――うん。ありがとう。

 初めてリリーに贈り物をしたのは、確かぐみの実だったかとバルドは思い出す。

 出会ってすぐの頃、赤く艶々と熟した実が視界に入った。

 女の子というのはきらきらした綺麗な物と、甘い物が好きな生き物らしい。ということはこの綺麗で甘い実はリリーが喜ぶかもしれないと思い持って行ってみた。

 リリーの反応は喜んでいるか、微妙だった。

 しかしふたりで甘く熟したのをあたり、渋みが残りすぎていたり酸っぱすぎたりするのをはずれ、としてどちらが多くあたりを引き当てるかで楽しんだ覚えがある。

 今年も持って行こうかと、バルドは薄ぼんやりとした景色の中でぐみの木を探すが見つからなくて、歩くうちにさらに景色が暗くなってくる。

「朝……」

 ふっと目を開いてバルドはカーテンの隙間から漏れている光に目を細める。そしてごそごそと寝床から出て、長椅子に放り出していたローブに袖を通す。

 王宮に部屋はあるものの、執務室の寝心地のよさに戻ることは少ない。

 バルドは朝食などが用意された続きの間に行って簡単に身支度をすませながら、なぜあんな昔の夢を見たのか考える。

 昨日、リリーとクラウスと贈り物について話したからだろうか。

「おはよう。髪、ぐちゃぐちゃよ」

 考えながら廊下に出るとリリーが寝癖のついたバルドの頭を見る。

「忘れていた。夢を見た」

 バルドはリリーの後ろ髪上半分だけを纏めている、紺色のレースのリボンが揺れるのを目で追いながら答える。

 戦場にいる時の髪を高く結い上げた髪型が一番遊びやすくて好きなのに、彼女は皇都にいるといろいろと髪型を変えたがる。

「夢?」

「ぐみの木を探していた」

「……ああ、懐かしいわね。そういえば、バルドに最初に貰ったのってぐみの実だったわ」

 リリーがすぐに思い出してくれて、なんとなしに嬉しくなる。

「ぐみの木は見つからなかった」

「そうなの。学校の近くの木もなくなっちゃったし、そこは現実と一緒ね」

「なくなった?」

 そういえばいつの間にか持って行かなくなったのは、見えなくなったからだ。

「そう。えっと、三年、もう四年前だっけ。虫にやられて枯れちゃったじゃない」

「そんなにも前」

 気付かないうちに、なくなってしまっていたものに寂しさを覚える。それどころか記憶の中からも消えてしまっていた。

 そんなことを考えながらリリーを見ていると、急激に胸を押し潰されるような圧迫感に襲われる。

 衝動的にリリーの腕を掴み取り、彼女の瞳に自分が映っているのを見て少し楽になる。

 それでも何か落ち着かなくて抱きすくめる。柔らかくて甘い匂いがして、平静になれる。だけれど、今度は離すのが嫌になってきてリリーの首の辺りを噛む。

「ちょっと、バルド、どうしたの? まだ寝惚けてるの?」

「……不明」

 リリーがやり返してこない時は嫌がっている時なので不本意ながら腕を解くと、彼女は困り顔でいた。

「ねえ、しばらくこういうのなしにしよう」

「なし?」

「そう。しばらくお互いに触るの禁止。ほら、おなかがすごく空いてるとなんでも美味しそうに思えるじゃない。それと同じで、カルラのことも美味しそうに見えてくるはずよ」

 リリーの提案にバルドは疑念しか抱けなかった。。

 確かに空腹時は普段、特に好物でもないものにも食欲は湧く。しかしこれは空腹感を得るのでなく、好物を我慢するということになる気がする。

 目の前に一番美味しいものがあるのに、わざわざ他に目が向くだろうか。

「無意味」

 結論だけ口にすると、リリーがむっと頬を膨らませる。

「とにかく、試すだけ試してみるの」

 ほんの少しの間だけなら仕方ないと、バルドは素直に言うことをきくことにする。そのうちリリーの方から、いつものようにじゃれついてくるかもしれない。

 あとはこれといって話すこともないので、ふたりは無言で目的地まで進む。お互い一緒にいたい時というのは、話をしたい時というわけでもないので沈黙はごく普通のことだった。

