6
神器が置かれた玉座の横に座り込んでいるリリーはあくびをひとつする。
ここへ来て二日目になるが、これといって何がおこるわけでもなく、ぐずついた空模様に気鬱になるだけだ。
「暇すぎ……」
離宮内をうろついてもこれといって物珍しい見物にはならず、侵入者があるわけでもなくでただひたすらに退屈なだけだ。
自分の他にも三人ほど見張りはいるが、全員、リリーを見ると市で魚売りが野良猫を見つけたような顔をする。士官学校時代に叩きのめした相手もいるので仕方ないといえば仕方ない。
実力が分かっている分、退屈しのぎに勝負を仕掛ける気も起らない。
座っているのにも飽きたリリーは立ち上がり、そのあたりをうろつくことにした。階段を下りて二階にさしかかった時、階下に少女の姿が見えて、手すりから身を乗り出す。
「カルラ」
名前を呼ぶと蒼白な顔でカルラがこちらを見上げた。彼女の後ろには他の見張りもやってきている。
「リリー、大変よ。この場所が知られたわ」
ついに事態は動きだしたということらしい。
事を動かしたのはディックハウトか、ハイゼンベルクか。
リリーは一階まで駆け足で降りると、他の見張りがきつい眼差しで睨みつけてきた。密告したと疑われているのかのしれない。
「貴様か」
リリーの憶測どおり、男の魔道士が剣の柄に手を置いて噛みついてくる。
「やめて。あなた達はリリーの見張りもしていたんでしょう。それに密告したのがリリーなら、わたしや兄様は真っ先に捕まるわ」
カルラが制して、男達が不満げな顔で退く。
「まあ、そういうことね。それで状況は?」
「夕刻には神器を奪還するために挙兵するそうよ。同胞達にもここに集まるように呼びかけているわ。神器は今から彼らに別の場所に運ばせるの」
「集めるってどれぐらい?」
「皇都の内と外で二百前後だって言っていたわ。下層区でも騒ぎを起こして、とにかく時間稼ぎをするの。……ここにはバルド殿下が来るわ」
神器の奪還と反逆者の粛正という大役、かつ確実に勝利が見込めるとなると、彼が来るのも道理だ。
リリーは驚くこともなく双剣の柄を指で撫でる。
(それにしても二百前後……皇都の内とその周辺でそれだけ裏切り者がいる)
ディックハウトの信奉者がそれで全員というわけでもないだろう。これ以上の数が身近に潜んでいたと思うとぞっとする。
「あんたはここにいていいの?」
「わたしは人質よ。母の所に出掛けた途中で攫われたことになっているの。一応は、足止めなのだけど」
「それであたしの役目は?」
問われたカルラが言葉に詰まり、そっと目を逸らした。
「……バルド殿下の相手を。一番時間を稼げるのはあなただろうからって」
だが勝つことは期待はしていない、捨て石になれということらしい。
「一番いい役目なんて、ありがたいわ」
嘘でもなくそう言って笑うと、カルラが泣きそうに顔を歪める。
「足止めでいいの。危なくなったら退いて」
「退かせてくれないわよ。とにかく逃げるなら速い方がいいでしょ。さっさと神器を持って行ったら?」
リリーが男達を促して上へと行かせる。完全に彼らの姿が見えなくなってから、リリーはカルラに向き直る。
「……あんたもあいつらと一緒に行きなさい。贋物なんて誰も追いやしないから」
リリーが声を潜めて告げると、うつむき気味だったカルラが弾かれたように顔を上げる。そして彼女は一歩後退って瞳を見開く。
「贋物? どういうこと」
混乱しているのかカルラの口調はたどたどしく要領を得ない。
「あたしにも分からないわ。でもね、あれは本物じゃないって言い切れる。足止めはあたしひとりでやるから、あんたは逃げる。こんなところで野垂れ死にするなんて嫌でしょ」
階上から男達が降りてくるのを見ながら、リリーはいつまでたっても迷うカルラに苛々しだしていた。
「わたし、逃げないわ。ここにいる」
組んだ両手を硬く握ってカルラが答える。リリーが口を開く前に、男達は屋敷の外へと出て行ってしまった。
カルラはその場から一歩たりとも動かない。
扉が閉まる音が広間に尾を引いて響く。
「……残ってどうするのよ。あれが贋物ってことは、あんた達は知らない間に味方に捨て駒にされた可能性だってあるのよ」
大した魔力もない『杖』に残って何ができるというのか。
リリーは眉を顰めて落ち着いた顔でいるカルラに問いただす。
「逃げないのよ。わたしはわたしの役目から逃げないの。ここに残ることが私の役目。逃げずに役目を果たすの。ハイゼンベルクの獣の雷に撃たれて死ぬなら、それでもいいの」
カルラは覚悟を決めた双眸にリリーを移す。
「リリーは逃げないの?」
「戦えるのに、逃げる理由なんてないわ」
それに自分を嵌めた者も、目的も定かではない。ハイゼンベルクの魔道士をひとり捕まえて、仕掛けたのが白か黒かはっきりさせるつもりだった。
(でも、バルドと戦えるならなんでもいいかもしれないわ)
お互い、殺してはならない、死んでもならないという自制を持たずに勝負ができる。
もし、勝ったらどれだけの高揚と快楽が得られるのだろうか。
胸が沸き立つのになぜか締めつけられる、相反する感情がぶつかる。落ち着きのない気持ちを宥めるようにリリーは剣の柄を握った。
