開戦の翌日。ゼランシア砦側が動く気配もなくハイゼンベルク側は予定通り、翌日に攻め込むこととなった。

 昨日よりさらに大々的に兵を投入するということで、詰めの軍議も念入りに行われていた。

(あたしは一番前ね)

 リリーは長卓に広げられた布陣図の最前列中央という自分の配置を確認する。

 隊列に属しているようにみえるが実際は違う。いつもの単独突入と攪乱という雷軍のやり方で攻め込むのだ。

 さも突出していると見せかけて敵を誘い出すのが、リリーのよくつく役割だった。そこそこ顔と名前が知れている戦狂い。そうして皇主の補佐官。

 釣り餌としては大きい。それと同時に身分としては、万一のことがあっても惜しくないという点もあった。

「上手くかかってくれるかしら……」

 リリーは隣に座るバルドに問いかけるようにつぶやく。

「裏の裏」

 フリーダが雷軍のやり方を知り尽くしている分、こちらの動きに上手くのってくるかが最大の懸念だ。知っているからこそさらにその裏をかこうという策なわけだが。

「城の中に誘いこんで、リリーちゃんを孤立させることは考えるでしょう。上手く城門を空けさせておければ上出来ですわ……」

 目的は敵兵を蹴散らすよりも城門の破壊にあった。ハイゼンベルク側に城門がひとつ。ディックハウト側にもひとつ。

 昔は交通の要所として使用していて荷馬車が五台は横並びで通過出来るほどに幅が広く、高さもある巨大な門だ。破るのは難しい代わりに、粉砕してしまえば簡単に修復できない。

 背後からいくらでも補給を臨める籠城戦に持ち込まさないために、城門の破壊が最大の目標だった。

 城の内側に攻め入って城門の護りを分散させるために、リリーが囮となるということだ。

 できるなら門の破壊後に城内にそのまま総攻撃して勝利を収めたいところだが、そうそう上手くことは運ばないだろう。

「……フリーダはまずリリーちゃんにかかっていくでしょうしね」

 ヴィオラとしてはフリーダひとりを釣り出す餌にも使いたいらしかった。

「すいません、これ、アクス補佐官の生還率がかなり低いんじゃないんですか」

 そう不満を唱えたのはクラウスだった。

「孤立しないようにリリーちゃんにはある程度魔道士を送り込めるまでは、門の真下あたりで頑張っていただきますわよ。隊列も前方に『杖』の特に実力のある兵を置いてますし。あまり突出しすぎなければ大丈夫ですわよ」

「……心配しなくてもそう簡単に死にやしないわよ」

 面と向かって身の安全を案じられると、反応に困ってしまう。

「なら、いいけどな。俺も前、出られませんか?」

 今回はバルドと共に後陣に配置されるクラウスが自ら前線行きを志望して、他の面々が怪訝な顔つきになった。

「いけませんわ。わたくし、貴方のこと信用してませんもの」

 にっこりと本心を告げるヴィオラにその場の空気に緊張感が走る。当然クラウスを擁護する言葉もなく、集められた統率官や隊長達は黙ってことの成り行きを見ているだけだ。

「分かりました。後ろで大人しく見てます」

 食い下がることもなくクラウスが素直に言うことを聞いたものの、空気は澱んだままになってしまっていた。

「皇主様もこの策に問題ありませんわよねえ」

 そうしてヴィオラがバルドに意見を問うて、一同の視線がバルドに集まる。

「……問題なし」

 皇主の肯定があったのでそののまま軍議は進められることになった。

(でも、あんまり熱中しすぎるとまずそうな策ではあるわよね)

 大量の敵を前にしていると次第に自分の中で後退という選択肢が、見えにくくなる悪癖があるのは自覚している。クラウスもその辺りを心配してくれているのだろうが、まさか軍議の最中で口にされるとは思わなかった。

(……バルドも納得しきってはないか)

