兵舎の一画、ほこり臭く暗い倉庫にバルドはいた。部屋の角の棚と壁の狭い隙間に、愛剣を抱きかかえみっしりと巨体を押し込むようにして横になってだ。

「眠れない……」

 ぽつりとバルドは零す。

 この体勢が落ち着かないせいではない。むしろこのほどよい狭苦しさと暗さが一番気持ちが落ち着く格好なのだ。普段なら十を数えない内に深い眠りにつける。

 なのに今日はもう数えるのが面倒になるほど数字を数えていても眠れない。

「結婚は嫌。それは我が儘」

 ハイゼンベルクの先行きが暗いものになっていく中、兄のラインハルトは必死に状況が悪化するきっかけの失策を取った宰相を抑え込み、自ら病弱な体に鞭打ちながら少しでも道を切り開こうとしている。

 そんな賢く優しい兄はずっと自分によくしてくれた。

 高い魔力を抑えきれず度々問題を起こし、使用人はもちろん父からも怯えて遠ざけられていた自分を唯一恐れなかった。そしてたくさんの知識を与えてくれた。

 皇族として大事な知識や心構え。難しいがどれも大事なことだと、丁寧にかみ砕いて教えてくれた。

 体が弱いので頻繁には会えなかったけれど、幼い頃のいい思い出は全て兄との時間に凝縮されている。

「兄上が必要と言うなら必要」

 ラインハルトの言うことには従わなければならない。よく分かっているが、どうしてもこれだけは難しい。

 それと同時に、兄の言うことを聞けない自分が腹立たしい。

「リー……」

 バルドは呼び慣れたの少女の名前をつぶやく。

 全ての我が儘はリリーに集約してしまう。

 初めて兄に嘘をついたのは、士官学校でリリーと仲良くするのをやめろと言われた時だ。

 なにひとつ皇家の利益にならない人間だから駄目なのだというのは、理解できた。しかしどうしてもリリーに会いたくて彼女のことを話すのをやめ、もう一緒にいないと嘘を言った。

 だがすぐにばれてしまい、兄をひどく落胆させた。

 告げ口をしたのは最初クラウスかと思ったが、さして自分に関心がなさそうな他の生徒だった。あれから監視されている気がして、生徒も教官も苦手になった。

 ラインハルトに自分から初めて頼みごとをしたのも、補佐官はリリーがいいと願い出た時だ。兄はしぶったものの、最終的には認めてくれた。

「兄上とリー、どちらも大事」

 そのはずだ。

 そのはずなのに、いつからか兄と一緒にいるより、リリーと一緒にいる方が居心地がいい。

 臣民のために兄のためにと、将軍として弟として時にそう口にして戦に臨まねばならないが、本当はそんなことよりも戦うことそのものが好きなだけだ。

 戦場でリリーが深緑の瞳をきらきらと輝かせて微笑みかけてくるとき開放感を覚える。

 ひたすら戦闘に興じることを許された気になるのだ。

 ありのままの自分を否定せず、無理に理解するわけでもなく唯一の同胞として受け入れてくれていると感じる。

 だから一緒にいるのは居心地がいい。

 兄を困らせて失望させてもリリーと一緒にいることを考えるほどにだ。

「結婚とリーは関係ない」

 結婚したからといってリリーと一緒にいられないわけでもない。

 婚姻というのは政治のためと、血を残すための皇族としての義務であり、それ以外のなにものでもない。リリーと自分が一緒にいることには全く関係ないことだ。

 しかし、漠然とした不安が胸に広がっていって、嫌で嫌で仕方なくなってくる。

 このままハイゼンベルクが戦に勝てる見込みは薄い。一時の臣民の気晴らしのために道連れを増やすだけならしない方が誰にとってもよいことだ。

「だがまだ後何度もしなければならない……」

 兄には状況に応じて何人か娶るよう言われてもいる。血を残すことに関してはこの戦況から考えると無意味だ。妻が多ければ子が増えるわけでもない。結局、父の妻達の中でも子を成したのは、自分を産んで一年足らずで没した母だけだった。