しかしいつもなら柄を握っていると安心感を覚えるのに、指先は何か別のものを求めていた。
「……また雨ね」
リリーは聞こえてきた音に耳を傾けて気を紛らわす。
季節の変わり目の雨は、控えめに柔らかく降り注ぐ。少女ふたりが佇む広い屋敷はとても静かだった。
***
糸雨の中、皇都の最下層区では暴動が起きていたが軍の対応は早かった。炎軍の部隊が真っ先に鎮圧に向かい、すでにことが収まりかけている。
雷軍が帝都を出る頃には帝都への門扉周辺で起っていた暴動も鎮圧されていた。
「寒いし、体重くなるし、雨の日の行軍って本当に嫌だな。森の中だとちょっとはましかな」
森の入り口までたどり着いて、クラウスは水をたっぷりと吸い込んで重くなったローブにやれやれとため息をつく。
隣にいるバルドは無表情で、三百もの数の反逆者討伐のために集められた魔道士達の中央で佇んでいる。
「すぐに終わる」
「確かにこれだけそろえたらよっぽど気を抜かなけりゃすぐ勝てるか。っていうか、百ちょっとだったらお前ひとりで足りるだろ」
この数は戦うためだけではないのを分かりきった上でクラウスは言う。
「ああ、でもリリーがいたら危ないか。俺、当たりたくないなあ」
そうしてわざとリリーの名前を出してみる。表情がまるで動かないので、相変わらずバルドが何を考えているか解らない。
だが夜会の時といい、子供の頃にバルドから何か取り上げた時とは、違う反応であることは明らかだ。
物心ついた時にはバルドの近侍にされた。とは言っても、バルドはほとんど喋らなければ、あちこちに雷を落とすので遠目に見ているだけだった。
媒体がないと酷く暴れる上に、最終的には放出できない魔力が命に関わるので好きなようにさせておくしかなかったらしい。
恐い、というのがバルドの第一印象だった。
ある程度距離を置いて見ていれば、喋らないのは人が話しかけないのでろくに言葉を覚えないせいなのだと気付いた。
雷を落とすのも魔力が高すぎて制御できていないだけで、放っておけばそのうち成長と共におさまるものと楽観視できれば、さして恐くはなくなった。
刃物を持ってさえいなければ、バルドはただのとても大人しい子供だった。
しかし問題はない状態でも、誰もバルドにかまおうとしない。バルドはバルドで、力の制御を覚えると数だけは用意された玩具に手をして、ひとり遊びをしていた。
積み木や人形を手に取ってみては一通り遊んでいてもまるで楽しそうになかった。どれを手に取っても、ある程度遊ぶと他へと移るのを見ている内にバルドに興味が湧いた。
どこか自分に似ている気がしたのだ。
何ひとつ、欲しいものが見つからない。
どれもこれも執着を覚える程の感情が持てない。
だから自分も誰にも求められない。
似ているならバルドが関心を持ったものに、自分も執着が示せるかもしれないと思った。貸してと言いつつ結局は取り上げてみると、バルドはその瞬間には興味を失ってしまう。
そして自分も結局、興味がなくなってしまうのだ。
「しっかし、皇太子殿下も転んでもただじゃ起きないよな」
そう声をかけると、バルドの顔がクラウスに向けられた。少々眉間の皺がいつもより深いものの、やはりなぜかは分かりづらい。
「……兄上は有能」
バルドの兄への盲信ぶりは、この頃揺らいでいる気がする。子供の頃、唯一バルドが執着しているものといえば、ラインハルトだった。
たったひとりバルドに愛情を示した人間。だが打算と健康な体を持つ弟への嫉妬を、見せかけの愛情で誤魔化しているにすぎない。
そのことに本当は気付いているから、バルドは他に何か執着できるものを無意識の内に探し求めていた。
(リリーに会ってからだな)
バルドがリリーに関心を寄せたと時、人間に、しかも年下の女の子に興味を持ったのに驚いた。
しかしいつものように、すぐに興味が失せるか向こうに避けられるか、どちらかだと思っていたのに。
(嫌だなあ。バルドに先超されるのは嫌だ)
自分がなにも見つけられていないのに、ひとりで勝手にそんな大事なものを見つけられるのは嫌で嫌で仕方ない。
「さあ、先駆けは俺だ。適当に木とか塀とか吹っ飛ばしてさっさと、逃げてくる」
クラウスはそう言って、ひとりだけで先へと進んでいく。
(リリー見つけたら、バルドはどうするかな)
森に入って長剣を鞘から引き抜き、魔術を放った。
基本は炎だが、放たれた途端に力が滅茶苦茶に捩れて破裂する。いつもながらの原因不明の爆発で周囲の木々が吹き飛んでいく。
二度、三度と繰り返す内に小道が広がって、先には大きな屋敷が見えてきていた。
***
夕刻近く、離宮には百人以上の魔道士が集っていた。誰もが白いローブを纏っていて、リリーひとりだけ黒いローブでやたら目立つ状態だった。
策を立てる様子もなく、全員静かに待ち構えている。
リリーは階段の隅で他の魔道士から離れてカルラと一緒にいた。
「カルラ、ローブは?」
「人質が着てたらおかしいわよ。それに持っていないし。私程度の魔力だと、ローブを作ってもあまり意味はないわ」
白いローブではなく藍色のドレス姿のカルラが苦笑する。
