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モルドラ砦より南に下がった森の中に建つルベランス城に、ハイゼンベルクの軍は逃げ込んだ。
手勢の多くが寝返ったとはいえ、脱した兵は一万を越える。ルベランス城には二千の増援を待機させていたので、合わせて一万五千近くとなる兵は、モルドラ砦よりも二回りほど狭いルベランス城内にはおさまりきらず、夜には城の庭や周囲に天幕がいくつも張られていた。
城内の大広間では将であるバルドを中心にして、炎将のヴィオラ、その補佐官のマリウスと水将補佐官のカイ、他に雷軍炎軍の統率官など上位の仕官が集まり紛糾していた。
「ゼランシア砦を取り戻す前に、モルドラ砦が取られるとは!」
「いや、しかし数合わせに兵をかき集めたのだ。こうなる可能性は出兵の前から予測はしていた」
「まず、フォーベック統率官を連れてくるべきではなかったのでは」
血の気の多い者達が不平を口にするのを、バルドは止めなかった。他も疲労困憊して口を挟む気にもならない者や、先に吐き出させるだけ吐き出させておけと静観する者で止める者はいない。
「アクス補佐官はいったい何をしていたのだ。やすやすとクラウスに捕虜にされるなど」
「悪知恵が働くあの男と、まだ子供のアクス補佐官ではしかたあるまい。向こうがどう利用してくるか」
「まだ生きているのか。首だけで返されるか。それとも、公開処刑も……」
話題がリリーのことへ移って、バルドが眉を顰める。
「……補佐官、処刑なし。クラウス、させない」
クラウスの目的はリリー自身だ。敵勢の中にいても、彼女に傷ひとつ負わせないだけの自信があるはずだ。
バルドが声を出したことで騒々しかった場に、気まずい沈黙が落ちた。
「……アクス補佐官の件はひとまずおいておきましょう。皇主様は一度皇都に退かれては」
統率官の中で最も年配の者がやんわりと言うのに、バルドは首を横に振った。
「将、逃げれば士気下がる。引き続きゼランシア砦攻略に尽力すべき」
ここで逃げたところで、ディックハウトの兵は後から後から士気の落ちた軍を踏みつぶしながら迫ってくる。
敵に背を向け追い詰められるよりは、こちらから攻め込んだ方がましだ。
「そうですわね。ここで皇主様が退かれれば、向こうの士気が上がるだけですわね。わたくしも今夜はもう疲れましたわ。明日に備えて、休みませんこと?」
ヴィオラが大仰にため息をついて、疲れた面々の顔を見渡す。
「続き、早朝」
バルドもこれ以上の軍議は無為と見て、解散を促す。そうしてやっと落ち着けることに安堵する者、先の見通しが立たないことに不満を持つ者それぞれが席を立つ。
「……皇主様、例の件ですが」
人が少なくなってから、カイが近寄ってきてバルドの側で声を潜める。
神器のひとつ、『玉』の紛失の件がエレンにより漏れた。神器がリリーの心臓に埋め込まれている真実を知るブラント伯爵家と対処について相談していた返事を、ブラント家の次男である水将の補佐官であるカイは持ってきたのだ。
「それも後」
バルドは他人と話をする気が起きず、カイも下がらせる。
これ以上、冷静にリリーのことを考えられそうになかった。
手が届く場所にいたのに、取り戻せなかった。狭い地下通路で剣も振りまわせず、ローブを身につけていないリリーを傷つけずにクラウスに魔術を当てることも難しく何もできなかった。
そうしている内に、リリーは手の届かない場所へと連れていかれてしまった。
バルドは城主が急いで用意した部屋へと入り、長机の上に置かれた双剣とローブの元へ歩み寄る。混乱の最中、兵のひとりが捨て置くのを躊躇いこの城まで持っていてくれた。
リリーにとって大事な物だ。これが側にある限り、彼女は帰ってくると少しは慰めになる。
「リーに、必要な物」
しかし、その一方で不安もあった。
クラウスはリリーにとって戦場よりもよい場所があると言った。きっとそこでは剣もローブも必要がないのだ。
もし、リリーがクラウスの示す場所に心惹かれたなら、帰ってこないかもしれない。