 バルドが少々不安がっているのは、いつもより少しばかり険しい顔を見れば分かる。

 軍議を始める前に将軍同士でこの策は話し合われていた。バルドが自分がさっさと出て敵を引きつけ一気に城門ごと破壊すると言ったの最初で、その後にヴィオラがそれならリリーを置きたいと言ったのだ。

 さすがに皇主を餌にするわけにもいかない上に、敵側も警戒しすぎて上手くいかない可能性も高まるというヴィオラの説得勝ちだった。

(後詰めの位置を変えるので譲歩したし)

 最終的にバルドが後陣の配置をヴィオラの案より前へ配置し、最前列にはバルドが立つことになったのだ。

 そうしてその後はこれといって滞りなく軍議は終わった後、何か言いたげなクラウスにリリーが引き止められて、バルドも残ることとなった。

「リリー、暴走して突っ込んでいかない自信が本当にあるのか」

「気をつけるから大丈夫よ。もう、あんたもバルドも変な心配しなくてもいいの。あたしは無駄死にはしないわよ」

 まるで初陣に出る新兵のような扱いが気に食わず、リリーはむくれる。場数はそれなりに踏んでいるし、ふたりとも自分の実力を知っているはずなのに今になってあれこれ言われるのは面白くない。

「バルドもって、一応反対したのか」

「配置、ここで妥協」

 バルドが机の上に残っている布陣図の自分の配置を示す。

「ああ。後詰めの位置が近いと思ったらそういうことか。間に合うのか?」

「間に合わせる」

「あんたらあたしが暴走する前提で話し合わないでくれる?」

 うんざりしてきてリリーはため息をつく。

「念の為だ。フリーダさん出てきたら厄介だしな。まあ、リリーの方が強いだろうけど、ああ、炎将もしかしたらフリーダさんがリリーを捕虜にっていう提案するかもしれないっていうのも考えてるか。そのために向こうが手加減してくれるかもっていう期待も込みかな」

「あたし捕虜にしてどうするのよ」

 ディックハウト側からしたら自分にはなんの価値もないはずだ。捕虜にされ身代金をせしめたり相手への戦意喪失のために利用できない。裏を返せばハイゼンベルク方にもさして価値もない捨て駒ということだ。

「……バルドの弱みっていう認識だと思うぞ」

「リーが俺の弱点……」

 リリーがなぜと返す前にバルドが声に出して考え込む。

「お前さ、リリーが捕虜になったらどうする? お前個人としては何が何でも取り戻そうとするだろ。公開処刑されるとか言われたら、絶対に罠でも飛び込んで行くだろ」

 クラウスの言うことにリリーは顔を強張らせて、バルドを見る。

 以前、夜会の時にディックハウト信奉者に襲撃を受けたことがある。その時当然剣もローブもなく、リリーは肉切りナイフに自分の血を塗りつけてその場凌ぎの武器として使った。

 バルドは魔力が強すぎて鍛え上げた剣以外でないと、武器が彼の魔力に耐えられなくなるので真っ先に襲撃者に向かって行ったのはリリーだった。

 しかしながらリリーの魔力も強いので魔術数発でナイフが壊れ、敵の魔術の直撃を受けかけたときバルドが目の前に飛び出してきたのだ。

 テーブルクロスに自分の血を染み込ませて、即席のローブにしていたとはいえバルドはリリーのために自らを盾にしたのだ。

「あたしは捕虜になるぐらいなら手加減できないぐらいに暴れてやるわよ」

 ラインハルトに生け捕りを命じられたラルスと戦うことになるかもしれないとなった時も、最後まで戦い抜いて死んでやると決意していた。バルドが来たのでそうはならなかったが。

(けど、結局あの時もバルドがあたしを選んで、助かったんだわ)

