棺の皇国
天海りく
獣なる魔道士の宴(初出2014.9.13/ビーズログ文庫)
序
真っ黒い獣だと、リリー・アクスは目の前に佇む少年を見て思った。
自分と同じ黒いローブを纏い、闇色の髪。そうしてその鋭い紫の瞳は獲物として自分を見ていた。
十四という歳にしては大柄な彼は、十歳のまだ幼い少女であるリリーへ大振りな剣を向ける。
それだけのことで本能的な恐怖に体が強張る。
同時に、胸が高鳴った。
――この獣と喰らいあいたい。
リリーは腰の双剣を抜く。
それが合図。深緑の色をした幼い瞳に獰猛な光が宿る。
剣を構えたまま棒立ちの少年の懐へ、とリリーは躍り込んだ。そうして右手の刃に炎を纏わせて放つ。
少年は近距離の魔術攻撃に身を退くかと思ったが、一歩、足を引いただけだった。
リリーの脳天へと少年の剣が振り下ろされる。
それをもう片方の刃で受ける。刃と刃が触れ合う瞬間に、リリーは刃から風の塊を放つ。
反動を利用してリリーは一足跳びに少年と距離を空けて、両足が床につく前に間髪入れず右の刃から雷撃を放つ。
通常なら体勢を崩して隙を作るはずなのに、彼はほとんどその場から動いていない。
あれを受け止められれば、隙が出来るのは自分。
リリーは弾かれる力の反動に備えて身構える。
少年が大剣に雷光を纏わせて、リリーの攻撃を真正面から打ち払った。
そのまま、一気に少年が距離を詰めてくる。
突きが繰り出されて、リリーは双剣に水を纏わせて受ける。
だが、年上の男の腕力には敵わず体が傾ぐ。向こうがまだ攻撃の勢いを殺し切れていないのを見越して、そのまま床に横に倒れ込んだ。
勢い余って床に剣を叩きつけてしまい動きが鈍った少年の足を、左の刃に炎を纏わせて狙う。ローブで護られた彼の足は燃えはしないが、こちらが体勢を直すだけの時間稼ぎにはなる。
立ち上がって一定の距離を取ったリリーは反撃に出る。
右で炎を、左で風を。
合わさったふたつの力は炎の竜巻へと変じる。
竜巻はすぐさま雷に撃たれて千々に引き裂かれる。
炎が飛沫のように散る中、リリーは小さな体躯と敏捷性を最大限に生かして少年へ斬りかかる。
捨て身とも言える攻撃に、少年が驚いたのか微かに目を開くのが視界に映った。
そして次の瞬間には薄汚れた天井が見えた。
背中と後頭部にじんわりと広がる痛みに、自分が仰向けに倒れているのだと気づく。それと両腕がじんじんと痛む。双剣は握っているが、腕は持ち上げられそうにない。
「……負けた」
初めてだった。
士官学校に五歳で入学して五年。教師以外に負けたのはこれが最初だった。
「大事ないか」
少年が自分を見下ろしている。
「ない。痛いけど」
起き上がらずにリリーは少年の目を見つめ返す。負けたのに、悔しくないのは不思議だ。
感情の起伏がほとんどない紫の瞳はずっと自分を見ている。
悔しくないのはきっと、この目のせいだろう。
年下のか弱い少女だとか、孤児のくせにやたら魔力だけが高くて生意気だとか、そんなことは一切見ていない。
ただ自分の力に見合う強い相手を見つけて挑んできただけ。
「……殿下、バルド殿下!」
教官達が慌てふためいている声が聞こえてくる。
それはそうだろう。彼はここグリザド皇国の第二皇子である。
そんな彼が士官学校に入ってすぐに、孤児の野蛮な野良猫と教官の許可なく試合をしたのだ。万一怪我でもされたら彼らの立場がない。
リリーは痛む上体を起こす。その段になってやっと、バルドは手を差し伸べてきた。
大きな手をそろりと取る。
バルドはずっと自分を見ていた。いや、自分が視線を外さなかったせいかもしれない。
手が離れて、視線が外れて、だけれど心の端にはずっと彼が引っかかっていた。
試合をして終わったらそこで全てが終わるのが常だ。
そしていつも通りひとりになる。敗者である自分にバルドは興味など示さないだろう。
しかし、そうはならなかった。翌日にはなぜだかバルドは自分の元に再び現れた。
とにかく喋らない、無表情のバルドにみんな手を焼いているようだったが、自分はそうではなかった。
言葉は少なかったが、なんとなく言いたいことは分かったので適当に返事をした。
表情はほとんどないが、やはりなんとなく感情の機微も見て取れるので、その時に応じて何が楽しいか聞いてみたり、何も聞かないで一緒にいたりした。
彼がどうして試合後も自分に会いに来たのかは分からない。
だが言葉が通じて、感情が伝わるごとにバルドが自分の側にいる時間が増えた。自分から彼の側に寄っていくようにもなった。
お互い、言葉もまとも通じない見知らぬ土地で、やっと分かり合える同郷の相手に出会えた気分だった。
気づけば自分を遠巻きにしていた人間からは、バルドとの仲立ちを頼まれるようになっていた。
影で『獣の言葉は獣にしか分からない』と彼らが揶揄しているのを知っていたが、さして気にはしなかった。
孤児と皇子。
あまりにも身分に差がありすぎて、いつかその縁は自然と途切れてしまうものだと思いながら、ふたりで身を寄せ合って歳月を重ねていった。
そうして『いつか』はなかなか訪れることがなく七年の歳月が過ぎる。
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