参拝への出立のから三日。天気は快晴で滞りなく目的地までの道程は残り少しだった。

「このまま雨が降らなけりゃいいけど、熱いのも勘弁して欲しいわよね」

 馬上のリリーは額に滲む汗を拭いフードを日よけとして目深に被る。季節は初夏。黒いローブが暑苦しくなってくる季節である。

「退屈……」

 隣にいるバルドがぽつりと沈みきった様子で言う。表向きの目的は遠征ではなく参拝なので、他の魔道士達もいつもより緊張感が薄い。

「バルド、リリー、お前らはもうちょっと愛想良くしろよな。リリーはまだ可愛げがあるけどバルド、眉間に皺を寄せるな」

 クラウスの指摘にバルドが必死に何とか皺を伸ばそうとしているが、余計に顔つきが凶悪になっていっている。

 今回は小さな村や町をわざわざ横断していく。事前に第二皇子が通ることも宣伝して、通りには噂に聞く雷皇を見るための人々が大勢いた。

 長身で大剣を背負うバルドの姿は乗る馬まで黒く立派なこともあってよく目立つが、やはり人々の目は悪鬼を見るかのごとく怯えている。

 ちらほらと子供の泣き声も聞こえてくるが、親が家の中に引っ込めるのか直ぐに聞こえなくなる。

「…………あのさ、これって逆効果じゃない? 怖がられてしかないわよ」

「だってバルドだしなあ。リリーもフード外して愛想良くしろって。可愛い女の子ひとりいるだけでちょっとは違うからな」

 クラウスが若い女性の集まりに向かって微笑みかけ、小さく会釈する。すると彼女たちは頬を赤らめ顔を見合わせて、きゃっきゃとはしゃぐ姿が見えた。

「ほら、こんなかんじでさ」

 こういうことだけは得意なクラウスがしたり顔でリリーに言う。

「あんたのは女の子限定じゃない」

「リリーが男相手にしたらちょうどいいだろ。ついでに子供も可愛いお姉さんは好きだと思うし」

「リーはしなくていい」

 バルドがせっかくましになってきた眉間の皺をまた深くしてしまう。

「しろって言われてもできないわよ。ああ、もう後ここ抜けたらちょっとよね。斥候はまだ?」

 何がバルドの癇に障ったのかは知らないものの、リリーは社周辺の探りを入れに行ってる『杖』の魔道士の報告が気になっていた。

「敵は一掃」

 迫る戦闘への期待感にバルドの険しい表情が和らぐ。

「こっちは少人数だから、敵が多いとひとりで戦える分が多くなるわね。バルド、ほとんど取らないでよ」

「三分の二」

「数によるけどそれぐらいの割合なら妥協してもいいわ。今回はあんたが目立たなきゃなんないし」

 ふたりで先の戦闘の配分を話していると、クラウスの呆れたため息が聞こえた。

「……俺は杖に護られて隅っこで大人しくしとく」

 そんなことを話ながらのんびりと馬を進めていく。暑いことは暑いが涼しい風が吹いてきて、リリーはフードをとった。

 汗で湿った首元や額の風が触れると心地よく目を細める。そしてふっと頭の髪を高く結わえているあたりに何かを置かれて、リリーはバルドを見上げる。

「花」

 バルドが示す場所には白い花が咲きこぼれる藤に似た木があった。

 自分が髪に花を差しているのを見てから、バルドは道端の花をよく送ってくれた。子供の頃からなんとなく目についたものを、彼は良く持ってきたものだ。

 彼が自分の好きなものを覚えていてくれるのが嬉しくて喜ぶと、バルドも満足げな顔で嬉しそうにじっと見てくるのが好きだ。

「ん、あれ、頭に飾ったの。でも、自分じゃ確認できないわ……あ」

 さあっと目の前で白い花びらが風に流されていく。

「……失敗」

「いいわよ。どうせ花飾ってなんて行けないし。帰りにまだ咲いてたらもう一回ちょうだい」

 上手く行かなくて不服そうなバルドにねだると、納得したらしく眉間の皺を緩めた。

 そんなどこか緊張感の欠けた一行は、夕刻にはこの一帯を治める領主の館がある大きな街へとたどり着いた。