 兄が言うには政治的に必要となることが主らしい。

 やはりそれは道連れを無為に増やすとしか思えないが、ラインハルトがそうするというなら正しいことで従うより他はない。

 バルドはそこまで考えると、また兄に反発している自分に気付いてもやもやとする。考えても苛立ちが募るばかりで眠れそうになく、上体を起こして体についた埃を軽く払った。

「……仕事」

 将軍としての職務もいくらかある。頭を使うことは手応えがなくて嫌いだが、つまらない書類仕事へと苛立ちの方向を変えてしまうのもひとつの手かもしれない。

 そう思っていると倉庫の扉が開かれる。入ってきたのはリリーで、目を丸くして自分を見下ろしていた。

「寝てなかったの?」

「眠れなかった」

「珍しいわね。ふて寝してるかと思ったのに。叩き起こす手間が省けてよかった、っと」

 バルドはリリーの腰を引き寄せて、自分の膝の上に座らせる。

 ふわりと鼻先に甘い香りがそよぐ。リリーが小さな子供から自分の知らない何か別のものに変わる頃にたち上り始めたこの香気は不思議な引力を持っていた。

 リリーがとても芳醇な果実に思えて、口をつけたくなる。

 欲求のままにこめかみに唇をあてて、柔らかい金茶の髪を指先に絡めて感触を楽しむ。 人に触られるのも触るのも好きではないが、リリーは特別だった。

 結婚に気が進まない理由もそれだ。血を残すには相手に触れなければならないのに、たまらなく嫌だ。

 かといって、政治的価値のないリリーと結婚はできないし、する気もなかった。

 何にも縛られることのないリリーを無理にこのハイゼンベルクに繋ぎ止めることもしたくない。今のままが一番いい。

「……ねえ、バルド、唇は駄目なんだって」

 一番美味しい唇に触れる前に、いつもと違って静かなリリーがそう言った。

「なぜ」

「面倒なことになるから。あたしらに子供がいなくても、駄目なものは駄目らしいわ」

「リーとは結婚していない。当然」

 子を成す行為は結婚をした後に必然的にするものだと兄から教わっている。何を当たり前のことを言い出すのかとバルドは困惑する。

「そうよね。でも、面倒なこと、バルドも嫌いでしょ。ほら、もう仕事するわよ」

 無論、面倒事は嫌いだがリリーに口づけられるのなら、我慢できるかもしれない。だがリリーはそうではないらしい。

 バルドは拗ねて本気でふて寝したくなったが、結局リリーに急かされて仕方なく仕事に戻ることにしたのだった。


***


 翌日、とりあえずバルドの気が向いたらしく兵舎を訪ねてきたカルラと会ったはいいが、半刻も保たなかった。

 会話らしい会話もなく、カルラがひたすら恐縮して怯えるばかりになってしまい、そこで切り上げることにしたのだ。

「無理を言ってごめんなさい」

 そして、昨日に続いて早々に帰ると父親にがっかりされるというので、リリーは自分の部屋に案内することにしたのだ。

「仲介が役に立たなかったせいもあるし」

 リリーは軍内の私室であり住処でもある部屋の扉をあける。

 寝室と書斎の二間続きで、ひとりで住むにはほどよい広さである。

 部屋に入ってすぐの書斎は備え付けの簡素な調度品しかなく殺風景だ。置かれている長椅子と長卓も質はいいが、年頃の少女の部屋のものとしては無骨すぎる。

 そんな部屋の中で、固い長椅子に座る華やかなドレス姿のカルラは妙に浮いていた。

 リリーは腰の双剣を外して所定の位置に置き、着ていたローブも脱いで壁に掛ける。

 規定はないので、ローブの下は簡素なシャツに腿の半分までの短い丈の下衣、それに膝上までの編み上げの長靴と、中層から下層によく見られる格好をしている。

 ともすれば少年のようにも見られる出で立ちだが、さほど大きくはないもののしっかりと質量を確認できる胸の膨らみと、細い腰つきが十二分に年相応の色気を醸し出していた。

「そういう格好を見るのも久しぶりだわ」

 カルラが、落ち着きなくドレスの裾をいじっていた手を止めて微笑む。

「まさか外出もさせてもらえなかったの?」

「ええ。きちんとしたお披露目をするまではずっとお屋敷に籠もって、淑女らしくなるようにいろいろ教えられていたの。着替えも髪も侍女の方にしてもらうって、憧れてたけどいざとなるとつまらないわね。髪なんてあっという間にできちゃうけど、なんだか物足りなくて」

