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モルドラ砦陥落から一夜明け、バルドは三日以内にゼランシア砦へ進軍することを決めた。
この状況下で三日という準備期間の短さに異を唱える者もいた。ディックハウトの兵力、堅牢なゼランシア砦、そして奪われたモルドラ砦が新たな障害としてそびえている。
それでもバルドは進軍すべきと頑なだった。
まずは半壊したモルドラ砦を夜明け前に奇襲して駐在している敵軍ごと潰す。ゼランシア砦から出てくる敵援軍も進軍しつつ撃破、そしてゼランシア砦も半壊まで持ち込むつもりだった。
(クラウスが動いた。北を塞ぐもやむなし)
軍議で炎将を含む半数以上のの重臣からあまりの強攻策に絶句され、夕刻まで時間をくれと懇願されたバルドはひとりルベランス城の廊下を歩く。
けして自棄になった策ではない。
南のベーケ伯爵家がこの先裏切る可能性が高いなら、北からの増援を経っておくのが苦肉の策というものだ。
(リーを、どうする)
決行を見送らせたい者は、リリーが巻き添えになると訴えてきた。
確かにそれが一番の問題だった。リリーを取り戻すこと自体が困難だ。しかし無理に攻め込めば自分の目の届くところに彼女を出してくるのではという期待もある。
いずれにせよ、ここでいつまでも止まっていても仕方ないのだ。
敵側が動く前にこちらから動きたい。
「皇主様」
声をかけられ振り向くとカイがいた。
「……神器の件」
まだ神器のことについての皇都にいる典儀長官の意見は聞いていなかったので、すぐ近くの部屋で話をすることにした。
「典儀長官からは、神器の『玉』は伝達の行き違いによるものとだけ説明をしたらいかがとのことです」
『杖』の魔道士であるカイが防音の魔術を張り、そう告げる。
「行き違い……」
「はい。回収の命を誤ってふたりに出し、先に神器を確保した者が皇都につく前に、たまたま敵と遭遇し傷を負って退却中に死亡。この時死亡した者は神器を持っていることを敵に知られまいと、退却の途中で神器を隠しそのまま誰かに在処を伝える前に事切れて行方不明になったという筋立てです。死亡した者も、当時の戦死者の中から選んで決めています」
確かにそれである程度は辻褄は合う。戦の混乱中には何が起こっても不思議でないと、無理は通せる。
「発見の経緯」
「死亡した近辺を長年捜索いていた所、山崩れが起こった場所に偶然小さな洞穴の入口を見つけたということにしてはと。洞穴の入口はその魔道士が魔術で入口を壊し塞いでいたが、山崩れで入口を塞いでいた倒木や石が崩れて見つかったのです」
やや強引かと思われるが、なきにしもあらずといったところでそう告げるしかないかもしれない。
「エレン、所在不明。補佐官、敵に」
最も不安なことは全てを知るエレンが敵側に渡っている可能性と、リリーがディックハウトの手中にあることだ。
「クラウスはどうすると思いますか」
「リーの命、最優先」
クラウスがディックハウトで地位を得るために功績を挙げるとしても、それは全てリリーのためにだ。彼女の命が脅かされては元も子もない。
「エレン嬢にかかってるということですか。……灰色の魔道士は神器について知っていましたか」
カイの問いかけにバルドはうなずく。
「補佐官の心臓が、魔術の要。補佐官の死、すなわち魔術の死」
皇祖グリザドがかけたこの島の人間が魔術を扱えるようにするための魔術を維持しているのは、代々血を分けた兄弟同士で繋いでいた皇家の純血の系譜が引き継ぐグリザドの心臓だという。
リリーが死すれば魔術は解け、島の人間は誰ひとりとして魔術が扱えなくなる。
バルドは驚き目を丸くするカイに言葉少なに説明を補足する。
「魔術が、消える。一体、灰色の魔道士がどうしてそんなことを」
「それだけ知っていればよし。今から灰色の魔道士と話す。防音」
これ以上の説明は喋ること面倒であり、バルドは会話を打ち切って部屋を出る。そして戸惑うカイが追ってくるのを待たずに、灰色の魔道士、シェルがいる場所へと向かう。
命じた通り、臣下はモルドラ砦からシェルも一緒に連れてきていた。怪我もなく元気なものだという。
バルドは城の奥まった場所にたどりつくと、ふたりいる見張りの魔道士を下がらせる。カイも戸惑いながらもついてきていた。
「壁の外、待機」
しかしながらカイを部屋に入れるつもりもなければ、話を聞かせるつもりもなかった。防音の魔術をかけさせるためだけに連れてきたのだ。
カイが少々不服そうな顔をしながらも結界を張るのを確認して、バルドは小さな部屋に入って扉を閉める。
天井近くの格子の嵌められた窓から灯は差し込んでいるものの、森の中とあって昼でも薄暗い。
人ふたりが横になれる程度の狭い部屋の壁際には、粗末な寝台が壁際に備え付けてあり、そこでシェルは座っていた。
「あー、よかった。何がどうなってるのか、ちっとも誰も説明してくれないので困っていた所です。いや、遠巻きに見る魔術戦争は希少で興味深いですが、巻き込まれるとたまったものではありませんね。本気で死ぬかと思いました」
よく口が回る人間は苦手なバルドは今すぐ部屋を出て行きたくなったが、そういうわけにもいかず顔を顰めるだけに留める。
「…………反乱。砦陥落」
「内から崩されたのですか。なるほど。ところで、私の杖とローブ、それと記録帳は持ち出せていただけたのでしょうか」
そのことが一番気になっていたらしく、シェルが真剣な眼差しを向けてくる。
「ない。命あるだけよしとすべし」
シェルの杖やローブ、記録帳は全てモルドラ砦のバルドの寝室に保管してあった。当然持ち出すことなどできる状況ではなかった。