 大抵言葉を交わしている時間よりも、沈黙の方が長い。

「バルド、リリー、よくない知らせらしいぞ」

 今日は珍しく軍議の場に遅れずにいるクラウスが書簡を一通持ってきていた。

 封蝋の色は黒。

 公にできないほど最悪ではなく、かといって良いとはけして言えない知らせの証だ。

 リリーが書簡を開いて重々しいため息をついた。


***


「マールベック卿が離叛を表明したわ……」

 軍議が始まり、リリーは淡々とそれを報告する。将軍と補佐、三人の統率官が詰める小部屋の空気が一気に澱む。

 マールベック卿は北部の護りの要となるゼランシア砦を居城としている領主である。

 彼がハイゼンベルクの命で兵を動かすことも砦となることもないと表明した。以前から動向が危ぶまれていたが、ついにきてしまった。

 情勢の悪化の現状以上に思うところがあり、雷軍の面々の表情は沈痛だ。

「フリーダさん、どうなるんだろうな。というか、どうなってるのか」

 誰もが口を重くしていたことを、クラウスが話題にする。離叛が危ぶまれていたマールベック家へ昨年、クラウスの前任であった『剣』の統率官の女性が嫁いでいる。

 ハイゼンベルク方へ繋ぎ止めるための政略結婚であったが、無意味になってしまったらしい。

「……それに関しては報告はない」

 バルドがつけ加えて、クラウス以外の統率官がますます気落ちした顔を見せる。

「近いうちに戦になるかもしれないってことによね……」

 ここ数ヶ月小競り合いが続いて余力が残っておらず、取り戻すにしてもまだ動けない。こちらからも交渉はまだするのだろうが、最終的には派手な戦になりそうだ。

(誰がどうなるかなんて、本当に分からないわね)

 ほんの一年ほどの間だが、彼女とは同じ双剣使いで立場も歳も近く、軍内では多く言葉を交わした。そんな相手が敵に回るかもしれない。

 驚きや寂しさもなく、こんなものだと漠然とリリーは現状を受け止めていた。

「これから暑くなるし、北は涼しそうだからいいな。まあ、行かないですむのがいいけど」

 クラウスが張り詰めていた緊張感を断ち切って、七つ以上年上の統率官ふたりに静かに睨まれる。

 双方、皇子と宰相家の次男の子守をさせられて内心うんざりしていることだろう。

 おかげで演習以外はさしてやる気のないリリーだが、与えられた仕事だけはこなすので比較的まともだと思ってもらえている。

「行くか行かないか決めるのは上だし、心構えぐらいはしといてってことよね。今日も予定通り演習しとけばいいでしょ」

 リリーがバルドに同意を求めると、彼は首を縦に振った。

「俺は市場の視察」

「あたしも今日はそれにつきあうのよね……」

 リリーはせっかくの演習の時間が潰れるのに声を沈ませる。

 月に二度の視察はバルドと街の警邏にあたる憲兵部隊の魔道士が行くのだが、今日はカルラもそれについてくることになったのだ。

 いきなりふたりきりというわけにもいかず、リリーも同行することになった。

「なんだったら俺、代わりにいくけど」

 クラウスが挙手するのに他の統率官達が期待の目を向けてくるが、リリーは気づかないふりをする。

「あんたがカルラと話すだけになるでしょ。代わりはいらないし、一緒についてくるのも駄目」

「いても俺どうせ仕事しないのに」

「みんな思ってることをわざわざ自分で口にするんじゃないわよ、この駄眼鏡。黙って座ってるだけはできるわよね」

 口調をきつくしてねめつけると、クラウスは飄々とした様子で肩をすくめてみせた。

 まったくもってふざけた男だ。

「視察に行く」

 リリーが呆れているとバルドがすでに立ち上がって、次へと行動を移し始めていた。

「はい、はい。戦闘以外でこれだけは好きよね。カルラも一緒なのは忘れないでよ」

 どことなく楽しげだったバルドの足取りがやや鈍ってしまい、リリーは苦笑しながら彼の背を押す。

(こういうのも、やめておいた方がいいかな)

 そして自分の掌を見つめてリリーは止まる。

 おなかが空いたら云々は、ひとまずお互いこれまでの遊び控えるのをバルドに納得させるにはいい理由なはずだ。

 リリーは自分の考えにうなずいて、数歩先にいるバルドに追いついた。


***


「ごめん。馬車に乗れって言うの忘れてたわ……」

 軍舎の外で待っていたカルラと用意されていた二頭立ての馬車に乗り込んだリリーは、ひとつ空いた席にうなだれる。

 大きめの箱馬車が用意されているのに、リリーがカルラと話しているうちにバルドはひとりで馬に乗って行ってしまった。

「いいのよ、殿下には窮屈だろうし」

 今日はふんわりとした白いドレスを纏ったカルラが淡く微笑む。

 確かに大柄なバルドが一緒にいるのには、いくら大型の馬車でも手狭だ。それにバルドは狭いところは好きだが、他者がその空間にいることを嫌うので仕方ない。

 そして馬車は緩やかに螺旋状の街路を下っていく。軍区、上位、中位、下位のみっつの貴族区、と区分ごとに落とし格子の門が設けられている。白壁と灰色をした石畳の街並みの中で門だけが黒く、明確に境界を引いていた。

