市場での騒動から五日。地方での小競り合いの戦況が届いたりするものの、皇都の軍は出動命令も出ず、落ち着いていると言えば落ち着いている日常があった。

「暇。『玉』の仮の社への移送もたった五人であたしら出る必要ないし、本当に暇」

 雷軍の兵舎内の小部屋で軍議を終えた後、バルドとクラウスと共に残っているリリーは、椅子の背に体を深く沈めてずるずる体を落としながらため息をつく。

 神器の『玉』の移送は、雷軍内で秘密裏に行われることになった。公表は本物の社にきちんとおさめてかららしい。

 軍内にディックハウトの信奉者がいることへの警戒も含め、この作戦を知るのは将軍と補佐、『剣』、『杖』、『玉』の統率官以外は移送に関わる五人だけである。人数は少ないが、皇都の夜警は基本五人一組で数組かがつくので、その中に紛れ込ませる予定だ。

「暇な方がいいって。極秘任務とか、俺は嫌いだな。バルドだって、カルラ嬢とせっかく仲良くなってきたしな」

 斜め向かいに座るクラウスが話しかけると、その正面のバルドは一瞬だけ視線をリリーに持っていく。

「仲がいいかは分からない」

「最近カルラ嬢が来たら自分から迎えに行って、とりあえず近くに置いてっていうのは、長年お前を見てた俺からすれば仲良しの部類に入ると思うぞ」

 側に仕えている、ではなく気が向いた時にバルドを見ているだけのクラウスが、リリーに同意を求める。

「んー、まあ。自分から会いに行く気になってるだけで大進歩よ」

 バルドは皇妃に迎えると宣言してからカルラを避けなくなった。まだ婚儀に関する公表はしていないが、無事『玉』を返還した後にでも大々的にして盛り上げるのかもしれない。

 『断食』も続行中である。

 滞りなくというわけではない。お互い何気ない行動にいちいち気を使うようになってぎこちなくなっていた。

 バルドはこの頃、リリーの髪に手を伸ばしかけてはよく硬直している。自分も書類に目を通しながら、習慣でバルドを背もたれにしかけて戸惑う。

 一緒にいるとそんな些細なことで困るので、この頃はふたりきりなることすら避けてしまうことが増えた。

(……そのうち、馴れるわ)