 リリーを失わないためにバルドは最愛の兄の命に背いた。

「リーを、戦場以外で死なせない。リーが死ぬとき、俺が死ぬ直前」

「分かってるわよ。だからちゃんと生きて戻ってくるし、捕まらない。暴走もしないから」

 戦が終わるぎりぎりまでは死ぬつもりはない。

「お前、リリーが死んだら、軍の統率もなにもかも投げ出して好きに戦いそうだな」

 クラウスが呆れて指摘するのにバルドが目を瞬かせる。今始めてその可能性に気付いたという顔だった。

「……不明」

 本気で分からないらしくバルドが首を傾げる。

 どうなのだろうとリリーは思う。今の皇主としてバルドを動かしているのは、ラインハルトだ。いくらバルドが切り捨てたとしても、教養や思考を与えたラインハルトはもはや彼の一部ともいえる。

 欠けてしまったものを補うように、バルドはラインハルトがなろうとした皇主の在り方している。

 それと同時に、バルドが皇主としての務めを果たすのは自分と一緒にいるためなのだ。

 バルドの戦うことへの本能は、ラインハルトとリリーによって押さえつけられていると言ってもいいだろう。

 自分がいなくなれば、箍がひとつ外れる。

 だがもうひとつの箍はバルドの一部なのだ。死んでもなおラインハルトの存在が、バルドを皇主として、人としての理性を繋ぎ止めている。

(あたしか皇太子殿下かってなった時、バルドはあたしを選んだ……)

 だが選択すべきものがなくなった時、バルドがどうなるのか。

(でもきっと、最後まで皇主として立つわ)

 利用されていただけで愛されずとも、バルドはラインハルトを好きだった。

 ラインハルトの棺の前で泣き方もまともに知らないバルドが、嗚咽もなくひたすら滂沱するのをずっと抱きしめていた時の気持ちが蘇ってきて感情がざわつく。

 バルド涙を流し尽くしても、哀しみが消え去ることがないと喪失感に似たものを覚えた。

 兄の棺に最後の贈り物を入れられなかったバルドは、最期までラインハルトに縛られる気がするのだ。

「……もういいでしょ。あたしは戦いたいだけ戦うし、死ぬつもりはない。それだけよ」

 リリーは言い様のない胸の苦しさに考えるのをやめる。クラウスは納得したというより諦めた様子でため息をついて、バルドの方は思案顔だった。

 それから明日も早いということで、言葉少なくそれぞれ自分の部屋に戻って行った。


***


 バルドは自分に与えられている部屋の隅に収まってじっと考え込んでいた。

 クラウスに言われたことが引っかかっていた。

 もし戦が終わるよりずっと早くリリーがいなくなった時に、自分は軍を率いる気になるのか。後は敵に好きなように突っ込んでいってしまう気もする。

(リーと一緒にいる時間を引き延ばすため)

 自分が段取りを踏んで戦をする大きな理由はそうかもしれないとふと思う。

 この戦に勝つことは不可能で、自分が死なねば終わらない。しかしそれまではリリーと一緒にいられる。

 バルドは固く目を閉じる。

 ラインハルトが説いた君主のあるべき姿ではないと、十分に分かっている。結局自分は臣下も民も自らの財とは思えない。誰かが欲しいというなら玉座も明け渡せるほどに、執着がなかった。

 兄がなしたかったことを、叶えたいという自己満足にすぎないのだ。

 リリーを失ってしまったら、自分は本当にどうなるか分からない。

 明日のことも本当を言えば不安だった。リリーが目の前の戦を心待ちにしていて、真っ先に先陣を切りたい気持ちもよく分かる。

 それほど容易に討ち取られるとも思っていない。

 なのにリリーへの執着が強すぎて、近くにいられないことが落ち着かなかった。

 もっとリリーと一緒にいたい。

 何を失ったとしても、リリーさえいればいい。クラウスの言う通り、リリーがいなくなってしまったら他のことはもう全部投げ出してしまいそうだ。

(道連れ……)

