世界の主たる三大陸から離れてぽつりと海上に佇む国、グリザド皇国。

 この小さな島国は五十年余り、皇家がハイゼンベルク家とディックハウト家に二分し、それぞれ皇主として君臨しようと正統性を争い、内乱が続いている。

 ここ数年、両者とも疲弊が募って下火とはいえ、戦火が絶えることはなく今日も島の南東部の湖の際では争いが起きていた。

 広い湖畔を臨む灰色の砦の西側では、黒いローブを纏った者達と白いローブを纏った者達が争っている。

 『魔道士』と呼ばれる皇国の軍兵達だ。

 黒がハイゼンベルク方、白がディックハウト方となる。

 魔道士達が握る剣からは燃え盛る炎が、あるいはうねる水流が、またあるいは疾風が放たれて、ぶつかり合う。

 黒がわずかばかり数が劣り、白に押されている。

 じりじりと後退する黒の集団の中、ひとり前へと突出していく姿があった。少女と見られる背格好の人物は両手に剣を持っている。

「負傷者は退避!」

 十七になったリリーは周囲に命じてひとり白の集団へと突っ込んでいく。

 襲い来る炎を右手の剣に水を纏わせて受け流し、押し寄せる疾風を左手の剣の炎で巻き込んで、そのまま十数人の敵を火で包む。

 特殊なローブで身を護っているとはいえ、全てを防ぎきれずに負傷した者達は彼女との距離を空ける。

 リリーへ新たな攻撃が向けられる。

 正面から真っ直ぐに放たれる青白い雷光。

 リリーは俊敏に双剣を体の前で交差させ、敵と同じく雷光を纏わせて盾にする。そして攻撃を弾いた衝撃で、背後からの炎の攻撃を敵もろとも吹き飛ばす。

 強い力の奔流で巻き起こった風でフードが外れ、リリーの癖の強い金茶色の髪がこぼれ落ちた。そして彼女の相貌も露わになる。

「ああ、もう髪が傷む」

 そうぼやく彼女の面立ちは整っていて愛らしい。

 特に印象的な深緑の大きな瞳は吊り目がちで、獲物を前にした猫のように爛々と輝いている。

「リリー・アクス……まずい」

 リリーの周りに群がり始めた白のひとりが、愕然とした声でつぶやいた。

「今頃気づいても遅いけど、名前まで知られてるとは思わなかったわ。双剣ってとこで気づかれなかっただけでもいいか」

 リリーがそう言うと同時に砦の東側で爆音がする。

 負傷した味方の後退を援護することと、東側からの増援が来るまでの陽動がリリーの役目だった。

「くそ、『雷獣』がくるまでにあの小娘だけでもやれ! 総督に至急防護の強化を!!」

 浮き足立つ白側に指揮官とおぼしき男が命じて、数人が東の塔へ向かって行き、他は皆リリーに刃を向ける。

 多勢に囲まれ退路もない中で、リリーはほんの少し口角を上げる。

 そして彼女が纏う雰囲気は一変する。

 先ほどまでの戦闘は仔猫がじゃれついていたようなものだと、白達は次の瞬間に気づかされる。

 防ぐことも攻めることもできず、瞬く間に白達は少女ひとりに焼かれ、吹き飛ばされる。

 リリーが指揮官の前に立つ頃には、ローブが真白いままでいる者は半数に満たなかった。


***

 

