夏が直ぐに側に控え、王宮内もずいぶん暑くなってきた。エレンは黒い侍女のお仕着せに蒸し暑さを感じながら、父からの手紙を広げるた。

 意味不明の文字の羅列しかない文面から、必要な文字だけを拾い組み合わせていく。

 祖父が作った暗号文を読めるのは父と自分しかいない。

「灰色のローブ……」

 一瞬読み解き間違えたのかと思い、口にしてみる。しかし間違いではなさそうだった。

 エレンは全てを読み終えるとすぐにラインハルトの元へ向かった。

「灰色のローブか。半端に目立つ格好だな」

「ええ。中立派を主張するにしても奇妙です」

 父の手紙によれば灰色のローブを着て杖を持った明らかに魔道士と思われる男が、『玉』の社の周辺で見かけられたそうだ。近くの山中へと向かった所で忽然と姿を消したらしい。

 今もその男を捜すと同時に、近隣で十七年前頃に何かなかったかも密やかに探っているとのことだ。

「上手く、手がかりに結びつけばいいがな。バルドの方も社に着く頃か。クラウスが逃げ出すとすればこの機だろう。手駒が減るな」

「放って置かれるのですね」

 さすがに宰相家の人間が向こうにつくというのはと思っていたものの、ラインハルトは何もしないらしかった。

「生きる目的も死ぬ理由も見つけられない彼は、向こうに行ってもそう役に立たないだろう。完全にフォーベック家と切れてしまったら、向こう側としても利用価値はそうない」

「辛辣ですね」

「君ほどではないよ。それにしても今日は暑いな……」

 ラインハルトが疲れた吐息をひとつもらす。

「汗をお拭きしますので、お着替えになりますか?」

「いや。まだいい。少しやることもあるからな」

 エレンはやつれた様子で執務机に向かう主君の隣に静かに座って手伝いを始める。

 ラインハルトは熱が下がってからは小康状態を保っているが、また悪化している。

 侍医曰く心臓が弱ってきているらしく、いつ発作が起きて止まってしまうか分からない状況だそうだ。

 ここ最近は隣室に侍医を待機させたままでいる。急速にラインハルトの体は衰えていっていた。

 そもそも車椅子でとはいえ、寝台から離れられるほどの状態をこの年齢まで維持出来ているだけでも奇跡的だという。

 己の生き抜く気力だけで彼はここまでやってきているが、限界が近づいてきている。

 この頃は食も細くなっていて、スープぐらいしか口にできず、パンもほんの少ししか食べられない。

 それでも健康を装うべく晩餐会では全ての料理を口にした。他の者よりも量は減したとはいえ、その夜には全て吐き戻してしまうほどに苦痛だったとしても。

 当人も分かっているのだろう。この頃、起きている間はずっと政務をこなし、短い時間でも、味方に引き入れられそうな者と対面し談笑する。

 人々に忘れられてしまっては、彼にとっては生きているとは言えないのだ。

 そのために命を削っていては、本末転倒というものだが。

「……今日は、冷たいスープをご用意していますから」

「味は相変わらず、酷いのだろう」

「すりつぶした薬草しか入っていないスープが嫌ならば、全うにお食事できるようになさってください」

 ラインハルトの文句をあしらって、エレンは空になったインク瓶を新しいものに変えて彼の前に置く。

 そして女の自分の指よりも細い、ラインハルトの痩せた指が視界に入ってさりげなく目をそらした。


***


 戦を控えてアッド子爵の館では慌ただしく魔道士達が動いていた。

 リリーも正門に面した広場でバルドからの指示を拡散し、そして連絡をバルドに伝えと忙しい。陽射しが一層強くなる正午頃になると、やっと全ての準備が整い始め一息つく間ができてきた。

 リリーは日よけの天幕の下でバルドと肩の力を抜いて休憩していた。

「暑さは夕方になるとちょっとはましになるかしら。ああ、もう。新しいの用意するのに」

 リリーは持っていた飲みかけのコップをバルドに取られて唇を尖らす。一口でよかったらしくコップは直ぐに戻って来てリリーは残りを呑む。

(大丈夫、みたいね)

 バルドはいつも通り側にきて、いつもよりちょっと甘えた態度を見せている。喧嘩をした後と一緒だ。

「アクス補佐官」

 ローブを纏って臨戦態勢のアッド子爵に呼ばれたリリーは彼の元へ行く。何か問題だろうかと思ったが、子爵の表情は温和そのもので向かいの席を勧められる。

「いや、昨夜は失礼なことをいたした。気を利かせたつもりが、殿下には余計な世話だったようで」

「う。あ、気にしてないのでいいです。殿下にはこの事は伝えてませんから」

 リリーはできればすぐに忘れ去りたい記憶を掘り起こされて、子爵から視線を外す。

「それは助かる。アクス補佐官はよく殿下のことをお分かりだ。同行の魔道士達からも普段から殿下はアクス補佐官を頼りにしていると聞く」

 この話の本題はどこだろうと、リリーは面倒になってきて適当に聞き流していく。

「して、殿下はあまり女性を好まれないのか?」

 そしてなぜか子爵が声を潜めてそんなことを問うてきた。

「女性というより人間そのものが苦手です。喋るのも苦手で良く機嫌が悪いとか、勘違いされますが、殿下は特に怒っているわけでもないです。人に触られるのも触るのは嫌いだし……」

「アクス補佐官に対する所はそうは見受けられなかった。いやはや、気に入られているのだな。殿下とのご関係はいつから」

 いつまでこの話が続くのかどうにか逃げ出す口実を探していると、ふと子爵がぴたりと口を閉ざした。人の気配に振り返れば、クラウスがいた。

「子爵、補佐官に用があるんですけどいいですか?」

「あ、ああ。いや、時間を取らせた」

 気まずそうにし子爵が立ち去ってリリーはやっと逃げられたと脱力する。

「よく分かんない話に付き合わせられてたから助かったわ」

 礼を言うと、クラウスが子爵がいた席に座る。

「あれは、リリーとバルドの関係を知りたがってたんだよ。養女にして嫁がせれば皇家の外戚の座が手に入る。宰相家には知られたくない話だな。これからあの手の輩が増えるから気をつけとけよ」

 楽しげに会話の意図を告げられて、リリーはきょとんとする。

「養女って、実の親はともかくあたしただの孤児よ。そう簡単に皇家に嫁がせられないでしょ」

 いくら魔力が高いとはいえ、なんの関わりのない家に入ってどうにかなるものなのか。

「いろいろこじつけて、道理を作るのが政治。ジルベール侯爵もお前のこと養女にしたいって言ってたらしいぞ。ヴィオラさんの妹になったらそれはもう毎日可愛がられそうだな」