ローブの魔術攻撃への耐性は本人の魔力次第。弱いと確かにすぐに燃えたり、風で切られたりするし、体にかかる衝撃もさして軽減できない。
「……あった方がましだと思うけど。作り方でちょっとは耐久性あがるわよ」
「わたしの役目は皇妃になることだし、必要ないのよ。リリー、どうしてあたしにだけ逃げろって言ったの? 彼らには言わなかったのに」
カルラがすでにそれぞれ覚悟を決めた表情でいる魔道士に目を向けて問う。
彼らには神器が贋物だということは教えていない。そうして様子を見る限りでは、あれが贋物であるとは知らないらしい。
「……あんたをここで犬死にさせたくないってどうしてか思ったのよ」
カルラの役割が魔道士として戦うことではなく、時間稼ぎの人質だったからかもしれない。
それとも自分とよく似た彼女が、いいように利用されて終わってしまうのを見たくはなかったからか。
「……あなたはわたしではないのね」
どこか寂しそうにカルラが言って、リリーはその顔を覗き込む。
「あなたの素性を聞いた時、とても会ってみたいと思ったわ。リリーならわたしのことを一番理解してくれるかもしれないって期待したの。でも、わたしは与えられた物を受け取るだけで、あなたは自分で選択肢を見つけ出してる」
「選ぶほど選択肢はないわ。勝つか負けるかしかないの。子供の時からずっとそう。勝ったらあたしのこと悪く言う奴の言葉は、ただの負け惜しみになるのよ」
「それで、ダミアン兄様もやっつけちゃったのね」
カルラが明るい笑い声を漏らして、リリーも笑う。
そこに爆音が響く。
屋敷がびりびりと震えて、ざわめきが広がる。
「さあ、来たわね。この無駄に派手な爆発はクラウスかしら」
リリーは双剣に手を置き、屋敷の外へ出て行く魔道士を眺めた。とりあえず現状を知るために、クラウスにでも会いに行ってみるのもいいだろう。
「リリー」
カルラが不安げに呼びかけてくる。
「……カルラはここで、人質役でしょう。あたしは行ってくるから」
また後で、と続けようとしてリリーは言葉を止める。
ここにまた来るとは限らないのでそれは違うけれど、他に何を言ったらいいのだろうか。
「ご武運を」
迷っている間にカルラにしっかりと抱きしめられて、リリーは不器用にその背を抱き返す。伝わるぬくもりに、時々戦地に向かう魔道士同士がこうしている意味が、ほんの少しだけ分かった気がした。
そうしてリリーはゆっくりとその体を離して、外へと向かった。
***
「……なんていうか、加減知らずよねえ」
屋敷から一歩出てみれば、明らかに目の前に広がる森の木々が数を減らしていて、リリーは呆れる。
なんともクラウスらしいやり方だ。
まだ戦闘は始まっていないらしく、『杖』が結界を塀沿いに展開している。離宮の周辺にも何カ所か、雨が透明な皮膜にぶつかって弾かれているのが見えた。
どちらが白で黒かは解らないが、屋敷を中心にして四方に陣を張っているらしい。
そしてまた爆発音が上がり、木々がなぎ倒される音が聞こえてくる。最初とは方向がまるで違う上に範囲も広いので、そっちはバルドかもしれない。
「濡れるのは嫌いなんだけど……」
リリーはフードを深めに被り直して、どこに行けばクラウスと話せるだろうかと考える。
が、その必要もなく離宮の裏手付近で塀が吹き飛ばされる轟音があがり、屋敷全体に張られた結界がたわむ。
リリーは双剣を抜き、裏手へと駆けていく。蓮が浮かぶ人工の池を中心とした裏庭は下草が伸び放題で歩きづらい。
「クラウス」
たどりつくとすでに白いローブの魔道士が幾人も倒れているのが見え、崩れた塀の瓦礫をクラウスが踏み越えているところだった。
「うわ、ここでリリーとか、俺、運悪いなあ」
長剣を構えつつ、クラウスが一歩退く。
「あたしは運がよかったわ。今の所敵じゃないから安心して」
双剣を収めて近づくと、クラウスもほっとした顔で剣をしまう。
「今の所、な。立場としては、リリーは軍規違反の上に逃亡中ってことになってるけど……まず勝てないから俺に選択肢はないな」
「あんたの諦めの早さが助かるわ。今の状況は? バルドが総大将なのは聞いてる」
「そう。バルドを総大将にこっちは三百。そっちは百ちょっとだろう」
「また、やたら連れてきたわね。バルドがいるな囲い込みなんて必要ないでしょ。あー、そうだ。あの神器、贋物でしょう」
ひとつ確信が欲しくて問えば、クラウスが目を丸くした。
「そう。贋物。よく分かったなあ。ということはこれがディックハウト信奉者の一掃が目的なのも知ってる?」
「あれがハイゼンベルクが用意した贋物なら、だいたいそんなとこよね。これを仕組んだのは宰相と皇太子殿下、どっち?」
なんとなく後者のような気がしつつも訊ねる。
「皇太子殿下。実を言うと、俺もここにくるまで神器が贋物なんて知らなかった。知ってたのは、バルドと皇太子殿下、それと運び手の五人。父上も知らなかったことだ」
「運び手も知ってたの、いつから?」
クラウスの話によれば、移送の当日にバルドが明かし、誘いに乗って出てきたディックハウト方に怯んだふりをして持って行かせたということだ。
