3
進軍を決めた翌日、バルドは戦支度に忙殺されていた。
戦のことを考えることは苦痛ではなかったが、多くの臣下と言葉を交わすことに堪えていた。意思疎通が苦手な上に人間嫌いという自分には、大勢の人間に囲まれるのはやはり疲れる。
(リーは、いない)
そしてふっと視線を斜め下へ落としてリリーを探してしまう自分自身に嫌気がさす。
午後になって、少し体が空いたバルドは城外に出た。森の中に建つルベランス城の周りは城内に収まりきらなかった兵の寝床となる天幕が無数に立ち並び、多くの兵がうろついている。
近くを通ると姿勢を正す兵には一瞥もくれず、バルドは森の中へ入って行く。夏の陽射しを和らげる木々は騒々しい。蝉の声や鳥の声があちらこちらから降り注いで、静寂からはほど遠い。
しかし人の声よりはよほどましだ。
少し進むと、小さな湖があって黒いローブを纏ったシェルが水辺で一心に木を削っていた。
シェルを戦に同行させる話はついていて、すでに彼は囚われの身ではない。ローブは一晩で完成して、魔力の回復に適した場所で杖を完成させたいということだった。
どうやら人工物の中よりも、古木と水のある場所の方が魔力を回復させやすいらしい。
「進展」
ひとりで三人分は話すシェルと会話をするのも気は進まないが、状況確認はしておきたかった。
「この通りです。ずいぶんいい木を分けていただいたので、それなりに使える物ができそうです」
シェルが杖らしい形に整えた杖に、螺旋状に魔術文字を刻み込みながら答える。彼の指先が血で汚れているのは、誤って切ったのではなく、魔術文字に血を染み込ませるためのようだ。
「行軍は、俺の横。馬には乗れる?」
編成を告げると、シェルは手を止めずに首を横に振った。
「魔道士といっても、馬に優雅に乗る身分ではありませんからね。乗馬は貴族の娯楽です」
「娯楽……大陸の魔道士、移動に馬は必要なし」
「そんなやたらむやみに魔術で移動なんてしませんよ。辻馬車や鉄道なら魔力切れの心配がない」
馬車は分かるが鉄道とはとバルドは疑問に思うものの、戦にも魔術にも関係がなさそうなので問わなかった。
「……これで下準備は完了です」
シェルが作業を終えて汗をぬぐい、くるくると杖を回して出来を確認してからやっとバルドに目をやる。正確に言えば、彼の視線は背負われいる神器に向けられていた。
「少しだけ、見せていただけませんか?」
好奇心しか感じられないシェルの様子に眉を顰めながらも、バルドは神器を下ろして黒銀の刀身を見せる。
柄は自分で持ったままだが、シェルは文句は言わずにじっと刀身を眺め始める。
「……グリザドの右腕、事実?」
伝承では神器の『剣』は皇祖グリザドの右腕が変じた物とされている。しかしながらただの人間の腕がそんな変化をするとは信じがたい。
「右腕が剣に、左腕は杖にでしたね……。人体そのものを魔術の媒体にすることはできません。普通の剣と杖をあらかじめ用意していたのでしょう。俗説として、交配実験で失敗作となった孫の血と心臓を使ったのではとういうのもありますが」
あまりにおぞましい話にバルドは眉を顰め柄から指を離してしまいそうになる。
グリザドは自分の心臓を引き継がせるために、実子同士を婚姻させてより血の濃い血族を産み出そうとしたという。その過程で何組かの子らを近親婚させ、唯一成功したのがリリーの祖の双子だった。
「紐付け不要、そのため?」
本来なら、魔道士と媒体は血で紐付けする必要がある。だが、自分は神器と血で紐付けをしなかった。
それでも扱えるというのは、剣に宿る血の濃さのせいだろうか。
「紐付けをしてないんですか? 血族同士でも媒体の共用というのは滅多にできないものです。ましてや他の血と混血してきた末というのは前例がありません。あなたが最後の表の末裔となるからでしょうか」
瞳を輝かせるシェルに興味を持たれたバルドは心持ち身を退く。
「……ディックハウトにも末裔がいる」
グリザドの末裔はハイゼンベルク家とディックハウト家へ二分した。戦で不利であり先に産まれた自分の方が、今十歳であるディックハウトの皇主よりも先に逝くので最後と言われるのには違和感があった。
「ええ、それは知っていて神器の『杖』もそちらにあると聞いて見に行きました。しかし、ザイード・グリムの末裔らしき子供は見つけられませんでした。あなたやリリーさんと、他の魔道士では、明らかに身に宿る魔力のなんというのでしょうか、風合いといえばいいのでしょうか。そういうのが違うんです」
「違う……?」
自分自身ではまるで違いを感じたことはない。リリーと他の魔道士との違いもだ。
「この島の魔道士は、ザイード・グリムによって魔術を扱えるようにされたとお話ししましたよね。魔力を湛えるための器を大きくし、魔力を魔術として放つための鋳型のふたつが基本です。しかしザイード・グリムの末裔には、魔術を湛える器自体は必要ありません。この島の先住民と違って、元より魔術を湛える器自体は大きいのです。だからかけられている魔術の構造が少し違うので、見れば分かります」
