5
リリー達は夜も遅くにアッド子爵の屋敷に帰りついた。
他の魔道士達は先に休ませ、バルドとリリー、それからクラウスは戦況の報告をしてくたくたになり眠りにつくことになった。
しかしリリーはすぐに目が覚めて、広い部屋でひとりきりでいるのも落ち着かずにルーフテラスに出ていた。
置かれてている長椅子の背にもたれて、ぼんやりと星空を見上げる。
夢の中に、社で見た棺の中の文様が見えた。そして誰かが自分の胸に手を伸ばして心臓を掴み取った。
リリーは自分の胸元に手を置いて深呼吸をする。
「夢なんて、ほとんどみないのに……」
つぶやいていると、足音がしてリリーは体を強張らせる。しかしすぐに見知った気配だと気付いてで緊張を解く。
普通の少女ならが真っ暗闇から目つきの悪い大柄な男が出てくれば、恐怖に悲鳴をあげるところだがリリーは安心感にほっと息をひとつつく。
「どうしたの? バルドも眠れない?」
「……リーが通る足音」
どうやらバルドの部屋の前を歩いた時に、足音で気付いたらしかった。
「やだ。それどっから持ってきたのよ」
すっとバルドが百合の花を一輪差し出してきて、受け取ったリリーはくすくすと笑う。
「部屋にあった。リーと同じ名前」
「捨て子に花の名前って、ありきたりよね……」
くるくると百合の花を回しながらその香りを楽しむ。
「なんで、あの棺の中の模様に見覚えがあるって思ったんだろ」
赤子の頃に孤児院の前に捨てられたのだ。まさか産まれて直ぐの記憶だというのだろうか。
考えるとまた悪夢が蘇って来てリリーは口を引き結ぶ。
「見覚えがある」
バルドが深刻そうにつぶやく。
「記憶違いかもしれないけど……」
何かバルドは知っているのだろうかと思ったが、知るのが恐ろしくてリリーは言葉を止める。
「……リー、怯えている」
バルドがリリーの下ろしている髪を指で撫でてきて、リリーはその手を取って指先を絡めてもらう。
これだけのことで安堵を十分に得られる。
バルドの隣は自分にとっての唯一無二の安全地帯だ。
「うん。なんだか恐い。あたし、自分がどこの誰の子供かなんてどうだっていいのに、今はすごく知りたくない気がしてる」
顔すら覚えていない両親のことを懐かしむ心はない。今さら名乗り出てもらっても面倒なだけだろうし、一生会わなくてもいいと思っていた。
なのに今は自分が何者であるのか知るのが恐ろしい。
「人に言えない隠し子とか、そういうくだらない、ありきたりな理由ならいいいのよ。でも、そういうんじゃない気がするの。自分が変わりそうで恐い」
何か自分自身の存在を根底から揺るがされそうなのだ。急に足下にしっかりとあったものが消えて、真っ逆さまに落ちていく感覚がする。
戦場ではまるで恐怖を覚えない。恐れるのは、バルドと一緒にいられなくなることだけだ。
なのに今、怯えているのはバルドとの関係を脅かすものだという、無意識の怖れがあるからか。
「リーは、リー。変わらない」
バルドがそろりと肩を抱き寄せてくるのにリリーはそのまま身を預ける。
体に染み渡る温度に、リリーは大丈夫と自分に言い聞かせる。
何があってもふたりが離れることはない。例え自分が何者であろうときっとだ。
「そうね。あたしはあたしだわ。でもまだちょっと恐いから一緒にいてくれる? 寝てていいから」
我が儘を言うと、バルドは答えるより先に抱き寄せる力を少し強めた。
「起きている。明日、出立、大丈夫か?」
「早く戻った方がいいでしょ。バルドだって自分で皇太子殿下に報告、したいわよね」
バルドはラインハルトの役に立てるのが好きだ。
すでに戦の結果を伝えるべく早馬を飛ばしているので、明日の夕刻にはラインハルトの元へ一報が届くだろう。
しかしバルドは一刻でも早く直接報告して、ラインハルトの喜ぶ顔を見たいに決まっている。
「……手こずった。兵も失った」
しかしながら自分の手柄には今ひとつ納得していないらしい。
「でも、上手く切り抜けたし、これぐらいの損失なら良くやった方よ」
「損失はない方がよりよい。事後処理が多い。出立、明後日になるやも」
「まあそうね。内通者も結局誰だったか、分からないままだし。とっくに逃げてるわよねえ。遺体を回収して照らし合わせするしかないし……」
あれこれ雑務を片付けている内にどのみち出立は翌日になるやもしれない。
