休暇を言い渡されて丸二日。寝台の上のリリーは髪も結わず、寝間着代わりの膝丈のシャツ一枚で双剣と共寝をしていた。

 審問はすでに二度行われていた。

 あまりにも曖昧すぎる証言をきかされて、真偽すら問われなかった。あげくに神器の移送以外についても情報漏洩という罪状も増えていた。知らないと反論することすら、反抗的態度としてみなすと口を封じられて、もはや決まったも同然の言い方だった。

 あとはひたすら、皇家への忠心の有無や、戦に向かう時の信念を問われ続けた。

 なんのために戦うのか。なぜハイゼンベルクの魔道士として戦場に立つのか。

 言葉を変え、何度も、何度も繰り返し答を求められる度に、視線は無言で様子を見ているバルドへ向かっていた。

 審問の間、バルドは一言も喋りはしなかった。

 他の審問官達は模範解答も尽きてきた頃合を見計らって、忠心が見られない、それでは答にならないとひたすらに文句をつけるばかりだった。

 処分はまだ下されてはいないが、これはまともに審議する気はない。二回目など内通者の件はまるで話さず、ハイゼンベルクへの忠誠心に関する問いかけばかりだった。

「ないわよ。ここにいる理由なんて、あたしにはないわ」

 リリーは傍らの双剣を抱き寄せる。

 このまま投獄されるにしても、処刑されるにしても、戦わずして終わるなどありえない。

 どうせ処分されるなら、皇都の魔道士全てを相手にして戦って死んだ方がましだ。

 己の矜恃だけは護り通せる。

「あたしを護るのは、あたしだけなんだから」

 なのに、夜会で自分を護ったバルドが脳裏に閃いてしまい、リリーは口を引き結ぶ。

「リリー、入るぞ」

 扉を叩く音に一瞬身構えたリリーだったが、、クラウスの声がするとわずかばかり警戒を緩めて起き上がらずに返事をする。

「休暇満喫中だなあ。そっちまで入っていいか?」

 入ってきたクラウスが書斎と寝室の境界で止まって訊ねてくる。

「遠慮しなきゃならないほどの部屋じゃないわよ。座る所がなくていいならどうぞ」

 寝室も寝台がひとつと衣装棚に化粧台と、書斎とさして変わらず物は少ない。しかし年頃の少女の生活感が滲んでいて、雰囲気は柔らかい。

「いや、一応女の子の私的な部屋で、ぎりぎりの格好だし」

「何も着てないわけでもないしいいじゃない。処分、決まった?」

 リリーは双剣の柄に手を置いたまま体を起こして、闘志で瞳をぎらつかせる。

「リリー、目が恐いって。処分はまだ。カルラ嬢がリリーに会いたいから、屋敷に来て欲しいだってさ」

「外出許可出るの?」

「バルドが問題ないっていうから大丈夫だろ。もちろん、それは置いて、刃物の類は一切持ちこまないこと」

 さすがに丸腰では何もできないので、確かに危険はないと見られるかもしれない。刃物さえあれば魔術は使えるものの、制約が多すぎて最後の勝負とするのにも物足りない。

「行くわ。着替えるから出て、そこの扉締めて」

 ここで腐っているのも疲れるしと、リリーは起き上がる。さすがに伯爵家に行くのに、このシャツの下にいつもの短い下衣と長靴ですませるわけにもいかない。

 そして日常着用の白い花の刺繍で飾られた紺色のドレスを引っ張り出して着替え、髪も簡単に結い上げて薄化粧をする。

「そういえばあんたは監視役?」

 リリーは支度がすむと、待っているクラウスについてくるのかと首を傾げる。

「違う。送り迎えは馬車でするからそういうのはいらないだろう。剣がないリリーは可愛いだけで何もできないし。それにしても酷いよな、今まで散々、面倒見てもらったのに」

「……面倒見てたわけでもないわよ。行ってくるわ」

 リリーは冷めた声で返してクラウスに馬車まで送られる。

 その間ずっと腰のあたりに双剣の重みがなくて落ち着かなかった。周りにいる帯剣してローブを纏った魔道士が棘のある視線を向けてくるのに、丸腰でいることが心許ない。

 今は自分の身ひとつ護ることもできないのだ。

 そのことが無性に悔しくて、リリーは奥歯を強く噛みしめていた。


***


 バシュ伯爵家についたリリーは二日前の騒動が嘘のように静かな屋敷の様子を眺める。

 被害のあった広間は散々だろうが、見た目はまるきり綺麗だ。年月を重ねて艶やかな光沢を帯びる、木製の階段の手すりや他の木製の調度品も落ち着いた雰囲気を際立たせている。