 そんな言葉が脳裏に浮かんで、バルドはゆるりと目を開いて呆然とする。

 リリーに最期まで一緒に居て欲しいというのは、そういうことだ。自分の側にいる限り、リリーは戦場で死ぬしかない。

 戦場で終わることは、リリー自身が望んでいることだけれど。

 バルドは胸の中に渦巻く苦く息苦しい感情に悶々とする。

 自分の中に矛盾する感情がふたつある。

 そのふたつがどんな感情かは掴み取れないものの、少なくとも両者は噛合わずに胸の内で食い合い暴れて心をかき乱すのは確かだった。

 ひとりきりでこの嵐のような感情を抱えていられず、リリーに今すぐ会いたくなった。

 このところずっと自分自身の感情がひどく不安定なことに、バルドは自覚していた。そうしてそんな自分をリリーが受け止め、宥めてくれることもよく知っている。

(昔、似ている)

 お互いに噛みつき合ってじゃれていた頃と同じかもしれない。

 他人には許せないことも、互いになら許せる。許して、許されて安心するのだ。自分にとってリリーが特別であるように、リリーにとっても自分が特別だと。

 今は側にいることを受け入れられることで、安心している。どんなに情けなく甘えてもリリーは一緒ににいてくれるのだということを確認しているのだ。

 だが昔と違ってリリーからはけして何もしてこない。寄りかかってくれることもなければ、甘えてくれることもない。

 だからいつまでも不安がつきまとう。

(リー……)

 バルドは点々と灯が浮かぶ暗い廊下を歩む。この広い砦の中で真っ先に覚えたのは自分の部屋ではなく、リリーの部屋の位置だった。まるで迷うことなく暗がりの中でも、リリーの部屋にたどりつくことができた。

(起きている)