「そういえばクラウスの件、放っておくの? 戻ってもクラウスの実家が放っとかない気がするわ」
「兄上と相談」
「じゃあ、それは任せる」
クラウスが連れて行かれたとバルドから聞いたとき、てっきり裏切り者として詰め寄られるのかと思った。
しかし追い駆けて木立の影で様子を見ていれば予測とは全く違った。弟の命より家の体面が大事とは、貴族の考えは全く理解出来ない。
(うっかり腹が立って助けちゃったわ)
途中まで、本気でやれば十分強いクラウスの戦闘をのんびり見学していた。勝ったら勝っでよし、負けたらそれで遺言のひとつぐらい聞いておこうかという気持ちで。
しかしクラウスが剣を捨てた途端に怒りがこみ上げてきて、出て行ってしまった。
「ねえ、戦ってる途中で剣を投げ捨てるって、腹立つわよね」
バルドなら自分の気持ちが分かるはずだとリリーは同意を求める。
「勝負を捨てるのは不快。リー、クラウスが戻って来て、嬉しい?」
「んー、まあ、いないよりいる方がいいわ。バルドは?」
クラウスがこっちに戻ってくるのはよかったと思っている。言葉のままだ。
「リーと同じ。だが、リーが喜ぶのは……」
バルドは眉間に皺を寄せて言葉を探すものの何も見つからなかったらしく、止まってしまう。
「何よ。じゃあ、お互い良かったでいいじゃない。そういえば、結局、灰色のローブの魔道士って見かけなかったわね」
不審人物としてあげられていた灰色の魔道士の姿は結局誰ひとりとして、目にした者はいなかった。
「味方ではない」
「でも、敵でもなさそうよね。灰色なんて目立つ格好でうろうろしてたら、斥候だってすぐばれるわ……」
言いながら、リリーはあくびをする。目を閉じて眠るのはまだ少し恐かったが、バルドが目覚めてもすぐ側にいてくれるならそれでいいかと微睡むのだった。
***
エレンは夕刻になって入ってきたフォーベック次期当主の訃報に、いつもより急ぎ足でラインハルトの元へ向かう。
「どうした。君にしては慌てているな」
書き物をしていたラインハルトが側にいた侍医を下がらせて訝しげにする。
「ヘルムート様が昨夜逝去されました。仔細はまだ分かりませんが、第一夫人のアンネリーゼ様に殺害されたそうです」
フォーベック家は夕べから慌ただしい様子だったらしいが、今になって嫡男の死去を公表した。表向きは突然の発作による病死となっている。
しかし、フォーベック家に近しい者をたどれば、アンネリーゼが殺害したという情報が回ってきていた。
「ベーケ伯爵が裏切って、娘に暗殺をさせたか?」
まず考えられるとしたら、アンネリーゼの生家がディックハウト側に寝返ったと考えるべきだが。
「あのお方にそんなことができるでしょうか」
エレンは何度か見かけた、同性でも思わず息を呑む美しさを持つ少女を思い返す。
公開処刑ですぐさま顔から血の気をなくして退出していたのが記憶に新しい。
良くも悪くも貴族の女子としての教育を受けた箱入りの令嬢に、夫の殺害などできるものなのか。
「もう少し詳しい事情がいるな。この状況でベーケ伯爵が裏切ったら北と南から挟み撃ちにされる」
北の防衛の要はすでに敵に回った。しかし南の防衛の要であるベーケ伯爵家がそう簡単に裏切るとは思えない。
「ええ。詳しい事を調べて参ります。これで、クラウス様が次期当主となると思いますが、いかがされます?」
ヘルムートに嫡男はいるものの、まだふたつになったばかりである。現当主である宰相の歳を考えれば、クラウスが継ぐのが妥当となるだろう。
「利になるか害になるか……戻って来なければ少々厄介か」
思案顔でラインハルトがつぶやく。
さすがの彼でもこの事態は予測できず、悩んでいるらしかった。このままクラウスが帰還しなければフォーベック家は一気に弱体化するだろう。
宰相家の力は削いでおきたい。しかし皇家が復権する前では後釜狙いで、完全にハイゼンベルク方は内部崩壊してしまう。
「そちらの対処も考えておくか。バルドから早馬はまだか?」
昨日の内に無事に参拝がすんでいれば昼には届くはずの報告は、まだ届いていなかった。ふたりで顔を見合わせて、思案しているとちょうど早馬がついたとの知らせがあった。
エレンは書状を受け取り、ラインハルトに渡す。