 案内された一枚の重厚な扉が開かれると、一変して華やかな景色が広がっていた。

「リリー、待っていたわ」

 繊細なレースや色鮮やかな華の刺繍で彩られた部屋の主たるカルラが、満面の笑みで出迎えてくれる。

「ごめんなさい。急に呼び出して。本当はわたしの方から行くべきだったけれど、今は大勢の魔道士を見るのが恐くて。助けて下さったのもリリーや他の魔道士の方だって分かっているのだけれど……」

 リリーが返事をする間もなく矢継ぎ早にカルラが言って、笑顔を萎ませる。

「そういうことなら。休暇中でよかったわ。ドレスじゃなくてローブでくるところだった」

 促されるまま席について、リリーはカルラに笑いかける。

「休暇のこと、聞いたわ。……お願い、ふたりきりにして」

 しかしカルラはますます表情を強張らせて、三人いる侍女を追い出してしまう。

「リリー、わたしバルド殿下にお願いされていたことがあるの」

 カルラが神妙な面持ちで言う。

「あなたが、ディックハウトに寝返るかもしれないって色々言われているから、そんなことはないって証明するために様子を見ていて欲しいって」

 告げられた言葉に、リリーは驚きよりも違和感を覚えた。

 あの人間嫌いでまともに人をものを頼むということが恐ろしく苦手なバルドが、出会ってたった数日の人間にそんな会話をするというのは想像がつかなかった。

「……それ、いつ?」

「市に行った翌日か二日後かそれぐらいに」

 結婚を決めた後で、神器の移送の日取りが決まる前である。

 移送に関してのことで自分を作戦に参加させるかどうかで揉めていたのかもしれない。

 結局は、バルドが何か主張してそのまま参加することになったのだろうか。

 喉の奥に小骨が引っかかる感覚がある。

「リリー……」

 思考に没頭していると、カルラが目を潤ませてリリーの肩に顔を埋めてくる。

「わたしはリリーに問題はないって言ったのよ。でも、他の貴族の方々が不審な様子を見たって証言をしたのを聞いて、そちらの方が信頼できる情報だって。……結局娼婦の子のわたしのことを軽んじてたんだわ。そんな方の元へお嫁に行くのは嫌よ」

 カルラがリリーの胴に腕を回し、そっと力を込める。

「カルラ、大丈夫?」

 ますますバルドらしくない発言をにわかには信じられず、訝しげな顔のままリリーはその背を撫でる。

「……リリーにここに来てもらったのはね、一緒に逃げて欲しかったからなの。わたし、夜会の時の襲ってきた魔道士達の言葉の方が正しいと思うのよ」

 果たしてあの襲撃者達は何か喋っていただろうか。離れていて聞こえなかったのか、魔術の作用で音が遮断されていた可能性もあるが。

「ディックハウトにとって魔力の強さは優劣にならないの。誰もが皇祖様よりいただいた力を受け継ぐ者。力ある者は戦い、力なき者は強き者を支え、皆で皇主様を護るの。そうやって国はひとつに戻るべきなの。ハイゼンベルクは神器を奪って全てを乱し、壊してしまったのよ」

 カルラのリリーを抱く腕が強まる。

「ねえ、素敵だと思わない? リリーはきっと向こうの方がいいわ。ハイゼンベルクはあなたから全てを奪ってしまうのよ」

「あたしの全部って何かしら」

 冷ややかに返すと、カルラがそっと体を離して見上げてくる。その瞳は不可解そうにしていた。

「……カルラ、あんた最初からディックハウトの信奉者でしょ」

 リリーは体に回されているカルラの腕をしっかり掴んで、見開かれて怯える瞳を見下ろした。

 短時間で、ここまで入れ込むということはないだろう。魔道士の血の神聖性を固く信じていたのも合わせると、元から信奉者だったと思ったほうが納得がいく。

 ふたりは見つめ合い、沈黙が続く。

 ふつりと緊張の糸が切れたのか、カルラの唇が歪む。

「そうよ。わたしのお仕えする皇主様はここにはいないわ。でも内通者として疑われてるあなたが何を言っても、誰も信じることはないわ。あなたの監視の話は本当だもの。結局、あなたはここでは誰にも信頼されていなかったのよ。どれだけ主君に尽くそうが、戦勝に貢献しようが、そんなことよりも家柄が全て」