 にやにやとクラウスが言って、リリーはあの炎将に毎日絡まれるのを想像してぞっとした。

「あの人の妹は絶対嫌。そんな馬鹿なこと言い出されたら、ますます皇太子殿下に睨まれるじゃない」

 はあ、とため息をついてリリーはクラウスをじっと見る。

「……あんたがいなくなると、あたしこういう話全然分かんなくなっちゃうのね」

 そうして声を小さくしてぽつりと零す。

「バルドから聞いたか?」

 クラウスが少し困ったみたいな顔をして小首を傾げる。

「聞いた。あんたが皇太子殿下の側近だったのも、あたしを助けてくれたのも全部。ありがとう。でも、軍法会議にかけられた時に知っててあの態度は、ちょっとね!」

 リリーは机の下でクラウスの足を軽く蹴ってやる。

「痛いって。そうしないと作戦にちょっと支障が出たんだよ」

「だからこれぐらいですませてあげてるの」

 こういうやりとりもできなくなるのかと、リリーはじわりと別れを実感して表情を沈ませる。

「それなりに寂しいみたい、あたし。やっぱり、あんたとは友達だったのね」

「期待させておいてしっかり落とすな。友達、か」

 複雑そうに言うクラウスにリリーは不服なのかとむっとした。

「何よ。違うのかそうなのかはっきりしなさいよ」

「ん。はっきり言わないといけないってことと言えば、正直言うと、俺はリリーを助けたっていうと違うかもしれない」

 クラウスが肘をついて薄く笑う。

「バルドがどうするか見たかった。リリーのこと、どうするのかなってな。結局、バルドはリリーを殺せなかった」

 あの時剣を合わせた瞬間には本能の赴くままに戦ったけれど、最後はどちらも相手を仕留めることができなかった。

 バルドは止めをさしてこず隙だらけで、自分も隙を突いて勝利する気になれなかった。

「あたしらはひとりじゃ生きられないし、ふたり一緒じゃなきゃ死ねないって分かったの」

 リリーは幸福感に似たものを覚えて、穏やかに微笑む。

「……そんなに好きなら、結婚しとこうとか思わないのか?」

「思わない。だって、ずっと一緒にいるって人前で約束するか、ふたりだけで約束するかの違いでしょ。結婚ってなると、あたしの身分はこれだし、面倒なことも多いもの。あたしらには必要ないわよ」

 バルドは次期皇主だ。結婚ひとつ取っても政治である。先はもう決めてあるしこれ以上自分は何もいらない。

「バルドが、結婚したいって言ったらどうするんだ?」

 リリーは全く想像のつかないことを訊かれて返答に困ってしまう。

「そこで悩むのか」

 クラウスが意外だと言いたげな顔で驚く。

「…………たぶん、バルドがそうしたいって言ったらする、かな。でも。その時はふたりだけの約束じゃ不安ってことだろうし」

 離れた所にいるバルドへ目を向ける。彼はずっとこちらを見ていた。

 心なしか寂しそうな様子に、リリーがもうちょっとと口だけ動かすと、バルドはこくりとうなずいて近くの椅子に腰を下ろした。

「お前らそれで意思疎通できるのはすごいな。まあ、不安っていうより自分のものって主張したいってことかもしれないぞ」

 それこそ理解できないとリリーは思う。

「主張してどうするのよ」

「他の誰かがさ、リリーと結婚したいって言い出さないように」

「そんなことありえないし、あたしが断るのは分かりきってるじゃない」

「分かってても嫌なんだよ。リリーのことに好きになって、それを伝えられるのが」

 それならほんの少し分かるかもしれないと、リリーはこくこくと首を縦に振る。

「その時になったら考えるわ。……もう、これで最後ね」

 出発の時間も近い。別れの言葉を告げるとなるともうこの機会以外ない。

 リリーは言い残したことがないかと考えていると、斥候が報告に戻って来てしまった。

「じゃあな」

「うん。戦場で会ったら遠慮なくやらせてもらうから、それまでせいぜい元気に生き延びなさいよ」

 クラウスは返事をせずにただ楽しげに笑っていて、悪くない別れだとリリーも最後に笑みを返したのだった。


***


 『剣』の社は子爵邸から二刻半ほどの距離にある。平原の真っ直中にぽつりと社は建っていて、現在神器の納められていない社の周辺は空白地帯である。

 そして社を中心にして東側がハイゼンベルク、西側がディックハウトとなる。

 今回は二手に分かれてバルド達は行軍することになった。

 バルドとクラウスが中心になる四十の少数勢が丘陵を越える道を通り、もうひとつの平野を真っ直ぐ突き進む道をリリーを中心とした残りの手勢で向かうことになった。

「灰色のローブね」

 話し相手がおらずひとりきりのリリーはぽつりとつぶやく。

 斥候の話では社の周囲で灰色のローブを纏い、杖を持った魔道士がうろついていたらしい。

 敵方の斥候としては目立ちすぎるということで、敵とはまた違うのではというのが全体の意見だった。

 ひとまず正体不明の不審人物への警戒は怠らず、リリー達は進軍していく。

 見通しのいい平原は丈の短い緑の芝生で覆われて、小さな狐がひょこひょこと通るのも見える。

(とりあえずがっとかき回して、バルドが最後に突っ込む……よくやる戦法だわ)

 敵の数によってはリリーが最初にひとり突撃して攪乱、味方を大量投入、バルドが最後に一掃、というのも多い。

 今回は敵勢の方が数に勝るものの、警戒して向こうも少数ずつ出してくるとバルドは見ていた。

 どれだけ引っ張り出せるかが、自分達にかかっている。

(夜戦に持ち込むときだけはローブが黒なのが役に立つのよね)

 味方陣営の数を誤魔化しやすいのが楽だ。バルドが向こうに対して兵を少なめにしたのも、そのためだった。後は情報漏洩の危険を減らす目的もある。

 リリーは唇を舐めてゆるりと上がってくる感情を宥める。

 深緑の瞳が獲物を前にした獣のものに変わりぎらつくのに、近くの魔道士がそっと距離を取る。

 どちらかといえば小柄なリリーだが、戦闘時の纏う野生の獰猛な雰囲気はバルドに引けを取らない。

 太陽が黄金色に溶けていく。

 敵は間近だ。

 

***

 