「いや、よくないですよ! 杖は一年がかりで作った物ですし、記録帳がなければこの島に何をしに来たのか。それにローブがないと魔力の回復が遅れますし。自分で取り戻しますので、新しい杖を作らせていただけますか。できるだけ古い木と宝玉かいくつかあれば簡易の杖を作るには事足りますから、お願いします」
くって下がるシェルに一歩退きつつ、バルドは首を傾げる。
「取り戻す。魔力回復」
まさかひとりで乗り込むつもりなのだろうか。シェルはどこにでも移動でできる魔術を扱うものの、魔力を消費しすぎて今はその魔術を使えないはずだ。
「杖とローブには、もちろん私との魔術的繋がりがあって、記録帳にもなくしてもすぐに見つけられるように魔術を施していますから、それを頼りに魔術で自分の手元に移動させるんです。これならできるだけ物がある場所に近づけば、移動魔術よりも少ない魔力ですみます」
大陸の魔術とはなんとも便利なものだと、バルドは感心する。
シェルはこの島から遠く離れた大陸からやってきた魔道士だ。そして、皇祖グリザドもまた、同じだ。
人為的に魔道士をつくりだす魔術の実験のために、グリザド、本名はザイード・グリムという男はこの島を利用したという。シェルはザイードの足跡を学術的好奇心で追い駆けてきたらしい。
シェルのの扱う魔術と自分達の魔術は、彼の話を信ずるしかないと思うほどに違う。
「なぜ、もっと早くにしなかった」
しかし、それができるなら自分達がシェルの記録帳やローブを持っている内にできたのではいのだろうか。
今、シェルがここに囚われているのはそもそも自分達から記録帳を取り戻そうとして、返り討ちにあったからだ。
「あの時は砦から逃げるための魔力も必要でしたから。それにリリーさんが持っていたでしょう。魔道士が持っている物を奪おうとすると、互いの魔力が干渉し合って失敗する可能性があったからです。一度だけ魔術なしで取り戻せないかと試みて、上手く行きそうになかったら、魔術で取り戻すしかないと思ったのですが……」
見通しが甘かったらしいシェルががっくりと肩を落とした。
「……天才魔道士。自称」
妙に抜けているこの魔道士は、自分ことを天才と言っていたが疑わしくなってくる。
「自称って、ちゃんと周りからも認められてます。酷いですね。グリザドの再来は誇張が過ぎますが、ここ数百年の魔道士の中では飛び抜けて優秀なんですよ」
他の大陸の魔道士を知らないバルドには、シェルの言っていることが嘘か本当かは分からなかった。
「……取り戻したら、逃げる」
まだシェルにはグリザドの魔術について教えてもらわねばならないことが多くある。
ここで逃げられては困る。
「逃げません。私の目的はザイード・グリムの魔術の全容を知ることなのです。……ところで、リリーさんは?」
「捕らえられた」
「そうなのですか。彼女がいなければ、困りましたね」
思案顔でシェルが腕を組んで首を捻る。
「……魔力回復。リー、連れ出せる?」
移動の魔術が使えれば、リリーを取り戻せるのではと淡い期待を持ってバルドは問う。
「いや、無理です。他人を連れての移動魔術は自分を運ぶ三倍以上の魔力はいるんですよ。そこまで大がかりな魔術を使うには、下準備も必要ですし、私の魔力が回復しきったとしても困難です」
「リーの剣とローブ、届ける」
そんなうまい話はないとかとがっかりしながら、せめてリリーが戦える手立てをえることはできないかとバルドは思いつく。
物を運ぶ方が魔力がいらないというなら、不可能ではないはずだ。
今度はシェルは即答せずにしばし唸っていた。
「…………できないことは、ないと思いますが。ローブと剣がリリーさんと魔術的繋がりがあれば、第六構文をいじって、うーん、やるとしたらやはりあの杖がないことには」
どうやらできないことはないらしいが、いずれにせよモルドラ砦置いてきた杖が必要となるらしい。
「戦、ついてくる」
「できれば、終わってからがいいのですが……」
シェルが及び腰で愛想笑いをする。
「砦、崩す。瓦礫からも発見可能?」
崩れた砦からでも取り出せるというなら、こちらとしてもシェルが邪魔にならずに助かるのだが。
「さすがに、簡易の杖では難しいと思います。しかし、もったいない。歴史的価値が非常に高そうな砦を」
「……砦は砦」
戦での利用価値しかわからないバルドに、シェルの言うことは理解出来なかった。
「何を仰りたいのかよくわかりませんが、含蓄ある言葉にも思えますね。しかし、戦争に巻きこまれることになるとは……」
「戦をしたことがない?」
シェルがまるで戦に出たことがないような口ぶりで、バルドは気になった。
グリザドはとある国の王に、軍事利用できる魔道士を作るよう命じられたという。だからこの国において、魔道士は戦をするものではあるが大陸に限っては違うらしい。
しかしなんらかの形で戦に関わることはあるだろうに。
「私の生まれ育った国は、もう六十年ほど戦争がない、ひとまず平和な国ですから。他国から軍事に役立つ魔術をという依頼を受けたことはありますが、私はそちらの方面には興味もなかったのでお断りしてきました。私は魔術の歴史を専攻していまして、それ以外に魔術をやる気もありません」
「戦がない、国」
五十年もの間続く内乱の中で生まれ育ったバルドには、それがいったいどんな国か想像がつかなかった。
「貴族や王族が政治で揉めてはいても、戦争はないですね。戦争するのにも費用も人材もいる。あまり益にならないから周辺国と牽制しながら、六十年といったところです」
剣を振るい戦う戦がない代わりに、楽しくない政争だけのというのは考えただけでもうんざりする。
「……退屈」