 夕刻までは格子が上げられている門を次々とくぐり、ちょうど商業区である中層あたりの門前で馬車が止まる。

 そこでは衛兵の魔道士に馬を預けて、バルドがつったっていた。

「もう、馬車が待ってるんだから乗りなさいよ。こら、バルド、ひとりで先に行かない!」

 話している途中で、バルドは上層の貴族の屋敷からの使いやら、下層の庶民やらでごった返している市場へ人をかき分けて進んで行ってしまった。人々が道を空けるし目立つので見失うことはないが、これではカルラがいる意味はない。

「懐かしいわ……」

 置いて行かれた当人であるカルラはさして気にも留めず、魚臭さが漂う辺りを見回している。

「そっか。来たことあるはずよね」

「ええ。魚の売り子を頼まれたり、編んだレースを買い取ってもらったりしに時々来ていたわ。殿下のこともお見かけしたことはあったのだけど……」

 カルラの視線の先のバルドは気ままに露天に並ぶ魚や、海とは反対側の平野の農地から運ばれてくる野菜や穀物を眺めている。ここから先に行けば、布や小物を扱う商店も多く見られる。

「皇太子殿下の命令よ。あの方は自分がしたいことはバルドにやらせているから」

 最後の方は声を潜めてリリーは言う。ラインハルトは王宮から一歩も出られない。この頃は自分の部屋から出ることもままならないことが多いらしい。

 宰相以外から王宮の外で起こっていることを知るにはバルドを使うしかない。

「ああ、カルラ、ちょっと急ぐわよ。殿下に追いつかないと」

 バルドとの距離がずいぶん空いていることに気づいて、リリーは歩幅を広げる。しかしカルラが靴とドレスのせいかもたついて遅れていて、引き返す。

「あ、ごめんなさい。まだまだ駄目ね」

 カルラが申し訳なさそうな顔をして言う。

「バルドが早過ぎるだけよ……嫌じゃなかったら」

 リリーはあたりを行く子供連れの姿をふと目に留めて、カルラに手を差し出す。

「ありがとう」

 微笑みと共に躊躇いなく手を握られてリリーはそろりとその手を握り返した。こういうことは慣れないが、嫌な感じはしない。

 ただ自分の手の中にある滑らかで柔らかい手は、薄い硝子みたいに脆く思えてどうにも心許ない。

 やたら丈夫なバルドにしかまともに触れたことがないので、乱暴に扱ってしまわないか気になる。

「痛かったら言って」

 リリーはそのままカルラの手を引いて、彼女が転ばないように気をつけながらバルドを追い駆けた。

「バルド、ひとりで行ったら意味ないでしょ。案内ぐらいしてよ」

 どうにか追いつくと、こんもりと盛られた枇杷の実の前で立ち止まっていたバルドがリリーを見下ろして黙りこむ。そしてすっと手を上げてリリーたちが来た方向を指差した。

「海産物。野菜。穀物。果物。肉。小物と布。陶器類」

 彼は次々と指で示して市の主な商品の振り分けを説明する

「…………案内ってそういう意味じゃなくてね」

「違うのか」

 バルドが不可解そうに首を傾げて、リリーはもうこれはこれで仕方ないと諦める。

「リリー……」

 リリーはカルラにまだ握っている手を引かれる。彼女は怯えと不安で縮こまっていた。

「大丈夫よ。怒ってるわけじゃないから。あ、ごめん。手、握りっぱなしだった」

 いつまでも握りったままでは子供の様でカルラも恥ずかしいだろう。

「リリーが嫌じゃなかったらこのままでいてくれる? 踵は低いけど履き慣れない靴で歩きにくくて……」

「それはかまわないわよ。あたし力加減下手だけど大丈夫?」

「大丈夫よ。そうだ。わたしが案内するわ。可愛い髪飾りも見たいんだけどいいかしら……」

 カルラが暇そうに立っているバルドをちらりと見つつ訊ねてくる。

「まあ、どうせ全部見回るから、問題ないわよ。あたしも見たい」

 ちょうど新しい物も欲しかったし、カルラの好みもバルドが把握出来るのでいいだろう。

 リリーを真ん中にして三人で並んで市を回ることにした。

 カルラがあれこれ楽しげにリリーに話して、それを横で聞いているバルドが興味を示す顔を見せると、リリーは詳しいことをカルラに訊ねた。

(なんか間違ってる気がするけど……まあいいか)