 一方、バルド率いる少数部隊は丘陵の谷間の狭い道を行軍していた。

 バルドは近づく戦闘につい早足になっては、周囲が遅れるのに気付いて歩調を緩めるを繰り返す。

 どうにも自分は歩くのが速いらしく、普通に歩いているつもりでも周りを無理させることになりがちだ。

 リリーがいると横ですぐに文句を言ってくれるのでいいが、クラウスだと知らないうちに後方にいて体力温存に勤しんでいる。

「俺、最後尾でいい?」

 歩調を緩めてやっと追いついてきたクラウスがすでにやる気なさげに言う。

「……兵が動揺する」

 敵か味方か分からない人間が背後にぴったりとくっついていては、他の兵が落ち着かない。そのためにクラウスを隣に追いいているのだ。

 リリーの側につけておくと、今度は自分がひとりで周囲とも意思疎通に困るのでこの選択肢しかない。

「不便……」

 いざクラウスがいなくなると作戦を立てるにあたって多少の支障が出そうだ。

 リリーがずっと一緒にいてくれるとはいえ、先々不便なことも多くなると思うのでもう少し会話が成立できるようにならねばいけない。

 などと考えているとあっという間にクラウスを置き去りにしていて、バルドは足を止める。

「お前、なんでその図体で動きが早いんだよ。リリー達より早くついたって意味ないんだからな」

「早いにこしたことはない」

 援護が遅れてしまう可能性を考えれば、早めについて状況を見て良い頃合に出るのがいい。すでに日も傾き始め、空が茜に燃え始めている。日が落ちきる頃にはリリー達が敵を攪乱し始めているはずだ。

「はい。はい。お前さ、リリーに求婚する気とかあるのか? 方法はいくらでもあるし」

「不必要」

 面倒でややこしい皇家に嫁ぐなどリリーは嫌がるに決まっている。自分は他に結婚もしないし、一緒にいるだけなら必要のないことだ。

「そこはふたり揃って一緒なんだな。じゃあ、一生抱かないつもりか?」

 クラウスから予期せぬ問いかけきて、バルドは押し黙る。

 そうしたくないわけではないと、昨夜はっきりと実感してしまった。今まであやふやだった不満の正体をはっきりと見てしまっては、今さら見なかったことにできない。

 しかし口づけすら持て余している現状で、どうやってリリーにそこまで許してもらえるかは全く分からなかった。

「…………未定」

 散々迷った末にバルドは小さな声で答える。

「未定、か。結婚してもしなくてもそこは別にいいしな。子供ができるかなんて運次第だし」

「子供……」

 未知のものにバルドは眉間に皺を寄せる。こんな先のない状況で、それこそ本当の道連れができてしまうのはいかんともしがたい。

「まあ、せいぜい悩めよ」

 クラウスが意地悪く笑った所で、バルドはぴたりと足を止める。

 そう遠くないところに敵がいる。

「行軍停止」

 命じると周囲に緊張が走る。待ち伏せ、と誰かが言って全員の疑心の目がクラウスへと向けられる。

「いや、俺じゃないって。こんなあからさまに怪しまれてる状態で裏切ったら即刻、袋だたきだろ」

 クラウスが慌てて首を横に振って否定するが、それでも一度産まれた疑心はぬぐえない。仮にクラウスでなかったとしても、もしかしたら自分の隣にいるのが裏切り者かもしれない。

 じわりと動揺が広がっていく。

「選出は兄上」

 目下のクラウスにバルドは小声で問う。同行者の選出はラインハルトが関わっている。ということは内通者であるクラウスが、ディックハウト信奉者がいないかも確認し報告しているはずである。