 忌々しそうに言って、リリーを真っ直ぐに見据えてカルラが続ける。

「リリーだって間違っていると思うでしょう。家柄はそもそも皇祖様からいただいた魔力が根底にあって、皇祖様に尽くすためにあるのよ。その力を振るって主君に尽くすあなたは敬愛されるべきで、けして蔑ろにされるべきではないのよ。家柄がなくても、リリーの血に宿る魔力は皇祖様から力を頂いた者の証。彼らと違いなんてないわ」

 子供に言い含めるような言葉を聞きながら、リリーはため息をつく。

「だからあたし、忠誠心なんてないって言ったわよね」

「……きっと、こちらへくれば分かるわ。ねえ。わたしと来て」

 必死に訴えかけてくるのに、まっとうに相手をする気も失せてくる。かといってカルラを反逆者として捕らえても、確かに彼女が嘘だと言えばまかり通ってしまう。

 カルラには伯爵家令嬢、次期皇主の婚約者候補という肩書きがある。

「そうね、あたしもこのままだと反逆者だし、もうちょっと戦場にいたかったらそっちに行くしかないわね。その前にひとつ聞いていい? なんのためにカルラはここにいるの?」

 とにかくディックハウト信奉者の目的を聞くだけはきいておくかと、リリーはカルラの腕から手を離して訊ねる。

「神器の奪還のためよ。ハイゼンベルク家の者しか、『玉』と『剣』の在処は知らないから、皇都を奪還した時に隠されないように知っておく必要があるの。でも、『玉』は外に出されたから、少し予定を変えたけど。あとは『剣』さえ取り戻せばいいだけ」

 カルラは警戒心をちらつかせながらも素直に喋ってくれた。

「婚約者候補なんてそう簡単になれるものじゃないわよね」

「ええ。上層部にハイゼンベルク家の嫡男と話ができる方がいらっしゃるのよ。その方が話を通してくれたの。神器の移送の日取りもその方が教えて下さって、だから夜会をあの日にもしたのよ」

「道理で都合よく派手な騒動になったわけね。それって誰?」

 つまるところラインハルトの側近のひとりが内通者ということになる。しかし慎重で頭の回る彼を欺ける者など、そういるのか疑問だ。

「わたしも知らないわ。ディックハウトの今後のためにとても重要な方で、万が一でも漏れたらいけないから、ごく限られた人間しか知らされていないわ。ダミアン兄様は知っていらっしゃるけど」

「ああ、あんたのあの兄さんもそうなの。ということは、バシュ家はディックハウト方?」

「いいえ。わたしとダミアン兄様だけよ」

「ふうん。じゃあ、カルラがこの家の娘っていうのは本当?」

 リリーの問いかけにカルラの目が剣呑なものになる。

「それは本当よ。わたしはバシュ家の娘よ。お父様の娘なの。嘘つきなんかじゃないわ。本当はちょっとは魔術も使えるのよ。『杖』なの。でも、母は余計なことはするなって、わたしには魔道士としての力があるのに」

 早口で言い募るカルラの瞳から涙が零れてくる。

(ディックハウトのやり方、こういうのだから嫌いだわ)

 自分自身の存在意義を求める弱い者ほど、ディックハウトの思想にのめり込んでいく。カルラも抑圧された中で、たったひとつ自分の存在を肯定してくれるものに縋ったのだ。

 嫌悪感と憐憫が同時にわき起こるのはなぜだろうか。

 リリーはカルラの涙をぬぐってやりながら歯噛みする。

(あたしだから)

 結局自分もさして変わらない。

 カルラにとってのディックハウトの思想は、自分にとってのバルドだった。

「……ねえ、あたしを味方に引き入れてどうするの? あんたのお仲間はあたしのこと黒焦げにしようとしてくれたわよね」

「上の命令よ。戦力として欲しいっていうの。でも、あなたを引き入れるのは嫌だって人もいて、ごめんなさい。わたしはあなたに来て欲しいわ。あなたの力が本当に認められるのはこちらよ」

 そんなもの、別に欲しくはないわけだが。

 言っても分かりはしないだろうと、リリーは半眼を伏せる。

「リリー、あなたはわたしなの。わたしがなれなかったわたし」

 カルラがリリーの頬を両手で挟んで、瞬きひとつせずに視線をぴったりとあわせてくる。

「そうね。似てるわね、あたし達」

 だけれど自分はカルラではないし、カルラも自分ではない。

「リリー、わたし達の所へ来て。一緒に本当の皇主様のために戦いましょう」

 囁きかけてくるカルラの手に触れて、リリーは軽く首を縦に振った。

 