 そう何度も自分に言い聞かせているのに、ずっともやもやとした気分が続いている。

「リリー、爪」

 クラウスに言われて、無意識のうちに噛んでいた親指を口から離す。最近、もやもやしていると爪を噛むようになってしまっていた。

「苛々してる?」

「戦闘訓練もないし、退屈だからよ」

 妙にわざとらしく訊いてくるクラウスが鬱陶しく感じて、リリーは机の下で彼の足を軽く蹴る。

「リー、俺が相手をする」

「それもいいけど。でも、もうお互い癖は知り尽くしちゃってるし、退屈といえば退屈よね」

 バルドとは訓練としてすでに何度も試合をしているが、十回に一回、相討ちがせいぜいといったところまでいけるぐらいだ。

 相手を殺さない、重傷を負わせない、捨て身も厳禁という条件の中で仕掛けられない手もあり、やれることはやりつくしてしまっていていまひとつ刺激が足りない。

「退屈……」

 バルドが腕を組んで考え込む。

「リーとの演習は本気を出せるから飽きない」

「あー、あんたはそうよね。あたしは一対集団戦の訓練をよくやってるからそれなりに全力出してやれても、バルドは」まともに相手してくれる人いないもの」

 バルドは魔力が強すぎて、一対一の訓練では自ら力を大幅に制限しなければならず退屈そうだ。多人数相手にしても制限する分は大きい。

「でも、他の将軍相手ならかなり本気でしょ。負けることもたまにあるし」

 バルド以外の四人の将軍のうち、三人が『剣』だ。全員、皇都屈指の実力者でバルドにも勝てるだけの実力はある。

 リリーも数回だけ全員と剣を合わせたことはあって今の所は全敗だ。

 彼らに勝てる域に到達するにはまだまだ訓練が必要だが、やはりバルドとは馴れすぎていまひとつ向上には繋がらない。

 それに実際戦場では一対一でなく、集団対集団だ。将軍達は指揮官としての能力の向上を優先させるので、軍を越えてまでの個人同士での戦闘訓練も頻繁には行わない。

「他の将軍は三人。リーも合わせてたった四人」

「気軽に試合できるのはあたしだけといえばあたしだけ、か」

 そこで前線に出られない鬱憤を晴らすお手軽な相手は自分になるわけだ。

 リリーは重たい気分のまま、愛刀の柄を撫でた。今日はあまりバルドを相手にする気にはなれそうもない。

「お前ら本当に好きだよなあ……俺、演習嫌いなのに」

 つまらなさそうにクラウスが言う。

「あんた、面倒くさくなったらわざと負けるでしょ」

「うん。負ける。俺はどうせ半端で駄目だし、適当にのらりくらりやってる方が性に合う」

 まったくとバルドとリリーが同時にクラウスを見たところで、部屋にカルラが来たという知らせがきた。

「カルラ嬢は毎日健気だなあ。それに付き合うリリーも真面目だな」

「だって、あたしにもいて欲しいって言うし……」

 カルラはちょっとしたことでバルドの機嫌を損ねるのが恐いので、なるべく近くにいてほしいと言うのだ。

 これは断り切れないので仕方ない。

「バルド、リリーがいて邪魔じゃないか?」

「邪魔ではない」

 クラウスの問いにバルドが酷く不機嫌そうに返答した。そしてリリーはバルドについてのろのろと腰を上げる。

「何、あんたもついてくるの?」

 クラウスも一緒に立ち上がったので、リリーは暇つぶしに見物するのかと眉をひそめる。

「いや、ちょっと用事があるから家に帰らなきゃなんないんだ」

 心底嫌そうに言ってクラウスが眼鏡の奥の表情を曇らせる。

「面倒なことね」

「面倒で厄介で帰りたくない。でも、帰らないとなー。ということでふたりとも頑張ってな」

 口調は軽く足取りは重いクラウスの背中を見送って、リリーはバルドと共にカルラの元へと向かった。


***


「……あたし、顔合わせないほうがいいかも」

 遠くに淡い桜色のドレス姿のカルラを見つけたリリーは、彼女と話をしている魔道士の男の姿に足を止める。

 カルラと面差しがどことなく似た赤毛の青年の顔は見覚えがあった。

 名前は忘れたが、士官学校時代にローブなしで喧嘩を売ってきた馬鹿、カルラの二番目の兄だ。

「なぜ?」

 首を傾げるバルドにカルラの兄と知り合いであまり友好的になれないことを説明する。しかしそうしている内に、向こうに気づかれてしまった。

「リリー」

 目立つバルドよりもその一歩後ろにいるリリーを真っ先に目に留め、カルラが笑顔で小さく手を振る。

 カルラの兄はばつの悪そうな顔でリリーから視線を逸らして、バルドへと敬礼した。

 ダミアンと名乗る彼をちらりと見上げ、そういえばそんな名だったかとリリーは思い出す。

「……くれぐれも殿下に失礼のないように」

 炎軍からの使いのついでだったらしいダミアンはそそくさと逃げ帰ってしまった。

「カルラ、ごめん。あの兄さんと士官学校の時に揉めたの話してなかった」

「リーは悪くない」

 バルドが庇うのに、目を瞬かせていたカルラが事情を聞いてくすくすと笑い声を漏らした。

「ダミアン兄様は本当に馬鹿な人ね。リリー、兄様のことは気にしないで今度の夜会に来てくれる?」

「夜会?」

「そう。六日後にわたしのお披露目をするの。あ、いけない……申し訳ありません殿下、一番先にお伝えしないといけなかったのに」

 カルラが怖々と主賓となるはずのバルドを見上げる。

「気にするな」

「六日後にバシュ家の屋敷で夜会を開くので、是非いらして下さい」

「了解した」

 バルドがカルラから招待状を受け取ってローブの袖に仕舞い込む。

「六日後……」

 その日は『玉』の移送の日で、貰った招待状を見れば時間もちょうど同じ頃合である。一応兵舎内に待機しておかねばならないのではと、リリーはバルドに視線を向ける。

「リリー、来られないの?」

 返答を渋っていると、カルラが肩を落とす。

「リーも、問題ない」

 代わりに返事をしたのはバルドだった。将軍が許可するならばかまわないないだろう。

「うん、行けるわよ。ただ伯爵家の夜会に着ていくドレスなんてあったかと思って……」

 ひとまず返答の遅れをリリーは誤魔化して苦笑する。

「それなら、わたしのドレスを貸すわ。背丈も体格も同じぐらいだし、着られると思うから。そうだわ。よければ家に遊びにこない?」

「それは助かるけど、今忙しいし、衣装箱の奥に何かあると思うからそれで行くわ」

「そう。でも、必要だったらいつでも言って。リリーが来てくれるならとても嬉しいわ」

 楽しげなカルラに軽く抱きしめられて、リリーはびくりとする。友人同士や身内同士でよくする行為とは知っているものの、バルド以外に触れられるのは馴れない。

 炎軍の将軍である女性に初対面で騒がしい声と共に抱きつかれた時とは、雲泥の差で平気だが。

(なんか、違うのよね)

 リリーはちらりとバルドに視線をやる。嫌ではないけれど、しっくりこない訳は分かりそうになかった。


***


「あっつい」

 リリーは集団戦の演習の後にフードを外す。その髪は編んで後頭部で丸くまとめてある。

 つい、髪を撫でていたバルドの手を癖で噛んでしまったので、またやらないためだ。この頃は毛先を垂らさない髪型にすることにした。

 リリーは人がふたりは入れそうな真四角の石の器に湧き水を引いている水場に行くと、すでに何人もの魔道士が集まって汗をぬぐい、喉の渇きを癒やしていた。リリーが近寄ると形式的な挨拶だけする。

 側の木桶に自分の使う分の水を汲んで、彼らから少し離れた位置にある長椅子の端に座った。

(なんなのかしら)

 一緒に持ってきた陶器の杯に水を入れて飲みつつ、リリーは周囲の様子に感覚を研ぎ澄ませた。

 神器の移送の詳細が決定してからここ数日、常に人の視線を感じる。特に誰かと話をしている時などは視線が張り付いて離れない。

(見てるのは全員、神器の運び手っぽいし)

 監視でもしているかのような視線はひとりだけではなかったが、いつも神器を運ぶのに選ばれた魔道士達の誰かが目に入る所にいた。

 リリーはもう一杯だけ飲むための水を器に入れ、あとは汗でべたつく首元を濡らした布でぬぐう。

(確信もなく全員に話を聞くのね……バルドに話しておこうかな)

 リリーは水鏡を覗き込んで乱れている髪を直してから、将軍の執務室に向かう。その途中もやはり視線がある。

 人の流れが多く、監視なのかどうかは判別しにくい。しかし一度気にかかると、常に見られている気がして自分の判断も怪しくなってくる。

(でも、まだ大丈夫?)