 社近くで最も有力なハイゼンベルク方のアッド子爵の邸宅が今日の宿だった。

 石組みの館は砦の役目を果たす頑健なもので、中も広く全ての兵がおさまる大広間で歓待を受けることなった。

 そして斥候が戻ってきたのは、これから酒杯に口をつけるかという時だった。

「……少なく見積もっても五百。そこそこ連れてきたわね。こっちは百五十。バルド、どうする?」

 社周囲ではすでに布陣が出来上がってきているらしく、思ったより盛大に出迎えてくれそうだった。

「百」

「アッド卿、魔道士を百人借りてもいいですか?」

 リリーは恰幅が良く大らかな雰囲気のアッド子爵に援軍を頼む。

「百と仰らず、二百でも連れてお行き下さい。私めも出陣いたしますぞ」

 アッド子爵が傍らに置いてある木を二本絡み合わせた杖を握って、憤然と闘志を漲らせる。

「百と卿は待機。必要時呼ぶ。負傷者の受け入れ用意」

「将軍と共に出陣するのは百名で十分です。アッド子爵は後百名を指揮下に置いて随時動けるように待機させていて下さい。負傷兵が運び込める場所も念のため空けて置いて下さい」

 リリーはバルドの言葉をつらつらと言い直してアッド子爵に告げ、じっと指示を待つ兵らに目を向ける。

「支度があるからお酒はほどほどに。好きなだけ呑みたいなら明日死なないこと。編成と策はまた後で指示するからそれまでに食事はすませといて」

 リリーは適当に兵らにそう言って、子爵が案内する奥の部屋へとバルドと共に向かうことになった。

「あんたはこっち」

 クラウスがついてこずに、他の兵らに混ざろうとするのでリリーは彼の腕を掴んで引っ張る。

 その時、彼は目を見張って動揺した素振りを見せた。

「……俺はこっちでいいのか?」

 そしてリリーは残る兵達の不安そうな表情がクラウスに向けられるのをみて、バルドに指示を求めて彼の名を呼ぶ。

 バルドは躊躇わずに無言で首を縦に振った。

「どうかされましたか?」

 アッド子爵が首を傾げるのにリリーは困る。

 まさか宰相家の次男がディックハウト側と通じている噂があるなど、言えるはずがなかった。

「いや、呑みすぎる奴がいないか見ておいた方がいいかと思ったんで」

 クラウスが誤魔化すと子爵が朗らかに大丈夫でしょうと笑った。

(情報を流されるのはまずいけど、バルドがいいなら大丈夫か)

 バルドが戦況を見誤ることはなく、戦略を立てるにしても上手くやる。最大の問題はまともに指示できないという所だが。

 そうしてその夜は作戦会議に費やし、結局命令を下すのは翌朝にすることになったのだった。


***

 

 会議も終わり遅い夕食を終えた後、バルドはクラウスに呼び出されて館の中庭を見下ろすルーフテラスに来ていた。

 篝火に銀色の髪を赤く染められて外を眺めるクラウスの横顔は、いつもの軽薄な雰囲気がどこにもなかった。

「話」

 二十年近く一緒にいるが、思い返してみればこうしてクラウスと向き合うのは初めてだった。リリーなしでもある程度会話は成り立つが、ふたりきりというのはどうにも落ち着かなかない。

「……お前さ、本当にリリーをこのまま道連れにする気か?」

 何を話すかクラウスが迷うように間を置いて静かに言う。

「道連れではない。一緒に生きて、一緒に死ぬ」

 リリーが自分の側にいたいと言って、そうして自分も彼女に側にいて欲しくてずっと一緒にいると決めたのだ。けしてこのままハイゼンベルクと心中しろ命じたわけではない。

 リリーは自らの意志でここにいる。

「お前ら本当に子供のままごと遊びみたいだよな。その辺に咲いてる花やら市場で手に入る果物やら贈って、まともに口づけもできなけりゃ、それ以上は知りもしないでさ。なんにも知らなかったのはリリーだけか……お前は抱きたいと思ったことないのか?」