 指揮官を叩き伏せた後、戦意を喪失した敵を横目にリリーは砦の東側を制圧した増援と合流していた。

「補佐官殿、ご無事で」

「髪があんまり無事じゃないけど……後で毛先切らないとなんないわ」

 部下に迎えられた将軍補佐であるリリーは、熱で痛んだ毛先を見やって唇を尖らす。

 魔道士にとってローブは鎧だ。己の血を数滴染み込ませたローブは各自の魔力に応じて鋼よりも強硬に身を護ってくれる。

 兜にあたるフードもそう簡単には取れないが、さすがに派手に魔力をぶつけ合うとうっかり外れてしまう。

 頭をやすやすと狙われる心配のないリリーにとっては、髪が傷んでしまうのが最大の悩みだった。

「いっそ短くしたらいいのに。リリー、似合うんじゃないか?」

 話しかけてきたのは、軽薄な口調とは裏腹に生真面目そうな銀髪と眼鏡の優男だった。

 彼の眼鏡の奥の瞳は涼やかな青で、整った風貌も相まって穏やかな文人に見える。しかし腰には刀身の長い剣を一振り佩いていた。

 どことなく不均衡な印象の青年は、クラウス・フォン・フォーベック。五代続けてハイゼンベルク方の宰相を務めるフォーベック家の次男だ。

 大して役目を果たしていないが、バルドのお目付役である。最初にバルドと会った時も彼は側におらず、ひとりで士官学校の見物をしていたらしい。

 それでもバルドに近いところにいることが多いので、リリーとも付き合いだけは長い。

「長い方がいろいろできるから好きなの。そうだ、そんなことよりクラウス、城壁吹き飛ばしすぎなかったわよね」

「『杖』がいたし、大丈夫、大丈夫、そんなに補修には手間取らない。なあ」

 クラウスは周囲に同意を求めるが、微妙な反応しか返ってこない。

 彼の魔術は威力こそあるが、いつも加減が大雑把なせいか暴走する。おそらく予定より大幅に破壊したに違いない。

「……あんたのやることだから想定内だけど、それでバルドは予定通り?」

 もはや長年の付き合いでクラウスの仕事の雑さには半ば諦め気味のリリーは、これ以上言い合う気力もなく塔の方へ目を向ける。

 塔は薄い皮膜に似たものに包まれて、表面を雷光が走っている。

「てこずってるわけじゃないわよね。単にやる気がないだけ?」

 リリーはクラウスを見上げて眉を顰める。

「リリーがひとりで陽動役買ったから拗ねてるんだろ。うちの将軍様は我が儘で困るな」

「あんたは人のこと言えないでしょうが、この駄眼鏡。様子見てくるからここ頼んだわよ」

 やれやれとリリーは塔へと向かって歩き出した。

 周囲の魔道士達は皆、一様に帯剣しているが中には杖を持った者もちらほらいる。

 魔術を扱うためには媒体がいるのだ。魔道士の魔力は一時的に媒体に溜め込まれてから、様々な力に変えられて放出される。

 本人の資質によって攻撃を主とする『つるぎ』、防衛を主とする『杖』、治癒を行う『ぎょく』のいずれかを選ぶことになる。

 いずれにしてもローブと同じように、自分の血を用いて術者との繋がりを作っておかねばならない。

「塔ごと破壊しない力加減が面倒くさいのかしら」

 現在ディックハウト側の『杖』の魔道士によって護られている塔が間近に迫って来る中、リリーはなぜ自分の上官である将軍があの結界を破れないのか考える。

 塔付近に来れば白いローブの敵兵が多く倒れているのが見える。敵もいないが、巻き添えを食らいたくないのか味方すらほとんどいない。

 やがて大きな黒い影が見えてくると、リリーはひとつ深呼吸をした。

 まだ十数歩先にいるのに、肌がぴりぴりするする強い魔力を感じる。常人なら本能的に近づくことを躊躇うだろう。

 しかしリリーは臆することなどない。

「バルド、変わるわよ」

 出会った頃よりさらに成長し、自分より頭ふたつ分近く大きくなったバルドへ無遠慮に声をかける。

 彼はちらりと振り返り、少年の頃よりも精悍さが増した顔でリリーを見やる。鈍く光る紫の瞳は気の弱い者なら失神してしまいそうなほどに鋭い。背丈が高く頑健そうな体格に、殺伐とした雰囲気も合わさって、ますます獣じみてきている。

 彼はハイゼンベルク家の次男、つまりグリザド皇国の第二皇子として、二年前に年若いながら皇軍五将のひとりとなった。

「リー、嘘」

 唸るようにバルドがリリーを愛称で呼び、短く批難する。

「嘘は言ってないわよ。本当のこと、言わなかっただけ。将軍がひとりで陽動なんてしないの。大体、ここに一番にたどり着くのはあんたっていう命令でここに来たんでしょ」

「卑怯」

「だって、向こうの総督が『杖』って言ったら絶対にクラウスあたりに押しつけてたじゃない。それに命令を盾に取るのは別に卑怯でも何でもない。ほら、その辺の文句は後で聞くから代わる、代わらない?」

 リリーの質問にバルドは返答もせずに塔に向き直る。

 塔の側では中年の白いローブを纏った男が杖を構えていた。その周囲にも十数人の杖を握る者達がいる。おそらく増援がくるまでバルドの魔力を削っておく算段だろう。

(無駄な抵抗だわ)

 リリーがそう思った時、バルドが雷光の絡みつく大振りの剣を一振りする。

 耳をつんざく轟音。視界から色が消し飛んで真っ白になる。

 ひとつ瞬けば、杖が折れて倒れ伏す魔道士達の姿が目の前にあった。総督だけは膝をついているものの、かろうじて倒れていない。

 衝撃のせいか埃やよくわからないものが頭上にぱらぱらと落ちてくる。

 これだけの数の魔道士が作った結界を、たった一撃で破るのは至難の業だ。それをなしえるだけの強大な力と、雷のみを操るがために、バルドは敵から『雷獣』とあだ名されていた。

 味方側にも密やかに呼ぶ者はいるものの、表立っては別の呼び方がされている。

「あたしに文句言うためだけにもたもたやってたわけね」

 広い背中に呆れた声をぶつけると、彼は何も答えず塔に向かって歩き始めた。リリーはまったくとぼやいてその後に続く。

「ハイゼンベルクの獣が……全ては我らが皇主様のものだ。ディックハウトこそ、真の魔道士の頂に立つ者だ」

 結界を破られた反動で両の腕をずたずたに引き裂かれ、ローブを深紅に染める総督がバルドを睨む。

 総督を一瞥もせずにバルドは塔の中へと突き進んでいく。

 リリーは後ろから味方がやってくるのを確認して、バルドを追って塔の中に入った。灯もなく窓も小さい塔の中は暗い。

「救援に参りました! アンテス卿、どちらにおられますか?」

 リリーが声を張り上げると音が反響する。やがて返事がした方へふたりは向かった。

 鍵のかかった扉をバルドが力尽くで開けると、薄汚れてはいるが気品の漂う紳士がいた。彼は突然暗い扉の入り口からぬっと現れた死神のような大男に怯んだものの、それが誰なのか悟るとすぐさま跪いた。

「おお、バルド殿下……! まさか『雷皇』御自ら救援に来て下さるとは」

 少々多げさにアンテス卿が感涙して、もうひとつのバルドの呼び名を口にする。

「将軍」

 リリーはひとまず補佐官らしくバルドの後ろで膝をつき、アンテス卿へ気の利いた言葉をかけるようせっつく。

「…………忠臣のためならば当然のこと」

 事前に用意されていただろう台詞を抑揚なくバルドが言う。棒読みな上におそらく表情すら微塵も動いていないこの言葉はあまりにも嘘くさい。

 だがアンテス卿には、素晴らしいお言葉に聞こえたらしくひたすらに感動している。

「して、そなたは双剣ということは補佐官殿か。本当にお若い」

 やがて好奇の視線が向けられて、リリーはうつむきがちだった顔を上げる。

「若輩者が殿下のお側に仕えているのは心許ないでしょうが……」

「ああ。いや。よくやっていると聞いている。それよりも砦奇襲の命を受けておきながら、敵に囚われてしまった私のほうがよほど面目ない」

 本来この砦攻略は、湖近くに領地を持つアンテス卿の指揮の下に行われていた。綿密に奇襲計画まで立てていたのだ。しかしながら、皇都に救援要請が届いた。

「……バルド殿下、己の失態を言い訳するつもりはないのですが、ただ腑に落ちないのです。敵方は我々の動きを事前に把握していたとしか考えられません」

「承知」

 短すぎる言葉と感情の読めないバルドに、アンテス卿が戸惑いを見せる。

「内通者の可能性に関しては、こちらでも疑いを持っています。それにアンテス卿の軍が全力を尽くし、策にあたったのは分かっています。ですから、こうして即時殿下自ら救援に参りました。後ほど、詳しい状況をお聞かせいただけますか」