 少女ふたりが仲良く手を繋いで談笑している横で、凶悪な顔つきの男がぴったりと張り付いているのは相当奇妙な光景だが、リリーはさして気にしなかった。

「リリーはやっぱり赤も青も似合うわね。ほら、椿のバレッタ、すごく綺麗」

「でも、さすがにこれは普段使うには派手だわ。そうね、これぐらいの色味が好き。あ、こっちの赤ならカルラの髪にも、映えると思うけど」

 目当ての小間物屋にたどり着くと、もはやバルドは置物同然だった。

 カルラとリリーはリボンやバレッタなどの髪飾りを眺めてはあれがいい、これがいいと手に取ってはお気に入りのひとつを探す。

「……リー」

 不意に側に立っていたバルドに警戒心の込められた声で呼ばれ、リリーは表情を険しくする。バルドの手は剣の柄にすでにかかっていた。

 微かな魔力を感じて、リリーも身構える。

 そして唐突な突風と共に、空中からばらばらと紙が落ちてくる。

「……嫌ね、最近こういうの多いわ」

 拍子抜けしながら紙の一枚を手に取れば、そこには北の護りの要が失われたことや近々大がかりな戦があると書かれていた。結びには、正しいのはディックハウト。簒奪者のハイゼンベルクはいずれ罰を受けるとお決まりの文言があった。

 ここ最近多いディックハウト信奉者によるものだ。

「リリー、これ本当?」

 カルラがリリーに不安そうな視線を向けてくる。不安そうなのは彼女だけではない。

 周囲の人々の顔には暗い表情しかなかった。物価や税が上がって生活が逼迫する心配を顔に出している。

 そして本当にこの皇都に戦火が及ぶことはないのかという焦燥も覗く。

 バルドがいるので迂闊なことを喋るまいと誰もが口を閉ざし、あたりは薄気味悪いほど静まりかえっていた。

「とにかく気にしないで。バルド、戻るわよ」

「……近くに魔道士はいない」

 紙には目もくれていなかったバルドが、剣の柄に置いていた手を離す。彼の近くにはすでに市の警備に当たっている魔道士が集まってきている。上層と下層へ繋がるふたつの門は検閲の人員がくるまでの間格子を降ろし、人の流れを止めているらしかった。

「さすがにこの区間の外からだろうけど……こういう魔術の使い方ってみみっちくて嫌い。あたし達は上から他の憲兵部隊が降りてくるまで、門で待ってたほうがよさそうね」

 リリーはすうっと息を吸い込む。 

「ばら撒かれた紙は回収するから持ち帰らない! 全部、こっちに引き渡す、いいわね!」

 市の人々に命じて他の魔道士に回収させると、リリーはカルラの手を引いて道を引き返した。


***

 