「退屈でも、戦争なんてない方が私達庶民は幸せですよ。できればあくまで遠巻きにみているだけでいたかったのですが、しかたありませんか……」
確かに戦に出ない者達は早く終結を望んでいるのは分かる。
しかし、自分のような戦う以外に己を生きられない人間はどうしたらいいのだろう。戦がなくなれば、他に何があるというのか。
(……俺が死なねば、戦は終わらない)
戦の後のことは、自分には関係ないことだ。だが、リリーは。
何度も反芻した疑問がまた頭をもたげる。
自分とリリーは違う。自分が戦場でしか生きられないとしても、彼女もそうだとは限らない。
「それで、杖を作らせてもらえるのでしょうか」
シェルが返答を求めてきて、バルドは逡巡する。
リリーが今求めているのは、戦うことだ。それは間違いないと確信している。だが、このまま自分の元へ帰ってこなければ、彼女の何かが変わるかもしれない。
変わってしまうかもしれない。
「……三日以内」
同じになれなくとも、できるだけ近い場所にいて欲しいという利己的な願望を抱いて、バルドは変じををする。
どんなリリーであろうと自分はいいけれど、違えば違うほどリリーの関心が自分から薄れていくかもしれないと思うと恐かった。
「たった三日しかないんですか。じゃ、ローブも作らせてください。魔力はできるだけ回復させておきたいんです」
シェルが要求を重ねるのに、バルドは許可を出す。
誰が口を挟もうが、次の出陣は三日後と心は決まっていた。
***
閉じ込められじっとしていることに、リリーは二刻も経たない内に耐えられなくなっていた。
以前、剣を取り上げられて行動を制限された時は、自室に待機だからまだよかったが今度は見知らぬ場所であげくに敵の拠点だ。
「退屈……」
寝台に寝転がって時間を潰すために寝ようとしても、丸一日近く眠っていたことと安心できない場所のせいで眠れない。部屋をうろつき、窓の外を眺めるのもすぐに飽きた。
じっとしていてもじんわりと汗が噴き出る熱気にもまいる。
「暑いし、暇だし、もう、嫌」
文句を言っても聞く者もいない。肉体的な拷問よりはましとはいえ、精神的にこの状況は想像以上に辛い。
そして堅い椅子の上に座ったリリーは机に顔を突っ伏せる。
「いっそ、寝返るふりでもした方がましだったかしら。でも、駄目ね。クラウスがいるんなら、あたしがバルドを見限るわけないってすぐにばれるわ。というか、さっさと顔見せなさいよね、あの駄眼鏡」
諸悪の根源はまだ軍議なのか、会う気がないのかなかなか姿を見せない。
怒鳴りつけなければ気が済まない。
「起きてからどれぐらい経ってるんだろ……」
フリーダと話してからそれほど時間は経っていないかもしれない。各部屋に時計はなくとも砦や城では、一定の間隔で鐘や銅鑼が鳴るはずだがそれすら聞こえない。
ということは一刻も経っていないのかもしれないが、ここはもう少し間隔を空けるのかもしれない。
平原にぽつぽつと立つ木の影が伸びる方向に変化が見られないので、そう長い時間が経っているわけではなさそうだ。
部屋をまた一周するかとリリーは立ち上がって、それも馬鹿馬鹿しいと座る場所を寝台に変えようとした時、鍵が回される音がする。
「リリー、起きてるな……っ!」
入ってきたのはクラウスで、リリーはすぐさま彼の元へ近づいた。そしてクラウスの向こう脛を思い切り蹴飛ばす。
「……元気そうでよかった」
避ける素振りも見せず、そうされるのは当然というクラウスの態度はなおさら腹立たしい。
「今すぐ、ここで剣を持って暴れたいくらいには元気よ! あたしの剣、どこ!?」
「持ってくるわけないことぐらい、分かってるだろ。リリーが怒るのは仕方ないけど、俺は自分が間違ってるとは思わないから謝らない」
クラウスがいつもの軽薄な口調ではなく、子供に言い聞かせる物言いである事がなおさらリリーの苛立ちに火をつける。
「あたしがいたいのは戦場で、欲しいのは剣よ。あんたがどう思おうと、それ以外、あたしはいらない。人の大事な物勝手に取り上げないで!」
怒り任せに言葉をぶつけると、クラウスがため息をついた。
「全部なくなったら、もっといい物が見えてくるはずだって言っても今は全然分からないだろうな。先のことは置いておいて、大事な話がある。……リリーの、心臓について」
クラウスが最後に声を潜めて言った言葉に、リリーは体を強張らせて口を引き結ぶ。
そして彼の背後にひとりの女性が立っていて、それが砦の侍女でなくエレンであることにやっと気づく。
「喋ったの、その人……」
「中で話しましょう」
エレンが静かにそう言って、リリーは仕方なく部屋の奥に引っ込む。そして扉が閉められて、音を遮断する魔術がかけられるのを感じてさらに身構える。
「リリーの心臓が神器だっていうのは、エレンから聞いた。血統のことも。俺らが今知りたいのは、灰色の魔道士が何を知っていたかだ。リリーの悪いようには絶対にしない。リリーを護るために知っておきたいんだ」
「……その人があたしを庇う理由はなんにもないでしょ」
クラウスはともかくとして、エレンはまったく信用ならない。
「ええ。ありません。しかし、ディックハウトに情報を渡す理由もありません。……皇太子殿下は内心、あなたの心臓が自分の命を繋ぐものではないと気づいていました。私は、ただその心臓の正体を知りたいだけです。真実は、胸にしまっておきます」
そう言われても簡単には信じられなかった。
そもそもエレンのことをリリーはよく知らなかった。ラインハルトの忠実な側近ということを、バルドから聞いているぐらいなのだ。
(だけど、知ったところでどうなるのかしら)