 将軍の執務室への廊下近くにさしかかると何も感じなくなったので、気のせいということでもなさそうだ。

「バルド、ちょっと話があるんだ、けど」

 扉を開きながら話しかけていたリリーは、長椅子にカルラがいるのに目を丸くする。執務机ではバルドが寡黙に職務をこなしていた。

「あ、リリー、こんにちは。あの、大事な話ならわたし、下がるけれど」

 カルラが先に微笑みかけてきて、リリーも遅れて挨拶する。

「急ぎの用ってわけでもないからいいわよ……じゃあ、困ったことがあったら呼んで」

 リリーはそのまま扉を閉めて、バルドにまったく声をかけなかったことに気付く。

「…………びっくりした?」

 バルドがカルラとふたりきりでいることに、動揺している自分自身に首を傾げる。これから先のことを考えれば、自分なしでふたりが一緒にいられることはよいことだ。

 だけれどなんだろうか。何かをなくしてしまったこの感覚は。

 見つかるまで延々と寝台の下を覗いたり、引き出しの中身を全部出したりして探し続けてしまいたくなるのに、何をなくしたかも分からない。

 バルドが自分の部屋に他人を座らせておくのが珍しかっただけなのに、なぜこんな気分になるのか。

「自分の部屋に帰って着替えないと……」

 リリーは考えるのをやめて、演習とさっきのことで汗だくになってしまい背中に張り付いているシャツの気持ち悪さへと意識をそらす。

(視線のこと、どうしよう……)

 そして本来の目的を思い出したが、相談する気はどこかへいってしまった。

 神器の運び手に選ばれたのは、全員信用に足ると十分に上層部が吟味した面々だ。彼らが全員、結託してハイゼンベルクの不利益になることをしでかすとも考えづらい。

(どっちかっていうと、信用がないのはあたし?)

 彼らにあって自分にないのは、家柄や有力な後ろ盾などの繋がりだ。それは人を縛るものでもあれば、護るものでもある。

(あたしを護るのはあたしだけ)

 ずっとそうだったし、今でもそれが嫌だとは思わない。そんな自分の思考に、リリーはびくりとする。

 後ろ盾というなら、次期皇主である第二皇子は十分すぎる。

 バルドがいるからから自分は孤児とい身の上で、それも士官学校をでたばかりの十五歳だというのに将軍補佐という地位に就けたのだ。

 けして自分の魔道士としての実力が低いとは思わないが、ただ上位の位階に就くには家柄と横の繋がりは必須というものだ。

 自分は家柄もなく、当然何代もかけて築いた強固な家同士の結びつきなどない。

 あるのは、ほんの些細なことでぷっつりと途切れてしまう頼りない繋がりだけ。

 家同士の関係ですら脆い今、自分が薄氷の上に立っているも同然だとリリーは今まで以上に強く思う。

(あたしが、ここにいられるのはバルドがいるからだわ)

 執務室に戻ったリリーは双剣を外しローブを脱ぐ。そうして執務机の後ろの窓を開いた。日当たりがあまりよくない部屋は風を通せばまだ涼しい。

 寝室で汗を拭き、シャツだけ着替えるとまた執務室に戻った。リリーは長椅子にすとんと、腰を下ろす。

「でも別にバルドが皇子だから一緒にいたわけでもないし……」

 ただなんとなく居心地がいいから。

 それが全部。

 だけれどこの頃はバルド一緒にいるのを避けてしまうぐらいに居心地が悪い。

「……だったらあたし、なんでここにいるんだろ」

 リリーは壁際に置いてある双剣に目を向けて、自分自身に問いかける。

 しかし答は出ずに手を口元に持って行きかけているのに気付いて、憂鬱なため息がこぼれ落ちた。


***


 それから時は過ぎて監視らしき視線はまだあったが、リリーは結局自分の胸の内におさめたままだった。やましいこともないので、いずれ諦めるだろうと今は放っておくことにしたのだ。

 バルドと一緒にいる時間が減ったのにも多少は馴れてきた。そのはずなのに爪はだいぶ傷んでしまっていて、やすりで形を整えてもあまり綺麗にならない。

「夜会は明後日ね」

 夜半、リリーは将軍の執務室で移送についての最終確認をしながら、執務机で眠たげにしているバルドに話しかける。

「作戦も明後日」

「本当に、あたしら待機してなくていの? クラウスも出席するみたいだし」

「問題ない」

 バルドは伸びた前髪を邪魔くさそうに払いながら、最後の書類に判を押す。

「髪、切ってあげるわよ。邪魔でしょ。余計に目つき悪く見えるし」

 バルドは無抵抗で刃物を当てられるのが嫌いで、少し前髪が伸びた程度では王宮の者にも触らせない。

 しかしあまりにも見ていて鬱陶しい上に、見た目の凶悪さが増すので、リリーがたまに前髪を切っている。バルドとしても、リリーにされるのはそれほど抵抗がないらしく、切って欲しいと思ったら自分から頼みにくることもある。

「鋏、鋏」

 バルドが大人しく長椅子に腰掛けたので、リリーは雑多な机の引き出しの中から鋏を取り出して彼の正面に立つ。

 瞼を伏せる彼の面立ちは間近で見れば、計算して作り上げたように整っているのがよく分かる。

 さすがに兄弟らしく、こうして見ればラインハルトとも似ている。これであと小指の爪の先ほど愛想がよければ、少女達が上げる悲鳴は、黄色い歓声に変わるだろうに。

(もったいない)