 クラウスの言わんとしていることが図りきれず、返事をできずにいると笑われてしまう。

「結婚後に子供を作るのにしないといけないことを、リリーとしたいと思ったことがあるかってことだよ。お前、これも通じないんだな。すごいな」

 どうしても結婚しなければいけないなら、リリーがいいとは考えたことはある。他人に触られるのも、触るのも苦手だ。

 リリーだけが触れても嫌でなくて、自分から触れられる相手だったからである。

「……不明」

「じゃあ。あれで満足だったのか? ほんちょっと抱きしめるぐらいで、たまに口づけるぐらいで、もっと他の所に触ってみたいとか考えなかったか?」

 ぐるりとバルドは過去を反芻する。

 十四になる頃のリリーから甘い香りがするようになった。そして自分は衝動的に口づけたのだ。

 いつも噛みつき合うのとは違う不思議な感覚に、お互い好奇心の赴くままに何度か唇を重ねたのが最初。それからは普段の遊びの中でもお気に入りになった。

「不満、あったかもしれない。不明確」

 口づけが妙に物足りなくなることはあった。抱き寄せた時、柔らかくて暖かい体を包んでいる衣服を邪魔だと感じたことも。

(あれはそれ……)

 数日前に焼き菓子を部屋に持っていったときのリリーの姿に覚えた、そわそわとした落ち着きない感覚に似ている。

「結婚をしてないから、いけない」

 だけれどそれは結婚してからにすべきことであると、ラインハルトから教えられている。相手を選ばず安易に行為に及ぶことは、皇家の血に不純な血を混ぜるという愚かで恥ずべきことだとも念をおされた。

「教えたのは皇太子殿下だろ」

「兄上は正しいことを教えて下さる」

 ラインハルトが自分の教育を一手に引き受けていた。文字の読み書きから皇家の者としての必要な知識、行儀作法まで全てだ。剣術はさすがに独学ではあるが、それ以外の一切は兄が師となった。

 そしてラインハルト以外の言葉は全て皇家を思い通りに動かそうとするもので、常に正しいのは兄だと何度も言い含められてきた。

「だったらリリーと結婚すればいい。あれだけの魔力なら血統は保証されたも同然だし、身分もどっかの上位貴族の養女にすればいいだろ。聞いてるか? ジルベール侯爵が養女にしたいって、言いだしたらしいぞ」

 それは知っている。確かエレンがその話を断ってラインハルトに報告し、リリーが政争に巻き込まれないように注意しておけと命じられた。

 だが宰相家や他の貴族を出し抜くつもりのジルベール侯爵が、他の誰かに話すなどありるだろうか。クラウスの耳に入ることにも気をつけていたはずだ。

「何故、クラウスが知っている」

「お前、やっぱり頭悪いわけでもないよな。エレンから聞いた。俺が逆臣だって噂、あれ半分は本当だ。皇太子殿下の命令でディックハウト側に六年前から潜り込んでる。この間の掃討作戦も、協力してた」

「…………聞いていない」

 バルドは急に明かされた事実に動揺する。

 ラインハルトが宰相家の人間であるクラウスを、側近として取り込んでいることを隠していた。しかも彼は自分の目付役である。

 自分が誰よりも兄に信頼されているのだという、絶対的な自信が揺らいだ。

(兄上は正しい)

 バルドは何かラインハルトなりの考えがあってのことだろうと、自分に言い聞かせる。

 クラウスはどこか楽しげに自分を見ていた。

「皇太子殿下がお前に本心全部言ってないなんて、見ない振りしてるだけでとっくに気付いてただろ。なあ、皇太子殿下がリリーのこと助けるために、ディックハウト側へ行かせたなんて信じてるのか?」