「向こうで裏切り者が潜んでいたが、無事勝利か。クラウスも戻ってくるようだ……後は、また灰色か」
「灰色のローブの魔道士……『玉』の社の周辺で目撃された者と同じでしょうか」
「そんな不審な輩が複数領内をうろついているのは困りものだな。ひとまずそれも考慮しておく、か」
言いながらラインハルトが苦痛に顔を歪めた。弱っている心臓に異変があったのかもしれない。
「皇太子殿下、すぐに侍医をお呼びします」
エレンは急いで身を翻すがラインハルトに腕を掴まれて止められる。
「いや、まだかまわない」
呼吸を整えたラインハルトは無理をしている風には見えなかった。しかしこのまま職務をさせるわけにもいかないだろうと、エレンは寝台まで車椅子を移動させる。
「私も危ういな……」
寝台に寝かさせているとラインハルトがため息をつく。
「そう簡単に諦めるあなたではないでしょう」
最近は本当に弱音に似たものを口にすることが多い。気力すら尽きてしまったら、ラインハルトの体はどうなってしまうのか。
エレンは祈る気持ちで叱咤する。
(私はこの人に生き抜いて、何をして欲しいのだろう)
こんなにもラインハルトが死ぬのを恐れるのは、ハイゼンベルクの完全敗北が確定してしまうからか。
彼ならば本来の意味ので皇主の座について、皇国をまとめ上げてくれると信じているからか。
(自分の家が生き残ることを考えているのに?)
ならば奇蹟を見るための好奇心だけか。
「エレン」
ラインハルトに呼ばれる。
「なんでしょうか」
「君を見ていると、母上を思い出す」
予期せぬ言葉にエレンは目を瞬かせる。
「皇后陛下はもっとお綺麗で、慈しみ深い方だったのでしょう」
第二子のバルドを産んですぐに身罷ったという皇后の姿は絵姿でしかしらない。ラインハルトと面差しの似た、もっと華やかで美しい女性だった。こんな地味な自分とはまるで似てもにつかない。
それに、絵姿からも優しげな雰囲気が滲んでいた。実際にそんな人だったと古参の侍女からも聞いている。
「……似ているよ。形は違えど、君は私が一番欲しい言葉をくれる。母上も懐妊されるまではよく伏せっている私の側にいてくれた」
ラインハルトの声は寂しげで、エレンは目を伏せる。
現皇主に側室は数人いるものの子はラインハルトだけだった。しかし病弱でいつどうなるかも分からず跡継ぎとして安心できる存在ではなかった。
そんな中での皇后の第二子懐妊は慎重に扱われた。
万一にでも病の気が映らぬように、幼いラインハルトは母と引き離されたのだ。そしてバルドが産まれ、産後の容態が芳しくなかった皇后は一年足らずで身罷った。
「ありがたいお言葉と受け取っておきます」
「なんだ。不満げだな」
「いえ。そんなことはありませんが」
光栄なことなのに、自分の心がささくれだっていることにエレンは自分自身で不思議だった。
「君は、私を見放さないか?」
「あなたが諦めない限りはお仕えいたします」
答えると、満足げに微笑んでラインハルトが眠りにつく。
(諦めてしまっても、私は見捨てられないかもしれない……)
エレンは彼の寝顔を見つめながら、垣間見えた自分の感情を胸の奥に押し込む。
それを見つけたら、見捨てられるのはきっと自分の方だ。
エレンはラインハルトの側から離れて侍医を呼びに行く。自分がなすべき事を果たすことだけを考えねばならない。
まずは、ヘルムートをアンネリーゼが殺害した件だ。それと引き続き失われたグリザドの心臓を探すこと。
エレンはそうやって余計なことを考えてしまう隙間を職務で埋め尽くしていった。
***
社に参拝した翌日、結局事後処理に時間を費やすことになり出立は明日へと持ち越しになった。
アッド子爵から借りた魔道士の中で行方が知れない者が三名出た。いずれもリリー達二百余りの軍勢に混じっていた者だ。あの混戦の中でさっさと敵陣へ逃げ込んだのだろう。
夕刻を前に屋敷の応接室では落ち込んだ様子のアッド子爵が丁重に、バルドへの詫びをいれていた。
「今回の件は不問。こちらも不備」
バルドは長い子爵の口上を面倒くさげ聞きながら、一言で処断する。一応その場にクラウスもいるのだが、すでに残りの対応をリリーに投げて退屈そうにしている。
「指揮を任されたあたしも離叛に気付かなかったんで、どちらがというわけでもないですね」
「いえ、しかし補佐官殿は戦功を上げたが、私は……」