 リリーは胸の内でつぶやいて、鋏を机の上に置いた。終わったのかと見上げてくるバルドと視線が絡む。

 甘いものが欲しい。

 ふっとそんな欲求が湧いてきて、リリーは視線をバルドの精悍な輪郭やがっしりした首元へと滑らせる。

 そうして今度は顎を視線で撫でて、最後に唇で止める。

「駄目。我慢するんじゃないの?」

 先に大きな手を伸ばしてきたバルドを、リリーは静かに窘める。

「…………忘れていた」

 明らかに嘘とわかる間を置いて、バルドが手を下ろす。

 止めなければお互い忘れたふりをして、そのまま欲求を満たせたかもしれないとほんの少し残念に思ってしまう。

 リリーはバルドから目を逸らして身を離す。鋏を元に戻しているうちにバルドが、長椅子の裏の寝床へと潜り込んだ。

「じゃあ、あたしも用が済んだから戻るわ。おやすみ」

 何事もなかったような態度でリリーはバルドの執務室から出て行く。そして何気なく自分の口元に指を置いた。

(よりによってなんでこれなんだろ……?)

 他の遊びと同じで、特別なことなんてなにもないのに。

「…………もう寝よう」

 考えているともやもやが膨らむばかりで、リリーは自分に苛々しながらその日は早めに床についたのだった。


***


 予定通開かれたバシュ伯爵家の夜会はリリーの想像以上に豪華絢爛なものだった。

 海とは真逆側の伯爵家の屋敷は広大である。大広間には水晶が光を弾く煌びやかなシャンデリアが吊され、毛織りの絨毯や、壁際も宝石で作られた花が飾られ贅を尽くしたものになっている。

 広間の正面はテラスで、その向こうの庭にも水晶で蓮の花を模した燭台が並べられておりきらきらしい。

「派手だわ」

 リリーはそこに加えて色とりどりのドレスや宝飾品で着飾る人々を眺めてぼやく。

「うん、あたしが地味じゃなくて周りが派手すぎるんだわ」

 自分の着ている、袖のないタートルネックの翡翠色のドレスを見下ろしてみる。胸のすぐ下を絞ってそこから緩やかに裾が広がる簡素なものだ。

 髪は上げるか下ろすか迷った末に、久々に下ろすことにした。流しっぱなしではなく緩くひとつに束ねて結び目に硝子の赤い牡丹を飾っているものの、全体的に地味そのものである。

「リリー、いた、いた」

 人混みをかき分けて、広間の隅でいるリリーに最初に声をかけてきたのはクラウスだった。きっちりと正装した彼は、侯爵家の次男らしく見栄えの良さがいつもより増している。

「こんなに仰々しいとは思わなかったわ」

「そりゃ、未来の皇妃様のお披露目だからな。今日のために伯爵もずいぶん力を入れて派手にしてるな。下々から顰蹙買いそうだよな」

「この分だとあんまり話せそうにないし、来なくてもよかった気がするわ」

 広間の中央にはバルドとカルラの姿が見える。真珠色のドレスのカルラと、正装しているバルドが並ぶとすでに結婚式のような様相だ。

 花婿の方はいつもどおり無愛想ではあるが。

 しかしながらいつものくたくたのローブから、詰め襟の黒衣に変わるだけで本当に立派な皇子に見えるものだ。表情を見えにくくしていた前髪が少し短くなったので、強面も多少はましになった気がする。

(……なんだか変ね。ちょっとだけあたしの手が入ってるって)

 王宮で何もかも丁寧に整えられたバルドのあの前髪だけは、そこらにある鋏で適当に切ったものだというのが妙におかしかった。

「やることないし、ふたりで抜け出さない?」

 クラウスがテラスへ誘い出してくるのに、リリーは唇を尖らす。

「いい加減、人を女の子避けにするのはやめて。どうせ二、三人ぐらい仲良しの知り合いがいて面倒なんでしょ」

「惜しい。正解は五人」

「あんた絶対そのうち誰かに刺されるわよ…………」

 リリーは呆れ果てながら、広間のごてごてとした柱時計に目を向けた。

 作戦開始までであと半刻ほど。

 カルラに挨拶をしたらひとりで兵舎にいてもいいかもしれない。

 リリーは華やかな周囲を見渡して、近くのテーブルの葡萄酒を手に取る。口元に運びたくなる芳醇な香りはひどくそそる。

(お酒が近いといえば近いけどやっぱり違うし。ああ、またやってる)

 リリーは自分の爪を噛んでいるのに気付いて口を離す。

 あの不思議な甘い感覚の代価になる物を探してみても一向に見つからない。

 元はといえばバルドがカルラに興味を覚えてもらうための断食だ。だったら自分も他人に興味を覚えるのだろうかと、着飾った来客に目を向けるもののまるで気を惹かれなかった。

 葡萄酒の方がよほど、美味しそうだ。

(……バルドが無意味って言ってたの、こういうことかしら)