シェルの説明をぼんやりとしか理解出来なかったが、とにかく皇家の人間と他の魔道士は大陸の魔道士が見れば一目で違いが分かるらしい。
「見つけられなかった」
「はい。杖のあった建物の中に、自分が皇主だと名乗る子供はいたのですが、どう見てもザイード・グリムの末裔ではありませんでした」
神器のある建物は社だ。そんな所に皇家の者以外に入れるだろうか。影武者をたてているとしても、神聖な場所にわざわざ皇主以外を入れる必要性が見いだせない。
バルドはどういうことかと思案しながら、ひとつの可能性にまさかと思う。
(今の皇主は、先代皇主の子ではない……)
先代のハイゼンベルクの皇主である父が複数の妻を持ちながら、すでに身罷った兄のラインハルトと自分以外の子に恵まれなかったのと同じく、ディックハウトも世継ぎになかなか恵まれなかった。
ディックハウト先代皇主の長子である皇女がななつで急な病に倒れ、今の皇主が産まれたのはそれより二十年も後のことだ。すでに先代皇主は五十を超えていて、それまでやはり何人もの妻を迎えていた。
先代皇主に兄弟はなく、このまま世継ぎが産まれなければなし崩しにハイゼンベルクが勝利できるやもしれないという状況下で、宰相の妹が世継ぎを産んだ。
「おや、もしかしてごくごくたまにある不貞の子というものでしょうか……?」
バルドがいつも以上に表情を硬くして考え込んでいると、シェルも気づいたらしく目を瞬かせる。
「……不明」
もし、ディックハウトの皇主が不義の子だとしたら、戦は終わりだ。しかし、証明する術はなく仮に証明できたとしても、ディックハウトの兵が大人しく従うかといえばそう上手くいかないだろう。
魔術がこの先に失われても、ディックハウトの皇主が贋物であったとしても未曾有の混乱が起こるに違いない。
「大陸で、王族、同じ事あった?」
バルドはシェルが大陸で似た事例を知っていうようだと、訊ねてみる。
「有名な話は数件あります。しかしこの島ほど血筋を重んじているわけではないので……。確証もないので知らない振りをしたり、あるいは親族から取り立てたり。他は有力な家臣が蜂起して簒奪ということもありますが」
似てはいるものの、この皇国に起きていることは特殊な状況らしかった。
(……血統の証明、困難)
どの道、ディックハウトの皇主が本物か否か突き止める前にハイゼンベルクは敗退するだろう。そうしていつかリリーが死んだ時に、この千年の皇国は終焉を迎える。
(偽りばかり)
この国も、戦もなにひとつ真実などありはしない。
「これは魔術史学でも特異な事例となりますね……。無事帰って論文を書くためには、リリーさんの協力も不可欠なのでこれを完成させないと」
シェルがそう言いながら、杖の作成を再開させるのを見て用の済んだバルドはその場を離れる。
城には真っ直ぐに帰らず、森を歩いていると地面に名を知らない白や紫の花がいくつも咲いているのが目についた。木の枝にも赤や橙の花が綻んでいるのが目につく。
(リーが、喜ぶ)
髪に花を飾るのが好きなリリーが見たら、きっと笑顔を浮かべるだろう。
バルドは苔生した巨木の根元で足を止め、剣を下ろして座り込む。影が濃く幾分か他より涼しい。
ふっと眼裏に始めてリリーと出会った時のことが浮かんで、ゆるやかに心が思い出に満たされていく。
一番多く覚えているのは、笑っている顔だ。
戦闘の高揚に浮かべる笑みの鮮烈、花や菓子やドレスに向ける柔らかな顔、それから自分だけを見て口元を緩める表情。
(全て、皇祖の意図の元)
神器の刀身を露わにして、バルドは目を細める。
自分とリリーが、本当に皇家の最後の末裔として意図的に巡りあわせられたとしても自分はかまわない。国も、皇家も、戦も嘘ばかりでもいい。
戦うことが自分の全てである真実は揺るがない。
リリーと出会って共に過ごした時間は、なにものにもかえがたいものであることに違いない。
むしろ王になるためではなく彼女と出会うために産まれてきたのなら、自分としてはその方がいい。
リリーは今、何を思っているだろう。
戦に餓えて剣を求めていることには違いないだろうが、自分に会いたい思ってくれているだろうか。
どのみち、もうすぐだ。戦も、リリーに会える日もすぐにやってくる。
「皇主様、どちらにいらっしゃいますか、皇主様」
臣下の探す声にバルド今は皇主の務めに専念するしかないと、真実は胸の奥に押し込んは重たい腰を上げた。
***
うつらうつらとしていたロスヴィータは、指先を握られる感触にはっと目覚める。
「アウレール……」
ディックハウト皇主である息子が急な高熱に倒れ、もう幾日経っただろう。回復に向かうどころか一日に目覚めるのが一度か、二度と日に日に悪化していっている。
食事もほとんど受け入れられずに、衰弱していくばかりだ。
そしてアウレールに唯一魔術でもって生気を与えられるロスヴィータも、魔術の使いすぎで疲弊しきっていた。