「裏切り者は皇都から連れて来た奴の中にいない」

 クラウスも声を潜めて返してくる。そういうことならば、子爵から借りた魔道士のいずれかがということになるだろう。

 子爵本人という可能性はないはずだ。リリーを養女にと目論んでいたとクラウスから聞いた。

 作戦は進軍する直前に同行者のみに伝えて、人の出入りも制限していたはずだが詰めが甘かったらしい。

「……失策」

 バルドは背の神器を抜いて、眉間に深く皺を寄せる。

「もうどうにもなんないとこまで来てるってことだろ。絶対に裏切らない奴なんていないんだよ。俺はまだこんな所で死ぬのは勘弁だ」

 クラウスも腰の長剣を抜く。その表情は軽口と裏腹に硬い。

 おそらく、クラウスの逆臣の噂自体がディックハウト側の策略だ。クラウスがハイゼンベルク方かどうかの見極めと、全体の統率をかき乱すため。

 そうして本物の裏切り者が動きやすくなるために。

 ずっと疑心に苛まれてここまできた魔道士達の動揺が広がるのは早い。この少数でばらけたら、無駄に兵を失う。

「白が敵。黒が味方」

 バルドは今は襲ってくる敵に集中しろと低く唸る。

 雷鳴に似た腹の底に響く声と、向けられた視線の鋭さに兵達の心が疑心から畏怖へと塗り替えられる。

「で、殿下をお護りするぞ!」

 そうして誰からともなく声をあげて、隊列はまとまりを取り戻しいく。

「どっちかって言うと、俺らがバルドに護ってもらわないとって気がするな」

 そこでひとりやる気のないつぶやきをクラウスがこっそり漏らす。

「行軍開始」

 バルドがゆっくりと歩み始め、『杖』ふたりが彼の前に透明な防壁を築く。

 少し行けば道幅が広がり、その向こうの細いふたつの道から水が押し寄せてくる。

 残る三人の『杖』が一斉に泥の壁を築いて堰き止める。

 敵の姿はまだ見えないが、数は相当いるとバルドは感じ取っていた。

 こちらの人数まで当然把握してのことだろう。

 狭い中で少数ずつを出し、徐々にこちらの魔力と体力を削っていく戦法らしい。

「……玉、剣、杖、一名ずつ応援要請」

 社に着く頃には半分は使い物にならないことを見越して、バルドは皇都より連れてきた三名を後退させる。

「出る」

 泥壁を消すように命じ、神器に雷光を纏わせる。

 そしてわらわらとでてきた白いローブを纏った敵に向かって一閃する。

 刀身から放たれた雷光は矢の如く敵を貫き、バルドが俊足でもって敵の真ん前に出る。

 後陣に控える敵から見れば、まばゆい閃光の後に仲間が次々と倒れ伏し、目の前には漆黒の巨大な獣が目の前で牙を剥いているという状態だった。

 次の攻撃をしかけんとしていた白の魔道士が怯む。

 バルドは敵の隙など待っていなかった。

 猪突猛進するのみ。

 魔術攻撃を放つ間もなく八人が斬り伏せられられて白いローブが深紅に染まる。

「ひ、怯むな! 雷獣を狩れ! これ以上神器をあの獣に持たせ穢してはならんっ!!」

 バルドは退いて広い所へ敵を誘い込む。

 襲い来る炎は難なくローブで受け止める。

 敵の魔術攻撃を雷で打ち落として、岩の防壁を築いた敵の体ごと神器で砕いて瞬く間に骸の山を築き上げた。

 敵がにわかに後方へ退く。

「バルド、無駄に魔力使うなってさ!」

 クラウスが杖の後ろに隠れつつ、見えない敵がいるあたりに向けて雷を落とそうとするバルドへ声をかける。

「狩りは社で……」

 ラインハルトの命を繰り返し闘争心を押さえ込む。

 しかし、これでは前へ進めない。後退して援軍と合流してリリー達の救援に向かうにしても、時間がかかりすぎる。

 ここにこれだけいるということは、実質の敵の兵数は五百より多いはずだ。リリー達二百を足止めするのにも、相当数をつぎ込んでいる可能性も高い。

 すでにあたりは夜が忍び寄り始めて影が濃い。

 ここを突破するしかない。

「片方、塞ぐ。爆破」

 バルドは片方の道の脇にあるなだらな斜面を示す。

「え、俺がやるのか?」

 破壊力だけならクラウスに任せた方が手っ取り早い。周りの視線にさらされて、クラウスは仕方なしに前に出てくる。

 長剣が構えられて、クラウスが炎の魔術を放つ。

 本来なら大きな炎の塊が出てくるのだが、彼の炎の魔術は異質だった。解き放たれた瞬間に、炎はぐちゃぐちゃとした毛玉のようなものになって丘の斜面にぶつかる。

 そして一気に破裂して、地鳴り共に抉られた斜面が落ちて来る。あっという間に道は土砂に埋まった。

「あ、思ったより吹き飛んだ」

 リリーならやり過ぎだと怒るだろうが、目的が達成できればそれでよしとするバルドは気にせず再び歩み出す。

 魔術攻撃を控えれば、魔力はある程度温存できる。

「足場。高低」

 バルドは『杖』に命じて低い石の足場を作らせて、徐々に高くしていく。以前にやった事があるので、意図はすぐに介してもらえた。

 そこへ巨体をものともせずに軽く飛び乗り、足場が崩される前に次へ。魔術攻撃が来ればローブであしらい、ある程度見通しがよくなるところまで上ると眼下を睥睨する。

 すっかり闇に呑まれ始めているが、夜目が利くバルドにとってはこれぐらいの暗さはどうということはない。

 しかし下にいる者達には、夜の闇を背負ったバルドの姿が何倍にも膨れあがって見えていた。

 餓えた獣の瞳に見下ろされて、敵勢はは本能的な恐怖に足を竦ませる。

 敵が急いで張った『杖』の結界を雷撃で打ち砕きながら、中央に降り立つ。

 そして着地するやいなや、神器を振り回す。

 重量ある大剣で骨を砕かれた者達が吹き飛ばされ、一気に敵勢が混乱の渦に呑まれる。

 バルドは暗闇の中で、爛々と瞳を輝かせて向かってくる敵達を次々と剣で半ば斬り、半ば殴殺していく。

 あまり手応えはないが、数と追い込まれた状況が戦闘の快楽を補ってくれる。

 淡々とそんなことを思いながら、魔術攻撃をほとんどせずに敵を薙ぎ倒してバルドは前へと突き進む。

 味方の魔道士も混乱して浮き足立つ敵に、魔術攻撃を休む間もなく打ち込んで道を切り開いて行った。

 

***


 リリー達が神器の社の側に夕日が沈み込む方向に、茜色に染まるディックハウトハウトの家紋を縫い記した旗が幾つもはためくのが見えてくる。

「旗を掲げてくれるのはいいわね。大将はまだ奥に引っ込んでるかしら」

 リリーは目の前の軍勢に、玩具を前にした子供の様に瞳をきらきらとさせる。

「補佐官殿、数が多く見受けられますが……」

 斥候の報告より少々数が多くなるのはよくあることだ。それにしても全部投入してくるとは気前がいい。

「いいんじゃない? 取り分が増えるわ。で、あそこに見えるのが社ね。あれを破壊しなきゃ、あとは好きにしていいわね」

 兵団とは離れた所にぽつりとある灰色がかった石で出来た真四角い建屋がある。そう大きくはなく、傍目からみれば神器という大層なものが納められていたとは思えないほど粗末だ。