自分の心臓が鼓動を止めたとき、この島から魔術は消える。
その事実を知ったディックハウトが、自分の心臓を無理に抉り出す暴挙に出るとは思えない。
この戦が無為と知って主君であるディックハウトの皇主も、ハイゼンベルクの皇主も、グリザドの末裔全て排除することになるのか。
両陣営に混乱しかもたらさない真実を、有益に利用できるとは思えなかった。
むしろ話してしまった方が、半端に情報が伝わって心臓を取られる危険を減らせるのではないか。
リリーは迷いに迷って、じっと返答を待つふたりを見やる。
そうして自分の判断に自信がないまま、グリザドが大陸の魔道士でこの島が彼の魔術の実験場でしかないというシェルから聞いた話を、もたつきながらふたりに明かす。
話している間、ふたりからはひと言も何もなかった。呆気にとられた表情で、絶句しているのだ。
「……どっちが勝ったって。どうせこの国は終わるのよ。魔術が消えたら、皇家の権威なんてないも一緒でしょ」
魔術をもたらしたからこそグリザドは王となり得、血族も皇主として君臨し続けているのだ。
魔術がなくなれば、政の実権を宰相に握られている皇家の存在意義は失われる。
「そういえば、シェルはどうしたの?」
今の所ここにいるという話題が出ていないので、ディックハウトに囚われているのではないだろうが。
「灰色の魔道士は見つかってない。たぶん、ハイゼンベルクが撤退と一緒に連れて行ったんじゃないか。……その大陸の魔道士なら。この島にかかってる魔術を解いて、リリーの心臓を普通にできるんだな」
「できるかもしれないだから、確実じゃないわ。解いてどうするの? あんたは戦は嫌なんでしょ。魔術が消えたら、今よりもっとややこしい戦になるわよ」
後に待ち構えるのは、王の座の奪い合いだけだ。
「俺は戦は好きじゃない。ただでさえ皇主なんてお飾り同然で、宰相同士が権力争いを五十年もやってるなんて馬鹿馬鹿しいと思ってるのに、肝心の皇家の祖がただの頭のおかしい魔道士なんてやってられない。だったら、皇家なんてとっぱらって玉座が欲しい奴は好きに取り合って戦でもなんでもすればいい」
クラウスの言うことは、きっと皇家に忠誠心など持たない者の多くが抱えている本心かもしれない。
リリーはまだひと言も発していないエレンへ、視線を向ける。
「……私は例えこの戦が無意味なものだとしても、皇太子殿下が生きる意義となったのならそれでかまいません。あの方が己を生きようとしたことそのものに、意味があったと思っています。今の戦が終わった後が、新たな戦だろうと、平穏だろうとかまいません」
エレンの言葉は、バルドのものにも思えた。だからこそ、彼は簡単に戦を投げ捨てられない。
「魔術がなくなっても、いいの?」
戦のことももちろんだが、魔術を手放すことにふたりは抵抗はないのかとリリーは首を傾げる。
「私は、こうして今も使っていますが、特に必要と感じたことはありません。なければないでかまわないものです」
「俺もそうだな。ないならないでいい。別に戦うのが好きなわけじゃないしな。……戦も好きにすればいいとは言ったが、俺はリリーのために戦はなくしたい。時期を見計らって魔術を解けば、少なくとも今の兵を動かして殺し合いをする必要はなくなるかもな……」
クラウスが顎に手を当てて思案する。
「そんなこと、戦わないでどうやって決着つけるのよ」
この国に戦はつきものだ。魔術が軍事利用しかできないものだからこそ、小さな戦を度々繰り返して魔術というものの威力を誇示し続けていたのだとクラウスは言っていた。
魔術がなくなったからといって、長年の慣習がそう簡単になくなるものだろうか。
「リリーやバルドみたいに剣を振り回すのが生き甲斐なんて人間より、できれば戦なんてない方がいい人間の方が多い。政っていうのは、詭弁とはったりで戦してるものだから、そっちで方をつけられる程度には収められるかもしれない」
政はリリーにはあまりよく分からない戦だ。あまり楽しいものでもない。
「そうだな、そもそも血統で王位を決めるのがそもそもの間違いかもな……灰色の魔道士をこっちに連れてくるのが先決か」
そうしてクラウスが何か思いついたようにつぶやくが、リリーには彼の考えがまったく見えなかった。
ただ分かるのは、本気で自分からこのまま戦うことを奪い取るつもりということぐらいだ。
「あたしは戦えなくなるなんて嫌よ。本当にいらないのよ。戦わないで生きていく先なんていらない。何度もあたしは言ってるでしょ。人の話、ちゃんと聞きなさいよ!」
今この瞬間でさえ、手元に剣がないことに落ち着かない。そして戦場に出られない毎日が死ぬまで続く退屈に自分が耐えられるとはまったく思えなかった。
何度、クラウスにそう訴えただろう。
それでも彼は自分の生き方を否定し続ける。
「何度聞いても、俺はそう思わない。この話はしばらくやめにしよう。戦から離れて落ち着いた頃にな」
いつまでもクラウスと自分の意見は平行線で交わることはなさそうだった。
「……魔術を解いてもよろしいですか?」
疲れてきたのか、エレンが問うてクラウスがうなずく。
「肝心なことは聞けたからもういいよ。助かった。リリーとふたりきりになりたいところだけど、な」
クラウスが視線を向けてくるのに、リリーは目を逸らす。
「あたしは、あんたに言いたいことは言ったから、後は話したくない。逃がしてくれる気がないなら、出て行って」
怒りも不満もまだまだあったが、これ以上話してものらりくらりとかわされて余計に鬱憤を溜め込むことになるのは目に見えていた。
「分かった。でも、またくるからな」
リリーはため息をつくクラウスに今度は返事もしなかった。