「ロスヴィータ、ハイゼンベルク方のモルドラ砦が落ちた。雷獣の愛妾も捕らえたということだ。勝利は近いぞ」
皇主の寝所に挨拶もなく入り込んできたのは、兄である宰相だった。
「……今は戦などどうでもよいでしょう。ええ、そうだわ。そのせいでこの子はよくならないのだわ。皇祖様がお怒りなのよ。全てを明らかにして、こちらの負けを認めれば、わたくしの可愛いアウレールはきっと元気になりますわ」
「明かしてどうなる。そうすればアウレールもお前も殺される。……影を立てる。水泡が酷いので顔を隠しているということにする。お前も横につけ」
兄の粗雑な言い様に、ロスヴィータは拳を硬く握る。
たったひとりの息子をすげ替えのきく人形として言っているかに聞こえ、怒りが湧いてくる。どこまでこの兄は身勝手なのだろうか。
「そんなもの、すぐに贋物だと露見いたしましょう。わたくしのアウレールに代わりなどありません。……あの方の元へ嫁いでいればこんなことにはならなかったのです。兄様が欲をかいて婚約を破談にさえしなければ。わたくしも、この子も」
ロスヴィータには幼い頃から家同士で決まった縁談があったのだ。相手は当時の皇主ではなかった。
家同士が決めたこととはいえ、相手との関係は良好だった。まだ愛も恋もよくわからない年の頃から、そのうち一緒になるのだとふたりとも固く信じて将来を疑わなかった。
やがて友情にほのかのな恋心と愛情が育まれ始める頃に、突然の破談となった。
兄が何番目かの皇妃として自分を皇主に薦めたのだ。
宰相家から皇妃を出すのは周囲の目もあって父は避けていたが、跡を継いだ兄はそうではなかった。
皇家との縁組みはあっという間に進み、婚約者であった幼馴染みとの将来を突然絶たれた気持ちの整理すらつかなかった。
お互い、未練がありすぎた。そして若く幼い故に、向う見ずだった。
そうして兄はそんな自分達の浅はかさを利用したのだ。自分達の秘め事はとうにに知られているのも知らずに、兄の望むままの結果になった。
「今になって何を言っている。後戻りなどもうできない。水将と炎将も近く動かす。……ディックハウト家は絶えない。絶えさせない」
兄が息も絶え絶えのアウレールへ目を向けるのを見て、ロスヴィータは悟る。
兄はアウレールを見限って用意している影を皇主として据えるつもりだ。ハイゼンベルクの皇主が死ねば、誰もが嘘を呑み込まざるを得なくなるとでも考えているのか。
(わたくしのアウレールを捨て駒にはさせないわ)
ロスヴィータはアウレールの頬をそっと撫でる。
この子を護るのはもはや自分だけだ。誰もが息子はただの道具でしかないと思っている。
(あなたは、この選択を正しいと思っているの、リーヌス)
遠く離れたゼランシア砦に雷将としているかつての婚約者でに問を投げかけても、無為なことだと分かっていた。
逃げるよりも嘘を貫く決意をした彼は、ハイゼンベルクの皇主を命に替えてでも討ち取る気だ。
「……今日は、影の側に控えずともいい。看病疲れで休んでいることにする」
アウレールの側を離れる気配のないロスヴィータに、宰相が嘆息して部屋を出る。
これ以上兄の思い通りにさせるものか。
そう胸に固く誓うロスヴィータはアウレールの小さな手を握り、かすかに笑みを浮かべるのだった。
***
「俺さ、リリーとふたりっきりにしてもらえないのか?」
昼過ぎ、リリーの部屋を訪ねているクラウスは、横に付き添っているフリーダに重々しくため息を吐く。
どうにかリリーとふたりきりになれるかと思えば、フリーダの監視つきとなってしまったのだ。
「あたしはあんたと話すことなんてないんだから、こなくていいわよ」
寝台の上で所在なさげに膝を抱えているリリーの反応も相変わらず、不機嫌なままだ。これは自己責任で仕方ないとはいえ神器の件を含めた込み入った話ができないのは、困ったものである。
「ということらしい。君はこれ以上彼女の機嫌を損ねる前に退散した方がいい」
フリーダが面白がっている顔で、部屋の入口を顎で示す。
「……あたし、シュトルム統率官とも話はないんですけど」
「それは残念だ。どうやら私とクラウスは邪魔らしい。また夕餉の頃にくるよ」
来たばかりで早々に追い出されることになったクラウスは、未練がましくリリーを見ながらも目すら合わせてくれない様子に諦めて部屋を出ることにした。
「で、どういうつもりだよ。俺の監視もしてるのか?」
フリーダが自分とリリーをふたりきりにさせないつもりなのは分かるが、その真意が全く見えなかった。特に命じられてという様子でもない。
「君が彼女に下手に手出ししないか心配なだけだよ……ああ、何か用らしい。では、引き続きディックハウトの勝利のために骨を折ってくれ」
そして折良く侍女がフリーダを呼びに来て逃げられてしまった。
「……こうも邪魔してくるとはな」
マールベック家の居住区から出てひとりになったクラウスは、予想外の障害に頭が痛いとうなだれる。