 リリーは社を横目にひとり隊から飛び出して双剣を抜いた。

 下草を刈るように両の刃から放った風を走らせる。

 それが、開戦の合図。

 夕日が降り注ぐ平原で両軍がぶつかり合う。

 リリーは再び両の刃から風を左右に放出させる。放たれた風は渦を巻いて襲い来る魔術攻撃を巻き込んで勢いを増し、周囲の敵を一気に吹き飛ばした。

「リリー・アクス! あの双剣を集中攻撃しろ!!」

 敵の司令官と思しき声が飛んで来て、リリーは笑みを浮かべる。

「名前が知られるっていいわね。いっぱい戦える」

 そして向かってくる十数人の敵の中に自ら突っ込んでいく。

 死をも恐れぬどころか、楽しげに笑って魔術攻撃の嵐へと飛び込んでくる少女の姿に敵は得体のしれない恐怖を覚える。

 リリーの体は炎に焼かれ、風に切り刻まれ、水に嬲られて、最後に雷に貫かれるかと誰もが思った。

 しかし炎は彼女の右の剣から放たれた水に呑み込まれ、風は左の剣から放たれた疾風にかき消される。

 重たい岩の重量を持った水も、最初に炎を呑み込んだ水で相殺された。

 残る雷は避けきれなかったかと見えた。

 だがリリーは最後に魔力を集中させたローブをわずかに焦がしただけで、変わらず無邪気に微笑んでいた。

 その足は止まることを知らない。仕留めた思い込んで動きが止まっていた魔道士らを、次々に斬り伏せて血飛沫と悲鳴をあげさせていく。

 負けじと敵兵もリリーを剣で狙ってくるが、するりと刃を避けて双剣から風の刃を放つ。

 三十人近い魔道士達がたったひとりの少女相手に総崩れにされていく。

 しなやかな猫のように、リリーは敵兵の間をすり抜けては刃で斬りつけ、魔術を放って倒す。

「うーん、もうちょっと魔力温存しとかないともたないかしら?」

 ローブに覆われた背で魔術攻撃を弾いて、リリーは小首を傾げる。

 日が落ちきる前にはバルド達が到着する予定だが、遅くなった時のことを考えると魔力の温存も考えておかねばならない。

 その時、遠くから地鳴りが聞こえて来た。

「何……?」

 襲ってきた刃を自分の双剣で弾きつつ、音の方角へリリーは目を向ける。

 バルド達が来る方向だ。

 他の味方の魔道士達も動揺を隠しきれずにそちらに意識を向ける。

「雷獣は来ないぞ! 我が軍がすでに包囲してある! 貴様らもここで終わりだ!!」

 そして敵兵の司令官が高らかに宣言して、一気に動揺が広がっていく。

 誰かが裏切った。そして、その誰かはクラウスだと誰もが思っている。

 地鳴りもいつも大爆破を起こす彼の魔術ではという疑いに拍車をかけてしまった。

「将軍が包囲された程度でどうにかなるわけないでしょ! 今頃喜んで敵をぶっ倒してる所よ! ほら、死にたくなきゃ戦いなさい!」

「総員、殿下をお迎えするのに雑魚を一掃することに励め!」

 リリーや他の年嵩の魔道士達が檄を飛ばして、動揺していた者達がどうにか落ち着きを取り戻していく。

 だが、バルドの手勢が足止めをくっているとなると、敵勢の半数にも満たない自軍が持ち堪えられるかどうかの焦りもある。

(戦場で死ねるなら本望)

 リリーは双剣の柄をしっかり握りしめる。

 命ある限り戦い続けて果てるならいい。

 最後の一瞬まで勝利の快楽を貪り続けて、敗北を感じる前に全てを終える。

 そういう生き方でいいと思っていた。その気持ちは今でも変わらない。

 産まれ育った場所に愛着もなければ、身内もいない。数少ない親しい者も、いずれは戦場で散るか敵に回るだけ。

 自分が護るべきものは自分自身以外に何もない。

(でも、バルドと一緒じゃないと駄目だわ)

 勝ちたい。己の命を捨ててでも敵を倒したいという思いしかこれまではなかった。

 だけれど、今は少し違う。

 終わるならバルドの側で、彼と一緒にでないといけない。

 それが護り通す自分の決意で、バルドとの約束。

 だから、生き抜かねば。

 リリーは水の魔術を両の刃から放つ。

 敵勢を一気に押し流し、続いて水上に雷撃を走らせる。

 持ち堪えた幾人かが斬りかかってくる。

 身軽に躱して、斬り返す。かすった敵の切っ先がリリーのローブの右肩を裂く。

「この間新調したばっかりなのに……」

 舌打ちして、すぐさま反撃する。

 敵は次から次へと湧いてくる。

 味方も猛攻するものの、ひとり、またひとりと倒される。後陣へと退いて『玉』の治癒を受ける者もあれば、その場で討ち取られる者もいる。

 治癒された者はまた出てくるが敵も同じだ。

 徐々にリリー達の軍勢は追い込まれていく。

 あたりはすでに暗く視界も悪くなってくる。闇に紛れて味方は敵と距離を空けて、『杖』が負傷者の防衛に当たる。

「まったく……」

 リリーは集中攻撃を受ける負傷者の元へ炎の魔術を打ち込んで敵を散らしながら、そちらへ異動する。

「魔力がきついわね」

 思ったほど勢いが出なかった魔術攻撃と、裾が焼かれてボロボロになり始めているローブに自分の魔力が減っていることを実感する。

 しかし、焦りよりも高揚感の方が勝っていた。

「でも、楽しい」

 感情を口にして、リリーは敵に斬り込んでいく。

 暗がりの中で白刃が閃く。闇の中で猫に似た深緑の瞳が鈍く光るのに敵兵は本能的な恐怖を覚えて息を呑む。

 視界が悪くなった中で、彼らは小さくも獰猛な獣が獲物を求めて暴れている錯覚すら覚えていた。

「全員、社の方に行って。そこまではあたしが全部引き受けるから」

 敵とて安易に社へ攻撃は仕掛けにくいだろう。

 リリーが命じると、味方達はうなずいて社へ異動し始める。

 すでに夜は濃い。

(遅いのよ)

 とっくに到着しているはずのバルドに内心で悪態をついて、リリーは向かってくる敵の的になる。

 バルドが奇襲で負けるとは思わない。

 彼だって、ひとりきりで死ぬはずがないのだ。必ず自分の側に戻ってくる。

 死に場所は互いの側だ。それ以外あり得ない。

(バルド……)

 ローブの端が風の刃で引き裂かれる。

 いよいよ防御に魔力が足らなくなってきたリリーは、それでも全く怯まない。

 両の刃から雷を打ち込む。

 その時、宙からから巨大な雷の柱が落ちてくる。

 地が揺れて、まばゆさに誰もがローブの袖で顔を覆う。放出された雷撃の余波で少し体がぴりぴりと痛んだ。

「また、派手にやってくれるわ」

 そろりと目を開ければ、地面が抉れ大穴が開いていた。まだ力の名残がぱちぱちと小さな雷光を発して穴の上で踊っている。

 敵の魔道士もあまりの破壊力に一気に後退していく。

「ちょと! あたし巻き添え喰らいそうになったんだけど!」

 離れた所に神器を掲げ佇むバルドへ笑みを浮かべつつリリーは文句をつける。

 そして真っ直ぐに彼の元へ向かう。

 よく見ればバルドのローブもずいぶん焦げや破れがあるらしかった。

「……ちゃんと見ている。状況」

 バルドはリリーの頬についている返り血を指先で拭って戦場に目を向ける。

「だいぶやられた。負傷者は社に退避してるわ。でも、結構片付けたわよ、あたし」

「残りはもらっていいか?」

 リリーはうん、とうなずく。

「あとは好きにやっちゃって。あたしはもう魔力がかつかつだから。他は?」

 バルドと共にいるはずの魔道士達はまだ見えない。まさか全滅したのだろうかと一瞬思ったが、暗くてよく見えないだけで目をこらせば丘陵側の道からやってくる姿が見えた。

 クラウスもその中にいて、リリーはバルドに視線を向ける。

「……内通者、クラウスじゃないわよね」

 こんな誰からも疑われている状況で彼がそんな真似をするとは思えなかった。

「おそらく、借りた魔道士」

「やっぱりそっち。もう逃げてるわよね……」

 リリーはため息ひとつついて、残る敵が固まっているのに目を向ける。

 返事もせずにバルドが静かに敵へと進んでいく。そうして再び神器を掲げた。

 敵は杖の魔術で防御を固めているのだろうが。

「意味はないわね」

 リリーのつぶやきは雷鳴にかき消される。

 一瞬で杖の結界は破砕され、その下の魔道士建は無数の降り注ぐ雷の矢に打ち抜かれる。

 そして形勢は逆転した。

 残る敵達もある程度は向かってきていたが、ことごとくバルドにやられていく。そして増援が来て完全に不利となると、敵は敗走していったのだった。


***


 敵が完全に撤退した後、リリー達はそのまま社に終結した。負傷者は多く皆、満身創痍だった。『玉』の魔道士による治癒も、折れた骨や失われた多量の血を癒やすことはできない。