***


 いつもより長引いた軍議にバルドは疲れ切っていた。

 リリーの不在が原因だった。

 休暇を与えて三日。今日は審問もなく、リリーはカルラに呼ばれてバシュ家へ訪問している。どのみち現状ではリリーに軍議に出させるわけにもいかないので仕方ない。

 何もかも元を正せば自分の意思疎通能力の欠如なわけだが。

 とにかく一言伝えるのに時間がかかる。必要最低限のことは伝えているつもりが、足らないらしくさらに言葉を求められる。

 あげくに真面目に返答を考えていると、機嫌を損ねたと相手方が勘違いして度々無駄な沈黙や謝罪が多くなる。

 足りない言葉を埋めるのも、沈黙をかき消すのもリリーがやってくれていた。

「…………補佐官代理は意味がなかった」

 ひとまず兼任を任せたクラウスには期待していなかったが、それ以上に何もしていなかった。

 バルドは自分の執務室とお気に入りの倉庫への廊下の別れ目で足を止める。

 左の倉庫への道に足を踏み出したら、リリーにフードを掴まれて右へ引っ張られるだろう。

 さっきからもしここにリリーがいたらとばかり考えていることに気づいて顔を顰める。

 一歩でも近づいたら食い殺されそうな形相に、部下が怯えて廊下の往き来ができなくなっているのも目に入らず、バルドはひとりで悶々とする。

「バルド、邪魔」

 そしてクラウスに言われて初めて気づいて、廊下の端へとバルドは避けた。

 ほっとした様子で廊下を駆けていく部下を眺めつつ、隣にいるクラウスへの不快感に表情は険しいままだった。

「……お前まだ怒ってるのか」

「怒ってはいない」

 あの夜会の時、自分が我慢しているのにやすやすとリリーに触れるクラウスに、怒りとは少し違う苛立ちを覚えた。

 リリーから触れるのを禁止されているわけでもない、クラウスにとっては理不尽なものだろう。

 しかし未だに気持ちは波立ったままだった。

 リリーのことを考えている時に近くにいるものだから、余計にその時の感情がぶり返してきてしまっていた。

「夜会の時はリリーには何もしてないからな。途中でやめた。そもそも、俺に八つ当たりするぐらいなら、リリーの濡れ衣なんとかしろよ」

「八つ当たり」

 それもあるかもしれない。このところずっと感情は気持ち悪いほど揺れ動いて、一所に留まってくれない。

「将軍!」

 あれこれ考えていると、杖の統率官が切羽詰まった顔で歩み寄ってくる。

「補佐官殿が戻って来ません。昨日より遅いので伯爵家に連絡を入れましたが、もうずいぶん前に帰ったはずだということです。迎えの馬車にも乗っていないと」

「帰って、こない」

 バルドは静かに繰り返す。

 それからもう一度、心の内でも帰ってこないと確認する。

「まずいな。もう少し待つか? それとも探させるか? って、バルド、おい」

 クラウスの問いかけに返事もせずにバルドは踵を返してひとつ手前の廊下の曲がり角を行く。その先にあるのはリリーの私室だ。

 部屋には行って確認した壁にはローブがなく、いつもの場所に双剣もない。

「帰ってこない」

 また口に出し、寝室の方へも足を向けるが化粧台の上には櫛も化粧道具も綺麗に並べられたまま全部残っていた。引き出しの中も、リボンや髪飾りもきっちりと隙間なく並んでいた。