 扉が開け放たれて廊下に四角い部屋の灯が漏れだしているのを見て、バルドはほっとする。さすがに眠っていたなら、ほんの少し寝顔を見るだけにするつもりだった。

 部屋の中が見える所まできて、バルドは足を止める。というより止めざるを得なかった。

 リリーがクラウスに抱きすくめられていた。

 彼女の背中だけしか見えないが、抵抗しているようには見えなかった。

 クラウスがこちらに気付いて目が合う。

 大事なものに勝手に触れられているというのに、バルドは動けなかった。何も言えなかった。

 怒りや憎悪という感情を、リリーが抵抗もなくクラウスに触れられているという衝撃が凌駕していた。

 リリーが首を動かそうとするのを、クラウスが頭を撫でて止める。

 バルドは結局そのまま、自分の部屋へ引き返した。

 自分だけの特別だったはずのものが、決定的に打ち砕かれるかもしれないという恐怖を克服することはできなかった。


***


 その夜、リリーの元にクラウスが来たのは、もう寝仕度をするかという時だった。

「……どうしたの?」

 扉を半分開けてリリーは訝しげにこんな時間に訪ねてきたクラウスを見る。

「ちょっとだけリリーと話がしたくてな。部屋にはいれてくれないか」

「ん、まあ。別にいい…………」

 半開きだった扉をクラウスを迎えるために開けかけて、リリーは以前水将の補佐官に教えられたことがふと頭に浮かぶ。

 日が暮れてからは年頃の女が男とひとつの部屋にいてはいけない。特にクラウスには気をつけること。

 クラウスの女癖が悪いことは知っていても、自分が彼の興味の対象にはならないとずっと思ってきたので、そのことはすっかり忘れていたが急に思い出してしまった。

 今までうっかり口づけされそうになったどころか、長椅子に組み伏せられたあげく肌を吸われたことが一気に蘇ってきてリリーは顔を白くする。

 あれはただの悪巫山戯というわけでもなかったのかもしれない。

 クラウスの気持ちを知った今、羞恥心と危機感で寒気と熱が同時にやってきていた。

「も、もう遅いから駄目」

 扉を閉めようとすると、クラウスが先に取っ手を持っていてできなかった。

「そう警戒しなくても別に、何もしないって。なんだ、俺のことはちょっとは男として意識してくれてるってことか?」

「にやつくのやめなさいよ、この駄眼鏡。こんな時間に来るのは礼儀知らずってことぐらい知ってるんじゃない」

「いや、俺は知っててもリリーは知らないかと思ったけどな。あれ、どこで知ったんだ?」

「ベッカー補佐官……」

 渋々経緯を話すと、クラウスが思わずといった様子で吹きだした。

「どんな顔してあのベッカー補佐官がリリーにそんな話したの見たかったな。でも、ひとつ教え忘れてるな。やましいことはなにもありませんって、周りに示す方法がある」

「変な嘘つく気じゃないわよね」

 リリーは扉の隙間からクラウスの顔を睨んで疑る。

「本当だって。扉を開けっ放しにしとくだけでいい。そうしとけば部屋の中が丸見えで、音もよく聞こえるだろう」

「……言わてみればそうだけど、本当に?」

 リリーは半信半疑ながらも、クラウスが扉の取っ手から手を離すのを見て言う通りに開いて迎え入れる。

 その代わり、扉を勝手に閉められないために自分は部屋の入り口に背を向ける格好で立ち、クラウスを奥に立たせる。

「リリーはひねくれてるのか素直なのかどっちか分からない所が面白いな」

「それで、何の話? 出て行くには早いわよね」

 クラウスは後陣に置かれるのだ。混戦になったとしても向こうに落ちるのは、バルドの首でも取らねば難しそうだ。

「……話っていうか本当はリリーの顔を見に来ただけかな。正直言うと戦の前にこんなに落ち着かないってなくてどうしていいかわからなくてな」

「なによ、さっきは自分が前に出るって言ってたくせに恐いの?」

 クラウスは戦は好まないが怯える質でもないので、不思議だった。

「いや、ああ、そうか。こういうの恐いって言うんだろうな。リリーに何かあったらって考えたら、顔が見たくなったんだ」

「……今までだって、危なそうな任務はいっぱいあったじゃない」

 確かに今回の策は捨て駒扱いに近いものはあるけれど。

 誰かに自分の身を案じられることに慣れず、リリーは居心地が悪くなる。

「そうだよな。リリーなら、戦場で死ぬんだろうなって思ってたのに、なんだろうなあ。……悪い、ちょっとだけだから」

 視線も合わしづらくて気を削がれてしまったせいで、リリーはあっさりクラウスに抱き寄せられてしまった。

「ちょ、この駄眼鏡、もう――!」

「本当に、少しで、いいんだ。……好きな女の子抱きしめるのって、思ったより緊張するんだな」

 抵抗するとさらに力をこめられる。しかしいつものからかう口調もなければ、すぐ側で聞こえる彼の鼓動も早かった。

 とはいえ、この状態を容認できるかといえば別問題だが。

「少しでも、駄目だわ」

「鳥肌立ってるから、言われなくてもわかってる。……俺、リリーはなんにも知らないって言ったけど、俺も全然知らないよな。今まで戦で誰かが死ぬのは当たり前だったし、誰かの中にリリーも入ってた。大事でなくしたくないって思うものもなかったからさ、その当たり前が嫌だなんて全然分からなかった」

 リリーは体を強張らせたまま目を細める。

「……なんで、あたしなの?」

 これまでクラウスがどれだけの相手がいたかは知らないが、少なくとも自分よりはまともで綺麗な女性はたくさんいたはずだ。

「リリーがリリーだから、ってことかなあ。うん、たぶんそういうことなんだろうなあ」

 いつか、バルドに言われた言葉をクラウスが口にするのにぎゅっと胸が締め付けられる。

(バルドがバルドだから好きだって、思ってたのにな……)