ずっと側にいて欲しいという自分の我が儘のためだけに、戻って来てくれるのか。
いや、リリーならそのためだけでも、帰って来てはくれるとバルドは目元に影を落とす。
(リーの全部、俺のもの)
無理を言って困らせて、傷つけてたこともたくさんあったのに、それでもリリーは自らの全てをくれると言ったのだ。
リリーの全部が欲しい。自分だけのものであってほしい。
だけれどリリーの幸せごと全部奪い取っていいのか、躊躇う気持ちがあった。
(だから、動けなかった)
剣が使えない、魔術も使えないという理由の他に、クラウスが連れて行く先の方がいいのではと迷いリリーを取り戻す気力が一瞬失せた。
だけれどいざリリーが側にいないことになって、耐えられない自分がいる。
リリーと離れたくないから、兄に頼み込んで補佐官にした時と同じだ。結局いつも、自分自身のわがままを優先させてしまっている。
バルドはリリーのいない広い寝台に上がる気にはなれず、側の長椅子に横たわる。
(進軍は妥当)
ゼランシア砦を攻めるという方針を変えなかったのは、果たしてなんのためなのだろう。
もっともらしく撤退しない理由を考え判断を下したものの、本心はリリーを取り戻したいだけかもしれない。
疲れにふっとバルドの思考が止まって、感情が露わになる。
足りない。苦しい。寒々しい。
真夏だというのに、冬の押し潰されそうな曇天の真下にいるような鬱々とした気分だ。
こんな気分を抱え続けるぐらいなら、明日の朝にでもひとり出陣して戦を終わらせたい。
(疲れた……)
戦闘にのめり込んでいない時以外は、ひたすらに陰鬱な思いを抱えて生きていることが嫌になる。
早く、戦場の高揚感の只中で終わりたい。
近いはずの終わりが、待ちきれないほどにバルドは疲れ切っていた。
***
軍議の場で疲れたと口にしたヴィオラは、休む気はなかった。
「皇主様、落ち着かれているように見えましたけれど、どうかしら」
城の小部屋へと連れ込んだカイと、自分の補佐官である弟のマリウスにヴィオラは質問を投げる。
「……皇主様は普段とお変わりなく見えましたが」
「変わりないっつーか、皇主様が何考えてるかなんて、嬢ちゃんじゃねえとわからないだろ」
マリウスが自信なさげに言って、カイが両腕を組んで渋面になる。
「そうですわねえ。リリーちゃんがいないことには、わたくし達も皇主様のお考えが分りませんし、困りましたわねえ。ゼランシア砦をこのまま攻めるのはよいのですけれど、リリーちゃんを利用されたら、勝てる戦も勝てなくなるかもしれませんわ」
正直なところ、この戦は厳しい。勝ったところで多くの兵を失い、次の戦を持ち堪えられるほどの兵力と士気が果たして残っているか。
ただでさえその状況で、将たるバルドがモルドラ砦でリリーが連れ去られると知った途端、取り乱して単独で追い駆けたのと同じことが起これば負けが確定しまう。
バルドに撤退を促した者も、皇主の身の安全の他に冷静に戦ができるかという懸念もあったはずだ。
「フォーベック補佐官はやはり、皇主様の気を乱すためにアクス補佐官を人質に取ったのでしょうか」
マリウスが硬い表情で不快げに言う。
「クラウスの野郎は、本気で嬢ちゃんに惚れてるって話だけどなあ。あいつはあいつで本心が見えねえ」
「アクス補佐官ひとり手に入れるために、あんな大がかりな反逆を企てたとは、とても考えられません」
マリウスが断固として言うのに、ヴィオラはカイと顔を見合わせる。
「……まあ、本気で惚れた女のためならなんでもやってやるって思う奴もいることはいるんだぞ」
「お前はもう少し他の経験も積ませてあげたかったけれど、無理な話ではありますわねえ」
この生真面目すぎる弟が忠誠と戦しか知らないのも寂しく思いつつも、平和な世であれ変わらないかもしれないと苦笑する。
「クラウスが嬢ちゃんを下手にディックハウトに売り渡さなとしても、どこまで向こうで権限を持ってるかによるな」
「そうですわね。命の危険がないと皇主様もみているようですけれど、いざとなったらどうなるか想像がつきませんわね」