 他に欲しいと思えない。

「…………あんたに聞いても無駄よね」

 幾分慣れ親しんでいるクラウスを見ながらリリーは物憂げにつぶやく。

「何が?」

「口づけが特別かそうじゃないか、どうやって区別するのか分かる?」

「それは考えたことないな」

 やっぱり無駄だったと、リリーは半眼でクラウスを見る。

「…………そんな目、するなよ。んー、そこそこ好意を持っていた相手がすごく特別に思えたりする、らしい。特に女の子は」

 そんなだから、クラウスは付き合う女の子をとっかえひっかえしても子供がいないのだと思っていた。それは色々違うらしいが、今の自分にはどうでもいいことだ。

「寂しいことにないなあ。意外と近くでそういうのはあるものだっていうから、俺とリリーで試してみるか? 俺のこと、嫌いでもないだろ」

 クラウスがリリーの頬にかかる後れ毛を払って輪郭を指を辿る。

「好きか嫌いかっていったら、嫌いじゃないわよ。好きかどうかは知らないけど」

 クラウスは馴れ馴れしいようで、他人と自分の間に器用に距離を作る。

 お互いわかり合えない範疇をわかっていて、そこに深く触れずに付き合いが成り立つからこそ、彼との関係は他の人間よりは良好だ。

 少なくとも嫌いではない。

 リリーは返事も聞かずにクラウスの顔が近づいてくるのを、ただぼうっと見つめる。

(やっぱり、違う)

 頬に触れる指の感触も、間近にある温度も、いつの間にか腰を引き寄せている腕も。

 全部、バルドと違う。

 触れ合って覚える安堵もなければ、待ちきれずに自分から顔を寄せてしまう衝動も起こらない。

 全然美味しそうじゃない。

「……やめとく」

 リリーは唇が重なる前にクラウスの肩を押し返して体を離した。

「なんだ、残念。またその気になったらいつでも試していいからな」

「その気になることはないと思うわ。……カルラ」

 クラウスの背後に、おろおろしているカルラの姿が見えた。

 さらにバルドがその後ろにいて、ちくりと罪悪感めいたものが胸に刺さった。

(別に、見られて困ることはないじゃない)

 自分自身に弁解しつつ、リリーはカルラへと目を向ける。

「……カルラ。招待ありがとう」

「ええ。来てくれてありがとう。ごめんなさい。邪魔、してしまったかしら」

「ふたりで、カルラに挨拶しに行こうか話してた所よ。本当に盛大ね」

「そうそう。カルラ嬢、今日は一段と綺麗だなあ。やっぱりバルドにはもったいないぐらいだ」

 嘘までついて何を取り繕っているのかと思いながら、もリリーはカルラの後ろにいるバルドを気にしていた。

「ええ。お父様がはりきってしまって。この十七年、放っておいた分を今から全部取り戻すって、仰ってるの」

「よかったわね。このさいだから好きなだけ我が儘いっちゃえばいいわ」

 リリーがそう返すと、カルラは曖昧な表情でそうねと言葉だけで同意する。触れてはいけないことだったのだろうか。

「ゆっくり話したいのだけれど、他の方にもご挨拶にいけないと。バルド殿下、では失礼します」

 カルラが賑やかな広間の中央へとひとりで戻って行く。

「バルド、一緒にいてあげないの?」

「疲れた。剣がない。広い。人が多い。落ち着かない」

 この場にいるのが嫌な理由を並べ立て、バルドは不機嫌そうな顔で側に寄ってくる。彼はリリーとクラウスの間に立つ。

「お前、怒ってる?」

 肩をすくめるクラウスをバルドが一瞥する。

「怒っていない」

 言葉ではそう言っているものの、不機嫌さをさらに増した声だった。リリーは自分が責められている気がして、身の置き所に困る。

(悪いことなんてしてないもの)