「……全員たいした怪我がなかったのはそのせいね。忠誠心も、大したものだからあたしのことが気に食わなくてもしょうがないわ」
上手く逃げられなければ襲撃者に殺される可能性すらあるのに、囮であることを分かった上で誰ひとりとして逃げ出さなかった。
まだ皇家にそこまで尽くす者もいることはいるらしい。
「皇太子殿下の側近でディックハウトハウト方がいるらしいけど、捕まった?」
「いや。それは初耳。そいつがどうかしたのか?」
「あたしを内通者に仕立ててくれたのよ。でも、皇太子殿下が用意してた神器が贋物ってことは、正体は割れてるのかしら」
「その内捕まるかもな……っと」
話し込んでいると裏庭へ人が来る足音が聞こえ、クラウスがこっちへと手招きしてくる。そしてふたりは一度屋敷の外に出て、近くの無事な木立の中へ進む。
そこでリリーはふと疑問に思う。クラウスの他に魔道士が見当たらない。こういう場合は大抵『剣』と『杖』が数人で一緒に動くことになっているはずだ。
「ねえ、あんたひとり?」
「……ひとり。本当を言うとな、リリーに一番に会いに来た」
いくらか雨が避けられる木の下、お互い剣は抜けないほど近い位置でクラウスが見下ろしてくる。
「なんで?」
さらりと返すと、クラウスが苦笑する。
「できれば逃がしたいな、と思って。でも内通者を探るための一時的な離叛なら、名目立つし戻れるんじゃないか?」
「そんなこと肝心の内通者も見つけてないのに誰が信用するのよ。あたしが教えてあげられるのは逃げるのに協力してくれた下っ端ぐらいよ」
この屋敷の中では見かけていないが、皇都の暴動に加わってとっくに捕まっているかもしれない。
ひとまず名前だけを出してみると、どうやら参加していなかったらしかった。
「でも材料としては弱いか」
「弱すぎるわよ。どっちにしたって、そっちに戻る理由もないわ」
「ディックハウトにつく理由はあるんだ」
「ハイゼンベルクにつく理由がないじゃ駄目?」
「そんなもんだよな。なら、ここで少しじっとして隠れてたらいいよ。俺が後で逃がすから」
「……そこまでしてもらわなくてもいいわ。あたしは自力でなんとかする」
ここでクラウスと無駄な戦闘をせずにすむだけで十分だ。
改めてディックハウトにつく気にもなれなかった。戦場で終わることだけは決めていても、それまでどこで生きていればいいのか。
のらりくらりと白にも黒にもならず、戦場を渡り歩くのもいいかもしれない。
「自力って言っても、バルドがいるぞ。まあ、見逃してはくれそうだけどな。ああ、バルドに頼んだら、なんとかなりそうじゃないか?」
「だから、帰るつもりはないわよ」
どうせ戻ったところで、煩わしいことばかりに違いない。それに、バルドと一緒にいるのも気が重い。
カルラとの縁談がなくなったところで、違う誰かがあてがわれてまた居心地の悪い思いをするばかりだろう。
この居心地悪さに馴れる気もしない。
「バルドとは、戦うわ」
最初に会った時、自分はバルドの獲物で、彼もまた自分の獲物だった。それだけは変わらないはずだ。
獲物を前にして逃げるという選択肢はない。
「負けたらどうするんだ?」
「それまでよ。それがあたしの終わり」
声にすると、恐怖ではなく寂しさが浮かび上がってきてリリーは瞳を伏せる。
その時、ぱっと足下が青白い光に照らされて顔を上げる。
空中に稲光が走るのが見えた。灰色の空一面を雷光が縦横無尽に引き裂いていく。
空が粉々に砕けてひび割れるようだ。
低い獣の唸り声のごとく響く雷鳴は、腹の底からびりびりと震えが来るほどの大音声で耳がおかしくなる。
天が破壊されて、今にも地上が潰されそうだ。
自然の光景ではない。
「何、あれ。バルドなの?」
リリーは上擦った声で自分の胸の辺りを押さえる。鼓動が早く、異様に熱を帯びている感覚があった。
どくどくと自分の血が心臓を中心にして体中を駆け巡る音がする。
今にも胸を破り割きそうなほど鼓動が激しくなってくる。
なのに、リリーの呼吸は一切乱れていない。
「……ああ、バルドだ。これが、本物の力か。血が反応するんだな」
クラウスも食い入るように空を見上げてつぶやく。
「本物って何よ……」
うっすらと想像はつきながらも、リリーはクラウスに答を求める。
「神器。グリザドの右腕だ。やけにでかい荷物があると思ったら、これだったんだ」
視界が白むほどに空が光る。
そして轟音と共に天から雷の雨が降る。
幾筋も、幾筋も一直線に天から地へと駆けるその光が撃つのは果たして何か。
「こりゃ、全滅だな」
クラウスのつぶやきに、リリーは動機が収まらない胸の辺りのローブをきつく握る。
「ただのディックハウト信奉者の掃討じゃないのね」
「そう。贋の神器を奪った間抜けを、本物の神器で次期皇主が討つ。神器の本来の在処が皇祖の右腕なら、皇主の右手にあるのが真の神器の在処。あの皇太子殿下らしいやりかただよな」
確かにらしいやり方だ。
ディックハウト信奉者は多くの同胞を失うことになる。あげく贋の神器をそうと気付かずに奪い、護ろうとしたことが原因で、本物の神器によって粛正されたとなれば残った者達も心理的に潰れる。