バルドはまだぐだぐだと言うアッド子爵よりも、眠たげなリリーのことの方が気にかかっていた。
結局昨夜はあのまま自分も眠たくて寝てしまった。ふたり揃って長椅子に座ったままだったので、リリーも体はさして休まっていないだろう。
自分もどこか狭いところへ潜り込んで今すぐ寝たい。
「この件は後。少し休む」
そう告げると、アッド子爵は怯えた顔で引き下がった。リリーの方も相手をするのに疲れたらしく、後の事を少しだけ話して退出することにした。
「お部屋はやはりご一緒の方がよろしいですかな」
子爵に訊ねられたリリーは頬を紅潮させて首を横に振る。
「いいです。ひとり部屋で十分です!」
そう言って先にリリーが逃げるように先に部屋の外に出る。
「うう。なんか誤解されたままだわ……」
「いや、お前らあんなとこでふたりで寝てるからだって。誤解するなって言う方が無理だろ」
クラウスの言う通り、朝になって自分達が部屋にいないと気付いた侍女が、クラウスと共に探しにきて目を丸くしていた。
客間に不備があったのかとおろおろしていたが、リリーとクラウスのとりなしでことはまるくおさまった。
が、部屋はやはり同じ方がいいのではと気遣いされてしまう状態だった。
「同室、危険」
バルドはひとりつぶやく。
一緒に寝るのが駄目というのは分かってしまった。ふたりきりでひとつの部屋でくっついていると、いつまたリリーを抱きたい衝動に駆られるか分からない。
「危険ってなんでよ。あたし少しの間寝るから、何かあったら起こして……」
すでに眠気で頭が回っていないリリーが、そのまま自室の寝台へ一直線に向かおうとする。
抱えていった方が早そうだと、バルドはリリーの腰を引き寄せて肩に担ぐ。
「ちょっと、何、バルド?」
担ぎ上げられたリリーが困惑するのもかまわずバルドはすたすたと歩き始める。
「部屋まで送る」
「大丈夫、自分で行けるわよ。下ろして」
リリーが文句を言うのでバルドは素直に床に下ろして彼女を見下ろす。
「ひとりでいい?」
「部屋にぐらい帰れるわよ。じゃあ、おやすみ」
苦笑したリリーが今度こそひとりで歩いて行ってしまった。
「…………お前さ、荷物じゃないんだからああいう抱え方はどうかと思うぞ」
クラウスに呆れられてバルドは首を傾げる。
「一番、運びやすい」
あれ以外の持ち方も思いつかないのだがと、バルドはクラウスをじっと見る。
忘れかけていたが彼のことは彼のことで、兄と話をする前に自分も話を聞いておかねばならないだろうか。
「バルド、話いいか?」
考えているとクラウスが先に切り出してきて、バルドは鷹揚にうなずいて自分の部屋に彼を招くことにした。
「俺とあいつら何があったかだいたいのこと、リリーから聞いてるよな」
「聞いている」
クラウスを暗殺しようとした雷軍の者達は、大人しく軍務にあたっている。クラウスの兄が命じたとなると、処罰を安易に与えるわけにもいかない。戻ってラインハルトの指示を仰ぐのが最善だ。
「なら、その話は帰ってからでいいな。兄上とは顔を突き合わさないとなんないのは面倒だなあ」
やれやれとクラウスが暗い表情でぼやく。
「話、終了」
フォーベック家の兄弟仲についてはまるで関心がないバルドは、さて自分も寝るかとクラウスを追い出しにかかる。
「いや、本題はそこじゃなくてな、リリー、どうしたのか聞きにきたんだよ。社に入った時、様子おかしかっただろ。あげくに夕べもあんな所でろくに寝られてなかったみたいだし……お前、今、機嫌悪いか?」
クラウスがリリーの話題を出してくるのがあまり良い気分でなく、バルドは眉根を寄せていた。
「棺の中の模様に見覚えがあった」
かといって自分の中でおさめていることもできず渋々答える。
「見覚えって……それ、皇太子殿下に報告する事案だろ」
クラウスが怪訝な顔で言って、バルドも少し困る。
棺の中の模様は皇祖グリザドが使っていた神聖文字と呼ばれるものだ。皇家の人間や、一部の人間しかその字を知らず誰も解読できていない。あれに見覚えがあるということは、リリーの出自は絞られてくる。
「報告すべき……」
ラインハルトに相談しなければとはと思う。しかし兄がどんな判断を下すのか考えると、躊躇いが生じる。