子供じみた態度だと自分自身でよくわかっていても、これ以上喋るのも顔をみるのも嫌だった。
そしてクラウスとエレンが出て行ってから、はたと気づく。
「これから攻め込むのか待つのかぐらい聞いておけばよかったわ」
地の利があるこの砦からディックハウトは早々には動かないだろとは思うが。
何よりも肝心なことは自分がバルドの釣り餌として、どう利用されるかだ。
「早く、戦が始まらないかしら」
寝台に寝転がってリリーは目を閉じる。
思い起すのは戦場の音と匂い。そうして、その中で自分と同じぐらい戦場に喜びを感じながら剣を振るう、黒い巨大な獣。
「バルド……」
またふたりで戦場を駆けたい。
リリーは指先を自分の腰元に持っていくが、そこに愛刀があるはずもなく、空を握る間隔は虚しいばかりだった。
***
三日以内に出陣し砦をふたつ一気に落とすというバルドの強攻策に、議場の臣下達は頭を抱えていた。
策に難を示したのは炎将のヴィオラを筆頭に議場の半数以上となった。しかしこれ以上は退かず突き進むべきと言う者も、けして少なくはない。
マリウスも賛成するひとりで、姉であり上官であるヴィオラとは違う立場を取ることになった。
「無傷の砦を落とすというわけではないのです。モルドラ砦は先日の反乱ですでに半壊しており、老朽化もあります。ゼランシア砦もすでに二度の侵攻によって脆くなっています。モルドラ砦全壊、ゼランシア砦を半壊は不可能ではないはずです」
マリウスは渋る姉にそう訴える。
主君の策は性急ではあるが、無茶苦茶だとは思わなかった。敵が離叛した者を加えた軍の体勢を整える前に、攻めきった方が勝算があるはずだ。
「せめて、五日は欲しいわ。万全の体制であれば、砦ふたつ落とすことに異論はありませんことよ。だけれど、こちらは傷兵も含んで一万五千足らずの軍勢、向こうはおそらくこちらより手勢は多いでしょう」
姉の視線が自分の左腕に向いて、前線で戦えないマリウスは口を引き結ぶ。
「せめて、兵をもう少し集められれば」
「皇主様の身の安全だけは確実でなければ」
「アクス補佐官を盾にされたら、どうなさるおつもりなのか」
マリウスが黙った途端に、慎重派が次々と不安要素をあげていく。バルドがいたときに遠回しにしていた言葉も、今は遠慮がない。
「かき集められるだけの兵を集めて、モルドラ砦は落ちたのだ。兵の精査をしている間はない」
「同じ轍を踏むわけにはいかない。皇主様のお力があれば、砦ふたつも容易いこと。我々が皇主様をお護りする」
「退けど進めど分が悪いのは同じならば、進むべきだ!」
かと思えば賛成派が反論に出て、意見が纏まる気配が一向になかった。
「……まだ話、ついてねえか」
退出したバルドについて行っていたカイが戻って来て全員の注目が彼に集まり、バルドが何か言っていなかったかと口々に急かす
「……神器の件についてだ」
そして、カイがそう言って神器の紛失を知る者も、今始めて聞かされる者も怪訝な顔をする。
(筋は、通っている。しかし、お隠しになるようなことでは……)
神器紛失と発見までの経緯にマリウスは引っかかりをを覚えて、ヴィオラと視線を交わす。
偶発的に見つかったということで、このまま見つからないかもしれなかったたことはあまり明かしたくはないことだ。皇家への信頼にも関わる。
だが、違和感が残る。
議場にいる者達の表情を見れば、納得しきれていない者もいくらかいるのが分かる。とはいえ、すでに発見され皇主によって厳重に管理されているのならよいではないのかという意見に同調している。
これ以上内輪揉めをしたくないのは、誰もが一緒だった。
「皇主様のご出陣の意志は固い。反対するならするで、夕刻までに説得する案を考える必要がある。賛成なら、今すぐ準備に取りかかる。時間がねえぞ。俺の意見は出陣する方向だ。皇主様はアクス補佐官は戦になれば自力で戦う術を見つけ出すだろうと仰った。俺は進軍に賛成で意見は変わってない」
最初から賛成派であるカイが神器から目の前の問題に話題を戻した。
「戦う術を見つけるというのは、アクス補佐官の救出は試みないということかしら」
ヴィオラが首を傾げると、カイが首を縦に振り肯定する。
リリーのことは見捨てることにしたとも言える判断に、小さなどよめきが起こる。つい先日、全てを放り出して後を追ったというのに急に諦めるなど、誰もが半信半疑でいた。
「皇主様も苦渋の決断やもしれん。ここは皇主様のお覚悟に沿うべきでは」
賛成派のひとりがここぞとばかりに、進軍することを促す。
「クラウスが横恋慕していたのが事実ならば、アクス補佐官の命の保証だけはあるだろう。アクス補佐官が後々寝返ったとしても、そう脅威にはならん」
リリーを救出しないということには、全員意見は一致しているらしかった。
孤児でありながら皇主の愛妾ともされるリリーがいなくなってくれる方がいい者は多い。この先本気で皇妃として迎えるとなれば、また話はややこしくなるが今は表向きは補佐官だ。
バルドさえリリーを諦めてくれれば、後は人脈も後ろ盾もないただの小娘がどうなろうがかまわない。
多少意思の疎通が困難になるとはいえ、今もかろうじてバルドは指揮を取れているので問題ないだろう。
(……これで、よいのだろうが)
マリウスもリリーを救出しない選択は正しいと思っている。
リリーのことを軽んじているわけでも、特別疎んじているわけではない。主君の足手まといになるなら、自決も厭わないのが忠臣としての在り方だと考えているからだ。
だが、ゼランシア砦で敵将と相対し、片腕を失いながらも今自分がここでこうして生きていられるのは、リリーの助力があったからこそだと思うと罪悪感が胸に残る。