「だいたいなんで、下働きの服なんか着せるんだか……」
着替えたリリーの格好にも思わず眉を顰めてしまった。砦の使用人達と同じ格好をしていると、何かあったときに見つけにくいだろうに。
囚人には囚人と分かりやすい服があるはずだ。
用意したのはフリーダだろうが、彼女の意図がどこにあるかが見えないことが不安だった。
「フォーベック殿」
頭を悩ませながら歩いていると、フリーダの夫のフランツに呼び止められてクラウスは愛想笑いを浮かべる。
「……どうも」
いかにも生真面目で潔癖そうなフランツは初対面の時から苦手だ。
「リリー・アクスとの面会に妻が同行しているようだが、フォーベック殿の邪魔になっていないだろうか」
「邪魔というか、監視されているみたいでいい気分ではないですね」
「……こちらとしてはフォーベック殿と彼女の面会を監視するつもりはない。いずれ娶るつもりならなおさら、話をする時間が必要だろう」
どうやらフランツはさっさと自分とリリーの関係を纏めてしまいたいらしい。フリーダと自分の関係を勘繰っているので、妻が心変わりしないか冷や冷やしているのかもしれない。
(フリーダさんの方はまったく俺に興味ないだろうな)
結婚自体に不服そうなフリーダは夫の事すら眼中になさそうだ。しいていうなら、今はリリーの方に執心している気もする。
「まだ、先は長いからゆっくりやるつもりです」
「……今夜、家の者に通すように言いつけておく。好きに会いにいかれるがよい。では」
短く言ってフランツがするりと横を通り過ぎた後、クラウスは顎に手を当てる。
「さっさと手をつけとけってことだな、これ」
そうは言われてもこれ以上リリーに無理強いする気はなかった。とはいえ、フリーダ抜きで話ができる機会がもてることはありがたいと、クラウスはフランツの計らいをありがたく利用させて貰うことにする。
まだ他にもやることが山積しているので、昼よりも夜の方が時間が取りやすい。
自分の離叛はすでに皇都にいる父に伝わり、義姉のアンネリーゼもそれに関して詰問を受けているはずだ。
早く父の慌てふためいた顔が見てみたいと思うが、まだそれは後回しだ。
今、注力するべきは退くより攻めることを選択するだろうハイゼンベルクに勝利することだ。
「失礼します」
クラウスは扉が開放されている大広間へと立ち入る。そこにはゲオルギー将軍がひとりで布陣図を見直していた。
「何か問題でもありますか?」
早急に取り決めたのでまだ穴があるのやもしれないと、クラウスは地図を覗き込む。多くの兵はこのゼランシア砦に配備してある。先日落としたモルドラ砦には手薄になりすぎない程度の兵を置いていた。
「いや、もう少し前に俺はでるべきかと考えている。ハイゼンベルクの当主が出るなら、この砦を落とす余力はできるだけ削いでおきたい」
「一気に落としにかかるか、それとも片方ずつ潰していくつもりかによりますよね」
「貴殿は砦ふたつを同時に落とすつもりである可能性が高いと考えていたな」
「手勢が少ないですし、追い詰められたらゼランシア砦そのものを潰すつもりでしたから、おそらくは。水将がいるかどうかがまだ分からないですね」
ハイゼンベルク方は兵の数を大きく減らし傷兵も多い。だがバルドが戦術を考えているなら、力押しで突き進んでくるはずだ。
向こうが援軍をどれだけ整えてくるかもまだ読み切れないが、自分が動いた以上南を警戒して皇都から多くの兵は動かせないだろう。
「ここでハイゼンベルク当主を討ち取れるのならよいのだが、な」
自分とて早々に戦は終わらせたい。
バルドが死ねばリリーに帰る場所などなくなる。戦がなくならなければ、彼女は戦う以外の生き方もあるのだときっと気づかない。
ただ、灰色の魔道士とリリーの心臓にある神器のこともある。
「そう簡単に討たれてはくれないでしょうね」
獰猛で理性などない獣と揶揄されるバルドだが、強い獣ほど賢く勘がいいものだ。
物心ついた時から一緒にいるからこそ、バルドがどれだけ強いかよく知っている。統率力に欠ける面もあるが、いざ戦となれば誰もがついて行かざるを得なくなる。それを統率力に優れたヴィオラが上手く取り纏める。
寡兵になればなるほど、バルドの本領が発揮されるだろう。
「フォーベック殿が戦に勝って欲しいものは、本当にあの補佐官だけなのか」
ふと顔を上げてゲオルギー将軍が問いかけてきて、クラウスも顔を上げる。
「それなりにいい地位も欲しいですよ。リリーにはできるだけいろんなものを見せたいですから、そのためにはそれなりの立場が欲しいです」
名誉はいらないが何をするにも一定以上の地位があれば融通が利くというものだ。リリーに何かを与えるなら、自分が与えられるだけのものを持っていなければならない。
「……そうか」
何かを噛みしめるようにゲオルギー将軍がうなずいて、また布陣に目を落とす。
「モルドラ砦の布陣について、また後で相談することがあれば訊ねる。よろしく頼んだ」