「ああ。自分でやらないとつまんないわよね。あたしも自分の髪をいじるのは好きだから分かるわ」

 皇都でいる間に髪型をいろいろ変えるのは、リリーにとって唯一の趣味のようなものだった。今日は右側にひとつにまとめて、若草色のリボンを一緒に編み込んだ三つ編みにしている。

「楽しいわよね。贅沢はできないけど自分でレースを編んでリボンにしたりとか、そのあたりに咲いてる花を差してみたりとか。そろそろ柘榴の花が咲くでしょ。わたし、あれが好きなんだけど、赤毛だから似合わなくて。リリーは金茶でいいわ。明るい色が似合うのよね」

「けど、かえって飾らないとすごく地味でつまんなくなるのよ。加減間違えると派手過ぎになるし…………あたしの話、してもしょうがないわよね」

 完全に話がバルドから逸れていくのに気付いて、リリーは言葉を止める。

「いいのよ。こうやって誰かと気兼ねなく話せるのも久しぶりだから楽しいわ」

 半年間の窮屈な暮らしから解放されてため込んだものを吐き出すカルラは、本当にどこにでもいる可愛らしい少女だ。

(あたしは、誰かとこういう話するのは初めてだな)

 バルドは髪型には興味もないし、バルド以外の友人もいないので妙に新鮮だった。

「リリー、やっぱり迷惑だったかしら?」

「ん、そんなことないわよ。……バルドともうちょっとどうにかできないか考えてて。んっと、ローブの新調していい? 昨日やるはずだったんだけど、忙しくてできなくて」

 馴れないことに少しまごつきながら、リリーは壁に掛けている真新しいローブを示す。

「ええ。ぜひ、見てみたいわ」

 思いの外カルラが興味津々といった様子でうなずいたので、リリーはローブの新調に取りかかることにした。

「最低三着はいるのよ。一着は儀礼用の新品、後二着は実戦で使う用。予備は必要だから、『剣』になるともう二、三着ぐらい大目に持ってる魔道士が多いわ」

 リリーは真新しい漆黒のローブを膝に乗せて、ローブを裏返す。

「リリーの予備は一着だけ?」

「あたしは一回の出陣でローブがぼろぼろにはならないから足りるのって言いたいところだけど、一応将軍補佐だから他の『剣』よりは前に出ることが少ないの」

 とはいえ、将軍補佐官にしては前線にいることが多い。作戦を組むときはできるだけ多くの敵を相手取れる位置を貰っている。

「そう……痛くない?」

 リリーが短刀で自分の人差し指を切るのを見て、カルラが身を竦める。

「大して痛くないわよ」

 ローブの首元、両手首に位置する場所、足首、心臓の表と裏に当たる場所へと、切った指先から滴る血を染み込ませていく。

 それをカルラはじっと見つめていた。

「血が力となるのね。魔道士の血は神聖なもの」

 そうして彼女は赤く汚れたリリーの指先を見つめながら、感嘆と共にうっとりと緑玉の瞳を細める。

 ただ彼女の表情は、ローブに視線を落としていたリリーの視界には入らなかった。

「……そんな仰々しいもんじゃないわよ」

 魔道士の血脈の神聖性は、士官学校で最初に聞かされることだが、孤児のリリーにとってはどこか空々しいものだ。

「そうかしら。皇祖様からお恵みいただいたものを繋いでいるのだから、魔道士の血脈はとても神聖なものって教育係から聞いたわ。その血脈に生まれた以上は、血を繋いでいかなければならないと思うの。だから皇主様の血を残すお役目は、とても光栄なことだと思っているわ」

 顔を上げたリリーの視線の先にいるカルラは、本心からそう言っているらしかった。

「カルラにとって結婚は貴族としての義務?」

「ええ。家と家を繋いで、血を繋ぐ。とても大事なお役目よ」

 市井育ちにしてはずいぶんと割り切ったものの考えだと、リリーは違和感と感心を同時に覚える。

 しかしこれなら、結婚に対する考えがまるで同じバルドと上手くやれそうだ。

「ねえ、ローブを作るのってこれで終わり?」

「ん、うん。だいたい終わり。血が乾いて布に馴染むまで時間がかかるのよ」

 あれこれ考えているうちに手が止まっていたリリーは、自分の手元を見下ろす。あらかた作業は終わってしまっている。ここから先はそれぞれ違ったやり方で魔術による攻撃への防御制を高めるのだが、血が乾いてからだ。