 衣装棚も空けるが出掛けるのに着たと思われるドレス一着分の空きしかなく、いつものローブの下に着ている日常着と、予備のローブも見当たらない。

 バルドはふたつの部屋を見渡してから、もう一度双剣の置かれていた場所へ目を向ける。

 彼女にとって一番必要なものはそこにはない。

 だから、帰ってこない。

 何度も同じ言葉を繰り返してみても、現実感が伴わない。

「ローブと剣だけ持ちだしたっていうのは、リリーらしいな。でも、よく持ち出せたよなあ」

 追いついてバルドの様子を静かに見ていたクラウスが、緊張感なく言う。だが表情に笑みはなく、眼鏡の奥の瞳は冷ややかだ。

「これはもう、確実に軍規違反だし、将軍としてどう対応する?」

「兄上の所に行ってくる。リーは外出中」

 バルドは執務室の真ん中に立ち尽くしたまま答える。

 早くラインハルトの所に行って次の指示を受けねばならないのに足が重たい。

 ここを動いたら、喪失が揺るがしようのないものに変わってしまう気がした。

 実際はもう取り戻すことはできないのに、いつまでたっても受け入れたくない自分が歯がゆい。

「……仕方ないだろう。こんな状況じゃ、逃げるしかない。お前がどうにかしなきゃならなかったのに」

 出入り口の壁にもたれるクラウスが責められて、いつまでも動かないバルドはうつむく。

 胸にぐずぐずとくすぶる後悔を踏み消すように、バルドは強く床を踏みつけて主のいなくなった部屋から出ていった。


***


 ぽつりと、雨粒が頬に当たってリリーは空を見上げる。

 黒みがかった灰色の空の下には真っ白い箱の形をした王宮がある。今、リリーは皇都最下層の住宅街にいた。ローブは羽織っておらず、着ているのはいつものシャツと短い下衣だ。端から見れば十分に下層区民に溶けんでいる。

「嫌な天気」

 まだ夕刻前だが、天候のせいで白い街並みはすでに薄闇に包まれていた。湿って埃臭い空気と潮風が混じり合い、肌にねっとりまとわりつく不快な感覚がする。

「早くしろ」

 前を歩く平服のダミアンが急かして来るのに、リリーは再び歩き出す。

 昨日カルラの誘いに乗って、決行したのは今日だった。双剣だけはどうして持ち出したくて、昨日の内にローブに包んでこっそり使用する馬車に隠しておいてもらった。

 雷軍にも当然のごとくディックハウト信奉者がいた。身近な者が裏切っていることには、さすがに驚いたがこれがハイゼンベルクの現状なのだ。

(軍のどれぐらいが敵なのかしらね)

 つくづく先行きの危うさを思い知らされて、リリーは薄ら笑いを浮かべる。

「皇都内に隠れ家ってまた大胆よね」

「誰もが過ちに気づき始めているということだ。急がないと、ずぶ濡れになるぞ」

 それは勘弁してほしいとリリーは、薄汚れた壁や石畳がひび割れたり欠けたりした路地が目立つ方へと早足で行く。

 あまり来ない下層区は上層と比べてずいぶんみすぼらしい。仮にも皇都だというのに、整備がまるで行き届いていなかった。この悪路では馬車などまともに走れないだろう。

 ぽつぽつと道行く人も、薄汚れてやせ細った者が多く見える。つい数日前、華やかな夜会を行っていたバシュ家とここまでの距離は馬車で半刻もかからない。

(これが、皇都の本質……)

 走っている内に大粒の雨がどんどん降り注いでくる。

「ねえ、まだ」

「こっちだ」

 細い路地に入ってダミアンが小さな家へと案内する。

「明日まではここにいろ。ローブも新しい物を用意するまでは、今までのものを使っていい。少しでも妙な動きをすれば、すぐに分かるからな」

「はい。はい。裏切ったりはしないわよ。……もしかして雨漏りする?」

 リリーは暗い部屋の中の燭台に火をつけ、あたりを見回した。

 家は自分が与えられていた居室より少し広いぐらいで、床板は痛んでいるのか歩く度にぎしぎしと音を立てる。あるのは先に運び込まれた双剣とローブが置かれた寝台と、傷だらけの木製の机と椅子だけ。

 それとかび臭さがあって灯を向けた天井には染みが見えた。

「寝台にはかからない。一晩ぐらいは我慢しろ」

「分かったわよ。あ、シーツはきれいね」

 さすがにかび臭かったり、虫がいるのは嫌だと思ったが見た限り清潔で匂いも普通だ。

「お前、いつからハイゼンベルクを裏切る心づもりをしていた?」

「心づもりも何も、逃げないと処刑か投獄だもの。まあ、この戦況だし早いところ逃げないとっていうのはあったけど。みんなそうでしょ?」

「俺は逃げたわけじゃない。魔道士の正しい在り方に気づいたんだ」

 押し殺した声で表情に怒りを滲ませるダミアンは、昨日のカルラとどこか似ていた。

 正しいのは、自分を認めてくれる方。よく似た兄妹だ。

「勝ちさえすれば、どんなことだって正しくなるわよ」

 所詮、そんなものだ。戦に勝てば正義、負ければ簒奪者。だからどちらも退かずに五十年も戦い続けているのだろうに。

「お前は本当に獣のようだな」

 あからさまな嫌悪をリリーは鼻で笑い飛ばす。

「でも、あたしの力は欲しいんでしょ」

 やり込めると、ダミアンが怒りの表情のまま出て行った。それを見届けてリリーは寝台に腰を下ろし愛刀の柄に手を置く。

 自分にとって必要なのはこれだけだ。

「負けっ放しはごめんよ」

 急な神器の移送、それに関わる魔道士が結託して自分を監視、その果てに内通者の濡れ衣と早急で一方的な軍法会議。

 そこで狙いすましたように、カルラからディックハウト側へ誘われた。

(作為的だわ)

