れられていた籠や産着も処分されているからな。特に高価なものでもなかった。兎の毛織りと蔓籠、ではな。ただこのあたりで兎の毛織りは珍しいが……『玉』の社周辺の猟師の調べもまだついていなかったな」

 野兎の毛を使った毛織りは一部地域の猟師が作る。それが市に出回ることもあるが、あまり多くはなく大抵猟師自身が使う。

 以前からそこからたどろうとしていたわけだが、そう簡単にはいかなかった。

「ええ。ハイゼンベルク領内だけでも多いですし、あまり人里に出ずに暮らす者もいますので」

 十七年前の冬頃に行方をくらましただけでは、手がかりが少なすぎる。虱潰しにするにしても人手は足りていないのだ。神器の不明は明かすわけにはいかず、理由もなく孤児ひとりの身元を探すのに人手を割くわけにもいかない。

 十七年もすれば人の記憶も風化する。

 ますます絶望的だ。

「不可能だと思っているだろう」

 考えを読んだのかラインハルトが言う。

「ええ。もし見つかれば奇蹟でしょう。そしてさらに神器が見つかるとなれば、難しいかと」

「やめるか?」

 ラインハルトが問いかけてくるのに、エレンはまた、自分はなぜこんなことを必死になってやっているのだろうと考えてしまう。

「……いいえ。最後までやり通します。皇太子殿下、クラウス様の件はいかがいたしましょう」

「ああ。状況に任せればいい。彼にも何を選択するかは自由だと伝えておいてくれ」

 そしてラインハルトはエレンを見上げる。

「自由なのは君もだ。見捨てたいなら好きにすればいい」

「見捨てられたいのですか?」

 捨て鉢な言い方がやけに癇に障ってつい口調が傲慢になってしまう。

「……見捨てられたくないな。私は誰にも必要とされずひとりで死んでいくのは嫌だ」

 まるで駄々をこねる子供のようだ。

 エレンは衝動的に痩せた手へと伸ばしかけた自分の手を膝に置いて硬く握る。彼が欲しいのは一時の慰めなどではないだろう。

「最後まで奇蹟に縋って足掻いて生き抜けば誰もがあなたを良き君主とするでしょう」

「君は本当に厳しいな。……私がもし死ぬことがあれば、私を見限った全てがどうなるか代わりに見届けてくれるか」

 ラインハルトが苦笑する。エレンはええ、と静かにうなずいて、彼が眠たげなのに気付く。

「もしもの時には。申し訳ありません、ご無理をさせてしまっていました」

 ラインハルトは静かにいいと答えてまた眠りについた。

 遺言めいた言葉を聞いた後のせいか、彼がこのまま目覚めなくなるのではと一瞬背筋が冷えた。

 自分は見届けたいのかもしれない。

 王宮作法もまともに知らない田舎娘に死にたくないと、臆面もなく吐き出した皇太子に奇蹟が起こるのか。

 自分も結局諦めきれない人間のひとりなのか。

 エレンはそのまま次に皇太子が目覚めるまで、気持ちを不安定に揺らしながら過ごしたのだった。


***


 その夜、クラウスは王宮の書庫へと呼びつけられていた。

「で、今度はどんなご命令かな。皇太子殿下はまださすがに元気じゃないか」

 いつもの書棚の側で待機しているエレンを見つけて、クラウスは彼女に問いかける。

「ええ。侍医の見立てではあと数日もすればよくなるだろうとのことです」

「なかなかしぶといな。俺が呼ばれたんだから、命令できるぐらいにはなったってことか」

「……あまり呑気にされない方がよろしいですよ。あなたが逆臣だという噂が立ち始めています」

 今日はいつになく機嫌が悪そうなエレンの言葉を、クラウスはさして驚きもせず受け止める。

 こういう日がいつか来ることは、ディックハウト側へ潜入した時にとっくに覚悟している。

「で、俺は処刑? ならいちいち言わずにさっさと首をはねるな」

 ディックハウト信奉者の公開処刑を思い返しながら、クラウスは首を傾げる。

「離叛するか、あるいは皇太子殿下のご命令で内偵していたことを釈明するかお好きな方をお選び下さい」

「好きな方って、離叛しなきゃ俺は逃げ場がなくなるだろ。きついなあ」

 このまま勝ち目のないハイゼンベルクに残っていても仕方がない。選択肢としては、さっさと逃げ出すのがいい選択だろう。