「皇太子殿下もリリーの出自は調べ回ってたしな。万一、皇家の血統だったらまずいだろ。下手すると、ディックハウト側の可能性もあるぞ」
「……皇都の孤児院。不可解」
ディックハウト方ならば、わざわざハイゼンベルクの孤児院に捨て置く理由が見当たらなかった。
真冬の屋外とはいえ、すぐに人に見つかる場所で置いていたのは発見させたかったからだろう。
死なせるつもりはなかったはずだ。
「皇都の孤児院なんて元から貴族の子供の一時的な預かり場所だしな。身元を隠したがってるのか、それとも見つけて欲しいのか。どっちにしろ、厄介だな」
「……リーは、リー」
しかしリリーが何者であろうと彼女が彼女であることに代わりはない。
もうこれ以上面倒なことは嫌だった。このまま最後までふたりきりで寄り添い合えるならそれでいいのに、自分の皇子という立場がことを複雑にする。
「リリーは変わらないだろうな。俺さ、リリーがいるからこっちに帰ってこようと思った。お前と一緒に死なせるのも嫌になったしな。出て行く時はリリーも連れて行く」
試すような、探るような顔でクラウスが言う。
その隙間に本心も覗いていてバルドは眉間に皺を寄せた。
リリーがクラウスを選ばないと分かっていても、誰かが彼女を欲しがるのは不快だった。
笑顔ひとつとて誰にも譲りたくない。
「そうやって、お前が嫌がるほど欲しくなるんだよな。ゆっくりとやらせてもらうよ」
余裕ぶった態度でクラウスが言うのに、バルドはますます不機嫌な顔つきになっていく。
「寝る」
こんなにも苛々とするのは寝不足もあるのだと、バルドは今度こそクラウスを追い出しにかかる。
その時、近いところで大きな衝撃音がした。
「リー?」
音がしたのはリリーの部屋がある方向からだ。バルドはすぐさま部屋の外に飛び出す。
「おい、おい、まさか屋敷を襲撃はないよな」
クラウスもついてきて、ふたりでリリーの部屋に駆け込む。
部屋の中は大きく荒れたりはしていなかったが、調度品の化粧台がぱっくりとふたつに避けていた。
そして寝台の側では剣を握りしめたリリーが青ざめた顔で座り込んでいた。
***
部屋に戻ってすぐに、リリーはローブだけ脱いで、双剣を近くに立てかけ寝台に潜り込んだ。
疲れ切った体は目を閉じれば一瞬で眠りにつく。しかし、安眠を得られたのも束の間のできごとだった。
「……バルド、なんかあった?」
額のあたりに何か暖かなものが触れてきて、リリーは目を閉じたまま身を捩る。まだ半分以上眠っている体は重たく、瞼を持ち上げるのも億劫だった。
返事もなくリリーはまた眠ってしまいそうになるが、暖かかったはずのものが額で熱を持って、違和感を覚える。
そして目を開けてぎょっとする。
灰色のローブを纏った人間が、自分の額に手を置いていたのだ。起きたと気付いたらしくその人物はさっと身を離す。
目深にフードを被っていて顔はよく見えないが、どうやら男らしかった。
「誰!?」
跳ね起きて、剣の柄を握って風の魔術を威嚇で放つ。
相手が片手に持った杖を振り上げる。
だん、と男の杖に打ち付けられた床に波紋のように不可思議な蒼白く光る文様が広がって、リリーは息を呑む。
神器が納められていた棺の中に書かれていた文様と似ていた。
リリーの放った魔術が灰色のローブを引き裂くより早く、男の姿が消え去る。
後には魔術がぶつかった化粧台がまっぷたつになっているだけだった。
「なん、なの……」
リリーはその場に座り込んで呆然とする。
人の気配はもうどこにもない。杖の魔術で姿を一時的に見えなくすることは出来るが、明らかに別の魔術だ。
男が触れていた額にすでに熱はなく、感覚も残っていない。
そのことがなおいっそう不気味だった。
呆然と座り込んでいると、乱暴に扉が開かれてびくりとする。しかしバルドだと分かってほっとした。
それでもなかなか剣の柄を握る手は離せなかった。
「リー……」
バルドが膝をついて心配そうに顔を覗き込んでくる。リリーはやっと剣の柄から手を離して彼のローブの袖を握る。
「何があったんだよ」
バルドの背からクラウスがひょいと顔を覗かせる。
「……灰色のローブを着た魔道士がいたの。見たことない魔術を使って消えたわ。消えるときに棺の中の模様が床に浮かんで」
喋っている内にどんどん現実味が薄れていって、本当にあれは現実にあったことなのかと不安になってくる。