 仕方ないのでひとりでリリーは葡萄酒を少しずつ飲んで、気まずい空気をやり過ごす。

 そうして賑やかな夜会の中で時間は過ぎていく。

 移送の開始まではあと僅か。

 リリーはおもむろに柱時計に視線を向ける。

 その時、賑やかな広間で硝子が割れる音が立て続けて響いた。

 最初は給仕がグラスを乗せた盆をひっくり返したのかと思った。

 しかし次第に悲鳴が上がり始める。庭の方から煙が上がっていて、部屋の中へと入り込んでくる。

 テラス側にいた者達はすでに屋敷の玄関口へと逃げ出し始めていた。

「リリー俺らも避難しよう。どうせ警護の魔道士が消すだろうし」

「そうね」

 皇子の他、要人が多くいるこの夜会には警護として魔道士も多数詰めている。多量の水の魔術があれば庭木をいくらか燃やすぐらいで終わるだろう。

「匂わない」

 のんびりとリリーとクラウスが移動し始めた時、バルドが警戒心を漲らせて庭へと目を向けるた。

 言われてみれば焦げ臭さがなく、煙もよく見れば灰色でも黒でもなく真っ白で、不自然ではある。

「杖の魔術……」

 リリーは眉を顰めて辺りを見回す。

 『杖』による魔術は障壁を作ることももちろんだが、煙幕を張ることも容易い。リリーは近くにある肉切り用のナイフを手に取って、指の腹に傷を作る。

 そして柄に血を塗りつけて、突貫で自分と媒体の紐付けをする。扱いにくいが、今は魔術の媒体にできそうなものはこれぐらいだ。

「警護に任せとけば?」

 クラウスはまるで慌てた様子もなく言う。

「その警護もちょっとくるのが遅いわ。バルドが使えそうな武器はないわね」

 高すぎる魔力で力押しするバルドは鍛え上げられた剣でないと、媒体の方が耐えきれずに魔術を放つ間もなく砕けてしまう。

 ひとまずは退いてバルドの得物を見つけるのも手だろうか。

 しかし広間の半分は煙で満たされて視界がきかない。全員が逃げたのを確認するまではここに残るべきか。

「……正直なところただ戦闘がしたいだけだろ」

「それもあるけど」

 クラウスの指摘を、すでに気分が高揚してきているリリーは素直に認めた。

 突然激しい音を立てて扉が閉まり、その勢いで煙幕が庭へと押し流される。屋敷の出入り口へ繋がる扉が塞がれてしまったらしい。

「あーあ、もたもたしてるから逃げそびれた。リリー、護衛頼むからな」

 まるでやる気のないクラウスがさっさと長卓の影に逃げ込んだ。

「さて、向こうの目的は何かしらね……」

 そうしてリリーとバルドも屈んで長卓の影に身を潜め、煙が晴れるのをじっと待つのだった。


***


 部屋のテラス側に充満していた煙が晴れ、視界が鮮明になってきた。リリーは慎重に部屋の奥を覗く。

 十人近くがまだ大広間にいる中、白いローブの魔道士が五人見えた。杖を持った者がふたりと剣を持った者が三人。全員白い仮面をつけていて顔は分からない。

「カルラ……」

 そのうちのひとり、杖を腰に下げた魔道士が、カルラの喉元に短刀を突きつけて体を拘束していた。すでに連れて逃げる算段をしている。

 カルラは恐怖のためか声も上げられず青ざめて震えていた。

(カルラに怪我はなさそうね)

 リリーはカルラが傷つけられていないことにほっとする。

 周囲の人間も動揺しているが抜かれた刃に、騒ぐこともできずに大人しくしている。

 出席者は貴族ばかりで当然残っている人間は魔道士だ。実戦経験のある軍人も少なからずいるだろうから、大きな混乱にはなっていないのかもしれない。

「おっと、人質にカルラ嬢か。というより誘拐が目的?」

「誘拐って、なんでこんな目立つ場所でやるのよ。……残ってる人間が少ないのはいいけど。ねえ、クラウス、あの中で軍属の魔道士って何人いる?」

 他の軍の者までいちいち顔を覚えていないので、リリーはクラウスへ確認をとる。

「うーんと、現役三人、退役で四人。ほとんどだな。たぶん他の出席者を逃がしてたら逃げ遅れたってところか。俺ら、出て行かなくても大丈夫じゃないか?」

「そう言ってもローブなし、武器なしじゃ不利よ。とにかくカルラさえ解放されたら突っ込んでいけるのに」

 もどかしく思いながら、リリーは敵の位置と長卓、それから広間の中央近くにある円卓の位置を確認する。

 どの机も真っ白で縁にレース飾りがついたテーブルクロスが掛けられている。

 小柄な自分なら身を隠しながらぎりぎりまで近づける。幸い、靴もそう踵が高くなく走るのにも不自由しない。

「バルド、あたしがあの円卓までたどり着いたらこの匙をあっちに投げて」

 リリーは床に落ちていた銀の匙をバルドに渡して動き始める。物音がしないよう、そろりと動いてじりじりと近づいていく。

 目的の場所まで辿りつくまでにはそう手間は取らなかった。

 後ろを見るとバルドと視線が合う。

 目で合図をすると、リリーのいる所から正反対へと勢いよく匙が投げられる。

 混乱の中で床に落ちていた食器に当たり、緊迫した空気を甲高い音が震わせた。

「誰だ!」

 魔道士が音の方へと三人移動し、人質の側にいる者が減った。リリーはそれぞれの動きを見計らってナイフの柄を強く握る。

(現役ぐらいはそれなりには動いてよ)

 全員の視線が自分と真逆に固定されたのを確認すると、円卓の影から飛び出た瞬間に魔術を放つ。

 ナイフの先から白い煙が吹き上がったと同時に、カルラを押さえ込んでいた魔道士の腕が凍りついて床に短刀が落ちた。

 敵勢が動揺する中、人質のひとりがカルラを奪い返した。

 そして床に落ちた魔道士の短刀を拾い上げ、自分の手を切って己の得物にし、リリーと同じく氷で『剣』の魔道士の腕と脚を凍らせる。

「あとふたり」

 人質の近くに移動しながら、リリーはつぶやく。

 『剣』の動きさえ封じれば、どうにかしのげる。

 向こうが攻撃を仕掛けてくる前に、リリーと短刀を奪ったひとりがほとんど同時に攻撃を放った。

 突然、彼女の背後で床に食器やらグラスやらをぶちまける不協和音が鳴り響いた。

「バルド殿下!?」

 敵から目を離せないリリーは振り向くことはできず、他の人質の声で後ろで何かやらかしたのはバルドだと知る。

「何、してんだか……」

 いつでも次の攻撃を放てるように身構えたまま、リリーは意識を半ばそっちへと持って行かれていた。

「リリー!」

 両腕が凍り付いていたはずの魔道士が動くのを見て、カルラが悲鳴を上げる。

 人質になっていた魔道士も咄嗟に攻撃に転じるが、敵の剣から灼熱の炎がリリーめがけて放たれる方が先だった。

 リリーは水で打ち消そうとするものの、ナイフが負荷に耐えきれず折れた。おそらくすでに罅でも入ってしまい、二撃目は威力がなかったのだ。

 避けきれない。

(片腕持って行かれるぐらいなら……)