「兄上は仰った。リーのためにはそれが一番いい」

 リリーのためにと言ったのだ。その言葉を信じて自分はリリーと離れることを決めて、彼女を離叛まで追い詰めた。

「……手違い。兄上の命に背いた」

 しかし本来ならリリーは贋の神器を持って逃亡するはずが、なぜかまだ離宮に残っていて対峙することになった。

 クラウスはラインハルトの命に背き、神器を運ぶ役割をリリーに回さなかったのだとバルドは気付いてつぶやく。

「そうしないと、リリーは追い駆けて行く他の将軍に殺されてた。皇太子殿下はお前の知らない所で、リリーを始末しようとしてたんだ」

「嘘」

 信じられなかった。自分が、どれだけリリーを大事に思っているかラインハルトは知っているはずだった。

 兄がリリーをあまり気に入っていないことは気付いてはいたが、そこまでするとは考えたくない。

「本当だ。リリーも知ってる。お前には絶対に言わないだろうけど、俺は隠れてリリーと皇太子殿下の話、聞いてたしな」

 不意に強い風が吹いて、火の粉が巻き上がる。

 ラインハルトの話題を出すとリリーが表情を硬くすることが確かに最近増えた。兄にあまり好かれてていないと、彼女自身も勘づいているからだと思っていた。

 ハイゼンベルク側にいられなくなるまで追い込まれ、殺されかけた事実をリリーは全部自分の胸の内に仕舞い込んだ。

 そして自分は兄に荷担していた。

 リリーの内通者と釈明もできないまま冤罪をかけられ傷ついていた顔や、敗北して止めを刺せと泣いた姿が脳裏に蘇る。

 胸をかきむしられる感覚にバルドは口を引き結ぶ。

 何もかもが彼女のために仕方ないことだと思ってやったことが、ただ無用に傷つけていただけの行為にすぎなかった。

「お前、皇太子殿下にリリーを殺せって直接命じられたらどうするんだ? そもそも皇太子殿下死んだら、何もできなくなるのか」

 答に困る質問を一度にふたつ投げられてバルド戸惑った。

「リーは殺さない」

 それだけは聞けない。そうしたら、兄に見捨てられるのか。そもそも余命が僅かでどちらにしろ、兄はいつかいなくなってしまう。

「兄上が、いなくなる」

 あまり考えたくなくて目を逸らしてきたこと口にしてしまい指先が震える。

「いなくなるんだよ。俺、お前のそういうところ昔から嫌いだったな。都合の悪いことはなんにも見やしない」

 バルドは痛いところを突かれてクラウスから視線を逸らした。

「なあ、リリーのことも自分の都合のいい所しか見てないんじゃないのか?」

 違うとは言い切れなかった。現に、リリーが何か隠していることに全く気付いていないわけでもなかった。

 だけれども、何も聞かないでいた。

 必要なら話してくれるし、そうでないなら聞く必要がないと勝手に思い込んでいた。

「お前、どうしてリリーのこと、好きなんだろうな」

 独りごちるかのようにクラウスが首を傾げて、バルドは出会いを思い返す。

 初めて士官学校で模擬演習をするリリーを目にして、戦いたいと思った。

 将軍や教官。強さだけなら、当時たった十歳の彼女に勝る者は何人も知っていた。

 しかし剣を振るう時に爛々と輝く瞳と、感情の昂ぶりのままに放たれる魔術は他の誰とも違った。

 どうしても剣を交えてみたくて挑んだとき、彼女は他の人間と同じく一瞬怯んだ。だが次の瞬間は、獲物を目にした獣の目つきに変わった。

 あれほど戦っていて高揚したことは初めてだった。同時に彼女もとても楽しげだった。

 こんな風に言葉もなく同調し戦い合える相手は他にいないと思った。

 それにまだリリーは強くなる。

 勝った後も興味が尽きずリリーを訪ねたはいいが、兄以外とまともに会話をしたことがない自分は無言で彼女の前に佇むだけだった。

――また試合したいの?