モルドラ砦での取り乱した姿はやはり大きな不安だった。敵方にもバルドの動揺を誘うのにリリーを使うことがいかに効果的かと、知らしめてしまっている。
「……アクス補佐官がこのまま敵方に懐柔され裏切るという心配もあります」
年長者の言葉に反論することなくうつむいて考え込んでいたマリウスが、ふと顔を上げる。
「リリーちゃんも強情な子だから、そう簡単に心変わりなんてしないと思うわ。……間接的にとはいえこれでは痴情のもつれでの大戦ですわねえ」
ヴィオラは呆れながら、しかし戦に真に大義などありはしないのだと冷めた思いでいた。
それぞれの独善と欲望が戦場には渦巻いている。それは自分も同じだ。
忠誠心も先祖に対する敬服も自己満足に過ぎない。そう分っていても戦場に立ち続けることに躊躇いはなかった。
「嬢ちゃんに傾国は似合わねえな……」
カイのぼやきにマリウスが小声で傾国、と繰り返して首を捻る。
「似合いませわねえ。もうひとつ心配もあるのですけれど、ベッカー補佐官、神器の件でいらしたのでしょう」
ヴィオラが不意を突く形で訊ねると、カイが一瞬思案顔になる。
「それはこっちについてから言った通り、皇主様とお話ししてからだ」
カイは軍議の前に皇都からの報告が、バルドにあると告げていた。神器紛失の件について知っている者達には、皇主様の言葉を待てとも言った。
軍議の場に神器の件を知らない者もいたので、話題は昇らなかったが気にならないはずがなかった。
「そうなのだけれど、皇主様が全てお話ししてくれるとも限りませんわ」
「姉上……」
主君に対して非礼とも思える言葉に、忠義心の強いマリウスが批難の声を上げる。
「先に教えなさいというわけでもありませんわ。ただ、クラウスが神器のことをどこまで、知っているかどうかだけでもお答えいただけませんこと?」
もうひとつの心配は皇家の正統の証である神器を、ハイゼンベルクが皇位を得たとき『剣』しか持っていなかったことを敵方に知られることだ。
今は、ハイゼンベルク方が発見し保管しているとしていても、正統を主張するのに分が悪い。
「はっきりしたことは知らねえ。だが、知ったところでクラウスはその情報を利用はできないかもしれない。今、俺が言えるのはそこまでだ。後は皇主様のお言葉を待て」
カイが渋々と答えた内容は、あまり参考にはならなかった。むしろさらに訳が分からなくなったかにも思える。
「後は皇主様のご判断に委ねるしかありませんけれど……」
皇主を支える将のひとりという立場にありながら、あまりに与えられる情報が薄いのは困ったものだとヴィオラはため息をつく。
(灰色の魔道士もきにかかるけれど、全ては皇主様がわたくしたちを全面的に信頼していただけるかですわね)
一部の臣下はバルドが元より人に懐かないのを理解し、一朝一夕で信頼関係がきずけるはずがないとじっと耐えているが、そういう悠長な者ばかりではない。
たったひとり、バルドが信頼を置くリリーもおらず、ただでさえわかりづらい主君の心が、まったく見えなくなってハイゼンベルクの結束も危うい。
「聞きたいことはきけましたし、マリウス、もう休みましょう。ベッカー補佐官も、長く引き止めてしまって申し訳ありませんわ。ゆっくりおやすみになって」
ヴィオラは問題の多さに気鬱になりかけている自分に気づき、思考を止める。
先は暗くとも進まなければならない。
だが、隣にいるマリウスの失われた片腕に思わず足を止めそうになる自分がいた。
***
目を開けた瞬間、リリーは自分が本当に瞼を持ち上げたのか疑いたくなるような暗闇にいた。
「……あたし、クラウスに……」
モルドラ砦の庭先でクラウスに求婚の返事を聞きたいと言われ、彼とふたりきりになった。その後に渡された飲み物を飲んで、強烈な眠気に襲われた。覚えているのはそこまでだ。
「いっ、た……」
意識を失う瞬間のことをおぼろげに思い出しながら、半身を起こしてがんがんと痛む頭を押さえる。
一度だけなったことのある二日酔いに似た感覚だ。
「あれ、お酒ってわけじゃなかったわよね」