寝惚けて夢でも見ていたのか。
「ごめん、あたし疲れてたのかもしれない」
リリーは頭を振って言葉を止める。
「念のため、屋敷を捜索」
バルドがそう言って、クラウスが真顔で返事して人を呼びに行く。それから屋敷内を魔道士達で捜索し、近隣にも灰色のローブの男を見かけなかったかと聞いて回ったが、結局見つかることはなかった。
そうしてその晩。
リリーはバルドの部屋にクラウスと共にいた。
「大騒ぎになっちゃったわね……。あの高そうな鏡台も壊しちゃったし」
自分ひとりしか目撃していないのに、人手を割いて成果なしとはますます自分が本当に灰色のローブの男を見たのか自信がなくなる。
長椅子の上で膝を抱えリリーは深々とため息をつく。
「灰色のローブの男っていうのはこの辺で見かけてたしな。リリーになんにもなくて良かったって所だろう」
向かいの席にいるクラウスの慰めの言葉に、リリーの隣のバルドもうなずく。
「リーが無事。問題なし。……灰色の魔道士重要」
バルドが何か躊躇いながら見つめてきて、リリーは首を傾げる。
「……棺の中のは模様ではなく文字。兄上に報告すべきこと」
「やっぱりあれがなんなのかあんた知ってたんだ……」
あの模様を見たことがあると話した時に、バルドは何か考え込んでいる風に見えた。
「神聖文字って言って、皇祖様だけが使ってた文字だ。あれを見たことがあるのは、皇家の人間と、後はごく一部の上位貴族だけになる。ということはだ、リリーが本当にあの文字を見た記憶があるって言うんなら、産まれて直ぐだろうな」
クラウスから説明されてリリーは落ち着かない自分の心臓あたりのローブを握りしめる。
生後間もない頃の記憶など、そうそう残っているはずがない。しかし確かに自分の深い記憶の底に神聖文字と呼ばれるものはある。
「何かと覚え違いしてるってこともあるわ」
自分自身の感覚を否定して、リリーはうつむく。
「産まれて直ぐの記憶よりもそっちの可能性の方が高いかもしれないな。だけど理由もなくってこともないだろ。どうする? 面倒なら黙っといていい。バルドも、リリーの出自に関しての報告義務はないよな」
クラウスが確認して、バルドがリリーの片方の手を握る。
「知りたくないなら、知らなくていい」
リリーは彼の手を握り返して迷う。灰色の魔道士については報告はせねばならないし、その中で自分のことも分かってしまうかもしれない。
「……後で勝手に見つけられるのも嫌だし、報告しといていいわ」
忘れた頃になって唐突に事実を突きつけられるよりも、ある程度覚悟しておいた方が楽だろう。
リリーはバルドと手を繋いだまま彼を見上げる。
厄介で面倒なことは当然避けたい。しかしいずれ何かが起こるというなら、びくびくして待っているより早く通り過ぎてもらった方がいい。
「リー、本当にいいのか?」
「いい。知ったって、あたしはあたし、でしょ。バルドもそう言うんだから大丈夫」
こんなにもしっかりと自分達は手を繋いでいられるのだから大丈夫だ。
自分が何者でも、ラインハルトが何かしようとしてきてもバルドの側にいることには変わりない。
「そう簡単なことでもないかもしれないけどな。あと、お前らもうちょっと人目を気にしろ」
繋いだ手を冷めた顔で見てくるクラウスに、リリーは仕方なしに指を解く。
「い、今までずっとこうだったんだもの。それにあんたの前だからいいじゃない」
「俺しかいない時はよくても、普段のお前らも相当、見てて恥ずかしいぞ」
「何がよ。そんなにくっついたりしてないじゃない。元々あたしら人目のつくところでは遊んでなかったし」
士官学校の時からくっついたり、じゃれあったりするのはふたりきりだけの時だった。そもそもお互い人気のないところが好きなので、一緒にいる場所に誰もいないというだけのことではあったが。
「そういうことじゃないんだよな。お前ら上官と部下って雰囲気全然ないからな。人前で花を贈ったり、同じコップ使ったり、やたら距離が近かったりするのも全部。そんなんだからバルドを懐柔するのにリリーを養女にしようって輩がぞろぞろ出てくるんだぞ」
「……そこまで気をつけなきゃいけないものなの?」
疑り深くリリーはクラウスを見る。
そうなると人前に出るときの行動を逐一見直さなくてはならなくなる。