 姿が見えない者もいる。そのうちの大半はどこかその辺りに骸となって転がっているだろう。

「十六……十七、か」

 治癒を受けていたものの、傷が深く事切れた魔道士を見てリリーは死者と不明者の数をつぶやく。

「この状況にしたら、少ない方だろ。敵の方が死んでる」

 疲れ切った様子のクラウスが言う。彼もここにいる全員と同じくローブをボロボロにして、返り血があちこちに飛び散っている。

 まだ人も多くクラウスは逃げられずにいるらしかった。おそらく全員が帰路につく頃にはこっそりと上手く隊列から離れる。

「そうね。それでこの中に入るのよね」

 リリーはあまりクラウスの動向を気にしないようにしつつ、松明に照らされる社の入り口を示す。

 両開きの木の扉はどっしりとして長い歳月を感じるが、やはりそう立派な建物には見えない。

 バルドが扉を押し開いて中へと進み、灯を持ったリリーとクラウスが続く。中も粗末なものだった。調度品の類は一切なく、部屋の真ん中に石の棺がひとつだけ置かれている。

「これに、神器が入ってたんだ……皇祖様の遺骸だからこういう形なのかしらね」

 神器はグリザドの骸の一部が変化したものだという言い伝えだ。

「そう言われると不気味だよな、神器って」

 クラウスがバルドの背にあるグリザドの右腕とされる大剣に目を向ける。

「……もう一度納める」

 バルドが背から神器を下ろして棺の前で一度跪き頭を下げて棺の蓋を開ける。中は空だと思っていたら、内側に何か文様が描かれていた。黒っぽいそれは血にも見える。

 ぞわりと背筋が震えて、リリーは顔を青ざめさせる。

 心臓がどくん、どくん、とゆっくり、大きく鼓動する。

「リー?」

 棺に神器を納めようとしたバルドが、リリーの様子に首を傾げる。

「ごめん。ちょっと気分悪いから外に出てていい? クラウス、灯お願い」

「大丈夫か? 怪我はしてないんだろ」

「うん。ただここの空気が合わないみたい」

 リリーは心配そうなクラウスに灯を預けて外に出る。深呼吸をして気分は落ち着いたが、まだ胸が苦しい。

 棺の中の文様が眼裏に焼き付いて離れない。

(あたし、あれと似たのを見たことがある……)

 似ているが少し違うものが記憶の奥底にあった。

 夏だというのに体が震えて仕方なくなって、リリーは自分の体をかき抱く。しかしそれでもまだ震えがおさまらなかった。

「リー」

 ぽんと、神器を再び背負ったバルドが頭に手を置いてきてリリーは顔を上げる。そして衝動的にバルドの胸に顔を埋めて抱きつく。

 抱き返されてすがりつくと、やっと得体の知れない恐怖に似たものはおさまった。

「自分でも上手く説明できないの。ただなんか落ち着かなくて」

 たどたどしく説明しながら、リリーはバルドに甘えてさらに体を密着させる。

「…………お前らせめて人目がないところでな」

 クラウスが冷静に言うのにリリーは近くに大勢の部下がいることを思い出す。

「う、あ。バルド、もう大丈夫だから一回離れよう」

 本当はまだくっついていたかったリリーだが、そういうわけにもいかずバルドから離れる。

「リリー、本当に大丈夫か?」

「あ、うん。もう大丈夫。あんたもそろそろ……」

 クラウスに顔を覗き込まれてリリーはぎこちなくうなずく。そして小声で逃げる準備は出来ているのかと問う。

「行く当て、ないかもな……」

 どういうことだろうとリリーが問いかける前に、クラウスは控えている隊列に戻って行った。

「クラウス。目眩まし」

 バルドが声を潜めて告げることを少し考えて、ああ、とリリーはうなずく。

 ディックハウト信奉者が本来の内通者の存在を隠すのにクラウスを利用したのだ。場合によっては、切り捨ててもよしとしたのかもしれない。

「……決めるのはクラウスよね」

 兵の中に混じりながらも、どこかひとりきりな雰囲気のクラウスの背を見つめる。

 馴れ馴れしいのは上辺だけで、結局誰とも馴れ合ってはいない。だから他人に馴染めない自分とバルドには、無理に深入りしてこなくて楽な相手だったのだ。

「リー、寂しい?」

「寂しい。バルドは?」

「…………少し」

 そうしてリリーとバルドはお互い暗がりに紛れてこっそりと指を絡めた。


***


 社の周囲で一部では帰路につくための準備がされ始めていたが、まだ多くの者が薪の周りで体を休め、食事を取っていた。

 クラウスはあたりを見ながらゆるりと抜け出る隙を見計らう。

 援軍も混じり周囲は三百人以上いて、この暗がりならうまく抜け出られそうだ。気付かれても追っ手をかける余力は残っていない。

(いっつも一緒だな……)

 クラウスはぴったり寄り添って食事をとっているリリーとバルドを目にして苦笑する。

 そして人々が忙しく動き回る中で抜け出ようとした時、目の前に五人の魔道士が立ち塞がった。同じ雷軍の顔なじみの魔道士である。

「クラウス殿、お話がありますのでこちらへよろしいですか?」

「断れる雰囲気じゃなさそうだな」

 クラウスは仕方なしに彼らについていく。味方の魔道士達は自分の前と後ろについて無言で歩んでいく。

 これではただの連行だ。

「なあ、どこまで行くんだ?」

 問いかけても返事はなかった。どんどん薪の灯からも、社からも離れて丘陵の側の林までクラウスは連れて行かれることになった。

「まったく、こんなとこまで来て話ってなんだ? 密告なら俺じゃないぞ」

 周囲の剣呑な雰囲気を茶化して肩をすくめるが、漂う緊張感は変わらない。ひとりが腰の剣に手をかけ、他の者も続く。

「ここで、名誉の戦死を遂げていただきます。我々は、残党を見つけここまで追い駆けてきた。しかし返り討ちにあった」

 厳かに告げる声にこうきたかたかとクラウスは笑う。

 簡単には逃がしてくれないらしい。近くにはディックハウトの魔道士の死骸もあるので、それを近くに引っ張ってくれば見事な相討ちを演出できるだろう。

 だが、ラインハルトの策にしては妙に腑に落ちない。

 逃亡しようとしたから斬ったの方が、宰相家に泥も濡れて簡単だろうに。

「それさ、皇太子殿下の命令、だよな」

 確認すると彼らはなぜか怪訝な顔つきをした。

「いや、兄君だ」

 返ってきた答にクラウスは虚を衝かれて目を丸くする。そしてそんな自分がおかしくなる。

 なぜ、自分は驚いているのだろうか。実に兄らしいやり方ではないか。

(そこまでやらないと思ってた? 兄弟だから?)