クラウスからもらった飲み物は、酸味が強かっただけで酒臭さはなかった。しかしながらあれが、自分が昏倒する原因になったのには間違いない。
リリーは無意識の内に腰にあるはずの剣の柄に手を伸ばして、堅く拳を握る。
剣どころか、ローブさえなかった。長靴も脱がされているが、着ている服は触った感触ではローブの下に来ていたシャツと膝上までの下衣のままだと思われた。
「とにかく、ここがどこかわからないと」
リリーは頭痛に顔を顰めながらも、そろりと体を動かす。柔らかい感触と軋む音で寝台の上に寝かされていることは分かった。
手探りで思ったより広い寝台の端を見つけて、リリーはゆっくりと足を下ろす。予想した石の冷たさは足裏にはなく、分厚い絨毯の感触があった。
寝台の広さといい、床に絨毯が敷かれていることといい牢というわけではないようだ。
「砦に、こんな部屋あったかしら……」
リリーはつぶやきながらあたりを見回し、暗闇になれてきた目で窓を探す。
自分達ハイゼンベルクの拠点としているモルドラ砦で過ごして、早ふた月近くになるが全ての部屋を知っているわけではない。
「あたしがいなくなったら、バルドが探すわよね」
しかしながら自分の姿が見えなくなってバルドが探さないはずがない。彼は砦の隠された通路や部屋まで把握しているのだ。見つからないはずがなかった。
「モルドラ砦じゃないの……?」
リリーは急速に焦燥を覚えて部屋を見渡す、そして髪よりも細い光の筋が見えてそこに駆け寄る。
光は鎧戸の隙間らしかった。
どうにか手探りで鎧戸を開けると、光が差し込んできて目映さに反射的に目を閉じる。リリーは手を額に持っていって影を作りながら、そろそろと瞼を持ち上げた。
最初に目に飛び込んで来たのは黒ずんだ鉄格子だった。そしてそのはるか下方に緑の牧草地帯が広がり、青空の下には大きな砦が佇んでいるのが見えた。
「あれ、モルドラ砦よね。じゃあ、ここゼランシア砦……?」
半ば信じられない思いでリリーは呆然とつぶやく。
ゼランシア砦はハイゼンベルクからディックハウトへ寝返ったマールベック伯の居城。これまで外側から攻めていた敵拠点まで、クラウスが自分をどうやって運び込んだというのだろう。
「バルドの所に、帰らないと」
最後まで一緒にいると約束したのだから、こんな所にはいられない。
リリーは振り返って部屋を見渡す。
寝台と簡素な机と椅子が床にしっかり縄と杭で固定された部屋は、余分なものがない分広い。部屋の一番隅に衝立で囲われた場所は手洗いだった。
絨毯も敷かれた部屋は牢というには小綺麗すぎる。
リリーは入口の扉を開けようとしたが、やはり鍵がかかっていて出られそうになかった。
しかし、部屋から出たからといってこの砦から出るのは無理だ。
「あたし、今、戦えないんだわ」
リリーはつぶやいてぺたんと扉の前で座り込む。
そしてもう二度とバルドに会えないかもしれないと考えて、頭の中が真っ白になる。
「いやよ。そんなの、絶対に嫌」
ふるりと頭を振って現実を拒否するが、今はできることは何もなかった。
「……そうだわ。戦の最中よ。ここにハイゼンベルクが攻め込んできたときなら」
今は砦を落としている真っ最中だ。自分が捕虜になったからといって、停戦などないはずだ。
戦闘中ならば逃げ出す隙ができるかもしれない。
そう考えて気を取り戻していると、目の前の扉の向こうで足音が聞こえてリリーは身を堅くする。
隠れる場所も武器もない。ならば動かずにじっとしていた方が得策か。
足音が止まってリリーは息を呑み、扉が開かれるのを待つ。
「……起きていたか。ようこそ、我が家へとでも言うべきかな。具合はどうだい?」
軽口を叩きながら部屋に入ってきたのはフリーダだった。
「最悪です」
まるで話が分らない相手ではないことに安堵しつつ、リリーは仏頂面で返す。
「だろうね。しかし、捕虜としては上等な扱いだろう。上等の寝台に、広い部屋。手足を拘束もされていない。クラウスも贅沢な要求をしてくれた」
近づいて来るフリーダから間合いを取っていたリリーは、クラウスの名前に足を止める。