「ひとまず、基本的なバルドとの付き合い方ね。馴れるまでは自分から距離を詰めようとしないこと。一方的に構ったりすると、苦手な人間か嫌いな人間に区分されるから。ある程度馴れてきたら、近くにいる限りは話しかけたりしても大丈夫。でも、離れたら追い駆けない」

 リリーはラインハルトに言われた通りバルドとの付き合い方を教える。

「気難しい方なのね」

 カルラが身構えるのに、そうねとリリーはうなずく。

「気難しいっていうか、変わり者よね。実際何考えてるかなんて、誰にも分からないわ。頭も悪いわけじゃないのよ。あれで算術が得意とか、嘘みたいでしょ」

 バルド本人は全く楽しくないらしいが、難解な問題でもするすると説いていた。すぐ終わるし、ペンを握っているだけでつまらないらしい。

「私は学がないからどれだけすごいかよく分からないけど、たぶんとてもすごいのね。ねえ、リリーはできた?」

「あたしも頭を使うのはあんまり好きじゃないわ。人並み程度よ」

 実際、学術面ではまんべんなく平均値だった。

「じゃあ、剣術は? リリーは将軍付きの補佐官だし、とても強いのでしょう。双剣を使う人って少ないけどそれだけ強いって聞いたわ」

 書斎机のすぐ側に置いてある双剣を見ながら、カルラが首を傾げる。

 確かに双剣使いは少ない。右と左で異なる属性の魔術を同時に放つのは、右手と左手で違う文字を同時に書くことに似ている。瞬時に魔術を二種放てるようになるには、剣一本で魔術を扱うよりよほど訓練が必要とされる。

 それに魔力も分散してしまうので、器用なことに加えて魔力が高くなければならない。

「……あたしの場合、体格で不利になることがあるから双剣にしたのよ。力で勝てない分は技でってところね」

 早くても半年はかかることをわずかひと月でやってのけたリリーは、不可解そうな教官達の顔を思い出す。

 なぜこれほどの力を持っていながら、出自がまるで分からないのか。

 誰もが疑問を覚え、ひとつの可能性を危惧して口を噤んでいた。

「リリーはきちんと自分の力の使い方を分かってるのね。ねえ、もっと士官学校の時のリリーの話を聞かせて」

「あたしのこと知っても、仕方ないでしょ」

 話題がどんどんバルドからずれていくのにリリーが戸惑うと、カルラが苦笑する。

「今も、これからも仲良くできそうな人ってリリーだけだから、リリーのことをもっと知りたくて。いけないわね」

「いけないことはないけど、退屈じゃない?」

 か弱そうかと思えば、興味があることには積極的なカルラは、退屈じゃないと熱心に自分を見つめてくる。

 あまり人に親しみを向けられることのないリリーは困惑しながらも、ぽつぽつと学生時代の話をすることになったのだった。


***


 日が傾き始める頃、リリーがカルラを迎えの馬車に乗せて一度執務室に戻ると、『杖』の統率官の壮年の男がいた。

 どうやらバルドに報告があるらしかった。

 カルラとの対談に疲れてまたお気に入りの場所に引きこもっているのかと訊ねると、統率官は難しい顔をする。

「いや。仕事はなさっているらしいが、近寄りがたい状態だったので」

「分かりました。伝えておきます」

 リリーはそれに面倒くさげに応えて、ローブを羽織り部屋を出る。バルドの執務室に近づいていけば、幾人かがちょうどよかったと声をかけてくる。

 軍に入っても、士官学校と変わらない。

 将軍に用あるなら補佐官に。それ以外では声をかけてくる者はいない。

 士官学校と違い市井出身の魔道士も多くいるものの、親しげに声をかけてくることもなかった。

 卒業と同時に将軍補佐と位階だけは高い地位につけられて、貴族連中からは疎まれ、高位貴族の隠し子疑惑もつきまとって市井出自の者からも同列に扱われない。

 あげくにバルドがよく隣にいるものだから、なおさら遠巻きにされる。

 無駄に喧嘩を売られることがない分、士官学校の頃より煩わしくないだけましではある。

(あたしから親しくしようとしないせいもあるけど)