「では、出て行きますか?」

「んー、あー、もうちょっと様子見て考えてみる。エレンはどうするんだ? 実家はハイゼンベルク寄りだっけ?」

「父はそうですが、次に家を継ぐ叔父はディックハウトに寝返った方がと考えています」

 この時勢ならば当然の流れだろう。

 忠義心で残る者は少なく、あとは自分の選択の過ちを認められない者、それからここからの巻き返しを本気で夢見てのし上がろうとする者ぐらいだ。

「エレンも皇太子殿下が死んだらお役ご免だし、その頃合か」

「…………不謹慎です」

 うつむいてエレンが静かに窘めてくる。

「はい。はい。話はそれだけか?」

「ジルベール侯爵がリリー・アクスを養女に迎えたいと仰っていました。私の方で止めさせましたが。あくまでバルド殿下も補佐官であるという立場を自覚し、振る舞うように気をつけさせて下さい」

 エレンの毒を含んだ忠告に、クラウスは苦笑する。

「言っても最初からあのふたりだし。基本的に人前に立ってる時は大人しいだろ。まあ、誰が見てもバルドの方がリリーに頼り切りだしな」

 面倒くさそうながらも、リリーの方は公務では静かだ。しかしバルドがかまいたがるので、いつもの調子が出るのだろう。

 誰が見ても仲睦まじく仔猫と大猫がじゃれているとしか見えない。

「なんでリリーがいいんだろうなあ」

 誰にも何にも執着せず戦うことしか興味がなかったバルドが、初めて興味を示した人間がリリーだった。

 その内飽きるか、リリーから離れていくかのどちらかになると思えば、まだ一緒にいる。

「似たもの同士だからでしょう。揃って自分の立場が分かっておられない」

 エレンの言葉はちくちくとしていて、クラウスは暗がりの中でいつも通り表情の薄い彼女の顔を覗き込む。

「エレンはリリーが嫌いだよな」

「……そういうわけではありません」

 いつもはっきりきっぱりしている彼女にしては珍しく言葉に迷いがあった。

「というより羨ましい? 自分と違って身分も立場も考えずに好きにしてるリリーがさ」

「いいえ。ただ皇太子殿下のお手を煩わせることになるのが気がかりなだけです。あなたこそ、いつまでも留まっているのは彼女のせいではないのですか?」

「ああ。そうだな。リリーのことは気になるよ。あのバルドのお気に入りだし」

 クラウスがあっさり肯定してみせると、エレンは眉をひそめる。

「あなたはバルド殿下のことがお嫌いですね」

「見てて苛々するだけだよ」

 自分と似ているのに、自分とは真逆で不満などない振りをしている姿はあまり心地いい物ではない。

「……出て行くなら事後処理に手間取らないようにお願いします」

 エレンが出奔を確信したのか忠告を投げて退出する。

「リリーのことは気になるけど、ここにいるほどの理由でもないと思うけどな」

 ひとりになったクラウスは書棚にもたれてぼやく。

 自分も子供の頃からバルドと同じで、なにひとつ欲しいものが見つけられず、執着を覚える程の感情が持てないでいた。

 自分と似たバルドが関心を持った玩具を、貸してと言いつつ取り上げてみたりはよくしていたが、借りたときにはふたりともその玩具には興味がなくなっていた。

 何にも執着できないから、誰にも求められない。

 そのことに気付いていないバルドが先に執着できるものを見つけてしまった。

 奪い取ってみるふりをして見せてからは、自分とリリーがふたりきりになるのを嫌がるようになった。

(手に入ったら、俺はリリーのこと興味がなくなるのかな)

 その答が出なければ、出ることもなさそうだから余計に気になってしまうだけのことだ。

「やっぱり、ここでハイゼンベルクと心中するほどでもないよな」

 かといってディックハウト側にも居場所はないのだけれど。

 クラウスはため息をひとつついて、一番居心地が悪い実家に帰るかそれとも今日も兵舎の私室に戻るか考えた末、後者を選んだのだった。



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