 リリーが補足すると、アンテス卿は大きくうなずいて感心する。

「噂に違わぬというか、いえ、殿下、どちらへ」

 バルドが突然無言で身を翻して、すたすたと出て行く。

「卿がゆっくりと身を休められるよう、殿下はお下がりになるそうです」

 実際は話をするのが面倒くさくなっただけに違いないが。

 七年経った今でも、バルドは変わらない。そのために十五の時、自分は他の人間とバルドの仲介役として将軍補佐に任じられた。

 戦場に放り出しても簡単には死にそうにないぐらいの実力を認められた形でもあるが。

(もう、やだ。敵は弱くてつまんないし、仰々しい喋り方しなきゃだし。だいたいこういうのはクラウスがやるべきなのよ)

 リリーは心中で愚痴を吐いて、入れ替わりにやってきた媒体として貴石の填った指輪をつけている『玉』の魔道士にアンテス卿を任せる。

「勝ったはいいがいつまで保つか」

「北も危ないらしいぞ。あちらが落ちればこちらもまた……」

 すれ違う魔道士達の声に戦勝に対する喜びは薄い。彼らの顔には疲労と憂いばかりしか見られなかった。

 リリーはますます気が滅入るだけの会話を聞き流して塔の外に出る。

 明るい屋外もまだ埃が舞い、焦げ臭さや血の臭いばかりで気が晴れる要素は欠片もない。リリーはローブを被り直し、視線を手持ち無沙汰でぼんやりと立っているバルドへと視線を向けた。

 彼に近づく者はいない。意図的に避けているのが分かる。

 声をかけてもほとんど返事らしいものはなく、いつも凶悪な顔つきで機嫌の善し悪しも分からないので下手に怒らせたくないと誰も彼に近寄らないのだ。

 彼らの脳裏には戦闘時のバルドの姿がこびりついていた。

 他者を圧倒する魔力で敵を屠る姿は、縄張りを荒らすものを容赦なく襲う猛獣そのものだ。

 迂闊に機嫌を損ねたらどうなることかと誰もが恐れる。

 まっとうに言葉を操らない、表情もほとんどない。そうして戦闘時の獰猛さもあって、味方からも密やかに『雷獣』と呼ばれてしまっている。

「連勝記録がまたできたわね」

 リリーは彼の隣に立ち、つまらなそうな顔を見上げる。

 ハイゼンベルクの第二皇子は不敗の将としても知られる。

 バルドは確かに強いが、勝てる見込みの高い戦にしか出されないからでもある。圧勝と見せかけるための出陣だ。

 そんな小細工をするほど、今のハイゼンベルクは追い詰められていた。


***


 今より千年ほど昔、小さな島にグリザドという男が現れた。彼がどこからやってきたのか誰も知らない。ただその男は不可思議な力を持っていた。

 彼の振るう剣からは炎や水が溢れ、かざした杖は目に見えない頑健な城壁を作り、身につけた指輪で人の傷を癒やした。

 グリザドは不可思議な力を人々に分け与え、多くの魔道士を作り出して島を己の国とし皇主として君臨した。これがグリザド皇国の始まりである。

 そしてグリザドは島の北東に位置する丘の頂上に構えた城を頂点にして、螺旋状に白壁の街並が広がる皇都ベルシガを築いた。

 現在、ベルシガに皇主として君臨するのは、グリザドの血脈を引き継ぐハイゼンベルク家である。

 王宮は上から見下ろすと正方形の形をしていて、荘厳さより精緻さに凝っている。

 リリーはバルドと共に、海を見渡せる白の屋上部にある空中庭園にいた。ふたりとも戦場ではないのでフードは被ってはいないものの、軍人としてローブを纏い帯剣したままである。

 リリーは高く結い上げた髪を揺らしながら、初夏を間近にして落ちた遅咲きの椿が流れる水路を沿いに歩く。

 たどり着いた四阿には、車椅子に乗った黒髪の青年がいた。

 彼はふたりの姿を認めると二十歳前後の若い侍女をひとりだけ残し、他に控えていた者を下がらせる。

「帰還早々呼びつけてすまないね」

 理知的な雰囲気を宿す青い瞳を持つ蒼白い肌の青年が柔らかく微笑む。

 体つきは華奢で袖口から覗く指先も少女のように細く白いが、不思議と脆弱さは感じられない。

 堂々たる雰囲気の彼は二十六になる第一皇子のラインハルトだ。つまるところバルドの兄である。髪の色と整った造作以外は真逆だが、バルドとは同母兄弟になる。

「役目、果たしました」

 バルドがラインハルトに声をかけている間、リリーは膝をついて様子を見守る。

 いつも通り無愛想ではあるが、内心は誇らしくあるのだろう。いつもよりは声に抑揚を感じられる。

 ラインハルトは子供の頃から体が弱く跡目を残せない。だからこそこのふたりに争いの火種はなく関係は良好で、バルドは兄の前では借りてきた猫のように大人しい。

「よくやってくれた。リリー、君にもいつも苦労をかけるね。それで、アンテス卿からは……そうか。やはり内通者か」

 リリーが聞き取ったことを説明すると、ラインハルトが膝の上で手を組んで悩ましげに眉根を寄せる。

「排除、します」

 兄の苦悩に殺気を立ちこめさせるバルドに、ラインハルトが苦笑する。

「ディックハウトの信奉者を一掃できればそれに超したことはないのだがね……もうずいぶん入り込まれてしまっている。このままでは、内から崩されるのも時間の問題か。そろそろ臣民への取り繕いも難しいな」

 現在、表面上は獲得している領地の大きさや兵力でハイゼンベルクが優位だ。

 それに手を打つ形でディックハウトは十数年前より、魔道士の血脈の神聖性を喧伝し始めた。五年前からは弱冠五歳で即位した幼い皇主を祀り上げて、本格的に神格化を推し進めている。