「面倒……。だが、そうしなければさらに面倒」
バルドが難しい顔で唸って少しリリーと距離を空ける。
「これぐらいの距離って違和感あるわ」
ぴったりくっついているわけではないが、そうしようと思えばすぐに寄り添えるいつもの距離よりは少し遠い。
「リー、触られるのは嫌。離れすぎても嫌」
「そ、そうなんだけど、でも離れてると違和感あるでしょ」
確かに急に触れられたりすると心臓の鼓動が早くなったり、頬が紅潮したりして落ち着かなくなることが多い。
だけれどたまにはちょっと寄り添ってみたくなったり、手を繋いだりしたくなるのだ。
「ごめん、あたしの思考が面倒くさい」
自分自身でもどっちかはっきりしろと言いたくなるわけだが、どうにもならない。
「適切な距離……難しい」
バルドが近くに戻って来て、リリーはこれが一番落ち着くもはこれだと確認してしまう。
「お前らいくつだよ」
呆れかえってクラウスがうなだれた。
「十七」
「二十一」
そしてふたり揃ってため息と共に年齢を自己申告する。
「リリーはともかく、バルドは笑えないな。で、リリー、今日はひとりで寝られるか?」
「子供じゃないんだから、大丈夫よ。さすがに騒ぎになった以上はもう出ないでしょ」
あれが自分が寝惚けて見た幻でないとしても、そこまで警戒することもないだろう。
「……危険、なくなったわけではない」
「だよなあ。変な魔術で簡単に出入りできるみたいだし、目的不明だしな」
「ねえ、ふたり揃ってあたし脅すのやめて。今度出てきたらひとりでなんとかするわよ」
なんとなく弱い者扱いされているようで面白くなくリリーはむっとする。
次こそ本当に現れたなら捕まえてやる。
「どうせだから三人で寝ないか? 俺もさ、寝首かかれそうで恐いんだよ。夕べ寝られなかったんだよな」
「あんた、あたしのことより自分のことじゃない。いいわよ、部屋は広いし寝るところは多いわよね。バルド、どうせ寝台使わないでしょ」
「…………使う」
問いかけるとバルドがしばらく間を置いてぼそりと答える。リリーは寝台に目をやって、壁と寝台の隙間がちょうどいい具合に空いているの見つける。
今夜のバルドの寝床はあそこだろう。
「じゃあ、あたしが長椅子で、クラウスが寝台ね」
「広いから一緒に寝台使えばいいだろ。ふたりぐらいは余裕で寝られるぞ」
「……クラウスは長椅子」
バルドが抗議して結局、リリーが寝台で長椅子がクラウスとなった。
「俺だけ遠いなあ」
「だったら寝台にしなさいよ。あたしは長椅子でも問題ないのよ」
クラウスがぼやくのに広い寝台をひとりあてがわれたリリーは、傍らに双剣を置いて寝支度をする。
「さすがに女の子差し置いて俺ひとりだけ寝台は気が引ける。おやすみ」
長剣を傍らに置き持ち込んだ上掛けを被ってクラウスがさっさと寝る。
「おやすみ。……あんたは本当に狭いところが好きね」
さすがに広い寝台の真ん中は落ち着かないので端で寝るリリーは、傍らの狭い空間に上掛けを持ち込んで寝床を築くバルドに苦笑する。
子供の頃の強い魔力を抑え込む代価行動が習慣化してしまって、今でもバルドは狭いところが好きだ。
「寝台の下にはもう潜れない」
バルドが視線を子供の頃のお気に入りの場所に目を向ける。
「無理なものは無理ね……ん。あたしも眠い。おやすみ」
リリーはバルドの視線にむず痒さと安堵を同時に覚えながら目を閉じる。
そして三人は朝まで目覚めることなく、やっと疲労を追いやる安らかな眠りについたのだった。
***
ふっと胸にかかる重苦しさにラインハルトは目を覚ます。寝る前は明るかった部屋は黄昏色に染まっている。
この頃眠っていることが多くなってきた。時々自分が起きているのか夢を見ているのか分からなくなる。
「……エレン」
名前を呼ぶと側で読み物をしていたエレンが顔を上げる。
「お加減はいかがですか? ご必要なものは?」
「いや、何もいらない。変わったことはあったか?」
体を起こそうとするものの適わず、ラインハルトは首だけをエレンに向ける。
弱っている姿を見せると他の侍女達は憐れむ目で自分を見てくる。しかしエレンの黒い瞳はいつも淡々としている。
侍女としても側近としても、彼女は自分が取り立てた人間の中で最も理想的だった。