 声をかけてきたのはリリーの方だった。うなずくと、嬉しそうに彼女は笑顔を見せたのだ。

 誰かにあんな風に笑いかけられたのは初めてだった。

 そうしてリリーへの関心は戦うこと以外にも向いていった。一緒に過ごす度に、彼女の好きなところは際限なく増えていった。

「……リーが、リーだから」

 どうしてと言われても、たくさんありすぎてそんな答しか出ない。

「答になってないな。お前にだけにしか分からないっていうのが、また嫌だなあ」

 クラウスが心底嫌そうにぼやいた。

 理解されなくてバルドは少しほっとする。分かったら、クラウスがリリーを本気で欲しがるかもしれない。

 昔から、彼は自分がちょっと興味を持ったものを気に入って欲しがった。飽き性なのか譲るとすぐに興味をなくしてしまったけれども。

 どれもすぐに譲っても特に惜しくないものだからさして気にしなかったが、リリーだけは絶対に渡せない。

 以前夜会でクラウスがリリーに口づけようとしていたことを思い出して、バルドは不快になる。

 少しでも興味を示しているから、彼とリリーがふたりきりになるのは快く思えない。

「そんな恐い顔するなよ。分からないものはわからないんだから。はあ、一番知りたいことは結局分からないままか」

 がっかりした口調で言ってクラウスは緊張を緩める。

「何故、今この話」

 しかしクラウスは今日になって急にこんな話をするのかと、バルドは訊ねる。

「俺、明日の戦の後、どさくさに紛れて向こうに逃げるつもりだからな。終わりかけの頃に、敗走して退く中に混じろうかと思ってる。お前も一掃はしないだろ。敵方にも神器の威力を広めてもらわないといけないからな」

 その意義もあるので逃げる敵は追わないことには確かになっている。

「出て行く……」

 一緒にいてよかったと思ったことはこれといってないが、クラウスがいなくなった日常は何かしっくりいかなかった。

「なんだよ、リリーとそっくりの反応するんだな。お前は俺のことどうでもいいだろ」

「……いなくても不便はなし。いても害はない」

「それ、どうでもいいってことじゃないのか?」

 そういうことでもないのだがとバルドは自分でもよく分からず首を捻る。

「じゃあ。リリーも連れて行くって言ったら、どうする」

「リーは行かない」

 即答するとクラウスが肩を揺らして笑う。

「俺、お前のそういう所も大嫌いだな。あ、皇太子殿下には好きにしていいって言われてるからな。将軍としては脱走兵が出るのは困るだろうけどどうする? このまま捕らえるか手打ちにするか」

 ラインハルトが目を瞑るというなら、自分がどうこう口出しできることはない。

 返答をせずにいると、クラウスは呆れた顔を見せた。

「そんなんでリリーもよくお前と心中する気になるよな。じゃあ、お休み」

 クラウスがごく軽い口調で言って、先に屋内へと戻っていった。

 ひとり取り残されたバルドはクラウスが立っていた場所へ、なんとなしに立って夜景を眺める。

 山々が黒く景色を覆っていて何も見えないが、向こう側には皇都があるはずだ。

 こうして王宮を遠く離れてひとりでいると、時々たまらなく不安になる時がある。

 正しい答をくれるラインハルトが近くにいない。

 だけれどもう自分の感情と、兄の言うことが食い違ことがあるのを知ってしまっている。

 そういう時は自分が誤っているということなのだろうが、リリーに関することだけは間違いだとは認めたくない。

 正しいことが分からなくなると、自分の挙動ひとつひとつに迷って何もできなくなる気がして恐ろしい。

(戦うだけ……)

 後はただ欲求のままに剣を振るい敵を屠る獣になるしかない。

 バルドは背を翻し、表情を陰らせたまま屋内へと戻っていった。


***


「リー」

 バルドが用意された私室に行くと、部屋の前にリリーが壁にもたれて落ち着きなく片方の爪先で石床を叩いていた。

 さっきの今で気まずい思いをしながらも、バルドは逃げ場がなく声をかける。

「クラウス、なんの話だった?」

「この戦が終わる頃出て行く」

 何から話せばいいか迷って、バルドは最初にそのことを話した。

「そっか。行っちゃうんだ。止めなかったのね」

 寂しげにリリーが自分の爪先に目を落とす。バルドは彼女にクラウスが兄の側近であったことを話すか考え込んだ。

「バルド、まだ何かあるの?」

 すぐにリリーには躊躇っているのを見透かされていた。

 何もないと言えばリリーはそれ以上は聞いてこないかもしれない。だがこのまま黙って甘えているばかりではいけない気がした。

 全てを話すことを決めて部屋へと彼女を入れる。

「またやたら広い部屋ね。ひとり寝になんであんな大きい寝台が必要なのかしら」

 執務室が丸四つは入りそうな広い部屋の四分の一近くありそうな、大きな寝台にリリーが呆れつつ長椅子に腰を落として座面を押す。

 バルドはその隣に座って、ぽつりぽつりとクラウスのことを話していく。

「ちょっと待って、クラウスはあたしが冤罪で追い詰められるって全部知ってたってこと!? 文句つけたい所だけど、助けてはもらったのよね……でも知ってて味方面してたのは考えると腹立つ」