「あの駄眼鏡、どこにいるんですか。あたしはクラウスと先に話つけたいんですけど」
やっと現状に対する混乱が落ち着いてくると、ふつふつと怒りが湧いてくる。
勝手なことをしてくれたクラウスも、迂闊だった自分も腹立たしい。
「クラウスなら、エレン嬢と一緒だ。そのうち、クラウスは必ず君に会いに来るだろう」
「エレンって、皇太子殿下の侍女だった……?」
予想外の名前にリリーは目を瞬かせる。
エレンが不審な動きをしているのは聞いていたが、まさかゼランシア砦にいるなど思いもしなかった。
「そうだ。クラウスが来るまで私で暇を潰さないか? どうせ君は、何もすることがないだろう」
「あたし、尋問されても役に立つ情報なんてなんにも持ってませんよ」
宰相家の次男であるクラウスと亡き皇太子ラインハルトの側近でもあったエレン。
このふたりが裏切ったというなら、ハイゼンベルクの情報は筒抜けになっているだろう。
それに対して自分は皇主の補佐官とはいえ、政治的な事柄には疎い。フリーダの方が内情をよく知ってるはずである。
「ああ、そういうつもりはないよ。クラウスが昼までには君が目覚めると言っていたから、様子を見に来ただけだ。元気そうでよかった。……椅子は少々堅いか」
床に固定された木の椅子に腰をおろしたフリーダは呑気なものだった。
あげくに部屋の扉は開きっぱなしだ。
リリーは今すぐにでもこの部屋から飛び出して、バルドのいるモルドラ砦へと帰りたい衝動を抑えて寝台へ腰掛ける。
「逃げないのか」
「この部屋から出られても、砦からは出られないでしょう。あたし、そこまで馬鹿じゃないわ」
「そうだね。モルドラ砦も落ちたことだ。万一君がここから出られてもハイゼンベルクへ戻るのも、苦労するだろうね……そういえば、君は知らなかったか」
窓の外に目をやっていたフリーダが、驚き言葉を失っているリリーに顔を向け直して薄く笑う。
「嘘。モルドラ砦が落ちたって、いったい何日経ってるの」
いくらあちこちがたがきていたモルドラ砦とはいえ、バルドとヴィオラのふたりの将と一万を越える軍勢がいてそう簡単に陥落するなど信じられない。
「君がここへ運ばれて来てたった一日だ。半日足らずでモルドラ砦は落ちた。反乱が砦で起こったんだよ。クラウスが砦に集められていた一部の兵が企てていた反乱計画の指揮権をとったんだ。……混乱に乗じて反旗を翻した者も数千、ハイゼンベルクの皇主は砦を捨てて南に下った」
意識を失う前に聞いた轟音は、反乱の始まりだったのだ。
リリーはみすみす戦える機会を逃してしまったことに悔しさを感じる。
「クラウスはずっと監視されて……ただの目眩ましだったのね、あの噂」
背信の疑いがあると警戒されていたクラウスにできるはずがないと否定しかけて、全員の注意が彼に偏り過ぎていたのを思い出す。バルドも他に目が行き届いていないのではと危惧していた。
「そういうことだ。作戦が整ったら、背信の噂を振りまいてクラウスに注目がいっているうちに共謀者達が実行に向けて動いていたということだな。ベーケ伯爵家もこちらに動くだろうな。伯爵家当主はハイゼンベルクに味方していても、嫡男は違うらしい。代替わりは近いだろうね」
リリーは新たな離叛の情報に息を呑む。
ベーケ伯爵家はここゼランシア砦のマールベック家と対となる南の要だ。マールベック家がディックハウトへ寝返った今、南までもが離れればハイゼンベルクの敗北が一気に近づく。
「……クラウスが裏で手を回してるってことですか」
ベーケ伯爵の娘のアンネリーゼは、クラウスの兄嫁だが夫の首を落とした。クラウスのためにだ。
だからこそアンネリーゼとクラウスにできるだけ接点を持たさないために、クラウスはこの遠征に参加させられたのだ。
だがクラウスが皇都に残っても残らなくても、結果は変わらなかったらしい。
「元より、あちらの嫡男も裏切る腹づもりはあったらしいが、背中を押したのがクラウスといったところか。人望はないが人の利用の仕方はよく知っている。しかし、協力の代償に求めてきたのが、君の身柄の決定権とはな。君が今、ここで無事に過ごせているのはクラウスのおかげということだ」