 いつ死に別れるかも、裏切られるかもしれないのに、繋がりを持とうという気にもなれなかった。

 実際、戦地に送り出した部隊全員が無事に帰って来ることは少ない。負傷して退役を余儀なくされる者や、骸すら戻らず書類で死亡とだけ書かれるだけということもままある。

 将軍補佐である以上、死傷者の数など公には包み隠される負の情報も否応なしに入ってくる。

 入隊年齢の下限も去年、成人である十五歳から十三歳へ引き下げられた。この頃下級魔道士に、子供の姿がぽつぽつ見えるようになってきている。

(……他の人間がうっすら気付いてることを、あたしはちゃんと知っちゃってるし)

 敗戦の状況、死傷者の増加、人員不足。どれも公表されていないものの、魔道士達は身をもって実感している。しかしはっきりしたことが分からずに、皆不安を抱えていた。

 上層部にとって他と馴れ合わない自分は、いらないことを喋らなくて都合がいいに違いない。

 リリーは廊下の奥へ突き進んでいって、ものものしい両開きの黒檀の扉を押し開く。広さの割に調度品の少ない部屋はもぬけの空だった。

 机の上にきちんと書き上げられたり判が押されたりしている書類が摘まれているのを確認し、壁際の長椅子に目を向ける。

「ねえ、いつも思うんだけどせめて椅子で寝ない? あんた皇子様で将軍なんだから」

 長椅子の後ろを覗き込むと、案の条、壁と長椅子に挟まれてバルドが横になっていた。一版のお気に入りは倉庫だが、二番目の寝場所としてわざわざこの位置に彼は長椅子を置いているのだ。

「ここがいい」

 一応は起きているものの、ぼやけた声でバルドが返してくる。

 高すぎる魔力を自分の内側に抑え込むことの、無意識下の代替行為が習慣化してしまったのではと言っていたのはラインハルトだったか。

「バルド、明日はもっとカルラと一緒にいるのよ」

 リリーは寝床に入り込んでバルドの腹の上に腰掛ける。

「……気が向いたら」

「そんなこと言って今日もさっさと切り上げたじゃない。カルラはちゃんと皇妃としての役目も心得てて、少なくともあんたが苦手な類の子じゃないわよ。何が気に入らないのよ」