 冤罪をかけられた時、クラウスだけに疑われなかったリリーが複雑そうな顔で唸る。

「……俺は兄上の命に背けなかった」

 命じられるままにリリーを追い込んだ自分と違って、クラウスは命令違反をしてリリーを救おうとした。

「だって、あんた知らなかったんでしょ。気にしないでもいいわよ。あたしはあの人と仲良くなれないって、昔から分かってたし」

 気にするなと言われも無理だとバルドはうなだれる。

「あたし、バルドが一緒にいてって言うからここにいるんじゃないわよ。あたしがいたいからいるの。誰に邪魔されたって、あたしの気持ちは変わらないわ。バルドは変わる? 皇太子殿下に駄目って言われたら、あたしのことまた遠くに行かせようとする?」

 リリーがほんの少し自信なさそうに問いかけてきて、バルドは首を横に振る。

「行かせない。一緒にいる」

「だったら、それでいいでしょ。もう、そのことはさっさと忘れて」

「不可能」

 忘れるというのはもっと無理だ。本当に自分は取り返しのつかないことをしてしまったのだ。

 バルドが沈み込んでいると、リリーが肩に寄りかかってきた。ふわりとした暖かな温度が、なにものにも変えがたいのだと改めて思い知らされる。

 そうして雨の中で抱きしめた冷え切った体を思い出す。

 クラウスが命令違反をしなければ、永遠に失っていたのかもしれない。

「リーは、何故、俺と一緒にいたい?」

「バルドが好きだから。それだけじゃ駄目?」

 上不安げに自分の目を覗き込んでくる新緑の瞳に、胸が何か詰まったように苦しくなる。

「なぜ、好き」

「……バルドが、バルドだから。それじゃ、分かんないか」

 自嘲してリリーが視線を落とす。

「分かる。俺も、リーがリーだから好き」

 自分とまるきり同じで、嬉しいのに先程よりもずっと胸が苦しくなってバルドはリリーを抱き寄せる。

 リリーは抵抗もしなければ、抗議の声も上げなかった。ただ静かにそのまま胸にもたれかかってきてくれる。

 身を委ねてもらっているはずなのにまだ足りない。もっと満たされたい。

(抱きたい…………)