「……変な物飲まされてなかったら、あたしはこんな所にはいないんですけど」
反乱が起きたとき、戦えていたなら自分は捕虜になどなっていない。そうさせないためにクラウスは薬を使って自分を眠らせたのだろうが、勝手すぎる。
「それもそうだ。しかし、君の身の安全を保障した上で、戦には利用させてもらう」
フリーダが足を組み直してさらりと言う。
利用と聞かされて真っ先にリリーの頭に浮かんだのは、バルドのことだった。
クラウスが以前、自分がバルドにとっての最大の弱みとなると聞かされていた。事実はどうであれバルドを誘い出すには、自分を使うのが有効だと敵は考えているのだろう。
「そんなに簡単に、バルドは策略に引っかかりませんよ」
見え透いた罠に、バルドが自ら飛び込むなどあまり考えたくなかった。彼の足を自分が引っ張ることにだけは、なりたくない。
「すぐにかかるさ。バルド殿下は君がクラウスに連れ去れそうになっているとわかって、指揮を投げ出し単身で追い駆けたらしい。あげくに地下通路で君に怪我を負わせるのを恐れて、クラウスを止められなかったそうだよ」
信じられないとは思わなかった。
今、バルドは置いていかれることをひどく恐れている。彼は魔道士としては強いけれど、心はそう強くない。
ひとりになる恐怖に、我を忘れたとしてもおかしくはなかった。
「でも、ちゃんと、撤退したんでしょ」
リリーの視線は自然と扉へと向かう。
バルドが追い駆けてきたこと知って、彼の所に帰らなければという思いが一気に膨らんで、自分の中で押さえきれなくなりそうになっていた。
(下手に動くと、本当に帰れなくなるわ)
寝台の敷布をきつく握って、リリーは自分を律する。それでも脳裏にちらつくバルドの寂しげな瞳は払いきれない。
「ベッカー補佐官が迎えに来たそうだ。クラウスは水将に応援要請を出したことは知らないと言っていたが……君も知らないか」
水将補佐のカイがモルドラ砦に来ていたことを今知ったリリーは、純粋に驚いてすぐに理由に気づいたが表情を崩さないように気をつける。
おそらく、神器の件だ。どうやらエレンは神器の件は敵方に明かしていないらしい。
「あたしを利用しなくたって、バルドはこの砦を攻め落としにくるわ」
今更皇都までバルドが戻るとは思えない。ここで逃げ出したところでどうにもならないのは、リリーにも分かった。
「そうだな。これからの軍議で君をどうするかは決める。さて、私も行かねばな。この部屋のある区画には伯爵家の人間と使用人しか許可なく入れないから、くつろいでいるといい。食事も出すが、湯浴みだけは諦めてくれ。代わりに湯を張った盥と体を拭く布や、着替えは用意する。他に必要な物があれば、食事を持ってくる使用人に言ってくれれば、考える」
フリーダがそこまで一息で言って立ち上がる。
「ああ、君が逃げないのは分っているが鍵は閉めさせてもらう。じゃあ、またそのうち来るよ」
そしてフリーダは本当に出て行ってしまった。
鍵がかけられる音に、リリーはやっと手を敷布から離し息をひとつ吐いて、そのまま寝台に体を投げ出す。今の自分にできるのは、大人しく様子を見ることだけだ。
「……ベーケ伯爵のことは、もう手遅れってことかしら」
南の要が崩れることをフリーダが明かしたのは、自分が逃げ出せないからか、もう手の打ちようがない所まで来ているからか。
(戦は、もうすぐ終わる」
なんにせよベーケ伯爵家が離叛すれば、ハイゼンベルクは一年と保たない。
終わりが間近であることに、怖れも焦りもありはしない。ただこのままでは終わる瞬間バルドと共にいられなくなると考えると、今すぐここを飛び出したくなる。
「バルドのところに絶対、帰るんだから、そのために今は我慢よ」
リリーは自分自身に言い聞かせて、ひたすらに自分の感情を鎮めることに専念するのだった。
***
「それで、教えてくれる気になったか?」
小さな客室に通されたクラウスは、窓辺の椅子に腰かけるエレンが立ち上がることなく視線だけよこしてくるのに声をかける。
