終天崩落

 リリーと出会った頃のことは、あまり記憶に残っていないとクラウスは思い返す。

 バルドの士官学校入学の当日、目付役という仕事を早々に放棄している内にバルドが四つも年下の少女に試合を挑んだと聞いて訳が分らなかった。

 その翌日にはバルトとリリーはすっかり仲良くなっていた。

 自分が初めてリリーと言葉を交わしたのはいつだっただろう、どんな風に声をかけて、彼女がなんと答えたのかもさっぱり覚えていない。

 十五の時の自分にとってリリーは、バルドが初めて関心を寄せた他人という印象しかなかった。

(こんなことになるなんて、思ってもみなかった)

 クラウスは自分の腕に横抱きにしたリリーを見下ろして目を細める。

 今、自分が歩いている場所は彼女と出会った士官学校のある皇都から遠く離れた、北のゼランシア砦の暗い廊下だ。

 ハイゼンベルク方宰相の次男であるのに、敵拠点にいる。しかも反乱を起こして味方であるハイゼンベルクが拠点としていたモルドラ砦を落とした上でだ。

 父や兄と心中する気はさらさらなかったので、いずれ背信者となることはわかっていた。

 しかし、リリーを連れ去ることになるとは想像もしなかった。

「まだ先なのか?」

 クラウスは洞穴のような岩肌が剥き出しの廊下の奥を見ながら、前で燭台を持って歩くフリーダに問いかける。

「もう使われていない軟禁のための部屋だから奥だ。私も来るのは初めてだがな」

「他の連中がリリーに手出しできない場所ならいいよ」

 リリーを嫌う者もは多い。死なない程度なら嬲ってもいいだろうという輩もいた

 だから元は自分の前任の『剣』の統率官で、今は城主の妻であるフリーダに安全な監禁場所を都合してもらうことになった。

 ここは砦の中でも城主である伯爵家の私的な区域であり、兵達は入って来られないそうだ。

「相変わらず嫌われ者だな。皇主の愛妾だから、痛めつけたいと考えている連中もいるらしいが、戦えない状態を狙うとは卑怯だ」

 フリーダが呆れたため息をつく。

「真っ正面からリリーと戦っても勝てないって言ってるようなもんだからな……ここか」

 フリーダが立ち止まったのは一見すればごく普通の部屋の扉だった。

「何代か前に気が触れた伯爵家の令嬢をここに閉じ込めていたという話だ。侍女達に簡単に掃除をして寝台を整えてもらったが、ずいぶん嫌がられたな」

 燭台の灯に照らされた部屋は一見すれば物がなさ過ぎる部屋だが、よくよく床を見れば調度品は全て床に打ち付けられた杭と縄で固定されていた。

「不気味な部屋だな……」

 クラウスは寝台にリリーを寝かせて薄い上掛けも掛ける。彼女が履いていた長靴はすでに脱がせてある。

 リリーが長靴に予備の武器を仕込んでいないのは知っているし、確かめもしたが念のためだ。代わりに部屋履きとなる布靴も寝台の脇に添えてある。

「本当に明日の午前中には起きるのか?」

 ぐっすりと眠るリリーに、フリーダが少し不安げに聞いてくる。

「遅くても昼頃には起きる。量も加減したし、そう危険な薬じゃない」

 効きが早いが切れるのも早い薬なので、明日の朝までぐらいしか眠らない。少し目の下に隈が見えたので、寝不足もあって薬の効きがいいのだろう。

(あの灰色の魔道士絡みだな)

 昨日、長らく不審人物としてハイゼンベルクが追っていた灰色の魔道士が捕らえられた。尋問はバルドとリリーだけで行われたので、何か他の者に知られてはまずい情報を灰色の魔道士は握っているはずだ。

 しかし砦に灰色の魔道士の姿はなく、撤退の時にハイゼンベルク方が一緒に連れて行ったらしかった。

「エレンと、話がしたいんだけど、すぐ会えるか?」

 そして、灰色の魔道士については亡き皇太子、ラインハルトも気にかけていた。彼の側近であったエレンもハイゼンベルクを裏切りこの砦にいる。彼女なら何か知っているはずだ。

「リリーの次はエレンか。節操がないな」

「ただ協力の礼を言うだけだよ。この部屋の鍵、俺が持ってもいいか?」

「……君に預けるのも預けるで、危険だと私は考えるが」

 フリーダが合い鍵と一緒になった部屋の鍵を白いローブの内側から取り出して思案する。

「俺はリリーに酷いことはしない」

 戦場で死ぬよりもずっと幸せなことを、リリーに教えたくて連れてきたのだ。

 本当に大事に大事に扱う気でいる。

「彼女から剣を奪ってつがいの片割れから引き離すのは、十分酷いことだと思うのだけれどね……君も、私か夫殿の許可がなければ入れないが持っておきたいなら持っているといい」

 そう言いながら、フリーダは鍵をひとつ寄越してくれた。

「俺は酷いことなんて思わない。……また後でくるから」

 クラウスは眠るリリーに声をかけて、フリーダと共に部屋を出る。

 そうして自らの手で扉の鍵を閉めた。

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