「フォーベック家の嫡男が殺害された件ですが、クラウス様が次期当主の座を狙いアンネリーゼ様を唆して兄君を謀殺したのではという話になっております。まだ根拠などは不明ですが、アンネリーゼ様がクラウス様が帰ってくるまでは何もお話しにならないと仰っているそうです」
「夫婦仲は悪く、クラウスに懐いているという話だったな」
アンネリーゼの好意を利用してクラウスは宰相家の情報を手に入れてきた。夫婦の間で拗れて発作的に、というのが妥当かもしれない。
クラウスは次期当主の座などどうでもいいはずだ。
「ええ。家庭内の揉め事ですむ方がまだよろしいでしょうね。しかしクラウス様がディックハウト側へ行くつもりなら、やはり南の要も危ういやも知れません」
エレンが言うのに、ラインハルトも考え込む。
これでクラウスはディックハウト側から見ても、なんとしてでも引き入れたい人間になった。
「運がいいのか悪いのか……神器の方の進展はないのか?」
ラインハルトはエレンを見上げて、落胆する表情に苦笑する。
「ただ、灰色のローブの魔道士は若い男で、この内乱を知らなかったという話があります。近くの村でどうして戦争をしているのかと訊ねたそうです」
「知らない? 五十年も続くこの戦をか?」
この国の人間ならば誰もが知っているはずだ。ますますもって奇怪な魔道士だ。
「ええ。ですから話を聞いた村民もよく覚えていました」
「島の外から来たというわけでもないだろう」
建国して二百余りは大陸から船が来ていて交易が多少あったものの、ここ八百年近く交渉が途絶えている。島を出た船も帰ってくることがないので、この国は孤立していた。
島の外から人がくるというのも考えがたい。
「引き続きこの件も調査いたします。またお休みになられますか?」
「いや。起きているよ。目を通しておきたいものもある。エレン、灯を用意してくれ」
エレンが立ち上がって、言われた通りに灯と書類の用意を始めた。
ラインハルトはその間に腕に力をこめてもう一度半身を起こそうとする。寝台に縛り付けられてるのではと思うほど、体が重たい。
やっと半身を起こすと、気付いたエレンが困り顔をする。
「お手伝いしましたのに……」
「いや、いい。自分で動けるなら、動いた方がいい」
いつ動けなくなるのか、毎日不安でたまらない。侍医もできるだけ体に無理がないようにとしか言わなくなっていた。
ただここで体を横たえ呼吸をするだけでは意味がない。死しているのと同じだ。
神器が見つかっても生き延びられる確信はない。
だが、自分はわずかな希望を見いだした。
皇祖グリザドの使っていた神聖文字。そこに大いなる力の秘密があるのでは多くの者が読み解こうとしたが、未だに誰ひとりとして成し遂げた者はいない。
しかし、解読を試みた形跡は蓄積されている。
ラインハルトは記録をかき集めて、ほんの少しだけ文字を拾うことができた。これは誰にも教えず、密やかに今も解読を進めている。
そして神器の『玉』に関するだろう記述の中に、延命、魔術の言葉を見つけた。心臓や血と思しき言葉も。
『玉』は治癒を司る。グリザドの心臓が変質したものならば、この消えかけた命も少しは永らえさせてくれるのではないか。
たったそれだけのことでも、微かに希望があるなら諦めきれない。
――今度は健やかな皇太子がお生まれになれば。
ふっと、母が懐妊した頃に漏れ聞いた侍女の言葉を思い出して、ラインハルトは瞳を伏せる。
あの瞬間にもう誰にも必要とされていないのだと悟った。
「エレン、いや、いい」
この頃はエレンに頼りすぎているという自覚はあった。自分ひとりの気力では持ち堪えられないほど弱っている。
ここで誰かに寄りかかりすぎれば、本当に力尽きてしまいそうだった。
「……必要な物があればお申しつけください」
傍らに座って自分の職務に戻るエレンの横顔に、こういう彼女だから頼ってしまうのだろうと思う。
必要以上に気を回さず、求めたことには確実に応える。
ラインハルトは受け取った書類に目を落とし、自分も政務に打ち込んでいく。
緩やかに夜は更けていく。
明日の朝も迎えられるだろうかと、何度目かも分からない考えが頭の中に浮かんでラインハルトは政務に意識を集中させた。
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