昨日はあれからエレンと会ったものの、リリーの出自については少し考えさせて欲しいと言われたのだ。ディックハウト側に伝われば、まずリリーの命はないとの忠告つきでだ。
「あなたも万一の時は、ディックハウトからもリリー・アクスを護らねばならない覚悟はありますか?」
「そんなの、リリーを連れて行くことを決めてから覚悟してる。エレンはリリーがどうなろうが、どうだっていいだろう」
むしろエレンはリリーを嫌っていた方だ。それでもディックハウト側にすら情報を渡していないとは、よっぽどの切り札に違いない。
「ええ。ですが、私はディックハウト側というわけでもありませんので、あまり戦局を変えることはしたくないのです」
あくまで、エレンが忠誠を誓うのは亡き皇太子ラインハルトだという。けしてディックハウトに膝を折る気もないらしい。
「ベーケ伯爵家の使者になった時点で、十分戦局を変えることになったんじゃないか」
「私がやらずとも、あなたは他の使者を立てたでしょう。私はディックハウト側から戦の成り行きを見ることが、第一の目的です」
昔からよく分からない女だと思ったが、ますます分らなくなったとクラウスは密やかに呆れる。
忠義か恋情かははっきりしないものの、ラインハルトを失ってエレンは静かに狂ってしまったのかもしれないとも思う。
「とにかく、教えてくれるならなんでもいい。リリーは何者だ」
声を低めて問うと、エレンが小ぶりな銀の杖を取り出し音を遮断する魔術を張る。
そして彼女の口から語られたことは、予想の範疇を超えていた。。
「リリーの心臓が神器って、なんなんだよそれ……」
エレンがでたらめを言っているわけではないというのは分かっても、あまりにも内容が突飛すぎた。
しかし理解できないから真実でないわけがなく、クラウスはただただ唖然とするばかりだった。
「皇家の純血、その心臓は神器。皇家の血統の正統性を争うハイゼンベルク、ディックハウト両者にとって、リリー・アクスの存在は都合が悪いものです。しかし、彼女の心臓を取り出し神器だけにすれば問題ありません。ハイゼンベルクではバルド第二皇子が絶対的な庇護者となり得ましたが、あなたにそれだけの力はないでしょう」
「……ないな。だけど、ばれなきゃいい話だ。ハイゼンベルク側で知ってる人間は絶対に口を割らない。残るはエレンさえ、口を噤んでいてくれれば済む話だな」
クラウスは腰に下げた剣の柄に指先をかける。
万全を期すなら、ここでエレンを斬り捨てておくべきだ。理由は適当にでっちあげればいい。
「……私も命は惜しいので、余計なことは言いません。ひとつだけ知りたいことがあります。神器とはそもそも一体何であるか、知っているという灰色の魔道士を捕らえたのでしょう。尋問がすんだのなら、リリー・アクスも全てを知っているはずです」
エレンが言うには、灰色の魔道士がリリー達より先にリリーの祖父の住む隠れ家にたどりついていたという。そして灰色の魔道士自身が、皇祖グリザドのことを誰よりも知っていると告げたらしい。
「それを知って、どうするんだ?」
「ただ、知りたいのです。皇太子殿下が、最後に希望を託したものが本当はなんだったのか。私は、全てを見て、知っておきたい。そのためだけに、生きているのです」
静かに告げるエレンの瞳は正気で、嘘偽りは見られなかった。
「……リリーが、話してくれたらな」
クラウスは剣の柄から手を離してため息をひとつ吐く。
リリーが情報を渡してくれるかどうかが問題だが、心臓のことをこちらが知っているとなれば話すしかないかもしれない。
(リリーがバルドを選んだのは、神器のせいなのか……)
真実の衝撃が落ち着いて、最初に心に引っかかったのはそのことだった。
血に定められただけならいいのだが、リリーがバルドを想っているのはそんな単純なものには見えなかった。
リリーの自由は奪えても、心までは自分のものにできない。
バルドが彼女を得ることができたのは、その身に流れる皇家の血があっただけならどれだけいいだろう。