 商業区のひとつ手前、下位の貴族の屋敷が密集する区間の路地でクラウスは抜いていた剣を収めた。

 後は上手いこと民衆の不安を煽る文書が広まるのを祈るばかりだ。

「俺、風魔術苦手なんだけどなあ」

 傍らにいる同じ年頃の青年に目を向ける。彼の髪はカルラと同じ色をしている。

 学生時代にリリーと一悶着起こしたという青年、カルラの二番目の兄に当たるダミアンだ。

「私よりはましでしょう。ご協力ありがとうございます」

 言葉は慇懃なダミアンの眼差しには疑心が見てとれて、クラウスは小さく笑う。

「信用してもらわなくてもいいけどね、俺は。元から誰にも信用ないし、こんな雑用はいくらでも受けるよ」

 ひとまず大人しく軍舎にいなかったことでリリーに叱られるのは間違いない。そもそもこんなことしているのがばれたら、ただではすまないだろうが。

「……リリー・アクスはまだどちらにつくか決めていないのですか」

「決めてない。リリーはさ、戦えればいいって質だからなあ。迂闊にちょっかい出して痛い目見た君なら分かるか」

 学生時代の若気の過ちを持ち出されて、ダミアンが表情を硬くする。

「本来ならあのような野蛮を引き入れたくはありません……」

 戦力としては魅力的ではあるとまで言わない強情さを面白がりながら、クラウスは薄曇りの空を見上げる。

 雨は降りそうにないが、肌寒い半端な天気だ。

「だけどその分、強い相手と戦えるってなったらこっちにつくだろうな。一番戦いたい相手はバルドだろうし」

「獣の相手は獣に、ですか」

「そうそう。この情勢だし引っ張り込もうと思えばできそうだ。カルラ嬢が頑張ってくれるんだろう」

「ええ。そうでなければあんな卑しい、妹かどうかすら怪しい女、我が伯爵家に招き入れたりはしません」

 ダミアンが苦々しく言う。

 美人の妹ができて、それが血の繋がっていないかもしれないとなればもっと喜べばいいのに。

 クラウスはそんなどうでもいいことを考えながら、あくびをひとつする。バルドではないが昼寝でもしたくなる。

 ダミアンが緊張感の欠ける態度を窘めるかの如く、眉間をきつく絞る。

「我々は正しき主君を得なければなりません。お忘れなく」

「うん。覚えてる。使い物にならない父上や兄上をだし抜いて、家も財も乗っ取って新しい皇主様の所でのんびり暮らすために頑張らないと」

 へらへらと笑って見せるとあからさまに嫌悪の目が向けられる。

「…………その暁には誇りと忠節もどうか手に入れられますように」

 最大限の嫌味を残してダミアンが踵を返した。この路地の側にあるディックハウト信奉者の貴族の屋敷に入るのだろう。

 自分は上から降りてくるだろう応援の魔道士に紛れて様子見だ。

「父上も、やらかしたもんだなあ」

 クラウスは父の失策を嘲笑する。

 ハイゼンベルクの貴族の魔道士は、家督を継がない嫡男以外がなることがほとんどだ。嫡男は魔道士として修練しつつも非常時以外は実戦には出ずに文官として王宮で政に携わり、それ以外は武官となって戦をする。

 昔は文武両道で家を盛り立てていたため、兄弟間で与えられる役目に格差を感じることはそれほどなかった。

 しかし下級魔道士の使い捨ての失策の余波がそこに及んだ。

「できのいい嫡男以外は使い捨て……そう考えてるからこんなことになるのに気がつかないんだ」

 皇都で安穏としている跡継ぎと違い、戦場でいつ命を落とすかも知れない状況で無意識にため込まれていた精神的な疲労や不満をディックハウトに突かれた。

 元より数の少ないディックハウトは戦場に出られる者は出る。皇祖より与えられ受け継いできた魔力を使うことを惜しまず、皇主を護るのが誇りであり、使命であるとしている。

 そんなディックハウトの在り方に心が傾くダミアンのような貴族の若者も増えつつある。

 貴族も平民もハイゼンベルクの現状にうんざりしているのだ。

「いらない奴は、どこに行ってもいらないと思うけどな」

 だから自分が欲しいものすら見つけられない。

 クラウスは下りてくる魔道士を待つのに、大通り沿いへと出て行く。自分がどこをほっつき歩いていても、いつもの勝手な行動としか見られない。

 そしてリリーが目くじらを立てるのだ。

(そういえば俺を真正面から叱るのって、リリーだけだよなあ)

 彼女に叱られるのはいつでも新鮮で、ことさらふざけた態度をとってしまう。

 クラウスは自分の子供っぽさに気づいて苦笑いしながら、見えてきた黒い魔道士の群れに潜り込む。

 楽しみなのはリリーがどんな反応を示すかだった。


***


 リリー達が市を抜けて閉じられた門に行くと、人集りができていた。

 それでもバルドが通るだけですっと道はできる。門前にリリーとバルドがたどり着くと、門兵のひとりである『杖』が念のため民衆との間に魔術で壁を作ってから、格子を上げた。