 一からこうなるべく、誰かが仕組んだとしか思えない。

(バルドも動いたとなると、皇太子殿下の命令もあったはず)

 カルラから聞いた話だけでは、バルドの言動が不自然すぎる。ただでさえ人間嫌いで、家柄なんてものは当然、歯牙にもかけない。バルドはカルラと話すだけでも相当な労力を費やしたはずだ。

 彼がそこまでして何かをするとなると、ラインハルトの命以外はあり得ない。

 バルドがラインハルトとふたりで話した頃合いとつじつまが合うので、カルラの話はまったくのでたらめというわけでもなさそうだ。

「で、あたしを味方に引き入れるとか言ってたのは皇太子殿下の側近」

 カルラの言っていた、ラインハルトの側近をしている内通者なら神器の移送の情報も流せるし、王宮内でも強い発言力があるはず。

 起点は内通者と考えるのが妥当だが、妙に噛み合わない。

「問題はあたしを消したいのか、それとも味方に引き入れたいのか、どっちかしら」

 ここまでの流れが、自分の処刑や投獄のためなのか、それとも本当に離叛を促すためのものか。

 とにかく、身動きができなくなってはしょうがないので出てきたわけだが。

「あたしひとりの価値ってそうないのよね」

 将軍補佐といっても、ただの孤児だ。政治的な利用価値もなければ、しち面倒くさいことをして排除する理由もない。

 戦力としたところで戦局を左右するほどでもない。

「まあ、いいわ。本物の内通者を見つけてききだすまでよ」

 ぐちゃぐちゃ考えるより懐に飛び込んでいったほうが手っ取り早い。

「あとは戦うだけだわ」

 自分を殺したいなら、殺させてはやらない。

 味方に引き入れたいなら、敵に回ってやる。

 誰かの思い通りになんて、絶対にならない。。

「あたしは、ひとりでだってなんにも困らないわ」

 双剣をかき抱いてリリーはつぶやく。

 剣さえあればいいはずなのに胸の奥にぽつんともの足らなさがあるのはなぜだろうか。

 ふと親指に痛みを感じて、口の中に血の味が広がった。

 リリーは剣から離してしまっていた片方の手を元に戻して、なおさら強く双剣を抱きしめた。

 

***


 翌日、雨は止んでいたが空模様は相変わらず黒い雲に覆われて、空気も湿気ている。

 ディックハウト方の兵が門番に当たる頃合を見計らい、リリーはダミアンと共に幌のついた荷馬車で皇都から出た。

 雲が途切れてうっすら青空が見えたかと思うと、また黒く塗り潰されるのを眺めるのも飽きた頃に、あたりは濡れた緑ばかりの景色に変わっていた。

「これって、もしかして離宮に向かってるの?」

 ここは狩り場の森だろうと推測して、リリーはダミアンに訊ねる。

「そうだ。神器はそこに安置してある。まさか予定通りそこにあるとは思わないだろう」

「そりゃ盗まれたものが金庫に戻ってくるなんて思わないわね。でもさっさとディックハウトの皇都に持って行った方がいいんじゃない?」

 離宮はここ十数年は使用されておらず、定期的に手入れするだけで警邏すら置かれていない。安全と言えば安全だが、いつまでもこんな近場に置いていておくのも得策とは思えなかった。

「今はどの道を通っても検閲が厳しい。皇都までの道程の安全を確保するまでは動かせない」

 ここからディックハウト側までひと月以上はかかる。それまでこの戦続きの中で無事移動するのも確かに難しい。

「ずいぶん準備不足だったのね」

「……仕方ない。神器の移送計画の情報は前々から入っていたがいつまでも決定されず、結局立ち消えになっていた。だが、ひと月前に急に計画の実行が決定された。我々の移送経路を整えるにも時間と準備が足りていなかったが、それはハイゼンベルクも同じだ。向こうも情報が漏れる前にと急いていた」