(……もう、俺の所にリリーはいる。そのうち、バルドのことは諦める)
ここから逃げ出すなど不可能に近いというのに、リリーがバルドの元へ行ってしまうことに不安がつきまう。
(そろそろ起きてるてる頃合だから、灰色の魔道士のことも神器のことも訊かないとな)
彼女の意志を無視して無理矢理連れ去って、まだ一度も会話ができていない。
罵倒を浴びせられる覚悟は当然あるものの、リリーが帰りたいと懇願するのはあまり聞きたくなかった。
「じゃあ、俺は軍議に出ることになってるから行ってくる。リリーのことはまた、後で」
まずやらねばならないのは、リリーを軍略につかうとしてもできるだけ危険のないようにすることだ。
そしてディックハウトの中で確実に地位を築いていかねば、リリーのことを護りきれない。
リリーは手元にいる。大事なのはこれからだ。
クラウスは先にあるのは最良の結末だと信じて、前へと進み始める。しかし不安の影は無意識に引きずってしまっていた。
***
フランツは妻のフリーダの変化に、戸惑い動揺していた。
寝返ったハイゼンベルクの多くの魔道士をこのゼランシア砦に迎え入れてから、フリーダは嬉しそうに浮き足立った様子でいながら時々苛立っている。
かつての同僚であり自分の後任であるクラウスに、彼女は自分から進んで声をかけリリーを気にかけている様子だった。
嫁ぐ前に幾人か関係を持った相手もいるものの、想い人はいないとフリーダは言っていたが真実かは定かではない。
今の彼女はかつての恋人に再会し喜びながらも、すでに他に新たな相手がいることへ嫉妬を覚えているというのは少々うがちすぎだろうか。
「フランツ殿」
無意識の内に深刻な顔つきになっていたフランツは、ディックハウトの雷将であるゲオルギー将軍に声をかけられて眉間の皺を緩める。
この後軍議が執り行われる広間には、まだフランツとゲオルギー将軍しかいない。
あらかじめふたりで段取りを話し合っている最中で、フランツは物思いにふけってしまっていたのだ。
「申しわけありません。……ことが順調に進みすぎているので、少し気が緩んでいました」
「気が緩んでいたという顔ではなかったが、確かに上手く行きすぎているな。すでに勝ったつもりでいる者もいるようだが、ハイゼンベルクの獣を討つまでは終わりでないと気を引き締めるべきだ」
モルドラ砦の陥落、敵宰相の跡取りの離叛。さらにハイゼンベルク皇主の最大の弱みとなる、捕虜まで手に入った。
ゼランシア砦内の緊張は一夜でずいぶん緩んでしまっている。
「はい。軍議の場でもそちらの件はよく言い含めてしかし、少女ひとりにあの雷獣が取り乱したあげく、フォーベック殿が横恋慕して寝返ったとは。リリー・アクスが雷獣の愛妾であることは間違いないでしょうが、フォーベック殿は本気で娶るつもりなのでしょうか」
クラウスの気持ちを疑うというより、フリーダにとってそれがいいことなのかどうなのか気になった。
まだフリーダに想い人がいて、それがクラウスだというのはただの妄想にすぎないというのに。
戦以外のことを考えてしまうのは、自分も気が緩んでいるやもしれないとフランツは自身を不甲斐なく思う。
「本気だと、俺は思う。リリー・アクスにその気がなくとも、拒否できる立場にはない。位の高い者に望まれれば、嫁する以外に選択肢はないものだ。貴族の婚姻で互いに望んでというのは希なものだ……申し訳ない」
ふとフランツもまた望まぬ婚姻だったことを思い出したゲオルギー将軍が謝罪する。
「まだ、早かったようですね」
そこへフリーダが見計らったようにやってきて、返事をしかけていたフランツは口を噤む。
「……フリーダ、リリー・アクスは起きていたか」
そして妻の表情を気にしながらフランツは捕虜の様子を問う。
「ええ。自分の置かれた状況も理解して、無駄に暴れることはなさそうです。しかし、逃げ出すことは考えているでしょう」
しかし淡々と報告するフリーダの感情は読み取れなかった。
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