「……炎将、どうなさいますか。進軍、すべきでは」
マリウスは苦いものを抱えながらも姉へ決断を求める。
バルドがリリーをただの補佐官以上の存在としていることは、いくら疎い自分にも分かる。
先に賛成派が述べた通り、主君が何をしてでも戦に勝ちに行くというなら応えるべきだ。
慎重派もバルドが弱みとなるリリーを切り捨てる機会を逃すのも惜しいと、ヴィオラに最終的な決断を委ねる。
「……わかりましたわ。すぐに皇主様に進軍のご指示を仰ぎましょう」
ヴィオラが、ため息と共に進軍を決める。
そうして慌ただしく進軍の準備が整えられることとなった。
***
夕暮れ前、クラウスの部屋を訪ねたフリーダは部屋から感じる魔術の気配に眉を顰めながら扉を叩く。
(……密談中か)
二度叩いても一向に返事がないのは、防音の魔術の中にいるからだろう。鍵のかかった扉の取っ手をうごかしてやっと、魔術が解かれて誰何の声がかかる。
「私だ。リリーのことで少し話がある」
応えると、すぐに部屋に招き入れられた。案の条、クラウスと一緒にいる杖の魔道士であるエレンだった。
ふたりは応接用の円卓で向かい合っていた
「リリーがどうかしたのか?」
「食事を拒否している。夕食はいらないと、昼食を拒んだついでに言っているらしい。その前に、ディックハウトは君らを絶対的に信頼しているわけではない。あまりこそこそとしていると、ろくなことにはならないよ」
「俺らも、情報を渡したら用無しは困るから、そういう相談だ。それで、リリーはささやかな反抗ってところか」
クラウスが困り顔で唸る。
「毒を盛るつもりはないんだが、聞く耳を持たない」
念のためリリーの元へ自ら赴き、食事の安全も保証すると告げても彼女はいらないと言うばかりだった。
「……あなたに一服盛られたことを根に持っているのでは」
エレンのが指摘して、クラウスはますます渋面になった。
「そうかもな。後で夕餉はリリーの所に行って、一緒に食べるからふたり分をひとつの皿に盛ってくれないか」
自ら毒味役を買って出るクラウスに、フリーダは肩をすくめて空いている席に勝手に座る。
「君の彼女への執心ぶりには驚かされるよ……、ああ、エレン、君はここにいてくれないか。夫殿が私とクラウスのことを勘繰っているから、ふたりきりになるのは避けたい」
自分にもう用はないだろうと無言で席を立とうとするエレンを、フリーダは呼び止めた。
「また、なんでそういう話になってるんだ?」
「直接聞かれた訳ではないが、君のことをいろいろ聞きながら、昔の私との関係を探ってきた」
フランツは軍議が終わってから後は、クラウスが信頼できるかどうか知るためにともっともらしい理由をつけてあれこれ訊ねてきたのだ。
離縁する口実でも欲しいのだろうか。
「……どう答えた?」
「訊かれたことにしか答えていないさ。君との関係を直接問いただされたら正直に答えるつもりだが、どうだい?」
意地悪く微笑み返すと、クラウスが実に嫌そうな顔をした。
「好きにしてくれ。何年も前に一回や二回ぐらい寝たぐらいで、うるさく言いそうな旦那に見えけど、自分が面倒だろ?」
「面倒だな。しかし隠しても怪しくなる。なあ」
フリーダは言われた通り黙って座っているエレンに同意を求める。
表情ひとつ変えない彼女は、静かにうなずいただけだった。
(クラウスについてきたというわけでもなさそうだな……)
皇太子に元も信頼されていた側近というエレンの方が、クラウスよりも不可解だった。ふたりがなんらかの共謀関係にありそうなものの、男女の仲という雰囲気はまるでない。
そもそも片田舎の男爵家令嬢が皇太子からの信頼を得ていたことも不思議だ。
やたらむやみに愛想を振りまかれるよりは信用できるだろうが、いささか可愛げが足りなさすぎるとフリーダはエレンの横顔を一瞥して、クラウスに視線を戻す。
「俺、一応婚約者連れてるんだけどな」
クラウスが深々とため息をついて、フリーダは眉を上げる。
「君の節操なしは有名だからな。婚約者がいても、他の女と仲良くすると思われるさ」
同時に何人もと交際していたクラウスの女癖の悪さは、貴族なら誰でも知っている。
「別に同時に何人とも寝てたわけでもないって。俺は後腐れのなさそうな相手としかしてない。はっきり交際してると言いたがる女の子なんか、厄介だろう」
「そんな君が自分から婚約したと言い出したのかと思うと、本当に驚きだな」
「……それより、こんな無駄話をするためにいるわけじゃないだろ。何が知りたいんだ?」
クラウスがとりとめない会話に不審を覚えたらしく、単刀直入に訊いてきた。
「何、君がリリーと本気で結婚するつもりなのか気になっただけだよ」
実の所はクラウスとエレンの密談がリリーに関することではないかと、一瞬思ったからだった。
ふたりでリリーと会ったりもしているのだ。婚約者というのは目眩ましで、他の目的があるのではないかと疑う気持ちは多少ある。
ただ、クラウスのリリーに対する態度はやはり本気ととれるものばかりでしかない。
「本当に誰も信用してくれないな。リリーのこと早く全部、俺の物にしたいんだけどな……戦うことと、バルドのことしか考えてなさそうだ」
「今は下手な手出しはしない方が賢明だな。孕んで誰の子かわからない事態になったら厄介だ」
「ん、ああ。その心配はない。バルド、まだリリーを抱いてない」
断言するクラウスに、フリーダは怪訝な顔つきになる。
「……まさか、皇妃にするまではと殊勝なことを言ってるわけじゃないだろう」
他の離叛者の話ではバルドがこの頃毎日リリーを寝所に侍らせているという話だ。そうでなくとも、ふたりの関係はずっと昔から噂されている。