この天を覆う雷は皇都からもよく見えたことだろう。ここでも三百の魔道士が実際に神器を振るうバルドを見ている。
魔道士ならば皆、身に流れる血が沸き立つ感覚を覚えたはずだ。
その身をもって、本物だと実感する。
「……バルドをハイゼンベルクの正当性の象徴にするつもり」
今日起こったことは、すぐに皇都中に広まる。あれを目にした者はバルドを、ハイゼンベルク家を畏怖するだろう。
神器を社に置かない詭弁も正当化される。
「そう。これがどれだけの効果を上げるかは分からないけどな。まあ、ここまですごいとハイゼンベルクの勝ちも万に一つぐらいはあるかもしれないって思えるな」
確かに戦場でバルドひとりいれば物理的にも心理的にも相当数を打ち砕けるはずだ。
「なあ、リリー、これは勝ち目ないんじゃないか?」
クラウスのやめておけと言いたげな視線に、リリーは何を今さらと鼻で笑う。
「退かないわよ。楽しそうじゃない。あ、屋敷にカルラがいるけど、全部分かってる?」
これ以上興を削がれる前に話題を変えた。
「ああ。反逆罪でもちろん捕縛するよ」
「そう。じゃあ、カルラのこと頼んだわ」
カルラこそ逃がしてやってほしいと一瞬思ったが、そのことは胸に収めた。
リリーはクラウスにカルラを託して、バルドを探しに森の中へと入っていく。ほんの少し、離宮を振り返りたい気持ちになる。
けれどもその足はひたすらにただひとりを求めて前へと動いていた。
***
リリーとクラウスとかち合う少し前。
バルドは森に入っていた。誰ひとりとして共をする者はいない。いつもそうだ。
剣を抜く時はひとり。
巨大で背負うしかない神器を、音もなく抜く。
いつも使っている剣よりさらにひと回り大きな両刃の剣は、まるで長年使い込んできたもののように手に馴染んだ。
ぬらりとした黒とも銀とも言いがたい不思議な色をした刀身の切っ先をかまえることはまだしない。
立木が多いため見通しが悪く、足下も雨でぬかるんでいて大振りの剣では不利だ。クラウスが空けた道でもよかったが、そこでは警戒される。
獲物を誘い込むにはここがいい。
バルドは息をひとつ吸い込む。
木の陰に姿を隠し、雨音に足音を潜ませてひとり、ふたり、どんどん集まってきて自分を取り囲みはじめている。
くる。
正面から雨に紛れて水滴が石つぶてとなって襲い来る。
バルドは微動だにせずにそれをローブで受け止めた。
四方から一斉に炎と風が木の隙間から這い寄ってくる。
バルドはおもむろに、神器を正眼に構えた。
風も炎も青白い蛇のような雷光に巻き付かれ、ぎりぎりと締め上げられる。
バルドが剣を一閃すると、一気に破裂する。
その衝撃で木々は引き裂かれて吹き飛び、隠れ潜んでいた者達の姿が露わになる。幾人かはすでに木の下敷きになっていたが、まだ二十人前後が剣を構えている。
バルドに視線に晒されて、知らずうちに白い魔道士達が一歩後退る。
感情を伴わない紫の瞳の奥は鈍く光を放っていた。
憎悪や使命もなく、目の前に縄張りを侵す敵を見つけた獣の獰猛な視線。
白の魔道士達が臆したほんの一瞬の間にバルドが動いた。
この巨体と見るからに重量のある剣からは、予測できない速さで敵の目前まで迫る。
闘志の塊である黒い小山に突撃された白の魔道士が、剣を構えて受けようとするが、神器によって砕かれその胴も叩き潰される。
同胞の死に対する恐怖を怒りと使命感で押し潰して、複数が魔術攻撃を仕掛けながら襲いかかった。
しかし、バルドが剣を振るうのが早い。
雷に撃たれて魔術攻撃は霧散し、次々と彼らは大剣に肉を斬られ骨を砕かれる。
瞬く間に十数人の魔道士が白いローブを深紅に染め上げられていく。
しかし、それでもバルドを取り囲む人数は増える一方だった。その人数は五十を越えていた。
戦闘と高揚で息を荒くし、低い唸りを喉から零しながらバルドは剣を天に掲げた。
指先から一気に魔力を流し込む。
神器に元より宿る魔力と、己の魔力が呼応して絡み合い熔ける。
剣より発散される多量の魔力に、ディックハウト方の魔道士達は硬直していた。あれに、立ち向かってはいけないと身に流れる血が畏怖を訴えている。
切っ先がばちりと光り、空が割れる。
バルドがまるで天に命じるかのごとく、咆哮と共に神器を振り下ろした。
そして空から雷の矢が降り注ぐ。
青白い矢を目にした瞬間には体を貫かれ、誰ひとりとして逃れられる者はいなかった。
群がる獲物を狩り尽くしたバルドは呼吸をひとつして、空を仰ぐ。
頭の芯が甘く痺れてくらくらとするほどの高揚感が一気に押し寄せてくる。
だけれど、これではまだ足りない。
もっと強い相手が欲しい。
どこまでも貪欲に本能は獲物を求めている。
その時、無遠慮な足音が耳に入ってバルドはそちらに視線を向けた。
「リー……?」
そこにはこの場にいるはずない相手がいて、驚きと戸惑いに昂ぶりが鎮まった。そして最後に喜びを見つけて、困り果てるのだった。
***
森の中は散々たるものだった。
リリーは焼け焦げた白いローブを纏い、倒れ伏す魔道士達を見渡す。ローブの傷み具合を見るだに生存者はいそうにない。
木々も裂かれてずたずたで、森の中は死臭が充満している。