暗にひとりでもう少し考えさせてくれということらしいと、クラウスは広間を出て一旦自室に戻ることにする。
(ここで本当に戦が終わればな)
近いようで遠い終戦の日を思いながら、クラウスはひとり長い廊下を歩んでいった。
***
日が落ちて暑さに耐えかねたリリーは暗がりの中、手探りで窓辺までいって鎧戸を開く。夕立の名残の湿った風は冷えていて涼しい。
外の篝火でほんの少しだけ視界が明るくなるが、やはり部屋は真っ暗で足下もよく見えなかった。
「さすがにもう寝飽きたわ」
真っ暗闇の中で何をすることもなく夜が明けるのを待つしかない日が、あとどれだけ続くのだろう。
今日の夕餉のフリーダがいくらかこの砦から兵がいなくなって静かになったと話していた。この窓からも兵がモルドラ砦へ向かって行っているのも確認していて、帰って来た気配がないのでまずはハイゼンベルクをモルドラ砦で迎え討つつもりかもしれない。
「……バルドが動くとしたら朝駆けか夜討ち」
少数の兵で大軍相手にするならば奇襲をまず考える。ハイゼンベルクの黒いローブも闇に紛れるのに適していることもあって、夜中か明け方前に動くことが多い。
モルドラ砦ならば元々の拠点なので、地の利はある。ディックハウト側もそれを見越して準備をしているのだろうが。
「モルドラ砦を早朝に奇襲、その間に別働隊をここへ……部隊は二手に分けるのは厳しいかしら」
あまり動かせる兵はいないだろうから、分散させる余裕はないかもしれない。
リリーが窓の向こうを見ながらつらつらと戦略を考えていると、部屋の鍵が開けられる音がした。
(こんな時間に誰かしら)
リリーは手探りで机を見つけ、その影に隠れて息を潜める。
「リリー、起きてるか?」
入ってきたのはクラウスだった。灯は持っていないらしく、慎重に床を踏む音が聞こえる。
「こんな時間に何の用?」
リリーは体を隠したままクラウスに声をかける。
「話をしにきただけ……あいたっ。灯持ってくればよかったな」
椅子か寝台にでもぶつかったクラウスがぼやいて、目が慣れてきたリリーはそっと様子を窺う。
「話はないって昼間言ったはずよ。だいたいなんであんたひとりでいるのよ」
フリーダはひとまずクラウスとふたきりにさせないと言っていたはずだが。気が変わったのだろうか。
(……最悪のことは、考えたくないんだけど、これってそういう状況なのかしら)
以前クラウスに抑え込まれた感覚を思い出してリリーは、背筋が冷えると同時に身ひとつの自分の無力さに歯噛みする。
「フリーダさんは知らないよ。旦那の方が気を利かせてくれたんだ。何もしないからもうちょっと近くに来てくれないか」
「話だけならそこでできるでしょ。この暗さじゃ顔なんて見えないんだし」
自分は目さえ慣れればある程度の距離で表情は分かるが、視力の悪いクラウスは夜目もそれほど利かなかったはずだ。
「それもそうだな。昔の話、しないか? 先の話はする気ないだろ」
「ないわ。無駄話するだけなら、出て行きなさいよ」
警戒心を緩めずにリリーが返すと、クラウスが苦笑する。
「せっかくの好意を無駄にするわけにもいかないから。今、フリーダさんとの仲、勘繰られてて俺も困ってるんだ」
「なにがどうしてそういうややこしいことになってるかは知らないけど、たぶんあんたが悪いんでしょ。昔っから女癖悪いんだから」
「それを言われると反論できないな。……リリーは俺と最初に何話したか覚えてるか?」
なぜか昔話を始めることになってしまったことに不服を覚えながらも、リリーは記憶をたどってみる。
「……覚えてないわ」
気がついたら仕官学校の他の学徒達よりも会話をしていることが多くなっていた。始まりは記憶になかった。
「俺も覚えてないんだよなあ。五つも年下の十歳の子供は相手にしないから、たぶんバルドのことで何か訊いたとかか。リリーから話しかけてくるっていうのはまずないだろうし」
「そんなところじゃない? ああ、なんか思い出した。あんたに焼き菓子貰ったことあるわ、あたし」
幾つの時か覚えていないが、甘い物は好きかと訊かれて菓子をもらったことがあった。
「そんなことあったっけ? んー、そうだ。ちょっと餌付けできないか試したことあったな」
「餌付けって、何企んでたのよ」
不穏な言葉にリリーは当時のことを必死に思い出そうとしてみるが、菓子を貰った以外何も出てこない。
「皇太子殿下にバルドとリリーを引き離してみろって言われてたんだよ。ああ、あった。あった。たぶん子供なら菓子で釣って丸めるんじゃないかって試してみたんだ。その後何話たっけ?」
「あたしも覚えてないわよ。あの人、そんな手回しまでしてたのね」
バルドの亡き兄のラインハルトは自分とバルドが仲良くなったのをよく思っていなかった。貴族の子弟と交流を持たせようと士官学校に入れたはずが、孤児の自分と親しくなってしまったので当然のことだ。
「俺の目論見は失敗して、餌だけ食われて逃げられたのは間違いない」
クラウスが自嘲して、リリーは唇を尖らせる。