 カルラと色々話してみれば世間知らずの箱入りお嬢様というわけでもなく、冷静で控えるべき所は控えるだけの器用さもある。

 市井育ちだけあって、ある程度世慣れしていてバルドの正室にはうってつけに思えた。

「…………あまり美味しそうに見えなかった」

「どういう理由よ、それ。食わず嫌いしないの」

 意味が分からないとリリーはバルドの頬を軽くつねると、手を掴まれて首筋にバルドの顔が寄ってくる。

 やられる前にやりかえせと筋張った彼の太い首筋を甘噛みしてやる。

「……っ!! それはなしって前に言ったでしょ!」

 しかし、反撃とばかりに弱点の耳の後ろを指先でくすぐられて、リリーは口を離す。

 仕返しに体重をかけてやるが、分厚い筋肉はリリーの体を軽々と受け止めてしまう。

「もう、あんた弱点なさすぎるのよ」

 悔し紛れにリリーはバルドの脇腹をくすぐってみるが、効果はまるでなく逆にやりかえされてしまってふくれっ面すら維持できない。

「っ、大体、真面目にっ、あたしは、話、してたのに! 分かった、降参だってば」

 怒ってみるものの笑い声混じりではまるで様にならない。負けを認めるとバルドがやっとくすぐるのをやめて、リリーは笑いすぎて目尻に浮かんだ涙をぬぐう。

 バルドの方はほとんど表情は動いていないが、勝ったことに満足げで楽しそうだ。

 こんなくだらないことで勝ち誇るバルドがおかしくて、また笑い出しそうになったリリーは頬を緩める。

「……なあ、お前らさ『節度』って言葉知ってるか?」

 ふと頭の上からクラウスの呆れた声が降ってきて笑顔を引っ込める。

「別に仕事放り出して遊んでるわけじゃないもの」

「ああ、そうなるのか」

 クラウスが微妙そうな顔でそうつぶやく。リリーは首を傾げつつ寝床から出る。

「用件」

 リリーが長椅子に腰をかけると、バルドがその隣に腰を下ろしてクラウスに言う。

「仕事してから持ってきた。ほら、ちゃんとやってきたぞ」

 さらにクラウスがリリーの隣に腰を下ろして書類を渡してくる。

「ああ。ちゃんとやったのね。それはいいんだけど、全員こっちに座ったら狭いじゃない」

 男ふたりに挟まれて窮屈なリリーが向かいの席が空いているのを示す。

 ぎちぎちではなくそれなりに間隔があるとはいえ、やはり成人男子の間というのは気分として狭苦しい。

「もう座ったし、リリーが動けば?」

「面倒くさい。っていうか、あんたバルドとふたりで並びたい?」

「それは嫌だ。バルドは動か……ないよな」

 バルドがリリーとクラウスの視線に、無言で首を縦に振る。

 リリーはクラウスから渡された『剣』の魔道士の訓練報告や、ここひと月の入退役の記録を斜め読みする。

 戦闘訓練や実戦ばかりが魔道士の職務でないとは知っていたとはいえ、まさかここまで書き物や読み物をしなければならないとは思わなかった。

 士官学校時代は教本以外、本など一冊も読まなかったので、二年経ってもまだこういうのは苦手だ。

「……『剣』も退役、増えたわね……あ、『杖』もできるだけ前に出すように演習の仕方を変えたいってさ」

 『杖』の統率官の伝言を伝えると、バルドが瞬きを一度する。

「次の軍議で具体案」

 即座の判断にうなずいて、リリーは他に預かった連絡も告げた。

「なあ、普通に仕事してるけど、カルラ嬢のことはどうしたんだ?」

「あたしの士官学校時代の話を聞くだけ聞いて、楽しそうに帰って行ったわ」

 また明日も会えるのを楽しみにしていると、来た時の緊張は微塵も感じさせない晴れやかな笑顔でカルラは帰宅した。

「リリーと意思疎通できれば問題ないといえば問題ないよな。でも、バルド、さすがにリリーに夫婦の会話を取り持ってもらうのはどうかと思うぞ」

「会話は不要」

 幾分不機嫌そうにバルドが答える。

「いや、必要だろ。こっちの方もどうにかしないと駄目だな」

「どうにかって言ってもね。さすがに会話はなしじゃ寂しいかもしれないけど……」

 まともにバルドが他人と会話するというのもなかなか想像がつかない。

「リーは、寂しいと思うのか?」

「何が?」

「俺は言葉が少ない」

 確かにバルドは多くを喋らないものの、特に不自由もしていない。言わなくてもだいたい分かるし、これが自分達にとっての普通なのであまり考えたこともなかった。

 一緒にいる時は大抵はお互いひとりでいるよりふたりでいたい時で、特に会話をしないことも多い。

 言葉を交わすということは自分達にはそれほど重要でもない。

「あたしは不足はしてないわよ。喋りすぎるのって面倒であんまり好きじゃないし……」

「リリーはそうでも、カルラ嬢はそれじゃ駄目だと思うぞ。ああいう子は常に優しい言葉と、時々の贈り物。とにかく、見える形で分かりやすくかまってあげないとな」

 カルラが来た時に出迎えに一緒についてきていたクラウスが、バルドに言って聞かせる。

「贈り物……」

 なぜか興味を示したらしいバルドが唸る。

「バルドはその辺で拾ってきたものしか持って来ないんだから。気の利く侍女辺りに選ばせて、自分で渡すのが妥当だわ」

 時々、バルドは目についた花や野草、果実、はたまた小石をローブの袖にしまって持ってくる。一度驚いたのは野良の仔猫だったが、それは単に迷いこんできてどうしていいか分からなかったかららしい。

「嬉しくなかったか」

「あたしはよくても、他の人によっては駄目かも」

 とりあえず、親愛の証なのは分かるので自分は嫌な気分にはならないが。

「ならば、リーは何が嬉しい?」

「……あたしなら、ねえ。あんまり高価なものとか、残るものはそんなに欲しくないわね……うーん、あえて高価な物なら砂糖菓子がいいわ」

 蜂蜜を使った菓子なら口にする機会はまだあっても、島の南部のごく一部でしか作れない砂糖をふんだんに使った菓子となると庶民は無論、今は戦況の関係で貴族も滅多に口にできない。