雨音がすすり泣きにも聞こえてくる。
リリーは濡れた土を踏んで一歩ずつ確実にバルドへと向かって行く。どこにいるかは分かる。何かに呼ばれるような感覚がずっとある。それに従えば、必ず彼に会えると確信していた。
そうして、ついに横たわる骸のただ中でひとり立つ姿が見えてくる。
漆黒の獣。
初めて出会った時とまるで同じ印象を持つその姿。
中空を見つめる横顔は、感情の高ぶりで熱を帯びていた。
「リー……?」
なぜここにとでも言いたげな目をバルドが向けてきて、リリーは双剣を抜く。
「なんで驚いてるの? 出ていったんだからここにいたって不思議じゃないでしょ」
声をかけるとバルドはやはりどこか、現実感が伴っていない様子で瞬きをひとつする。
「神器を持って逃げたはず」
その解答にリリーは双剣の柄を強く握りしめる。
「贋物なんて、持って逃げるなんてすると思うの? だいたどこで聞いたのよ、それ」
いつでも魔力を流し込めるように指先に意識を持っていく。
「……ディックハウト方に潜ませている密偵からの情報。贋物と知っていたのはなぜだ」
「自分でも分かんないわ。直感としか言えない。で、それは本物なんでしょ。贋物とは全然違うわね」
リリーは神器の『剣』が握られているバルドの右手へと目を向ける。
彼がいつも使っている剣よりさらにひとまわり大きな両刃の剣からは強い魔力も滲み出ていた。一応は魔力を感じるなどという贋物とは明らかに違う、とても強い魔力。
自分を呼んでいたのはこれだと思った。
また胸の辺りが火照ってくる。
「まあ、そんなこと、今はどうだっていいわ。あたしもあんたも剣を抜いてる。やることはひとつよね」
ぬかるんだ地面を踏み込んで、リリーは一足跳びにバルドの懐に踏み込む。
さすがにバルドの反応は早く、振り下ろした刃は受け止められる。
刀身が触れ合うと、怖気がするほどの魔力を感じた。
距離を取って、視線を合わせればバルドの瞳に燻っていた炎が激しく燃えあがるのが分かる。
出会った頃と同じだ。
(やっぱり、楽しい)
刀身同士が触れ合う瞬間に、楽しいという感情とと勝利への欲求以外が吹き飛ぶ。
リリーは昂ぶってくる感情のままに猛る深紅の炎を放った。
神器によってそれはまっぷたつにされるが、間髪入れずに青白い高温の炎の高波を起こす。
「リー、ここは森。危ない」
憎らしいほど余裕で炎を雷で引き裂いてかき消すバルドの懐へと、飛び込んで行く。
水流を纏わせた右の刀身で大剣を受け止め、もう片方の切っ先を胸に向ける。
しかしそう簡単に届きはしない。バルドが剣を握る手に力を込める。退かねば彼の心臓を貫くより、剣を砕かれ肩ごと腕が落ちるのが先だ。
バルドが護った自分の片腕。
ふっと夜会の時を思い出してリリーは一瞬、呼吸を乱される。
「あんたと違って、あたしはいろいろ扱えるから問題ないわよ」
だがすぐに自分を取り戻して後退すると、笑いながら右の剣に絡みつく水流を解き放つ。押し寄せる水流にバルドが足を踏ん張って、衝撃に備える。
普段の彼なら、雷を水に乗せてくるところだが。
リリーは違和感を覚えつつ、バルドが完全に護りに入っているのを確信してもう片方の剣から雷を放出する。
水は足止めと目眩まし。雷は囮。
バルドが雷撃を剣で受け止めるとき、リリーはすでに彼の背後にいた。
即座に振り返る彼の、神器を握る腕を左の剣から放った炎で縛り上げて、もう片方の刃を今度こそ心の臓を貫くべく突き出す。
しかしバルドが体を捻って、切っ先を急所から外す。
少しでも傷を浅くすませるのが彼の狙いではなかった。リリーが踏んでいた倒木の残骸の端を、バルドが蹴りつける。
「っ!」
足下が揺らぎ、リリーは体勢を崩した。立て直そうとする隙に心臓を狙っていた剣を持つ右腕を掴まれて、引き倒される。
倒れる時、さらにバルドが体勢を変えて組み伏せられた。右手から剣は取り落としたが、それでも左手はかろうじて柄に指を置いている。
しかし両肩を骨が軋むほどの力で押さえつけられて、魔術を放つのに上手く集中できない。
(まだ勝てる)
柄に手が触れている限りは、どうにか踏ん張れば魔術を放てる。
バルドは神器を握っていないものの、すぐに掴める場所にある。だがそれを掴むより自分が早いはずだ。
骨が砕かれる前にと、歯を食いしばるリリーは顔の上に湿った何かが落ちてきて目を瞬かせる。
それは炎で焼けて千切れたバルドの右腕のローブだった。
たったあれしきのことで、バルドのローブがこんなことになるはずがない。
「……バルド、魔力、ほとんど空っぽなんじゃない?」
魔術も際限なく使えるわけではない。延々と走り続けると息切れするのと同じだ。
攻撃にも魔力を多く使うが、ローブも魔道士の魔力を吸い上げて防御としている。魔力が枯渇すれば、たいしたことのない魔術攻撃が致命傷にもなり得る。
自分と戦う前にあれだけ盛大な魔術を使ったのだ。いくら神器自体が魔力を持っているとはいえ、魔道士本人も相当消耗したらしい。
「神器は魔力を多く消耗する」
バルドが荒い息で予測を肯定する。
それでも自分は勝てなかった。いや、まだ勝機はある。すでにバルドが自分の肩を押さえる力を弱めていて、今からまだ隙をつける。