 腕は一本残っていれば剣を握れる。

 リリーは迫りくる炎から逃れるためにぎりぎりまでしっかりと目を開く。

 視界が渦巻く炎で一杯になった時、唐突に真っ白い布の塊が飛び込んできた。

 所々に赤い物が飛び散ったその物体へと炎はぶつかって、崖に打ちつけられた波濤のように砕け散った。

 焦げ臭い匂いが立ち上るものの、布は燃え上がることなく炎は消えさる。

「バルド……」

 よく見ればそれは、テーブルクロスをローブ代わりにして纏っているバルドだった。

 炎を放った敵の魔道士は味方側の攻撃によって戦闘不能に陥っている。

「リー、無事」

「……無事よ。ありがとう。あんたは大丈夫?」

 リリーは礼を言いながらも、バルドが武器も持たず、ただ自分を護るためだけに出てきたことがとても不思議なことに思えて目を瞬かせる。

「問題ない」

 バルドが簡易のローブをはぎとる。床に落ちたテーブルクロスはあちこち血で汚れており、焦げた部分の周囲は特に血が染み込んでいて赤い。

「何で切ったのよ」

 彼の両手からぼたぼたと血が落ちていることに気づき、リリーは血塗れの手を取る。

「グラス」

 どうやらテーブルクロスを長卓から外した時に、グラスの破片を握り込んだらしかった。ローブにするのに血がいるとはいえ、また思い切りやったものだ。

「二撃目、勢いがなかった」

「ああ、やっぱり。最初に思いっきりやりすぎたわね」

 バルドはもう一撃に武器が耐えられないことを見越して、盾となるためにローブを作ったということだ。

 自分が気づかなかった失態を彼に補って貰ったのは、少々悔しい気もした。

 それ以上に、身を挺してバルドが自分を護ったことに、自分自身への嫌悪感めいたものを覚えてしまう。

「殿下! ご無事ですか!? なんという無茶を」

 残る『杖』は素手で制圧し、襲撃者達を取り押さえた人質がバルドの両手の血に唖然としている。

「さっすが、皇家の血だなあ。血を染み込ませただけのテーブルクロスであれ防げるって、すごいな」

 そして最後に広間の奥から呑気な様子で現れたのはクラウスで、人質らは今度は別の意味で呆気にとられている。

 主君を放っておいてまるで動いた形跡もなくこの態度だ。

 ふざけているというか、常識的な思考が備わってないとまで思っているに違いない。

「全員無事」

 バルドがそうつぶやいて、床に座り込んでいるカルラに視線を向ける。彼の視線は婚約者を案じているというものではなく、睨みつけているかに見える。

 元から目つきが悪いので周りから見ればいつもの表情であるが、リリーには本気で睨んでいるとはっきりと分かった。

「バルド、カルラが怯えてるでしょ」

 バルドの態度を訝しがりながら、リリーは震えるカルラの側に寄る。

「外に人を呼びに行く」

 バルドはふいとカルラから視線を外して広間の外へ出て行く。その後を人質だったひとりが追いかける。

「……神器は、我らの手にあり」

 押さえ込まれていた魔道士が不意にそう告げて、バルドの足が止る。

「陽動」

 バルドが低い声で切り返して、リリーは時計を仰ぎ見る。すでに時刻は神器の移送の予定をとっくに過ぎてる。

 移送のことを知らない者がほとんどの軍内では、この屋敷で起こった騒動への対応に追われているはずだ。

 神器の『玉』の仮の社は、帝都の近くにある狩り場の森の離宮を利用することになっている。

 すでに下層近くまでは移動しているだろうから、今から追い駆けても間に合わない。

「どっから漏れたのよ……」

 今日の策はごくごく限られた人間しか知らないはずだ。リリーは捕えられている者達に視線を向ける。

「まあ、事実確認するためにも一旦兵舎に戻ってからのほうがいいな。……それにこいつら全員、この屋敷の警護担当だし」

 クラウスが仮面をはぎ取られた襲撃者の顔を見渡して言う。そうなると他の護衛は先に潰されたかもしれない。

「せっかくの夜会なのに、大変なことになったわね。怪我はない?」

 リリーはこのまま機密に触れる話をするわけにもいかず、カルラに訊ねる。

「ええ。リリーも大丈夫? 酷いわ。ローブもないのに……」

 カルラがリリーに攻撃した魔道士を見据える。彼は鼻白んだ顔をして目を逸らした。

 先ほどまで人質になっていたというには、カルラは強気な態度だった。バルドに睨まれた時の方がよほど怯えていた風に見える。

(バルドの方が見た目は恐いけど)

 リリーが訝しんでいる内に、やっと他の魔道士がやってきた。

 そして夜会は混沌とした中で終わったのだった。


***


 兵舎に戻ったリリー達は夜通し夜会の騒動と、奪われた神器についての対応に追われることになった。

 夜会の襲撃者は取り調べられているが、今の所なにひとつ吐かない。神器も奪われたものの、運搬に関わった魔道士達は無事だった。夜会の警護に当たっていた他の魔道士も数人が負傷しているが軽傷で、重傷者や死亡者が出なかったことは不幸中の幸いだ。

「姿が見えないと思ったらこんな所で勝手に寝てるのよ、この駄眼鏡」

 夜明け頃、リリーは廊下の奥まったところにある長椅子で寝ているクラウスを見つけて、椅子の脚を蹴る。ついでに肘掛けに置いてにある眼鏡も取る。

「んー、だってやることないし。用があったらリリーが探しに来るだろうなあっと思って。うあ-、眼鏡取り上げるなよ」

 子供の頃、魔術の訓練中に目を痛めたというクラウスは寝惚け眼でリリーに手を伸ばす。

「あんた、目、前より悪くなってない?」

 寝惚けているせいか、あるいはまだ薄暗いせいか、クラウスの手は眼鏡の近くを空ぶっている。しかし以前はこのぐらいの距離なら、薄暗くても物の位置もはっきりと分かっていたはずだ。