「バルドもリリーをどうしたいかはっきり分かってなかったみたいだからな。無意識に自省してるのもあっただろうが、リリーにいたってはほんのちょっと前まで、子供の作り方も男女のことも全然知らなかった」
いくらなんでも結婚して子供を産んでいていてもおかしくない歳のリリーの無知さに、フリーダは目を丸くする。
「十七だろう。戦でも捕虜になった時に……そうだな。具体的なことは言わないな」
戦場でのことは誰もはっきりしたことは口にしない。まったく知識がないのなら、分からないのも当然だろうが。
「だから、自分の足や腕を折られる心配しかしてないだろうな」
「戦うことしか考えてない、ということか。彼女らしい」
わけもなく嬉しくなって、フリーダは微笑む。
「いやに、リリーのこと気にしてるな。そんなに仲良かったか?」
クラウスの瞳に警戒と疑心が浮かんで、フリーダは肩をすくめる。
「まったく懐かれなかった。もう少し、彼女と親しくなりたかったのかもしれないな、私は。よし。夕餉は私が毒味をさせてもらおうか。君の自制心もいつまで保つか知れないからな」
口に出して、フリーダは自分でも少々以外に思う。
自分は本当はリリーともっと親しい関係になりたかったのだろうか。懐かれていなくとも、彼女と接するのを楽しんでいたけれど、それで満ち足りていなかったのか。
「……リリーの不機嫌の元凶は俺だから、任せられるなら任せた方がいいか」
クラウスが迷いながらも同意して、フリーダはふっと自分の心が浮き立つのを感じる。
リリーとの戦闘を前にした時ほどではないが、こんなにも夕餉を楽しみにすることは、今までなかったと思うほど自分は喜んでいた。
***
日暮れ近くになって運ばれて来た湯桶に浸した布で体を拭くリリーは、寝台の上に置かれた着替えに目をやる。
今は上半身だけ脱いで寝台の影にいる格好だが、誰もいないので着ていた服をすぐに持ち去れる心配はない。
「着替えはどうしよう……」
戦となれば十日近く湯浴みどころか、体を拭くことも着替えることもできないことはよくあることだ。かといって今は夏である。できることなら汗を拭って新しい服に着替えたい。
リリーは最後に湯桶で髪も洗って乾いた浴布で水気を切り、元来ていた上衣を羽織る。
用意されている新しい服は、くたびれた萌葱色の簡素な木綿のドレスだった。さっき湯桶を運んできた侍女の手伝いをしていた少女も、同じ服を着ていたのでおそらく下位の下働きのお仕着せのお古だろう。
「でも、これなら戦闘になった時にちょうどいいかしら」
逃げるときのことを考えれば、着替えた方が城内の人間の中に紛れやすくていいかもしれない。下働きのためのドレスなので裾の広がりや装飾も控えめで、動きやすそうだった。
リリーは着ていた服を全て脱いで、用意されていた服を纏う。身頃はちょうどよいぐらいだった。
動きにくくもなく、これならば問題ないだろう。
「食事はとらないわけにはいかないんだけど……」
残る問題はそれだった。毒殺の心配はしていないものの、また身動きが取れなくされてはたまったものではない。
かといって、飲まず食わずではやはり動けない。
昨日の今日で軍は動きそうにないので、明日ぐらいまでは平気かもしれない。だが、万一一服盛られてバルドからさらに遠いところまで移動させられたらと考えると、食事を口に入れることを躊躇ってしまう。
「……おなかすいたわ。喉も渇いた」
丸一日以上何も食べていないリリーは空腹を訴える腹を撫でた。
夜が来れば、周囲は真っ暗になって身動きが取りづらくなる。虜囚の身で破格の待遇とはいえ、部屋に火は灯されないのだ。
暗くなったら眠る以外にないので、空腹が酷くなる前にもう寝てしまおうかと考えたところで部屋の鍵が開く音がした。
下働きの少女が入ってきて、湯桶を取りに来たのかと思えば後にフリーダが続いた。
「やあ。夕餉を一緒にとらないかい?」
そう言うフリーダの後ろには、湯気の立つ盆を保った侍女がいた。
「……一緒にですか」
「君が食事を取らないというから、私が毒味をすることにしたんだよ。皿はひとつだ」
机にたっぷりの麦粥が入った大皿がひとつ置かれる。塩漬け豚と鮮やかな緑のそらまめも入っていて、からっぽの腹が鳴った。
「……いただきます」
リリーは笑いを噛み殺しているフリーダから顔を逸らして、椅子に座る。後から侍女がもう一脚椅子を持ってきて、フリーダが向かいに座った。
「何も入っていないよ。味気もないが」
皿にそのまま入れられているふたつの木匙のうちのひとつを使い、フリーダが先に麦粥を食べる。
リリーもほんの少し掬ってゆっくりと匙を口に入れる。確かに少々味は薄いものの、塩漬け豚の旨味がじわりと後を引いて十分な味だった。
囚人食の麦粥となればほとんど麦がなく、ただの白湯であったり腐りかけた野菜や肉を放り込まれていることがあるのを思えば、上等の食事だ。
「拾った猫を餌付けしている気分だな」
無言でふたくちみくちと粥を口に運んでいると、フリーダがそんなことを言ってリリーは匙を止める。
「何か企んでるんですか?」
この先ディックハウトがハイゼンベルクにどう仕掛けるかは分からない。
まさか、今更寝返らせようとしているわけではないだろうが。
「疑り深いな。君が食事を取っていないと教えたら、クラウスが毒味を引き受けると言ったんだ。しかし、君とゆっくり話せる機会を持てるならと思って代わってもらった」
「ゆっくり話す……」
フリーダの狙いが見えずにリリーは戸惑い、鸚鵡返しをする。
「うん。今更になって、私は君ともっと信頼関係を築きたかったのかもしれないと思ってね」
「あたしを懐柔するつもりですか」