 一時期ハイゼンベルクが領土拡大に躍起になり、下級魔道士を使い捨てにする戦略を乱発した失策もあり、ディックハウトの信奉者は増えている。

 表向きは黒だが、いつ白にひっくり返るかもしれない領主の数も増えた。ハイゼンベルクの敗戦の影は、次第に大きく膨らみ始めている。

「こちら側が約定を破ったという事実が根底にあるのも分が悪いな」

 ラインハルトが重苦しくつぶやく。

 ハイゼンベルクとディックハウト。どちらもグリザドの血を引き、一時期は両家で皇位を交互に継ぐ取り決めをしていた。

 しかし五十年前、ハイゼンベルクが約定を破り、戦乱となった。

(まあ、そこだけ聞いたらそりゃこっちが悪いわよね。ディックハウトの統治力がなかったっていうのも怪しいし)

 リリーは話を聞きながらそう思う。

 士官学校時代にハイゼンベルクはディックハウトの政策方針に危機感を抱いた、と大義名分をあれこれ習いはしたものの、胡散臭い。

(あたしにはどっちが正しいかなんて、どうだっていいことだけど)

 己の全力を持もってぶつかって、勝利する瞬間のあの何ものにも変えがたい高揚感を得られるならなんだろうといい。

 ただひとつ、ハイゼンベルク側であることに思うところがあるとするなら。

 リリーはバルドの広い背を見上げる。

 彼との出会いが戦場でなかったことが、幸か不幸かいまだに分からない。

「兄上が皇主になればいいのです。父上は不要。宰相はもっと自重すべき」

 バルドの言葉は父親とはいえ、皇主に対するものとしてはあまりな言いようだったが、事実ハイゼンベルクの現皇主は無能だ。

 とはいえ、現在によらずここ数代の皇主は、宰相の言うことに是と応えるだけの首振り人形ある。ディックハウトも同様で、あちらの皇主はまだ十歳の幼子。

 皇家同士の争いも焚きつけたのはそれぞれの宰相家だ。実質は皇家同士というより、宰相やそれに追随する者の権力闘争である。

(だからクラウスに全部押しつけられないのよね。……そもそも押しつけてもあの駄眼鏡絶対やらないわ)

 本来ならばここにいるのは自分より、宰相家次男のクラウスの方が相応しい。ただこの傀儡政権状態をよく思わないラインハルトは、バルドの補佐をクラウスには任せきらない。

 そもそもクラウスはなんのかんのと言い訳してのらりくらり仕事からすぐ逃げるので、ラインハルトには好都合だろう。

(そのツケが全部あたしに回ってくるのはどうなのよ。というかもう下がっていいかな。新しいローブ作りたいんだけど)

 リリーは使い古したローブの新調に思いを馳せるが、ラインハルトからは退出の命がいつまでたってもでない。

「私がなったところで、現状はそう変わらないよ。それに、もう墓場に近い身だ。せめて生きている内に神器が揃うところが見られたらいいのだけどね」

「必ず取り戻します。リーも一緒にやってくれる」

 急にバルドに話題を振られてええ、とリリーは控えめに応える。

 皇家には代々引き継いでいる神器がある。

 皇祖グリザドの体は死後、右腕が剣に変じ、左腕は杖に、最後にその心臓は深紅の宝玉へと変化したという言い伝えがある。

 この三つが神器とされ、国の三箇所に社を造りそれぞれ祀り上げられていた。

 皇家を分断した争いの最中、剣と玉をハイゼンベルクが得て現在は皇都に安置しているが、杖はディックハウトに奪われてそのままだ。

 ディックハウトが現在皇都と称してるのも、杖を祀っていた社がある島の南西部である。

 それもまた分が悪かった。

 本来あるべき場所に祀られていなければならない神器を、ハイゼンベルクは皇都に持ち出してしまっている。

「お前が自ら取り戻すのが最良だな。いずれはお前が皇主となるのだから」

 皇位継承順第一位であるラインハルトが、現皇主より長生きできる可能性は低い。

 バルドが『雷皇』と呼ばれる所以も、実質的には次の皇主が彼に決まったも同然だからというのもある。

 そして今回の救援にバルドが選ばれたのも、次期皇主自ら真っ先に忠臣を救出するという演出のためだった。

 揺らいでいるハイゼンベルク家への忠を固めるためと、敵はもちろん味方に絶対的な力を見せつけるためにラインハルトはバルドを出陣させている。

(結局、誰が皇主になろうがハイゼンベルクはもう終わりだろうけど)

 士官学校にいた頃には戦勝の景気のいい話ばかり聞かされたものだ。

 だが実際将軍補佐という地位についてみれば、寝返りや困窮する戦局の処理ばかりで暗澹とした先行きしか見えない。魔道士達の士気も右肩下がりだ。

「そろそろ明るい話題も欲しいところだな。例えば、お前の婚儀もいい」

 ふと声色から憂鬱さを取り払って、ラインハルトが微笑む。

「婚儀」

 バルドが怪訝そうにつぶやく。

「そう。婚儀だ。そこでリリー、君にどうしても頼みたいことがあって、今日はそのためにきてもらったんだ」

「頼みたいこと、ですか?」

 リリーは警戒心も露わにラインハルトを見上げる。表情こそはにこやかだが、この皇太子が自分に頼みとはただごとではない。

「ああ。知人に紹介されたご令嬢をバルドの伴侶としたいと思っているが、バルドはこの通りだろう。君がいないと、上手く他人と交流できない」

 ラインハルトの声も表情も柔らかいままだが、言葉には確かに棘があった。

「さすがに、夫婦間で会話もできないでは困るから、彼女にバルドとの接し方を君が教えてくれないか」

「かまいませんが……弟君の方も人見知りが激しいので」

 ひたすら無表情で嫌そうな雰囲気を醸し出しているバルドに視線を向ける。

「それをどうにかするも頼めるかな。バルドも、リリーと親しい相手なら大丈夫だろう」

 返事を促されたバルドが無言でラインハルトとリリーの間で視線を彷徨わせる。

「エレン、彼女を呼んできてくれ」

 いつまでたっても返事をしない弟にラインハルトが苦笑し、側に控えている侍女に声をかけた。

 やがてエレンという侍女に付き添われてひとりの淑女が現れる。

 細身の群青色のドレスに身を包み、赤茶の髪を綺麗に結い上げたその人は、年の頃はリリーと同じに見える。

 緊張気味の表情が初々しく、愛らしい令嬢だった。

 やたら気位の高そうなお嬢様だったら面倒だと思っていたリリーは拍子抜けする。

 しかし同時に、これはこれでうっかりバルドに見つめられて気絶するのではと心配になる。

 実際に気の弱そうな令嬢が夜会でバルドにぶつかってしまい、視線を向けられて恐怖のあまり失神したことがあった。バルドは怒ったわけでもなく、反射的にぶつかってきたものを確認しただけだったのに、だ。