 自分とバルドの気持ちが全部ぴったりと重なり合っていると、あの時は信じていた。

「あたし、クラウスがいなくなると寂しいとは思うわ。でもいなくなっても、たぶん仕方ないって簡単に諦めがつく気がするの」

 今はバルドとも気持ちは重なり合わないし、かといってクラウスとも重ならなかった。

「知ってる。むしろリリーはそれぐらいでいいよ。俺はあんまりリリーに悲しんで欲しいとは思わないからな。そう言っても…………」

 クラウスの言葉が不自然に止まって、リリーは彼の顔を覗き込もうと顔をあげようとする。しかしクラウスに頭を軽く抑えられてしまう。

「クラウス?」

「ん、いや。まあ、だからってリリーより先に死ぬつもりはないからな……」

 クラウスが腕を解いてくれて、肩の力を抜いたリリーは安堵のため息をついた。

「あたしだって少なくとも明日、死ぬつもりはないわよ」

「分かってる。……名残惜しいけどもう自分の部屋に戻らないとな。朝まではいさせてくれないだろ」

 クラウスの口調はいつもの冗談めかしたものだった。

「絶対にいさせない。ほら、さっさと自分の部屋で寝なさいよ」

 リリーも普段と同じように返して、クラウスを部屋から追い出す。

「分かった、分かった。おやすみ……」

 クラウスが最後にリリーの髪を撫でてから、立ち去る。

 最後の不意打ちも上手くかわせずに、リリーは自分自身に眉根を寄せる。少しばかりクラウスに対して油断がすぎる気がする。

(明日は出陣、明日は出陣)

 しかしながらもうこれ以上あれこれ考えるのも疲れそうで、リリーは出陣のことだけ考えて扉をしっかり閉め、双剣と共に寝台に潜り込んだ。


***

 

 あまり見たくないものを見てしまったと、マリウスは渋い顔で暗い廊下をひとり歩いていた。

(……ふしだらな)

 ことの発端は自主的に見廻りをするために部屋を出たところ、クラウスが夜になって部屋を抜け出したのを見たからだった。

 何かことを起こすかとこっそりとつけて見ればリリーの部屋で、すわ共謀かと思えばいきなり彼女を抱きすくめて動揺した。

 クラウスの節操のなさも知っていれば、リリーが彼と婚約したという話も聞いていたが目の当たりにするとなんとも気恥ずかしいものだった。

 会話ははっきりとは聞こえなかったものの、若い恋人達が戦の前に別れを惜しむかのようなものだった。

 そんなところを覗き見している自分の方が品性が欠けている気がして、すぐに自室に戻ることにしたのだ。

「あらあ、マリウス、どこへ行っていたのかしら?」

 その途中、姉のヴィオラに夜歩きを見咎められてしまった。

「……フォーベック統率官が、不審な動きをしていたので。姉上は」

「わたくしは、マリウスが部屋にいないから探してましたのよ。もうクラウスは動いたのかしら?」

 炎軍の姉弟は話ながら近くのマリウスの部屋へと入る。

「いえ……アクス補佐官の部屋に」

 なんとなく言いづらく小声になってしまった。ヴィオラは目を瞬かせて、まあと声を上げる。

「わたくし、リリーちゃんの部屋の方に皇主様が向かっているのをお見かけしましたのだけれど」

 ヴィオラの驚きはクラウスの行動についてというわけではなかったらしい。

 果たしてこれはどう受け取ってよいものだろうか。

「……アクス補佐官と皇主様のご関係は、上官と補佐なのでは」

 マリウスはリリーに関してはバルドにとってのよき部下ということしか、はっきりと知らなかった。周りが恋仲にあるのではと噂をするのはよく耳にはするが、あのふたりの関係が実際には分からない。

「マリウスは本当に疎い子ですわねえ。リリーちゃんはどう見ても皇主様にとってはただの補佐ではありませんわ」

「フォーベック統率官は皇主様を動揺させるためですか。もし、アクス補佐官が姉上の仰るとおり殿下のご寵愛を頂いている身ならば、軽率極まりない行為です」

 リリーがもしクラウスになびいているのならば、なんという悪辣な女性だろうとマリウスは憤慨する。

「リリーちゃんがそこまで軽率とも思えませんけれど、お前に見られているのに気付いて一芝居うったのかもしれませんわねえ。ふたりきりで話したいなら、扉を開けておくなんて無粋な真似はしませんわ」