「微妙に悪くなってきてる。合わないから眼鏡も新調した。見えなくなることはないらしいけど、どうだろうな」

 言われて思い返せば、ここ数年クラウスが眼鏡をかけていない姿を見かけなくなった気がする。

「……大丈夫だって言われてるなら信じときなさいよ。こういうの、思い込みって大事って言うわよ」

 リリーは気休めにはならないか、と自分の言葉に呆れつつクラウスに眼鏡をかけてやった。

「それなら大丈夫だって思い込んどくか。で、何か進展あった?」

 クラウスが起き上がってリリーを見上げるが、その顔はいつも以上にやる気が見えない。

「バルドが帰ってきたから、今から軍議よ。その前にあたしとクラウスに話があるって」

 一刻前にバルドは王宮へ戻り、ラインハルトの指示を仰ぎに行っていた。こんな早朝から起きていてあの病弱な皇太子は大丈夫なのかとも思うが、それだけの緊急事態ではある。

 リリーはまだ眠たげなラウスと共に、バルドの待つ部屋へと向かった。

「バルド、クラウスも連れてきたわよ」

 長椅子が三つ置かれた小さな休憩室に入ると、バルドが一瞬目を伏せた。言いづらい話らしい。

「リーは今から長期休暇」

「は? 何それ」

 突然言い渡された、この状況にまったく不相応な言葉に、リリーは眉を顰める。だが待てどもバルドからの返答はまるでなかった。

「バルド、どいうことか説明して」

 きつく睨みつけると、またバルドは視線を泳がせた。

「神器の移送を知っている人間は少ない」

「ああ、それでリリーが内通者って疑われてるのか。なんのしがらみもないのってひとりだけだしなあ……」

 リリーが理由に行き着く前にクラウスが答える。

「ないわよ。でも、どうしてたったこれだけの間であたしひとりに疑いがかけられて、そんな決定が出されるの」

 早急すぎる。他の統率官や作戦に関わった者の調査もされずこれでは、あまりにも杜撰な決定だ。

「……ねえ、もしかして運び手の魔道士からあたしが怪しいって言われた?」

 心当たりがあるとすれば、ずっと監視していたかのような視線ぐらいだ。しかし、自分は何もしていない。

「あいつらか。さすがに重大な役目にリリーを関わらせるのはどうかって愚痴言ってたな」

「あたしに信用がないのは分かってるわよ。でも、証拠も何もないのに憶測だけで」

 とにかく確たる証拠が全くないのだ。こんな状況でリリーに濡れ衣をかけて本物の内通者を野放しにしておくなど、事態を悪化させるばかりでしかない。

「リーには、ハイゼンベルクに仕える理由がない」

 紛れもない事実なのに、足下の薄氷が割れる音が聞こえた気がした。

 他の誰でもなくバルドの口から突きつけられると、本当に自分がどうしてここにいるのか分からなくなる。

 頭の中が混乱するのに反して、感情は冷え切って凍りつき、自分自身がまるで理解できない赤の他人になってしまう。

「そうね。ないわね。……この後あたし、どうなるの?」

 感情が麻痺しきったリリーは表情もなく聞きかえす。

「正午に審問。何度か繰り返して、最終決定を下す」

「バルドは当然上官として審問に出るわよね」

「俺も聞く。他には法務官が三人。それから四人で協議」

 補佐官の審問をするのに軍からはバルドひとりきり、後は文官だけというのはいささか妙だった。一定階級以上になれば将軍全員が関わるのが常だ。

 そもそも必要な事前調査などしていないも同然で、形だけ軍法会議をして邪魔な者を処分するやり口にしか思えない。

「なあ、それもうリリーの処分、決まったも同然だよな。お前、どうするんだよ」

 クラウスの言うことに、バルドが目を伏せる。

「規律に従う」

「従って、あたしを内通者として罰するってこと?」

 ほとんど抑揚なく静かに訊ねると、バルドは沈黙したまま何も答えなかった。

 リリーは深呼吸をひとつして腰の双剣を外し、ローブを脱いでバルドに突き出す。

 軍務中以外のローブの着用と帯剣は認められていない。『休暇』としても結局『謹慎』とさして待遇は変わりないのだ。

「休暇だからいい」

 バルドが言うのに、リリーはローブと愛刀を胸に抱く。あったとしてもこれを持って休暇中に動いたなら、軍規違反で即時罰せられるだろう。

「で、俺、もしかしてしばらくリリーの代わり?」

 ひとりだけのんびりとした様子のクラウスが嫌そうに言う。

「補佐官代理と『剣』の統率官の兼任」

「うわ、絶対やだ。面倒くさい。リリー、俺も抗議のために休暇に付き合う」

 クラウスはふざけた口調ながらも、表情は心配そうだった。

「……後、真面目にやるのよ」

 リリーはそれだけ言って自分の部屋へと戻り、そのまま長卓へ双剣とローブを無造作に投げ置いた。

 そして自分自身の体も長椅子に落とす。

 その瞬間に頭の中がいろいろな感情や思考でぐちゃぐちゃにかき回される。

 乱雑に書き殴った文字のようにひとつひとつ判別することもできず、苛々としてむやみに叫んで、泣き喚きたくなる。

 だけれどそうする力はどこからも湧き起こってこない。

 夜会から色々あって体はもうくたくただったが、それだけでなく虚脱感が全身を蝕んでいた。

 そのまま長椅子に体を横たえると、一滴だけ涙がこぼれ落ちた。





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