「バシュ伯爵家のご息女のカルラ殿だ」

 カルラが緑石の瞳を振るわせながらドレスの裾をつまみ優雅に礼をする。

「バルド殿下、お初にお目に掛ります。バシュ家のカルラです」

 リリーはちらりと、悪鬼の如くの表情になっているバルドの様子を窺う。

 ただでさえ険しい目つきが一段ときつくなっているのは、警戒心の現れだ。

 カルラが子兎のように怯え、笑顔が強張らせてしまっている。それでも悲鳴も上げずかろうじて笑顔を保っていた。見た目ほど繊細そうではなさそうだ。

「カルラ殿、バルドはこう見えて奥手でね。本当は優しくて良い子だからよろしく頼む。ただ口べたでもあるから、馴れるまではバルドの補佐官のリリーに困ったことを相談してくれ。彼女は士官学校時代から世話になっていて、君と同じ市井育ちで歳も一緒だから相談しやすいと思う」

「よ、よろしくお願いします」

 目に見えて胸を撫で下ろしたカルラに、リリーは目を瞬かせる。

「市井育ちなんですか?」

 カルラは生粋の伯爵令嬢にしか見えなかった。

「ええ。わたくしの母は父の妾でしたので」

 珍しくない話だ。貴族は家同士の利害関係だけで結婚するもので、身分が低ければ妻として迎えられることはない。その代わりに寵愛の度合いによっては家を用意してもらって妻同然の扱いをされることもある。子供は男児であれば正妻に引き取られたりするが、カルラは利用価値がでてきてやっと引き取られたらしい。

「あの、リリー様も市井育ちというのは?」

「あたしは孤児です。親は知りません。そういうことで、そんなにかしこまらなくてもかまいません」

「そうなのですか……」

 少女ふたりの間に微妙な空気が流れる。

「では、私はもう下がるから、バルド、くれぐれも失礼のないように」

 沈黙に困り顔を見せたラインハルトは、エレンに車椅子を押させてひとり退出してしまった。

「俺も帰る」

「ちょっと待ちなさい。あんたは帰っちゃ駄目でしょう。ほら、挨拶ぐらいはしなさい」

 その場から逃げようとするバルドのフードを掴んで引っ張る。

「話をするのは明日。疲れた」

 帰ってきてゆっくり兄と話せないどころか婚約者候補まで押しつけられたせいか、バルドは不機嫌そうにカルラを見る。

 見られたというより、睨まれたに近い彼女は青ざめた顔で硬直してしまった。

「噛みはしないから怖がらなくてもいいですよ。ほら、帰るならあたしじゃなくてカルラ様に何か言う」

「…………また明日」

 握ったフードを引っ張ってリリーが叱咤すると、バルドは不承不承といった体でそれだけ言った。

 リリーはため息と同時にバルドのフードから手を離して、後は放っておくことにした。

 機嫌が悪いときにしつこくついて回ると余計に拗ねる。自分から寄ってくるまでは放置しておくのが最良の対応だ。

(それにしたって、今日は気が短すぎよ。苦手な子でもなさそうだし)