「……自分はもう少し様子を見ているべきだったのでしょうか」

 マリウスが真摯に考え込んでいると、ヴィオラがくすくすと笑う。

「お前は駄目ねえ。ジルベール侯爵家の嫡男ならもっと、狡くならなければいけませんわよ」

「狡く、ですか……」

「不満そうねえ。本当にお前はお母様に似ていますわ。狡くならなければ、戦場では生き残れませんわよ」

 昨年身罷った母を懐かしんで、少し寂しげにヴィオラが微笑む。

「自分は、武勲を立てて死ねるなら本望です。卑怯者として生き残るより、自身の信念を貫いて死にたいと思います」

 背を真っ直ぐに正して、マリウスは姉を見据える。

 幼い頃は魔力という大きな力に、怖れを抱いてきた。得体のしれない力は自分の内側を毒を持った蛇が這いずり回っているような、そんな不気味さがあった。

 だから魔術を上手く扱うことが他の貴族の子らよりも遅かった。

 軍人一家であるジルベール家の跡取りとして、あまりにも情けないと父に叱責される毎日によく泣いていたものだ。

「……本当に困った子だわ。泣き虫だった方がよかったかしら」

 自分を変えたのは姉だった。

 魔術の力はけして恐ろしいものではないのだと、レイピアから炎の蝶を出して見せたのだ。

 当時の姉は当時基本的な魔術の扱い以外は学ばされていなかったので、どうやらひとりでこっそり練習していたらしい。

 

『綺麗でしょう。この力はわたくしたちの祖先が皇祖様から頂いたもので、わたくしたちの誇りの一部でもあるわ。恐ろしいとお前はこれを見て思う?』

 

 黄金色を帯びた朱色の羽を持つ蝶が、火の粉の鱗粉を蒔く様子は美しかった。

 今でもはっきりとその光景を眼裏に思い描ける。

 自分の内の恐ろしい毒蛇はその日に、美しい蝶に変わった。

 その後すぐに父に申し出て士官学校に入ったヴィオラと共に、剣を学んでいった。祖先の勇敢な戦いぶりと、その血が自分へと受け継がれていることへの誇らしさも次第に増していった。

 そうして、遅れて士官学校へやってきたバルドの魔力の強さに戦いた。

 自分にとっては魔力は己の一部であるが、バルドはまさに力そのものといったものを感じたのだ。

 これが皇家なのだと、己の主君なのだと畏敬を覚えた。

「自分は皇主様のために戦います。そのための魔力です。姉上は違うのですか?」

 ヴィオラの気持ちも自分と同じであると思っていた。

「忠誠はありますわよ、もちろん。ジルベール家の者として産まれた矜恃もありますわ。……だけれど、士官学校に入ったのはお前が心配だったからかしら。今も、そうね。死に急いではいけませんわよ」