 兄弟の絆など、まるで信じていなかったのに、心の奥底では信じていたのか。

 自分の考えがあまりにも滑稽で、クラウスは肩を振るわせる。

「そっか。兄上か。だったら素直に死んでやるのは癪だなあ」

 長剣を抜いて構える。

 魔道士達は動揺した素振りで身構えている。

「なんだよ、同情してるのか? さすがに無実の仲間を殺すのは気が引けるのか?」

 クラウスは切っ先を向けて首を傾げる。隙のない彼の様子に周りの魔道士達は動かずに、じっと様子をうかがっている。

 戦うのは好きではないが苦手ではない。剣術だけなら兄より才はあった。それがまた兄は気に食わなかったのだろうが。

 魔術攻撃を仕掛けられる余力は互いにほとんど残っていない。

 剣の技量が勝敗を決めるだろう。

 痺れをきらしてひとりが間合いに入り込んでくる。

 難なくクラウスは剣を受けて、そのまま相手の肩を貫いた。

 剣を引き抜いて、次に来る相手の攻撃を躱して弱い魔術攻撃を放つ。炎の魔術は制御が上手く行かない分、派手に炸裂するが威力はない。

 視力を弱めた事故で、魔術の制御も異常をきたしているのだ。最も得手とする炎の魔術がまともに制御できなくなっていた。

 数人が怯むものの、ローブで塞がれてしまう。

(疲れたな……)

 最初の立ち位置からほとんど動かず攻撃を躱し、反撃をしながらクラウスはぼんやりと思う。

 兄の思い通り、というのは気に食わない。

 かといってここで今必死に生き延びてどうするのか。ディックハウト側にとっても、自分はさして必要ないらしい。

 もう、このまま帰る場所もない。

 クラウスの左腕が引き裂かれる。

 焼け付く痛みに、本気でどうでも良くなってくる。

(俺が死んだら、リリーどういう反応するかな)

 泣くのは似合わない気がする。どちらかというと呆れて怒って、ほんの少し寂しげな顔をして忘れてくれるだろう。

(悪くないかもな)

 クラウスは戦うことを放棄して剣を地面に落とす。

 ここが自分の終わりだ。

 諦めた時、ざっと一陣の風が吹いて襲いかかってきていた魔道士達のローブが裂かれた。

「ちょっと、あんたらここで何やってんの? 私刑なら軍規違反よ」

 なぜか木立の中からリリーが出てきて、クラウスは本気で動じて目を瞬かせる。

「リリー、なんでここにいるんだよ」

「バルドがあんたが連れて行かれてかれるのを見つけたの。将軍命令で追跡したわけ。で、これどういう状況?」

 リリーがねめつけると、魔道士達は剣をしまって押し黙る。連れて行くところを見られたら、逃走を追い駆けたとも言えないだろう。

「……今回に限り見逃してやってもいいって、将軍が」

 リリーが言ってさっさと魔道士達を追い払う。見逃すも何も兄の手の者である以上、そう厳しい罰は下せないだろう。

「わざわざ助けに来てくれたのか?」

 そういうのはあまりリリーらしくない行動に思えた。

「助けにっていうか、どうなるのか気になって見にきただけ。あいつらに勝つにしろ負けるにしろ見届るだけ見届けとこうかと思って」

「それで、いざ俺が死にそうになったらやっぱり助けたくなった?」

 冗談めかして言うと、リリーが側に寄ってきてそのまま足下の長剣を蹴った。

「戦うの、やめたでしょ。気に食わないと思ったから、死ぬの邪魔したのよ」

 本気で怒っているらしく、リリーの表情は険しい。

「邪魔にしに来た、か。じゃあ、俺が本気で戦って負けてたら、出て来なかった?」

「そうね。あんたが最後まで戦って逝くなら、きっちり見届けたわ」

 らしいな、とクラウスは笑う。

 嘘偽りなくリリーならそうしていただろう。情に走って勝負に割りいるなど、リリーならけしてしないはずだ。

 クラウスは剣をしまってリリーを見下ろす。

「俺、これからどうしようか」

「どうって。自分で決めなさいよ」

「せっかくの覚悟を邪魔しといて無責任だなあ」

「あ、あんたの覚悟とかじゃなくて完全に諦めてたじゃない」

 責める口調で言うと、リリーは言葉に詰まって困る。その様子が変に可愛く思えて、クラウスはついにやけてしまう。

「うん。でも、まあ結果的にリリー助けられて良かった。生きててよかったってさ、リリーに怒られて思った」

 言葉にして、本当に良かったとクラウスは思う。

 たぶんここにいるのがリリーでなかったらそんなこと、ちっとも思わないだろう。もし、自分が帰りたいと思うなら彼女の側かもしれない。

(どうなんだろうな、俺。リリーのこと、欲しいのかな)

 バルドのものだからなのか、それともそんなこと関係なくリリーのことが気になるのか自分でもよく分からない。

 でもリリーの特別になってみたい。

 羨ましいほどに揺るがない想いを向けられたら、どうしようもない自分も何か特別なものになれる気がする。

「クラウス?」

 クラウスは怪訝そうなリリーの頬に手を伸ばす。

 顔を寄せると、さすがに何をされるか分かったリリーが目を剥く。

「ちょっと、この駄眼鏡!」

 すかさず鳩尾に剣の柄が入ってきて、クラウスはげほげほとむせ込んで体のくの字に折った。

「……いった。さすがに駄目か。友情の触れ合いと思ったんだけど、な……」

「絶対嘘。あんた、見境ないのもいい加減しなさいよ。本当に、死ぬ気あった人間?」

 リリーが離れて文句をつける表情は、暗がりでも予測できた。

「なくなった。ついでに出て行く気もなくなった。家には戻れそうにないけど、大体兵舎にいるからな、俺。よかったな。唯一の友達がいなくならなくて」

「あんたが唯一の友達は嫌だわ……。ああ、もうそれならこんなとこにいないでさっさと帰るわよ」

 げんなりして怒る気力もなさそうなリリーがほらと促すのに、クラウスはじんわりと胸に広がる嬉しさを感じる。

(好きになるってこうことかもな)