 いつもはもう少し辛抱強いはずだ。つけ加えてラインハルトの命ならば黙って立っているだけでもしただろうに。

 小首を傾げつつ、バルドがいなくなって緊張が和らいだカルラに視線を向ける。

「ごめんなさい。殿下は顔が恐いだけで、闘う意思がない相手には攻撃しないから安心してください。……えっと、で、どうする? ごめんなさい。どうしますか?」

 つい口調が雑になり、リリーは言い直す。

「かまいません。わたくしは半年前まで市井暮らしでしたし、そんなふうに扱っていただく身ではないので……」

「じゃあ、普通に話すけどいい? あと、面倒だからあなたもそんなにかしこまらないで。あたしも噛みつきはしないから」

 カルラの瞳を見つめると、彼女は泣き出しそうな笑顔を作った。

「ありがとう。よかった。この半年、普通に話せる人がいなくて息苦しくて……。リリーは、すごいのね。バルド殿下とあんなに親しいなんて」

「馴れれば平気よ。顔以外は恐くないから……あなたも災難ね」

 結婚と口にしかてリリーは言葉を濁す。

 次期皇妃といえば聞こえはいいが、いずれ心中しなければならなくなるかもしれない命運だ。彼女はどれぐらい現状を把握しているのか。

「……大変だけど、せっかく父からいただいた役目だし果たしたいわ。あまりお気に召しては下さらなかったようだけど」

 不安そうにうつむくカルラの様子からは、一時しのぎの景気のいい話題作りに利用されることまで分かっているかは判断できない。

「人見知りが激しいだけ。カルラが馴染む頃には殿下も馴染むわ」

「ええ。そうだといいけれど……リリー、ちょっとだけ海を見ていい?」

 緊張の解けたカルラが言うのにリリーはうなずいて、庭の端まで案内する。花がほとんど落ちた椿の生け垣の道を抜け、陶磁器を散りばめた小道を進めば瀟洒な柵が見える。

 そこからは紺碧の海へと流れ込む街が見渡せる。白壁の家々は丘を下るほどひとつひとつが小さくなっていく。

「こんな高いところから海を見るなんて思いもしなかったわ。の家、ずっと下のあのあたりにあったの」

 カルラが湾港のすぐ近くを指差す。下に行けば行くほど階級は低くなるのだ。

「孤児院は反対側の中層にあったわよね」

「うん。でもあたしは五歳の時に士官学校に入ったから、あんまり覚えてないわ」

 全く覚えていないということはないのだが、あまりいい記憶はない。

 リリーは産まれて間もなく、真冬に孤児院前に捨て置かれていた。

 基本的に孤児院は戦で親を亡くした一定階級以の子供を一時的に預かる場だ。大抵の子供が一年足らずで縁者に引き取られる中、自分には誰も迎えがこなかった。

 聞きかじっただけの魔術を短刀で扱って遊んでいたのも、他の孤児から奇異に見られていた。

 ずいぶん前から士官学校の方へ院長が相談をしていたらしく、五歳になった時に士官学校から迎えが来た。

「五歳……それならご両親は」

 カルラが言葉を濁しながら大きな屋敷が立ち並ぶ上層に目を向ける。

 魔道士の力量は血脈が重要視される。グリザドより魔力を得た者の直系ほど、力の強い魔道士が産まれるのだ。逆に血が薄まれば魔力こそはあれど、魔術を扱うことは難しい。

 そしてグリザド皇国において、魔力の高さと身分は比例する。

 幼い内から器用に強い魔力を扱うリリーは、出自不明の孤児でありながらも上位貴族の血脈である可能性が高い。

 だから孤児院でも士官学校でも訳ありの半端者で浮いていた。

「カルラみたいにそれなりのご身分、かもね。知りたいとは思わないけど……カルラは魔術は?」

「わたしは母が魔力なんてほとんどなくて、魔道士になれなかったわ。リリーは、どうして知りたいとは思わないの?」

「放り捨てて名乗り出もしないのはよっぽど後ろ暗いんでしょ。わざわざ探す気になんないわ」

 実の両親に会いたいなどという感傷染みたことは、一度も思ったことがない。

 両親の記憶もなければ、親というのはまだ無力な子供の庇護者という認識しかなかった。

 庇護者がいないリリーにからかい半分でつっかかってくる貴族の子弟は多かった。彼らは親の権力と、確固たる血筋の力を自尊心に換えて、それをさらに充足させるために格下の自分を標的にしてきていた。

 得体のしれないものを排除したいという気持ちも彼らにはあったかもしれない。

(あたしには庇護者なんていらない)

 闘って勝てばいいのだ。

 それだけのことで煩わしいものは一掃される。自分の尊厳を傷つけられるのを怖れて、二度と近づいてこなくなるのがほとんどだった。しつこい奴もいたが、二、三度負ければさすがに諦める。

 売られた喧嘩をことごとく買って、獰猛な野良猫呼ばわりをされたってまったく気にもしなかった。

 自分を護るのは自分だけだ。挑まれたら戦って勝たねばならない。

(でも、あれだけ負けるのが嫌だったのに、バルドだけは違ったわね。一緒にいても全然平気だったし)

 一応はお目付役のクラウス曰く、あの試合はバルドが初めて人間に興味を持った瞬間だったらしい。そしてそれは、自分も同じだった。

 周りに人の気配があるとどうしても無意識のうちに気を張ってしまうのに、バルドとふたりきりの時は違う。むしろひとりきりの時よりも、穏やかな心地でいられる時もある。

 気がつけば七年も一緒にいる。

「リリー? ごめんなさい。初めて会うのにいろいろ聞いてしまって……」

 過去に思いを馳せていたリリーは、カルラの声に引き戻される。

「大丈夫。ちょっとぼんやりしてただけ。……バルドがいないことには仕方ないわね。下まで送っていくわ」

 こくりとうなずいてついてくるカルラは、従順で諾諾と流されていくだけのか弱い少女に見えた。

(あんまり気が進まないわね)

 リリーはカルラを見送ると表情を曇らせて、自分も兵舎へと戻っていった。


***


 魔道士達が詰める兵舎は王宮を取り囲むように、将軍の数と同じ五棟建っている。どれも一様に真四角の演習場を中央に据えた、三階立ての白壁の建物だ。違いといえば、両開きの大きな正門に刻まれている文様程度だ。

 そのうちのひとつ、王宮西側にある兵舎が雷軍の棟、バルドを将とする兵舎となる。

 千人近い魔道士が詰める兵舎は十分な広さをとっているものの、正門前の大廊下は黒いローブの集団でごった返している。

 大廊下から右手に曲がり、少し狭い通路に入るとクラウスが待ち構えているのが見えた。

「リリーお帰り。バルド、すっごい不機嫌そうだったけど、なんかあったか?」

「んー、あー。婚約者候補を皇太子殿下に押しつけられたのよ。バシュ伯爵令嬢のカルラ様。知り合いじゃないわよね」

 リリーは意味深にクラウスに訊ねる。

「やだなー、俺が女の子なら誰でも手を出すみたいな聞き方」

「……気に入ったらすぐに手、出して揉めてるじゃない」

 クラウスの女癖の悪さは酷いものだ。士官学校時代から複数の相手と付き合っては揉めごとを引き起こしている。それでもひっきりなしに相手がいるのは、顔と家柄の良さと、口の上手さゆえだった。

「反論できないな……。でもカルラ嬢とは面識はないよ。まだ正式にお披露目もされてないし、手の出しようがない。母親は娼婦で娘の父親候補は片手じゃ足りないぐらいいたって噂で、母親似で美人だっていうけど可愛かった?」

「明日にでも会えるわよ。余計な手出しはしないでよ」

「ということは美人か。それにしても、皇妃候補にバシュ伯爵家令嬢って微妙だな。父上の息のかかってない相手で、娘を差し出してくれるのがそこしかなったのか……」

 じりじりと敗戦へ向かっている最中に、宰相と皇太子がいがみあっているというのもおかしなものだ。そもそもこの戦の大元も身内同士の諍いである。

 小さな島国の中でふたつに割れ、さらに割れた中でもまた諍いが起きて、このまま延々と続くのかもしれない。

「でも、伯爵家でしょう。家格はそこそこじゃないの?」

 対立があることは知っていても貴族同士の内情には疎いリリーは、クラウスに説明を促す。

「バシュ伯爵は財務官僚だけど、立ち位置は中の中。上にいけるほどの実力もなければ、周りを出し抜く器用さもない。嫡男も同じ財務官僚で同じく有能でもない。次男は炎軍にいるけど、やっぱり実力は中の中。そういえばリリー、学生時代に次男に大火傷させてなかったけ」