「いくらあたしでもそこまで単純じゃないわよ。あんただってどうせ適当だったんでしょ」
クラウスがラインハルトの命令を真面目に聞いていたとも思えなかった。
「ん、そこまで適当じゃなかったとと思う。俺、バルドが執着できる物、見つけたのが気に入らなかったからなあ。本当に執着心があるのかも気になったし」
「気に入らなかったの?」
「そう。俺はバルドが子供の頃から嫌いだった、というか今でもあいつのことは嫌いだな」
初めて知るクラウスのバルドに対する感情に、リリーは目を瞬かせる。
仲がいいというほどでもないが、クラウスがそんなに昔からバルドに敵意を向けていたことがあっただろうか。
そもそもバルドは他人から怖がられていても、嫌われるというほど他人に関わっていないはずだ。
(あたしと一緒、というわけでもないわよね)
無関心はかえって敵意を招くとフリーダに言われたものの、クラウスがそんなことを気にするとも思えなかった
「なんで嫌いなの」
「俺と似てたのに、俺とは違ったから。なんにも執着も持てないし、誰にもまともにかまってもらえなかった。俺はそういうのに苛々してたのに、バルドは自分が見たくないものは見ないふりして、聞きたくないものは聞かないふりして逃げてたのが本当に気に入らなかった」
クラウスがこんなにも自分自身ををさらけ出すのは、この暗闇の中だからだろうかと思いながら、リリーは膝を抱えて目を伏せる。
バルドは力は強いからこそ、力で打ち壊せないものに対しては脆弱だ。逃げることしかできないのだろう。
「でも、似てるならバルドの気に入った物は俺も執着が持てるかもって、横から取ったりしてた。結局、俺にとってもバルドにとっても全部どうでもいい物だったけどな」
「なんでそんなに執着持ちたいの? あんたはそういうの一番面倒くさがりそうなのに」
「自分が誰にもまともにかまってもらえないのは、自分がなんにも執着心もてないからっぽの人間だと思ってたから」
クラウスは他人と深く関わるのを嫌う質だと思っていたので、意外な答だった。
「今も、そう思ってるの」
「今はというか、とっくの昔に誰かにかまわれたいっていうのはなくなってたかな。でも、なんか執着持てるものが欲しいっていうのは、残ってた。だから、バルドが気に入ったリリーには昔から興味はあった。けど、士官学校の時ってよく覚えてないな。色々話した気はしても、何話したか覚えてない」
入軍してからよりも士官学校にいた時間が長いけれど、リリーもその頃のクラウスとの記憶は薄かった。
「卒業する前にあんたに迷惑かけられたことはあったわね。他は本当にほとんど覚えてないわ。士官学校の頃は、売られた喧嘩買ったか、バルドと一緒にいたこと以外は思い出せないわ……」
そういえば、バルドともどんな言葉を交わしただろうか。クラウスとの記憶よりは鮮明であるけれど、忘れていることもたくさんあった。
お互い言葉を交わすよりもじゃれあったり、寄り添ったり、剣を合わせたりしていることが多かった。それでも色々話したことがあるはずなのに、ほんの一欠片しか記憶に残っていない。
(全部覚えておきたかったな……)
大事な物をなくしてしまった喪失感に、リリーは遠くにいるバルドに無性に会いたくなる。
「ずっとバルドと一緒だったよな。そうじゃなかったら、リリーとも話すこともないどころか、興味ももたなかったんだろうな、俺。でもさ、いつの間にかリリーのこと、バルド抜きで気になってたんだ」
クラウスがため息を吐いて、笑った。
「もっと早く気づいてたら、何か違ってたかな」
「違わないんじゃない。あたしは変わらないもの」
バルドの側にずっといる。
理由も感情も変化しながらも自分の居るべきところはいつもバルドの側だ。そのことが変わることはないだろう。
「変わらない、か。……リリー、ここで寝ていいか?」
クラウスが重々しく吐き出してから、いつもの軽い口調に戻った。
「よくないわよ。用が済んだら出て行って」
「できれば朝までいた方が体面的にいいんだけど、仕方ないな。あとちょっと話したら出て行く」
リリーは無理矢理追い出すのは諦めて、大人しくクラウスの話を聞くことになった。
士官学校の廊下。人気のない書庫の片隅。空き教室。おぼろげな記憶に、まったく覚えていなかったこと。
暗闇のせいで鮮明に頭に浮んでくる景色の中にいつもバルドがいる。
入軍してからになるとなおさら彼の姿は色濃くなっていく。たった三月程度離れているだけの皇都が、遙か遠くの思い出の中にしか存在しないような気さえしてくる。
あそこにバルドとふたり帰る日はいったいいつになるのだろうか。
リリーは過去に思いを馳せながら、先のことを憂えるのだった。
夜明けはまだまだ遠い。
***
広い私室の片隅でフリーダは、愛刀と呼ぶにはまだ付き合いの浅い双剣を台の燭灯の下抜いていた。戦闘がすんでからすぐに手入れはすんでいるものの、なんとなしに刃を見たくなったのだ。