 手に入れてみたいという気持ちが本物か嘘なのか、自分では判断がつかない。

 しかし今までに抱いたことのない感情だということだけはは確かだった。


***


 アンネリーゼは落ち着かない気持ちで夫と向かい合って食事をしていた。

 こんな風に屋敷でふたりきりで夕餉を取るなど久しぶりだ。使用人達すらこの部屋にはおらず、空気が重苦しい。

「今頃、クラウスは戦だろうな」

 珍しく弟の名を口にするヘルムートに、肉を切り分けながらアンネリーゼはうなずく。

「ええ。無事にお戻りなられるとよろしいですわ」

 クラウスが遠征に行く度に不安と心配で胸が締め付けられる。無事に戻って来て欲しいと、あくまで義姉として声をかけられないことが辛い。

 本当は誰よりもあなたの帰りを待っていると告げたい。わたくしのために生きて帰って来てと彼の胸に縋り付きたい。

 だけれど、できない。

「無事には帰ってこんだろうな」

 葡萄酒をあおってヘルムートが鼻で笑う。アンネリーゼは手を止めて夫の顔を凝視する。

「なぜ、ですの……?」

 震える声で問うが、答は聞きたくなかった。

「クラウスは名誉の戦死を遂げる。あの獣を手懐けられないどころか、逆臣の噂まで立つとは当家の恥さらしだ。これが一番いい手だろう」

 クラウスに対する暴言にアンネリーゼは青ざめる。

「そんな、クラウスはバルド殿下のお側で良くやっておりますでしょう。普通の人間なら近寄ることすらままならないと仰っていたではありませんか」

「近寄れる、だけでは無意味だ。結局、どこの子とも知れぬ面倒な小娘に役目を奪われた。本来ならば補佐官の座にいなければならんのに、むざむざと孤児の部下に甘んじている」

「そんな……彼女は、バルド殿下と親密なご関係なのでしょう。比べるのは無体です」

 将軍補佐を務めるリリーの姿は出立式や夜会で何度か見たことがある。あの恐ろしい外見の皇子の隣で平然と立っていた少女。

 見ていて羨ましいほど一心に皇子の側に寄り添い、そして皇子もまた彼女から離れようとしない。

「色にかまけるのをとめられなかった時点で無能だ。お前は本当によく、クラウスをかばいだてするな。あれは裏切り者かもしれんのだぞ」

「違います、クラウスは皇太子殿下のご命令で……!」

 とっさに反論して、アンネリーゼは夫の確信を得た表情に顔色をなくし口を噤む。

「やはり、死に損ないの方の皇子に与していたか。立派な当家の裏切り者だ。まんまと唆されて協力していたお前もな」

 ヘルムートが葡萄酒の入ったグラスを指先で弄びながら、冷ややかにアンネリーゼを見る。

「皇家は主君でしょう。主君に尽くすのがなぜ裏切りというのですか」

「当家は損失を被っている。皇家などお飾りにすぎん。我がフォーベック家があってこそだ。無能な皇主と、死に損ないの皇子に、獣同然の皇子。これで国がまっとうに動くと思うのか、お前は」

 あまりな言い様にアンネリーゼは言葉もなかった。それを肯定と取ったのか、勝ち誇った顔でヘルムートが笑う。

「お前との間に子が出来なくて良かったな。私の子かクラウスの子かまるで判別がつかなかっただろうからな。美しさだけが取り柄の世間知らずは、大人しく飾り物でいろ」

 自分への侮辱よりも、クラウスが不貞をしたと思われたことに怒りで頬が紅潮する。

「違います! 彼はわたくしに指一本触れてはおりません。クラウスはあなたが思っているよりもずっと、優秀で誠実な方です!」

 立ち上がってアンネリーゼは初めて夫に激しく言葉をぶつける。

 そう、彼は本当に何もしてはこなかった。だから信じられた。

 どれだけ多くの女性と関係をもとうと、自分だけにはけして安易に手を伸ばしてこない。寂しく思いながらも、自分だけは特別なのだと安心もしていた。

 それに彼が夜会で連れているどんな女よりも自分の方が綺麗で、彼のことを想っている。

 いつか、いつかきっとクラウスは自分を本当に愛してくれる。

「それは残念だったな。一度も抱かれずに終わるぐらいなら、出征前に寝ておくんだったな。さて、もう話は終わりだ。食事という気分でもないだろう」

 ヘルムートが席から立ち上がって、アンネリーゼは絶望に立ちくらみを覚える。

「あの方は簡単に死んだりはいたしません」

 だが、夫の策が上手く行くとは限らないと、諦めかけた心を奮い立たせる。

 必ずクラウスは自分の元へ帰ってきてくれる。

「その時はその時だ。機会はいくらでもある」

 だが、この男がいる限りクラウスはもう戻って来ないかも知れない。

 アンネリーゼは部屋から出ようとする夫の背を見る。

 自分を何もできないお飾りの人形だと思っている、彼の傲慢な背中を。

 アンネリーゼは側の肉切り用のナイフの刃に指の腹を這わせて、血を溢れさせる。白いテーブルクロスに血の染みが広がっていく。

 ぽたり、ぽたりと落ちていく血と指先の痛みはこの七年、夫といることの苦痛を思い起させた。

 アンネリーゼはナイフの柄に自分の血を塗りつけて、簡易の魔術の媒体とする。

 ヘルムートさえいなければ、安心してクラウスはこの屋敷に帰ってこられる。

 夫さえいなければ、自分は自由に彼を愛せる。

 無防備な夫の背にナイフを向ける。

 全てが終わるのは一瞬だった。

 風の刃がヘルムートの首を引き裂く。

 ごとりと首が落ちて、噴水のように夫の首があった場所から血が吹き上がった。

 アンネリーゼは呆けた顔でそれを見ていた。

 あまりにも呆気なく、自分とクラウスの愛を阻むものが消えた。

 アンネリーゼはその場で座り込んで、幸せな心地で微笑む。

 魔力に耐えきれず、ナイフが砕け散って自分の腕に破片が突き刺さっているのも気にならなかった。

「クラウス、早く帰ってきて……」

 そしてアンネリーゼは恋しい相手を求めて呼んだ。

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