 クラウスの言っていたことは、こういうことだろうか。

 どれだけ抱きしめてぬくもりを分かち合っても、衣服に本当の彼女の温度も柔らかさも隠されてしまっていて足らない。

 素肌に触れたら、どれだけ満たされるのだろう。

 全てを許されたら、どんなに幸せになれるのだろう。

 衝動に任せて背筋から腰のあたりへと掌を滑らせると、リリーが身じろぎして肩を震わせる。

 それにバルドもびくりとして我に返る。

「バルド……?」

 腕を緩めるとリリーが顔を上げて心配そうに小首を傾げる。あどけない姿に罪悪巻がこみ上げてくる。

 これは愚かで恥ずべきことだという、兄の言葉が蘇る。

 皇家の血統などでなく、ただ欲求に身を任せて自分が満たされたいがためにリリーを抱くのは愚かで恥ずべきことだ。

「大丈夫。あたし、バルドと一緒にいるわよ」

 リリーは自分が何をしようとしていたのか気づきもせずに、気遣わしげに頬に触れてくる。

 そして躊躇いがちにそっと顔を寄せてくる。

「いい。大丈夫」

 ここで口づけられたりしたなら、自制心が脆く崩れ去ってしまいそうで、バルドはリリーから離れる。

「……うん。バルド、あたし、皇太子殿下のこと本当に気にしてないから。寝台が広くて寝心地が悪そうでも、椅子と机の間で寝ちゃ駄目よ」

 本当にどうでもいい忠告を最後にして、リリーがばたばたと慌ただしく部屋を出て行く。

 バルドはそのまま横になってゆるりと寝台に目を向ける。広いところで寝るのは落ち着かないので、床で寝るのだけは我慢する。

 ただ寝付けるのはまだ先だろうと思った。


***


 リリーはバルドの部屋から出るとすぐに侍女と鉢合わせした。

「あの、補佐官様。殿下に何か不足はないか御用を申しつけられにきたのですが」

「えっと、もう寝るみたいだし。だいたいのことは自分でできるから大丈夫です。もし床で寝てても、いつもの癖だから気にしないで下さい。困ったら呼んでください

「……同室の方がよろしかったでしょうか」

 侍女が訊ねてくるのにリリーはいや、と断る。

「確かに部屋はひとりには広すぎるけど、あたしがいっつも一緒じゃないと駄目っていうわけでもないし」

 あの部屋だけで数人は過ごせそうだが、ちょうどいい狭いところを見つけたらバルドはそこに勝手にそこで落ち着くだろう。

「明晩はこの部屋でお過ごしいただける準備しておきます」

「ん。だから、部屋は別でも……」

 話が噛合わなくて混乱する。

「補佐官様が殿下のお世話をなさるのでは? 殿下にお選びいただいた方がよろしいでしょうか」

 本格的に会話が通じなくなってきた。リリーは扉の向こうのバルドに助けを求めたくなるが、通訳である自分が分からないのに彼が分かるかどうかは怪しい。

「な、何を選ぶの……?」

「ええ。ですから殿下の床のお世話をする者ですが」

 しばらく沈黙して、それらしき答を見つけたリリーの顔が真っ赤になる。

「へ、部屋は別でいいし、そういうのもバルドには必要ない、で、す」

 動揺して声を震わせて断り、リリーは近くの自分の部屋に逃げ込む。そして扉をしめるとその場に座り込んで、熱くなった頬を両手で挟んで呼吸をひとつする。

 そしてふっと先ほど自分からバルドに接吻しかけたことまで思い出して、また熱が上がる。

「だって、そうしたら安心するかもって思ったんだもの」

 背中を撫でられるとなぜか反射的に震えが来て、つい身じろぎしてしまったのがいけなかったかもしれない。

 見上げたバルドがあまりにも苦しそうで、言葉で通じないならそれしかないと思った。

「……バルドがバルドだから好きなのに」

 強いところもどうしようなく弱いところも全部、バルドの一部だ。ラインハルトのことを疑わず、従順なのもいつものことだ。

 雛鳥が必死に親についていくのと変わりない。

 自分のバルドと一緒にいたいという気持ちだって、揺らぐどころか以前よりも強まっている。

 なのになぜ不満に似たものがあるのだろう。

「全部欲しいのかな……」

 自分が全てであって欲しいと願う心に気付いて、リリーは膝を抱える。

 幼い頃からひとりきりで誰にもかまわれなかったバルドにとって、ラインハルトの存在はあまりにも大きい。必要な知識も考え方も、兄から教わってバルドの一部になっている。

「本当に愛してないなら全部くれればいいのに」

 ラインハルトはバルドのことをただ利用しているだけだ。もういい加減離して欲しいけれど、バルド自身が離れられない。

 このままラインハルトが死んでしまえば、バルドの一部ごと持って行かれそうで恐い。

 リリーはため息と共に塞ぎ込みかける気持ちを追いやる。

「それにしてもクラウスまで抱え込んでたなんて、あの人も本当に抜け目ないわね」

 王宮から動けない代わりに、バルドの本当の意味での監視役までつけていたのだ。

 それも一番疑われなさそうなクラウスだ。先日の命令違反といい、そこまで従順な側近というわけでもないだろうが計算の上でだろう。

「文句とお礼、言ってた方が後悔しないか」

 そのクラウスも明日にはいなくなってしまう。

 あの性格だから前線までは早々出て来ないだろうし、会ったとしても戦うだけだから話ができる機会はもうない。

 言いたいこと言って送り出した方がいい。

 リリーは立ち上がってローブを脱ぐ。

 将軍補佐官という立場には相応しいけれど、一介の孤児である身としては、分不相応な部屋だ。置かれている壷や絵画の装飾、椅子や机の調度品もどれも細工などが凝っていてどうにも落ち着かない。