なのになぜか、バルドは自分から戦う術を奪ってしまわない。
「離叛したあたしがここにいるってことは、敵でしょ。演習じゃないのよ。ねえ、なんで、そこでやめるの? このまま、あたしが剣を持てないようにするべきでしょ!!」
リリーはバルドに生かされていることが、腹立たしくなってきて声を荒げる。
どうして彼はこんな中途半端な状態で放っておくのか。
肩を押さえていたバルドの力は跳ねのけられるほど弱く、剣を使わずとも喉を食い破れる。まだ自分は負けてはいないのに。
もはや自分は彼にとっての獲物ですらないんだろうか。
「嫌よ、こんなの嫌……ちゃんと止めさしてよ」
ひくりと喉がなって、視界が滲んだかと思うと明らかに雨とは違う熱をもった滴が、目尻からこめかみへと流れて止らない。
一番最初に結んで一番最後まで繋がっているはずのものまでぷっつりと切れてしまった気がして、リリーは子供のように癇癪を起こしていた。
「リー……」
バルドが戸惑った顔を見せて、リリーはぐっと嗚咽を呑み込む。もう彼の腕の力はなく、左手はやすやすと剣の柄を握れた。
なのに、ここから何をする気にもならなかった。
負けたくはない。だけれど勝ちたくもない。
どちらかしかないはずなのに、どうしてどちらでもなのだろうか。
「…………リーのことだけは、離叛しても見逃していいと兄上が仰った」
迷子の子供のような顔をしていたバルドが、雨音よりも弱い声でそんなことを言った。
リリーは呆気に取れて、バルドを見上げる。
「皇太子殿下? そんなことしてどうなるっていうのよ」
「ハイゼンベルクが勝てる見込みは低い。ここで闘う理由もないのに、留めておいてはいけない」
ラインハルトの言葉をなぞるバルドが目を伏せる。
「この神器でハイゼンベルクが勝てる保証もない。できるなら、ディックハウトにいた方が生き延びられる可能性が高い」
確かにハイゼンベルクの先行きは暗いままだ。神器の威力がどれだけあろうと、扱うのはひとりの魔道士。費やせる魔力には限度がある。現に今もバルドはすでに魔力が枯渇しかけている。
「全部、皇太子殿下の言う通りに動いてたってわけ?」
この離叛を仕組んだのもラインハルト本人で、バルドはそれに従っていたと、ただそれだけのことだったらしい。
バルドは肯定して訥々と、ディックハウトがリリーを引き入れられると考えるように、離叛者の疑いがかけられていることを話してみたり、軍内でも居場所がないと思わせるために運び手に監視を命じたりしたと語る。
「なんでよ、なんでそんなこと勝手に決めるのよ! だいたいあたしは生き延びたいなんて一回も言ってない! 戦が終わったら、戦えなくなったら、あたしにはなんにもないんだから、どっちについたって一緒なんだから……」
また喉が鳴って、止まっていた涙が溢れてくる。こんなに泣いたのは子供の頃ですらなかった。
悲しいのか、痛いのか、苦しいのか。全部かもしれない。
「リー……」
バルドが困り果てた顔で、涙を止めようとしているのか頬に触れてくる。伝わる熱が無性に懐かしくて、もっとちゃんと触れて欲しくなる。
自分には何もないはずなのに、どうしてとても大事なものを取り戻した気になってしまうのか。
「もうさわらないで、やだ。あたしのこと、遠くへ追い出すバルドなんか嫌い。大嫌い」
こんなものを与えておいて、今さらひとりきりで放り出すなんて酷い。
リリーは大嫌いだと、繰り返しながらバルドの肩を叩いた。そうしていると背中に腕が回されてふっと上半身が浮き上がる。
そしてそのまま抱き寄せられて、冷えたからだが馴染んだぬくりもりに包まれる。
高い熱をもったものに、鋼のように頑ななものが熔かされてしまう。
「なんで、一緒にいさせてくれないのよ……」
バルドに縋りついて嗚咽で枯れた喉から掠れた声で思わずこぼすと、きつく抱きしめられた。
「……恐かった。リーと戦って勝ちたいのか、最後まで一緒にいて欲しいのか。どれを選んでもリーがいなくなる。リーがいなくなるのはとても恐い。同じいなくなるなら、生きたままいなくなる方がいい」
すぐ側で聞こえる声は淡々としているのに、不安と恐怖で震えている気がした。それにリリーが胸の奥にしまってあったものが共鳴して浮かび上がってくる。
(あたしも恐かったんだわ)
戦場も死も怯むものではない。しかしバルドがいなくなるのが恐い。一緒にいられなくなるのがたまらなく恐い。
(いつだってそうだった)
出会って数ヶ月経つ頃にはいつの間にかバルドが会いに来るのを待っている自分がいた。待ちきれなくて、自分からバルドに会いに行くようになっていた。
どこにいても中途半端で、居場所を見つけられなかった自分が初めて居心地がいいと思えた場所は彼の傍らだった。
だけれど、身分があまりにも違いすぎて、いつかなくなってしまうものだとの思いから無意識のうちに執着してはいけないものにしてしまっていた。
そして、士官学校を出ればすでにハイゼンベルクの終わりが間近に迫っているのを知ってしまった。
「そんなのあたしだって恐いわよ。でも、一緒じゃないのはもっといやよ……」