傾けると血の滴のように光が刀身を伝い、どんな宝飾品よりも妖しく美しく見える。
この妖艶な剣をリリーのいない戦場に連れて行くのは、もったいない気がする。
「フリーダ、入るぞ」
刀身に魅入っていたフリーダは、当然の夫の来訪に水を差された気分で眉を顰めて剣を収める。
「何をしている」
部屋に入ってきたフランツは、フリーダが剣を握っている剣を見て怪訝そうな顔をした。
「戦に備えて手入れをしているだけです。よからぬことを考えているわけではありませんよ。それで、夫殿の用件は」
「今後の話をしたい」
返事をする前にフランツが側にある長椅子に腰を下ろす。
「戦の話ですか、それとも私の身の振り方についてですか」
おそらく後者の方だろうと、フリーダは双剣を寝台に置いてフランツの正面に座る。
「貴女はどうしたい。離縁したいのか、このままでいるのかどちらか好きな方をえらんでもらっていい。離縁するならばするならばするで、身を預ける先も考える。このままであるなら、歩み寄りたい」
真っ直ぐに自分の目を見て問うてくる夫は、今夜はいつもと様相が違った。
「……戦死できれば一番よいのですが」
はぐらかしたり無為に夫を苛立たせるつもりはない。ただそれ以外の答が見つからなかった。
フランツが怒りを鎮めるためか深呼吸をして間を置く。
「生き続けることは貴女にとってそれほどまでに苦痛か」
苦痛なのだろうか。自分でもよくは分からないが、この先ぼんやり生きてそのうち死ぬよりは、戦場で戦って死んだ方がましだというぐらいである。
そんな思いを伝えると、夫は悲しげに眉を下げた。
「嫁ぐまでに貴女には戦場に立つ志があったのではないのか。主家のため、家のため。私との婚姻で志を踏みにじられたのでは」
あいかわらずフランツの考えは的外れだった。まっとうに家のため国のためにとなにひとつ疑わず、生真面目に生きてきた彼とは根本的に噛合わない。
「そんなものはありません。父の命に従ってきたまで。……これまで、私は自分の意志というものを持ったことはありません」
物心ついた時には厳格な父の目に怯えていた。父が望むままに従い続け、いつしかそんな毎日に嫌気がさして父の望まないことをしてもみた。
だが結局、ただ父に反抗するためのことで本当にそれが自分自身のやりたいことかと問われれば、否だった。
自分というものがまったくわからない。
伯爵家令嬢という肩書きが産まれながらについてきて、それに伴って周囲がこうあるべきだと型を作った。そして型に嵌められ窮屈で、違和を感じていても自分自身の本来の形が見えなかった。
「だからといって死を選ぶのはよくはない」
戸惑った顔でフランツが言う。
「選ぶのではなく、逃げるのでしょう。だから、夫殿がお決め下さい」
いつも通り、激昂するかと思ったフランツは沈黙して気難しい顔をしていた。
「私も、分からないのだ。貴女をどうすべきか」
「離縁されたいのでは?」
途方に暮れた顔の夫に、フリーダは首を傾げた。
自分とこのまま婚姻関係を続ける意味など、もはやフランツにはないはずだ。離縁するのが最もよい選択である。
「積極的に離縁は望んではいない。縁組みをした以上、婚姻関係を続けられるならそうすべきだが、私ひとりの意見でどうこうなる問題でもない」
これではいつまで経っても堂々巡りだ。
ぐるぐると同じ会話が繰り返されることに、フリーダとフランツがため息を零したのは同時だった。
「……次の戦でお互い生き延びたのならもう一度話し合いましょう」
フリーダがそう提案すると、フランツが緩慢に首を縦に二度振って席を立つ。そして夫が出て行った後、フリーダは寝台の上に置かれた双剣へ目を向ける。
次の戦場に出てもリリーはいない。
(私の、意志)
考えてみればリリーへの関心は自分だけの意志やもしれない。
誰に何を言われたわけでもなく、彼女のことが気になった。誰かが象った自分ならばきっと、血筋や家柄の持つ優位性を半ば自覚しながら傲慢な慈悲をリリーに与えていたはずだ。
上官ではあるが皇子の寵愛から地位を与えられただけの、身分も年も下であるリリーに親切に接し心を砕く心優しく真面目な令嬢。
だけれど、自分はそうしなかった。
必要なことはきちんと教えた。しかしそれ以外の会話はろくにしなかった。
(きっと、上っ面だけの仲になりたくなかったんだ)
誰かが形を決めた自分ではリリーと親しくなることもなかっただろう。
本来の自分というものでリリーとはいい関係を築きたかったのだ。だが本当の自分というのがわからないままだった。
今からでもできないことはないはずなのに、なぜか今更気づいたところで遅いと思う自分がいた。
(今の彼女は自由ではないから)
理由を探してもいまひとつしっくりこない。
フリーダは寝台の上の双剣を手に取って、考え込む。しかし自分が欲しているものはわからないままだった。
***
夕刻のルベランス城は静まりかえっていた。城に残る一部の者をのぞいて明日の早朝の奇襲に備えて早い眠りについている。