「どうせなら社に移されてから取り戻せばよかったのに。どっちみち社を奪い返すのに戦はするんでしょう」

 『玉』の社はハイゼンベルク方の領内である。社に安置する目的は同じなのだから、ハイゼンベルク方にそこまでやらせればいい話だ。

「それは俺達の中でも意見が割れた。神器だけ先に取り戻すか、それとも社ごと奪還するか。だが、贋物を安置する意見も出ているとの情報があって、先に神器が本物かどうか皇主様に見極めてもらってからではということになった」

「でも贋物だったらどうするの? ここまでやって正体がばれたらどっちみちただじゃすまないわ」

「皆、皇主様のための死ならば本望だ」

 ダミアンの声には頑なな意志があったが、リリーには到底理解出来なかった。

「あんたが死んだら皇家にカルラを忍び込ませる計画は無駄になるわよ。もし贋物なら、あとはカルラを頼るしかないんでしょう」

 結局、本物の神器の在処は分からずじまいのままで終わるのだ。ダミアンもカルラも無駄死にすることになる。

「俺はここで一度退く。後はカルラを皇妃候補として紹介した者が上手くやってくれることになっている」

「ああ。結局、それ誰なの? あの皇太子殿下を騙せるなんて相当よ」

 確かダミアンは知っているとカルラが言っていた。内通者の正体を聞くにはいい流れだ。

「まだ、お前をそこまでは信用できない」

「そう。残念だわ」

 あまりしつこく聞いてもいらぬ疑いをもたれるだけなので、リリーは落胆しつつ大人しく引き下がった。

 ぬかるんだ道を少しの間我慢していると、高い石壁に囲まれた離宮が見えてくる。格子門を抜けると、四階建ての木組みの館が姿を現わす。さほど大きくはなく、そこそこの貴族のお屋敷と行った風情だ。

 中は一応整えられていて少々埃っぽいが傷んだ所は見られない。

 吹き抜けの玄関広間には階段があり、ダミアンが上へ上へと足を進めるのにリリーもついていく。

 最上階につくと、廊下の硝子窓の光が当たる場所に、玉座に似た祭壇が備え付けられていた。

「これが神器……皇祖の心臓」

 今は光が差さず薄暗い椅子の上には透明な硝子の箱が乗せられていて、中には握り拳ぐらいの大きさをした、歪な形の宝玉が入っている。

 黒ずんだ深紅のそれは、人の心臓の形によく似ていた。

(魔力は確かに感じるけれど、贋物だわ)

 リリーは息を呑んで、動揺を押し隠す。

 魔道士が普段使う剣や杖、玉などには魔力は宿っていない。魔力は魔道士の血に宿るもだから当然だ。

 神器とは元は魔道士であるグリザドの体から作られた物で、強い魔力を湛えているという。

 だがこれは紛い物だ。

「どうした?」

 怪訝そうな声に思考に没頭していたリリーは我に返る。

「これ、本物だと思う?」

「確かに魔力を感じる以上は、本物だろう。王宮の上層部でも移送計画の失敗の責任の押し付け合いが始まっているらしい」

 リリーはもう一度、神器に目をやる。なぜこれが本物ではないと自分は思うのか、根拠が見えない。

 ただ自分の直感がこれは違うと訴えかけている。

「お前はここの見張りだ。神器奪還の知らせは仮の皇都に届けてある。近いうちに兵を挙げて『玉』の社を奪うことになる」

「あたしにこんな大事な物任せておいていいの? これ、持って帰ったら、内通者の疑いは晴らせるわ」

「軍ではお前を離叛者として追っている。捕まれば処刑は免れないぞ。たとえ神器を持ち帰ったとしても、軍内の不安を一掃するための贄にされる。それでも戻りたいか?」

 いつ味方に裏切られるかもしれないという漠然とした恐怖を抱える者は多いだろう。

 その中で家同士の繋がりを持たない自分は、身内であって身内でない。根無し草が裏切り者ならば、受け入れやすい上に疑心暗鬼も一時的には落ち着く。

(そうなると、バルドが無能ってことになるけど……)

 補佐官に寝返られるなど間抜けにもほどがある。次期皇主がそれでは余計な不安も広がりそうなものだ。

 ディックハウト側としては都合のいい状態だろうが。

(都合よくいきすぎてる……)