 そっと頭を撫でてくる姉の手の優しさに、もう自分は子供ではないという言葉はのみこんだ。

 派手好きで奔放な姉の世話をやいているつもりで、護られていると感じることは時々ある。

 だからといって、軍人として誇りある生き方をしたいという思いは変えられそうにはなかった。


***


 出陣の朝、リリーは少し早く起きた。

 出陣当日はいつも目覚めがよく気持ちも高ぶっている。軽い足取りでリリーはバルドの部屋の中へ入って、彼が寝台と壁の隙間で丸まっているのを確認する。

「バルド、朝よ。出陣よ」

 体を軽く揺すって起こすと、薄い上掛けにくるまったバルドはもぞもぞと体を動かしてうっすらと目を開ける。

 そして無言で起き上がる。視線を合わさず、不機嫌と全身で現わしているバルドにリリーは首を傾げる。

 戦を前に不機嫌とは珍しい。

「何か気に入らないことでもあるの?」

 問いかけても、ローブを着るバルドは視線は下向きで答えてくれない。

「ねえ、もうなんでそんなに機嫌悪いのよ。出陣できるのよ。前に出られないのが不満なの?」

「出陣……眠れなかった。リーは?」

「クラウスが寝る前にちょっと話しに来たわ。すぐ帰ったしその後はゆっくり寝られたわよ」

 気が昂ぶりすぎて眠れなかったという雰囲気ではない気もしつつ、リリーは素直に答える。

「……クラウス、用件」

「眠れないから雑談しに来ただけよ」

 クラウスとの会話の内容は、雑談以外に適当な言葉が思いつかなかった。

「それだけ」

 じっと顔を覗き込んでくるバルドに、リリーはまたクラウスに対して油断したことを告白するか迷ってしまう。

「……ちょっとだけ、気を抜いちゃった。炎将がしてくるのと変わらないし、次からは気をつける」

「次……以前も気をつけると言った」

 バルドが声を低めて咎められて、リリーは言葉に詰まる。それと同時に彼をとりまくぴりぴりとした空気が先程とまったく同じことに気付く。

「もしかして、夕べ部屋にきた?」

 バルドが視線を床に落とす。

「声、かければよかったのに。聞かれたくない話、してたわけじゃないんだから」

 沈黙が長く続いて、リリーも視線を彷徨わせる。

「バルド、あたし、本当にクラウスにはついていかないし、ついて行きたいなんて思わないから」

 どれだけ言葉にしても、バルドがいつまでも安心してくれない。

「もう、戦の準備があるから行くわよ」

 これ以上は何を言ってもわだかまりは消えないと、リリーは仕方なしにバルドに背を向ける。

 しかし離れる前に、背後から抱きすくめられた。

「俺に触られるのは、他と違う?」

 違うに決まっている。

 体をすっぽりと他人の温度に包まれて体同士が接触していることが、こんなにも安らぐなんてバルドに出会うまで知らなかった。

 温度も匂いも心地よくて、寒い冬は自分からバルドの懐によく飛び込んだものだ。そうして暖をとりながら一緒にうとうとするのが好きだった。

「違うわ……でも」

「いい、理由不要。俺だけならいい」

 バルドがリリーの言いかけた言葉を遮ぎって、彼女の体を一度深く抱き込んでから離す。

「戦」

 そうしてバルドは不機嫌さを消し去って、一言だけつぶやく。しかしその表情にはまだ幾分か陰りが見えた。

(こういう顔は知らないわ……)

 この七年バルドの表情は沢山見てきたけれど、時々自分が知らない顔を彼はする。

 何を考えているのか読み取れないと、少し不安になる。

(バルドもきっとそうなのよね)

 お互いのことは全部分かるのがこれまでだったのだ。体の距離も思考も、いつでもぴったりと寄り添っていないと歪に感じて落ち着かない。

 他人の心の内を全て把握しきることなど不可能なはずなのに、それを可能どころか当然と思っている自分達がおかしいのだろうけど。

 リリーは先に歩き始めたバルドの背を追いながら、彼の意識が緩やかに戦へと向かっていることを感じる。

 纏う空気は帯電しているかのようにピリピリとしていて、普段より背中が大きく見えるのだ。

 こういう時のバルドの表情は見なくても分かる。眉間がさらにきつく寄り、大の男でも息を呑むほどに深い紫の瞳は狂暴に底光りしているはずだ。

(戦の時は一緒ね)

 リリーは口元を歪める。戦になれば自分達の心には闘志と快楽しかない。

 だから、戦場はなおさら落ち着くのかもしれない。

 リリーは呼吸ひとつの間に目の前に迫る戦への期待一色に思考を染める。

 そうすれば人間らしい感情は消え去り、闘争本能のみだけが残ってひどく高揚して体が軽くなっていった。

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