動き出すのは夜更けだ。
戦の直前はいつも気が昂ぶっているバルドも、ひとまずは眠っておこうと狭くて暗い空間に潜り込む。遠征の時には用意された居室の中で見つけるか、寝台や長椅子を壁際に動かして寝床を作るのが習慣だった。
リリーさえいれば広い寝台でも眠れるものの、戦前となるとふたり揃って目が冴えて仕方ないかもしれない。
そんなことを考えながらついた眠りは浅かった。起きたのは起床予定の刻限より早かった。
二度寝はできそうにないバルドはバルコニーに出て、夜風に当たる。森の木々が風に揺れると闇が蠢いて得体のしれない生き物に囲まれている気がする。
視線を下げると、篝火に照らされた庭でうろうろしている人影が見えた。シェルだろうとバルドには分かった。
隙だらけで軍人らしさが欠片も見当たらないのだ。
杖は夕刻前に完成して、その途端気絶するように眠っていたはずなのにどういうことだろうと気になってバルドは下に降りることにした。
その時、炎将のヴィオラの部屋に灯がついているのを見た。
他にも従軍予定の仕官の部屋もいくつか灯がついている。眠れないのか、自分と同じく早くに目覚めてしまったのかは分からない。
戦で足を引っ張らなければいいかと、バルドは他人の心境はあまり深く考えずに外に出る。
土と緑の匂いが濃い庭先では、シェルが杖を片手に、ぐるぐると一所を歩いていた。
「何をしている」
「初めての戦争参加で緊張してるんですよ。あとは気休め程度ですが、魔力の回復も。ここはいい場所ですね。島の中でも魔力を回復しやすい」
魔力とは大地からわき上がるものだという。そしてこの島の大地は大陸よりもずっと魔力が少ないらしい。
「なぜ、この島が特殊」
「さあ。かつてこの島は大きな魔力を産んでいたが枯れてしまった説と、いずれ新しい魔力源となる島という説がありますが、後者はなさそうですね。そう言われてもう千年以上ですから。前者の説の方が有力だったからこそ、世界中の魔道士の注目を集めた島でもあります。大陸の魔力もいずれ枯渇するという予測がされて千五百年ほど経つのですが、実際大陸の魔力自体も減り、魔道士の数も減ってきています」
「大陸も、いずれ魔道士がいなくなる」
この島ほどすぐにではないだろうが、シェルの言う仮説が真実ならば魔術というのはいずれ死に絶えるものなのかもしれない。
「そうですね。だからこそ、今この伝説となっている島とグリザドは大陸で再注目されているのです。魔術が絶えた後に、魔道士達はどうなるのか、少量の魔力供給で何ができるのか。しかし、この島にたどりつくことは困難です。魔術が衰退していく一方で発展している科学者達の方が、先にこの島にたどりつきそうですね。彼らは魔術なしで空をも飛ぼうとしている」
空を飛ぶ魔術すら知らないバルドには、まるで理解できない話だった。
「……いずれ、大陸の人間が島に来る」
「まだまだ先でしょうがね。この島には魔道士だけでなく、ありとあらゆる学者がこぞってきたがるでしょう。私がその先駆けというわけです」
なにひとつ想像がつかない話に、バルドは小さいと思う。
自分が知っている世界はあまりに小さく、狭い。かといって全てを知りたいと思うほどの好奇心は持ち合わせていなかった。
この小さな世界で、自分が生きて死んでいくことになんの抵抗も疑念もない。
「私は無事に帰れるんでしょうか……。心配だ」
「死ななければいい」
急に気鬱になるシェルに、バルドはすげなく返す。
「あなたの考えることは単純で難しいですね……。なにはともあれ、杖を取り戻すことが第一目標です。やはり、寝ておきましょう。では、おやすみなさい」
シェルは二度寝を決め込んだらしく、そそくさと城の中へ戻って行く。
そして一刻ほど経った後、ぞろぞろと兵達が起き出して隊列を組み作戦の最終確認を始める。
居並ぶ兵の数は少ない。改めて味方の少なさに心許なくなる者もいれば、なにがなんでも生き残るという者もいる。
一番多いのはただでは死なないといった者かもしれない。
バルドは勝つ心構えだった。
いつだって戦うときに欲するの勝利だ。
求めるものはただそれだけだ。しかしとバルドは自分の後ろに騎乗するシェルに目を向ける。彼が背負っている荷の中には自分の杖だけでなく、リリーのローブと双剣もある。
「……出陣」
全ての準備が済み、バルドは号令をかける。
後は進むだけだ。この先に戦場とリリーが待っているはずである。
真夜中を過ぎ、ハイゼンベルクは闇の中をひたすら行軍する。夜に呑み込まれないように、密集して歩調を整えて歩きながら徐々に緊張を高めていく。
やがて篝火の橙色がぽつぽつ見え始めて、おぼろげなながら巨大な砦が輪郭をおぼろげにして姿を現わす。
ここを越えなければ朝陽は拝めない。
バルドが剣を振り上げる。
「攻撃開始」
落雷の音と共に、兵達が一気に駆け出した。
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