 内通者の正体は知られるどころか濡れ衣を着せられる相手もみつかって、神器までも手に入った。

 こうも上手くことが運ぶ状況に違和感を誰も覚えないのか。

 自分達は正しいことをしているのだから、当然の結果だとしか思っていないのかもしれない。

「帰れないわね」

 リリーはうなずいて神器にまた目をやる。

 この贋物を用意したのは誰だろうか。最初から用意されていたのか、途中ですり替えられたのかで話が違ってくる。

 本物はディックハウト方が別に安置しているなら、ここは敵を引きつけるための囮。

 もし、最初から贋物だとしたら――。

(ハイゼンベルクが内通者をあぶり出すために仕掛けた罠かもしれない)

 どっちにしろ今ここにいる者達は味方に捨て駒にされるか、ハイゼンベルクに粛正されるかのふたつにひとつ。

(……ここにいる人間は全員、殺されるためにいる)

 そうして、自分のその内のひとり。

 不安や怖れは全く湧いてくることはなかった。むしろ血がたぎる。自分ひとりのためだけに、好きなだけ、本能の赴くままに剣を振るえる。

 命尽きるまで、勝利の瞬間を貪れる。

 リリーの双眸に獰猛な光がちらつく。

「何を考えている」

 ダミアンがリリーの横顔に怯えを見せる。彼の脳裏には手痛い敗北の記憶が蘇っているのかも知れない。

「楽ししいこと」

 リリーはふわりと微笑んで、それだけ答えた。


***


「しばらく、雨だろうか」

 薄暗い居室で侍女のエレンが燭台に火をつけるのを見ながら、ラインハルトは車椅子の上でつぶやく。

「ええ。この時期は雨が一度降ると、なかなかやみはしません。冷えるのでできるだけ早くお休み下さい。お体に触ります」

 雨が降ろうと、陽射しが強かろうと体調は優れないのはいつものことだ。何もかもが自分の命を蝕む毒かと思うと、うんざりしてくる。

「……この頃よく思うよ。体を横たえたらそれっきりではないかとね。だが休まねば保たない。まったくもって嫌な体だ」

 ひと呼吸の時間さえ惜しいのに体は思うとおりに動いてくれない。子供の頃は庭に出るくらいなら自分の足で歩く力があったのに、今では部屋の中を歩いて移動するだけで息が切れる有様だ。

「ハイゼンベルクを生かせるのは皇太子殿下の他にありません」

 エレンの言葉には狂信的な熱もなければ、上辺だけの冷たさもない。この沈着さは好ましい。

「戦況は悪化しているがな。エレン、君はまだ勝てると思うか?」

 ゆらゆらと頼りない蝋燭の灯火を瞳に映してラインハルトは囁く。

 バルドやエレンなどの臣下からかき集めている情報から導き出されているのは絶望的なものばりだ。人心はすでにハイゼンベルクから剥がれ落ち始めている。

 ハイゼンベルクの魔道士が戦う理由に皇家への忠心がどれほどあるだろうか。自分達の選択の誤りを認めたくない足掻きと、宰相を務めるフォーベック家への忠義が大半に違いない。

 そのフォーベック家も下位の貴族や地方の領主から見放され始めている。

 行き着く先は敗北しか考えられない。

「勝たねばなりません。そのために皇太子殿下は生きておられるのでしょう」

 今度はどこか高慢にすら聞こえる声でエレンが答える。

「君は相変わらず面白いな……」

 ラインハルトは機嫌よく喉を鳴らすと、扉が叩かれ弟の来訪が告げられる。命ずるまでもなく、エレンが寝台の下から自分の背丈の三分の二以上はある長方形の箱を引きずり出した。

 女の手には重すぎるだろうが、彼女は顔色ひとつ変えずにラインハルトの側までそれを引っ張ってくる。

 そしてエレンは一礼して机の端に置いていた杖を片手に部屋を出る。入れ替わりにのっそりとバルドが部屋へと入ってきた。

 闇が凝り蠢いているようだと、ラインハルトは近づいて来る弟を見上げる。

 自分の身を巣くう死の影が形をとったなら、こんな姿ではないだろうかと時々思う。身の内で牙を剥き臓腑を欲望のままに喰い漁る獣。

 だからかこの弟を飼い慣らしている間は、死を克服したかのような錯覚を得られる気がする。

 自分もまた、足掻いているのだ。

 死ぬためだけに生きるつもりはない。生きて、生き抜いてから死を迎えるために、まだ倒れる訳にはいかない。

「さあ、皇都の浄化を始めるぞ」

 ラインハルトは箱を顎で示し、バルドが従順に力強くうなずく。

 蝋燭の火を移して仄かに光る紫の瞳は、使命感や敵に対する憎悪はない。

 目前に迫った敵への高揚ばかりが燃えていた。

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