「そういうのじゃないよ。疑り深いな、と言っても敵陣の中だ。そう考えるのも仕方ないか。私も退屈なんだ。ここの暮らしは本当に退屈でたまらなくて、この一年考えていたことは、戦場に戻ることだった。それともうひとつ、君のことだ」
フリーダが水差しからカップに水を注いで一口だけ飲み、残りをリリーに差し出す。
「……あたしのこと?」
カップを受け取ったリリーは、そっと自分も水を飲む。
「君は自由に戦場を走り回っているんだろうと思っては、うらやんでいた。何も戦に出ているのは君だけではないのに」
「あたしのこと、嫌いだったからですか?」
フリーダの意図がさっぱり掴めずにリリーはフリーダの瞳を覗き込む。
面と向かって嫌いだと言われたこともあるが、すぐに彼女の口からも否定された。
「君はたぶん自覚している以上に周りから嫌われてはいただろうが、私は嫌っていたわけではなかったと思う」
「……あたし、そこまで嫌われることはしてないと思うんですけど」
自分から喧嘩を売った覚えはない。売られた喧嘩は買うが、それ以外で他人と関わることはなかったはずだ。
「みんな他人にどう思われてるかが気になっているものだ。君は誰に対しても無関心だったからな。それが一番、気に触るんだ。思えば私も、君の関心を引きたくてむきになっていた」
フリーダの言っていることは、いまひとつわからなかった。
ただ、自分が他人に無関心だったのは確かだった。態度が気に入らないと言われた覚えがあるが、そのことだったのだろうか。
「……あたしは、同じ双剣で、強かったシュトルム統率官に関心はありました」
フリーダの剣技には、最初に剣を合わせた時から一目置いていた。魔力においては自分が上ではあったものの、剣技だけなら彼女と五分五分だった。
「そうか。君は戦うことばかりだな。冷め切ってしまうよ」
フリーダが苦笑しながら食事の続きを勧めてきて、リリーは再び粥を口にする。
「……それが、あたしの一番好きなことですから。シュトルム統率官と、まだ戦いたいです」
フリーダと実戦で剣を交えた時の高揚感が蘇ってくる。
彼女との生きるか死ぬかの実戦は、とても楽しかった。演習ではけして味わえない興奮だ。
「私も、君とまた戦いたいよ。こうしてお喋りしているのもいいけれど、君とは戦場で剣を交える方がずっと楽しい。そうだね、戦うことが楽しいというより、君の関心を一身に集められることが楽しいのかもしれない」
ほんとんど独り言のようにフリーダがつぶやく。
「なんだかよくわかりません」
リリーは率直な気持ちを口にする。
フリーダがそうまで自分の関心を引きたがる理由は、まったくわからない。
「私もわからないよ。どうしてこんなに君が気になるのか。……しばらく毒味役は私が努めていいかい?」
しばらくということは、当分自分はこの砦に囚われることになるのかもしれない。リリーはフリーダの言葉の端から状況を予測しつつ、こくりとうなずく。
「お願いします」
別の場所へと知らない間に移される危険は薄れたとはいえ、まだ自分の身の安全が確実に保証されたわけでもない。
あまり他人と会話するのは好きではないが、欠片でも情報を得るにはこうするしかない。
「よかった。クラウスだけに任せるのも危険だからね。……そうだね、君にはこの手のことも教えておかなければならなかったんだな」
「この手……?」
クラウスが危険だとか、この手のことだとかあやふやな物言いにリリーは首を傾げる。
「今確実にクラウスが君から奪えるものといったら、貞操ぐらいだろう」
フリーダの答に、粥を口にしてたリリーはむせ込む。
「……か、考えてなかった」
クラウスに対する怒りのあまり、その辺りのことを失念していた。この砦に来て彼がひとりで会いに来なかったので、警戒する機会もなかった。
「殺さずに、痛めつけて屈辱を味合わせる手段でもある。クラウスは君を他の兵の手の届かない所に置いたのは、そういうことでもあるんだ」
敵に捕まれば自分のような人質としての利用価値が少ない者が、嬲り殺しになることは知っている。バルドと自分が出る戦では、捕虜に対しての拷問はしていないが他では黙認されているというのも無論承知だ。
実際に敵味方関係なく痛めつけられ棄てられた骸も目にしたことがあるので、よく分かっているつもりだった。
「知りませんでした……」
リリーは改めて自分の無知さに眉を顰める。
多少は関心を持つべきことを増やすべきなのかもしれないと考えるものの、自分の戦闘以外への執着の薄さでは無理そうでもある。
「拷問目的でなくとも、クラウスも君がいつまでも靡かなければ、痺れを切らせることもあり得る。今の君はいつもより非力で、可愛らしい。くたびれた下働きのお仕着せが似合っている、というのは褒め言葉にはならないか」
フリーダがリリーの姿を確認しながら楽しそうに微笑む。
「あたしは、孤児ですから、別に似合っててもかまいません」
自分が皇家の血を引いているとはいえ、それらしい高貴なものがあるとも思っていないので下働きの格好が似合うと言われても気にはしない。
「君のその、他人の評価などどうでもいいというが妬ましくもあったな。全部食べていいよ、私は後からでも食べられる」
「いただきます。気にしたって、しょうがないじゃないですか」
誰が何を言ったところで、自分は自分でしかなかった。
「しょうがない、か。そうやって生きられたら、私は今頃、どちらにいたんだろうな……」
物憂げにつぶやいて、フリーダがつぶやく。
夜が迫る部屋は薄暗く、彼女の表情ははっきりと見ることはできなかった。
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