 まさしく砂糖は食べられる宝石のようなものだ。

「砂糖菓子……」

「例えば、よ。例えば。いらないから。毎日身につけられる小物とか、宝石とか、花は花でも売り物として育てられた花とか、人によっていろいろじゃない?」

 皇子という立場上本当に持ってこられそうなので、リリーはバルドを牽制する。例をあげたものの、自分にはやはり小石や木の実の方が好ましく思えた。

「いろいろ」

 バルドが悩ましげに眉間に皺を寄せる。

「リリーの言う通り、バルドは人任せでよさそうだな。ところでおなか空かないか?」

 クラウスに言われてリリーは時計を見上げる。ちょうど夕餉の頃合だ。

「久しぶりに柔らかいパン食べたい。あと新鮮な魚のスープ」

「肉があればいい」

 リリーとバルドが食べたいものを言いつつ同時にクラウスを見る。

「……分かった、持ってくる。食堂の可愛い子に将軍と補佐官にいいように使われてる苦労人な俺を慰めてもらってくる」

 そしてクラウスが部屋を出て行ったので、リリーはクラウスの持ってきた書類をぱらぱらとめくる。

 穏やかな日常は表面上だけだと、紙切れに並ぶ文字が淡々と告げている。

 入隊してから僅か二年の間にどれだけの魔道士が軍から去っただろう。負傷、離叛、死亡、理由は様々だが確実にハイゼンベルクの戦力は削られていく。そうして、最も重要な問題は離叛者の増加だ。

 減るばかりのこちらと違ってディックハウトは戦力が増えている。

「ねえ、バルド。あんたはこの戦、負けたらどうする?」

 書類を眺めながら、リリーは何気なく訊ねる。

「敗戦はすなわちハイゼンベルク家の消滅」

「ああ。そうよね。ごめん、変なこと聞いたわ」

 なぜこんなことを聞いてしまったのかと思いながら、リリーは書類を机の上におく。いくらバルドが強くても、たったひとりでこの戦況をひっくり返すのは難しい。

「……リーは、どうする?」

「どうするもなにも、あたしは最後まで戦場にいると思うわ」

 最後まで。

 そうもう一度唇だけ動かしてリリーはバルドの横顔を見上げる。

 あとどれぐらいだろう。

 見送るのと見送られるのの、どちらがいいのだろうか。

 ふと湧いてきた先のことに胸の奥がざわざわとしてきて、リリーは目を閉じる。

 初陣の時ですら怯みはせず、全身に殺気を浴びて胸が沸き立った。普段の演習では満たされきれなかったものがそこにはあったのだ。

 勝利の快楽か、敗北の死か。

 二者択一の勝負は剣を振るうことに高揚を与えてくれる。そこが自分の居場所だと思えるほどに。

 戦場で終わるなら悪くない。戦が終われば生き甲斐も居場所もなくなる。

(じゃあ、あたしは何が恐い?)