「…………ローブなしで試合したあの大馬鹿?」

 ぼんやりとした記憶の中で、五年ほど前にローブを着用せず挑んできた貴族の子弟がいた気がする。幸い『玉』の魔術で治癒できる程度であったし、向こうにも落ち度があったので大きな問題にならなかった。

「そう、そいつ。そんなふうで軍でも王宮でも、毒にも薬にもならない立場。伯爵は半年前にきっつい奥方が亡くなったからカルラ嬢を正式に家に迎え入れて、出世の足がかりにする気だな。ここで出世してどうにかなるって思っていられるぐらいには、考えが足りないぼんくらだ」

 クラウスがどこか楽しげに笑う。

「どうせ、ハイゼンベルクは負けるのにな」

 この発言をしたのが下級の魔道士ならば深刻さは薄いが、現状実権を握っている宰相家の次男となれば現実味がありすぎた。

「……あんたは負けたらどうするの?」

「んー、どうするんだろう。父上も兄上も意地でも降伏はしないだろうな。あのふたりと一緒に死ぬのは勘弁したい。戦場で間抜けやって戦死が無難かも。リリーはいいよな。家のしがらみとかないから、寝返りしやすい」

「あんただって裏切ろうと思えば裏切れるでしょ」

 クラウスは家名に誇りもなければ皇家への忠誠心もない。いつ裏切ってもおかしくない。

 軍内もそんな人間がごろごろいるという噂だが、あながち嘘でもなさそうで情報の漏洩はじわじわと増えている。

 すでに上層部では手が回りきっていないのだろう。

「フォーベック家の人間ってだけで、敵から見たら信用できないだろう。リリーは最後までこっち側で戦う気?」

「さすがに皇子の補佐も向こうからしたら信頼できないでしょ」

 先のないハイゼンベルクにしがみついている気もないが、逃げるのに労力を費やす気もない。だからこのまままだ。

「夢も希望もないな」

「あたしには元からそんなものないわよ」

 戦ってその果てに名誉や地位を望んだことはない。一瞬先の勝利の快楽だけが全てだ。

 大義もなく目の前の敵を屠るのは人ではなく獣のすることと、人はあからさまに嫌悪するけれど。

(バルドだけが分かってくれる)

 剣を合わせてお互いが同類だと直感した。他の人間と一緒にいるのを窮屈に感じても、バルドとはそんなことはない。

「カルラ嬢はちょっとは夢見られるって所か。一応はお后だからな」

「一応は、ね。なんだか皇太子殿下に悪事の片棒担がされてる気もするけど。あたしがこういうの嫌いなのあの人絶対分かってるわ」

 幼気ない少女を棺桶の中に突き落とす協力をするのはあまり気乗りしない。かといって嫌だと自分が役目を降りても、この結婚がなくなるわけでもない。

「リリーは皇太子殿下の目論見をものの見事にぶち壊しちゃったからなあ。父上を説得してやっと士官学校に入れたのも、有能な貴族の子弟と打ち解けさせて皇家の威信を回復するつもりだったのに」

 バルドが士官学校に入るまで、皇主はお飾りでいいという宰相側の思惑と、そうはさせたくないラインハルトの間で相当揉めたらしい。

 そして入学早々、バルドはリリーと出会ってしまった。

「あたしのせいにしないで欲しいわ。十四にもなった人間の矯正がそんなに上手く行くはずがないのよ」

「でも、喋らなくてもリリーさえいればどうにかなるから、未だにあれだと思うぞ」

「その前に、あんたがまともにお目付役やってなかったのも問題だと思うんだけど」

 責任の押し付け合いをしつつ、リリーはため息をつく。

 バルドがあれなのは自分のせいというのは、うっすらと思う節もあるが、自分と出会わなくともラインハルトの目論見は成功しそうにはなかったとも思う。

 バルドにリリーとの付き合いを止めるよう言っていたラインハルトも、最終的に諦めて自分を補佐にしたのだが内心では気に入らないらしい。

 クラウスにもバルドと親しげにしているとラインハルトの不興を買いかねないと言われたため、バルドと一緒に遊ぶときは人目のないところばかりにしている。

 しかし元からふたりとも人気がないところが好きなので、誰かに告げ口される心配はないはずなのに、この頃ますますラインハルトの目は厳しい。

「だって、バルド何考えてるか分かんないから面倒くさいだろう。根気よく相手するなんて俺には無理。カルラ嬢はできるかな」

「最大の問題はバルドかしらね。今、倉庫?」

 できれば執務室にいて欲しいのだがとクラウスに訊ねてみると、やはりそこで拗ねて引きこもっているらしい。

「そこまで拗ねることはなかったはずなんだけど、もう、報告書とか溜まってるのに」

「そのうち機嫌直すだろうから、それまで補佐官殿は大忙しだ」

「他人事みたいに言ってくれるけど、あんた『剣』の統率官で三番手なんだから、あたしひとりに仕事を押しつけないでよ。『杖』と『玉』の統率官の負担が増えたら、あたしが八つ当たりされるのよ」

 階級としては雷軍内で二番手のリリーだが、貴族階級ではなく十七の小娘とあって、皇子や宰相家の次男にぶつけられない不満のはけ口にされるのが常だ。

「リリーってなんだかんだ言って真面目だよな。俺は君のそんな所を多分に尊敬してるし、応援してる」

「そう言って報告書放っておいて遊びに行くんじゃないわよ。明日の夜までに仕上がらなかった当分駄眼鏡としか呼ばないからね」

「…………地味な嫌がらせだなあ。でも、リリーは最初に会った頃より可愛くなったよな」

「褒めても大目には見てあげないから、真面目にやるのよ」

「リリーも、真面目にな。あれは見られたら後で何言ったって揉めるぞ。誤解って、なかなかとけないもんだからな。ほら、士官学校出るまで揉めてただろ

「あれ、全部あんたのせいだったでしょ」

 リリーが十四ほどになると、クラウスは他の女の子との約束を断るのにリリーの名前を使うようになったのだ。そして交際相手のひとりには顔を合せると睨まれたり、直接文句を言われたりした。違うと言ってもまるで聞かなかった。彼女は『玉』だったので力づくで黙らせるというわけにもいかず、結局卒業まで恨みがましく睨まれ続けた。