 門を抜けてリリーは先にカルラを馬車に乗せる。

「カルラ、このまま屋敷に戻る?」

 膝の上に手を置いてずっと表情を曇らせていたカルラが顔を上げ、リリーを真っ直ぐ見つめる。

「家に帰るより、リリーと一緒にいたい……のは我が儘よね」

「いいわよ。ここに残るのは憲兵部隊の仕事だし、あたしは兵舎にいると思うから、じゃあ、そこで待ってて」

 しばらくすると憲兵部隊がぞろぞろと降りてきた。その中にはクラウスの姿も見えて、リリーは眦を釣り上げる。

「ちょっと、なんであんたまでいるのよ。呼んでないでしょう」

「留守番に飽きたから来ちゃった」

 クラウスが小首を傾げて悪戯っぽく笑んだ。

「…………もういいわ。真面目にしろって言うのは時間の無駄だわ」

 リリーは深呼吸をひとつして気を鎮め、クラウスにディックハウト信奉者が撒いた紙を渡す。

「ああ。やけに情報が回るの早いね。そろそろ、カルラ嬢も自分の立場に気づいて落ち込んでるってところか。となると、ここでの俺の仕事は」

「しなくていい。カルラはしばらくあたしといることになったから」

 リリーはまったくとクラウスの言葉を遮って、意見を聞く前に却下する。

「演習…………」

 リリーの後ろで今日の午後の予定をバルドが不満そうにつぶやく。

「それはまた明日。あんただってこの件含めて皇太子殿下に報告あるでしょ」

「分かった」

 ラインハルトのことを出すとバルドは素直に退いて、袖口から枇杷を取り出し、ふたつリリーに手渡した。

「どうしたの、それ」

「貰った。だが、買った。兄上へ手土産。リーとカルラのも」

 どうやら眺めていたら店主が献上してきたものの、きちんと代金を払ったということらしい。

 リリーはバルドが差し出した枇杷を受け取り、一応はカルラの存在を忘れずにいたかと安心する。

「俺の分は?」

「ない」

「冷たいなあ……。俺はあんまり枇杷好きじゃないからいいけどさ」

 すげなくされたクラウスの文句など聞かずに背を翻し、バルドは自分の馬に乗る。

「王宮に行く」

 そして一言残してひとり丘の頂上へと向かって行った。

「皇都もいよいよ末期だな。こんなのがすぐに広まるなんてさ」

「箝口令敷いてたわけじゃないし、遅かれ早かれこうなってたわよ」

 離叛は以前から危ぶまれていたし、ディックハウト信奉者に事前に情報が伝わっていてもおかしくない。軍略すら漏れているのに、向こうが仕掛けたこちらの都合の悪い情報が握りつぶせるはずがないのだ。

「逃げるならできるだけ早いほうがよさそうだよな」

「好きにすればいいわ。あたしは止めないから。ほら、もう戻るわよ」

 いつものこととリリーは適当に返答をするが、クラウスの表情はいつになく真摯なものだった。

「本気で考えた方がいいと思うぞ。ここにいてもしょうがない」

「だけど、どこに行ったってあたしは戦うだけだもの。それ以外なんにもないんだから、ここにいようが、向こうに行こうが同じよ。じゃあ、あたしはカルラの所に行くわ」

 リリーは話を断ち切ってクラウスから離れる。

 しかしクラウスのここにいてもしょうがないという言葉が、やけに心に重くのしかかってくる。

「リリー、どうしたの、大変なことになってるの?」

 硬い表情のまま馬車に入るとカルラが不安そうにして、リリーはぎこちなく笑む。

「大したことじゃないわ。またクラウスが呼んでもないのに来たから。そうだ、枇杷食べる? バルドからよ」

「殿下から……」

 カルラが枇杷を受け取って、物珍しそうにしながらもやはりその表情は暗い。

「ねえリリー。リリーはずっとハイゼンベルクの味方、よね。遠いところの御領主様が裏切ったりした話を下町にいる頃から聞くことが多いから」

「下町でも結構噂になってるのね……。裏切るったってそう簡単にいかないし、そんな面倒くさいことしないわ。バルドとの結婚は不安?」

 カルラはうつむいて躊躇いがちに首を縦に振る。

「お父様はバルド殿下はお強いし、兵力もまだこちらが上で財政もそこまで逼迫してるわけじゃないから、すぐに巻き返せる、大丈夫だって仰っていたけど、もしもって思うと恐くて……」

 カルラは平民であれば敗戦と同時にディックハウトの民となるのは簡単だったところが、引き取られたことによって逃げ場を失おうとしていることに気づいていたらしい。

「仕方ないわよね。ただでさえ皇妃なんておっかないだろうし、そういうことも考えると嫌よね」

「でも、大切なお役目だから果たさないとって思うの。どんな状況だろうと皇妃になるなら覚悟はしているけど、ちょっとだけ恐くもなるわ……こういうこと、誰にも話せないのが、一番苦しいわ。リリーは戦場にいて逃げ出したいって思ったことない?」

「ないわよ」

 自分から進んで突撃するリリーは即答する。

「リリーは強くて羨ましいわ。きっとそれだけ皇主様への忠誠心も強いのね」

「言っておくけど、忠誠心なんてものはあたしにはないわ」

「……じゃあ、なんのためにリリーは戦ってるの? 魔道士はみんな皇主様のために戦ってるのでしょう」

 カルラが不思議そうに目を丸くする。

「戦いたいから、が理由じゃ駄目なのかしらね。口では大義名分かざしてたって、本当はただ戦いたいってだけで軍にいる人間もいると思うわよ」

「リリーは…………」

 カルラが目を伏せ、躊躇いがちに口を開く。

「人を殺したいの?」

「それこれと別よ。斬り結んでる間が楽しい。勝ったら気持ちいい。それだけ」

「じゃあ、戦えるならディックハウト方でもいいの?」

「極端に言えばそうね。でもわざわざ向こうに行く理由もないし」

 カルラはそうと何かを思案するように揺れる馬車の中で沈黙する。彼女の胸の内にはリリーへの失望や、嫌悪が渦巻いているのかもしれない。

(あたしがここにいる理由……)