体を少し離して、リリーは滲んだ視界でバルドを見返す。彼は何も答えずに自分を見つめて、濡れた目尻へと口づけた。
雨と涙で頬へふわりと熱が触れて、やがて唇にそれはたどりつく。
リリーは重なる吐息に、目を細めた。
ほんの少し触れられるよりも、きつく抱きしめられるよりも、ずっと確かにバルドの存在を強く感じられる。
(こういうことなのかな)
リリーは特別の意味をやっと見いだして、一瞬離れた唇を追って自ら口づける。
(ああ、でもあたしはとっくに知ってた)
眼裏にバルドと出会ってからの光景が蘇り、初めて口づけられた日が鮮明に浮かび上がってくる。
唇を重ね合わせて、視線を絡めて、自分はバルドがとても特別で、彼も同じだと知った幸福感があの不思議な甘い感覚だった。
なくしてしまうと分かっているものが、特別だなんて知りたくなかった。
特別なんかじゃないと確認するふりをして、本当は何度も幸せを感じたくて、何気ない日々の戯れに口づけを紛れ込ませていた。
「……俺も、リーと一緒がいい」
唇が離れて吐息と共に、バルドがそうつぶやいくのが聞こえればまた涙がこぼれ落ちる。
「じゃあ。それでいいじゃない。一緒にいよう」
そうしてふたりはやっと立ち上がって身を寄せ合う。その時、血に汚れた骸が真っ先に目に入った。
ひとつだけではない。周りには無数の遺骸が転がっている。剣に斬られ、砕かれ、雷に撃たれた骸が自分達を取り囲んでいる。
(……あたしはもうバルドから離れない。誰にも邪魔させない)
リリーは骸も倒れた木々も同じにしか見えていないだろうバルドの胸に顔を埋める。
「リー?」
「帰ろう」
そう声をかけると、不思議そうにしているバルドはただ静かにうなずいた。
***
リリーがバルドと共に森から出る頃には、雨はあがっていた。千切れた雲間は焼け爛れているかのように赤い。
木々からこぼれ落ちる滴も、地に倒れ伏す者達のローブも何もかも夕映えに赤く染まっている。
「ところであたし、このまま軍規違反で懲罰とかないわよね。さすがに皇太子殿下が便宜図ってくれるわよね」
バルドの側に戻ると決めたはいいが、最大の問題はそこだった。
リリーのためを思ってということで離叛までがラインハルトの計略だったなら、戻ると決めた以上遠慮なくどうにかしてもらうことにする。
「…………リーは、極秘任務についていた」
「それでいいわね。内部調査のために裏切ったふり。そういうことにしておいてもらうわ」
ここまで派手に掃討作戦を決行したのだ。その作戦の一部であったことは確かなのだから、いくらでも誤魔化してもらえるはずだ。
ひとまず雷軍内の裏切り者も数人見つけられた。次の戦に向けての準備と今回の後始末でしばらく忙しくなりそうだ。
「なんだ、無事だったのか。…………もどってくるのか」
最初の出迎えはクラウスだった。軍に戻ることを話すと、安心しているようで、心なしか残念そうな顔に見えた。
「カルラは?」
リリーは任せたカルラのことが気になってクラウスに問う。
「離宮の周辺は何人か生きてたからそいつらと一緒に捕縛して、皇都に先に連れて行った。後始末もあるから、半分はここで泊まり。俺らは帰れるぞ」
「そう。もう移送されたの」
もう一度ぐらい顔を合わせられないだろうかと思ったが、残念ながらもう無理だろう。この後の処遇は投獄か処刑。前者であればいいが。
リリーは気にしても仕方がないと、沈みかけた気持ちを引き上げる。
「バルド、一番最初に出ろ。全員行儀よく控えてる」
クラウスが道を空ける向こうには、魔道士達が膝をついて待っていた。そのただ中へバルドが進む。
リリーはその姿を後ろから見守る。
魔道士達の表情にあるのは畏敬ではなく畏怖だ。誰もが巨大すぎる力におののきを隠せずにいる。
空に向けてバルドが神器の刀身が高く掲げる。ぬらりとした刀身が返す光は赤い。雨で洗い流されているはずなのに、まだ血で濡れているかに見える。
吸い寄せられるように誰もが天を引き裂いた刀身から目を離せない。
「粛正は我が右手により相成った。正義は我らにあり」
熱の籠もらない声だ。用意された言葉をただ連ねただけ。
だけれど、他の者には頭上から響く音は獣の唸りに似た雷鳴として耳に轟いているのだろう。
誰もが身を硬くし、神妙な面持ちでいる。同じ表情を見た事がある。
そう、離宮に集まっていたディックハウトの信奉者だ。
リリーはバルドの大きな背に目を細める。
鎖に繋がれた獣だ。
彼は自分の両手足に繋がれている鎖に気付いているのだろうか。誰がその先を握っているのか分かっているのか。
「……嫌ね。こういうの嫌いだわ」
歓声が上がる。
命ある限り忠を尽くし闘うことを誰もが口々に叫んで、まるでこれが勝利への大きな一歩であるかのごとく歓喜する。
質の悪い熱病のように、皇都にもこの昂ぶりは伝播していくだろう。
「俺も、だな」
熱気に包まれる中には入り込めず、リリーとクラウスはひと足先に暗がりがやってくる森の中で留まっていた。
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