 遠征で希にこういう貴族の館を借りることはあっても、ここまで豪勢なのは初めてだった。

「で、バルドの部屋はもっとすごかったわね。野営の方が落ち着くわ」

 そのままいつでも動けるように長靴だけ抜いてリリーは寝台に寝転ぶ。

 そして急に先ほどの侍女とのやりとりを思い出して、じたばたしてしまう。

「お世話って、そういうのもあるなんて知らないわよ」

 あんな言い回しで分かるはずもない。つい最近までそういう男女の行為があるなど知らなかったのだ。

「気をつけよう……。何をどうするかよく分かんないけど」

 そして自分がバルドのその相手をするのだと思われたことも、今さらながら恥ずかしくなってくる。

「うう。こういうときどうすればいいか聞く相手って、クラウスぐらいしかいないわ……」

 思いの外、クラウスが役に立つこともあるのだとリリーは頭を抱え唸るのだった。

 

***


「いよいよ、か」

 クラウスは灯を寝台脇の机にひとつだけ残し、暗い部屋でつぶやく。

 離叛の意志を固めたのは出発の日だった。殲滅目的ではなくディックハウト領に近い戦は、そうそうない機会だ。

「ただで逃がしてくれるどうか……。まあ、おれひとりいなくても不利益はそこまで被らないか。普段が普段だし」

 ラインハルトも自分が逃げ出すならこの機だと見抜いているはずだ。口では好きにしろと言っていたが、何か罠を張っている可能性もある。

 一番使い勝手がいいバルドになにも命じていなさそうなのは、どう見るべきか。

「駄目だったら駄目でいいか」

 逃げるのは父や兄と共にハイゼンベルク側で一家仲良く死ぬのは嫌だというだけだ。

 ディックハウト側に逃れて、生き延びたいという気持ちも実の所あまりない。逃亡に失敗したら、それはそれでいい。

 自死を選ぶほど絶望しているわけでもなければ、生きるのにしがみつくほどのものもない。

 半端な自分はやはり間抜けに殺されるのが似合いだ。

――あんたはこっち

 クラウスは作戦会議前にリリーに引っ張られた腕を自分で触れる。

 あの時、一瞬リリーに引き止められた気がした。そんなことがあるわけがないのに、期待した自分に驚いた。

「いや、まあ可愛いけど十人並みだしな。もっと美人で可愛い子はいっぱい知ってる。リリーよりもっとはっきりものを言う子も知ってる。正直、戦闘中のリリーはバルド並みに狂暴で恐すぎる」

 自分がリリーをこれと言って特別と思わない理由をあげつらって、クラウスは口を引き結ぶ。

 まるで自分にとって特別だと認めたくないかのようだ。

「心残りか……」

 そろそろ本気で出て行くのだと分かった時に、リリーが見せた寂しげな表情が蘇る。

 なんのかんのといって、友人ぐらいには思っていてくれたのか。

 同時にバルドにどこにでもある花を贈られて喜ぶ姿や、なんの躊躇いもなくバルドの側にいると言っていた姿を思い出して妬ましくなる。

 バルドが、ではない。リリーが、だ。

 なんの変哲もない花ひとつが特別大事そうで、自分だけの居場所を見つけて決して揺るがない。

 自分が求めているものを全部持っている。

 他にもそういう人間は沢山いるはずなのに、なぜだか特別に羨ましいのだ。

「バルドには贅沢すぎるよな」

 あんな風に想われるほどの価値が、バルドにはあるのだろうか。人のことを言えた義理ではないが。

 ラインハルトもそう長くない。操り糸が切られた傀儡がどうなるかは見物だ。

 容易く操れないバルドを手懐けるために、諸侯がこぞってリリーを利用せんと動き始める。

 そんな中でもリリーはきっと、変わらないだろう。

「なんか、未練たらたらになってきたな、俺」

 いざ離れるとなると惜しくなってくるのは手に入らないからかと、クラウスは苦笑して横になる。

 どの道、明日が最後だ。

 その決意だけは揺らがないのを確認して、クラウスは眠りについた。

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