 リリーはバルドに貰った枇杷に目を落として、掌の上で弄ぶ。カルラの膝の上には、まだ枇杷が乗っている。

「……枇杷、嫌い?」

 リリーが訊ねると、カルラは顔を上げていいえと首を横に振った。そして丁寧に皮を剥いで、白い歯を立てる。

「甘くて美味しい……バルド殿下は皇太子殿下が仰ったとおり、お優しい方ね」

「恐いのは見た目だけよ」

 リリーは自分も枇杷を口にしながらそう答える。

「ねえ、わたしとずっと仲良くしてくれる? わたし、これから安心して話せるのって、リリーだけしかいないと思うの。リリーの話もたくさん聞きたいわ」

 カルラの予想外の言葉に目を瞬かせて、リリーは曖昧にうなずく。

「話し相手ぐらいにはなるわよ。……友達同士って甘噛みして遊ばないもの?」

 仲良くする、というのはどういうことなのか、リリーはクラウスより常識的そうなカルラに訊ねてみる。

「しないわよ。野良猫じゃないんだから。リリーって、面白いことを言うのね。ねえ。また髪飾り、見にきましょう。今日は買いそびれてしまったし、また機会があったら。次は履き慣れた靴でくるわ」

 冗談と思ったのかくすくすと笑いながら、

「そうね。困ったらまた手、繋いでもいいし」

 こういうのが、いわゆる『普通』の友人かもしれないとリリーは思う。

(じゃあ、あたしとバルドってなんだったんだろ)

 友人でもなく、ましてや恋人というわけでもない。

 リリーは七年を振り返りながら残った枇杷を囓る。甘く柔らかい食感の後に、歯に固い種が当たった。


***


 王宮に戻ったバルドはいくつもの扉をくぐり、中庭に面した柱廊へ出て今度は内へと再び入る。外から見れば真四角で単純な箱型に見える王宮の内部は複雑に入り組んでいて、皇家の私的な区間に近づくほど入り組んでくる。

「バルド殿下、お待ちしておりました」

 やっとたどりついたラインハルトの居室の前では、侍女のエレンが控えていた。背で三つ編みにした暗褐色の髪の髪に黒い瞳、加えて黒い侍女のお仕着せと、夜も近づくと影に溶け込んでしまいそうな女だ。

 彼女の手には、小ぶりな銀の杖が握られていて、そこだけ異様に浮いて見える。

「どうぞお入り下さい」

 扉を静かに開けるエレンは、ラインハルトが唯一信を置いている側近の魔道士でもある。

 エレンが部屋の外で待ち構えているということは、けして他の者に聞かれてはいけない重要な話がある合図でもある。

 バルドは無言で部屋に入る。

 扉が閉められてエレンが全ての音を遮断するために、部屋を覆うように結界を張る気配がした。

「バルド、市の様子はどうだった?」

 天井近くにある窓の明かりが届く書斎机の所に、ラインハルトはいた。思案顔で問われたバルドは順序立てて話し、途中で枇杷を渡した。それから少し沈黙を置いてディックハウトの信奉者により、北部の離叛のことが市井に広まったことを告げる。

「……いずれ分かることだが仕方ないな。私も離叛の話はつい今し方聞いたばかりだ。皇太子と民が情報を得られるのが同時とは、なんともな。皇主である父上はまだ知らないかもしれない」

 ラインハルトが嘲笑を浮かべて、同意を求めるように見上げてくる。

「宰相達は愚かです」

「ああ。失策を打っておきながらまだ自分達が正しいと思っている。これからどれだけの魔道士が流出していくか、考えただけでただでさえ短い寿命が縮みそうだ」

「病も斬れればいい」

 兄を度々襲い、その体を蝕む病が形を取って目の前に現れたなら、雷で撃ち刃で微塵に切り刻めるのに実際は何もできない。

「そうだな。そうだったら私も自分の手で欲しいものを取りに行ける」

 枇杷を掌の上で転がしながら、ラインハルトが楽しげに笑い声を漏らす。しかしそれはどこか冷めた雰囲気があった。

「バルド、小鳥のことを覚えているか?」

 そしてラインハルトが見上げてきてバルドはこくりとうなずく。

 忘れるはずがない。兄を喜ばせるつもりで困らせてしまった、たったひとつの贈り物だ。

 五歳の頃、兄がよく見ていた白い小鳥を木によじ登って捕まえた。もしや食べる気ではとおののく使用人から籠をもらって兄に見せにいったのだ。

「小鳥が可哀相だから閉じ込めてはいけない」

 バルドは過去にラインハルトに言われた言葉をなぞる。

 兄は悲しそうに籠の扉を開いたことをよく覚えている。

 どこにも行けないのはとても辛いことで、ましてや自由に飛べるものを閉じ込めてしまうのはとても勝手なことだと、王宮から一歩も出られないラインハルトは、静かに言っていた。