「そういえばそうか。まあ、リリー、面倒事嫌いだろ。バルドと遊ぶのはほどほどにな」

 クラウスに口元を指差されて、やっと何のことか分かったリリーは、曖昧な顔で止めておくと首を縦に振る。

(全然、考えてなかったわ)

 クラウスが家へ報告にして来ると言って離れて、リリーはふと昔を振り返る。

 出会って直ぐはバルドと一緒に遊ぶといえば、剣を合わせることだった。他には、ふたりでお気に入りの人気のない空き教室の机の影や書庫の隅で、会話もほとんどなくぼうっと一緒に過ごすぐらいだ。

 しかしある日、何が面白いのか金茶の髪をいじるバルドの手を、とっさに噛んでしまった。軽くとはいえ、これといって理由もなくこんなことをして怒るだろうかと思えば、耳を噛み返された。

 ほとんど痛くなく、むしろくすぐったいぐらいで思わず笑うと、なんとなく楽しくなって、それからふたりでいるとたまに噛んだり噛まれたりするようになった。

 最初の頃は時々加減を間違えてしまい、痕が少し残るぐらいになると謝罪もこめて唇を当てた。

 加減を覚えた頃には、それもいつの間にかじゃれあいの中に含まれていった。

(あれ、いつだっけ。卒業するちょっと前?)

 リリーはおぼろげな記憶を辿る。

 クラウスにバルドと自分が友人同士の一線をこえたと勘違いされた日のことを。


***


 それは三年前のことだ。

 リリーとバルドは士官学校の書庫の端っこでそれぞれ課題の本を読んでいた。延々と続く文字の羅列に飽きが来たのはふたり同時だった。

「ああ、もう続き後にしたい。でも、残り読む頃には内容忘れてるわ」

 十四のリリーは、栞を挟んで本を一端閉じる。一番薄いものを選んだけれども、それでも腕にずっしりくる。

「……飽きた」

 十八のバルドも同じくそう言っているものの、なんとか目はまだ文字を追っている。

「歴史なんて知ったってつまんないわよね。残り半分、取り替えっこする? でもごっちゃごっちゃになりそうね」

 リリーは言いながらバルドの持っている本を覗き込む。金茶の髪がその拍子に本の上に落ちて邪魔だと耳にかけた。

「甘い」

 バルドがふとつぶやいて、リリーは顔を上げる。

「何が?」

「リーの匂い」

「なんにもつけてないわよ」

 香水の類は持っていない。何かの匂いがついたのか、それとも他人の香水でもうつったのかとリリーは髪をひと束、自分の鼻に近づけてみる。

「自分じゃよく分かんないわ……なんの匂い?」

 訊ねると、バルドが本を膝に置いて鼻先を耳元あたりに近づけてきた。

「花……熟した果実……全部? 最近、リーからたまにする匂い」

 知っている甘い匂いをあげるバルドの声がすぐ近くでして、吐息が耳や頬に触れて少しくすぐったい。

「全部じゃ分かんないわよ。変な匂いじゃない?」

「……変ではない。よい匂いだと思う」

 バルドが首筋に顔を埋めてすっと息を吸い込む。

「だったらいいけど……ああ、もう。さっきからくすぐったいってば」

 首筋に、顎に、息がかかって唇が掠め、こそばゆさに身を捩る。

 顎の斜め下あたりに唇を押し当てられそのまま舌で撫ぜられて、リリーはさあどこに噛みついて反撃しようかとわくわくする。

「馬鹿ね。匂いが甘いからって、何かついてるわけじゃ……」

 笑いながら鼻先にするか耳にするか考えていると、顔をあげたバルドに唇まで食べられる。湿った音が小さくして、唇が離れた。

 きょとんと見上げた先では、紫の瞳が不思議な色を宿していた。熱しているのか冷めているのか、不透明な色は彼自身の戸惑いを現わしていた。

「…………そこが一番、甘そうだと思った」

 言い訳というより、自分の思考を遡って確認しているかのようだった。

「甘かった?」

 小首を傾げて顔を寄せると、もう一度唇が重ねられる。

「たぶん」

「うん、たぶんよね」

 実際に舌先には何も触れていないのに、頭の奥で甘いという感覚だけがふわふわと漂っている。

 掴みきれないその感覚を確かめたくて、今度は自分から口づけてみる。

 だけれど、やはり雲を掴むのに似た曖昧なものしか得られない。

 二、三度、またどちらともなく唇を重ねれば、もういいかと充足感と飽食感を同時に覚えた。ふたりはまた退屈な課題に戻ったが、リリーは結局すぐ飽きてバルドの膝を枕にして寝てしまった。

 遊んで、飽きたら眠って、いつも通り。そうして口づけもじゃれあいに加わった。

 知識としては友人同士ではあまりしないと知っているものの、いつもあちこち噛んだり唇で触れたりする自分達にとっては、唇同士が触れることで関係が違ってしまうというのはいまひとつぴんとこなかった。

 たったこれだけのことがバルドとの関係を変えることなどないのだ。その証拠にこの後、何度唇を重ね合わせても変わっていないし、子供だってできていない。

 友人以上に親しいというなら今頃、子供のひとりやふたりぐらいはできているはずだ。 クラウスだって勘違いだったと気付いたから、その一度だけで後は何も言わなかっただろうに。

(まあ、面倒なことにならないのが一番ね)

 誤解から話がこじれてからでは遅い。ちょっと遊ぶのを我慢するだけで面倒事が避けられるならそれに超したことはない。

 回想を終えたリリーは廊下を歩みながら、もう大人だしとつぶやく。

 誰よりも勘違いをしているのが自分だということに、彼女はまるで気付いていなかった。


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