 リリーは瞼を持ち上げる。いつの間にかバルドが三つ編みを揺らして遊んでいた。

「……おなかすいたわね」

「同意」

 自分の口元にバルドが手を持ってきて軽く噛むと、彼も耳の端を囓ってくる。

 ひとつ間違えたら互いを傷つける行為に緊張感はどこにもない。

 無心に、無防備に、何かも投げ出してじゃれあっていると知らずうちに心が安らでいく。

 リリーの胸に浮き上がってきていた憂鬱さも、いつの間にか奥底へと沈んでいた。

「こら、食事持ってきたから共食いするな」

 夕餉を運んできたクラウスが入ってきて、リリーとバルドは穏やかな時間を閉じて、お互いから目の前の食事へと興味を移した。


***


 夕餉も終わり、バルドが舟を漕ぎ始めたのでリリーは寝床へと彼を促し、自室へと戻ることにした。

「お前らさ、ああいう遊びも、やめといたほうがいいな」

 そしてクラウスと一緒に廊下に出ると、彼はそう言った。

「なんで?」

 リリーは急に何を言うのかと眉根を寄せる。

「やっぱりな、端から見てるとお互い噛んだりも、密着するのも髪に触るのもまずいと思うんだよな」

 つまるところ今までのじゃれ合いが全て、誤解を与えるということらしい。リリーは軽い衝撃を受けて目を瞬かせる。

「じゃあ、あたしもバルドもどうやって一緒に遊ぶの?」

 剣を合わせることはもちろん好きだが、他の遊びも好きなのにいきなり全部駄目と言われてリリーは不機嫌になってむくれる。

「演習するのと、一緒に話すぐらいなら普通の友人じゃないか?」

 リリーは普通の友人同士とはと考えてみる。

 しかしそ元々んなものはいなければ、他の人間の行動など見ていない。

 自分達は何をもって友人と称しているのかと考えてみると、クラウスが最初に、『バルドに友達ができたのか』と口にしたのだ。

「普通のって、あたしとバルドは友達、でしょ。あんたが言ったんじゃない。それに、そうじゃなかったらとっくに子供がいるわよ。口づけしても子供なんてできてないし」

「……ちょっと待て、リリー。なんか理屈おかしいぞっていうか、接吻したら子供できるとか本気で言ってないよな」

「特別な場合だけでしょ」

 そんなことはもちろん知っていると、リリーは唇を尖らせる。でなければうっかり唇同士が触れただけで子供ができたら困るだろう。

「士官学校じゃ教えない、か。女友達……いないな。女親も当然いない。リリーが思ってる特別な場合ってなんだ」

「結婚して、子供を作るってお互い了解した時と、あとは結婚してなくても友達じゃないってお互い思ってたら、たまに子供ができるんでしょ……?」

 クラウスがいつになく深刻になっていくのに、リリーは怪訝な顔をする。これといって誰かから教わったことはないが、なんとなくでそういうものだろうと考えていた。

「リリーはもっと大人かと思ってたんだけど……バルドがある意味理性的でよかったな」

「何がよ。あたし、間違ってる?」

 今まで特に必要なことでもなかったし、自分の知識が正しいかどうかなど気にしたことはなかった。

「……中途半端に理解してるから逆に質が悪いというかなんというか。当人同士が嫌がってないからって一回だけ忠告しといて、三年も放置しといた俺も悪かったか」

「ぐだぐだ言ってないで間違ってるのか、間違ってないのかだけ教えて」

「半分あってる。まともに身内や他人と触れ合ってないからお互い加減ができてないだけだと思ってたんだけどなあ……」

 リリーはクラウスの言うことに、『普通』がよく分からないのはそのせいもあるかもしれないとうつむく。

 孤児なので無論、身内などいない。物心ついてから誰かに抱きしめてもらったり、じゃれあったりした覚えがなかった。同年代の子供からも距離を置かれ、人恋しがる性格でもないので自分からも近づかずにいた。

 バルドも似たようなものだ。母は物心つく前に没し、父親ともほとんど顔は合わせず、王宮ではたまに兄と話すぐらいで、使用人達にすらろくに話しかけられず、ひとりきりだったらしい。

 それにふたりとも、人に触るのも触られるのも好きではなかったし、他人の挙動などまるで興味がなかった。

 だから『普通』というのを知らない。

 触れ合うことの物珍しさと、今まで知らなかった安心感に、気の赴くままに甘噛みしあってじゃれてみたり、背中や肩をくっつけて微睡んだりした。

 お互い自分や相手が嫌がらないことを手探りしながら、ふたりにとっての『普通』をこの七年で築いてきたのだ。

「……で、どこが間違ってるのよ」

 リリーはそれより自分の過ちがなんだったのか、クラウスをせっつく。

「具体的なことはそのうち貴族の子女用の教本を持ってくるから、ちゃんとそれ読んどこうな」

 急に年上ぶったクラウスの物言いは子供扱いされているようで面白くないが、嘘を吐いているわけでもなさそうだった。

「バルドと遊ぶの、本当に全部駄目なのよね」

 ただでさえ厄介な縁談だ。カルラにこれ以上余計な不安を抱かせるわけにもいかない。 リリーはクラウスの言う通りにすることにした。しかし、何か重たい違和感が胸にあって、彼女は訝しげに眉を顰めたのだった。


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