 それからずっと、どこにもいけない兄のために、外で見たものや聞いたことを話したりしている。

「……バルド、今からお前にひとつ話しておかなければならないことがある」

 ラインハルトがそっとため息をついてバルドを仰ぐ。

 ゆっくりと告げられていく言葉をバルドはただ静かに聞く。聞いているが途中から兄の言葉がよく分からない言葉に変わっていく。

 理解できないというよりしたくない。

 考えたくない。

「いつまでもこのままではいけない」

 兄が諭してくるが、バルドはなかなか首を縦に触れない。ラインハルトが悲しげに目を細めても一音も出てこない。

「バルド、拒否するのは自分のためだけだろう」

 今度は叱責する口調になり、思わず兄から目を逸らした。

「バルド」

 きつく名前を呼ばれてバルドは身を硬くする。抗いきれないのに、まだもがいている自分がいる。

「承知、しました」

 やっと声を出すとラインハルトが微笑む。

「よし、良い子だ」

 子供から好きだったその言葉はまるで胸に響いてこなかった。


***


 市場での騒動から一刻。市場への出入りの検閲で怪しい者はなく、帝都内の警邏も増員しているが、今の所なんの報告もない。全ての門の格子が落とされる夕刻になっても、おそらく何も出て来ないだろう。

 そうしてラインハルトの命で王宮には将軍五人全員が集められた。リリーも補佐官としてバルドの後ろで控えて、バルドと他の将軍との会話を円滑にする役目を務めた。

 軍議には招集したラインハルト本人はおろか宰相もいなかった。軍司令部の者も数人いたが、中心となったのは王宮の式典行事を纏める官吏の長である、典儀長官だった。

 なんとも奇妙な軍議を終え、リリーとバルドが中庭を臨む柱廊に出た頃には日はだいぶ傾いていた。

 色とりどりの花が咲く庭の中央で、吹き上げられている噴水の水が淡く橙に輝いている。

「神器を社へ返還、ね」

 軍議はディックハウト信奉者への対応に関する協議だった。その中のひとつとして現在王宮内で安置してある神器を社に置くことになった。手始めに『玉』を戻すため、皇家の代表としてバルドが向かうので、必然的に雷軍の任務となる。

 古来よりの皇都を占拠しているのはハイゼンベルクだが、ディックハウトは『杖』を祀り上げていた社のある地をそのまま新皇都としている。

 神器が国の三箇所に安置されているのは、国の安定を取るための重石という意義がある。ディックハウトは、重石を一箇所に固めているハイゼンベルクの所行により、いずれ災厄か起こるとまで言っている。

「ただの剣とか玉と何が違うのかしらね。あたしにはさっぱり分からないわ。実際に、何か起きたってわけでもないのに」

「あるべき場所に置くのは道理」

 隣を歩くバルドは少々不機嫌だ。苦手な水将と顔を合わせ、騒がしい炎将にもからまれてと軍議は彼にとって苦行である。

 ただ軍議の前からいつもより視線を合わせることを避けている気がしたが。

「道理、ねえ。『玉』の社があるあたりはこっちが制圧してるけど、危ないんじゃないかしら。あの辺りの領主が寝返ったら向こうのものになるでしょ」

 少なくとも神器が安置された周辺は激戦区になるだろう。『剣』の社の近辺は敵方の領地に近いために見送りなっているが、状況としてはさほど変わらない気がする。

「兄上は間違わない」

 いつもよりもバルドの声が重たい気がしたが、気のせいかもしれない。

「……でも、まだあとひとつき近く後なんてちょっと物を動かすのに面倒なことね」

 何やら王宮内で移転の儀式とやらを行って、それからまずは皇都近くの仮拵えの社で祀ると典儀長官が説明していた。

「リー」

 急にバルドが足を止める。その視線は揺れていて、無理に目を合わせようとしているのが見て取れた。

 話しにくいことや、何かやらかしたときこういう顔をバルドはする。

「何よ」

 ラインハルトに無茶な命令でもされたのかとリリーは身構える。

「カルラが正式に皇妃になる。しばらくリーに触れるのも我慢する」

「しばらくじゃなくてずっとの方がいいわよ」

 ラインハルトは早々に決定を下してしまったらしい。そうなると本格的に、カルラにバルドとの付き合い方を教えねばならないが、それについては大して心配はない。

 カルラは箱入りのお嬢様ほどか弱くなければ、かといって勝ち気すぎるわけでもない。結婚に対しても割り切っているのでバルドとも上手くやれるだろう。

 しかし今までのようなじゃれあいはできなくなると思うと、また不思議な違和感が胸にあった。

(……一回ついた癖っていうか習慣はなおすの大変だっていうし)

 そのうち馴れるはずだとリリーは自分に言い聞かせて、違和感の正体を探るのをやめた。


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